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紫苑穢国のエトランジェ  作者: 葛葉狐
~序章~    《千紫万紅》
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第一九話    静かなる簒奪




「レオンディーネ殿が、あれ程に無邪気な笑顔を見せるとは……」


 紅茶を啜り、リットベルクは大通りを挟んだ先に見える装飾品の露天の前で、二人の見目麗しい女性の舌鋒に冷や汗を流して応じている少年の背中を横目で見やる。


 今この時代、貴族の御令嬢には多くの艱難辛苦が待ち受けている。


 帝国との戦争での敗北の可能性も無論であるが、それ以上に余りにも自由が少ない人生という途を定められたその宿命には、リットベルクですらも敬意の念を抱く程であった。貴族の華やかに見える日常だけでなく、覚悟や宿命に満ちた一面を見続けたリットベルクは、貴族令嬢の心の内を知るが故にレオンディーネの身を案じている。


「誠に……誠に宜しきこと」


 孫達を見るかの様な眼差しで三人の背中を眺める。


 これは紛れもなく、レオンディーネにとって救いとなるであろう人生の一幕。


 年相応の笑みを浮かべる獅子姫。五公爵の一人を父に持つ獅子姫は、己が運命に抗おうとしている。


 貴族令嬢の身であるにも関わらず、陸軍士官学校へと進み、陸軍軍人となった。ケーニヒス=ティーゲル公爵家が武勇を尊ぶ武門の一族であったこともあり軍人となる事が叶ったが、戦野に赴くことは通常であれば認められない。だが、レオンディーネは公爵家の意向を無視して戦野へと赴いている。貴族と対極に位置する実力組織である陸海軍は、その影響を極めて受け難い事もあり、レオンディーネの行動を制限するには至らない。今、考えれば領邦軍ではなく、陸軍へと進んだ理由は正にこの為だったのだろう。


 軍人として生きる事で、限定的ながらも自らの自由を得たレオンディーネ。


 ――一体、どの様な目的を持っているのか……大いに気になりますな。


 無論、正面切って尋ねても答えてはくれないだろう。答えが返ってきたとしても額面通りに受け取る程、リットベルクの性格は純真無垢ではない。寧ろ、邪推と皮肉の産物であった。


「まぁ、我が姫君に協力してくれるというのであれば、何を求めているのかは分からんでもないか。ふうむ……最近の姫君というのはどうしてこうも攻撃なのか。刃物や権力を振りかざす御転婆姫では嫁の貰い手に困るでしょうな」


 振りかざす力の本質は違えども、向かう先は同じであって欲しいと、リットベルクは思った。


「……トウカ、これなぞどうだ? この簪ならば敵兵を刺せると思わんか?」


「……なら、銃剣で髪を留めては如何で?」


「主様、じゃあ、五寸釘が良いと思います!」


 遠くからは平和な会話が聞こえてくるが、この国に忍び寄る亡国の調べは近衛軍大佐の耳にも確かに届いている。特にトウカの言葉を聞いてからは、その想いが一層強くなっていた。


 ――トウカ殿は危機感を抱きながらも自ら動く事はない。それこそが祖国を滅亡させる理由か。


 即ち、民草が外敵の侵攻に対して無関心という事に他ならない。例外であるとすれば、間接的とはいえ帝国の脅威に晒されている北部の民草だが、此度の叛乱を考えても分る通り悪い形でその温度差は表面化した。


 帝国との血戦は避けられない。それが、陸海軍のみならず近衛軍内部での認識であった。


「トウカ殿のような御仁が上級大将……いや、中将であれば、な……いやいや、無い物強請(ねだ)りは宜しくない。敵に回らないだけでも良しとしましょうかな」


 あれは途轍もない脅威と言える。リットベルクは、トウカをそう判断した。


 自身の皇国に対する危機感を見抜いた事もあるが、武勇と外道についてあれ程に造詣が深いことに恐怖を感じた。


 トウカという少年は、時と場合によって武勇と外道を使い分ける事ができる。それは目的の為に手段を選ぶ気がないということに他ならない。まさに、愛すべき卑劣と、慈しむべき卑怯を携えた戦争屋である。


 軍事を行使するに当たって、道徳や人道などに一切の制限を受けないのだ。トウカの譲れぬ一線がどの様なものかリットベルクには分からないが、少なくともリットベルクの譲れぬ一線など笑って無視することは想像に難くない。


 どのような過程を経れば、あのように年若い少年が心の内に武勇と外道を内包し得るのか、リットベルクは大いに興味があったが、それを知る術は残念ながら存在し得なかった。異邦人と老兵の舌鋒の応酬など、皮肉の砲撃合戦に終始することが目に見えている。


「我が姫君には会わせられぬ御仁である事は確か、か」


 無論、大御巫と素性の知れぬ異邦人の人生が交わる事などありはしない。


 二人の乙女の猛攻に晒される異邦人を眺めながら、老兵は有り得ない未来に首を振る。


「ああ、お嬢さん。紅茶をもう一杯貰えるかね?」


 微笑む乙女な店員を見てリットベルクは様になった動作で首を傾げる。


 久方ぶりの恋も悪くはない。



 遠くの異邦人の背を見て、老兵はそう思った。











「もぅ、遅すぎです」


 両手を腰に当てた巫女装束の少女が眉根を寄せて不機嫌な表情をしている。


 皇国神祇府長官にして大御巫、アリアベル・ラウ・フォン・クロウ=クルワッハ。


 龍族の最高位である神龍族の姫君でもあり、自身にとっては数少ない対等の友人であった。それはアリアベルにとっても同じはずで、その背後に幽鬼の如く佇む近衛騎士はかなり稀有な存在と言える。


「すまぬ。戦術を磨く事に忙しくての」


 軽い調子で右手を挙げ、無邪気な笑みで不機嫌な大御巫に応じる。


 その姿は異性よりも様になっており、同性からよく迫られる原因でもあるのだが、大御巫と近衛騎士の表情が揺らぐことはなかった。大抵の同性はこの一連の動作で少々の不義理は笑顔で許してくれるのだが、眼前の二人には全く通じないどころか視線がより厳しくなる。


 自らの白銀の長髪を右手で振り払い、近くの椅子に座る。足を組み、さり気無く部屋を見回すと、北部の地図や机上演習用の駒が置かれており、軍司令部の作戦室に匹敵する程の資料が壁際の棚には陳列されている。アリアベルが個人的に戦争の行く末を推察していたのだろう。


「それで? (わし)を呼び出して何用じゃ? 旧交を温めたいというわけではなかろう?」


 脚を組み、手摺に肘を付き、大御巫を見据える。


 アリアベルは大御巫であり、神祇府長官も兼務していることもあって多くの時間がある訳ではないことは容易に想像が付く。その上、摂政ともなれば。故に最近は直に会う事などなかった。そんな者が北部のベルゲンまで来ている以上、それ相応の理由があると見るのは当然の帰結と言える。


 特に近衛軍大佐であるリットベルクを使って呼び出したのであれば余程、重大な事柄についてであると予想できる。トウカとの時間を早々と切上げねばならなかった事は不満であるが、それ相応の階級を持つ人間を使って呼び出してきた以上、怒る訳にもいかない。


「ええ、貴女にしかできない事があるの」


 白銀の髪の少女は眉を顰める。アリアベルの“御願い”というものが、非常識でなかった試しがないと思い出したからだ。



「レオンディーネ・ディダ・フォン・ケーニヒス=ティーゲル」



 本名を持ち出されることが白銀の髪の少女……レオンディーネは好きではない。


 レオンディーネは五公爵が一つ、ケーニヒス=ティーゲル公の娘であり、神虎族の姫君として生を受ける。だが、レオンディーネは姫君として生きることに嫌悪感を抱き、姫君である前に軍人として生きる道を選択した。通常であれば五公の娘が戦塵に塗れて最前線で戦うことを許すはずがないのだが、武勇を尊ぶケーニヒス=ティーゲル公は親族の懸念を一蹴し、豪快な笑顔で許可した。少なくとも表面上は、であるが。


 故にレオンディーネは匪賊討伐や帝国との小競り合いでは赫々たる戦果を上げている。無論、それでも尚、大尉という階級に留まっているのは、度重なる独断専行と立身栄達に興味がなかった為と言えた。


 姓を呼ばれ、自然と険しい顔になるレオンディーネに、アリアベルは悠然と微笑みを返す。


「貴女には、エルライン要塞防衛の任に就いてもらいたいの」


 それは思ってもみない言葉だった。


 否、有り得ない話ではない。


 エルライン回廊内に帝国の大軍が侵攻を開始したという報告は、伝令の龍騎兵によってベルゲンの北方方面軍司令部に伝わっていた。だが、北方軍主力は大半が郷土師団である事もあって叛乱に参加している。北方方面軍の戦力は四割近くまで落ち込んでいる為、現在は皇国各地から戦力を抽出する事での再編成の最中であった。


「儂の中隊は領から連れてきた奴ばかりじゃ。兵も武装も完全に充足しておるが……」


 ベルゲンは北部地域の中では南端に位置しており、皇国中央部に近い地点に存在する。これは、三百年近くも以前に、未だエルライン回廊にエルライン要塞が建造されておらず、《スヴァルーシ統一帝国》の軍勢から北部全域を縦深陣地と見なす事で辛うじて撃退していた頃の名残であった。結果として現在では、大都市や司令部の置かれている主要な都市は戦火を逃れる為に北部でも比較的南に集中している。その中核軍事拠点としてベルゲンは現在の位置に存在し続けていた。


「不可能ではないが……叛乱軍はそれを許すとは思えんのう」


 エルライン要塞とベルゲンの間には北部貴族の叛乱軍が展開している為に移動が不可能だった。レオンディーネも何とかしてエルライン要塞に移動できないかと知恵を絞っていたが、答えは今の今まで出ていない。分散して突破できなくもないが、分散した小部隊が叛乱軍に各所撃破の憂き目に会う可能性が高く現実的ではない。最悪、包囲された部隊の救援の為に戦力を逐次投入し、戦局の泥沼化を招く結果ともなりかねない。


「その点は、一時的とはいえ、近い内に政治的に解決するわ」


「……そうか、やはり……無理してはならぬぞ?」


 レオンディーネが持ち得ていない政治的視点から解決できると言い切ったアリアベル。その点については喜ばしい事だが、大御巫がさも当然の様に政治的発言をしたことについてレオンディーネの心は沈む。


 近頃、ベルゲンの軍人や文人の間で一つの噂が広がっていた。


 ――大御巫が強権を以て国事を掌握し、全権代行の地位に就いた、と。


 レオンディーネは想う。アリアベルは昔から、清冽にして果断に富んだ少女だった、と。


 悪事を許せないという短慮なところはなく、それが行われた原因を考慮して叶う限り多くの者が納得する答えを見つけ出す。場合によっては自らも必要悪という刃を振りかざす事を厭わないその在り方は、まさに天帝。それは大御巫となっても変わりない様だが、幼少の頃からそのような考え方であるアリアベルは、元来、内包していた潜在能力の高さも相まって周囲から浮いた存在だった。


 それでも尚、友人である事には変わりないのだ。


 レオンディーネは、アリアベルの冷淡な態度の中にも厳然と存在する狂おしい程の愛国心を知っている。


 それを咎める事はできない。アリアベルは、他に愛するモノがいないから国を愛するの、と宴席で漏らした事がある。レオンディーネはそれを笑い飛ばす事ができなかった。アリアベルが国を狂おしい程に愛している様に、レオンディーネもまた(いくさ)を狂おしい程に愛していた。愛するモノは違えども抱く想いに変わりはない。だからこそ正反対に近い性格の二人は友人となることが出来たのだろう。


「事実じゃったか……死ぬやも知れんぞ?」


 やはりか、と獅子姫は肩を落とす。


 大御巫は皇国に於ける宗教的象徴に他ならない。そして皇国は、嘗て腐敗した宗教によって自らも腐敗した宗教国家の轍を踏む事を避ける為、原則として政治と宗教の乖離……政教分離を基本としている。その法をどの様に躱す形で五公爵から実権を奪い取ったのか。いずれにしても強引な手段である事は容易に想像ができる。貴族の一部が激発する可能性は決して低くはない。


「死にはしないわ、きっと」


 首を小さく傾げて、アリアベルが否定するが、レオンディーネは不安でならない。戦場に於いて、自身は死なない、と根拠ない自信を持つ者は早く死ぬ。臆病で姑息な者、或いは戦神の寵愛を受けた覇者の類だけが死神の鎌より逃れ得ると、レオンディーネは知っていた。戦野で多くの死を見てきたが故に知っている現実。死の恐怖に晒される事の少ないアリアベルには理解できないだろう。


「三カ月前の匪賊討伐で、じゃ」


 根拠なき過信を諌める意味も込めて、少し昔話をしてやろうと思い立つ。


 レオンディーネは、若いながらもその人生が血に彩られていた。軍人であれば当然であり、臣民の代わりに血を流すという誇りがあるからこそ、兵士達は敵と自らの死に向かって銃剣突撃を敢行することができるのだ。


 だが、それでも尚、指揮官である自分は考えてしまう。あの時、もっと良い指揮ができていたらば、死ななかった者もいたのではないか、と。


「前日に焚火を囲んで故郷の話をした幼さの残る兵士が、榴散弾の至近弾で四肢を捥がれて息絶えようとしておったのじゃ……儂はそやつが息を引き取る瞬間まで抱き締めてやる事しかできんかった」


 或いは他に選択肢があったのかもしれない。いや、確実にあった。


 慈悲の一撃(グナーデンシュス)


 士官だけに与えられた死に際の部下に慈悲を与える特権。戦野では可能な限り負傷兵に治療を施すが、銃弾や魔術の飛び交う戦場で必ず治療を受けられるとは限らない。衛生兵や衛生魔導士などが付近に展開していない時や、どう見ても助からない傷を負った兵士の介錯を務める権利を指してそう呼ぶのだ。端的に言えば、助からない兵士を自らの手で楽にしてやるということに他ならない。


「儂はその時、気付いたのじゃ……儂自身の死に対する覚悟はできておっても、部下が死ぬ事に対する覚悟はできておらなんだことを、な」


 それ以前から部下が戦野で斃れる事はあったが、直接看取る事は初めてであった。


「儂の責任において儂が死ぬのは納得できる。じゃがなぁ、儂の失態で部下が散るのは許容できんのじゃ」


 レオンディーネと違い、アリアベルは自らの腕の内で、眼前で人の命が消え往く瞬間を知らない。


 だが、アリアベルが国事を担い、軍の方針にまで口を挟まねばならなくなった現状は、レオンディーネの稚拙な戦術によって失われる命より遙かに多くの命が左右される事実を意味している。そして、その自らの一声で散り往く命を感じ取る事ができない。


 ――書類の数字でしか死者を見ることができない者に人は従わず、感情だけで国営はできないが、理詰めだけでも国営はできない……たしかあの男はそうも言っておったの。


 レオンディーネは、緩やかな笑みを浮かべて平然と毒を吐く少年を思い浮かべる。思わず笑みが零れそうになったが、慌てて表情を引き締める。幸いな事に、アリアベルは言葉の意味を噛み砕くことに忙しいらしく気付かれなかった。アリアベルの背後に立つ近衛騎士が薄く微笑んだ気がしたが気の所為だろう。


「私の慢心で私が死ぬのは勝手だけど、私の失態で顔も知らぬ者達が死ぬのは宜しくないという事よね?」


「そうじゃ。多くの命を預かっている事を自覚しておるなら、儂はお主に牙を捧げてもよい」


 そう言って、獅子姫は大御巫を正面から見据える。


 牙を捧げるとは、虎族に連なる血統独特の忠誠の証で、貴方の為に命を捨てて戦うという決意の表れに他ならない。


「迷っておるな? 私への頼みとはそれ程に常識に欠けるものだったという事かの」


 レオンディーネは、意地の悪い笑みを浮かべる。戦野で敵と相対する際に浮かべる鬼気迫る笑みだが、大御巫も笑顔で応じる。この様子では、クロウ=クルワッハ公爵と議会で激しく衝突したという噂は真実なのだろう。千に近い時を生きた神龍と正面から睨み合ったのであれば、レオンディーネなど子猫同然に思えるのかも知れない。


「貴女には輸送騎でエルライン要塞へと赴いて、要塞の部隊を指揮して貰います」


「ふむ……今、率いている部隊はどうなるのじゃ?」


 なるほど、とレオンディーネは嘆息する。


 武勇を尊ぶ虎族の血統にとって、自部隊の将兵は家族の様なもの。それを引き離そうというのだから、激怒される事は避けられないとでも考えていたのだろう。冷徹なものの考え方をするにも関わらず、この様な配慮を見せる一面は好ましく思えた。


 ――確かに難しい話ではあるのぅ。


 特にレオンディーネ隷下の中隊は極めて微妙な編制と立場で、陸軍と貴族軍の中間の立場に存在していた。神虎族の姫君であるレオンディーネは同時に陸軍士官学校を卒業した陸軍軍人であるという事もあるが、中隊の将兵が神虎族の統治している領地の領邦軍から抽出した者達で編制されている。


 今回のアリアベルの言葉も、神虎族の名を出して拒否する事は難しくはない。


 アリアベルの言葉は国事を担う全権代行としての言葉であり、正式な陸軍府を通しての命令とは現時点では異なる。だが、レオンディーネは神虎族の姫という立場を利用して拒否する事ができる。アリアベルも神龍族の姫であるが、その立場からでは“命令”はできず、“要請”となってしまうので強制力はない。


「頷いてくれるなら、貴女の部隊は私が責任を持って預かるわ」


 懸念していることを察したのか、アリアベルが提案する。確かに大御巫であるアリアベルが預かるのならば、戦野に赴く事はないだろう。無能な指揮官に率いられて、可愛い部下達を擦り減らされる事もないはず。


(わし)を戦わせて御主に得などなかろう?」


 その点が、皆目見当がつかない。アリアベルが、親友の不利益を招くようなことをするとは思えないが、意図が読めない状態で戦野に赴けば、意外なところで足を掬われる可能性とて皆無ではないのだ。


「私に賛同する者が勇戦した……その事実がどうしても必要なの」


 アリアベルの意図が読めず、レオンディーネは困惑する。


「何故じゃ? 儂、一人増えた所で大勢への影響なぞ微々たるものだと思うのじゃが……」


 軍人である自分の範疇でないとするならば、軍事的な理由ではなく政治的な理由なのだろうという見当は付く。中隊規模の増援なら兎も角、軍事的には虎一匹の増援に然したる意味があると思えない。


 ――いかんな。軍人が政治に関わるのは宜しくないのじゃが。


 軍人であり、同時に獅子の姫君でもある以上、政治とは無関係でいられない。そして、あの皮肉の多い少年が言う様に、次代の戦争が政治、宗教、思想、経済の全てが複雑に絡み合うものとなるのであれば、軍人であるレオンディーネは皇国の抱えるあらゆる問題から逃れ得ないのだ。


「簡単な話です。この戦い、勝って終わったとしても軍の権力が強大になり過ぎます」


「ふん、その様な顔ばかりしておると老けるやもしれんぞ? ……“義烈将校団”か」


 レオンディーネは溜息を吐く。


 国の斜陽が色濃くなり始めた今この時、皇国の現状を憂える者は多い。だが、それを纏める指導者やそれに類する者がいない以上、台頭するのはそれ相応の能力を有した集団である。


 即ち、軍であった。


 特に巷では“義烈将校団”なる若手将校の集団が体制の変更を求めて苛烈な運動を続けている。軍上層部は叛乱に繋がる事を恐れ、“義烈将校団”に所属している将校を前線に送り出す事で分断しているが、それにも限界があるだろう。


 彼らは貧困層から成り上がった者達が多い。故に自らの不遇と悲劇的な過去の清算を望んでいるのだ。貧困を根絶するべく、他国に対して軍事力で優越し、外交と経済を有利に進めようという主張に同調する者は少なくない。経済の悪化は彼らの軍内での勢力を増大させた。陸海軍は兵士や下士官に貧困層の割合が大きい。学のない低位種が安定的な職を得ようとすれば、軍以外の選択肢がないのは万国共通である。


「莫迦者共め……皇国を軍国にする心算か……」


「あくまで、このまま体制が崩壊を続けるならば軍国化も止む無し、という声も少なくないわ……まぁ、口先ばかりの官僚主義よりかは良いでしょうね」


 アリアベルは自嘲する。


 軍の膨張の先にあるのは衰退に他ならない。軍は暴力装置以外の何物でもなく、それは強固にして強靭な統制の下で行使されねばならないが、短命な人間種は往々にして過去の悲劇を忘却する。


「私は軍にも貴族にも依存する事はできないの……」


「綱渡りじゃぞ……正気か?」


 どうかしているとしか思えない。


 貴族にも軍にも頼らずどの様に国政を動かす気なのか、レオンディーネには皆目想像が付かない。事実上の権威主義国である皇国は、民主主義国である共和国の様に民草に然したる主権がなく、帝国程ではないが民意を取り入れる事は少ない。無論、それは民草を蔑にしているという意味を指さず、真に憂えているからこそ民とはまた違う選択をするのだ。


 指導者(政治家)とは民草が望んでいる政策であっても、長期的に見れば国力を後退させ、民草に不利益を強いると判断すれば、反対の政策を打ち出す者を指す。安易に民草に迎合し、国を荒廃させる売国奴と紙一重であるが、国家にとってなくてはならない存在であった。


「御主は、今の皇国になくてはならない存在じゃが、万人がそれを理解しているとは限らぬのじゃぞ?」


 血気に逸る青年将校たちに暗殺されるかも知れない。

 現状を楽観視する貴族に押し潰されるかも知れない。

 国難を理解できない民に慰み者にされるかも知れない。


 自身の理解の及ぶ範囲が、他の者達の理解の及ぶ範囲とは限らない。国政を左右するほどとなれば、意見や方針の相違は十分に命の奪い合いに足る理由となる。


「でも、宗教集団である神祇府の権限を強化することはできない。反発が強すぎるわ……だから、レオなの」


 愛称で呼ばれたレオンディーネ。戦場で感じた如何なるものをも上回る悪寒が身体を包む。


 アリアベルの瞳は真剣そのもので、その背後に立つ近衛騎士も緊張した面持ちで状況の推移を見守っている。その手が静かに軍刀の柄へと添えられていた。


「政治的、軍事的な三つ目の集団を作るというわけか……可能だと思っておるのか?」


「可能です。天帝陛下の第一皇妃であれば」


「馬鹿な!! それでは、まるで――ッ!」


 ――簒奪と変わらんではないか。


 とは口にする事ができなかった。


 畏れ多い事もあるが、それ以上に幼少の頃からの旧友に売国奴の烙印を押したくはなかった。そして、天帝となられるはずの御方が行方知れずとなり、帝国軍との戦端が開かれた以上、皇国に残された時間は少ない。亡国への道を回避するには指導者は必須で、それを多くの者に納得させるには第一皇妃という肩書は極めて有効なものだった。


「仮初の天帝陛下を輔弼する大御巫にして第一皇妃……なるほど。その屁理屈で貴族を押し切ったのじゃな」


「次代の天帝陛下が現れるまでの短期的な措置よ」


 アリアベルの言いたいことは分かる。


 軍人であるレオンディーネは、皇国に迫りくる軍事的脅威を肌で感じているが、アリアベルの言動を察するに現状では政治的にも有効な手は打てず祖国は滅ぶ。短期的な措置と明言している辺り、権力に固執する気はないと分かるが、艱難辛苦の道であるという事に変わりはない。


 国の為に死するは身の誉れであるが、政争に巻き込まれたくはなかった。レオンディーネは政治に対しては素人なのだ。然して協力できるとは思えない。


「レオには私の姫巫女……いえ、言うなれば皇妃派に属して欲しいの……御願い助けて……」


 縋るような視線を向けてくるアリアベル。友の頼みを断れるほどレオンディーネは薄情にはなれない。


「良かろう……じゃが、アリア。(わし)は戦しか出来んぞ」


 獅子姫は後悔する。政治を学ぶ機会など姫君であるレオンディーネには無数にあったのだが、その全てを一蹴していた。士官学校に逃げ込むように入学し、軍人は政治に不干渉という大原則を免罪符として政治に関する一切を遠ざけていた。それは、姫君という立場に嫌悪感を抱いていたという一因もあるが、それ以上に自身が権謀術数に向いていないと割り切っていたという理由が大きい。


「それです! 私が求めているのは軍勢を率いる武人なの!」


「そ、そうか。(いくさ)で役に立てるなら、之に勝る喜びはないからのぅ」


 アリアベルの言葉にレオンディーネは苦笑する。つまるところ、アリアベルが作ろうとしている皇妃派の軍事的な面での旗頭になって欲しいという事である。政治的な面での顔は、アリアベルが第一皇妃として担えるが、軍事的な面では余りにも脆弱だった。


「帝国との一戦が終われば儂は近衛軍に移籍かの?」


「ッ!! そ、そうね……そこまで読むなんて……政治の才能も出てきたのね」


「抜かせ。アリアが私物化できる戦闘集団なぞ近衛しかなかろう。まぁ、今は難しいじゃろう。近衛の御主に対する反発は凄まじいものじゃ」


 辟易とした顔で旧友を見る。


 レオンディーネとて最近は、政治についても学び始めているので、政治音痴と見られ続けるのは不愉快だったが、嘗ての自身を思い出すと強くは反論できない。


 ――近衛軍か……ふむ、悪くない……ふふん。


 先代天帝の御世に皇都で実施された閲兵式を思い出す。その頃はレオンディーネも幼く、父に肩車をせがんで、中央通りを一糸乱れぬ動作で行進する将兵達を食い入る様に見つめていた思い出がある。


 その中でも金色の意匠があしらわれた漆黒の第一種軍装を身に纏い、誉れ高き武人と麗しき戦乙女で構成された近衛軍は種族を問わず子供達の憧れであった。無論、レオンディーネも憧れていはいたが、歳を重ねる毎にその実情を知り憧れる事はなくなる。


 近衛軍とは天帝陛下の装飾品なのだ。禁闕守護(きんけつしゅご)の任を果たし、儀仗部隊として鳳輦供奉(ほうれんぐぶ)の任に専念すると言えば聞こえは良いが、戦野へも赴かず天帝陛下の警護や皇都の警備だけを軍務としている。装備も最新鋭のものが与えられているものの、実戦に出ないのでは宝の持ち腐れに他ならず、レオンディーネの気風には合わなかった。戦野で戦ってこその武士(もののふ)である。


 だが、近衛軍が悪いという訳ではない。天帝陛下を守護する最後の楯である以上、戦野で軽々しく磨り潰してよい戦力ではないので、レオンディーネはその存在までを不要と断ずる気はなかった。


「レオを今回の防衛戦の戦功で昇格させて近衛軍聯隊長に据えてあげるわ」


 凄まじく魅力的な提案。


 近衛軍聯隊は基本的に三〇〇〇名を以て充足編制としている。近衛軍には実動戦力として一個軍(三個師団)の戦力が存在しており、一個師団が四個聯隊で一二個聯隊を指揮下に置いていた。これとは別に近衛軍司令部直轄の一個聯隊が存在するが、これは帝城防衛の任に当てられている為に同地から離れることはできない。


「す、好きに編成してよいのか!?」


 レオンディーネが興奮気味に尋ねる。近衛軍の予算が極めて潤沢なことは、陸海軍軍人の間では宴席での恨み言で最初に出てくるものである。寧ろ、その一言から会話が始まると言っても過言ではない。帝城府の潤沢な予算からであり、国家予算とは別の財源であり、その詳細は外部には図り難いものがある。その装備を見れば一目瞭然であるが、同時に帝城府の予算であるという事実は、皇室の私財であるという事実を意味していた。下手に踏み込めない領域であり、陸海軍将兵は予算ではなく装備を揶揄する事が限界である。


 つまりは一種の聖域である。


「それは、構わないけど……常識の範囲だからね?」


「良いな! 凄く良いぞ! 全て装虎兵で編制したいな!」


 レオンディーネは年甲斐もなく無邪気な笑みを浮かべる。


 アリアベルの生暖かい視線に気付いてはいたが、それでも表情を引き締める事はできない。自部隊を自由に編成するのは野戦指揮官の夢でもある。ましてや、それが無数にある兵科の中でも、攻撃・防御・速度に於いて最高水準を誇る、陸戦の覇者たる装虎兵であれば尚更であった。


 装虎兵とは虎に変化した虎族か、或いは調教された白虎などに跨乗した魔導士達の名称で、魔装騎士(マギウスリッター)並みの砲戦能力と驃騎兵(ユサール)に匹敵する機動力を有した兵種である。帝国軍との戦闘では正面から戦車に体当たりし、横転させた事すらあり、現状で装虎兵と互角に戦えるのは軍狼兵のみとすら言われている程だった。


「お金が掛かりそうね……」


「うむ、任せたぞ」


 装虎兵一個聯隊は、一個機甲聯隊を新規編成する以上の資金が必要となる上に、虎族が跨乗する事を許す程の魔導士を集めねばならない。装虎兵とは高い打撃力と機動力を有しているものの、極めて編制と維持費用が掛かり、尚且つ、編制に時間の掛かる兵科でもある。だが、アリアベルの権力にものを言わせれば、陸軍や貴族軍の装虎兵を抽出して短期間に編制できる事は想像に難くない。


「まぁ、いいわ……それで、レオは何故、政治と向き合う気になったの? 今までは嫌っていたじゃない」


 揶揄(からか)う様な声音で問い掛けてきた、そのアリアベルの顔には笑みが刻まれている。旧友の変化を好意的に捉えている事は見て取れたが、純粋な興味の色も窺い知れた。予てからアリアベルも、レオンディーネの短慮な部分を矯正しようと試みていたが、その悉く失敗している。故に自らが叶えられなかった問題を変えて見せた存在に興味を持った。


「貴女が知性に溢れた会話を……いえ、語彙が多くなったわ」


「失礼な奴じゃな……まぁ、認めるが」


 異邦人(エトランジェ)の言葉は、レオンディーネの考え方に大きな変化を齎した。確かに効率ばかりを優先している部分があったものの、極めて有効な思考や発想は目を瞠るものがあった。だが、それ以上にレオンディーネが心を奪われたのが、その佇まいである。


 ――気配……いや、雰囲気かのぅ……


 レオンディーネの感覚ではなく、それは獣の勘とでも呼ぶべきものだ。


 あの少年の佇まいを初めて見た時、幼少の頃に一度、拝謁の栄誉に浴した先代天帝の横顔を重ねてしまった。物憂げな表情……儚げな佇まいの中に、決して折れる事のない鋼鉄の意志を感じたのだ。


 あれは艱難辛苦へ立ち向かう瞳。

 あれは御国の護り神に連なる瞳。

 あれは救国の奇蹟を演出する瞳。


「レオ……そんな顔で笑えたのね」


「む、儂は笑っておったかの?」


 自らの頬に手を当て確かめ「確かに笑っているかも知れん」と肩を竦める。あの少年を思い出す度に、自身でも推し量る事もできない感情を感じたが、不思議と悪い気分ではない。


 戦ってみたいという感情と、普通の乙女の様に言葉を交わしたいという願い……そして何よりも、軍勢を率いて衝突してみたいという狂おしいまでの願望が渦巻いていた。ともすれば相反する感情が心の内に同居するレオンディーネ。しかし、その表情はアリアベルが初めて見る優しげなものだったが、本人にその自覚はない。


「得体の知れん男だったが……佳い。惹かれるものがあるのじゃ」


「それは人間種? いけないわ……姉様と同じ轍は――」


 アリアベルの声を片手で制する。


 言わんとしていることは分かるが、それはクロウ=クルワッハ公爵家の問題であり、口にしたアリアベルもまた自らの古傷を抉ることになる。他の公爵家の御家騒動に関わることを避けたかったという理由もあるが、アリアベルにとって“姉の一件”は自身が思っている以上に尾を引いている事をレオンディーネは察していた。



 マリアベル・ラウ・フォン・クロウ=クルワッハ。



 アリアベルの実の姉にして廃嫡された幻の第一神龍姫。レオンディーネの目から見ても、マリアべルは大貴族たる資格を十二分に満たしている女傑であったが、その身体に流れる血潮の半分が人間種である事が輝かしい未来を閉ざした。そして、追い打ちをかける様に龍族特有の病を発病した事で、その地位を追われた。別段、特殊な力を持ち合わせていない人間種の血が混じれば、当然ながら龍としての能力は格段に下がる。同族から忌避される事に加え、代々、天帝陛下を輔弼してきた五公爵の権勢が低下する事は何としても回避せねばと考えた者が、クロウ=クルワッハ公爵家に数多くいたことが政治的致命傷となる。


 しかし、それでも尚、他に解決策があったのではないかと考えずにはいられない。


 マリアベルは現在、北部の地方貴族として過ごしている。クロウ=クルワッハ公爵アーダルベルトの嘆願によって伯爵位と北部のグロース・バーデン=ヴェルテンベルク領を下賜された。



 マリアベル・レン・フォン・グロース・バーデン=ヴェルテンベルク伯爵。



 そう名を変えたアリアベルの姉は、今この時、北部の叛乱に参加している。自らを辺境たる北部へと押し遣った父であるクロウ=クルワッハ公爵アーダルベルト、そしてマリアベルが廃嫡された事で第一神龍姫となったアリアベルに対しても決して寛容ではないだろう。無為の時を過ごしていたの噂もあるマリアベルが叛乱に加わったのは、今回の一件で二人を始末できると踏んだからではないのかとすら思える。


(わし)が弱い男に靡かぬ事は分かっておるじゃろう。そして、儂より強い男などそうはおらん」


 腕を組み、不敵に嗤う獅子姫。現状では行先は極めて不透明であるが、それでも尚、我らは進み往かねばなばらない。


「何、帝国軍を一蹴した後は、叛乱を鎮圧してアリアの姉上を“救出”してみせよう」


「ありがとう……レオ」


 “救出”の言葉の意味を察したのかアリアベルの目元を伏せて、頷く。


 大事を成すべき力が二人の手中には確かに存在する。ならば行使することを躊躇うのは罪。


 アリアベルが黙って差し出してきた手をレオンディーネは迷わず掴む。


「私と一緒に戦ってくれる?」


「是非もなし、じゃ」


 この日、皇国の政治中枢に一つの勢力が誕生し、軋みを上げながらも政戦に於いてその効力を示し始めた。


 それは幾多の者達を巻き込み、歯止めすらかからずに回り続ける巨大な歯車。



 回る回る回る―――くるくると、くるくると。

 周る周る周る―――繰る繰ると、繰る繰ると。

 廻る廻る廻る―――狂る狂ると、狂る狂ると。




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