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紫苑穢国のエトランジェ  作者: 葛葉狐
第二章    第一次帝国戦役    《斉紫敗素》
265/429

第二五五話    無数の死、一つの死 七




 アリアベルは、軍用長外套(ロングコート)を翻して北方を見据えたトウカを生涯忘れないだろう。




 表情が抜け落ちた横顔が見据える北方。然したる変化が窺える訳ではない。無論、現在は北方……エルライン回廊近傍では大規模な包囲戦が実施されつつある。作戦行動に何某かの差し障りが生じた可能性を捨て切れず、アリアベルはリシアに視線を巡らせた。


 リシアは眉を顰めて装甲車輛内へと入り、通信機前で待機していた兵士を押し退け、送受話器を手に取った。


 リシアもまたトウカの放心の理由を理解していない。


 通信装置を身に纏っていないトウカが、遠く北方の情勢を掴む事が可能であると思えないアリアベルは周囲に視線を巡らせるが、然したる変化がある様には見えなかった。




「まさか……御前だったのか?」




 トウカは胸元で右手を握り締めると、軍帽を捨てて走り出す。


 その先には待機中の連絡騎がある。


 連絡騎とは短距離離陸能力を有する比較的小型な龍種を利用した伝令用の作戦騎である。前線部隊の偵察行動や特殊作戦の為の人員輸送に従事する騎体であるが、低速で空戦能力は持たない。しかし、数十mで離着陸可能な性能は限定的な地形での運用が可能としており、前線では重用されていた。今次戦役でも後方遮断の為の人員を敵戦線後方に空挺とは違った方法で投射する手段として活躍している。


 軍用長外套(ロングコート)を脱いで鋭兵に押し付けると、代わりに短機関銃を奪い取ったトウカ。困り顔の鋭兵だが抵抗はしない。上官が頷いた為である。


「この連絡騎は使えるな!? ならば準備をさせろ! 今直ぐだ!」


 驚いたメルベン大尉が、トウカに駆け寄り問い掛ける。


「か、閣下。どちらに行かれるのですか?」


「五月蠅い! 質問に答えろ!」


 罵倒したトウカにメルベン大尉は竦み上がる。短機関銃と軍刀を引っ提げた上官に至近で罵倒されるという恐怖だけでは済まない。トウカの憎悪は燎原の火の如く敵味方を問わず焼き払う。匪賊を履帯で轢殺し、捕虜を口減らしすべきと嘯く殺戮者の不興を買う勇気を持つ者は少ない。


「つ、使えます。しかし、非武装です!」


 非武装である事を強調するメルベン大尉。彼は義務を果たしている。作戦行動を口にしない上官が搭乗する騎体が非武装である事を強調し、迂遠に翻意を促している。トウカの剣幕に作戦空域に侵入しかねないと判断したのだ。アリアベルが傍目に見ても、そうしかねない剣幕であった。


「ですが……付け加えますと、エルライン回廊近傍まで片道でも後続距離が足りません」


 重ねて作戦空域まで到達できないと言及するメルベン大尉。


 恥を掻かせるに近い一言と言える。


 上官が連絡騎の性能を超えた無理を強行しているという糾弾に近い言葉は、本来は参謀将校が成すべきものである。別段特筆すべきものがない一大尉が将星輝く元帥に意見するのは、多大なる負担と勇気を必要とする。


 しかし、トウカは頓着しない。


 否、目標はエルライン回廊近傍ではないのか。


「問題ない! 飛行兵! 直ぐに出る! 魔導士、合成風力用意!」


 連絡騎の横で直立不動の構えの飛行兵の肩を掴み、トウカは発進を促す。否、万雷の如く命令する。


 呆気に取られた大部分の兵士は然したる行動を見せなかった。元帥号を得た戦争屋を止めるというのは兵士や下士官が行える範疇を超えている。何より、トウカは現時点では軍規に違反している訳ではない。敵前逃亡ですらない。寧ろ、気に掛けている方角を踏まえれば、敵に接近しようとしている。


 リシアが装甲車輌内の通信機で、総司令部経由でエルライン回廊近傍での戦闘に於ける戦況を問い質している最中であるという点も、トウカの独走を許した。リシアであれば、命令という大義名分を与えて鋭兵にトウカを制止させた事は疑いない。リシアはザムエルやベルセリカと同様に、公私共にトウカへと踏み込める数少ない人物である。


 三人の魔導士が魔導杖を構え、僅かな詠唱を終えると、大地には長方形の術式が光る。その長方形の術式に沿って合成風力が吹き始めた。


 慌てて退避する鋭兵達。埋葬作業に当たっていた兵士達も異変に気が付いたのか、興味深げな顔で、その光景を見守り始めた。


 連絡騎の背後に回り込んだ魔導士が連絡騎へと魔導杖を向け、風魔術で騎体を押し進める。


 飛行兵の滑走術式によって摩擦係数が極限まで減少し、連絡騎の翼の魔導刻印が光を帯び、滑走を始める。


 アリアベルには止める事が出来なかった。リットベルクもエルザも無言で光景を見守るだけである。


 自身より軍事的視野の優れたトウカが何かを成そうとしている。それを止めるだけの根拠をアリアベルは持たなかった。否、厳密には制止する覚悟を持たなかった。見開いた瞳孔に捉えられたそれだけで、アリアベルの意思は萎えた。殺意の滲む瞳を見れば、止めれば殺されかねないと容易に察せる。それ程にトウカは鬼気迫る表情を見せていた。


 ミナス平原決戦を超える裂帛の意思の前には言葉などなかった。


 職業意識の賜物が義務感か、トウカに翻意を促したメルベン大尉は称賛されて然るべきである。軍という組織が大尉という階級に望む義務を十分以上に果たした。


「何を……リットベルク大佐! 何事ですか!?」


「いや、何と言えばいいのか……何かあったらしい事は分かるが……」


 振り向けば、装甲車輛から飛び出してきたリシアが、離陸し始めた連絡騎を見て叫び声を上げる。彼女にとっても予想外である事が窺えた。


 リシアに詰め寄られたリットベルくを助けるべく、アリアベルは二人の間に割って入る。


「行き成り、飛び立たれたのです。短機関銃を奪い取って。……エルライン回廊近傍が目的ではないと否定していましたが……」


 アリアベルとしても、トウカの突然の行動に理解が及ばなかった。断言しかねる部分が多く、寧ろ、リシアであれば理解できるのではないかと期待しても居た。


「エルライン回廊近傍の包囲戦は順調すぎるくらいに順調! 元帥が慌てる要素など何処にあると……車長! 地図を此処に! 鋭兵! 連絡騎の飛び去った方位を正確に記録しなさい!」


 リシアは軍帽の上から頭を掻き、その手を装甲車輌の側面へと叩き付ける。


 車長が押っ取り刀で地図を抱え、砲手は折り畳み式野戦机を小脇に挟んで車内から姿を見せる。野戦机を用意する前に、リシアは堪え切れず車長から地図を奪い取ると、広げて装甲車両の側面に叩き付ける。


「鋭兵! 方角は!?」


 リシアの問い掛けに、双眼鏡を首から下げて近づいてきた鋭兵が地図で方角を指し示し、高度や速度も口にする。判断材料を得たリシアは、車長の腰に吊るされた地図入れ(マップケース)から定規を抜き取り、自身の胸衣嚢(ポケット)から取り出した(ペン)で凡その方角に線を引く。


「何もありませんね……フェルゼンの方位とは離れている様ですが」


 近づいたアリアベルの一言を、リシアは黙殺する。返答を期待していなかったアリアベルは、砲手が続けて用意してくれた折り畳み椅子に腰掛けた。


 リシアが地図上に引いた直線はシュットガルト湖北東を指しており、ロンメル子爵領の領都シュパンダウや皇州同盟軍兵器廠のあるヘルガ島の中間を通っていた。誤差を踏まえればいずれかであるという可能性も捨てきれないが、航法を違える程に連絡騎の飛行兵は低練度ではない。通信筒や将校移動などにも使用される為に皇国軍では重視されており、飛行兵は五〇〇〇時間を超える飛行時間を誇る熟練を基準として配置されていた。


 深い森林とシュットガルト湖、そのまま進めばエルネシア連峰の一画に突き当たる。エルネシア連峰を飛び越えるだけの航続距離と飛行高度がない為、越境は有り得ない。


 リシアが引いた黒線の延長線上にナニカがあるはずなのだ。


 その程度は、アリアベルにも理解できた。


「森と湖……いや、でも、緯度と経度を踏まえると……ライネケ?」


 リシアは軍帽を脱いで野戦机に置くと、砲手が新たに用意した椅子に腰を下ろした。


 傾いだ姿勢で座り、何事かを思案するリシア。両手で顔を覆い、周囲の者達の困惑を他所に問い掛ける真似を許さなかった。彼女の小刻みに揺れる肩が絶えず思案している事を窺わせる。


「莫迦な……まさか……でも……」


 問い掛けと否定を自身で繰り返すリシア。



 その終わりは突然だった。



「メルベン大尉! 周囲の連絡騎を此処に集めなさい!」


 立ち上がったリシアが叫ぶ。女性将校の凛冽な声音がベルゲン近郊に響いた。


 椅子が倒れた事も気にせず、リシアはメルベン大尉へと迫る。


「鋭兵に可能な限り搭乗して閣下を追い掛けさせる!」


「無茶な事を! 無理をしても完全装備の鋭兵を一人乗せるのが限界ですよ! それに周囲の連絡騎を掻き集めても一〇騎あるかどうか分かりません!」


「五月蠅い! 元帥を喪えば北部が滅ぶ! そんな事も分からないのか!」


 余りの剣幕に腰の引けたメルベンを畳み掛けるリシア。


 挙句には、実行するか死ぬか選べと叫び、装甲車輛の通信兵を呼びつける。


「総司令部に通信! 近傍の航空基地に待機中の戦闘爆撃航空団を緊急発進要請! ヴァルトハイム“卿”には私が閣下の為に純情を擲つと言えば通じるわ!」


 リシアは軍帽を脱ぎ捨て、方位を伝えてきた鋭兵の短機関銃を先のトウカと同じ様に奪い取る。


 アリアベルはそれ程に有効な銃火器なのだろうと、脇に逸れた思考を正すと、鋭兵から予備弾倉の差し込まれた三連弾倉嚢(マガツィーンタッシェ)を二つ受け取るリシアへと問い掛ける。


「どのように?」


「追い掛けるわ」


 端的に追撃を宣言するリシア。


 負い紐(スリングベルト)を締め、腹部前で短機関銃を固定したリシアは、三連弾倉嚢(マガツィーンタッシェ)を両脇の軍帯(ベルト)に装備する。連絡騎の降下地点の安全をリシアは危ぶんでいるのだ。それを含めてのアリアベルの問い掛けであったが、リシアは意にも返さない。


 ――戦力のない者を頼りにしない。実に現実的な事です。


 今日に晒され続けた北部臣民は軍事に於いて極めて過酷(シビア)な考え方をしている。無いものや不確定要素に期待しない現実主義(リアリズム)が彼女達を支配していた。戦争の根拠が私的なものであっても、その運用は極めて現実的と言える要因はそこにある。


 リシアは、そうした北部……皇州同盟軍の精華と言える。


 瀟洒な佳人としての容姿と、急進的な主張を隠さず、野戦将校としての実績もある。それらは北部に在っては幅広い層の求心力を期待できる要素に他ならない。


 アリアベルは、そうしたリシアを苦手としている。


 無論、大御巫を引っ叩く事を躊躇わない点や、奇妙な程に亡き姉の面影を思わせる点への恐れや気後れなどがあるが、最大の要因は、リシアが自らの立場を自らの才覚と能力で勝ち得た点である。


 アリアベルの立場は予定調和の産物である。公爵家に魔導資質の高い女が生まれ、神祇府と公爵家が互いの連帯を意識した。将来の大御巫を前提とした教育と人間関係の構築という方針は、アリアベルの意思が介在しない中で決定され、アリアベルはそれを受け入れるしかなかった。


 姉の如く、自らの未来を快刀乱麻を断つが如く大事を成し、立場を得たリシアを、アリアベルは眩しく感じていた。アリアベルからすると、トウカだけではなく、リシアもまたマリアベルの継承者である。


「神殿騎士団魔導騎兵を一個大隊、用意できます」


 無理をすれば抽出できるとアリアベルは踏んだ。


 魔導騎兵大隊であれば、移動速度は装甲部隊を優越する。駆け付けるには適役であった。練度と規模から敗走の最中にある帝国軍敗残部隊と遭遇して敗退する事もない。


「姫様っ! なりませんぞ!」


「そうです。これ以上、付け入られてはッ!」


 エルザとリットベルクが翻意を促すが、アリアベルは聞き入れない。神祇府がこれ以上の戦争への関与を認めない姿勢を取りつつあるのは確かで、神祇府内の権勢をアリアベルは既に失っている。今一度、神殿騎士団を戦場に投じる無理を通せば、次は間違いなくアリアベルの辞任に繋がる。


「戦争をする訳ではありませんよ? それに大御巫が移動する中、護衛なしとは行かぬでしょう?」


 大御巫の前線視察に随伴する護衛という建前で押し通す心算のアリアベルは、断じてトウカを助ける心算であった。危機に陥っているかは不明確であるが、もしトウカが戦死した場合、リシアの様に国家の滅亡とまでは言わないが、自身が完全に逼塞を余儀なくされるという点だけは確定事項に等しい。


 アリアベルは既にトウカの軍事力を背景にしなければ、全てを失う立場に在るのだ。


 今際の際のマリアベルは、それを理解していたからこそ、トウカにアリアベルが連携する様に遺言を残した。姉が見せた最後の“善意”の在り処が失われる可能性を、アリアベルは断じて潰さねばならない。


「御自身も赴かれると?」


「無論です。どの道、戦後に大御巫の立場は手放さざるを得なくなるでしょう。ここで喪っても惜しくはありません」


 寧ろ、公爵家と神祇府という巨大な権力機構が用意した人生から脱する事が出来ると思えば喜ばしい事である。内戦激化の要因となったが故に、貴族の社交界からも距離を置けるとなれば尚更であった。


「好きにしなさい。総司令部の指揮系統外の戦力に口を挟む権利は私にはないもの」


 迂遠に総司令部の掣肘を受ける根拠はないと言い放つリシア。アリアベルは賛意を示したと見た。


 リットベルクとエルザに神殿騎士団魔導騎兵大隊の進出準備を命令するアリアベル。


 対するリシアは、紫苑色の長髪を軍装に襟内に押し込もうとしたが、上手くいかないのか舌打ちを一つ。アリアベルは懐から結び紐を手渡そうとするが、リシアは首を横に振る。


「戦争に(かま)けて狐の飼育を疎かにしたなんて迷惑な話よ。本当に」


 紫苑色の長髪をぞんざいに左手で鷲掴みし、右手で曲剣(サーベル)を抜き放ったリシア。


 引き留める間もなく、刀身を肩越しに紫苑色の髪へと添えた。


「あっ……」


 アリアベルは間の抜けた声を零す。



 弦楽器を引く様に刀身が滑り、弦の様なしなやかさを持つ紫苑色の長髪が切断される。



 時節にはまだ早い紫苑色が、遺体の山脈に囲まれたベルゲンの一角で風に舞う。



 不意の風に巻き上げられた紫苑色。



 それを追って視線を走らせた空は、戦時下を思わせない程に紺碧だった。














 戦闘爆撃航空団が滑走路に並び、神殿騎士団がベルゲン郊外に展開し始めた中、総司令部に詰めていたベルセリカは、何事かと騒ぐ諸将を一喝し、戦域図を俯瞰する。



 最早、勝利は確固たるものとなっている。



 エルライン要塞は皇国軍の手の内に戻り、回廊近傍では包囲戦が開始されている。厳密には包囲は完了しておらず、分散した帝国軍残存部隊を各所撃破しながら包囲を目指している最中にある。帝国軍の混乱が酷く、大きく分散している為、包囲戦力が不足している為であった。


「いつも通りの前代未聞で騒がれては堪らぬわ」


 ベルセリカは、そう吐き捨てると席を立つ。トウカの非常識に未だ慣れぬか、と吐き捨てる。


 どちらへ、と問う皇州同盟軍参謀本部首席参謀のアルバーエルを、ベルセリカは一瞥する。


「某も向かおう。空挺?だったかの。あれを一度、やってみるのも悪くなかろう」


「両軍の総司令官が不在となるのは……それに落下傘降下は危険です」


 既に前線は押し上げられ、包囲戦を直接指揮しているのは〈ヴェルテンベルク統合打撃軍〉司令官であるザムエルであった。


 ベルゲンの総司令部では距離があり、指揮統制に時間を要する。通信設備を増強しても現時点では限界があり、何より歴史上初めての規模となった広域戦線化は一元的に総司令部が全軍を指揮する嘗ての指揮を不可能とした。皇州同盟軍と陸軍は、各師団長の権限を拡大し、周辺部隊との連絡を規定化して弾性的な運用を前線に期待せざるを得なく成った。


 戦術次元の判断は以前よりも各師団長以下の将校に一任される傾向にあり、皇国軍でも機動的運用を行う指揮官達が頭角を現しつつある。


 周囲を一瞥し、アルバーエルはベルセリカに一層と身を寄せる。


「それに、西方の問題もあります。ここで陸軍に主導権を奪われるのは……」


 アルバーエルの言葉に、ベルセリカは席に腰を下ろした。


 皇国へ侵攻した帝国軍の大部分は、エルライン回廊近傍で航空攻撃と各所撃破に晒されているが、一部は西方……共和国方面へと離脱しつつある。共和国も帝国による大攻勢で戦線を南下させており、経路次第では共和国に侵攻している帝国軍との合流も不可能ではない。


 共和国に侵攻する帝国軍が、皇国に侵攻する帝国軍を救援しようとした場合、西方での軍事衝突が現実味を帯びる。


 現状、そうした動きはないが、生じれば共和国も含めた問題となる。国境線を挟んで皇国軍と共和国軍が睨み合う展開も可能性がないとは言い切れない。越境攻撃を共和国が容認するか否かは不明であるが、交渉に時間を要する可能性や両国政府の混乱も想定される。


 そうした混乱を掣肘する必要が生じた場合、ベルセリカの名は各方面に多大な効力を発揮できる。


 特筆すべきは、ベルセリカが勇名を馳せた戦役での敵国が、当時の共和国と係争関係にあった事から、共和国でベルセリカの名が好意的に見られている点である。今となっては歴史の一幕だが、交渉次第では国難に対しての連携が短期間で実現する可能性とてあった。


 何より、陸軍ではなく皇州同盟出身者であるベルセリカが譲歩を引き出し、連携や越境の許可を引き出すという事を、アルバーエルは望んでいた。


 皇国という国家は皇州同盟に異様な程の譲歩をしている。


 国内で暗殺や武力による恫喝を躊躇しないトウカや皇州同盟を排除せず、寧ろ大幅な譲歩と忍耐を選択した中央貴族。皇州同盟では、トウカの軍事的資質と皇州同盟軍に恐れをなしたという威勢の良い論調が目立つが、少なくとも高級将校達は楽観視していない。


 対帝国戦役が終結した段階で、トウカと皇州同盟を排除する動きを見せる事は明白であった。度重なる内戦と戦役によって軍事力を低下させ、高圧的な姿勢によって孤立した皇州同盟を、政戦を用いて解体するのだ。皇国政府は兎も角、各公爵にはその実力がある。トウカの非常識と暴力が許されるのは、戦争で北部以外の地域の消耗……皇国の国力消耗を大きく低減できるからである。出来の悪い物語の主人公であるからではない。


 排斥の時は迫っている。


 対帝国戦役での勝利が近づくにつれ、ベルセリカは焦燥に駆られていた。リシアを焚き付けた事も無関係ではない。


 トウカは常に戦時体制を維持する事で、国内勢力との衝突を先延ばしにしようと目論んでいるが、それが困難な事であるとベルセリカなどの一部高級将校は見ていた。


 北部地域自体も限界なのだ。


 大規模避難によって北部中央は経済的に壊滅的被害を受け、兵員の消耗による軍事力の低下も避けようもない。数としては増加しているが、内戦以前からの高練度の将兵は大きく消耗していた。機動戦を重視するトウカの戦略に適応できる将兵は〈ヴェルテンベルク統合打撃軍〉を除けば僅か。已む無しとばかりに、辛うじて運用に耐えうる将兵を集めて棍棒にしたのだ。


 戦時下の継続で北部に軍需産業を誘致しようとしている点も、敵国である帝国との兵站線の距離短縮を見れば正しく思えるが、企業の誘致や成立は、どこまで行けども出資側に主導権がある。低下した軍事力で、それを強制できると思う程、ベルセリカは楽観的ではない。


 トウカは端倪すべからざる才覚を持つが、皇州同盟の身代は、それに応じたものではない。


 北部を纏め、他地方からの懐柔を受け付けない程の紐帯を実現したが故に、トウカの排斥を容易ではないが、実権のない立場に追いやられる可能性は極めて高い。暴発させず、長い時間をかけて北部と皇国という国家の価値観と差異を埋め合わせていけばいい。


 軍神が帝都と諸都市、一方面軍を相手に殺戮を行った。帝国が再び皇国へと侵攻するには、相応の期間を要する筈であり、戦力の再編自体も容易ではない。被害を踏まえれば、内戦の萌芽とて現れていても不思議ではなかった。


 七武五公の大部分が、そう考えている事は疑いない。


 時間は、彼らの味方である。


 トウカは共和国の救援を錦の御旗として、戦時体制の必要性を言い募るであろうが、本国防衛と他国救援では国民の熱意も意欲も大きな差異が生じる。ベルセリカは五〇〇年以上も前に経験した記憶があった。


 ――まさか、あれをもう一度、やる訳にもいかぬ。


 自国民を手に掛ける事を幾度も行うのは、気取られる可能性がある。信が置けるとはいえ、リシアに今以上の負担を掛けては激発する危険性もあった。マリアベルの様に振る舞いはすれども、リシアは本質的に善性な気質を持つ。


 トウカが、国民の戦後が来たという意識を打ち砕けるか否かが焦点と言える。


 北部ばかりが被害を受け、他地方は危機感を煽られる程度で終わった事は、皇国という国家にとっては幸いであったが、皇州同盟にとっては不幸であった。戦力集中の建前で押し切って皇都近傍にまで誘引すべきだったとまで考えが過り、ベルセリカは頭を振る。今以上の莫大な避難民を抱え続ける事になり、それは不可能であった。そして、違う地方の難民同士の衝突も予想される。


「限界であろうな……」


 資金ならば、工業製品と軍需物資を諸外国に販売する事で捻出できるが、政府との間で放置されている税関問題や税金問題もある。戦災復興を錦の御旗に控除を迫るのは間違いないが、軍需物資の輸出を制限する動きが出た場合、其れを撥ね付けるだけの軍事力は既に皇州同盟軍には存在しない。特にシュットガルト運河を閉塞された場合、それを打開する為の海軍力がなかった。通商航路であるシュットガルト運河を防衛できない点は致命的とすら言える。


 剣聖と軍神、七武五公……それぞれが複雑な背景と勢力を持ち、それぞれの立場から対抗勢力を俯瞰した場合、相手が採るであろう最善策が酷く複雑にして強固に見えた。


 猜疑心こそが敵を最も強固な存在に成さしめるのだ。


 憂色のベルセリカに皇州同盟軍参謀本部、航空参謀であるキルヒシュラーガー少将が伝令文を手に近づいてくる。


「元帥閣下、ハルティカイネン大佐からの推測によれば、“ライネケに向かう”との事です」


 トウカが飛び立っただけでなく、ライネケの方角となると、その理由はミユキであると察する者は皇州同盟軍総司令部と参謀本部には多い。


「閣下、各航空艦隊司令部に確認しました」


「航空偵察か?」


「いえ、その……襲撃された市町村と、救援要請を発信した市町村の一覧を照会させました」


 ベルセリカは目を見開き、キルヒシュラーガーの手から通信文を奪い取る。


 ライネケが襲撃を受け、故意に見逃したとなれば、皇州同盟軍内で要らぬ不和が生じると見たベルセリカは慌てた。


 しかし、救援序列は人口の多い市町村をより優先して行う事になるので、ライネケへの襲撃は意図的に放置した訳ではないと知って、深い溜息を吐いた。


「恐らく、ですが、北部でライネケの存在を知る者は少なく、未だ軍事地図にも記載されておりません。加えて合同司令部であり他地方の者まで居るとなると……」


「言い訳は良い。空挺では効率が悪かろう。輸送騎に滑空機(グライダー)を引かせて鋭兵を空輸させるしかあるまい」


「鋭兵は既に一個大隊を呼集しております。滑空機は確認を取ります」


 キルヒシュラーガーが敬礼を以て踵を返す。


 ベルセリカは陸軍が調査目的で複数の滑空機を皇州同盟軍に要求し、その引き渡しでベルゲンに運び込まれている事を知っていた。セルアノの資金調達の一環として売却されたのだ。


「サクラギ元帥の不在を外部に知られてはならぬ。露呈した場合は、前線視察とでも嘯いて真実の露呈を引き延ばすがよい。異論は御座らぬな? 宜しい」


 異論は許さぬと睥睨したベルセリカに、応じる参謀達。一部は敬礼後、〈北方方面軍〉の参謀達へと状況説明へと向かった。合同司令部内での齟齬があれば、容易に露呈する。共犯にするという判断は正しい。


「ヴァルトハイム総司令官、大変です。神殿騎士団が――」


「捨て置くがよい。問題は何一つ御座らんよ」


 皇州同盟軍、砲兵参謀のクルツバッハ少将の慌てた様子で報告するが、ベルセリカは騒ぎ立てるに及ばずと制する。


 神祇府隷下の神殿騎士団は、皇国の軍事序列に存在しない戦力であり、宗教序列の統制を受けている。皇州同盟軍はおろか陸海軍の統制にすらないのだ。その場にいたであろうリシアが放置した以上、重要視する問題ではないと、ベルセリカは割り切った。寧ろ、戦力として数えたか。


「ミユキに何かあったか……」


 ライネケが攻撃を受けただけでは、トウカは軍事常識を捨てないが、そこにミユキが居たのであれば話は変わる。否、寧ろ、それ以外でトウカが軍事常識を放棄する理由をベルセリカは脳裏に描けなかった。



 大前提が崩れる。



 自身との約定がミユキを断じて守るという点にある事を踏まえれば、本分を忘れた痛恨の失態とも言える。眥裂髪指であってもトウカであれば、自身がベルセリカを要職に就けた事を忘れないだろうが、それ故に矛先が何処へ向かうか不明確であるという恐怖もあった。


 ――帝国に向かうか? それならばよいが……


 国内に向かうならば、悲惨な事になる。内戦ではなく暗闘とでもいうべきものとなるだろう。或いは、己に向くやも知れないが、その場合は再起を望めない可能性もある。しかし、それが最も諸勢力にとり平穏を望める途やも知れなかった。



 運命が手札(カード)を混ぜ、我々が勝負する。



 皆が互いの手札を推測し、その知性に似合うだけの未来を組み上げていく。その姿は紛れもなく現実主義者として国政を取り仕切るに相応しいだけの力量を窺わせた。



 しかし、その手札は本当に正しいのだろうか?

 しかし、その手札は本当に存在するのだろうか?

 しかし、その手札で本当に総てなのだろうか?



 当人ですら知らぬ手札が紛れ込む事とて有り得るのだ。


 そして、その手札が切り札(ジョーカー)ではないと言い切れる者など誰一人としていない。現実主義者達が皆無に等しい確率と切り捨てた確率の中に潜む総ての大前提を崩壊させる手札。黙認して高確率と効率を携え、手札を切り合うのが現実主義なればこそ、取るに足らない可能性として切り捨てられた。否、認識される事すらなかった可能性。


 誰しもが、その切り札(ジョーカー)の存在を、望みつつも諦めていた。


 だが、その手札は、それを最も理解せず、期待もせず、望みもしていなかった者の手札に紛れ込んだ。


 それが当人にとって幸福を招くとは限らない。


 道化師ジョーカーの絵が描かれている事から、切り(ジョーカー)と呼ばれるが、一部の遊びで最強の札として扱われるが故に過ぎない。総てに於いて最強の名を冠する訳ではなかった。


 遥かなる天壌に狐耳の女神の哄笑が響く。


 ベルセリカは軍帽を目深に被り直した。





 


 運命が手札(カード)を混ぜ、我々が勝負する。 


               《独逸連邦》 総合哲学者 アルトゥル・ショーペンハウアー



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