第二五三話 無数の死、一つの死 五
「女の衣装替えが長いという通説は事実だったようだな」
トウカの皮肉に、アリアベルは色気よりも食い気の仔狐だけを侍らせているのだろうと苦笑するしかない。大凡の予想とは裏腹に、トウカは異性への評価項目に於いて美貌に重きを置いていないのかも知れないとすらアリアベルは考えた。そうは言えども、見目麗しい者達が集まっているのは事実であるが、その誰しもが相応の実力や権力、背景を持つ。
手を差し出すが、その手を取ったのはトウカの隣に控えるリシアであったので、アリアベルは徹底していると感心する。宗教の擦り寄る余地はないと言わんばかりであった。
大御巫としての正装を纏うアリアベルは、些か動き難さを感じながらも、衣擦れの音を抑えて歩を進める。
トウカが肩に掛けた軍用長外套の裾を揺らしてアリアベルの横を進む。
周囲をリシアやリットベルク、エルザを始めとした将校を囲み、更にその周囲には鋭兵分隊が短機関銃を保持して警戒序列で廊下の左右を固めていた。
二人の歩調に合わせて周囲も動く。
何事かという表情をそのままに、廊下の士官達が敬礼する姿が視界の端へと流れる。トウカは歩みを止めず答礼を以て応じていた。ついアリアベルも答礼に続きそうになるが、宗教的権威を示す衣装に身を包んだ姿で敬礼をすれば要らぬ批判を受けかねないと思い留まる。征伐軍動員による批判を受ける中、軍人としての立場を思わせる行為は更なる批判材料となりかねなかった。無論、現時点では皇州同盟の暴力を恐れて批判は低調であるが、皇州同盟という存在は永続を保証されているものではない。
廊下の壁や窓際に張り付かんばかりに距離を取る陸軍将校や皇州同盟軍将校。
トウカが友軍からも畏れられていると理解できる光景である。
ミナス平原決戦後の迫撃に於ける皇州同盟軍の虐殺は国内のみならず周辺諸外国からも激烈な反応を以て迎えられた。
一部の国からは公式見解として批判が上がり、皇国の軍事力が二重構造となっている点を懸念する見解もあった。尤も、本来であれば人権重視の共和主義者は、反帝国に固執している為、トウカの蛮行を“決断力に溢れる行為”と絶賛している。ヒトが真に紐帯を見せる瞬間とは、主義主張の合致ではなく、共通の敵を有した時のみであるのだ。人命という要素は、共通の敵という要素に劣る。
アリアベルは玄関先で、トウカの背に言葉を投げかけた。
「乙女の歩調に合わせないのですか?」
些か歩調の速いトウカに、正装の千早が動き難いアリアベルは追い付けなかった。
種族的に膂力で優越していながらも、千早が乱れぬ様に歩く必要のあるアリアベルは思うように速度が出ない。急いている様に見えてはならないという宗教的権威ゆえの立場もある。軍指揮官にもあるはずであるが、トウカは往時よりマリアベルの様に落ち着きのない人物として知られている為、総司令部内でも慌ただしい姿を不審に思う者はいなかった。
「乙女は宗教を盾に軍へ指揮権を要求しない」
トウカが鼻で笑い飛ばし、リシアは瞳を眇める。
陸海軍府長官に指揮権を要求した点を指しているのは間違いないが、軍の指揮権どころか敵対的な企業や政治家への暗殺や恫喝を行う皇州同盟軍の総司令官が素面で言えるとは、アリアベルも驚きを隠せない。まさか情報部による独断という筈もなかった。
玄関口を出ると、アリアベルは降り注ぐ月夜の残光を見上げた。
雲居に霞み、残光となった月の輝きは街並みを色褪せた姿で浮かび上がらせる。
「なぜ夜に?」
「昼は腐敗が進む。匂いも酷い」
何が腐敗しているのか?とは、アリアベルも問わない。
ミナス平原周辺に於ける決戦での戦死者は、両軍合わせて五〇万名を超える。その後の迫撃戦によって帝国軍は更に二〇万名近くを失っていると推測されており、ミナス平原周辺は人馬の骸で覆われていると言っても過言ではないだろう。少なくともアリアベルはそう考えていた。
実際、両軍が投じた五〇〇〇門を超える火砲による応酬に加え、熾烈な航空爆撃の結果、原形留めている遺体は少ない。幾度も鉄火に晒された遺体は焼け爛れ分断し、血煙となり肉片となった。そして、何よりも、大戦力に航空攻撃、機甲戦力、通信強化……無数の複合的な理由が広域戦線を実現し、以前までとの戦争とは比較にならない戦域を出現させた。
ベルゲン近郊が人馬の骸に覆われている光景というのは、アリアベルの遅れた戦争観に過ぎなかった。無論、大都市への爆撃となった帝国諸都市であればそうした光景も出現していたが。
「ミナス平原は、北部の中でも南寄りで平地だ。戦後は穀倉地帯にしたいものだな」
試作が開始された歩兵戦闘車の後部艙口を潜るトウカが、軽やかな笑声と共に告げる。
ミナス平原を穀倉地帯とする計画は以前よりあったが、食糧自給率の改善に熱心な筈の北部貴族が軒並み否定的な姿勢を示した為に頓挫したという経緯がある。当時のアリアベルは詰まらぬ意地を張ると眉を顰めたが、今となっては理解できる。
北部貴族は中央部に隣接する穀倉地帯が弱点になると考えたのだ。或いは、妥協を迫る要素の一つとして扱われると警戒した。自らの食糧を仮想敵の近くで生産するという危険性を彼らは理解していたのだ。無論、侵攻路になり得る要所に穀倉地帯を造成しても最後は踏み潰してしまわねばならない、と嘯く暴君も健在であった頃なので、元より無理な計画だったのだ。
「幸いにして肥料も撒かれた。穀物も良く育つだろう」
「それを北部の民の食卓に上げる、と?」
控え目に見ても反感を買う食糧計画と思えたアリアベルだが、トウカが「帝国主義を喰らうのだ」とでも言えば喜び勇んで購入する層が増大しているのも確かである。
アリアベルの声音に否定的なものを感じたのか、トウカは肩を竦める。
「なに、戦後に帝国への食糧支援は必要だろう? 宥める材料に丁度いい。肥料輸出助かりましたとでも宣って支援してやればいいのだ」
トウカの満面の笑みに、リシアとエルザが頬を引き攣らせる。アリアベルも表情を維持できている自信がなかったが、確認する真似はしない。リットベルクに関しては好々爺然とした笑声を零している。
「そう口にして、先鋭化した者共に食糧支援を認めさせる腹心算ですな?」
片方の髭先を撫でつけながら、リットベルクが妙案とばかりに頷く。
アリアベルは、トウカが帝国政府を支援する想定をしている点に驚きを禁じ得ない。滅亡させると嘯く彼であれば「餌一つくれてやるものか」と激怒すると考えていた。
「食糧支援、必要でしょうか?」リシアが問う。
マリアベルの面影を持つ彼女は、主張する政策に於いても類似したものが多い。基本的に敵には容赦も慈悲もない。惨たらしく在れ、というのが常である。
リシアは不満より驚きが勝っているのか、声に陰りはない。確かにトウカが口にするとは思えない台詞であり、不満など忘れてしまう程の意外性を伴う。
「帝国人を餓死させるのは容易い。戦略爆撃騎で穀倉地帯に除草剤を散布して、鉄道に関連する建造物の悉くを戦略爆撃で吹き飛ばせばいい」
容易な事である、と口にするトウカ。
恐らく、それは皇州同盟軍単独で可能な事である。容易であるという事は、自らの権勢によって運用し得る軍事力のみで成し遂げられるとの事に他ならない。
「しかし、成さないと?」
「帝国にも獣系種族が居るようだ。交換条件として救出するべきだろう」
軍神が博愛の精神に目覚めた訳ではない事は、この場の誰しもが理解している。
トウカの苛烈な言葉は、最近では宗教にも向けられる。
彼らは死ねば楽園に行けると嘯く宗教を報じている。ならば積極的に信徒を楽園に送る手助けをしている俺は功徳比肩し得る者なしと、遠国の神に評価されるだろうな。
国防や国益の為の殺人であれば已む無し、と陸海軍では教育しているが、トウカは帝国軍将兵を彼らの教義に基づいて善意で殺してやっているとすら嘯くのだから、宗教に携わる者達は恐怖を隠せないでいた。天霊神殿がアリアベルに責任を限定して存続を図ろうとしているのは、決して組織保全を図るという意味だけではない。トウカの悪意と殺意から逃れようとする意図も介在していた。
恐怖を以て抑止力とする。
不足する軍事力を補うべく、マリアベルが多用した手段である。
宗教による組織への蚕食を危険視するトウカからすると、当然の選択であるかも知れず、陸海軍も内戦勃発の主たる理由が大御巫にある為、庇う真似はしない。寧ろ、陸海軍は天帝招聘の儀を始めとした天帝に関わる祭事などを皇城府に移管するべきであると考えていた。統治機構に属しない組織に統治者を選出させる祭事を委ねる危険性を自覚したのだ。
「北部の人口減少に歯止めを掛けるのは勿論だが、どこかで調達できるなら、それに越した事はない。どうせ他の地方は間諜や主義者が混じっていると迎え入れるのは拒むだろう。此方で受け入れて、それを理由に政府から予算を存分に毟ればいい」
「……まぁ、確かに多種族共栄、人魔平等は我が国の国是ですが……その、危険では?」
リシアは、北部に間諜が流入する事を危険視しているのか表情が冴えない。
「危険だからこそ北部なのだ。軍拡の理由が多いに越したことはない」
トウカは憲兵を多数擁し、皇国の法律から治外法権となった北部は政治的即応性に優れる為、問題に即応できると言い放つ。治外法権を明言した事に、今度はリットベルクが頬を引き攣らせるが、リシアは当然とばかりに頷いている。
種族差よりも、住まう地域による認識の差が内乱の理由になるというのは、多種族国家としては皮肉が効いている。アリアベルが、そう笑うと、トウカは「収入の差が不満に繋がる。種族や地域など後付けの理由だ」と鼻で笑った。認識の差は待遇……賃金格差より生じる。アリアベルは地域を理由にしていたが、トウカは賃金格差であると見ていたのだ。
全員が社内の椅子に座り、歩兵戦闘車が重低音を響かせて動き出す。
中央上部には四〇㎜機関砲を搭載した砲塔がある為に些か低いが、トウカやアリアベル達は砲部付近に密集しているので視界を遮られてはいない。アリアベルが内戦中に搭乗したクレンゲルⅢ型歩兵戦車には両側面に複数の銃眼が装備されていたが、皇州同盟軍の歩兵戦闘車にはそれがなく、内装も簡素であった。
「これは新型ですね? 生産が始まったのですか?」
「試作型だ。歩兵を安全に輸送する兵員輸送車の採用が決まったが、あれは歩兵の戦闘を支援できない。積極的に支援できる車輛として開発させた。まぁ、兵員装甲輸送車が派生展開を前提にした影響で、此方は新規設計となってしまったがな」
皇州同盟軍の次期軍備拡充計画では、不整地踏破能力向上を意図した巨大な車輪を持つ装輪式車輛を中心にしている。無限軌道式ほどの不整地突破能力を有してはいないものの、生産性と整備性に優れ、軽量である為に輸送面でも利便性に勝った。何より安価である。
対する新型の歩兵戦闘車は無限軌道式であった。歩兵支援の都合上、不整地へ踏み込むこと想定せざるを得ないのだ。
「揺れるな。しかし、それでも他国のものに比べたら雲泥の差だろうが」
トウカも初めて搭乗したのか興味津々で車内を見回している。側壁に装備された短機関銃の保持を確認し、運転席の光景を凝視したりと忙しない。子供の様な仕草は微笑ましいが、最後の「量産予算を何処から毟るかだ」の一言で、アリアベルはそっと視線を逸らした。子供が母親に御小遣いをねだる規模では済まない事は政府が証明している。
「これに乗りたかった。御前を出汁にしてやっと、だ。最高指揮官が司令部に押し込まれるのは宿命とはいえ、将兵を慰撫する程度はしておかねば、臆病者の謗りを免れん」
「国内から遺恨を軍集団規模で集めた弊害です。我慢してください、閣下」窘めるリシア。
困った事だ、と苦笑するトウカ。
アリアベルとしても、ベルゲンの総司令部内で報告を聞くだけでは現実感がなかった。帝国軍が本格的な壊乱に陥った際に歓声を上げた司令部要員達にはアリアベルも喜んだが、何処か勝利の確信を抱けなかった。
動き出した歩兵戦闘車。周囲の護衛が分乗する装甲兵員輸送車も動き出しているであろうが、弱点となる窓がない歩兵戦闘車では確認はできない。
「元帥閣下なれば、臆病者と謗る者は居りますまい。それは自らの無能と怠惰を公言するに等しい」
リットベルクの指摘に、トウカは「有難う、大佐。しかし、まだまだ殺し足りないよ」と謙遜して見せるが、その言葉には狂気が滲む。当人は上機嫌であるが、リシアも普段とは違う様子に幾度か怪訝な顔をしている。
「しかし、乙女が乗車するなら手を取るのが紳士だと思いますよ?」
「御前がマリィの様になったならば考えてやる」
アリアベルとエルザが視線を交わす。
トウカに対してマリアベルの話題を振るのは、禁忌ではないものの、所属に関係なく避けていた。トウカとマリアベルの関係は広く知られている。一般市井では単なる権力者と戦争やの色恋と見られているが、軍高官や政治家の間では、二人によって齎された変化と被害から危険視されていた。そして、マリアベル亡き後の軍事偏重を隠さないトウカの姿勢に、当時はそうは見えなかったマリアベルが実は良くトウカを統制していたのではないか、という見方が生じたのだ。少なくとも、北部統合軍成立が驚くべき程の短期間で成立したのは、謀略を含めてマリアベルの手腕があったからこそである。
死して尚、マリアベルの存在感は増しつつある。
トウカを抑えられる政略寄りの人物は未だ存在しないのだ。
「あれは女だ」トウカが肩に置いた軍刀を揺らす。
「貴方が女にした、と?」アリアベルは目を細める。
傲慢な男だ、とアリアベルには思えた。高位種の女性を相手に、こうも横柄な態度を取る低位種の男性は初見であった。リットベルクの皮肉とは違う裂帛の意思が滲む言葉は、気圧されるものがある。
特に近頃のトウカは熱に浮かされた様に強硬手段を示す。前日には国家規模での兵器売買についての言動もあった。その思惑は明白であり、対帝国の兵器廠となるという名目の下、兵器売買で落ち込んだ経済活動を活発化させようと目論んでいるのだ。
皇国は死の商人として名乗りを上げるという事である。
以前までの全般的な国際的信頼と引き換えに、帝国と敵対する国家への肩入れは、皇国の前科として認知されるに違いなかった。アリアベルとしても八方美人の外交姿勢を疑問には思うが、死の商人としての評判だけは許容し難いと考えていた。
「違うな。あれは元より女だった。御前の様に膜一つの有無如きで判断する内は見てくれだけの小娘に過ぎない」
リットベルクが「興味深い女性観ですな」と付け加えるが、女性の居る中では肯定も否定もし難いのか表情は曖昧なものである。リシアは無言であったが、その態度が彼女自身の立場とトウカとの関係を示しているように見えた。
「……因みに俺はこの世界でミユキとマリィ以外と行為に及んだ事はないぞ」両手を挙げて潔白?を主張するトウカ。
降伏を示す身振りをする軍神の姿は稀有なものであるが、経験豊富と誤解される事を恥じる程には二人との関係を重く見ている点だけは理解できた。
「最近の閣下は、諧謔に富まれますね」リシアの批判交じりの指摘。
それは以前からでは?とアリアベルとリットベルクが顔を見合わせるが、トウカは顎に手を当てて目を眇める。
「さぁ? ただ、熱に浮かされた様に身体が熱い。熱ではない。薬でもない。勝利に酔っているのか? 或いは権力に溺れたのか? どちらなのか? まぁ、それは後世の歴史家が知性と品性の浪費を以て書き記すだろう」
自問するトウカに、アリアベルは怪訝な顔をする。薬による感情の高揚を知っている点もあるが、身体の不調に寄らない感情の高揚が魔術的効果によって齎される事もあると理解しているからであった。皇州同盟軍の総指揮官が心身に魔術的干渉を受けるという事態は考え難く、そもそも軍では尉官以上の指揮官は定期的に魔術による干渉の有無を検査される。
「それは……」
「――そろそろだな」
アリアベルが口を開くが、歩兵戦闘車はトウカの声に合わせる様に減速を開始した事で機会を逸する。後にアリアベルが、それを後悔する事はなかった。既に手遅れであったが故に。
完全に停止した歩兵戦闘車。
トウカの視線に促され、同乗していた後部艙口に近い鋭兵二人が扉を開いて外へと進む。短機関銃を構えた姿に無駄はなく、素早い。扉の左右に立ち、周囲を警戒するというよりも儀仗兵に近い立場なのか、直立不動であった。
トウカを戦闘に、車内のアリアベル達は車外へと足を踏み出す。アリアベルも軍用短靴であるが、足元の泥濘の気配は未だ払拭されていない。泥濘を隠さない大地にアリアベルは降り立った。
敬礼する兵士達。しかし、それは一部に過ぎない。
周囲で円陣に停車する装甲兵員輸送車から降車した鋭兵達の大部分は円陣の外へと神経を尖らせている。平野部であるが故に、狙撃や砲迫撃を防止する遮蔽物が限定されている。主戦場がエルライン回廊周辺に移り、熾烈な追撃戦と残敵掃討が各地で行われ続けているとは言え、国土の安全宣言が成された訳ではない。
無論、最も警戒されているのは、帝国軍将兵に偽装した暗殺騒動が発生する事である。戦火が収まりつつあるとの認識が広まりつつある中、トウカの重要度は低下し続けている。
鋭兵越しに窺える将兵達は、遠巻きにアリアベル達へと視線を向けている。
一人の皇州同盟軍大尉が副官を引き連れて姿を見せた。
敬礼に答礼で応じたトウカが、直立不動となった大尉に口を開く。
「貴官が、この場の先任指揮官か?」
「はっ、皇州同盟軍〈第一〇五師団〉所属、メルベン大尉であります!」
緊張した面持ち……引き攣った口元と声音で所属と名を述べたメルベン大尉。
「大尉、緊張する必要はないわ。桜城元帥閣下は御味方よ。少なくとも今は」リシアが苦笑を以てメルベン大尉の緊張を指摘する。
何とも言い難い言葉にメルベン大尉が、どの様な表情を以て応じればいいか逡巡している事を察したトウカが、一層と苦笑を滲ませて訊ねる。
「作業はどうか?」
「順調……とは言い難くあります」
暫しの沈黙が続く。誰しもが言葉を紡げない。
彼ら……皇州同盟軍と陸軍から抽出された低練度部隊。未だ訓練期や練兵の最中にある将兵を集成部隊として遺体回収作業を担わせる。皇州同盟軍と陸軍の双方で合意された案件であるが、それは双方が互いに将兵の損失を押さえる為の方策でもあった。互いに余剰戦力があるにも関わらず投入させないと見られて不和を招く事を避ける為であり、皇州同盟軍と陸軍はそうした配慮をする程度には互いを重視している。
「明日には有志のベルゲン市民が合流する。貴官にとっては負担でしかないだろうが、宜しく恃む」
「それは……心的外傷になるかと」
存外に役には立たないと意見するメルベン大尉に、トウカは「そうだろうな」としか零さない。
アリアベルは遺体回収作業に有志の市民が合流するという話を事前に聞かされていた為、驚きはしなかった。広大なミナス平原で戦死した両軍戦死者の数を踏まえれば、現状の四個師団の人員では人手不足なのは明白であった。四個師団とは言え、常に兵力を全力投入できる訳ではない。
「我々が残酷な戦争に赴いていると民衆が知る事が重要なのだ。見て見ぬ振りをさせる訳にはいかない。高賃金に釣られた市民に一生忘れられない体験を是非、させてやって欲しい」
トウカは頬に朱を散らせてメルベン大尉の肩を叩く。
アリアベルは、その言葉に息を飲む。
トウカは市民が遺体回収の役に立つなどとは考えてもいなかった。ただ、彼らが慈悲なき戦野の真実を知り、軍人の価値を認識する事こそが重要なのだろう。陰惨な光景を見れば反戦に傾倒するのではないか、という疑念はあるが、国民感情を操る事を厭わないトウカであれば上手く誘導するとも、アリアベルは確信していた。
何より皇国は侵略を受けた被害者の立場に在るのだ。然したる外交もなかったが故に、開戦の責任を負うべき立場にもない。残酷な光景を齎したのは帝国であると言い募る事は明白であった。
「明日を終えれば〈第一〇五師団〉の管轄区域は〈第一〇八師団〉に引き継ぎ離される。休養は二日だが、確りと休んで貰いたい。手狭だが兵士全員に個室を用意している。無論、酒もだ。嫌な事は酒精で押し流すに限る」
トウカは「勿論、憲兵も用意しているが」と付け加える事も忘れない。乱痴気騒ぎを起こされてベルゲン市民と軋轢が生じる事を皇州同盟軍も陸軍も望んでいなかった。
「その、閣下……」
「勿論、異性もだよ」
片目を瞑るトウカに恐縮するメルベン大尉。恐縮したのはアリアベルとリシアの視線を気にしての事かも知れない。
軍人という生死に関わる職業に携わる者が異性を求めるのは避け得ない生理現象であると軍は考えており、その対策は常に議論されていた。無論、内戦戦略を選択する陸軍は、戦地での性的暴行が自国民に対するものとなる為、多大なる危機感を以て対策に励んでいた。娼館との専属契約や娼館となる鉄道車両の整備。それに伴う法律や戦時規定の策定。特に軍の影響下にない異性との関係が情報漏洩に繋がると見て神経を尖らせていた。
対する皇州同盟軍は女神の島との連携に重きを置いており、性病の蔓延のみを警戒していた。情報漏洩に対しては軽度の警戒のみに留まっている。これはトウカの軍事知識に寄るものという以上に、帝国からの間諜の浸透を既に許している北部では、婚姻関係や軍属、関連企業などの防諜がより重視されるとの判断からであった。
皇州同盟軍で憲兵隊の割合が大きいのは、防諜の最前線であるからなのだ。
「……助かります。憲兵隊司令部まで部下を迎えに行きたくはないので……」
メルベン大尉の言葉に、部下の統制に苦労しているのだろうと、アリアベルは同情する。
低練度であるということは、大部分が新兵である事は疑いない。軍規や規律の絶対性を未だ理解し切れず、残酷な戦野に馴れず、戦場に栄光があると信じて疑わない新兵達。指揮統制に苦労する事は容易に察せた。
アリアベルもそうだった。
戦場に栄光というものがあると信じて疑わなかった。
栄光というものは演出された戦果に過ぎない。
栄光というものは梱包された戦火に過ぎない。
栄光というものは忖度された戦意に過ぎない。
強大な敵を撃ち倒したという事実自体は事象でしかなく、それをいかに扱う事で栄光とするかという点こそが栄光に繋がる。そして、事象は詐称や偽装も可能であり、それに基づいた栄光も例外ではない。
遺体収容作業を新兵にさせる行為は有効かも知れない、とアリアベルは思い至る。
人手不足や組織間配慮の産物というだけではなく、新兵が戦場を知るという意味では間違いなく、優れた実地研修と言える。軍に志願したからには、誰しもがその死に様を知られることなく、鉄火の海に沈んでいくという事実が横たわる戦場跡。それを見て受け入れられない者達は軍を去るだろう。実戦で泣き喚き部隊運営の負担となる余地を低減できるのであれば、十分な意義がある。
「さぁ、行こうか。視察なのだ。遺体回収のな」
遺体を見なければ意味がない。
夜の帳が降りる中、投光器によって大地を照らして作業する兵士達の姿は周囲に散見される。闇に視界が遮られても、投光器によって闇夜に浮かぶ人影は強調されて見えた。
夜間に作業するのは、昼間であれば陽光に晒されて腐臭を放つという名目がある。無論、死肉を啄む鳥類や野生獣を避け、泥濘の粘度が抑えられるという部分も関係している。細菌が活発になる気温を可能な限り避けたいという軍医総監からの意向も影響した。
「暫く肉料理は避けますか?」
「おいおい、あの内戦で嫌という程に見ただろう? 俺は気にしないし、そうしたモノに心を動かされる性質でもないらしい」
リシアの提案に、トウカは無用な気遣いだとばかりに否定する。
アリアベルは、人間種の未成年でありながら地方軍閥を成立させ、元帥号を国家に認めさせた上で数十倍を優に超える規模の敵国首都を焼き討ちしたトウカの過去を知らない。
人間種は心身共に脆弱な種族である。それ故に古の時代に多種多様な種族を生み出し、或いは招聘し、自らに成せぬ諸問題解決へと当たらせた。科学技術を纏い星海を支配した時代であっても尚、成せない事があった彼らは、やはり種族としては脆弱であった事を示している。
しかし、トウカはそうした気配を見せない。
「兵士達に関しては、腸詰めを夕食にするべきではないだろうが」
トウカの言葉にリシアとリットベルクが何とも言えない表情をする。本気と取るべきか冗談と取るべきか。
確かに種族としてみれは、他種族よりも劣る部分は多々あるが、常に自らの優位を確保してくる。太古の支配種族としての面目躍如とアリアベルは考えたが、アーダルベルトは違う見解を持っている。
――彼が次元漂流者……
有り得る話だと、アーダルベルトに聞かされても尚、アリアベルは納得できなかった。
次元の壁を超える事は容易ではない。漂流先が生物の生存環境であり、同時に漂流地点が安全であるという二点だけを見ても天文学的確率となる。前者の確率が低いのは勿論であるが、後者も引けを取らない。漂流位置が海中や高空であれば死は免れない。大地に漂着する例は稀有なのだ。それ故に次元漂流者が確認される事は稀である。水死や墜落死の遺体が次元漂流者であると確認できないという点もあった。衣類や装飾品のみで判断できる例もあるが、野生動物に遺体を持ち去られたり、そのまま発見者に埋葬される事もあり得た。
兎にも角にも、次元漂流者は生きて漂着し、生存環境が合致するという奇跡を経て成立する。
無論、人為的な要素が加われば別である。
――でも、そんな類の事象は……
一つある。
だが、その可能性はない。
あるはずの物的証拠がない以上、考慮しなくてもよい案件であり、得るべきものを得ずして斯様な戦果を挙げる真似は不可能と断言できる。
積み上げられた帝国軍将兵の遺体を見上げ、アリアベルは有り得ぬ可能性を一笑に付す。
周囲の者達が見てはいけないものを見たかの様に視線を逸らす。死山血河に満足したと勘違いされたと理解したが、同時に当初は眼前の地獄を自身が作り出す予定であったと思い直した。実行者が違えども祖国を護る為に必要な犠牲であった事に変わりはない。
周囲に散乱する遺体を避けながら、トウカが遺体の山へと近づく。
「まぁ、よくも殺したものだ。殺しに殺したるミナスの地、だな」
心底と呆れたと言わんばかりに遺体の山を見上げるトウカの背中に、アリアベルは畏れを抱いた。
積み上がる屍は今尚、増え続けている。
史上最大の戦死者を齎す男になるという確信があった。烈火の如き振る舞いのみによるところではなく、マリアベルが認めた継承者であるという理由もある。しかし、それ以上に彼が、敵の死を渇望していると知っているからであった。
「大尉、穴の規模が足りていないな。重機も追加で用意させよう」
「追撃戦に移行した事で工兵隊には余裕があります」
トウカの提案に、リシアが補足する。
帝国軍将兵の遺体は積み上がっている様に見えるが、地面を見れば穴を掘られた上で積み上げられている。当初は埋葬する心算であったが、掘削が間に合っていないという様子に、アリアベルは首を傾げた。当初の予定では、決戦時に運用した塹壕を墓穴とする筈であった。
「塹壕は既に埋まっている。何より、火力戦で埋め戻された部分も多い」
再び掘り起こすのであれば、遺体の近くを掘り起こして埋葬した方がいいという判断であると、アリアベルの疑問を察したトウカが口にする。
埋葬までもが効率で語られるという狂気。
遺体を見ても揺れなかった感情が揺らされたアリアベルは、胸元を押さえる。ヒトの狂気は戦争で常に垣間見えたが、組織がヒトの埋葬にまで効率を憚る事無なく持ち出す様は大御巫にとって衝撃的な出来事であった。内戦では双方共に自国民であった為、手厚く埋葬された事とは対照的な点も、そうした感情を助長させた。
「どうだ宗教屋? この遺体の山は天壌へと続く階になるか?」
「……天使に尋ねると宜しいかと」
天の階という概念は天使系種族の宗教概念であると明言を避けるアリアベル。遺体を積み上げて天壌に手が届き得るのかという言葉に、皇国に於ける宗教の頂点に立つ大御巫は明確な言葉を返せなかった。
アリアベルは、己の夢も遺体で作られた天の階の先にあったと理解してしまった。
幾千幾万の言葉を並べ立てようとも、亡骸の頂を超えた先にしかないモノをアリアベルは目指していたのだと思い知る。
戦死者が生じる事は致し方ないと、アリアベルは考えていた。戦争という免罪符は、その責任を曖昧とする。
アリアベルは周囲に視線を巡らせる。
積み上げられた遺体の山が、彼らの墓標そのものに他ならない。
「皇軍将兵の遺体に関しては故郷に帰してやらねばな」
トウカは無造作に穴の前に放置されていた遺体を蹴り落とす。硬直した肉同士がぶつかる鈍い音と金属装飾具の接触音。
口にした言葉と、動作に酷い乖離がある。
帝国軍将兵とは言え、それほどまでに辱める必要はない。死者は軍神の行く手を遮る手段すら持ち得ないのだ。
トウカの手元で金属音が響き、彼は大きく息を吐いた。
紫煙が肩越しに揺れる。
どこか懐かしい香り……直ぐに姉であるマリアベルの好んだ香りだと気付いたそれ、葉巻を咥えたトウカは、肩越しに視線を返す。
僅かな反発心を抱き、大御巫は軍神に問う。
「遺体まで憎むのですか?」
返ってきた紫煙交じりの答えは予想し得ないものであった。
「ああ、憎んでやるとも。子々孫々の永劫先まで一切合切悉くを憎悪してやるとも」
振り向きもしない背中には断固たる意志が宿る。
何故、そこまで他者の全てを憎悪できるのか。
アリアベルの予想を超えた次元で彼の理性と理論は構築されている。
強い衝動や感情こそが軍人に最も必要な要素であるとする者も居るが、トウカを見れば強ち間違いではないと察する事ができる。
溢れんばかりの敵意と飽くなき憎悪を以て、彼は敵と相対する。軍人であれば敵軍に対して敵愾心を持つのは当然であるが、トウカの場合は敵軍に属する、或いは構成する要素の悉くを殺戮する事を厭わない。それ程に徹底した人物は歴史上を見ても稀有である。
「彼らの望む戦争に俺は付き合っているに過ぎない。……そうだ、付き合っているのだ。これからも付き合ってもらわねば。泣き叫んでも。厭うても。嘆いても」
戦争という都合を押し付けられた事に、トウカは激怒している。
彼に取り、戦争とは押し付けるものであって押し付けられるものではないのだろう。
振り向いたトウカの峻烈な瞳に、アリアベルは気圧された。
戦意と殺意に構成された意思には存在感が宿る。
人間種でしかないトウカに、数多の高位種を従ったのは、そうした存在感に依るところなのだろうと、アリアベルは実感した。能力や才覚もあるが、彼には高位種すらも無視し得ない存在感がある。存在感……威圧感や印象、雰囲気……無形のナニカを纏う彼に、周囲の者達は腰が引けていた。
歩き出したトウカから距離を置くように一歩二歩とアリアベルは後退る。
遺体を積み上げた穴に燃料を軍用携行缶で注ぐ兵士達。
遺体の体積を減少させるべく火葬にするという効率性からなるものだけではなく、遺体が野生生物などに掘り返される事を危惧した為である。完全には難しくとも、大部分を炭化させるという判断が下された。
皇州同盟軍兵站部からの提案は的確なもので、埋葬方法や携わる兵士への配慮なども作業手順化されている。北部統合軍成立以前より帝国軍を塹壕線に拘束して漸減する事を基本戦略としていた彼らは、戦後の遺体処理も研究を行っていた。
燃料が注がれる様子を誰もが誰もが見守っている。禁忌が成される事を怯える神職の如き沈黙がそこにはあった。
ただ、トウカだけは背を向けていた。有機物による人工の松明の準備には興味すらないのだ。
「閣下」
「ああ、御苦労」
メルベン大尉の報告を早々に遮り、トウカは背後の遺体の山を一瞥し、手元の葉巻を圧し折る。
そして、葉巻を遺体の山へと投げ捨てた。
放物線を描いて投げ捨てられた葉巻は、揮発を始めていた燃料の気体に触れる。
忽ちに燃え上がる死者の頂。
囂々と燃え、天壌を焦がし始めた光景。付近に幾つもある遺体の山々にも点火が成され、幾つもの火柱がミナス平原の一角を照らす。
人体の油分が弾ける音を背に歩くトウカ。
羽織る軍用大外套の裾が炙られた夜風に揺れ、黒衣の軍装を命の灯が浮かび上がらせる。
アリアベルは、その姿に奇妙な畏れを抱く。
恐怖ではない、遭遇すべからざる者と遭遇したかのような感覚。
蛋白質の焼ける匂いの中、アリアベルは首を傾げた。
その時、トウカの胸元に提げられていた護符に罅が入ったが、気付く者は誰一人としていなかった。
可燃性のある液体の近くで煙草を吸うとか論外です。




