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紫苑穢国のエトランジェ  作者: 葛葉狐
第二章    第一次帝国戦役    《斉紫敗素》
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第二四〇話    ミナス平原会戦 九




「リディアを逃がしたか……」


 トウカは姫将軍撤退の報告に無感動な声音を以て応じる。


 姫将軍を退け、〈アルダーノヴァ軍集団〉と〈集成南部軍団〉に大打撃を与え、後方を遮断しつつある戦況に歓声を上げる面々。


 〈北方方面軍〉司令部と皇州同盟軍司令部による合同司令部の歓声は、今やベルゲン内の各地で起こっている現象の一つに過ぎない。軍帽と書類が舞い、肩を抱き合う将官達は其々が思う形で感情を発露させていた。


 トウカは司令部の隅で深く座り込んで天井を見上げていた。


 ベルゲン市庁舎の名残である軍司令部とは思えない瀟洒な装飾灯(シャンデリア)を見上げつつ、今後の展望に想いを馳せる。


 ザムエルは近接航空支援が開始されるより先に装甲師団を前面に押し出して敵後方の遮断を優先した。トウカの包囲殲滅戦を望む意向を汲み取った拙速と言える。天使種を加えた装甲擲弾兵師団の頓挫しかけた迂回突破を共同で成功させつつあった。特に敵砲兵がその攻撃と速やかな進出に野戦砲などの重量兵器の大部分を遺棄してている点は大きい。


 トウカはミナス平原会戦の緒戦より近接航空支援の目標を敵野戦軍と兵站線に絞っていた。しかしながら後者に関しては兵站線全てを目標にした訳ではなく、戦線後背を重点的に爆撃したに過ぎない。それ以上の後方は無数の独立軍狼兵小隊や狙撃猟兵小隊による襲撃が主体となっている。敵軍後背での遮断を重視したのは敵軍へ圧力を加える一環であった。


 それ故に帝国軍砲兵は弾火薬の補充が可能な地点まで後退した。砲兵が戦線を放棄したのだ。砲兵支援が不可能であるとはいえ、そうした思い切りの良い判断をできる指揮官は少ない。挙句に兵站線も分散させていたのか、砲兵は再形成した砲兵陣地から想像以上の火力形成を行っていた。否、完全に射耗する事を前提とした火力集中であったのだ。


 ――帝国軍は野戦砲の大部分が失われることを前提にして動いた。大したものだ。


 それを理解して賞賛する者は皇国軍内にも少なくない。


 リディアの航空基地襲撃が成功すれば、現在、熾烈な塹壕戦を繰り広げているベルゲン正面の戦線を兵力差で押し切る予定であったという点は誰しもが理解する。そして、弾火薬不足で効率的な火力支援が行えない砲兵を後退させ、兵站線には迫撃砲弾や歩兵用の武器弾火薬を主体とした輸送を行わせたのだ。低稼働率で砲兵を運用するより、歩兵戦力の充実と迫撃砲の稼働率向上に絞った輜重に切り替えて攻勢圧力を増した帝国軍は、皇国軍の戦線を複数の地点で食い破った。


 結果として、それは次の塹壕線に阻止されるか、複数の航空歩兵大隊や自動車化歩兵大隊、独立装虎兵大隊によって要撃されて突破に失敗するが、皇国軍も予備兵力を使い切る事となった。


 その点への賞賛はトウカも吝かではないが、それ以上に重視したのは、野戦砲消耗の前提に撤退という要素が加えられていたのではないかという点である。


 後退戦に於いて牽引式野砲や装甲車輌という重量兵器が放棄されるのは珍しくない。移動速度に破損、消耗による車輛不足の中で牽引する余裕などある筈もない。将兵の輸送車輛すら不足するのが後退戦である。


 〈集成南部軍団〉は複数の装甲師団と航空歩兵大隊の強襲を受けて組織的な火力支援が困難となりつつある状況で、野戦砲を放棄して砲兵のみを撤退させた。事実上、現状で相手にしている多数の歩兵師団を撃破できれば、〈南部鎮定軍〉の大部分を包囲できる。


 しかし、撤退も織り込んだ上での野戦砲放棄となれば、野戦砲を喪えども砲兵は失われない。先に砲兵の離脱が行われているのは間違いなかった。


 砲兵将校は技能職である。飛行兵程の技能職ではないが、陸上部隊の中でも通信兵と並んで育成に時間と予算を必要とする兵士と言えた。


 ――砲兵の保全を行ったのか? 確かに急造歩兵師団と比較しても重要であろうが……


 砲兵が帝国本土まで帰還すれば、再び野戦砲を配備して砲兵隊を短期間で編制できるだろう。それも熾烈な実戦経験を持つ砲兵隊である。


「……やられたな」口元を隠して呟くトウカ。


 近付くリシアを無視して、トウカは〈南部鎮定軍〉の采配を阻止する算段を組み立て始めた。


 胸衣嚢(ポケット)から出した葉巻箱と燐棒(マッチ)箱を開け、葉巻を銜えると燐棒(マッチ)を擦って火を灯す。燻す様に火種を吐息で煽り、トウカは紫煙を吐き出した。


 紫煙に包まれながらトウカは、野戦軍の思惑の弱点を早々に見つける。


  ――政治か。政治だな。敗残兵を戦犯として苛烈に扱う様に仕向けるか。


 兵士とて再び戦野に立たなければ活躍など出来ようはずもない。大前提として敗残兵であるという事実から彼らは逃れ得ない。敗残兵に間諜(スパイ)が紛れているという風聞を以て帝国軍憲兵隊や秘密警察に弾圧行動を行わせれば、再編制に制限を加える事は難しくなかった。


「閣下は勝利を喜ばれていませんね。何か懸念がおありでしょうか?」頬を上気させたリシア。


 その問い掛けにトウカはどうしたものかと紫煙を燻らせる。


 マリアベルの香りに包まれたトウカは、心情の上でもマリアベルとして振る舞って見せる。


「次の戦争を考えていた」


 その一言は、勝利に沸く喧騒の中に在っても不思議と徹った。


 次の戦争……帝国本土への侵攻は既定路線であったが、トウカの想像以上に皇国軍の消耗は大きい。〈南部鎮定軍〉の大部分を捕殺したとすれば十分に割に合うとは言え、帝国と皇国では人的資源に付いた値札の数字が随分と変わる。急造歩兵師団を漸減したとしても、帝国はそれを織り込んだ上で戦力投射している以上、戦略的意義は限定的と言えた。


「閣下……尚も攻め入る御心算でしょうか?」


 帝国軍の侵攻を退けつつある事を確信し、将官達も安堵と共に危機感を失いつつある。亡国の危機という重圧を撥ね退けた故に気勢を削がれつつあった。


「捨て石を処分される事は帝国も織り込んでいる。帝国にとり被害は元来の〈南部鎮定軍〉のみを指していると言っても過言ではない。捨て置けば、短期間で今一度の再侵攻も有り得る」


「長期的安全を確保する為には侵攻するしかないと?」


 トウカの言葉を、リシアが端的に纏める。


 周囲に聞かせる意図が滲むそれに、トウカはリシアが将官達の成否を確認しようとしているのだと察する。帝国侵攻に好意的な者と否定的な者を選別する事は、次戦役に突入する上で必須と言える。否定的、或いは消極的な者を排除した組織編制を試みねばならないが、戦勝に湧く中で活躍した将校を左遷や放逐する事は難しい。それ故に準備が必要であった。


 ――ハイドリヒ少将がヨエルの紐付きである以上、リシアが使えるというのならば助かるが。


 リシアはマリアベルが評した通り政略には向かないとトウカも考えていたが、最近の動きを見るにその考えを改める必要があった。彼女に足りなかった冷酷さが、何かしらの理由を以て補われたのだ。


「軍需工廠を焼き、農地に除草剤を撒けば、帝国の継戦能力は忽ちに失われるだろう。その後は共和主義者と共産主義者に任せればいい」


 トウカとて、帝国南部の一角に衛星国を建国するまで行えるかの確信は乏しく在りつつあった。北部復興が想像以上に労力を必要とするという試算が皇州同盟政務部より提出されたのだ。


「主要な工業地帯が灰燼と帰するならば話は変わるという事ですか?」


 皇州同盟軍航空参謀を務めるキルヒシュラーガー少将が念を押す様に応じる。都市部への戦略爆撃に対して否定的であった彼女だが、工業地帯攻撃には表情から賛成であると見えた。


 航空部隊の運用を司る者達には危機感があった。


 想像以上に航空戦力拡充に予算が必要であるという事実に直面した為である。海軍が空母機動部隊の編制と運用に要する試算に仰天したという例もあった。航空戦力拡充を望む航空主兵主義者は、未だ航空戦力が必要とされる戦場を必要とした。


 しかし、大規模な侵攻では国力を消耗する結果となる。


 故に工業地帯を、戦線を飛び越えて空襲するという作戦行動を主体とする限りに於いて帝国侵攻には賛成なのだ。


 対して付き合い切れないという表情をするのは歩兵参謀や砲兵参謀などである。今次戦役に於ける多大な被害の補填には相応の時間と予算を必要とする。彼はらは屋台骨を圧し折られたと言っても過言ではない程の被害を受けているのだ。


 トウカにとっても〈南部鎮定軍〉の急進は想定外であった。


 皇国奥深くに進出せねばならない様に政治的強要を強いたが、リディアも無能ではない。軍事的理由……糧秣の輸送遅延や弾火薬の不足を理由に低調な速度で占領地を広げていくとばかり考えていた。


 無論、何処かで破断点はある。


 帝国政府は可及的速やかなる戦果を望んでいた。強権国家の看板を維持するには、帝都空襲の失態を圧倒する程の戦果が必要なのだ。後方から増援として迫る門閥貴族という存在もある。軍事的活躍が手元にない儘では、侵攻軍全体の主導権がリディアの手中から転がり落ちる事になる。


 糧秣と弾火薬を備蓄する時間を捻出しつつ、門閥貴族の到着直前に後方兵站の保全を彼らに押し付けて〈南部鎮定軍〉の全兵力で決戦を挑むというのが、トウカの予測であった。門閥貴族が輜重線の保全に失敗したならば、決戦の勝敗に関わらず責任を問う事ができる。今後の帝国の軍事行動で門閥貴族が主導権を握る事を阻止できるのだ。大兵力を擁して輜重線に臨みながらも失敗するという無様を晒せば、少なくとも軍事的信頼は失われる。


 ――リディアめ……政治を全く考えていないな。


 リディアが銀輝の姫将軍という異名を持つ意味をトウカは、決戦に当たって痛感していた。


 帝国に仇成す一切合切悉くを斬り払う破邪の大剣を掲げる姫将軍。


 政治など露ほども窺わせない異名である。


 履歴から巧く政治的局面を乗り切っていると考えていたトウカだが、リディアは直感というべきもので政治を相手にしていた。危機を感じ取る嗅覚に政戦の区別はない様子が垣間見える。


 ――カチューシャの口添えがあったのか? 皇国軍の被害の最大化を図ったか?


 国内問題を処理する時間を捻出する為、皇国軍の外征能力を削ぐ事を優先したというのであれば辻褄は合う。その場合、門閥貴族より、最大の国内問題であろう労農赤軍の拡大を重視したという事になる。


 ――気に入らんな。消耗した国土に共産主義政権……国力と活力を失うには最適なのだが。


 帝国が二分され、共産主義政権と帝国が相争うという状況が最も好ましいのだ。共産主義政権に兵器貸与による支援を行い、皇国は資源を得る。不利な戦況に陥れば、共産主義者は国民を磨り潰しながら資源採掘に勤しむ事は間違いない。結果として国力と人口は失われる。


 当然、トウカとて高望みであるとは理解している。


「しかし、帝国の工業地帯は大都市に隣接している場合が殆どです。焼くというのは……」


「皇国と帝国は互いを国家として認めていません。皇州同盟の見解は皆様も御存知かと」


 〈北方方面軍〉輜重参謀の言葉を、リシアが正面から迎え撃つ。


 皇国と帝国は互いを国家として承認していないが、皇州同盟は帝国を自国の領土を不当占領している軍閥という扱いをしている。よって帝国臣民自体を侵攻軍将兵として即時退去を求めている。


 いかなる国家にも属しないという事は人権を有してないという事でもある。


 少なくとも皇州同盟は、そう宣言している。


 人権とは人類が有する最大単位である国家が承認してこそ意味を持つ概念である。人権は所詮、概念や思想に過ぎず、それが強制力を持つのは国家権力による承認があってこそなのだ。



 剣の裏付けがない契約は、単なる言葉に過ぎない。



 歴史がそれを証明していた。


 そして、皇州同盟は帝国臣民の人権を認めていないと明確に宣言している。その上、人権を保障する立場にもない。


 皇国軍も国家として帝国が未承認であるという理由から消極的に帝国臣民の損害を認めているが、皇州同盟は帝国臣民を明確に敵軍の一部であると宣言している。


 トウカは葉巻の紫煙に包まれたままに、将官達を睥睨する。


「我らの行く手を遮る者が何百万、何千万人、何億人と死したところで問題はない。否、我らの行く手を遮る者を悉く排除するべきなのだ。そうだ、いかなる手段を以てしても」


 皇国という国家にのみ責任と義務を有する者達が、その覚悟もなく国防に当たっているからこそ帝国の侵攻はあったのだ。敵を討つという明確な殺意が軍備に反映されないからこそ、帝国軍の侵攻が助長された。


「根絶やしにすると?」首を傾げたリシアが問う。


 嫌悪感を示さない点を見るに、実現性に乏しいのではないかという疑念が窺えた。少女は多大な変化を迎えていた。


「少なくとも自国より多い人口を備えた国家が北方に存在する事は許容できない」


 人口が減少した上で分裂する事が好ましい。


 大日連は中華が国民党政府と清朝、満州などに分割されたが故に、近隣の大国化を免れた。そうならなかった場合、自国より遥かに多い人口を備えた国家が近隣に誕生していただろう。積極的に分割を求めて地方軍閥に兵器売却を行った点をトウカは高評価している。


 トウカは、皇国が来たる戦乱の時代を乗り越えた後、成長し続けるにはそれしかないと見ていた。


「ふむ……人口をそこまで気にするか」


 その渋い声音……アーダルベルトの言葉に、トウカは立ち上がる。


 元帥号を持つ相手に対する敬意からではなく、見下ろされる構図を嫌った為である。無論、立ち上がったところで身長差から見下ろされる点に変わりはないが、格下に見えるという一点のみを気にする主義者を抱える皇州同盟軍には無視できない要素である。


 アーダルベルトが航空基地からベルゲンへと舞い戻ったということは、航空基地の修復に目途が立ったという事に他ならない。


「航空基地は修理を続けながら稼働している。……最大の被害は天使種の集団詠唱魔術によるものであったが……まぁ、戦争だ」


「それはそれは……御転婆天使ともなれば龍に劣らぬ戦果を齎す様子で」


 トウカとアーダルベルトの視線が交錯する。


 暗に『航空基地の被害の大部分はヨエルがやらかした。御前が強く手綱を握っておけ』と言うアーダルベルトに対し、トウカは『天使の活躍は龍に劣らないけど権勢は大丈夫ですか?』と返したに過ぎない。組織を統率する者としての日常的な光景と言える。


 ヨエルに邪魔だと蹴飛ばされたと聞くアーダルベルトを気遣う真似など誰もしない。寧ろ、思い起こさせないのが優しさである。


 無論、トウカの笑みにそれを察してアーダルベルトは眉根を顰めた。対称的にリシアは軽やかな笑声を零す。その笑声と仕草は実にマリアベルとよく似ていた。


 トウカとアーダルベルトは、それを一瞥すると互いに肩を竦めた。


 二人の遺恨の発端となったマリアベルが、今は声音だけを以て二人を揶揄(からか)うのだ。そこには奇妙な誨謔味があった。


 咳払いするアーダルベルト。


「ドラッヘンフェルス高地に帝国軍の一部が防衛線を構築中だそうだ。驚いた事にかなりの数の戦車が居る様だ……帝国の底力とは侮れぬものだな」


「輜重線の防衛に回されていた戦力を糾合して防衛戦の構築を試みているのかと。戦車は急進してベルゲンを突くのに間に合わないと戦略予備に回されたものでしょう」


 トウカは後方にも目端の効く将官が居たのだろうと推察する。フルガーエフ中将が手を打ったにしては迅速に過ぎた。


「兵力を纏めて仕掛けるには時間が掛かろう。何とする?」沈黙を保っていたベルセリカが声を上げる。


既に兵力の損耗から皇国軍が継戦能力を喪失していると見做している者達とは対照的に、ベルセリカは今次戦役で徹底的に戦果拡大を図って帝国の損失を最大化させるべきと考えていた。


「二公爵の軍狼兵師団と装虎兵師団も包囲には加わろう。包囲殲滅は早急に行うがよい。某も戦野に赴こうぞ」司令部の煙草臭さは叶わぬ、とベルセリカは犬歯を剥き出しにする。


 士気向上の意図であると理解できるが、〈北方方面軍〉司令官が前線部隊の近くに姿を見せては万が一という事もある為、トウカは否と撥ね付ける。無論、最大の理由は各師団長が委縮するからであった。


「周辺の残敵掃討に要する時間は三日と推測される。ドラッヘンフェルス高地の防衛線には余剰の航空戦力を割り振って削ぎ続けるべきだろう」


 〈南部鎮定軍〉の位置は未だに不明であるが、包囲殲滅の好機を逃してはならない。例え、司令部が包囲下になくとも、戦力の過半の包囲に成功した事実に変わりはないのだ。


 トウカは将官達を、狂相を以て見据える。


「開囲を許すな。完全な包囲殲滅を図るのだ。一兵たりとも逃してはならない」


 (みなごろし)にするのだ、と断ずるトウカに、両司令部の将官達が一斉に敬礼する。


 弛緩した雰囲気は既にない。


 トウカの殺意が帝国人だけに向く訳ではない事を彼らは良く理解していた。内戦とその後の皇州同盟成立時の喜劇によって、トウカが皇国軍にも酷烈な人物であると誰しもが認めたのだ。


「姫将軍はどうなさいますか?」


「航空歩兵が捜索に当たっているのだろう? 捨て置け。委細、セラフィム公に任せる」


 リシアの言葉に、トウカは眉を顰めて応じる。


 ミナス平原に歩く戦術核が彷徨しているという現状に対する懸念もあるが、つくづくと敵中での単独行動に縁のある将官という現実感を伴わないリディアに対する複雑な心情もあった。非現実性を伴う姫将軍。正に英雄と言える。


「なかなかどうして巧くはいかないな……」


 トウカは、リシアが差し出した灰皿に葉巻を押し付けて圧し折った。












「困った。これがサクラギ元帥か。勝てる気がせんのぅ」


 ブルガーエフ中将は顎鬚を撫でながらも戦況の記された地図から視線を逸らす。


 戦況の変化に情報伝達が追随できていない状況で、地図上の戦力配置を信頼する真似もできず、実際は更に悪化しているであろうと判断できる。トウカの強引なまでの主導権獲得への姿勢に戦線の再整理は間に合わない。


 ――北西方面が手薄ではあるが……


 航空艦隊が乱舞する状況では、包囲の布陣を開囲する事は多大な困難を伴う。迅速に行われる近接航空支援の前に足止めを受け、装甲師団に回り込まれる事は確実であった。否、莫大な数の近接航空支援の下では支援が主攻になりかねない。足止めではなく壊滅という結果は十分にあり得た。


 現状は、帝国軍も完全に包囲されたとは言い難い。数の上では歩兵が主力である以上、完全な包囲に至るには歩兵師団の移動速度に包囲が左右されるという前提は変わらない。


 当然、航空艦隊に装甲師団という戦力を前にしては、開囲を試みる事は容易ではない。現状の〈南部鎮定軍〉に、それらの戦力を押し退けて撤退路を形成する事を可能とするだけの戦力は存在しない。当然、侵攻以前にも存在しなかった。


 航空戦力を総反攻に備えて戦力保全していた時点で、皇国軍の勝利は確定していた。挙句に敵中深く……縦深へと引き摺りこまれたが故に撤退距離は侵攻を試みた距離に比例する。


 ――軍神! 嗚呼、実に軍神であろうな!


 帝国軍が侵攻した時点で、今次戦役終決までの道筋は立っていたのかとすら思える。否、有力な航空戦力がありながらもエルライン要塞を放棄した事から、誘引された事は確実であった。


「〈集成南部軍団〉が殿を務める。それ以外は大隊規模に分散して撤退する。撤退路は各々の判断に任せようて」


 包囲が完全ではない今しかない。


 統率された指揮の下での撤退は、戦術行動を容易に気取られかねない。主導権を喪った現状、佐官や尉官の平均的な質でさえ大きく優越する敵軍の即応性に対抗できるはずもなかった。


「危険です。今、後退すれば総崩れになる恐れが――」


「――踏み止まれば、完全な包囲の下で全滅だ」


 文字通りの全滅を避けるには行動するしかない。例えそれが多大な被害を伴う行動であっても。


「閣下、〈アルダーノヴァ軍集団〉は……」


「姫様であれば……そこで死ね。くらいは言いかねぬがな……撤退に移れ。それだけで良い」


 敵総司令部に最も接近したと言えば聞こえは良いが、撤退となると、最も敵中深くに展開しているという言葉に変化する。


 ブルガーエフは〈アルダーノヴァ軍集団〉のフョードル・ストロガノフ上級大将と知らぬ仲ではない。戦野を共にした事もある戦友であり、彼が取るであろう行動を容易に想像できた。


 十中八九、戦線を今一度、押し込むだろう。友軍の撤退を実現する為に。


 勝算は限りなく低い。


 ブルガーエフは喪われるであろう戦友への情を振り払う。


「しかし、一部の歩兵師団の足並みが揃っておらぬところを見るに、あちらも指揮統制が漫然とは言えない様であるが……間隙を突けるやも知れぬ」


 大軍の指揮統率が容易ではない事を、人海戦術を採用する帝国陸軍に属するブルガーエフは良く理解していた。補給以上に指揮統率が相乗的に困難を増していくのだ。


 無名の指揮官である事から実戦経験が不足していると推測されるサクラギ・トウカの限界であると、ブルガーエフは考えた。


 実際、それは間違いとも言えない。


 トウカは、通信が著しく制限を受ける戦場を想定していなかった。空調の効いた総司令部から即応的(リアルタイム)で戦況を俯瞰し、長射程の兵器群や高度な専門性を獲得した軍隊を操り流動的な戦略を行使する戦闘……近代戦こそがトウカの本分である。古式ゆかしい戦略を以て応じねばならない状況自体が想定外なのだ。訓令の拡大による補正にも限界があった。


「ですが、それに付け入る程の即応性は……」


「であろうなぁ。釣り上げた虎や狼の大群も戻ってこよう」


 そうなれば開囲は不可能となる。


 左翼戦線を形成していた〈エフスチグネーエヴァ軍〉は、皇国軍の軍狼兵師団と装虎兵師団の迂回機動を阻止する任務の代償として壊乱しつつあった。両師団も相応の被害を受けて後退したものの、〈エフスチグネーエヴァ軍〉も指揮統率に支障が出ている。二個師団で一八個師団に戦闘能力を半ば喪失させる程の戦闘を行える相手が舞い戻ってくるのだ。些か兵力を減じたとはいえ、統率するのが各種族を纏める公爵となれば、その指揮統率は絶大なものがある筈である。虎と狼の種族的紐帯は一般にも流布していた。


 慌ただしくなる〈南部鎮定軍〉司令部。


 司令部はミナス平原ではなく、その北西に位置するシュネーヴァイスヴァルトという森林地帯に展開していた。リディアから指揮権を委譲された時点でブルガーエフは司令部をシューネヴァイスヴァルトに移したのだ。無論、それ以外の地域にも展開する無数の擬装司令部という発案もブルガーエフによるものであり、航空攻撃による指揮系統の壊滅を抑止する為の作戦であった。無論、擬装司令部と言えど形だけではなく、複数の擬装司令部を経由した形での通信による擾乱や擬装通信なども行われていた。中には擬装通信を敢えて行わない擬装司令部も存在し、実在性を高めていた。


 対するシュネーヴァイスヴァルトという山林地帯に展開する本物の〈南部鎮定軍〉司令部は、通信を鳥によって通信文を他方へと飛ばし、擬装司令部から発信させるという手法を採用している為に発見を免れていた。


 皇国軍がシュネーヴァイスヴァルトの索敵を重視しなかったという点も大きい。


 シュネーヴァイスヴァルトは特殊な針葉樹の群生する森林である。シュネーホルツシュラオベという種類の針葉樹は白い針金と称される通り、針金の如き強度を持つ純白の針葉を、年間を通して身に纏う事で外敵から身を纏っていた。そうした針葉樹が無数に立ちはだかる土地での行軍と展開には多大な困難と苦労を伴う。実際、〈南部鎮定軍〉司令部の展開に当たり、作業中の工兵が針葉が眼に刺さって失明するという“戦傷”も起こっていた。


 しかも、シュネーホルツシュラオベによって上空からは雪解けを経ても純白であり続けており、索敵軍狼兵も不用意に足を踏み入れない。軍狼として広く採用されている黒狼も針金の槍列に足を踏み入れる事を躊躇する。生物であるが故であった。


 低空飛行による航空索敵が行われているが、陣地転換も容易ではない事から皇州同盟軍と〈北方方面軍〉は部隊が展開している可能性は低いと見ていた。


 ブルガーエフは、皇国軍の盲点を突いたと言える。


 実際、トウカが索敵に関しては各航空艦隊司令部に一任していたという部分も大きい。彼らは索敵よりも航空攻撃を重視し、帝国軍の人海戦術という戦闘教義に基づく運用を想定した予想をしていた。よって、主要街道や平原地帯に対する重点的な多段索敵が行われている。無論、それらは帝国軍の輜重部隊や物資集積地、増援部隊を発見して戦果を拡大させる要因となったが、本物の司令部だけは発見できなかった。


「我々も撤退する。各々方、眼鏡を忘れぬ様にな」


 冗談を飛ばして見せるが、その反応は実戦経験の差によって分かれた。


 リディアが迎え入れた宿将達は野太い声で笑声を零して逆境への慣れを見せた。内心としては兎も角。対する優秀な将校として将来を嘱望されつつも、未だ実践経験に乏しい者達は引き攣った笑みを隠し切れていない。


 実際のところ、一部の宿将達は己であれば撤退戦を実現できるとすら考えている。その過剰なまでの確信と自信こそが彼らを将官にしたのだ。


「撤退は一路、西方を目指し共和国側へと見せかける。尤も、それは儂だけだ」


 共和国戦線の戦友……一個軍集団を預かるガンニバル上級大将へと連絡し、西方戦線の一部戦力で皇国と共和国の国境沿いまで戦線を拡大して欲しい旨を、リディアによる迂回奇襲が開始されたと同時に伝えていた。


 友軍戦線が迫れば、撤退する部隊の撤退距離は縮小する。


 そう皇国軍は考えて慌てるだろう。彼らは自国の国防を最優先しているが、帝国軍からすると皇国は戦線の一つに過ぎない。共和国戦線の動向の優先順位は低い。露呈は遅れるであろうが、一部が西方への離脱を目論めば察する筈である。


 陸上と航空の戦力を分散させる。


 ブルガーエフの目的はその一言に尽きる。


 敢えて戦力分散を行い、尚且つ西方に追撃を集中させる事で、ドラッヘンフェルス高地で戦線を形成しつつある〈グローズヌイ軍集団〉と合流する部隊の被害を減少させる。


 共和国という他国に越境した敵軍を追撃する事を皇国軍は躊躇する筈であり、壊滅させる事を優先する筈である。ドラッヘンフェルス高地への撤退であれば、未だ国内であり撃破する機会はある。


 トウカは優先順位を違えない。


 それ故にブルガーエフも先を読めた。優秀であるが故に戦略面での選択肢は少ない。


 葉巻の先端を副官に切らせ、ブルガーエフは燐棒(マッチ)を傷だらけの野戦机へと擦る。


 灯された燐棒(マッチ)の火で葉巻の先端を燻す。


 ――逃げ切れるのは一〇個師団程度かの。


 それも完全編制の装備と練度が充足した師団ではなく、武器を捨て寒さに震えながら逃げ出した敗残兵からなる兵力である。


 武器弾火薬の備蓄は、未だ後方に十分にある。野戦砲はないものの、兵力が減少が確定した現状では不足していた筈の食糧すら相対的余裕が生じるだろう。


「しかし、捕虜を取らぬ、を宣言通り行うとはの。中々に苛烈じゃな」


 エルライン回廊を巡る一連の戦闘での発言を有言実行している報告に、ブルガーエフはトウカを恐れた。


 トウカの苛烈さを恐れる者は多いが、トウカの有言実行の切っ先となった皇州同盟軍と陸軍〈北方方面軍〉の将兵にそれを実行させ得るという事実の意味にまで辿り着いた者は少ない。


 人道的な姿勢を持つ皇国政府に統制された筈の皇国陸軍が、降伏を許さずに帝国軍将兵を射殺しているという事実は、トウカの影響力が政府と陸軍の基本姿勢を湾曲できる程に肥大化している事を意味する。国際政治の舞台では老獪にして老練なれども、決して苛烈にして酷烈ではなかった各公爵を納得させたであろう事も捨て置けない。事実上、トウカの隷下として振る舞う四人の公爵の意図次第では、帝国本土侵攻に怯える事となりかねない。


 トウカは、帝国本土侵攻を宣言している。


 降伏を認めないという姿勢を認めさせたのであれば、帝国侵攻という方針への転換を迫る事も可能ではないのか?


 ブルガーエフは、そう懸念していた。


 帝国という国家を未承認である以上、皇国本土に侵攻してきた軍を国家に属さない武装勢力として扱うというという論法は、本来は帝国政府が行っていた見解である。皮肉を以て帝国軍将兵は異国の片隅で屠殺されようとしていた。


 窮鼠と化した帝国軍将兵によって被害が増すという点をトウカが理解しないはずがなく、トウカには皇国軍に生じるであろう被害よりも、降伏を認めない事による何かしらの利益が上回ると見ていると推測できる。


 それは果たしてどのようなものか?


 ブルガーエフには理解しかねた。


 しかし、戦わねば活路を見いだせない事は確かであり、寧ろ帝国軍将兵の降伏という逃げ道を塞いでくれたトウカに感謝してすらいた。捕殺されたとの宣言がないリディアが離脱している可能性は極めて高い。夜間に一時的に途絶した攻撃が再開された点を見るに飛行場襲撃は失敗したのであろうが、敵の最高指揮官を捕殺して沈黙を続ける事は軍事常識にそぐわなかった。


 ここで降伏してしまえば、リディアの捜索に兵力が割かれる事になる。それを避ける為にも、ブルガーエフには〈南部鎮定軍〉に未だ戦争をさせる必要があった。


「さて、軍神とやらには、老人の(いくさ)に御付き合い願うとしようかの」


 ブルガーエフは髭を撫でて、老紳士然とした仕草を以てトウカへの手合わせを願った。













「粘る上に分離するか……」


 トウカは昼食後の一時の中で報告を受けた。


 完全な包囲には未だ二日の時間を要する中、〈南部鎮定軍〉司令部は指揮統率を放棄した。


 〈南部鎮定軍〉の所属師団の全てが、統制の取れぬ後退を開始した瞬間、トウカは勝利を確信したが、大隊規模にまで分散して各方面に散る様に拡散しつつあるという報告に全てを察した。


 ――ブルガーエフ中将。指揮権を放り投げたな。やってくれる。


 指揮権を放棄したのではなく、各部隊に独自行動を以って戦域を離脱せよと命令したのだろう。この瞬間、〈南部鎮定軍〉に指揮統制という言葉はなくなった。無数の大隊指揮官達による無秩序な後退戦が開始したのだ。


 密集して鎧袖一触にされるよりも、未だ包囲が完全とは言い難い中で、分散して離脱しようという試みを察したトウカは、ブルガーエフの軍事的才覚を上方修正した。


 軍司令官が統制の取れない方法で撤退を選択するのは、多大な勇気と覚悟を必要とする。軍司令官の任務は隷下部隊の指揮統率であり、それを率先して手放す真似は指揮権放棄と取られかねない。後に軍法会議となる可能性は十分に有り得た。


「閣下……」


 布巾(ハンカチ)を手にしたリシアが近付く。


 意味を察したトウカは布巾(ハンカチ)手にしたリシアの右でを払い、自身の袖で口元を拭く。


「一部が包囲から脱しかねません。他は包囲できるでしょうが……」


 リシアの困惑気味の言葉は、両司令部の参謀達の内心を現していた。


 大軍の指揮官が指揮権を放棄して、無数の部隊に独自行動を許すというのは軍事史の上でも極めて希有な例と言える。軍組織は作戦計画に於いて前例主義的な部分があり、前例のない事象に対して弱い。


「降伏を認められてはどうでしょうか? 交戦時間を短縮できます」


 皇州同盟軍、航空参謀のキルヒシュラーガー少将の提案に、幾つかの同意する声が響く。リシアの視線が厳しさを増す。


 皇国軍は、今次戦役で無分別に捕虜を認めない事で合意している。


 正確にはトウカが認めさせたのであり、ヨエルや大蔵府長官も合意している。捕虜を養う為に予算編成を行う政党は議席を一つ残らず失う事になるとトウカが断言したからである。つまり、多数の捕虜に多額の予算を投じる真似をするのであれば、それを以て皇州同盟が情け容赦のない批判を展開すると暗に示したのだ。


 国民感情としても侵略者の為に予算を裂く真似は許容できない。エルライン要塞を巡る以前までの戦争とは違い本土決戦となっているのだ。それも現在の決戦は皇国中央部を背後にした国家興廃を決めるものである。


 国民の意識は……危機感は確実に変化しつつある。国民の国家的紐帯と他国に対する排他性が増し、より急進的な姿勢を政治に求めるだろう。皇都擾乱に紛れて左派系新聞社を実力で排除した事も大きい。先代天帝の融和主義的姿勢を擁護する有力な権力は貴族の心情以外には消え失せたのだ。


少なくとも、トウカはそう見ていた。


「捕虜を認める時期については俺に一任されている。だが、現状では認めない」


「しかし、弾火薬の備蓄を民兵同然の連中に消費するのは些か気が引けます。……ああ、勿論、国内外の人道主義者の批判も問題でしょう」


 そちらに弾火薬を消費する程はありませんぞ、と付け加える皇州同盟軍、砲兵参謀クルツバッハ少将の言葉に、〈北方方面軍〉の参謀達が息を飲む。


 〈北方方面軍〉参謀達は、民衆を黙らせるのに砲兵を用いる事を視野に入れているという発言と、トウカという暴君に対して積極的に意見する者が多い皇州同盟軍の現状に対する驚きを隠せないでいた。前者を躊躇しない暴君に対しての積極的進言を恐れない皇州同盟軍将官に対する畏怖がそこにはある。


 実情として、ヴェルテンベルク出身者は内戦前から、それ以外の北部出身者は内戦中からマリアベルという暴君に馴れていたからとも言える。合理性の伴う積極的意見を迅速に提案できない者が要職から外されるのは日常的光景に過ぎなかった。


「下層の民衆運動を叩くのには、理屈では駄目で、砲兵を用いて潰すに限る、だな」


 大陸軍(グランダメル)を率いて欧州の過半を征服した仏蘭西人民の皇帝の言葉は一つの真理である。感情論を理由に政戦に口を挟む者を相手に理屈を口にしても意味はない。物理的手段こそが彼らの主張を良く抑止する。


「それは流石に……」躊躇いがちに〈北方方面軍〉衛生参謀ハントローザー少将が言葉を零す。


 トウカはハントローザーを一瞥する。


 リシアがトウカが内戦中に使用した除倦覺醒劑(ペルビチン)の副作用を排除すべくハントローザーを頼らなかった事からも分かる通り、現状で協力できない派閥に属しているのだろうと、トウカは見当を付ける。


 隣のリシアを一瞥すれば、リシアが小さく頷く。


 トウカは捕虜の扱いに関して異論を挟もうとする者達を見据える。


「わが軍の野蛮さ、冷酷さに怒号を上げる人もあるかもしれないが、戦争は戦争であって人気取りではない」


 戦争とは国家に属するあらゆる要素の削り合いに他ならない。それには人的資源も含まれる。情勢と政治が許すのであれば断じて削るべきである。


「そもそも、何十万などという捕虜など取れるものか。誰が飯を食わせるのだ? 捕虜は必要だが、二、三万で十分。できれば士官や下士官を中心にするべきだろうな」


「捕虜を取られるのですか? 以前の御言葉通り女性兵士を娼館に沈めるので?」


「馬鹿を言え。鉄格子の付いた娼館など、どこにある? 収支に合うものか」


 人工不足に悩む北部で強制労働という思惑も過ったが、膂力に劣る人間種ばかりの労働者など成果は限定的とならざるを得ない。その維持費を重機の量産に回す事でより効果を望める。何より、食糧を消費もすれば不平も口にする者達を抱える不利益は軽視できない。


 移民という選択肢もない。排他的な北部臣民が侵略者を受け入れるとは思えず、摩擦の原因となる。何より祖国に居付いた異民族が祖国の権益を蚕食する光景を知るトウカは、将来的な禍根を残す決断などできるはずもなかった。


 可能であれば、トウカも最大限に捕虜を受け入れたい。


 しかし、それはトウカの善性に依る所ではなく、将来的な帝国侵攻に合わせて解放軍を編制する為のものである。望まない者は慣例に従って、戦後に足の腱を切って帝国へと送還すればよく、帝国本土侵攻は解放軍を先鋒に行えば被害の低減を見込める。


 無論、間諜や叛乱の可能性は付き纏う為、多額の予算と多数の人員が必要とされる事から現実的ではない。現在の皇国にそうした余裕はなく。北部臣民の食糧すら充足しているとは言い難い状況で、敵兵を養うという決断はトウカの権勢を揺るがしかねない。


 妥協として、トウカは士官や下士官などの解放軍の基幹となる人員を捕虜として確保する事で、将来の侵攻時に敵地で解放軍編制を行う準備とする事を考えた。人海戦術を戦闘教義として学ぶ帝国軍将校であれば、帝国侵攻時に現地採用した民兵を上手く扱える事は疑いない。


 ――食糧不足であれば、輜重を充実させればこぞって志願するだろう。


 食い詰めた民衆が軍へ志願するのは歴史が証明している。当時は高級品であった白米が食えるという理由で志願した次男や三男も少なくなかった。兵士を集める事は不可能ではない。侵攻してしまえば、間諜の有無など関係はなく、解放軍は先鋒となる。侵攻に成功し、帝国南部に衛生国を建国できた暁には、彼らを衛生国の国軍として採用すればいい。無論、活躍した生存者が存在したならば、であるが。


 帝国の国是と姿勢から寝返る可能性が低い事も、解放軍という可能性をトウカに推した。裏切者として積極的に攻撃を受けるであろう中、生き残るべく勇敢に戦う事は間違いない。督戦隊は必要なく、強いて言うなれば圧倒的航優勢力そのものが督戦隊になる。


 諸事情はあれども、決着を急がねばならない。


 機略戦で後塵を拝する真似は許されないのだ。遥かに優れる戦闘国家で国軍の一翼を成す定命を受けたものとして。


「そろそろ状況を大きく動かすべきだろう」


 友軍の移動力の問題から包囲が間に合わぬのであれば、敵の移動力を挫くしかない。何も軍事行動や地形的要素だけが敵の行動に制限を強いる訳ではなかった。


「通信参謀。平文で発信。飛行場周辺の安全を確保。トラヴァルト元帥は壮烈な戦死を遂げたり、だ」


 リディアはヨエルの追撃を逃れた……実際、痛み分けにに終わった。二人は同程度の負傷を以て交戦を止めた。リディアが作戦継続を不可能と見て離脱開始した結果であるが、ヨエルが航空基地防衛に成功した為、皇国軍の戦略的勝利と言える。


 立ち上がり背を向けた通信参謀から視線を外し、トウカは壁の戦域図上で増殖した大隊という戦闘単位に眉を顰めた。


「いかんな。時期を間違った。欲が出たか。俺もまだまだか」


 黎明時に再開された航空攻撃と同時に行えば、飛行場襲撃が失敗したという事実がリディアの戦死を、鮮烈に敵司令部に叩き付ける事ができただろう。今から航空攻撃の出撃間隔を狭くする事で飛行場の健在を意識させる事はできるが、既に敵司令部が指揮権を手放した状況では意味がない。


 トウカはリディア戦死の誤情報を、扱うべきか判断に迷っていた。敵将兵がその一言に戦意を喪うか復讐心に燃えるか判断しかねたからである。


 強権的な帝国主義国家という枠では計れない程の魅力(カリスマ)がリディアにはある。民兵同然の兵士が大部分を占める無数の急造師団を致命的な混乱もなく扱う事に成功したという事実には、ある種の権威があって然るべきである。少なくともトウカは急造師団を扱い切れる自信がない。



 服従が何の利益も齎さないとすれば、服従者はいつまでも命令者に寛大では有り得ない。



 トウカは、それがヒトという生物の真理であると理解している。そして、それを超えて己の意図を利益もなく隷下将兵に強制できる要素こそが英雄という生物の最も恐れるべき資質であると信じて疑わない。


 それは最早、宗教である。


 宗教的感情に根差した者達と相対する状況を避けるのは、大日連では常識であるが、トウカの桜城一族は遠く戦国時代にそれを実体験として学習している。僧兵を有し、政治に介入する僧侶の属する宗派を区別なく殺戮した“実績”に基づくものであった。反省と自戒を込めて、桜城一族は「次はより効率的にやってみせる」と決意したのだ。


「成功しますか?」


「分からんな。だが、無理ならば包囲を継続しつつ、敵兵力の漸減は航空戦力主体に行う」


 〈アルダーノヴァ軍集団〉は、尚も無理な攻勢を継続しつつあるが、既に攻勢限界を迎えている。夕刻までには後退に転じると推測された。或いは、強攻の結果として壊乱の可能性もある。正規軍が大部分を占める〈アルダーノヴァ軍集団〉は盛況である。〈集成南部軍団〉も今尚、師団規模での抵抗を止めていない。


 加えて分散した無数の大隊に〈ヴェルテンベルク統合打撃軍〉は手を焼いていた。敵司令部という焦点が失われ、消耗戦に引き摺り込まれそうになる事を避け、ザムエルは敵位置の報告をしつつも、有力な規模となって密集する集団以外は放置していた。


 アーダルベルトが航空基地に籠り、戦域管制騎を経由した報告を元に、航空部隊の攻撃目標を離脱の可能性が高い遠方の敵部隊より設定していたが、地形的要素や航空索敵に投じられた偵察騎の練度不足で見逃した部隊も少なくない数となる事が予想された。


 トウカは戦略の見直しが必要であると覚悟する。


 そこで、司令部に小さな狐が姿を見せる。


 先程より半開きの扉の淵より突き出た狐耳を気にしていた者は少なくない。リシアの時折向ける「処理致しますか」という冷厳な視線に応じる手間に、トウカは倦怠を感じてすらいた。


「大隊規模にまで分散した急造師団など放置すればいいのです」


 さも到着したばかりのように振る舞う小狐。


「……シャルンホルスト大佐。居たのか?」


「つい先程、司令部に到着しました」


 少なくとも二〇分以上前から狐耳は突き出ていた。リディア戦死の誤報を流すべく席を立った情報参謀が扉の前で「どうしますか?」と困惑した視線でトウカに問いかけた事実は綺麗に抹消されている。


「ドラッヘンフェルス高地で戦線を形成しつつある敵の糧秣を消費させるべきだ、と?」


 投げ出した武器と弾火薬を配布して再戦力化されるという一言が参謀達から飛び出す事はない。命かながら敗走した兵士が短期間で再び戦野に赴ける程の士気を得る事は難しい。兵士の感情を無視した判断と言える。


 トウカはネネカの思惑を察した。


 帝国軍の敗残兵を積極的にドラッヘンフェルス高地で戦線を形成しつつある戦力……〈グローズヌイ軍集団〉に収容させる事で不足しているとされる糧秣を更に不足させる。無論、最重要なのは、複数の敵部隊が合流する点にある。各所撃破が野戦軍に於ける最上という風潮があり、そしてトウカも各所撃破という戦術行動を機動力による優越を以て実現してきた。


 しかし、状況次第でそれは変わる。


 特に合流による混乱の瞬間に打撃を加えて壊乱させるという戦術は古来より存在する。近代では通信能力拡大に伴う戦線広域化によって展開部隊の間隔が広くなり続けている為、合流による混乱は限定的であったものの、状況次第であった。


 敗走した兵士の混乱や不安、恐怖は伝染する。糧秣を食い潰すという点もあるが、尚も前線に立たせては恐怖心から督戦隊と争う事すら躊躇しないという混乱を引き起こす点は大きい。さりとて悉くを殺戮するには数が多い。それを命じる指揮官は兵士からの信を失うだろう。


 ――戦場に於いては、無能な友軍こそが最も度し難い、か。


 敗残兵による合流があれば、決して数字通りの兵力とは言えなくなる。


 そもそも、敗残兵達は合流できるのか?


 些かの楽観が滲む事を自覚しつつも、雪解けにより生じた泥濘の中、武器を捨てて逃げ出す将兵が追われて尚、ドラッヘンフェルス高地まで辿り着けるかという点をトウカは計りかねた。


 戦場では身体の限界が突然に訪れる。張り詰めた緊張の糸が切れて意識があるにも関わらず行動への意欲が失われるのだ。雪山での行軍訓練で遭難し、上官が解散を命じて生きる気力が失われて座り込んだままに凍死したという例もある。絶望と疲労からなる極限状態は、自らの生命に対する執着を意図も容易く失わせる。


 判断の及ばない問題に、トウカは喉を鳴らす。


 航空攻撃の優位性によって撤退中も彼らは強力な火力に晒される事になるが、分散して指揮統制の保持を断念した点がどのような被害に繋がるかはトウカにも分からない。無数に分散して撤退を試みる相手への航空攻撃がどこまで有効かという懸念があった。


 ――龍共を信用できるか?


 皇国軍航空部隊の大部分は、実情として対地襲撃を行える練度を備えていない。数の優位を恃みに押し込んでいる状況で、分散した相手に合わせて分散した場合、攻撃が可能かという問題がある。偵察結果に合わせた目標への誘導を正確に行える航法を持ち合わせた飛行兵は常に不足していた。


 ――本来であれば、戦闘回転翼機(ヘリ)の出番だが……


 類似した能力を有する航空歩兵も夜間から連続した稼働を続けており、設定された稼働時間を既に超えていた。ヨエルもアーダルベルトも中央部への浸透を怖れて強攻を命じているが、多数の軍狼兵が展開している中での突破は現実的ではない。一兵でも侵入した場合の政治的効果を考慮しての事である。


「もう一度の包囲、可能ではありませんか?」


 ネネカの囁く様な一言に、トウカは思惑の滲む小狐を見据える。


「……〈ヴェルテンベルク統合打撃軍〉をフェルゼン経由で北部に戻すのか? 駄目だ駄目だ。酷使が過ぎる。装甲師団は限界だ」


 魔導技術によって駆動部の強度が増しているとはいえ、既に予備部品は払底と言える段階に足を踏み入れている。共通規格として流用できる弾火薬とは違い各種部品は互換性がない故に他兵器から転用できない。


 ――この女狐。装甲師団を消耗させる心算か。


 優れた献策であるが、ネネカは常に皇州同盟軍を消耗させる決断に誘導している節がある。軍事的妥当性を御旗にして、皇州同盟の戦後の権勢を漸減する作戦計画を幾度も提案していた。


 空いた席がないので、トウカは自らの膝を両手で叩くが、ネネカは「結構です」と応じなかった。ネネカの小柄な体程度であれば膝にも負担にならないが、遠慮されては尚も食い下がる真似はできない。


 さも当然の様に、先程席を立った通信参謀の席へと腰を下ろすネネカ。余りにも自然な流れであった為、止める者は居ない。


「ここは犠牲を推してでも戦果を拡大するべきであると当官は考えますが」


 咳払いをしたネネカの一言だが、ベルセリカが視線で問い掛ける姿を横目に見たトウカは、賛意を示す者が意外と多い事を察した。


 ここで帝国軍将兵を徹底的に捕殺する事で再侵攻の可能性を低下させるという目的は、皇国国内の諸勢力共通のものである。皇州同盟軍による再侵攻を目論むトウカが戦力温存を通すには相応の理由が必要であった。


「困るな。戦後の北部防衛に責任を持たない軍から戦力抽出できないのか?」


「……閣下、閣下は十分に才覚を示されました。同盟軍も国内で軽んじられる事は……」


 困惑したネネカの反論を、リシアが鼻で笑う。


 その面影と、口元を扇子で隠す仕草が廃嫡の龍姫を想わせる。そう考えたのはトウカだけでなく、〈北方方面軍〉の参謀達……特に首席参謀のアルバーエル中将の狼狽は露骨なものであった。それ故にトウカは表情を保つ事に成功する。


「国の為に命を捧げても戦争には勝てん。勝つには、敵の兵隊を彼の国の為に死なせてやる事だ」


 自軍の将兵に消耗を強いる事と、敵軍の将兵に消耗を強いる事は等号(イコール)ではない。


 特に航空戦力によって戦力乗数(Force Multiplier)の比重が極端なまでに皇国軍優位に傾いている中で尚、将兵を喪う事を前提に強攻するのは憚られる。



 勝利を目前にして政治が鎌首を擡げ始めた。







剣の裏付けがない契約は、単なる言葉に過ぎない。


                  英蘭(イングランド) 哲学者 トマス・ホッブズ




わが軍の野蛮さ、冷酷さに怒号を上げる人もあるかもしれないが、戦争は戦争であって人気取りではない


                 〈亜米利加合衆国〉陸軍大将 ウィリアム・テカムセ・シャーマン




下層の民衆運動を叩くのには、理屈では駄目で、砲兵を用いて潰すに限る。


                 〈仏蘭西(フランス)第一帝政〉 皇帝 ナポレオン・ボナパルト




国の為に命を捧げても戦争には勝てん。勝つには、敵の兵隊を彼の国の為に死なせてやる事だ。」  

                 〈亜米利加合衆国〉陸軍 元帥 ジョージ スミス パットンJr.




服従が何の利益も齎さないとすれば、服従者はいつまでも命令者に寛大では有り得ない。


                 〈仏蘭西共和国〉大統領 シャルル・ド・ゴール


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