第二五〇話 無数の死、一つの死 二
「まだ引かないか。既に二〇〇は始末している筈だが……」
酷く呆れた声音で眉を顰めるシラヌイの背中を、ミユキは呆けた顔で一瞥する。
帝国と皇国では人材に張られた値札の数字が大きく違う。それをミユキは嫌という程に理解していた。見るに堪えない画像が添付された戦闘詳報を、夕飯を口に運びながら目を通しているトウカが恋人なのだ。ミユキも帝国の価値観を理解ぜざるを得なかった。
「総てに見捨てられたヒトが常識的な判断で動くとは限らないってこと?」
「敗走の挙句にエルライン回廊も閉塞されるときた。絶望しかないだろうね」
反攻作戦通りに行われている複数の大型騎による通信妨害によって両軍の通信網は絶大な制限を受けている。皇国軍も短距離以外の通信が妨害されて指揮統率に支障が出ているが、連絡騎の大量投入によってそれを補っている状況であった。絶対的な航空優勢の確保が可能とした情報伝達手段であり、通信よりも時間差が大きいものの、決戦に於ける勝利によって個々の部隊による迫撃と残敵掃討に移りつつある皇国軍には致命的な問題ではなかった。
しかし、敗走中の帝国軍には致命的な問題であった。
連携しての後退と合流が困難となり、秩序だった後退ができない為、各所撃破されつつあり、加えて閉塞作戦が実施されているエルライン回廊を目指して後退を続けている部隊が大多数を占める。エルライン回廊が閉塞に成功した場合、近傍まで後退してきても退路は断たれたに等しい。挙句にエルライン回廊から撤退せざるを得ないという事実は、そこに戦力が集中せざるを得ないという事でもある。皇国軍は、エルライン回廊近傍に多数の偵察騎を割いて索敵行動を実施させていた。
蟻地獄の様にエルライン回廊近傍で帝国軍将兵は捕殺されるだろう。
そでなくとも通信が不可能となり敗走の中で放置されたとなれば見捨てられたと考える者は少なくない筈である。実情として、〈グローズヌイ軍集団〉の編制による遅滞防御で少ないながらも……一〇万名程度がエルライン回廊閉塞作戦開始の前に帝国本土に逃れた。帝国は劣る装備と指揮系統の中、可能な限りの撤退戦を行っていると言える。
だが、それはトウカの殺意を優越するものではなかった。
熾烈な迫撃と残敵掃討によって次々と削り取られる様に帝国軍将兵は戦死している。その数を帝国軍は正確に把握していないが、皇国軍は連絡騎などからの情報を統合して大凡ながらも推測していた。
迫撃に関しては各部隊の野戦将校の指揮に一任されているが、皇州同盟軍は部隊を大隊規模に分散させてより積極的な追撃戦を展開していた。一部では有力な部隊と遭遇して後退する部隊も出ているが、全体で見た場合、損耗率は帝国軍が遥かに大きい。
帝国軍の敗走している部隊は、度重なる軍狼兵部隊や狙撃猟兵部隊の接触を受け、航空攻撃の脅威にも晒されて疲弊している。落伍する兵士も多く、決戦の敗北で喪った兵士が多数に上る中で更に兵士を喪いつつあった。
上官への反攻による抗命による銃殺もあれば、上官を射殺するという例が幾つも報告されている。
そうした中で合理性だけを頼りに戦い続けられる者などそうはいない。敗走の中で敢えて撤退ではなく更なる戦闘を行っている以上、相応の理由があるとミユキは見ていた。ミユキ自身、何故に逃げ出さないのかと疑問符が幾つも頭上を舞っていたが、分からないなら仕方がないとの割り切っていた。
「おとさん」一歩進み出たミユキ。
「……ミユキか」眉を限界まで顰めたシラヌイは尻尾を一振りする。
鋭い眼光に以前なら身を竦めたであろうが、今のミユキは恐れる事などなかった。意外な事に、当人もその理由を理解していなかった。爵位か権力か、或いは航空散弾銃の銃把を握り締めている所為か……トウカの苛烈無比な姿勢に影響を受けたのか。キュルテンの囁く様な笑声だけが響く。
「えっと、無様な戦争をしてるね?」満面の笑みのミユキ。
堪え切れずげらげらと笑い声をあげるキュルテンに、ヴィトゲンシュタインは俯いている。高位種に唾吐く行為であると顔を伏せて見なかっ事としているのか、或いは思わず緩む顔を見えぬ様に隠しているのか。思わず近付いて覗いてみようとするミユキだが、狐耳を引っ張られて断念した。
「御前な……常識的な戦争をしているのだ」呆れ顔のシラヌイ。
「敵も味方も一杯死ぬ戦争? 駄目だよ。するにしても一方的なものじゃないと割に合わないんだよ」ミユキは唇を尖らせる。
トウカ曰く虐殺と呼ばれる程に一方的な被害比率である事が望ましいのが戦争なのだ。甘え意にも一方的で諸外国から非難が出るくらいが上出来である。
「郷土を背にして戦うのだ。逃げるなどという選択肢はない!」シラヌイが机を叩く。
案内された部屋にいる狐はミユキを除けば、シラヌイを含めて五人。誰もが二人の遣り取りを不安げな表情で見ている……という事はなく、内戦時のトウカとシラヌイの争いがある為、何処か白けた雰囲気が漂っている。
戦況を見れば押し込まれてはいるが、敵にも甚大な被害を与えており、縦深をある程度は確保している。上空から見た戦況をキュルテンから受けたミユキの所感としては、内戦時に襲撃を受けた事を受けてそれなりの防備はしている様子があった。十分な規模の阻害で銃身を確保し、敵歩兵部隊の躍進が停滞したところに砲撃魔術を連射するという単純な防護手段であるが容易でもあった。屋敷に案内されるまでに聞き出したところによると、周囲の森にもどこからか入手した鉄条網や木材を組み合わせた阻害を配置して拘束した敵部隊を魔術で遠距離から漸減している。基本的に兵力差からなる不利を顕在化させない為、遠距離からの魔術攻撃を行う事に特化した陣地を構築していた。
上空から見ても確認できるが、何処かに観測を兼ねた天狐が潜み、何かしらの情報伝達手段も講じている。砲撃魔術自体も迫撃砲の様な曲射弾道による攻撃で、大多数の天狐は塹壕に隠れ潜んでいた。
素人の発想だとミユキは考えた。
少しトウカや士官学校で学んだ程度だが、戦史を見れば分かる通り消極的な防御姿勢は敵の積極的攻勢を招く事もある。ましてや天狐族の隠れ里であるという事は、以前に襲撃があったことから露呈していると見て間違いなく、狐系種族が近接戦闘を不得手としている点に付け入る事は容易に想定できた。シラヌイは敵に少なからぬ被害を与えている点に勝機を見出しているかもしれないが、帝国軍はそれを織り込み済みである可能性が高い。元来より帝国陸軍とはそうした被害前提の軍事行動を厭わないのだ。
つまり帝国軍の強攻は選択肢としては間違いではない。人的被害を問題視しなければ、であるが。
阻害が無数にあったとしても、その付近に塹壕線を構築しなければ阻害に取り付いた敵を排除できない。挙句に取り付かれた場合、阻害ごと敵を砲撃魔術で爆殺しているのだ。敵を足止めして砲撃するのは間違いではないが、阻害を突破された場合の備えに乏しい状況では死期を伸ばす程度の意味しかない。そして時間は敵である。
段階的な後退による戦果である以上、限界はある。
阻害の数と帝国軍部隊の兵数。
消耗戦である。
均衡が崩れれば崩壊するのは双方共に同様と言える。阻害を全て突破されれば天狐族は近接戦闘を強要されて容易に壊乱する。同様に帝国軍部隊も余りにも甚大な被害を受けた場合、士気崩壊によって壊乱する可能性があった。シラヌイが壊乱を意図している事は明白であった。
ミユキは確実に勝てるとは思えなかった。
だからこそ離脱を提言しなければならないと焦燥に駆られる。
言い募るシラヌイの言葉を制するべく進み出ようとしたミユキを、キュルテンが止める。
「族長殿、申し訳ないが詰まらぬ言い争いはなしだ。選ぶといい。自身の足でこの地を離れるか。簀巻きにされて叩き出されるか」
周囲の天狐達が顔を見合わせる。
軍であれば即座に拘束される場面であるが、民間人でしかない上にミユキの意向を受けているとあっては逡巡もやむを得ない事である。
旅人の真似事を国内でしていたミユキは、自身の故郷が閉鎖的であるが故に上意下達が徹底されていたと理解していた。閉鎖環境での孤立を恐れるが故に配下は良く従う。天狐族が下界との交流を最小限に留めていたのは、外への警戒だけでなく、種族内の統制を確実なものとするという部分もあったのかも知れない。
シラヌイの鋭利な眼光がキュルテンを捉える。ミユキであれば竦んだかも知れない。だからこそキュルテンは進み出たのだとミユキは紳士を気取る殺人鬼に感謝した。
「……野犬如きが天狐に叶うとでも?」
「この間合いなれば、だよ。友人の父君」
キュルテンが近接戦闘を得意としているのは、エイゼンタールより伝え聞いていたが、ミユキはどれ程のものかまでは想像もしていなかった。
しかし、エイゼンタールという気難し気な将校が手放しに称賛する程度の近接戦闘能力であるならば、シラヌイにも対抗できるのではないかという期待もあった。
シラヌイは室内の天狐達を一瞥し、僅かな逡巡を見せる。ミユキでも気取れる程の逡巡であるなら、老練な高位種にとっては大きな逡巡と言えた。
シラヌイもまた苦悩していると見たミユキが口を開こうとするが、シラヌイはそれを片手で制して溜息を一つ。
「……ミユキ、友人は選ぶ事だな」シラヌイが溜息を一つ。
「恋人もだろうね」キュルテンが肩を竦める。
行き成り向いた父狐と殺人鬼の矛先にミユキは臆する。
父狐と殺人鬼は、口を開いて呆気に取られたミユキの姿に苦笑する。
それは突然だった。
突然の剣戟。
響く金属音。
キュルテンとシラヌイが太刀を目にも止まらぬ速さで抜き放ち、戦闘を開始したのだ。
金属の擦過による火花が散り、遅れて金属音が響く。シラヌイが下がり、キュルテンは踏み込む。かろうじてミユキにも見える程の攻防だが、キュルテンが常に近接戦を挑み、シラヌイが魔術を行使する隙を与えないようにしている事だけは理解できた。
閉所戦闘で魔導杖は不利と見たのか、佩用した曲剣を半ば以上に引き抜いて倒れ掛かる様に斬り掛けたキュルテン。対するシラヌイは近くの机に置かれていた太刀を掴んで咄嗟に防禦した。無論、抜刀する余裕などなく、鞘諸共に曲剣の斬撃を受け止めたのだ。後退の最中に抜き捨てられた鞘には刀傷が走っている。
「貴様ッ!」「俺様ッ!」
父狐に応じた殺人鬼は流れる様に刺突を繰り出す。
小柄なキュルテンとそれに合わせた曲剣であるが、斬撃ともなれば屋内の構造物を斬り付けて攻撃を制限される可能性を捨てきれない。ミユキが士官学校で見た流派やトウカが匪賊相手に見せた洗礼……大系化された剣術ではなく、殺意のみによって突き出される野生の剣。
口角を不自然なまでに吊り上げたキュルテンは弾かれた刺突に固執せず、更に踏み込んだ左足でシラヌイの右足の甲を踏み付ける。その威力に床が割れた。
踏み付けられて割れた床に縫い付けられた右足。後退の為に後ろに傾けた身体の姿勢を両足は持ち直す事を許さないが、シラヌイは尻尾で床を押し退けて身体を支えた。
背後の壁に選択肢を狭められぬ様に反撃に転じるシラヌイ。
天狐族とは思えない剛剣を以てキュルテンを押し切ろうとする。種族的、身体的優位を最大限に生かして押し切ろうとするのは、剣技で競えば不利と見たからだろう。
しかし、剛剣は往々にして大振りである。
キュルテンを押し蹴り、天井の梁を引き裂いて振り下ろされる袈裟懸けの斬撃。
トウカなどの人間種や膂力に恵まれない種族であれば、周囲の障害物に阻害されぬ様に斬撃は最小限に留めるであろうが、シラヌイは魔術による身体強化からなる有り余る膂力を以て梁諸共に切り飛ばさんとする。
キュルテンは本来ならば避けるところを、曲剣さも容易く手放し、更に踏み込んでシラヌイの身体に密着せんばかりに接近した。
斬撃である以上、被害範囲は線である。刺突の被害範囲が点に等しい事と比較すれば命中率は高く、回避も難易度を増す。しかし、どちらも異様な程に接近を受ければ対応を喪うという点は変わらなかった。手元付近に危害を加えるには太刀は全長があり過ぎた。
それはキュルテンも同様であるが、彼女の手にはいつの間にか戦闘擲弾拳銃が握られていた。
航空艤装の一つとして戦闘擲弾拳銃は皇国軍航空隊で広く採用されている。複数の型式が存在しているが、運用弾は統一されている。四〇㎜の直径の擲弾は榴弾は勿論、煙幕弾や信号弾を使用する事が可能で多くの用途に使用されていた。装填数が一発の中折れ式の機構である為、実際は高速で三次元戦闘を行う航空格闘戦に向かず、最も多く利用されるのが信号弾である。実際、榴弾を装備して出撃する航空兵は極僅かだった。
キュルテンが手にしている戦闘擲弾拳銃に搭載されているのは煙幕弾であった。
白燐を使用した化学反応による煙幕展張を意図する信号弾は世界的に見ても一般的なものに過ぎないが、同時に至近で運用すれば激しい化学火傷を負う事でも有名である。キュルテンも無事では済まないかも知れない。
撒き散らされる白煙が室内を満たす。
トウカの世界であれば、一定範囲以内での着弾では使用者に危害が及ばない様に信管が作動しないという機構が備えられているが、皇国は未だ消耗品に複雑な機構を搭載できる程に技術は成熟していない。
シラヌイが後ずさり壁に背中を押し付けて止まり、そして膝を突く。
咄嗟の事で魔導障壁の展開も間に合わない。否、銃口を腹部に押し付けての接射であった為に対応などできるはずもなかった。
火薬で射出された高速の金属塊が腹部を直撃したのだ。直径が大きく貫徹力がない為に銃弾の様に貫通する事はないが、戦闘兵種が身体強化を行った上で殴り付けた程の衝撃と威力はあった。
白煙の中に沈むシラヌイを見たミユキは、近くの天狐の肩を叩く。
「軍隊だと指揮官が意識喪失したら次席指揮官に指揮権が委譲されるんだよ?」
ライネケにいる天狐族の序列で言えば、当然ながらミユキとなる。厳密には軍の階級序列にない天狐の民間人に階級序列を強いる事は無意味であった。そもそも、軍でも指揮官に手を上げて指揮権を収奪する事は“基本的に”許されていない。
無論、驚きに包まれた天狐達がそうした事実に気付く事はない。ミユキとシラヌイの意見対立だけでなく、シラヌイとキュルテンの交戦を止めることなく座視した優柔不断な天狐達が勝者に従うとミユキは確信してもいた。
天狐達とて死にたくはないのだ。
郷土愛もあり、覚悟を決めたとしても相応の理由を与えれば撤退に意見が傾くのは容易である。
軍装を纏い軍事的見地から意見を口にする……している様に見えるミユキの言葉は有利に働く。そこをミユキは指揮していた訳ではないが、軍装を纏い撤退を提言するという威力は彼女が考える以上に大きかった。
「暫くは交戦を続けるけど、女衆には貴重品や食料を森に運ばせて撤退準備。男衆は森に火を放つの。時間を稼ぐんだよ? 急いで!」
ミユキは当初から考えていた命令を伝える。実際、内戦時にトウカが選択しようとした手段の焼き増しに過ぎず、彼女自身も目新しさを感じなかった。あるのは、トウカがシラヌイに否定された作戦を、次はミユキがシラヌイに迫ったという可笑しさだけである。トウカの急進的な姿勢が伝染したのか、或いは郷土愛が摩耗したのか。一考の余地がある。無論、キュルテンが言う様な恋人を変更するという余地はないが。
我先にと出入り口に殺到していく天狐達を一瞥し、ミユキは笑声を零す。撤退という言葉に背を押されたのか、殺人鬼や仔狐を畏れたのか。訊ねたいところではあった。
三人の間に弛緩した空気が流れる。
誰ともつかない溜息。
「このまま接近戦に持ち込まれれば、天狐族の人的被害が増えるけど、どうしたらいいかな? なんでもいいから一人でも死ぬヒトを減らせる手段が欲しいの」
ミユキは二人懸かりで意識を喪ったシラヌイを縄で拘束するキュルテンとヴィトゲンシュタインに訊ねる。実際、飛行兵のヴィトゲンシュタインは陸戦に疎く、キュルテンに訊ねたに等しい。
「さて、どうしたものか。頭を使うのは上官殿の役割だからね」
エイゼンタールであれば確かに野戦指揮も十全に行えると思えるだけの風格がある。
重厚感のある佇まいを思い浮かべるミユキ。実際、エイゼンタールは領邦軍士官学校出身者なので指揮を行えた。対するキュルテンは領邦軍士官学校出身者ではなく、一般志願兵に過ぎない。厳密にはエスタンジアでエイゼンタールに拾われた浮浪児に過ぎず、大尉という階級は仕官して以降の圧倒的な間諜狩りの成果からなる者に過ぎない。指揮能力を買われての事ではなく、兵士としての才覚のみを以て尉官にまで上り詰めたのだ。無論、当人の気質を知る者達も誰一人として領邦軍士官学校への推薦をしなかった。
「さぁ、私には分からないね。ただ……」
「ただ?」
キュルテンが縛り終えた手の埃を払い、戦闘信号拳銃を中折れさせて空薬莢を排出する。
「やはり作戦は絞るに限るよ。兵力の少ない中で作戦を多く持つ事は戦力の分散を招くからね」次弾を装填し、一振りして中折れを元に戻すキュルテン。
多くを成そうと試み過ぎる事は、困難を解消するというより、寧ろ増大させるものである。
指揮官も兵力も足りない中で作戦を複数実行するという事は、指揮能力と兵力の分散を招く。各所撃破の可能性は増大し、全ての作戦が投入資源の不足で頓挫するかも知れない。選択と集中は経済だけでなく、政戦に於いても例外ではなかなった。
「森を焼くのは反対?」
自然に対する博愛主義からではなく、戦力分散を可能な限り避けるという軍事的原則に基づいた意見ともなれば傾聴に値する。
「まさかだよ、指揮官殿。両翼からの迂回浸透は常にある。その可能性を潰すと言えないまでも減少させる作戦は必須だ。細道付近で遅滞防御を継続している男衆が後背を突かれれば負けは確定する」
キュルテンはミユキの作戦案を否定しない。選択肢はなく、危険性を指摘はしても選択肢が増えると理解しているからであろう。
「森を焼くのは右翼をヴィトゲンシュタイン大尉、左翼をキュルテン大尉にお願いします。私は中央で遅滞防御を務めます」
「おいおい、危険な真似は止めて貰いたいのだがね」
迂遠に他の狐に放火は任せて全員で中央の遅滞防御に努めるべきであると言うキュルテン。ミユキとしても放火を行うのが正規軍将兵であれば問題はないが、狐ともなれば放火を躊躇する可能性がある。その為、作業の監視を行う者が欠かせなかった。優れた魔術で忽ちに森林を火の海にできるであろう天狐族であるが、放火を躊躇すればその限りではないのだ。
それを実現する間、ミユキが中央を護らねばならない。
森林を焼く以上、動揺が予想される。
既に以前の襲撃を上回る死傷者が出ている以上、既に建前や博愛に縋る余地は消え失せている。本格的な反発は起きないと見ていた。しかし、動揺は起きる。そこを突け要られる可能性は有り得た。
「両翼が炎の壁で塞がれたら、一度、中央で敵を誘因して敵を漸減しようと思うの」
一度、大きな被害を与える必要がある。時間が敵である以上、敵に壊乱を起こす程の被害を与えて短期決戦とする必要があるとミユキは考えていた。
「危険だね、それは。時間が敵とはいえ」
「当官も反対です。民兵では難しい」
二人の反対は想定済みであるが、ミユキは作戦を認めさせる上での方便を用意していた。トウカによる内戦での作戦指揮は、作戦計画の承認に於ける説明が現実と一致する必要はないと示している。
トウカは周囲に勝てると断言しながらも内戦では後退し続けていた。敵野戦軍への被害を喧伝して戦死者数で優越している事を強調したが、それが領土失陥に視線を向けさせない為である。マリアベルもそれに一役買っていた。寧ろ、戦後を見据えて、周辺貴族の領地が戦火で荒廃する事を望んでいたと言える。ミユキは恐ろしくて聞けなかったが、トウカがその様にマリアベルを説得した可能性もあった。
「無理して引き摺り込む訳じゃなくて、予備兵力がある様に見せかけたいの」
「予備兵力? どこに? ああ、女衆かな?」キュルテンは溜息を一つ。
女衆は纏めて後方で待機している。既にミユキの命令で荷造りを始めているだろうが、戦闘に耐え得る者とて十分に存在した。投入しないのは資源活用の原則より外れる。
「お母さんが小銃の訓練はさせてるって言ってたし、女衆にも猟師は多いの」
「使えるのかな? そもそも、志願者が出るのかい?」
「一〇〇には届かないと思うけど、予備隊としては十分だよ」
女衆とて護られているばかりではない。
そもそも、種族内で男性優位の風潮が大きいのは低位種に限った話である。中位種や高位種ともなれば、膂力や身体能力は魔導資質に優越する要素ではない。魔導資質こそが戦闘能力に比例するものであった。戦闘能力が均衡する以上、権利は同様である。
男尊女卑の風潮は、古来より戦闘という他を圧倒する大きな要素を戦闘能力に優れる男性が担っていた事の延長線上である。種族や民族……所属組織の興廃を決する争いに直接参加する者がより多くの権利を有し、それが近代に至るまで継続したに過ぎないのだ。
近代化によって科学技術が勃興し、学術面の優位が国力や組織力に直結するようになった。それは膂力によって敵を圧倒した古来のような戦闘ではなく、知識や頭脳による戦闘が主体となった事を意味する。膂力を科学技術や知識で補う……圧倒する事が叶う時代となったのだ。
近年の性差による権利の是正は、戦闘……戦争への資源活用の面から見れば何ら不思議な事ではない。性別よりも知能を基準とするのは効率化の一種に過ぎなかった。もし、知能よりも必要とされる要素が生じる未来があれば、違う要素を有する者がより多くの権利を担うに過ぎない。
皇国の性差による権利の差が他国より遥かに少ないという点を賞賛する者に対するトウカの発言である。
性別もまた一要素に過ぎない。そして、皇国は性別と同様に如何ともし難い魔導資質という要素での等民制を敷いていると現行の貴族制度に言及した。批判している訳ではなく、彼にとり事実があるだけなのだ。効率であるからこそ当時の者が選択したに過ぎず、自身も次代に新たな要素で統治者層を再選択しなければならないならば躊躇はしない、とトウカは明言していた。
兎にも角にも女だからと戦場に出さないという理由はないのだ。
女性の数が減少すれば、将来的な人口を招くという部分もあるが、下手に敗北すれば種族を維持できないだけの人口を極短時間で喪う事になる。
「戦力不足だね……私も領邦軍の整備をちゃんとしておけば良かったかな?」
「それは無理だろうね。今は戦時下だ」
全てが陸海軍と皇州同盟に集中している。兵士となるべき若者も前線を支える武器弾火薬も、決定打となる航空騎も予備はない。小規模な軍を編制するどころか、北部では各領邦軍を最低限にまで縮小させて皇州同盟軍を拡充していた。
何も足りていないと指揮官であるミユキが認めた事実に、ヴィトゲンシュタインも追従する。
「こうなると航空機銃を搭載しておくべきでした。あれを据え付ければ薙ぎ払えたものを」
皇州同盟軍航空隊が正式採用している一五㎜航空機銃であれば、高い速射性と高威力で制限された経路で進出する帝国軍歩兵を雑草を刈り取る様に薙ぎ払ったであろう事は疑いない。帝国軍の重機関銃よりも射程に優れ、高所確保にも成功している。二門あれば一方的な戦闘が可能であった。
「まぁ、重量超過なので諦めざるを得なかったのですが……いや携行弾を減らせば……」
「重量が増えると着陸距離が増えるから無理だよ。あ、でも落下傘で私とエルちゃんが先に降りておけば良かったかも」
落下傘でライネケに着陸できるとは限らず、ヴィトゲンシュタインは「帝国軍陣地に空挺降下したらどうするのですか?」と返す。しかし、ミユキは「風魔術で降下の場所は操作できると思うんだけどなぁ」と“もしも”や“或いは”を囁き合う。本格的に交戦を始める前から改善点が次々と出現する事実に、ミユキは戦闘詳報を前に唸るトウカの姿を思い出す。
ミユキにとって戦争とは書類仕事という印象が強い。
トウカの副官として戦場後を歩いて砲爆撃の跡や埋葬される遺体を幾度も見たが、そうした衝撃的な光景よりも書類と相対する将兵の姿を遥かに多く見ている事が大きい。衝撃的な光景であるが故に焼き付いて離れないものの、それはあくまで軍務全体を見た場合、極短時間に過ぎなかった。
情報部や参謀本部での書類山脈と激しい折衝……加えてトウカの場合は恫喝が主任務であるかのような印象をミユキは抱いていた。軍神や戦争屋と言われるが、トウカの普段の軍務を見れば、書類で相手を殴り付けているかの様な錯覚さえ抱きそうになる。
書類を減らせ。結論から言え。立って会議をしろ。重複分野を作るな。と相手を鋭利な眼光で一瞥する姿を思い出してミユキは尻尾を丸める。
「主様は私の作戦をどう思うかな?」
「……来期の士官学校入学生が一人増えるでしょうな」キュルテンが口角を吊り上げる。
ヴィトゲンシュタインの爆笑を他所に、ミユキは作戦に無駄がないか必死の思いで思考を巡らせる。
トウカは無駄を嫌う。
生産能力向上に於ける方策では、設備拡充や資金投入よりも、より短期間で実施可能な無駄の排除と効率化を重視していた。軍需生産の効率化や各種改革を断行し、爆発的に生産量を増大させたのだ。
トウカは、各種改革と資源投入で軍需生産を短期間に四倍にまで伸長させた。奇蹟扱いされている軍需生産拡充だが、実際に生産に従事している労働者層からの意見吸い上げと、その意見を上層部から押し込むという手段は絶大な効果を齎した。年功序列や企業の慣例を無視した方策なども、憲兵隊を背景に実行させたのだ。生産能力向上を果たせない企業は領営已む無しと恫喝もそこにはあった。
信賞必罰の一環として優れた意見を上申した者には給料と職級で優遇し、生産や組織維持、労働者の労働力最大化に寄与していない中間管理職や職級……部門を大幅に削減した。必要以上に中間管理職が増大した職場では、成果の為の演出に労働力を割きかねない。生産に寄与しない部門の提案による組織の非効率化も捨て置けない。時間的余裕のある権力者が碌な事をしない……余計な出来事を行うのはヒトが形成する組織の性である。
感情論が組織編制や昇進制度に差し挟まれる余地は徹底的に排除された。
無論、大規模な生産工程の効率化も大きな要素であったが、トウカは人事改革を特に重視した。実際の生産量と労働災害数を重視し、評価項目から数字の伴わない主張を徹底的に排除したのだ。
信賞必罰は組織の依って立つところであるという言葉を実践したのだ。
無駄を憎悪しているとまで言い切ったトウカ。軍需生産の拡充とて成功したからこそ評価されているが、失敗していたならば大きな混乱を齎したとして罵倒を受けた事は間違いない。
恐らく、政戦に関する無駄に関しては、例えミユキに対してであっても、その舌鋒は衰えを見せないだろう。ミユキは肩を震わせた。
「せ、正式な軍隊の戦闘じゃないから戦闘詳報とか書かないもん」
「お、戦歴の捏造ですかな? 国益に対する挑戦ですな」
戦闘詳報は、将兵を消耗し、国力を投じて行う国益の保全である軍事行動の一切を記載して後世に於ける軍事行動の判断材料とすべきものである。改竄や未提出は許されない。
厳密に言えば、ヴィトゲンシュタインは貴族の私兵である領邦軍に所属している為、ミユキの采配のみで対応できるが、ミユキとキュルテンは皇州同盟軍所属となっている。挙句にキュルテンは情報を司る部署に所属していた。
「私は戦時徴用の副官で、エルちゃんは護衛でしょ? それに私は天狐族の次席指揮官として指揮するんだよ?」
屁理屈が咄嗟に出る程度には、ミユキも軍隊という組織を理解しつつあった。
軍隊という領土を守る実力集団である以上、その規模は所属陣営内の組織としては有数の規模とならざるを得ない。だが、その規模が大きくなればなる程に構成する人員も多彩となる。結果として平準化の為に多くの軍規が整備され、無数の派閥も生まれる。自部隊や自部門の所属以外と接触する機会は減少し、外への意識は閉ざされがちになった。
軍隊とは多くの者が思う以上に身内に冷淡な組織である。
規模が規模であるが故に、管轄違いに対する姿勢としては民間企業よりも冷淡なものがあるのだ。無論、同朋意識を芽生えさせるには、皇州同盟軍成立以前の諸問題が風化していないという部分もある。
兎にも角にも彼女達は指揮を執らねばならない。
「さ、戦争だよ? 急いで」
トウカが戦野で微笑む様に、ミユキもまた微笑んだ。
暁を背負い、ミユキは帝国軍の塹壕陣地を双眼鏡で観察していた。
軍用のものではない民間の双眼鏡は精度に於いて劣り、魔力波による測的などの機能もなかった。それでも卓越した高位種の視力と狩人としての資質のある種族特性が十分に補う。夜間では狙撃の心配もあるが、森林部の木々に加え、砲撃魔術で引き倒された木々が遮蔽物となって射線を通す事は困難である。
それでも時折、丸太で組み上げられた木製阻害に銃弾が突き刺さる音が響く。意外と軽快な音に意外感を覚えるミユキだが、しっかりと魔道障壁は展開している。
「魔導士はいない様ですな。しかし、なかなかどうして狙撃兵が多い」
キュルテンが小銃で盛んに応射を行っているが、戦果確認をできる程には克明に見えている訳ではない。寧ろ、ミユキは自身の魔道障壁を盾に応射をするキュルテンを気にしていた。
ミユキが敢えて気取られる事を承知で魔道障壁を展開しているのは、迫撃砲の有無を確認する為である。戦車や野戦砲に関しては上空からは確認できなかったが、小型な迫撃砲であるならば搬入されている可能性があった。
魔導士が魔道障壁の方位測定と距離測定を行い、各種迫撃砲や野戦砲が対魔導砲撃を行うのは国際的に見ても平均的な対魔導士戦闘である。魔導士部隊に余裕がある居るならば、そこに魔導砲撃も加わる。特に弾道に融通の効く魔導砲撃は、地形的制限の大きい中でも測的さえ厳密であれば敵部隊を攻撃可能であった。
迫撃砲と魔導士こそが最大の脅威である。
しかし、帝国軍とて正規軍に変わりはない。
戦訓に学び、悲劇に学び、血涙に学ぶ。
軍隊の本質である。
ミユキは視界の端に一際と大きな長物を手にした帝国兵士を認めた。
慌てて双眼鏡を手放し、ミユキは両手で魔道障壁を強化する。三重の中空装甲まで意識した魔道障壁を展開する。徹甲榴弾対策の為に運用される皇国軍でも個人魔道障壁の中では上位に位置する障壁であった。
金属板を鉄槌で殴り付けたかの様な炸裂音。
思わず屈むミユキ。
着弾よりも先に銃声が届く程の距離であれば至近距離と言える。それ故に看過できない威力をミユキは良く理解していた。
「ええい! 何処で鹵獲したのか! 重狙撃銃だ!」キュルテンが叫ぶ。
銃声でミユキの慌てる根拠を察したキュルテンが阻害の隙間から小銃で反撃を加えるが効果は見受けられない。それどころか複数の重狙撃銃による応射が周囲の阻害に使われている丸太を貫き、破砕する。
「えっと、魔導砲撃!」
「いけない! それは不可能だ!」
「なんで!?」
「民兵なのだよ!」
ミユキはそれでも魔導砲撃を行うだけの魔力が不足していると見られることを危険視したが、軍歴の長いキュルテンはミユキの駆け引きを無駄と考えた。
「直射に出れば攻撃可能だが、敵に位置を悟られる。大兵力で攻め寄せられて小銃擲弾の驟雨に晒されかねない!」
しゃがみ込んだ二人は、塹壕の一角で意見を交わす。
ミユキは新任士官特有の積極性を以て命令を下そうとしていたが、キュルテンはそれを見越していた。ミユキに限った話ではなく、守勢であっても積極的戦術行動が目立つのは皇州同盟軍の新任士官に見られる特徴である。トウカの守勢であっても主導権を確保する積極的な用兵に魅せられた……守勢であっても敵軍に甚大な被害を与える戦術の模倣を試みる士官は少なくない。
しかし、成功率は高くない。
近接航空戦と自走砲、自走迫撃砲などによる瞬間的な火力優越と、迂回突破を行う充足した装甲部隊を一元的に指揮している者達ではないからである。将官達は皇州同盟軍の内情をよく理解して複雑な軍事行動を手控えているが、新任の大隊以下の指揮官達は己の戦力でそれを成し遂げようと複雑な軍事行動を行う者が少なくない。
若さゆえに後に続こうとする姿は眩しいが、実力が……否、戦力が伴うとは限らない。そして、隷下戦力の限界を知悉する程に彼らは指揮官としての経歴は長くなかった。軍隊という実力組織を短期間で拡充させた弊害である。
余りにも眩しい偉業に恋焦がれる者達だけでなく、前例があるならばある程度の模倣は可能ではないかと考える者達も寄り困難な指揮を試みる例が少なくない。
「君は軍神ではないよ。落ち着きなさい」
「でも……」
キュルテンは諭すが、ミユキは焦燥に駆られていた。
夜の帳が降り始めた状況は、ミユキに夜襲の可能性を強く想起させた。夜間浸透は皇国軍が多用する戦術であったが、帝国軍も皇国侵攻に当たっては小規模な歩兵部隊による浸透突破を多用している。ある程度の犠牲を前提に後方を扼する価値を帝国軍もまた認めたのだ。帝国軍の場合は、皇国軍の優れた砲兵と魔道砲兵による長距離砲撃に対する阻止行動であった。
「取り敢えず、相手に有力な魔導士は存在しない事は分かったのだ。何より、切り札の一つを早々に切らせた。十分だよ」
手札を早々に切らせたいという思いを、ミユキは狐耳の裏を掻いて紛らわせる。
キュルテンが言うならば従わねばならない。軍歴の長さもあるが、キュルテンという殺人鬼はヒトの裏を掻く事に秀でている。所見ではミユキがキュルテンの正体を見破ったが、それは情報部のミユキに対する油断という部分が大きい。
「時間は敵だよ?」
「敵かも知れない。だが、味方かも知れない。敢えて敵と決めつけるのは早計だ」
キュルテンは、トウカが部隊を差し向ける事を期待しているのだ。ミユキもそれは理解できる。ヴェルテンベルク領邦軍が敵情報を得た場合、可及的速やかに皇州同盟軍に報告する義務があった。機械的に報告は為されているはずである。
「まず、偵察騎が現れる筈だ。その後に近接航空支援が行われて軍狼兵部隊が派遣される」
基本的な戦場航空阻止であればキュルテンの語る通りであるが、現在も帝国軍との戦闘は北部全域で行われている。分散して撤退する帝国軍を相手に皇国軍もまた分散していた。周辺地域から増援を即座に抽出して充てる事は容易ではない。ミユキはその点を理解できなかったが、マイカゼが逡巡を見せた姿から増援が当てにできないと察していた。
ミユキは両翼の燃え盛る森林を一瞥する。
容易に迂回突破を行えない程ライネケ周辺の森林は複雑な地形をしている。千年単位で外部の浸透を抑止していた実績から分かる通り、森林だけでなく崖や河川、丘なども点在している。それら全てが三〇m程の全長を誇る針葉樹林の乱立で隠蔽されていた。通行可能な地形は軒並み放火によって炎の壁が生じて突破は困難となっている。無論、全てを塞ぐ時間的余裕はなかったが、少なくとも短期間で迂回する事は難しい。
ミユキとしては、予備隊となった六二名の女衆を除いた者達による家財や食糧の運び出しは二日弱掛かると見られていた。その身一つで逃げ出せば、後は当代ヴェルテンベルク伯マイカゼの支援を受けて家財や食料など容易に取り揃えられると説得を試みたが、それは失敗した。冬を終え春が始まって久しいとはいえ、森内で数百人単位を養える食糧を確保する事は難しい。皇州同盟軍の展開と奪還作戦完了までの時間は、キュルテン曰く二週間は掛かるのではないかとの事であり、彼らの意見を退けられなかった。食糧とそれを調理する道具は必須であり、支援もまた天狐族だけが必要としている訳ではない。
何より、縛り上げたシラヌイが存在する以上、指揮系統を収奪した事を説明せざるを得なかった。そうした中で、家財の運び出しまで否定した場合、ミユキの指揮に従わぬ恐れがあった。妥協せざるを得ない最低限が食糧と家財の運び出しであったのだ。
「この状況で二日も時間稼ぎが必要なんて……」
「銃口を突き付けて森に追い遣れば良かった。やはり貴女に軍神殿の真似はできない」
キュルテンが懐から取り出した煙草を銜えて、肩を竦めて見せる。
実際、それができない事はキュルテンも承知しているだろう。ミユキとキュルテン、ヴィトゲンシュタインの三人が銃口を突き付けて統制できる規模ではない以上、選択肢などなかった。トウカであれば口先で丸め込むかも知れないが、三人にそうした技能はない。
トウカであれば間違いなくそうしたであろうが、三人にはそれができなかった。
帝国軍に雪崩れ込まれた時点で撤退を終えていないと迫撃を受ける。トウカはそれを看過しないし、遅滞防御の時間が増大する余地も許容しない。
砕けた阻害の一部が舞う。後に続く銃声。
重狙撃銃を手にした狙撃兵も複数存在する上、展開位置も大きなばらつきがある。銃声が命中よりも後に続くのであれば、四〇〇m以上の距離からの狙撃という事になる。
両翼の森林で燃え盛る木々によって、夜の帳を迎える事を拒絶した細道は相応に照らされている。そうした中で発砲炎を見付けるのは中々に困難であった。急造とは言え、塹壕を構築された以上、被害範囲は大きく低減される。魔導砲撃も直撃させない限りは被害を与えられない。
民間とは言え高位種である以上、集団詠唱による相応の規模の攻撃は可能であるが、魔力消費が激しく隙となりかねない。時間も要する上、魔導障壁による防護も低下する。
夜間は千日手の様相を呈する事になる。
何より、暗闇の中で重狙撃銃の腹に響く発砲音と着弾音は、天狐族の戦意を削ぐ。両の狐耳を寝かせて伏せている天狐達に積極的な夜間戦闘を求める事は現実的には思えない。
「どちらにしても、戦意がないからここで粘るしかないね……」
元より選択肢はなかった。
攻め寄せる帝国軍に陣地防御で抵抗する。小銃と魔導砲撃で徹底的に抵抗するのだ。注意せねばならない点は、機関銃分隊の接近を魔導砲撃で許さない事である。機関銃の接近で魔導障壁を削り取られれば、銃剣と刀剣で熾烈な塹壕戦を行わねばならない。兵数に劣り、戦意に難のある彼らは間違いなく押し切られるだろう。
「僕は君が思いの外、勇敢であった事に驚いているよ」
ミユキと天狐族の男衆を比べ見たキュルテンの言葉に、ミユキは何とも言えない表情をする。
郷土防衛である以上、戦意が燃え立つのは当然であり、トウカが居ない中で指揮官として振る舞える……認められるのはミユキしかいない。己が成さねばならないのであれば、相応の立ち振る舞いを以て事に当たらねばならないのは、トウカが証明している。
自らが事を成せると周囲に思わせねばならないのが指揮官なのだ。少なくとも、現状で天狐達に不安を抱かせれば壊乱の可能性が増大する。
そうした中で知識と実績に乏しいミユキが行えるのは、より積極的な意見と行動を執る事である。ミユキは選択肢が限られている事を自覚する程度には知識を得ていた。
尤も、それが結果に繋がるかと言えば別問題であるが。
「火急の時、その場に英雄が居るなんて偶然は戦記小説だけだよ。史実は、その場に居るヒトが英雄として振る舞うしかないんだよ」
トウカの言葉を借りればそうなる。自身を棚に上げた言葉と言えるが、少なくとも彼はそう口にして憚らない。
継ぎ接ぎだらけの英雄が量産されるのが戦場である。英雄にも色々と存在するのだ。故に然したる称号ではないが、それに惑わされるものは古今東西枚挙に暇がない。
「えっと、習った通りなら黎明時に襲撃が行われるから、そこを予備隊も出して撥ね付けようと思うの」
迂遠な英雄になるという発言である事を後に気付いたミユキは、今後の計画を口にしてキュルテンの生暖かい視線から逃れる。
「……その辺りが妥当だろうね、英雄殿」
キュルテンは、苦笑と共に軍帽の上から頭を掻いた。
「多くを成そうと試み過ぎる事は、困難を解消するというより、寧ろ増大させるものである」
《大英帝国》外務大臣 カッスルレー子爵
トウカ君による軍需改革(実働はクレアとセルアノ)によって短期間で生産量が四倍! そんな馬鹿な! そう思うかもしれませんが、ナチスドイツでは軍需大臣であるシュペーアが軍需生産で諸々の改革を行って生産量を極短期間で三倍にまで増大させています。後に言われるところのシュペーアの奇蹟ですが、皇国なら膂力に優れた種族が無数といて最初から戦時体制に突入しているから四倍は控えめなほうなのです。
まぁ、そうは言ってもシュペーアさんの軍需生産倍増は現代で言うところの選択と集中の結果でもあります。一例をあげると、短期決戦前提だから投入までに時間のかかる核兵器は必要ないよね?と核兵器の研究開発を停止したりしている訳です。ドイツの降伏時期を踏まえると確かに間に合わなかったので勝とうが負けようが取捨選択としては間違ったものではないのですが……
日本でも機銃弾の生産管理を効率的にしたら極短期間でしたら40倍くらいになったという話があった気がします。生産管理は大事です。
ちなみに軍用の発煙弾は白燐を使用している場合もあるのでヒトに向けたら一大事です。重度の火傷に浸透もあるので凄く危険です。良い子は真似しないように。
最近、ホクロ(ID:558209)なるユーザーからこうした感想?がメッセージで飛んできましたが、建設的な意見は何一つないのでこうした感想は不要です。ちなみにこの感想に対する所感は活動報告に書いております。




