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紫苑穢国のエトランジェ  作者: 葛葉狐
~序章~    《千紫万紅》
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第二〇話    恋に於ける愚者




「主様、提案がありますっ! ……聞いてます?」


「…………………」


 愛しの主は、ミユキの問いに答えてはくれない。寝台(ベッド)に座り、手元にある書物を無言で眺めているだけだ。読書に忙しいのか、宿に帰ってきてから一言も口を開かない。ミユキは不満でならなかった。決して社交的ではない性格であるという事は分かっていたが、これ程までに本の虫だとは思わなかった。最早、蛆虫である。


 ――本より、私を愛でるべきですよ、もぅ……


 真剣な表情で読書を続けるトウカの横顔を窺い、尻尾を揺らす。ミユキは現状に満足していたが、その状態が長続きするとは思っていない。夢がいずれ醒めるように、幸せはやがて遠ざかるものだと理解している。種族的に保守的な狐種の一つに身を置くミユキは両親からそう教えられていた。


 トウカの横に座ったミユキは、むぅ、と唸る。


 その時、トウカの手が不意に伸びた。その動作を見てミユキは身体を硬くする。寝台に男女が二人並んで座り、片方が相手の身体に手を伸ばすとなれば、その行き着く先は限られている。


 トウカの手が触れる。尻尾に。


「へうっ!」


 驚きと感触にミユキは背筋を伸ばすが、トウカの片手は尻尾を掴んだままモフモフして離さない。そのこそばゆい感触に黙って耐える。だが、トウカは真剣な表情のまま、もう片方の手で本の(ページ)を捲っていた。その状態がしばらく続く。


「…………………………」


 無言で尻尾を触り、読書を続けるトウカ。


 ミユキは理解した。手慰みに尻尾を触られているだけなのだ。ミユキの密かな自慢である艶やかな手入れの行き届いた尻尾。狐種にとって尻尾とは特別な部分であり、安易に他者が触れることを許すことはない。トウカに触られることは嫌ではないが、手慰みに触られるほど狐の尻尾は安くはないのだ。


「酷いです……主様……」


 それは、トウカにとって尻尾……自分はそれ程までの存在ではないのかも知れないと、ミユキが思うには十分な行いであった。

 こんなに想っているのに相手には伝わらない。苛立たしいと最初は思っていたが、こうまで上手くいかないと次は悲しみが込み上げてくる。近くに置いてくれるということは嫌われていないはずだが、好かれているようには思えなかった。


「ミユキ……」


 トウカの瞳がミユキを捉える。


 だが、その瞳を、ミユキは畏れた。本来、その瞳は祖国の行く末を見据える為のものである。自身ではない、何処かの誰かの為に用意された瞳。それが自身ではなく更に大きなモノを見ている気がしてならない。遙か先を見据え続けるトウカ。自身の事を真剣に考えてくれる事は嬉しくもあり、恐ろしくもあった。


 苦しい。初めての恋心と有り触れた愛国心が仔狐の胸を締め付ける。


 ミユキは、立ち上がったトウカを突き離す。


 机の群れの間を掛け、聳える本棚の森を突き抜けて、仔狐は図書館を飛び出した。









 トウカは天を仰ぐ。


 咄嗟に手を突いた事で机から落ちた本を拾い上げ、隣の椅子に掛けていた外套(マント)を手に取る。預けた軍刀と輪胴(リボルバー)式拳銃を受け取り、追い掛けねばならない。無論、トウカは自らがベルゲンの地理に明るくない事を重々と承知していたが、事ここに及んでは是非もはない。


 先ずは、宿を確認すべきだろう。そう結論付けながらも外套を羽織りながら踵を返したトウカ。


 だが、その行き足が止まる。止まらざるを得なかった。


 そこに天使がいたのだから。


 淡い黄金の如き、足元近くまで流れる髪に、三対の純白な翼……六つの翼。宗教画から抜け出したと例えるにはあどけなさが残り、それでいて神聖不可侵な佇まいよりも淡く儚げな微笑みが印象として先立つ女性。


 天使という種族が存在する事は、ミユキより聞き及んでいるが、斯くも直視し難い者であるとは予想すらしていなかった。


 トウカは、またしても背後を取られたと頬を引き攣らせるが、机と椅子を背後にして距離を置く事は難しい。


「これを……」


 天使は淡い笑みを湛え、一振りの軍刀と一丁の輪胴(リボルバー)式拳銃が収められた拳銃嚢(ホルスター)を差し出す。翼に隠されたそれらに、トウカは天使の身に纏う衣服が司書と同様のものであると気付いた。


「……感謝する」


 軍刀と輪胴(リボルバー)式拳銃を受け取り、トウカは一礼する。恐らくは彼女も司書なのだろうと見当を付けて。


 大日連陸海軍に於ける軍刀の扱いは多分に精神的な側面を持つが、譜代武家出身者などを中心として未だに実戦での運用を行っている者も少なくない。その例に漏れず、トウカもまた駆ける際には邪魔となる軍刀の扱いを心得ていた。


 軍刀の佩鐶(はいかん)革帯(ベルト)へと佩刀し、腰に回して固定。そして、抜刀する。変化を拒むかの様に黒一色の刀身は変わらず、その刃先に刃毀れはない。そして、七〇式軍用長刀などに代表される皇軍軍刀の特徴の一つである鍔部分の鞘走りを防止する部分も異常はなかった。


 鞘に軍刀を収め、続けて拳銃嚢(ホルスター)から輪胴(リボルバー)式拳銃を抜き放つ。弾倉振出スイングアウト式の輪胴弾倉(シリンダー)を振り出し、構造と銃身を確認すると、腰の革帯(ベルト)に付いた雑嚢(ポーチ)から銃弾を取り出し、手早く装填する。


 武器に問題はない。小銃は宿に置いてきたが、都市内である以上、長射程の武器の必要性も薄い。


「では、之にて」


 トウカは今一度、天使に頭を下げて外套を翻そうとするが、その背に天使が言葉を投げ掛ける。


「知っていますか? 狐はね、一人になりたい時は高所に逃げ込むものなのです」


 馬鹿と煙はなんとやらでもあるまい、とトウカは振り向くが、そこに天使の姿はない。


 夢幻の如く忽然と消え失せた天使。まるで元より居なかったかの様に。疲れているのか、或いは幽霊か。


 トウカは苦笑するが、その言葉に従う事に否応はなかった。欧米の神話や伝承を見るに、天使が幸運を与える存在であるとは、トウカにはとても思えないが、少なくとも皇国では公正と忠義の象徴であると書籍には記されている。無論、欧米人の如く自らの主張を押し付ける事に熱心な種族であるとも取れなくもないが、いずれにしてもトウカに選択肢は少ない。


 ベルゲンの地理に明るいミユキに対し、トウカはあらゆる面で劣っている。この世界に於ける常識や基準も怪しく、特筆すべき膂力や感覚を持つ訳でもない。よって天使に諸々の行く末を賭ける事と、自らの思考を信ずる事に然したる差はない。


「賭けようか、総てを」


 ミユキはトウカの命運を握っている。自らに好意的な女性であり、この未知が満ち満ちた異世界でトウカに多くを教えてくれる存在と言えた。だが、それ以上に、胸中で蠢くナニカがトウカへ囁くのだ。


 アレを手放すな、と。


 トウカは軍刀に右手を添え、走り出す。












「優秀な御方の様で何よりに御座います……しかし」


 天使は大通りを駆けてゆく異邦人を、高層建築の空中庭園より一瞥する。悲しげな瞳には溢れんばかりの悲哀と悲観が涙となって滲んでいた。それは誰が為の悲しみの雫か。祖国か異邦人か自身か臣民か……或いは。


 天使は涙を手拭(ハンカチ)で拭う。


 彼は然したるを望んではいないが、それでも尚、戦乱の時代は彼に立身出世を強要するだろう。


 ――初代天帝陛下の仰られた通りの男子(おのこ)に御座いましょう。でも、そこまでしたのは誰なのでしょう。


 あの狐神だろうと天使は推測している。


 余りにも残酷。未来ある若者の心を縛る権利など、何人にもありはしない。ヒトは生まれながらにして自由である。ただ、血縁と所属、民族、種族などが後天的にある程度の進路を運命付けるだけである。あらゆる要素が存在する以上、その差異から境遇に差が生じるのは避け得ない。だからこそヒトは努力し、足掻き、ナニカを掴み取ろうと進む。


 その姿こそを天使は慈しむのだ。


 だが、異邦人の運命は既に決まっていた。その様に運命付けられているのだ。


 祖国の退廃をこれ以上ない程に実感した天使は、ただ静かに(かお)を伏せる。その姿は、夜の帳が下り始めた最中に在っても尚、儚くヒトを惹き付けずにはいられないものであった。


「ヨエル・リエ・フォン・ネハシム=セラフィム公爵。一体、何を御嘆きにありましょう?」


 しかし、対面に座した清楚可憐な女性は、然したる感情をも窺わせない声音で尋ねるのみであった。


精神の不動なるを以て使命を遂行する、浅葱色の髪をした妖精種に連なる女性。大尉の階級章を付けた陸軍第一種軍装を身に纏い、憲兵であることを示す腕章を袖に通しているが、その正体は陸軍軍人ではなかった。


「憲兵と偽るのは面倒を招くでしょう? 得策とは思えません」


 陸軍内でも絶対数が少ない兵科に偽装して潜入する事は、それ相応の危険性(リスク)を伴う行為に思えなくもない。


 天使……ヨエルは情報戦に明るくはない。


初代天帝の御代より情報を扱う分野は酷く分業化される傾向にあった。五公爵の中ではフローズ=ヴィトニル公爵であるフェンリスが得意としていた。初代天帝の情報優越の姿勢は特筆に値すべきものとして語り継がれているが、同時に情報が暴走する事を酷く恐れていた。情報を扱う者を潜在的脅威として見ていた事は、当時の記録からも見て取れる。


 ヨエルは知っている。初代天帝が本質的には誰一人にも信を置いてはいなかった事を。


 情報戦の中でも防諜分野で主力となる憲兵こそ、ヨエルの影響下にあるが、陸海軍の情報部などはフェンリスからも独立している。治安維持の武装勢力と言える憲兵隊だが、その行動は情報によって酷く左右される。よって、憲兵隊と情報部の結合は避けられていた。


 よって眼前の清楚可憐な女性は、ヨエルにとって貴重な耳目と言える。


「心配御無用に御座います。元より憲兵である身。下手な仕草で同業や間諜に露呈する愚を犯さぬ様に配慮している心算です」


 そうしたものですか、とヨエルは淡く微笑む。


 ヨエルの影響下にあるのは、皇都憲兵隊と国家憲兵隊のみである。ベルゲンに展開している野戦憲兵隊は影響下にない。軍内の綱紀粛正よりも貴族や政治家などの政治勢力に対して掣肘を加える事こそが、ネハシム=セラフィム公爵家に与えられた使命である。


「貴女は警戒されていませんか? クレア」


 浅葱色の髪をした憲兵……クレアへ、ヨエルは問う。


 いざとなれば皇都へと逃げ込むという選択肢もあるが、相手はそれを容易に許す程度の存在ではない。


 一拍の間が空く。


「警戒されていますが、それは他の者達も同様です、セラフィム公」


 相手の正体に然したる意味などないと、クレアは言い切る。


自身以外は総てが潜在的脅威なのだ。そうした姿勢を何百年と貫く事が如何(いか)に難しいか、ヨエルは知っている。強い感情は維持する事に多大な労力を必要とし、風化させぬ為に定期的な悲劇や惨劇を必要とする事実を認める者は少ないが、それは紛れもない事実。


 総てを怪しむ事を躊躇わない相手への畏怖をヨエルは抱いた。同時に、それこそが内戦の引き(トリガー)となった。


 マリアベル・レン・フォン・グロース・バーデン=ヴェルテンベルク伯爵。


 廃嫡の龍姫。鋼鉄の暴君。地を這う邪龍……幾多の異名を持つ神龍族の女伯爵こそが、北部の漠然とした不満に確固たる指向性を持たせた。よって、これはマリアベルの戦争に他ならない。


「彼女の様子はどうでしょうか?」


 ヨエルはマリアベルに憐憫の情を抱いていた。生まれてこの方独り身のヨエルは、国家成立以来、の重臣であると自負している。幾度も代替わりしている他の公爵とは違う。だが、国家への忠誠を誓っても尚、女であることを捨てた心算はなかった。そうであるからこそ、ヨエルはマリアベルの境遇を憐れんだ。


 ヴェルテンベルク伯爵位への叙任を取り成した事も、マリアベルを慰撫する側面があった。馬鹿な父親が己を遠ざけたという印象を減ずる為に、積極的に賛意を示した心算である。それだけの才覚もある。責任ある立場と護るべき領地を得れば逼塞するという打算もあった。


 しかし、マリアベルは想像を絶する烈女だった。突然の爵位拝命で反対するヴェルテンベルク伯爵領の家臣団を〈傭兵師団(ランツクネヒト)〉を雇用して親族諸共に殺害。領地に訪れた二日後の事である。その後は敵対的な勢力を漸減しつつ、重工業化政策を推進してヴェルテンベルク伯爵領を巨大な工業地帯に変貌させた。


 マリアベルは融和や妥協などをせず、敵対者を殺し、己の利益を最大化する。ただ、それだけなのだ。


「大過なく御過ごしに御座います。……ただ、些か不可解な事もあります」


 クレアが顎に右手を当て、小首を傾げる。ヨエルは視線を揺らして言葉を促す。


 現状では、ヨエルの想像通りの展開を迎えている。正確には想定していた予定の一つを逸脱していない。逸脱したならば、マリアベルには可及的速やかに“不慮の事故”に遭って貰わねばならなくなる。己の憐憫の情と国家の不利益であれば、天秤に掛けるまでもない。それが国家を存続させるという事に他ならない。


「当初、ヴェルテンベルク伯は、何年かの雌伏による軍備増強の後の開戦を主張なさっておられました」


 その点はヨエルも聞き及んでいた。ヴェルテンベルク領邦軍の主戦力は装甲部隊である。そこに有力な水上部隊も加わる。小国の軍備に匹敵する規模を単独で備えつつあった。装甲兵器は友好価格で北部貴族に提供されており、火砲や弾火薬の一大生産拠点と化している。現時点でも北部貴族の各領邦軍の装甲兵器や火砲の充足率は陸軍に優越していた。あと二、三年の猶予を与えれば、どれ程の規模にまで膨れ上がるか分からない。


「《スヴァルーシ統一帝国》……」


「いえ、帝国軍の侵攻が原因とは思えません。それを踏まえても内戦勃発までの動きが速すぎるかと」


 確かに、そうした部分はある。内戦と帝国軍の侵攻までもが重なるとは、ヨエルも考えていなかった。本来は別となると想定していたのだ。


 領民や貴族の熱狂に押される形で、マリアベルも頷かざるを得なかった。狂気と正気が表裏一体となった群集心理を相手に抵抗する無意味を選択しない事は正しい。正論や常識など焼け石に水であり、熱に浮かされた不特定多数による敵対程に対処し難いものはない。本来は、そうした状況に陥る事を避ける為に手を打ち続けるべきである。


 マリアベルは其れができる女性である。


「ヴェルテンベルク伯が意見を翻した事を不自然と考えているのですね」


 つまり、北部貴族や領民の熱狂はマリアベルに取り、想定外であった事を示している。


 あの有力な情報部と憲兵隊を自前で編成し、尚且つ、周囲を疑う事を隠さないマリアベルが、そうした失敗をするとは、ヨエルにも思えない。眼前のクレアも同意見であるのか、深く頷く。


「この熱狂を誘導した者が居ります」


「帝国側の間諜が浸透してきているという事ですね?」


 それも、北部の世論を誘導できる程に社会に浸透しているという事になる。


 帝国は、内務省警察部警備局(オフラーナ)という事実上の秘密警察を有していた。その実力は、帝国という強権国家を致命的な破断もなく継続している事からも推察できる。


 情報戦や治安維持に関しては、大陸内で帝国が最も力を入れている。他国に対する世論戦を行っても不思議ではない。


「叛乱軍が編成され、陸海軍と衝突し、双方の戦力が擦り減らされる現状は、帝国側に望ましい状況と言えます」


 クレアが言い募る。ヴェルテンベルク領邦軍憲兵隊司令官としては、忸怩たるものがあるのか、クレアの表情は暗い。清楚可憐な容姿には焦燥が滲んでいる。


 政治的に見るならば、確認は必須である。


「恐らく、直近の帝国軍の動きを見れば分かるでしょう。困りました。内戦が続くとなれば、貴方の知識を借りる事もできなくなりますね」


 帝国側の間諜が北部で跳梁し、状況を複雑化させているとなれば、その目的は限られる。単純な混乱を求めての事であると、ヨエルは考えていない。その程度の知能で浸透できる程に北部の排他性は与し易いものではなかった。ヴェルテンベルク領邦軍憲兵隊や情報部、タルヴェティエ侯爵が配下としていると噂される諜報戦力もある。


「帝国にとり最も利益を最大化できる状況……それは内戦によって皇軍双撃が本格化すること」


 何と言うことでしょうか、とヨエルは右上翅(右側上部の羽根)を抱き寄せ、口元を隠す。


 帝国の軍事力行使の結果を以て判断せねばならない。それは、主導権(イニシアチブ)の喪失を意味する。


 政戦共に主導権(イニシアチブ)が重要な要素である事は疑いない。只でさえ、帝国が攻勢側である為、主導権を取られつつある状況での静観は完全な喪失を意味する。それを今一度、取り戻しに掛かる際の資源消耗を踏まえた上での試算が必要となると、ヨエルは嘆息する。


 だが、躊躇していては主導権を得られない。相手の動きを図る心算が、反って相手の行動予定に合わせてしまう事もある。主導権を獲得するのではなく、相手の主導権を黙認してしまう事に繋がるのだ。政治も戦争も、その点に於いては変わりない。


 思案の為所(しどころ)である。


 二人して、机に置かれたビーネンシュティッヒ(Bienenstich)を切り分けて口に運ぶ。


 表面に軍粮精(キャラメル)を絡めた扁桃(アーモンド)を載せ、イースト発酵させた海綿(スポンジ)生地に卵泡(カスタード)入りの牛酪凝乳(バタークリーム)を挟んだ凝乳菓子(ケーキ)である。


 クレアは、その味に満足げな表情を浮かべている。


 ヴェルテンベルク領邦軍入隊時、軍務に就くに当たり、そうした部分を一切断ったと、ヨエルは聞き及んでいた。部下や上官に対して自らが厳格な軍人であると演出する為であり、それは噂を聞く限りは成功している。だからこそ、ヨエルは二人が非公式に合う時ばかりは甘味を用意して待っていた。無論、手製であり、だからこそクレアが断らない事を、ヨエルは見越している。


 紅茶を啜り、ヨエルは外へと視線を投げ掛ける。


 夜の帳が降りた中にあっても、要衝たる城塞都市ベルゲンは明るい。否、輝いていると言っても過言ではない。闇夜を払拭するべく焚かれた魔導の輝きが、ベルゲンの全容を浮かび上がらせていた。遠目にはベルゲンで最大の全長を誇る時計塔が窺える。


 ヨエルは“玉座に侍る者”。


 レオンハルトの様な“国難を打ち砕く者”でもなく、アーダルベルトの様に“天空を統べる者”でもない。武門ではないのだ。その本分は権力の保全にあり、その延長線上として国家憲兵隊を影響下に置いているに過ぎない。無論、近衛軍にも影響力を行使する事は難しくはないが、貴族の子弟を主体とした儀仗兵は実戦投入するには不安がある。


「貴女に戻ってきて欲しいのですが……御免なさい」


 クレアの嘗ての境遇を踏まえ、ヨエルは可能な限り政戦から遠ざけるべきであると考えていたが、動乱の気配がそれを許さない。ヨエルは政治的な蠢動を今迄は然して見せなかった。大抵が目に余る貴族や商家に“灸を据える”程度で、水面下での蠢動を行える手札は眼前のクレア以外にない。


 在りし日が胸中に去来する。


 彼女を拾い、育てたのは気紛れであった。当初は幾つも運営している孤児院に預けようと考えていたのだが、クレアは既に暖かな陽の光の下で生きる事を諦めていた。その瞳の奥底に、常にナニカを憎まずにはいられない酷烈な残光を燻らせていたのだ。他の子供達と同様に扱えば、何処かで悲劇が起きる事は容易に察する事が出来た。


 クレアは大きく、そして麗しく育った。そのナニカを憎み続けた儘に。


 職を得て独り立ちしたクレアだが、その就職先がヴェルテンベルク領邦軍憲兵隊であると知った時、ヨエルは絶句したが、今となっては有り難くもあった。クレアの御蔭もあって北部貴族の情報を、ヨエルは正確に知る事ができたのだ。


「ヴェルテンベルク伯は、私との繋がりを知れば、貴女を排除するかも知れません。気を付けて下さいね」


 ヨエルは孤児院で育った多くの子達と同様に、クレアの事も己が子であると思っていた。故に己の意志で進んだ道を応援したい感情と、マリアベルという暴君を危険視する感情が鬩ぎ合う。予てからの事であるが、クレアはヨエルに情報を流す事で助けている。或いは、自らを助ける為にこそ、その道を選択したというのであれば、ヨエルは尚更止める術を持たない。


 汝、健気と挺身を愛せよ。ヨエルの教えである。それを実践するならば、ヨエルはクレアを止められない。


 しかし、クレアは淡く微笑むと、楽しそうにころころと笑声を奏でる。


「小官は既に知られている。そう考えております」


 これは小官とヴェルテンベルク伯の駆け引きなのです、と言葉を重ねるクレアに、ヨエルは絶句する。


 或いは、マリアベルが二重間諜(スパイ)として、クレアを見逃しているならば、均衡が崩れた瞬間に処分とする可能性が高い。ヨエルとしては、中央貴族の動きなど一向に漏れても構わないが、クレアの様子を見るに、情報源として見られている様子はない。


 ヨエルの疑問を察したのか、クレアは淡く微笑む。


「ヴェルテンベルク伯は焦っておいでです。兵は在れども将が少ない。その現状を補う為、ある程度の背景は黙認なさる様になっておられます。戦時下故でしょう」


 無論、政敵に迎合する動きをした者はその限りに御座いませんが、と付け加えるクレアが嘲りの感情も露わに口元を歪める。政敵に対する弾圧行動の苛烈なるを以て信を勝ち得た事は、その酷薄な表情を以て事実であると証言された。


 誰も彼もがナニカを背負い、皇国を導こうとしている今、この時代。最高権威者無き権威主義国で行われる政戦は、複雑に絡み合い、各所で衝突を繰り返していた。皇国は加速度的に統制を喪いつつある。


 至尊の玉座の主の到来を以てのみ、総てを掣肘する事が叶うだろうが、ヨエルは“彼”を望まない。


 自らの意志で臨むならば、総てを捧げて忠臣たるを全うしよう。


 だが、当人が時代の流れではなく、己が手中にある幸福の為だけに戦うというのであれば、それもまた運命だろう。


 あの混沌とした嘗ての建国期の様に、英雄の到来を待ち望まねばならない。そして、自らの手で希望と生存圏を掴み取るのだ。


 ヨエルは、その日、その時まで、皇国の権威を護らねばならない。姿もなく形もない権威という偶像。護るのは印象そのものと言える。酷く難しく、同時に何時か来るべき英雄が、継承を望むかも不鮮明であった。


 クレアには、その難行を手助けして貰いたいと、ヨエルは考えていた。彼女の心中に渦巻くナニカへの憤怒も、原動力となって消費されるかも知れないという期待もある。国家や国体への熱意とは、著しく精神を消耗させる。


 故に訊ねるは一つ。ヨエルは、茶碗(ティーカップ)を置いた。


「貴女はこの国を愛していますか?」


 総てが、その点に帰属する。祖国への愛なくして、誰が何処かの誰かの為に戦えようと言うのか。祖国の民意が総算たる天帝を擁しての征戦も同様である。


 だが、クレアの言葉は余りにも鋭利で有り過ぎた。


「それ以外の如何(いか)なるを愛せよと言われますか」


 ――貴女は……


 汝、国家を愛せよ。


 それ自体は右派でも左派でもない言動と言える。祖国を愛した上で、国粋主義に傾倒するか敬和主義に傾倒するかがある。祖国への愛を否定する事は大前提である。政府を罵倒しても、有事となれば国を護る為に武器を手に立ち上がった例は無数とある。


 もし、愛国心を理解できない国民が大多数を占める国家が存在するのであれば、それは国際情勢と所属陣営の都合に過ぎず、消極的な存立でしかなかった。


 だが、クレアの愛国心は在野に流布するものとは大きく掛け離れた形であると、ヨエルは見ていた。


 天帝と臣民。


 それらの意志、それを維持する思想や主義を庇護する事こそが愛国心とされ、ヨエルは天帝の権威保全こそを愛国心の根幹としていた。


 対するクレアは、国家という統治機構や概念そのものに愛国心を見ている。それは危険な事だ、とヨエルは思う。国家は器に過ぎない。統治の本質ではない。それを愛した者達が幸福な最期を迎えたと、ヨエルは寡聞にして聞かない。


 彼の国を捨てたクレアが、彼の国の継承国が提唱する国家社会主義の如き思想を肯定しているのも、ある種の業と言えた。


 だが、ヨエルはそれを赦す。それが自身の愛国心を穢さない限りは。それを理解した上で、クレアが立ち振る舞いを見せている事も推し量れる。


「無理はいけませんよ。いざとなれば私を頼ると良いでしょう」


 希望は未だ消え失せてはいない。クレアが無理をする必要などない。


 ヨエルは彼の者の子を信じていた。サクラギの名は常に戦争を呼び込む。何時だって戦野に身を投じる者は、チカラを求めている。行き着く先は、至尊の玉座に他ならない。


 ヨエルは、今一度、時計塔を一瞥した。










 トウカは時計塔の階段を上る。


 息が上がり、動悸が激しくなって胸を締め付けるが、それでも尚、歩みは止まらない。


 あの天使の言葉を受け入れたトウカは、ベルゲンで最も高い全長を持つ時計塔を駆け上がっていた。時計塔内に昇降機(エレベーター)などあるはずもなく、見上げても不鮮明な程高い最上部までの螺旋階段という選択肢しかなかった。


 何故、そこまでするのか? それは当人にも分からない。己の身体を裂いて飛び出しそうな感情が肉体を引き摺って行くかの様に、階段を駆け上がる。


 そして、最上部へと異邦人(エトランジェ)は至る。


 薄暗い時計塔内から闇夜が溢れる展望台へと足を踏み入れた先には、闇夜を払拭するべく市民達によって灯された魔導の輝きに満ちていた。色彩豊かな輝きの下で、人々は行き交い、言葉を交わし、生活を営んでいる。闇夜の下でも、それを大多数は払拭する術を持ち、行動するだけの安全性の保障。トウカの想像を越え、皇国が発展している事を夜天に誇示していた。


 皇国という国家が豊沃である事を示す光景に目を奪われるトウカだが、その光に満ちた光景の片隅、光の遮光幕(カーテン)の中を穿つ人影を認めた。


 その人影の頭部には一対の獣耳が窺えた。トウカは一呼吸すると、ゆっくりとした足取りで、その人影へと歩を進める。


 ミユキだった。


 尻尾が力なく垂れ、狐耳も夜風に揺れるが儘となっているが、その後ろ姿を、トウカが見間違えよう筈もない。


 聴覚に優れたミユキであれば、トウカの足音を聞き逃すはずがなく、近づき声を掛けても尚、振り向く事すらないという事実に、トウカは酷く動揺した。


 顔を合わせ難いと考えているのか判断が付かないが、トウカにとって、ミユキとは常に自らの傍らで大輪の向日葵の様な笑みを見せ続ける少女なのだ。例え厳冬であっても例外はないという根拠なき確信をトウカは抱いていた。


「ミユキ……」


 びくりと、ミユキの肩が震える。


 トウカは、女性の慰め方を知っている訳ではない。それ程にヒトとして一般的な有様ではないと当人は理解している。背中に声を投げ掛けるという消極的な行動では、現状を打開できない。よって極めて軍人的な考え方を以て、トウカは一思いに、ミユキと肩を並べる。


 胡散臭い天使の、狐が高所を好むという言葉を差し引いても、その夜景は一望するに値する価値を持っている様に思えた。観光資源として主力と成り得る光景であるとも思えるが、周囲には二人以外の影は窺えない。


 ならば躊躇う事はない。仔狐の身体を無言で引き寄せ、異邦人は頭を撫でてやる。


 トウカを見上げるミユキの瞳は不安に揺れていた。その様な顔をさせてしまう自身の甲斐性のなさに腹立たしさを感じるが、それ以上に、今この時を如何するかという危機感が勝っていた。


 トウカのミユキに対する感情の在り方は未だ定まっていない。


「困った事だ……御前は気長に待ってくれると考えていた。今にしてみると、浅はかな事だ」


 それが偽らざる本心だった。


 如何なる歴史書にもその答えは記されていない。

 如何なる戦術書にもその答えは記されていない。

 如何なる軍記物にもその答えは記されていない。


 自身の目にした事も聞いた事も読んだ事もない現実に遭遇したトウカは、その答えを見つける事ができなかった。トウカにとり歴史とは、その時代の人々の成功と失敗の記録である。行動の基準とすれば往々にして失敗する事はない。確たる答えがなくとも、歴史の失敗を鑑み、より良い選択肢を選択できる。


 だからこそ、トウカにとり歴史とは絶対的示準なのだ。


「俺はきっと御前を幸せにできない」


 明瞭な結末を知る術はないが、何処かそんな確信をしていた。


 この世界で確たる立ち位置もなく、また拠り所もないトウカは、根無し草以上に軽い存在に他ならない。そして、努力や決意が必ずしも報われるとは限らない事を知っている身であり、多くを求めすぎる自身の性格も理解していた。


 否、その様な理詰めではなく、直感が告げているのだ。


「ミユキも辛い思いをしたくはないはずだ」


 それでも尚、ミユキに笑顔で居て貰いたいと思うのは傲慢なのか。異邦人は今一度、仔狐を抱き寄せた手に力を込める。


それ故にミユキの願いを聞き入れる事はできない。が、ミユキはトウカの幸せの基準を一蹴する。


 尻尾を逆立てて、仔狐は咆える。


「私の幸せは私が決めることです! なんで、主様が私の感情まで決めちゃうんですか!?」


 怒髪天という言葉を越えて、尻尾と狐耳、髪を逆立てたミユキから蒼い炎が漏れる。狐火と称される狐種に連なる者達の最上位の魔術。種族毎の固有魔術は感情の揺れ幅により発動と威力を左右される。ミユキは一度も狐火を扱えた事がないと口にしていたが、感情が大きく揺れた為に成功した。


 トウカの一言は、ミユキにとって断じて許容できない言葉だったのだろう。立ち上がったミユキに、トウカは圧倒される。


「私は愛玩動物なんかじゃないです!!」


 狐火の勢いが一段と強くなり、トウカの顔を熱する。


「……済まない……そうか。いや、そうなのだろう」


 臆する事なくミユキの瞳を見据え、同意する。軍曹に言われた通りだったのだ。人の幸せを決めるのはその当人であり、断じて他者に非ず。ならばミユキの幸せはミユキが決めるものであって、トウカが決めるものではない。軍曹の言葉は正しかった事になるが、だからと安易にミユキを求める勇気がトウカにはなかった。


「主様は卑怯です……」


 多分に呆れを含んだミユキの声に、トウカは、申し訳ない、と瞑目する。心優しいミユキは謝罪すれば感情のままに言葉をぶつける事もない。トウカのそんな考えを見透かす様に、ミユキが唸る。狐としての本能は、トウカの時間の引き伸ばしなど容易く見通すのだろう。人間種の思惑すら嗅ぎ取れるのかも知れない。


 トウカも今の自身の在り様を見苦しいと思っていた。


「ぬ、主様は本当に卑怯です……しかも、意地っ張りです」


 そうかも知れない。臆病は兎も角として、意地っ張りという評価は初めて受けるものだったが、ミユキを泣かせてまで、最善の途を模索し続けようとしている有様は、正に意地っ張りではないかとすら思えなくもない。


 ミユキには、本当に驚かされる。これ程に自分を見てくれた者は初めてではないかと、トウカに思わせる程に。


「ミユキ……御前は今、幸せか?」


「幸せに決まっているじゃないですか。……でも、私は目に見える証が欲しいんです」


 その言葉の意味にトウカは、やはりかと内心で唸る。 


 軍曹の言葉はまたしても的中した形であり、次回で会った時は白麦酒(ヴァイツェン)の一杯でも奢らねばならないだろう。だが、その意見を耳にしていたにも関わらず、何ら対応しなかったトウカは途轍もない愚物ということになる。経験者という軍曹の言葉に嘘はなかったのだ。賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶという鉄血宰相の言葉を是とするのであれば、トウカは恋においては確かに愚者なのだろう。


 考え続け、決断を先延ばし続けた結果、仔狐に涙を流させてしまった。後悔どころの話ではない。断じて護ろうと思っていた者を傷つけてしまったのだ。


 歯を食いしばるトウカに気付かず、ミユキは続ける。


「主様は、儚い人です。最初は、星の海を渡ってきた神様かと思うくらい……」


 儚いか如何かについては自身では判断が付かないが、星の海については(あなが)ち間違ってはいない。異世界も星の海も、今のトウカには絶対に辿り着く事の叶わない場所という意味では然したる差異はなかった。


 離すまいとトウカの胴を抱き締めたミユキに、トウカも手を回す。


「朝目を覚ますと居なくなってそうで、いつも怖かったんですよ?」


 何時も、トウカの寝床に入り込んできていたのは、その為だったのだ。


「だから、主様を繋ぎ止めておく証が欲しい……欲しいんです」


 鼻を啜る音を立てるミユキ。泣いているのだろう。


 トウカはミユキを抱き締める。


 ――こうなれば“詰み”だな。


 ミユキを幸せにしようと時間を引き延ばし続け、無様を晒した以上、覚悟を決めるしかない。完全にミユキの人生を“男”として背負わねばならなくなった。その利点も欠点もトウカは断じて許容せねばならない。


 望むところ。本懐である。いずれは行き着こうとした場所であり、望んでいた展開。


「ミユキ」


 トウカは立ち上がる。ミユキは一瞬だけ驚きの表情を浮かべたものの、黙ってトウカと相対する。狐耳がピンと張り、緊張していることが見て取れるが、トウカの内心にも相手を思い遣る余裕はなかった。


「……俺と契約してくれるか?」


 息をゆっくりと吐き出すように宣言する。


 自らの鼓動が早鐘を打つのを感じながら、トウカは言い知れぬ思いを抱く。断られれば、どの様な顔をして良いか分からない。あれ程に不安を抱かせてしまっていた以上、平手の一つや二つは甘んじて受け入れる覚悟ではあるが、それすらも、どの様な顔で応じればよいのか、そして何よりも、どの様な言葉で謝罪すればよいのか見当もつかない自身の不甲斐なさに嘆きたくもなる。


 契約の意味するところは、この異世界に於いて特殊と言えた。


 愛の告白と同義と捉える事もできるが、五分の杯と捉える事もできた。双方共に方法は違えども契約を行使する事に変わりはなく、過程は違えども結果もまた非常に似通っており、トウカが図書館の文献で調べた限りでは、その辺りを知る事が限界である。文章を修飾語で見栄えよく飾り立てた上に、曖昧でありながらも美しい表現を以て迂遠な解説がなされていた。端的な表現を旨とする解説書の類であってもそうである以上、トウカに知る術はなかった。無論、ミユキは、大したことではない、と実用的な部分を強調して言っていたが、それが嘘だとは分かるくらいには、トウカはミユキを理解している。


 トウカは(おぼろ)げに推察する。契約とは、互いの魂を縛るものなのだ。愛であり、誓いであり、盟約であり、覚悟でもあるのだろう。なれば容易に文章として表せず、神聖性だけが先行するのも止むを得ない。宗教的要因も絡んでいるとなれば、今のトウカには図り切れない要素となる。この世界に於ける宗教とは、魔術と表裏一体の存在である。よって、その可能性は、トウカの予想と発想を十分に優越し得た。


 だが、今となっては意味のない事である。仔狐が望んだ。それだけが総てである。


「はい……喜んで」


 涙の滲む笑顔を浮かべたミユキ。


 トウカは安心する。自分の判断は間違いではなかったのだ、と。目の前の女を笑顔にできない奴は、これから先も笑顔にできる訳がない、と言っていた軍曹の言葉を薄っぺらい自己正当化の方便だと一蹴していた過去の自分を殴り倒してやりたいとすら思ってしまう。


 ミユキの笑顔を見ているだけで、これほどに満たされるのだから。


 ああ、愛しい。愛しくて堪らない。


 これが恋か?

 これが愛か?


 数値化できず、物理的に推し量ることの叶わない感情に関してトウカは良い感情を抱いていなかったが、実際に感じるにとり、否定的な印象は吹き飛び、何と心地の良い気分かとすら想っていた。


 その想いに“神々”は応じる。


 二人の足元に、紫苑色をした炎が駆け巡り、同じ色をした魔導陣が浮かび上がる。


 トウカは図書館の魔導書の中でその魔導陣を見た。契約の儀に使用される魔導陣。


 ミユキの驚く気配に、その魔導陣が自身の手によって形作られたものであると察したが、今のトウカには然して重要な事ではなかった。魔力がない自分が魔導陣を描けた理由は知らないが、阻む理由が一つ消え失せたのだ。


 トウカは右手を差し出す。


「俺は、異邦人(エトランジェ)……。遙か遠い世界から流れ着いた異邦人……御前は?」


 ゆっくりとした、それでいて確かな力強さで差し出された手。


 右手は愛しの仔狐に。

 左手は自らの胸中に。


 その幾多の想いが込められたその手を、一瞬だけ驚いたミユキが掴む。


 大事に、それでいて決して離さないと両手で。


「わ、私は、仔狐……。臆病で、怖がりで、それでも貴方が大好きな仔狐です……」


 ミユキの確かな想いをその手に感じたトウカ。


 これでは足りない。もっとミユキを感じたい。同意の言葉を紡ぐ事すら確認せずに、その手を掴み、有無を言わさず胸元へと抱き寄せる。小さな悲鳴が聞こえたが、謝罪する気はなかった。


 二人は唇を重ねる。優しくも貪る様に異邦人は求め、仔狐もそれに応じた。窓から差し込む月明かりの元、二人の影が重なる。


 契約は神聖にして不可侵たる紫苑色により執行され、闇夜に弾けて消える。


 この出来事が歴史に語られる事はない。


 だが、時代の一つの転機であった事に変わりはない。


 二人の真の邂逅は歴史にどのような結末を齎すのか。


 それを知る者は、誰一人としていなかった。





賢者は歴史に学び、愚者は経験に学ぶ。


     《大独逸帝国》宰相、オットー・エドゥアルト・レオポルト・フュルスト(侯爵)・フォン・ビスマルク=シェーンハウゼン


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