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紫苑穢国のエトランジェ  作者: 葛葉狐
第二章    第一次帝国戦役    《斉紫敗素》

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第二五一話    無数の死、一つの死 三




「ライネケ? 何処だそれは? 地図に記載されていないぞ」


 眼前で困惑する狸系種族の女性……ハルハ大尉は、地図を舐める様に見回して困惑の声を上げる。


 戦前は各地を飛び回った経験を持つ航空科である彼女をしても聞き慣れないライネケという地名は判断材料に乏しかった。何より各市町村からの救援要請は無数と来ており、処理数に於いて限界を迎えていると言っても過言ではない。ミナス平原決戦で大きく消耗した装甲部隊に変わり、再編成を終え得た装虎兵部隊や軍狼兵部隊……そして戦闘爆撃騎や地上襲撃騎からなる航空集団が対応しているが、対応能力を超えた事態となっている。陸軍は縮小が続く騎兵部隊まで動員して半ば匪賊化した帝国軍を掃討し続けていた。


 決戦での大敗一つで、敗残兵が僅かな期間で匪賊となるなど予想外も甚だしい。


 挙句に、追撃戦の本格化とエルライン回廊に対する空中挺身作戦の同時進行は、現有兵力の大部分を投入する事となった。


 エルライン回廊奪還による閉塞と迫撃戦による主力の包囲で敵主力を確実に捕殺するという作戦は帝国軍主力を撃滅するという観点から見ると間違いではない。


 だが、余りにも能動的な戦闘は、ミナス平原から敗走する帝国軍将兵の少なくない数を皇国軍後方へと追い遣った。急激に押し上げられた皇国軍の前線が帝国軍の敗残兵を飲み込んだのだ。


 その帝国兵による市町村や輜重部隊への襲撃行動が相次いでいる。否、襲撃行動という程に軍事的な者ではなく、途絶えた兵站を補填するべく……空腹を癒すべく食糧を略奪しているのだ。帝国軍の侵攻路から外れた為、避難しなかった市町村や、そもそも避難を拒否した市町村、避難の間に合わなあった市町村からの救援要請が錯綜する状態である。


 皇州同盟軍と陸軍による合同参謀本部もこれに対処するべく、多段化させた濃密な航空偵察網を強いて敗残部隊を捕捉。航空攻撃による撃破と陸上部隊による攻撃を行っているが、分散した敗残部隊の捕捉撃滅は容易ではない。元より総数すら不明なのだ。


 航空攻撃の脅威を学習したのか、敗残部隊と森林などで遭遇した例も見受けられる。その場合、航空索敵は木々という障害物によって遮られて見逃す可能性が高い。


 軍事地図には多種多様な情報が書き込まれているが、状況は複雑化し過ぎて地図の情報は意味を成さない有様である。誤報も相次ぎ、遭遇戦による混乱もあった。


 皇州同盟軍と陸軍の航空参謀は不眠不休で事に当たっていた。


 総司令官であるトウカは、これらに戦力を割く事を許したが、分散した敗残兵の遍在性に対応部隊は苦しんだ。当初の予定ではミナス平原で帝国軍主力を包囲殲滅戦に成功していた筈なのだ。挙句に門閥貴族による増援まで現れ、戦場は当初の計画から予備計画による軍事行動が行われている。


 予備計画こそが、迫撃作戦とエルライン回廊閉塞作戦である。


「無理な短期決戦の弊害だ」


 確かに敵軍主力の撃滅は容易だが、敗残兵を取り零しながらの軍事行動である事には変わりない。


 包囲殲滅が遅延した場合、帝国軍が指揮統制を回復させて遅滞防御に移る可能性があった。統制された遅滞防御を成された場合、帝国軍の一部は撤退に成功するだろう。トウカはそれを許容しない。部隊壊乱と士気崩壊に付け入る形でエルライン回廊近傍で再び包囲殲滅戦を実施しようとしていた。


 大きく減じた帝国軍主力をエルライン回廊近傍で捕殺。敗残兵はその後に撃破していけばいい。短期間であるが故に市町村の被害を許容したのだ。軍の被害を低減し、北部奪還を迅速に行うという点ではそれは正しい。陸軍は敗残部隊の放置に難色を示したが、トウカもエルライン回廊近傍での包囲殲滅戦に向けた輜重線確保の必要性から残敵掃討に戦力を割く事という妥協を認めた。


 しかし、数が足りない。陸上も航空も圧倒的に数が不足していた。


 陸軍と皇州同盟軍の連携不足……編制間もない皇州同盟軍内での連携不足すら表面化している。

否、後方の残敵掃討であるが故に二線級の部隊が充てられたのだ。実戦経験と実力証明された部隊はエルライン回廊近傍の包囲殲滅戦の為、進軍の最中にある。


「狐種の隠れ里だそうです。大隊規模の敵に襲撃を受けていると」


 眦を避けた困惑顔の飛行兵は自らが航空輸送した通信筒の内容に首を傾げている。


 鼬系混血種の青年一等飛行兵にも詳しい実情は伝えられていなかった。


 ライネケは天狐族の隠れ里として未だに公式記録には記載されていない。有名無実化しつつある秘匿性だが、存在を知るのは貴族や軍高官に留まっていた。交流がない以上、民間に流布する事は未だなく、軍に於いては下層に位置する二人も名を聞いた事すらなかった。


 種族保全の為、長年守られてきた秘匿性が天狐達を危機に追い込みつつあった。


「大隊規模? 大きいな。優先順位としては高いが……」


 軍事地図に記載されていない地名に唸りつつも、ハルハ大尉は敗残部隊にも関わらず大隊規模戦力を有している点を気に掛けた。大規模でも中隊規模、大部分は小隊以下という数で敗走している例が総てであった中、大隊規模というのは気を留めるに十分なものがある。大隊規模であれば準備のない小都市を陥落し得る戦力と言えた。


「しかし、場所が……上申するが……」どうなるかまではハルハ大尉にも想像がつかなかった。


 一般的な感性に基づけば、通信網が整備され、航空郵便が飛び交い、鉄道網により圧倒的な輸送量を実現した近代に至って尚、隠れ里というものが存在し続けているのかと考えるのが普通である。利便性向上に伴い、不便な土地は廃れる運目にある。宗教や種族に依る理由で存続しても、鉄道や通信網が敷かれず、飛行場が建設されない理由とはならない。


 市町村が孤立を続けるには、近代の技術発展は万能に過ぎた。


 それでも尚、隠れ里としての姿勢を崩さなかった天狐族の努力は端倪すべからずるものがあるが、マリアベルを始めとした一部の貴族や政治寄りの人物達には知られていた。


 歴史上、公式に天狐族の隠れ里の名が出たのは、トウカが皇州同盟成立時に言及した帝国軍の浸透による高位種に対する漸減行動の最中であった。しかし、それは皇州同盟軍成立の衝撃の前に消え失せた。北部が自前の軍事力を保持し続ける理由の一つとされたライネケだが、同時に諸問題の一つに過ぎなかったのだ。


 苛烈な行動の陰に隠れた問題や改変は無数とある。


 少なくとも民間や軍の大部分がライネケという村落を意識する事はなかった。ハルハや飛行兵も例外ではない。


 大規模な戦域を統制するには、未だ航空管制は未成熟であり改良の最中に在った。そこに北部の政治情勢までもが加わり、ライネケへの支援は遅延する事になる。

 









「襲撃行動ぅを取れぃ!」


 絶叫するラムケの命令一つで、旧マリエンベルク城郭を起点に陣地防禦を行う帝国軍……〈エルライン回廊守備隊〉への総攻撃が開始される。


 野戦砲の運搬を待たずにラムケは〈特設降下猟兵師団〉師団長として強攻を選択した。


 野戦砲の未配備を補うべく編制された魔導資質に秀でた高位種魔導士による魔導砲兵大隊が魔導砲撃を行い、その下を降下猟兵達が銃剣突撃に移る。膂力に優れた種族の脚力は迅速な突撃を可能とするが、その速度は機関銃弾に勝る訳ではない。


 血飛沫を上げて斃れる無数の降下猟兵。


 しかし、〈エルライン回廊守備隊〉の機関銃陣地にも等しく死が訪れる。


 魔導砲撃による効力射が無数に着弾し、炸裂音と城壁の残骸を撒き散らして宙を舞う。帝国軍兵士。


 帝国軍も野戦砲を配備していたが、それが〈特設降下猟兵師団〉に指向する事は極稀であった。事前の近接航空支援と戦術爆撃によってマリエンベルク城郭跡地に展開していた野戦砲や物資集積所、守備隊司令部、弾火薬庫などは甚大な被害を受けている。エルライン回廊近傍の飛行場を〈特設降下猟兵師団〉が占領している中、数百という航空騎が地上攻撃を行ったのだ。残存した機関銃陣地ですら少数で、態勢の立て直しの時間すら〈特設降下猟兵師団〉は与えなかった。


 被害を推しての強攻であるが、態勢を立て直されては本質的に軽歩兵に等しい降下猟兵の犠牲は増大する。戦略爆撃騎や輸送騎で野戦砲や重迫撃砲も追加輸送されてくる手筈であるが、ラムケは敵の混乱に付け入る事を選択した。


 そこには混乱に乗じて突入を果たせば、近接戦闘は圧倒でき、優位を確保できるという確信があったからである。


 戦闘技能に優れた者を中心に選抜された降下猟兵は鋭兵にも劣らない近接戦闘能力を持つ。


 降下猟兵の先鋒を務める〈第一降下猟兵大隊〉が〈エルライン回廊守備隊〉の陣地へと突入を始める。


 国際基準から見れば異様な刀身長を持つ銃剣を装備した小銃を手にした降下猟兵は槍を扱う様に帝国軍兵士を刺殺する。塹壕内では取り回しに難のある長銃剣を彼らは扱い切っていた。本質的には槍ではなく、刀の柄を延伸させた長巻という武器に近い運用が成される。


 突く、斬る、薙ぐ、という刀剣で行われる全ての戦技を行える利便性から採用された長銃剣は、トウカが塹壕内での取り回しを懸念したが、ラムケが押し通して認めさせた武器でもある。


 兵力差や魔術的な防護手段の発達から、帝国軍との近接戦闘は近代に入っても軽視し得ない程には行われている。故に皇軍将兵は近接武装に拘りを見せ、独自裁量で自前の刀剣を佩用する事も珍しくない。士官などが初任給で自身の刀剣を購入するのは皇国軍の伝統である。今期は軍刀拵えの太刀が人気を博していた。


 敵兵の腹に突き刺し、斬り払う様に抜いて蹴り倒す降下猟兵。

 突き上げる様に刺殺し、敵兵を地面に叩き付ける降下猟兵。

 直線に付き出して喉を一息に突き刺して絶命させる降下猟兵。


 しかし、一番多いのは確実性のある胴体中央への刺突であった。心臓を始めとした重要な臓器が密集する部位への攻撃は近接戦闘の基本である。全軍の軍装に防刃、防弾術式や対衝撃術式の様な防護形式を採用しているのは皇国軍以外に存在しない。帝国軍に限っては基本的に個人防禦術式は魔導部隊や魔導騎士に限られていた。


 近接戦の優位は揺るがない。


 忽ちに〈エルライン回廊守備隊〉の壊乱が始まる。逃げ惑う敵兵に追い縋り、背中に銃剣を突き立てる降下猟兵も居れば、小銃弾を撃ち込む降下猟兵も居る。中には小銃弾を撃ち尽くしたのか、或いは新たな装弾子(クリップ)を叩き込んて槓桿(コッキングレバー)を引くのが面倒と感じたのか、長銃剣の装備された小銃を投げ槍の様に投擲する降下猟兵も見受けられた。


 尤も、最大の活躍を見せているのは短機関銃である。


 太鼓型弾倉(ドラムマガジン)を装備した場合装弾数は一〇二発であり、高い火力を降下猟兵達に提供した。個人が機関銃並みの火力を銃撃戦で発揮できる強みは帝国軍を圧倒する。投射量の違いは近接戦闘でも皇国軍に優位を齎した。


「勝ったな……他愛ぃない」


 双眼鏡越しの戦況にラムケは満足する。


 軽装甲車輛の上からの景色では全体を把握できないが、優位である事が明白である程度には圧倒している。危険だと車内から降車を促す副官の頭を足蹴にし、ラムケは通信機を寄越せと返す。


「前進すぅる! 司令部直率の中隊も出すぞぉ!」通信機に怒鳴るラムケ。


 各指揮官の命令の下に前進命令が響き渡り、周囲の将兵が蛮声を張り上げ、前進を開始する。


 兵数に劣れども、元より大規模な襲撃がないと油断していた相手に痛打を与え、混乱している中に突入するのだ。諸々の要素も皇国軍の賞賛を押し上げ、事ここ至ってラムケまでもが前線に姿を見せる。士気は向上し、例えラムケが戦死したとしても副師団長が仇討ちとばかりに強攻を継続するだろう。


 それは倍の戦力差を覆し得る強攻である。


 一切合切の降下猟兵達が旧マリエンベルク城郭へと殺到する。


 機関銃分隊や狙撃兵も例外ではない。軽歩兵の不足する火力を戦意と技能で補う事を矜持とする降下猟兵達は血の饗宴を開始した。


 二日間の熾烈な白兵戦の末、皇国は国境線を回復する事になる。


 その宣言は帝国を更なる窮地に追い込むことになった。










「姫様……」


 己が姫騎士の憐憫の視線に煩わしさを感じつつも、大御巫は無表情を貫く。


 アリアベルは己に軍事的資質がないと理解しているが、それは戦略規模の話で騎兵聯隊を率いて残敵掃討を行う程度は可能であると考えていた。アーダルベルトもエルライン回廊に対する空中挺身に参加している為、遮る者は居ないとベルゲン近郊に展開していた神祇府直轄の〈神殿騎士聯隊〉を率いて残敵掃討に向かおうと考えていた。


 結果、ハルティカイネン大佐の鉄拳を受けた挙句、留めに軍靴の蹴りを受けた。


 護衛でもあるエルザが止める間もない出来事であり、起きて以降も機関拳銃の銃口に遮られて護衛はその役目を果たせなかった。士官と言えど、大型拳銃の中でも一際大きい機関拳銃を携帯している者は少ないが、リシアは少なくともその細腕で十分に扱っていた。


 トウカはアリアベルの勝手を許さなかった。


 否、宗教屋が戦争屋と同じ舞台に立つ事を認めなかったのだ。


 彼は神祇府の権勢が増す事を望んでいない。寧ろ、警戒している。そして、それは七武五公も同様である。アーダルベルトもアリアベルの行動に掣肘を加える事を望み、リシアとの連携があったと予想される。そうでなければ大御巫を殴り付ける事などできはしない。


 ――あの情報参謀……素性が不明なのが気に入らない。


 腫れ上がった頬を抑えて唸るアリアベル。


 治療をしたいところであるが、リシアが「その無様な顔なら外に出れないでしょう?」と口にして衛生魔導士を呼ぶ事も許さず、当人が魔術で治療する事も許さなかった。形だけとはいえ皇州同盟軍の盟主として君臨するアリアベルはその扱いに憤怒を抱いたが、同時に自らが皇国に於ける主要な権力者と距離がある事を思い知った。異様な若さの佐官に殴り付けられたのだ。嫌でも自らの孤立を痛感させられた。


「爺や……御免なさいね」


 実質的な指揮官として、内戦での傷の癒えたリットベルクを指名しようと目論んでいたアリアベルだが、彼自身もまたアリアベルが戦争に関わる事に肯定的ではなかった。


「復帰開けの戦で軍神殿の不興を買うのは得策ではありませんな」


 苦笑する紳士にアリアベルは返す言葉がない。


 アリアベルは最近のトウカの危ういものを感じていた。


 軍神は己の本心を隠さなくなった。否、以前も隠していなかったが、嘗て以上に己の意思を明確にするようになった。遠慮がなくなり、己の戦功が空前絶後のものであると自覚した上で武断的な意見を前面に押し出すようになったのだ。


 政治の軽視などという生易しいものではなく、皇州同盟主導で北部の主要産業を軍需にして軍需産業で経済を立て直すと宣言する程の増長ぶりである。常に祖国が戦火に晒されている訳ではないと諫言する者に対し、「隣国に他大陸。戦火は世界中に散らばっている。視野を世界に向けろ」と言い放つ始末であった。


 軍需企業は戦時下の最中であるにもかかわらず、トウカに面会を求めて殺到していた。戦後を見据えた取引であるが、当人は「戦時下に兵器生産を行う企業への配慮は当然」と取り合わない。


 皇国陸海軍が購入せずとも共和国が購入すると見込んでの事であるのは疑いない。共和国も喜び勇んで応じるだろう。帝国との戦争は共和国がより頻繁に行っている。エルネシア連峰によって国境の大部分が閉塞された皇国と違い、帝国と共和国の国境は大部分が平原である事から紛争も絶えない。


 これはトウカの方針変更であるとアリアベルは見ていた。


 地方軍閥が法的に制限を受けていない事に目を付けて、一度皇州同盟軍が軍需企業から兵器を購入し、共和国に売却する事で企業の兵器輸出制限を回避しつつ共和国軍を増強。共和国軍と共同で帝国へと侵攻する事を意図しているのだ。


 共和国方面で攻勢があれば、エルライン回廊からの侵攻も容易となる。共和国支援という名目があれば皇国政府を“説得”する為、共和国政府が皇州同盟に肩入れする事は間違いない。否、皇国軍自体を戦列に加えようと参戦を皇州同盟と共に要求する可能性とて在り得た。


 皇国陸軍による帝国侵攻がなくとも、疲弊した中で再び二正面での戦争を強いられる帝国が相手であれば皇州同盟軍にも勝算が見えて来るとの判断かも知れない。


 アリアベルはトウカ程に軍事に詳しくないが、トウカが共和国を政戦に巻き込んで帝国侵攻の勝率を向上させるという目的がある事だけは察せる、皇国陸軍ではなく共和国陸軍を当てにした帝国侵攻を意図しているのだ。共和国への航空艦隊派兵も視野に入れているかも知れない。共同侵攻が実現すれば、規模からみて皇州同盟軍は助攻なのだ。


 皇州同盟軍参謀本部の動きを見れば、それが事前方針として皇州同盟で裁可を受けたものではない事は明白だが、共和国との接近を遮るだけの材料を皇国政府は持たない。


 帝国との熾烈な戦争を頻繁に行う共和国は疲弊も激しく、盛んに軍事行動を含めた支援を皇国に求めていたが、皇国政府は帝国を刺激する事は得策ではないと拒否していた。そうした中で皇州同盟が軍事支援や兵器売却、共同侵攻を持ち掛ければ容易に協力体制を築ける事は疑いない。共和国は皇州同盟軍の優れた軍事技術や装甲戦力、航空戦力を渇望している。


 アリアベルは、トウカ個人による政治が皇国政府全体の対応力を優越していると考えていた。トウカの決断力が天帝不在の皇国の意思決定速度を優越し、国益最大化を実現するのであれば、それもまた致し方ない。



 決断力のない君主は、当面の危機を回避しようとするあまり、多くの場合中立の道を選ぶ。そして、大方の君主が滅んでいく。



 天帝不在で中立を維持できる程に皇国は政治に統制がある訳ではない。


 危険ではあるが、少なくとも彼は国家を護り、国益の最大化と国力増強に熱心である。


 協力する事も吝かではない。


 そう考えていたが、トウカにとりアリアベルは、本来であれば連携すらも脅威になる存在であったのだ。


 宗教は組織を侵食する。


 リシアが吐き捨てた一言は、トウカの心情そのものであった事は疑いない。


「致し方ありません。今は有事です。神殿騎士団の指揮権を皇州同盟軍に委譲します」


「前代未聞ですな。まぁ、妥当なところでしょう」リットベルクは賛意を示す。


 彼からすると宗教家が軍事力を有している事自体が脅威なのです、と端的に解説するリットベルクもまた軍人として、宗教が軍事介入の選択肢を有している事に嫌悪感を示していた。近衛軍大佐となる以前は、クロウ=クルワッハ領邦軍騎兵参謀や陸軍騎兵聯隊長を歴任した歴戦の勇士であるリットベルクも、宗教が有する露骨に政治的干渉の為に在る戦力を否定的に見ていた。政治への武力介入の為にある戦力という側面は、真っ当な軍人達からすると不愉快なものでしかない。武装蜂起(クーデター)を意図した戦力としか見えないのだ。


「騎兵があれば残敵掃討も進むでしょう。護衛は一人居れば十分です」


 アリアベルはエルザを一瞥し、近衛騎士は大御巫に一礼する。


 戦火の遠ざかったベルゲンは平穏に包まれている。


 市庁舎の一角に用意された一室に籠る三人にできる事は、政戦の行く末について議論を重ねる事だけであった。神殿騎士団は内戦や今次戦役で被害を受けたベルゲン市内の修繕や処理に従事しているものの、元より軍隊というよりも武芸者の集まりに近い騎士達は陸軍工兵隊の様に活躍しているとは言い難い。


「神祇府の騎士団も解体します。……恐らく、それが私の最後の職務となるでしょう」


 戦後、神祇府が政戦に介入した点が問題視される事は疑いなく、しかしながら神祇府が果たした役割は余りにも限定的であった。帝国の陽動に引っ掛かり、内戦で敗北し、今次戦役では大御巫という誘引材料程度の働きしかしていない。功罪相殺という当初の思惑を実現する事は困難であり、戦後を見据えるならば組織体制へ介入される余地を最小化せねばならない。アリアベルの退任に加え、武装放棄は最低限であるが、それでも尚、足りなかった。


 無数の権利と思惑が複雑に絡み合い、神祇府の処遇は先の見通せないものとなっていた。


 アリアベル個人の責任を問う声は神祇府内にこそ大きいが、逆に皇州同盟や七武五公には少ない。これは後者が組織そのものの責任とする事で神祇府の解体、乃至細分化を意図しており、前者がそれを避けようと組織の責任となる事を避けようとしているという経緯がある。


 どの様に転ぶかは現時点で不明であるが、少なくとも皇州同盟や七武五公が神祇府に失点を取り返す真似を許さない点だけは、残敵掃討を認めない事で明白となった。


 窓越しに窺える編隊を見上げ、アリアベルは溜息を一つ。


 落ち着いた調度品に満たされた部屋だが、己の心の内を反映してか今は無機質に思える。街中の雪が消え失せ、ミナス平原も泥濘に覆われつつあるが、アリアベルの胸中には未だ雪華舞う姿が焼き付いていた。決戦前のミナス平原に展開する皇州同盟軍部隊の閲兵を行って以降、アリアベルはベルゲンより一歩も外へ出ていない。


 アリアベルは両手を広げて鈍った身体を伸ばす。


 活気を取り戻したベルゲンの光景にも些か飽いたアリアベルは、小さく微笑んで片目を瞑る。


「……身体が鈍って仕方がありません。散歩に行きましょうか?」三人で、とアリアベルは付け加える事も忘れない。


 老紳士と女騎士が顔を見合わせる。


 そこに賛成の色は見られないが、アリアベルとしてはミナス平原周辺は既に安全が確保されていると宣言されている為、危険はないと見ていた。民間建設企業による街道の補修が行われている事からも帝国の脅威が解消された事が見て取れる。


「私は爺やの娘よ。そして、エルザの姉」


「ふむ、当官は未婚の老紳士なのですがね……」


「こう見えましても、小官は年長者なのですが……」


 リットベルクとエルザが不平を零すが、アリアベルの行動を止め得ないと判断したのか嘆くばかりで行く手を遮ろうとする動きはない。


 千早を脱いで近くの椅子の背凭れに掛け、机に立掛けていた軍刀拵えの曲剣(サーベル)を佩用するアリアベル。大御巫としての冠位を示す瀟洒な象意の千早さえ脱ぎ去れば、一般的な神殿の巫女と変わりはない。儀式用の前天冠と冠位を示す千早がなくなれば一般的な巫女と違いは見受けられない。

 顔を隠す為、壁に掛けていた市女笠を手に取り被ると、垂衣(たれぎぬ)……垂れ下がる白色の薄布を整える。元より外出する心算だったのだ。


「本当にそれで隠し遂せるとでも?」心底と汚らわしいものを見るかのようなリットベルク。


「少し露呈する程度がいいのですよ」


 アリアベルには“若しかして”や“或いは”という可能性を抱かせて誰何を躱そうという目論見があった。皇州同盟軍であれば、規律と規定に厳しい憲兵隊が交通要所の警備を担っている為に難しいが、大部分は陸軍歩兵部隊の管轄となっている。陸軍憲兵隊も動員が進んでいるが、陸軍憲兵隊は元より大部分が野戦憲兵であり、戦時下の今では致命的なまでに数が不足していた。未だ一部が招聘以降行方知れずの次代天帝を捜索しているという理由もある。


 二人に上着を脱ぐように指示するアリアベル。


 完全な変装では逆に怪しまれ誰何を受ける。そうなれば再びリシアから鉄拳制裁を受ける事になる。


 リシアは大御巫の権威や周囲の視線など気にも留めない。北部出身者は他者を憚って意見や行動を止める事を恥じる傾向にあるのだ。その程度で止め得る程度の意思であると周囲に思わせる事を彼らは酷く嫌う。他地方からの迫害の歴史が彼らを苛烈にした。


 アリアベルは内戦で思い知ったが、物理的に思い知ったのは初めてである。


 いそいそと上着を脱ぐ二人だが、そこで部屋の扉が叩かれる。


 どうそ、とアリアベルが入室を促す。部屋前には神殿騎士団の精鋭が詰めているので、為人怪しからざる人物が通される事はあり得ないが、訪れる者の名を告げないのは怠慢である。



 入室してきたのはリシアを従えたトウカであった。



 ヴェルテンベルク領邦軍時代から変わらぬ漆黒の第一種軍装に、黒の外套(マント)。佩用した無骨な無銘の軍刀に、鞍型(ザッテルフォルム)の天頂部が高い軍帽。金色の将官飾緒に、それと繋がった象意の肩章(エポーレット)という佇まいは死神に様に見える。


 そして、右胸の衣嚢(ポケット)の端に縫い留められた桜の象意が施された華簪。


 アリアベルは、今は亡き腹違いの姉からの威圧感を受けた気配に襲われて視線を逸らす。


 マリアベルの権力の大部分はトウカに移譲されたが、その遺志までもが移譲された事は近頃の言動から明白である。皇国北部は己が意思によってのみ存立と喧伝している点を見ても理解できた。


 アリアベルは、トウカの急進的な意見を国家に帰属していないからであると考えていた。


 軍閥という軍事力のみに依存した権威を以て統治を行う組織だけに属するからこそ、自らの意見を軍事力に依って通す事に傾倒する。トウカ個人の軍事的資質のみが行動可否の示準となってしまっているのだ。


 だからこそ、トウカを国家統制の下に組み込まねばならない。


 軍閥とは違うものの、宗教という権威を頼りに軍事行動を起こしたアリアベルだからこそ、政治力の不足を軍事力で補う危険性を理解していた。一度、軍事行動で大敗しただけで総てが崩壊しかねないのだ。乾坤一擲による失敗が一撃で滅亡を招く可能性。軍事力にみによって存立する組織は、軍事力の低下によって衰亡する。トウカの博打の如き軍事行動が今後も成功し続けるとは限らない。



 個人であれば、「正義を行わしめよ、例え世界が滅ぶとも」と言い訳をするかも知れない。しかし国家には、その管轄下にある人々の名に於いてその様に主張する、いかなる権利もないのである。



 自らの成立させた軍閥を掛け金に、投機的な軍事的冒険(ギャンブル)に興じるトウカは何ものにも縛られない。それは極めて危険な事である。


 だからこそトウカは国家に属するべきである。国家という広大な裾野を持つ組織を背景にしてこそ余力と選択肢の増加を実現できる。そうなれば、軍事的冒険を最低限に留める事もできる上に、一度の敗北で必要以上に崩れる事もない。


 法治国家という厳格な制度に裏打ちされた枠組みの中でこそ、軍人は継続的に力を発揮できるのだ。無論、皇国が数百年に渡り北部を放置し続けた経緯を踏まえれば、トウカや皇州同盟が国家の統制を受ける筈もない。法治国家ならぬ放置国家という有様であった事を考えれば、北部の感情は短期間で解決するものではなかった。


 北部は総てに不信感を抱いている。だからこそ、何者もの統制を拒むのだ。


 その急先鋒であるトウカは、至って穏やかな表情でアリアベルへと問いかける。


「感心しないな。そうまでして外に行きたいのか?」


アリアベルは顔を引き攣らせて、室内を見回す。


 どこから企みが漏洩したのかと諸悪の根源を探すが、魔術的に怪しい物品は見受けられない。魔術による盗み聞きを許す程にアリアベルの名は、魔導に於いて軽い名ではなかった。


「御前は魔術に敏感だから有線を引いている」


 有線による盗聴であると端的に口にするトウカ。隠す心算すらないのだろう。背後のリシアも表情に変化はない。情報参謀にとっての規定事実を意味した。


「御暇なようで重畳です」


「馬鹿を言え。俺は程度の低い政治漫談など聞いてはいない」


 不穏な言葉があった場合、トウカに情報部が報告するという手筈であろうと察したアリアベルは、頬を膨らませてみせる。心底と蔑んだ表情のリシアが印象的であった。


「行くぞ」


「???」


「外だ。行きたいのだろう?」


 そんな間の抜けた服装は止めておけ、とトウカは外套(マント)を翻して部屋を去っていく。リシアもまた「護衛は此方で用意します」と口にしてトウカの後を追う。


 後に残された三人は顔を見合わせ、元の服装へと戻る為に上着を手に取った。





 決断力のない君主は、当面の危機を回避しようとするあまり、多くの場合中立の道を選ぶ。そして、大方の君主が滅んでいく。


                《花都(フィレンツェ)共和国》 外交官 ニコロ・マキアヴェッリ




 個人であれば、「正義を行わしめよ、例え世界が滅ぶとも」と言い訳をするかも知れない。しかし、国家には、その管轄下にある人々の名に於いてその様に主張する、いかなる権利もないのである。


                独逸系亡命亜米利加人 国際政治学者 ハンス・ヨアヒム・モルゲンタウ




仕事がろくでもない状況で執筆意欲が下がりますね。駄目だとわかっているのに、上の都合のいい言葉を鵜呑みにした振りをして破滅に進む。大戦末期の日本がまさにそうだったのでしょうね。「和を重んじる」や「協調性」の建前の下に状況悪化を座視する。失うのがは時間か資源か……それとも人命か。決断力なき指揮官こそが組織の敵であ事を未だ日本人の多くは学んでいないと見える。400万の犠牲では足りなかったのだろう。罪深い事だ。


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