第二〇〇話 帝都初空襲 中篇
リシアは戦慄を覚えて右の拳を強く握り締める。
トウカを英雄と呼ぶ者は多いが、やはり本質は軍神と呼ぶべきものであった。軍を統率する神でなくば、一作戦にこれ程の意味を持たせる事など不可能である。
「航空騎に対抗できる兵器や部隊が根こそぎ皇国侵攻や帝国南部へと増派されました。その要因は閣下による帝国南部の諸都市に対する戦略爆撃と、軽爆撃騎と戦闘爆撃騎による輜重線への航空攻撃かと」
ミユキの狩猟を得意とする種族の勘は、トウカの誘引という部分にこそ強く働いたであろう事は疑いない。軍人であればこそ“誘引”という確たる軍事用語を扱うが、ミユキからすると正に“釣り上げた”という物言いとなる。
帝国全土を俯瞰した上での誘引。神算鬼謀とは正にこの事。
「つまり閣下は帝都空襲の際、迎撃を受けぬ様に帝国内の対空戦闘可能な陸上部隊や、要撃可能な航空部隊を帝国南部へと“釣り上げた”。そういう事ですね?」
完全な誘引は難しいと推測できるが、帝都上空に至るまで対空砲火に晒される事もなければ、邀撃騎が展開している事もなかった。帝国南部の四都市と輜重線が戦略爆撃と戦術爆撃によって焼け落ちた事で、迎撃可能な部隊が南部へと根こそぎ再配置された為である。戦略爆撃は国民の国家に対する信頼を損なわせて継戦能力を削ぐ。輜重線の圧迫は前線部隊の行動力を制限して短期決戦を強要する。共に看過し難い。
だが、帝国南部の防空戦も帝国には容易ではない。それ故に、それが囮とは考え難い。
対応するには航空攻撃を阻止せねばならないが、帝国の航空戦力は僅少。諸外国すらも同様であり、敢えて言うなれば航空騎に航空爆弾と大口径機関砲を搭載しての大規模爆撃という戦闘教義自体の成立がある種の奇襲であったのだ。
龍種が多く住まう皇国は飛龍や翼龍を積極的に保護していた。他国が積極的に狩猟対象として資源としていた事とは対照的である。陸軍による航空偵察部隊の多数保有も、保護目的という側面があった。
トウカが航空優勢の原則を示した点は大きいが、元より軍が少なくない数の航空騎を保有していた点と、皇国自体が多数の龍種を国民とし、飛龍と翼龍を保護して生息数が他国を遥かに優越していた。厳密には大陸諸外国の生息数の合計に対して、皇国内の生息数は“控えめに見て”三倍を誇ると推測されている。
航空騎の積極的運用を意図した時点で、トウカは大規模な都市爆撃……戦略爆撃を想定していたのではないか?
トウカの創り出した一連の“流れ”に誰しもが障碍と成り得ていない。七武五公も中央貴族も政府も陸海軍も帝国諸勢力ですら、トウカの思惑を逸脱できていないのだ。余りにもトウカの手段が広範囲に影響を齎し過ぎている事も大きい。逃れるには相応の戦略を必要とする。政治による蠢動など押し潰す構えを見せるトウカを相手に、権力や政治など何ら意味を持たない。
ただただ、トウカの軍事行動を優越するしかないのだ。
航空部隊の広大な行動力が齎す攻撃目標の莫大な数。選択肢の大多数を防護し得るだけの戦力など現状ではない。現実的ではなく、そもそも不可能である。よって先制攻撃という奇襲的対応が試みられるであろうが、航空優勢を有する軍相手に奇襲を行うという困難は想像を絶するものがある。
歴史上に稀に存在する。時代の潮流を欲しい儘にし、戦場を統制し、人心を操る者が。
――今までは大陸の一部……皇国のみで活躍していたけど、帝都空襲は世界に遍く示す事になる。
その武威を。その既存の軍勢を飛び越えて国家の首都を直撃できるという優位性を。
エカテリンブルクなどの都市爆撃を以て想定していた者は居たかも知れないが、それが可能であると示された以上、今戦争は航空攻撃への対処手段の確立という意味で試金石となる。
トウカはそれに気付いているのか。リシアには尋ねる勇気が持てなかった。
その胸中など知りもせず、トウカは補足説明を行う。
「ヴェルテンベルク領邦軍艦隊の艦艇は皇国海軍の艦艇とは一線を画している。構造が余りにも違う上、シュットガルト湖に籠って出てこないとなれば、な」
帝国海軍が初見となるのも致し方ない。そもそも、他国では一貴族が艦隊戦力を保有している例自体が珍しい。
帝国海軍の識別表には記載されていない艦艇が帝国海軍旗を掲げて航行するのだ。挙句に甲板上の構造物は工員達の手で擬装されている。民間船舶相手には手空きの水兵による帽振れで応じた。
「擬装と航空優勢、この二つがあれば戦力の奇襲的運用の難易度は酷く下がる。陸戦も海戦も戦略も戦術でも例外ではない。誰しもが気軽に取り得る選択肢の一つに過ぎなくなるのだ。覚えておくといい」
実行不可能として挙げた諸点をひっくり返せば、それだけ奇襲の効果が上がるという事だ。
トウカの言葉は複雑なものではない。リシアは半ば放心した状態で騎首に近い位置の機銃座付近へと歩を進める。アーダルベルトの飛行能力が隔絶している為か揺れはなく、足を取られる事もない。
『恐ろしい事だ……』
アーダルベルトの声が響く。周囲を見回してもその声を捉えている者はいない。どの様な絡繰りか、リシア以外の者には聞こえていない様子であった。
「……そうでなくては総てと争う事などできないですから」
実際に諸勢力を全て敵とする必要とはないが、潜在的な仮想敵とする姿勢は望ましい。安易な信用は利益と人命を損なう。
『あれが何処まで往くのか。成程、気になる高位種共が出るのも致し方ない、か』
「北部貴族は興味ではなく、唯一の生存の為の手段として閣下の手を取ったのです。勘違いをされては困ります」
どうした事か、リシアの声すらも周囲には聞こえていない様子である。
リシアは眼下で航空爆弾が炸裂する光景を機銃座の窓から一瞥する。既にアーダルベルトも投弾を始めていた。
鈍色の航空爆弾が空気を裂く音を響かせて高級住宅街へと次々と吸い込まれる光景は、リシアの視力であっても識別できる程に近い。
トウカが奇襲的運用を望んだのは、低空高度からの帝都中枢への侵入と爆撃を意図したからであるのは周知の事実である。高高度であれば自由落下となる航空爆弾は気流の影響を受けて命中率が下がるとの事で、経験的に気流の存在を知る龍種もこれに同調した。故に騎載機銃を減らしてまで搭載弾を増加させた戦略爆撃騎による低高度での空襲は凄惨な火災を齎した。
幸いにして逃げ纏う民衆の姿までは見えない。内戦を経験したリシアは焼死がいかに悲惨であるかを理解していた。
『興味を抱いた高位種は北部貴族だけではない。政府にもいれば七武五公にも少なくはない』
「少なくとも帝国を打ち倒すまでは、ですね」
相手の疲弊した瞬間を叩くというのは戦略の基本である。帝国陸軍に対する漸減を皇州同盟に行わせ、それによって疲弊した皇州同盟軍を撃破する。無論、陸海軍との連携姿勢を見せ、尚且つ大規模な陸戦を陸軍が代行しつつある現状、それを簡単に成せるとは思えない。
「困りますよ、クロウ=クルワッハ公。ハルティカイネン大佐を拐かされては」
気が付けば背後にはトウカの姿がある。二人だけの会話であるとと考えていたリシアは眉を跳ね上げて天井を見上げる。
『やはり魔術を使えば露呈するか』
「はい、通信士が騎内で魔術を扱っている者が居ると」
二人の会話に、リシアは眉を顰める。
アーダルベルトであれば魔術行使であっても隠蔽する事は容易い筈である。それを隠さないのは、日常会話程度と見ていたからに違いない。そうまでして自身との会話を望むアーダルベルトにリシアは恐怖を覚えた。
トウカの背後に隠れてみるリシアだが、アーダルベルトは現在のところ戦略爆撃騎である。トウカの背に隠れるという行為に意味はない事に気付いて襟を正して距離を置く。
「しかし、良く燃えますね。先行した中隊があるとは言え」
リシアは話題を逸らす意味を込めて眼下の光景に視線を向ける。
機銃座の窓から窺える光景は紅蓮と黒煙に満たされつつある。異様な燃え上がり方をしている点は、先の三都市空襲の経緯が記された戦闘詳報と同様である。
トウカもまた先程までの話題に固執していなかった。現状では既に砲撃型魔導士が魔導杖を以て機銃座から魔導砲撃を開始している。高位魔導士だけあり、青の残留魔力が騎内に散り、夜の帳が降り始めた中で輝く。
「暖房や調理に使用する為に貯蔵されていた石炭や骸炭辺りの燃料が火災の規模を拡大させるらしい。挙句に帝国は道路も可燃物だ」
トウカが嘲笑を零す。彼にとりさも当然の常識は、未だに大多数にとっての非常識に他ならない。
リシアは自身が未だ軍神の視点に届いてはいないと思い知ったが、それでも尚、落ち込みはしない。彼は隙も多く、だからこぞ常人の視野で彼が理解できないであろう常人の害意より護らねばならないのだ。
「土瀝青だ。減圧蒸留を経たとは言え、石油化合物だぞ? 高熱を加え続ければ燃焼し、自ら熱源になる」
リシアも土瀝青の概要は知っている。皇国では、刺激臭に敏感な種族などへの配慮から、噛み合い効果を持つ形状をした高耐久煉瓦による舗装が一般的である。融雪性で劣るが、製造過程で魔術による発砲効果によって気泡を混ぜ込み乾燥硬化。透過性を増した構造の為に水捌けに優れた。北部では春の雪解けで生じる泥濘への対策として積極的に利用されている。加えて二重構造内への刻印魔術で空気中の魔力を取り入れ、規定温度を下回った場合、保温効果が生じる。結果、開発に二五年の歳月を要した挙句、導入価格の高騰を招き、国土開発に於ける重石となっていたが、優れた性能であることは間違いない。
土瀝青という原料は加工によって精製されるが、純度の高いものが天然で噴出している例もある。地中の原油から一部の成分が揮発し、土瀝青を構成する成分のみが残留した結果と推測されていた。
当然、自然発生にしろ人工精製にしろ原油が元である点に変わりはない。
「だから舗装が重点的に成されているであろう高級住宅街への爆撃……」
トウカは、帝都全域に分散して火災を発生させるよりも、高級住宅街の可燃物を標的にする事が効率的だと判断したのだろう。確かに帝都は中枢や貴族が住まう住宅街周辺こそ舗装されているが、外周や平民の居住区画の舗装率は高くなく、石畳である場所も多い。安価な舗装手段とは言え、広大な領土を有する帝国では主要幹線道路の維持が優先されている。地方の叛乱に備え、迅速な兵力移動を可能とする為でもあった。
「火炎を伴った竜巻が発生すれば、帝都の高級住宅地は溶鉱炉となるだろう。幸いなことに今日は海風が帝都に吹いている。可能性は十分にある……まぁ、高級住宅街は言わば貴族街だ。爆撃するだけでも意義は複数あるが」
三都市空襲の際にも起きた事象だが、地方都市オスロスクでしか発生しなかった。敵地である事から発生条件の解明が進んでいない為に人為的に誘発する要因は不明確なままである。現状ではトウカの言による注釈のみが発生の判断基準となっていた。
しかし、アーダルベルトはそこにもう一つの可能性を見た。
『平民と貴族を分断する目的もあるのだろう?』
その一言にリシアは声を漏らす。戦争という軍事行動の行使に於いて最も負担を強いられるのは平民階級に位置する者達である。平民の被害を低減しつつ、貴族階級に恐怖心を抱かせる事で出兵を強要させる意義は十分にあった。階級間の意識の乖離は主義主張の分断を招く要素となる。勃興しつつある共産主義勢力にとり、平民階級を取り込む格好の好機となり得るだろう。
火災ともなれば、鎮火の頃合いを見計らって火事場泥棒に勤しむ平民も少なくないはずであり、平民を鎮圧するべく軍が帝都に展開するとなれば衝突も有り得る。極限状態に耐性のない平民と、帝都空襲という失点に対して動揺する将兵ともなれば、大規模な暴動となりかねない。
トウカは一拍の間を置いて苦笑する。
「それは考えなかった。成程、そうした効果も有り得るか……」
ふぅむ、と思案の表情を湛えるトウカだが、その思考は次の瞬間に破られる。
「敵邀撃騎、接近! 数は五!」
リシアは機銃座の飛行兵を押し退ける。
「一四時の方角、高度二〇〇(二千m)! 突っ込んでくる!」
叫ぶリシアに押し退けられた飛行兵が押し返し、機銃の銃把を握り込む。銃身を重たげに揺らし、銃身上に取り付けられた環型照準器を覗き込む飛行兵。搭載されている一三㎜機銃は、皇州同盟軍で広く採用されている一三㎜重機関銃を専用銃架で騎載型にしたものである。威力としては高射機関砲として多用されている四〇㎜砲弾と弾丸質量が八分の一程度である為、長射程での被害は限定的であった。
トウカは背を向けて自席へと戻ろうとする。リシアも後に続く。
箱型陣形は既に解除され中隊毎に梯団を形成しての爆撃に移行しており、防御射撃は中隊規模で行わねばならない。
「完全に航空騎を釣り上げられる筈もないか……魔導士も対空戦闘に回せ」
トウカが慌ただしさを増した騎内で自席に収まりながらも命令を発する。
戦闘騎乗りは巴戦の訓練を重ねている為、後ろに付かれたら簡単には振り切れない。私生活でも男色趣味の戦闘騎乗りに狙われれば尻を掘られる事は確定したと言っても過言ではないという噂も、リシアは耳にしていた。
『巨大な本騎が狙われているな。叩き落とせるが?』
「それを望まないのが貴方の戦略では?」トウカが苦笑する。
アーダルベルトがアーダルベルトであるが故の活躍をしては、龍種の地位向上に繋がらない。神龍族族長の勇戦ともなれば、他の龍種には容易に真似し得ず、龍種全体の利益とはならないと見られる可能性がある。突出した個体による勇戦では、龍種の活躍ではなく個人の活躍とされかねない故に。
「進路其の儘。爆撃を継続せよ。対空戦闘は魔導士主体で行う。機銃は阻止射撃に専念せよ」
「よぅし! 野郎共! 防禦射撃開始! 敵騎を近づけるぅなぁ!」
トウカの命令を聞き届けた瞬間、騎長席に収まっていたノナカが叫ぶ。
空前の規模の重爆撃騎の統率に加え、煩雑な帝都イヴァングラードの爆撃目標確認に手間取っている事もあり酷く静かであったが、敵邀撃騎が迫る今となっては黙ってなど居られない。
リシアは、その光景を背に自席へと向かう。
参謀将校が戦略爆撃騎上で成せる事などないのだ。
「小父様、舌噛んだわ!」
エカテリーナは馬上で叫ぶが、その声は黒煙混じりの風に押し流される。火の粉が舞い、煤が純白の軍装と白金の長髪を穢すが、それを気にも留める一時すら洗得られない。軍馬が悍馬である事を差し引いても、スヴォーロフの手綱捌きは卓越したもので、騎兵運用の経験者としてブルガーエフと並ぶ程の将軍と称される点に納得できる躍進であった。
軍馬はエカテリーナとスヴォーロフを乗せて疾風の如く進む。
爆撃による自由落下の風切り音と着弾音、炸裂音。天井を焦がす黒煙の臭気に、建造物を塗り潰す劫火、地を舐める熱気。
「我慢なさぃ! そろそろですぞ!」
散らばる瓦礫と巻き上がる火炎を巧みに避け、エカテリーナを片手え抱える様に抱き寄せたスヴォーロフが叫ぶ。
帝都中央から郊外へと続く一六車線もの幅を持つ帝都中央大通り……イヴァン大帝通りを駆け抜ける軍馬。意外な事に帝都最大の規模を持つ大通りは閑散としている。打ち捨てられた魔導車輌や燃え盛る遺体。倒れた建造物が大通りの半ばまでを閉塞している事すらある。
――避難に大通りを使っていない? 真っ当な避難計画がないとはいえ、最短の避難経路を使わないなんて……
納得のいかないエカテリーナ。これは軍事的視点の有無が大きく反映された結果であるが、エカテリーナの様に政戦に対しての造詣がある程度ある者であれば逆に理解が及ばない。
初めての空襲を受けた平民に貴族。軍人ですらも殆どが初めてである。彼らは本能的に災厄を振りまく頭上の巨龍から露呈する開けたイヴァン大帝通りを避けたという経緯があった。自らが視認できるという事は、敵からも視認できると考えた結果、遮蔽物の多い通りや建造物の間隙を縫う様に移動する者達が相次いだ。
実際、重爆撃騎からは投影術式の効果で見えていたが、爆撃目標はヒトではなく建造物である。公共施設であるイヴァン大帝通りもまた戦略爆撃の目標足り得るが、復旧の難易度が低く、輸送量が鉄道網に劣る道路を敢えて爆撃目標とする程に帝都イヴァングラードは爆撃目標に事欠く訳ではない。
大部分の道路は放置されていると言っても過言ではない。が、それを爆撃を受ける者達が理解できるはずもなく、何より水雷兵装の照準器を転用した爆撃照準器では精度も問題もあって、イヴァン大帝通りに着弾する航空爆弾も複数存在した。
軍人達は戦略爆撃への対応を帝国陸軍野戦教典の、航空騎からの防禦行動という項目に従って行った。即ち、対空攻撃手段のない者は身を隠しながら避難するというものである。それは本来、戦術爆撃や近接航空支援、それも火炎吐息や魔導杖、軽機関銃による航空攻撃が前提となっていた。
将兵ではなく、防御拠点や都市に対する攻撃手段である戦略爆撃を相手には明らかな間違いであったが、複数の理由からイヴァン大帝通りからの避難は危険視されたのだ。
前方に窺える炎の壁。
軍馬の手綱を今一度、引き絞り進路を僅かばかり変更すると、スヴォーロフがエカテリーナを抱き寄せる片手に一層と力を籠める。
そして、軍馬が魔導車輌の残骸に馬蹄を掛ける。続く浮遊感。軍馬と老元帥、白い女帝が宙を舞う。
軍馬は砲声に慣れる様に教育されている。そうでなければ多数の砲兵が展開する近代戦では対応できない。だが、宙を舞い、眼下の炎に炙られる事は流石に慣れないのか軍馬が暴れる。
スヴォーロフは、鬣を掴んで地面へと着地した軍馬の頭を押さえ付けて黙らせる。乱暴な手段であるが、生物を統制するには暴力と恐怖は有効である。追い詰め過ぎれば暴発するが、短期間の統制に於いては問題とはならない。
エカテリーナが空を見上げれば、火焔と黒煙の間隙に巨龍の群れが一段と低い高度を飛行している光景が窺える。イヴァン大帝通りを沿う様に飛行する大型騎。高度は五〇〇mもない様にエカテリーナには見えた。
――低い! 爆撃じゃないわね。何かしら?
揺れる白金の長髪を押さえ、エカテリーナは大型騎の群れを凝視する。数は二個中隊……三二騎程度の数であるが、三分の一ほどが騎体右の装甲籠より一際大聞く長大な砲身を突き出していた。投影術式で窺えるのはそこまでである。
しかし、帝城まであと五分程度まで距離を詰めたところで、大型騎の群れに変化が生じる。次々と航空騎より落下するヒトの群れ。ヒトが一対の白翼を広げた姿は正に天使。
――天使族! 航空歩兵ッ!
「空挺ッ! そこまでッ!」
目的は占領ではない。合計で二個小隊程度の将兵では帝都の占領など覚束ない。落下地点を見るに目標は帝城に違いないと、エカテリーナは眉を顰める。
帝城周辺の貴族街は焼夷性の高い爆弾で爆撃されているのか盛んに燃えているが、対する帝城は榴弾の様に炸裂による衝撃と破片効果で目標を破壊する爆弾が主に使用されたのか火災の気配は限定的となっている。代償に幾つもの尖塔が崩れ落ち、往年の荘厳な佇まいを帝都に示し続けた皇帝の居城は見る影もない。全高も大きく損なわれている。一瞬で魔道炉心が飽和状態に陥り、そこを爆撃されたと見える光景である。
――大質量の徹甲弾を使用されて魔導障壁が崩壊。そこを爆撃されたのでしょうね。
帝城には〈第一親衛軍〉から抽出された精鋭部隊が詰めており、皇帝を守護しているが、窺える光景を見る限り、彼らもまた瓦礫の下敷きとなっている可能性が高い。
眼前に迫る帝城の敷地内へと続く正門だが、両側に配置された詰所には人影が窺えない。或いは、城壁が崩落した為、出入り口であるはずの正門を防護する必要性を失ったという可能性も有り得た。保全しても侵入経路を遮閉できない場合、後退して帝城城門の防護に兵力を集中するという選択肢が生じる。無論、帝城の崩壊すら著しい現状では、出入り口である門を遮閉する意義は薄い。皇帝を直衛し、爆撃終了後は帝都郊外のスヴェトラーナ離宮への移動が望ましい。
スヴェトラーナ離宮は、帝国の中枢として機能できるだけの設備と収容能力を有する。元来、帝都で叛乱が生じた際、帝族が国家元首を代行する為の建造物という側面を建築当初より有していた。同時に〈第一親衛軍〉の司令部が内部に設置されており、帝都近傍え最大の武力集団である彼らに対して直接の命令が可能である。
だが、最悪の可能性もある。
「下りますかな、姫様!」
「構わないわ! 突っ切って、小父様!」
スヴォーロフの言葉に、エカテリーナは即応する。本来、帝城の敷地ともなれば乗馬しての侵入は許されないが、今は非常時であり周囲には咎める者もいない。居ても皇族と元帥を相手に非難できる相手などそうはいない。
既に爆撃開始から三〇分近く経過している。逃げ出せる者は逃げ出した。
閑散とした広場に軍馬を止め、二人は軍馬より降りる。先に降りたスヴォーロフの手を取り、飛び降りたエカテリーナは周囲の光景に天を仰ぐが、その視線の先にすら大型騎が存在する。帝都には救いも赦しもない。ただただ煉獄があるだけである。
「ここならば馬肉の燻製は避けられましょうな」
軍馬を噴水の残骸に繋ぎ止めるスヴォ―ロフ。些かの息の乱れも見受けられない老元帥。エカテリーナの記憶が正しければ六〇を過ぎている筈であるが、未だ前線指揮官として通用する身体能力を保持している。騎兵の真似事というには先程までの軍馬の扱いも騎兵将校に匹敵するものがあった。先程まで抱えられていたエカテリーナは、その胸板の厚みを肌で感じている。
軍馬に噴水の水を飲ませるスヴォーロフ。非常時とは言え、さも当然の様に噴水の水を軍馬に飲ませる光景を宮廷貴族が目撃すれば卒倒は免れない。
「スヴォーロフ元帥! 御無事であらせられましたかぁ!」
ぽよんぽよんと腹を躍らせて駆け寄ってくる将官が遠目に窺える。徐々に近づいてくる将官。背後に親衛軍の軍装を纏う兵士二人が追従している。
息を切らせてスヴォーロフの眼前で身体を折る恰幅のよい将官。エカテリーナが階級章に視線を巡らせば、元帥号を得ている事が見て取れる。
「クトゥーゾフ元帥も無事であったか」
知り合いであったのか、スヴォーロフが恰幅のよい将官……クトゥーゾフの両肩を叩いて朗らかに笑う。スヴォーロフの対応は非常時とは思えない光景であったが、クトゥーゾフの脂汗の流れる荒い吐息も負けず劣らず現実離れしている。他種族に対して敵対的で略奪と強姦の風習の為に死滅させられた豚鬼種も斯くやという有様であるが、その目元は優しげな眼差しを湛えていた。
「これは、エカテリーナ姫殿下。ご機嫌麗しく……はないでしょうが、如何なるご用件でしょうか?」
傅こうとしたクトゥーゾフを、エカテリーナは非常時に付き礼は不要、と再び立たせる。最早、時間はない。帝王陛下の御宸襟を案じ奉らねばならない。無論、皇族や貴族の義務という意味もあるが、この非常時に在って帝王の心身の保全に最善を尽くしたという実績は何ものにも勝る政治的優位性となる。自らの保身を優先した者達を忠誠心に欠けると非難できる立場をエカテリーナは欲した。
そして、皇帝が崩御した場合、継承権第一位は役立たずの兄君殿下が即位する事になる。権力闘争という内向きの争いしかしない者を玉座に据えるのは現時点では危険などという言葉を通り越して亡国沙汰となりかねない。
この帝都空襲によって戦死した貴族は少なくないとは、遠目にでも理解できる。
高級住宅街……貴族街の方角が盛んに燃えていた事から、敵の空襲の目的の一つに貴族の鏖殺が含まれていた事は疑いない。その目的が戦争の大規模化を望んでであるという事を、政治的怪物たるエカテリーナは当然の如く察していた。
――皇州同盟は有事に在ってこそ輝く。誰しもが目を奪われる輝きを放つはず。ねぇ、貴方でしょう? トウカ。
空挺部隊が集結し始めているであろう帝城内、霊廟の方角を一瞥し、エカテリーナは口元を引き締める。
「兵を糾合しつつ、帝王陛下の元へ向かいます。幸いな事に陛下のおわすであろう付近は倒壊しておりません」
クトゥーゾフが佩用した曲剣の柄を掴んで引き抜くと、エカテリーナは駆け出す。迷いを振り切るべく。
空挺部隊にトウカがいるであろう事を、エカテリーナは何故か確信していた。彼は来た。そうである筈なのだ。そうでなければならない。それは祈りにも似た願望である。
皇州同盟の権力基盤を確固たるものとする事を望むのであれば、敵国首都に対する空挺というのは酷く魅力的な要素である。自らが陣頭に立つのであれば、大多数の国民は支持するに違いない。諸勢力もそれ相応の待遇を以て遇するしかなく、他者の追随を許さない実績となるのだ。
しかし、エカテリーナは帝王の御宸襟を案じ奉る事を優先した。トウカを討ったとしても皇国は滅亡しないが、帝王が喪われれば帝国は滅亡しかねない。
それでも尚、トウカに逢いたい。一目なりとも目にしたい。
胸を焦がす感情。
だが、エカテリーナは優先順位に私情を挟まない。それが、トウカと相対し続ける最低限の条件であると弁えているからであった。
「帝女たる私に続きなさい!」
分隊規模の親衛軍兵士に叫び、エカテリーナは帝城内へと足を踏み入れた。
「行け行け行け! 全分隊は各個、大霊廟に躍進せよ!」
純白の翼を持つ天使が叫ぶ。
次々と戦略爆撃騎の装甲籠側面の開け放たれた扉より宙に身を投げる有翼の騎士達。その腕には完全武装の鋭兵達が抱えられている。
「天使殿、後は任せますぞぅ!」
「ええ、ラムケ少将も此度こそは御壮健で!」
内戦時の様に下手を打って捕虜になる事はできないという意味を存外に含ませた天使の言葉に、不良神父は手を振って視界から消える。明らかに意図は伝わっていない。
既に兵種としての寿命を迎えたと思われた艦上航空歩兵に再び戦場を与えたトウカに、レーヴェニヒは感謝している。解体を免れる為、隷下の艦上航空歩兵中隊ロンメル領邦軍預かりとして転入まで行われた恩顧に報いねばならない。
口元を引き締めたレーヴェニヒに、最後に残ったもう一人の天使が声を掛ける。
「レーヴェニヒ中佐。我々も最後です。奮起すると致しましょう」
物腰柔らかな天使。軽やかでいて可憐さと幼さすら感じる声音に、レーヴェニヒは姿勢を正して応じる。
「御命令とあれば」
「今は貴女の部下の一人です。良しなに」
軍人は「良しなに」などという上品な言葉は、例え天使でも扱わない。彼女らは何れかの種族である前に軍人たらねばならないのだ。それが皇国軍人たるの規範である。種族間の争いや確執を持ち込まぬ様に、種族への帰属心ではなく、軍人としての忠誠心を醸成するという取り組みは皇国の全ての軍事組織で行われていると言っても過言ではない。十全の効果を発揮しているとは言い難いが。
「しかし、六対の翅では御立場が露呈してしまうのでは?」
レーヴェニヒの懸念に、年頃の娘と評しても過言ではない清楚可憐な容姿を傾げた天使は楽し気な声音の笑声を零す。楽しくて堪らないという様子であるが、それが戦闘に対してか、ある種の“悪戯”に対してか、或いはトウカに関わるという点に対してか。幸運な事にレーヴェニヒには推し量れない。
「一対だけ出しましょうか。……此方は上手く致しますので、其方は良い様に」
今にも夜の帳が降り始めた夜天を舞い上がりそうな声音。
そして、扉の縁に手を掛ける麗しの天使。その笑みと物腰は誰よりも天壌の御使い足るを体現していた。
「では、私はサクラギ上級大将閣下をお迎えに上がります」
結局は、その点なのだろうかと言葉をぶつける前に宙へ踊り出す麗しの天使。
レーヴェニヒが扉より覗けば、麗しの天使は蒼い残光を背に、紅蓮と黒煙に染め上げられた天壌を駆ける。自らの身長を超える戦斧を手にした姿は戦乙女とも取れなくない。天の階に足を掛けるかの様な光景は、宗教画の様にすら思わせる。この時、他の戦略爆撃騎に同乗していた飛行兵によって撮影された画像が、帝都初空襲に於ける最も著名なものとなるが、レーヴェニヒがそれを知るのは後日の三面記事を目にした際であった。
通常の天使種とは思えない速度を以て上昇を始める姿を一瞥し、レーヴェニヒは首に掛けていた保護眼鏡を装着する。
身を投げ出す。展開した魔道障壁によって風圧は感じないが、夜空に身を任せるという浮遊感と迫る地上の圧迫感が混ざり、言い様の知れない恐怖が心を締め付ける。
対空砲火。
帝城に配置された対空砲に未だ健在なものがあり、尚且つ運用するだけの人員を混乱の最中に集め得るだけの士官がいたという事である。
高度五〇〇mという戦略爆撃騎としては超低空飛行からの空挺は、飛翔能力を持つ有翼種であればこその芸当で、対空砲火で迎撃するにも照準を付け難い。開発中と言われる落下傘は単調な軌道で降下するが、有翼であるならば乱数機動による回避が可能であった。
曳光弾の直径から逆算するに、二〇㎜機関砲であろうそれに、それよりも尚、大口径の機関砲による砲撃が複数の戦略爆撃騎より加えられる。
「飛行砲艦……頼もしい!」
装甲籠右側に五基搭載した四〇㎜機関砲と、多数の砲撃型魔道士を搭載した飛行砲艦の異名を持つ戦略爆撃騎は、今作戦に於いては爆弾倉を取り払っていた。代わりに多数の武装と航空歩兵を搭載して空挺作戦全般に携わる特殊作戦騎となっている。
空挺部隊の総員は一四二名と、大容積を持つ戦略爆撃騎を回収した騎体からしては少ないが、半数の天使種に抱えられたのは中位種ばかりが選抜された鋭兵科の精鋭である。指揮を執るのは実績のあるラムケであり、天使種は鋭兵を地上に下した後、滞空して近接航空支援を行う手筈となっていた。
大日連陸軍で言えば、航空歩兵は言わば戦闘回転翼機である。ある程度の装甲を有し、複数の対地攻撃手段を持つ。そして何よりも空中停止能力を持つ点は酷く魅力的であった。それでいて戦闘回転翼機よりも遥かに小型であるが故に被弾面積が小さく、魔導杖による魔導砲撃は弾薬消費がない為、継戦能力に優れた。
天使種や天狗種、鷹種の系統に属する種族は皇国には数多くいる。
今回は鋭兵を地上まで輸送せねばならないという都合上、投入時は主兵装の軽機関銃や魔導杖を両手が塞がっている為に装備できない。しかし、鋭兵を下ろした後は、新装備の背面武装担架に装備した軽機関銃や魔導杖、大剣を運用できる。
だが、指揮官であるレーヴェニヒは通常の完全装備である為、攻撃に対して即応できた。
忽ちに近づく地表。顕現した純白の両翼を以て地形追随飛行を行う。地を舐めるかの様な低空飛行は地上から五m程度。瓦礫や噴水、木々などの障害物を避けて飛行するレーヴェニヒ。
地形追随飛行は本来、敵に位置が露呈する事を避ける為、極低空飛行を行う事である。基本的には危険空域でのみ行われ、露呈後も敵の照準を困難とならしめる効果もあって多用されていた。
対空砲火はない。
あまりにも低空であり、垂直降下から至近に表れた事で対空砲の照準が追い付かないからであった。例え、照準が叶ったとしても時限信管の調定は遙か遠方からの航空騎の侵入を前提としている為、炸裂は遙か後方で生じている。元より対空砲火に於ける炸裂の次期は、時限信管の調定に依存しているが、それは戦闘時に変更する事ができる程に汎用性に優れたものではない。
至近に迫る対空陣地に、右手の軽機関銃による掃射と、左手の魔導杖による魔導砲撃を加えるレーヴェニヒ。
軽機関銃による軽快な速射音が対空砲に取り付いた兵士を打ち倒し、魔導杖による魔導砲撃が対空砲本体を襲う。砲弾が誘爆して小さな火柱と共に兵士を宙へと舞い上げる。砲身が巻き上がり落下。石畳へと突き刺さる。
小銃と機関銃陣地による応射に対し、航空歩兵による猛射が加えられる。宙を舞い自由自在に射撃位置に遷移し、対空砲陣地や急造の機関銃陣地を襲撃する天使達。有翼種に在って最も魔導資質に優れた天使種だが、同時に最大の積載能力を有している。重武装のレーヴェニヒは次々と敵陣地を沈黙させる。
「大隊長! 帝城近傍の対空陣地は軒並み排除! しかし、帝城からの射撃に鋭兵共が拘束されている模様!」
「そちらの支援は飛行砲艦に任せろ! 我々は帝城周辺の掃討戦に移行する! 敵増援を許すな!」
大部分が石材の山へと変わった帝城だが、生存者達は指導者の警護に携わるだけあって即応している者も少なくない。鋭兵達は侍女などの非戦闘員を巻き込みながらも抵抗している敵兵を排除しながらも帝城内への侵入を果たそうとしている。敵の練度は精鋭と想定されていたが、重火器が充実している点は想定外であった。
「大隊長! 大通りを騎兵部隊が進出中!」
「第一、第二中隊は迎撃に向かう! 第三、第四中隊は近接航空支援を継続! 我に続け!」
レーヴェニヒは二個中隊を率いて大通りの騎兵排除に望む。
白翼を翻して二個中隊と編隊飛行に移るレーヴェニヒ。
その時、頭上を一柱の天使が一人の少年を抱いて駆け抜けた。
「済まない。後の航空部隊の指揮はノナカ中佐に任せる」
トウカは軍用長外套を脱ぎながら航空部隊の指揮権を引き継ぐ。
騎内は沈黙に包まれている。空挺は当初の作戦計画では、余裕がある場合のみ実行するとされていたが、実際は行わないであろうとノナカやアーダルベルト、リシアは見ていたのだ。
混乱の最中にあり、周辺の貴族街が業火に包まれた状況での空挺降下は危険を伴う上、作戦目標は既に達成している。アーダルベルトもリシアもノナカも……ミユキを含めた多くの将校が反対した空挺作戦だが、トウカは翻意する事はなかった。
「閣下、私も同行を。別に落下傘を用意させます」
「ハルティカイネン大佐、残念だが無理だ。迎えに寄越す天使は一人。落下傘などで降下すれば、何処に降りれるのか分からない。行けるのは俺だけだ。ミユキも待っていろ」
軍装の上から弾薬盒や自動拳銃の収まった多目的装備胴衣を羽織り、軍刀とMP九九短機関銃を手に取る。
「……待ってます。絶対帰ってきてくださいねっ」
ミユキがトウカを抱きしめる。一番、不平を漏らすと思ったミユキが多くを語らずに送り出そうとしている様に、リシアは何か言いたげであるが沈黙している。
斯く在れとミユキに望んだトウカだが、敵国首都に対する空挺降下などというトウカの知る戦史にもない軍事行動に対する危険性を知らないからであろう。逆にリシアは危険性を理解したが故に食い下がったと言える。
「クルワッハ公は、飛行砲艦への攻撃目標選定を願います」
戦略爆撃騎となったアーダルベルトの視界は、装甲籠からの視界に勝る。目標選定ともなれば、アーダルベルトが適任と言えた。アーダルベルトの目的にも反しない。
トウカはミユキを抱き寄せたまま、強化硝子の嵌め込まれた窓より外に視線を投げ掛ける。黒煙が濛々と立ち上り視界は悪い。幸いな事に帝城は広大な敷地面積を持ち、外堀と庭園が大部分を占めている。貴族街からの延焼を考慮する必要はない。
「航空歩兵、一騎接近! なんて速さだ! 右側面扉を開放しろ!」
窓に駆け寄った通信士が、航空歩兵からの発光信号を読み取る。航空歩兵は腰に携帯信号灯を装備しており、桿操作で発光信号を放つ事が可能であった。
「識別信号確認。友軍航空歩兵です」
天使からの信号。トウカは鷹揚に頷いた。
『……莫迦な。そうかそういう事か……』
転化した龍種に勝る飛行速度を見せつける天使に驚いたアーダルベルトに、トウカは苦笑を零す。レーヴェニヒの精鋭を派遣するという言葉は間違いではなかった。
一度、アーダルベルトの鼻先まで飛来した天使は、双翼を風に立てて急激に速度を落とすと、開け放たれたばかりの扉から滑り込む。
純白の翼を畳み滑り込むという芸当は高い練度を窺わせるが、トウカはその美貌にこそ呆気に取られた。容姿に優れた者が多い皇国の中でも、天使種は総じて特に優れた容姿を持つが、眼前の天使は正に天壌よりの御使いと容姿のみを以て判断出来得るだけの美貌を備えていた。清楚可憐な容姿は清純でいて犯し難い雰囲気を持つ。それ以外の雰囲気や要素の介在を赦さない程に唯一を突き詰めた美貌と気配にトウカは気圧された。
抱き寄せていたミユキを離し、トウカは短機関銃を三点式吊紐で肩に掛ける。
「所属と姓名を」
トウカは、握る軍刀の柄に力を籠め、敬礼すら行わず片膝を突いて家臣の礼を取った天使に問う。
「面倒なので、ただ“ヨエル”とお呼びください、我が主」
ノナカの様に傾いた将兵というのは時折存在するが、斯くも当然であるかの様に軍の規範を無視した姿勢を貫く様を持つ者はそうはいない。余りにも様になった動作でいて隙がない。その仕草を以て傅かれれば勘違いしてしまうであろう程に流麗である。
「失礼、どこかでお会いしたかな?」
トウカは、記憶の奔流に何時かの面影を見た。軍人として接するのも馬鹿らしいと、トウカは貴族令嬢に向ける言葉遣いを以て尋ねる。
「以前、ベルゲンで御逢いしました。貴方は其方の天狐を求めて私には見向きもされませんでしたが」
頬を膨らませていたミユキが一転して花咲く様な笑みへと転じる。軍人としての配慮は足りないが、女としての配慮はできる様子である、とトウカは鷹揚に頷く。後は戦闘技能が優れているのであれば文句はない。
「では、往きましょう、我が主」
「上級大将と言え。まぁ、いい。ところで俺を固縛して滑空するのに正面から抱き寄せようとする必要はない筈だが……」
腰に手を回してきたヨエルを、トウカは顔を掴んで押し退ける。穢し難い程に輝かしい笑みだが、トウカの本能が“面倒な女”であると叫ぶ。内戦という大型案件を携えてきたマリアベルにも似た面倒がその笑みには張り付けられている。少なくともトウカはそう直感した。
「黙って紐で固定しろ」
背を向けたトウカに「あらあら」と苦笑するヨエルは、トウカの腰に紐を回す。抱えられる様にして飛行する都合上、トウカはヨエルに背を向けねばならず、ヨエルの笑みは見えないが容易に仕草が想像できる。トウカと自身を紐と固定具で結び付けているヨエルは手早く済ませると、左手をトウカの腹部に回し、足で床に置いた戦斧を蹴り上げて右手で掴む。
「貴官、片手で支えられるのか?」
「いざとなれば私の胸が緩衝剤となりましょう」
トウカを強く抱き寄せるヨエルの腕は万力の如き膂力を伴っている。外観よりも遙かに身体能力に優れた点は容易く証明された。胸部もミユキには一歩譲るものの、十分に女性らしさを備えたものであると、トウカは確信する。無論、相手にしては面倒が更に複雑化する事を、トウカは学習していたが。
「では、任せる。俺を生かして地上に届けろ……ミユキ、土産は任せろ。霊廟で装飾品を“拾って”くる」
略奪と言えば聞こえが悪い点を踏まえ、トウカは平穏な表現をする。帝城の敷地内にある霊廟は初代皇帝の遺体が安置されているとされている。身近なものが遺品として共に葬られ、大層と輝かしく彩られた状態であるというのが通説であった。
「ん? ハルティカイネン大佐も物欲しそうな顔をしているな。よし、貴官には初代皇帝の帝冠を拾ってきてやる」
空挺という専門職が行う行為を有翼種の補助の下とは言え行うのは多大な緊張を伴が、トウカは痩せ我慢を示すべく口元を歪める。
怖がって逃げたとあっちゃあ名折れになる。人は一代、名は末代。
桜城家が桜城家たるの真価を異世界で示すに足り得る戦場が足元で燃え盛っている。武家であると示さねばならない。政戦両略を以て戦乱の時代を駆け抜けた先祖に恥じぬ戦を成さねばならない。桜城の軍人は常に敵に挑まなければならないという強迫観念を有している。闘争を以て平時と成す。世界に遍く示される汚名ならば、それは武功と同等であると考える家系なのだ。
「遺体を飾る金属など不要です、閣下。無事の帰還を」
「そうです。無事で帰ってきてくださいね?」
リシアとミユキの言葉に、トウカは敬礼を以て応じる。トウカの視界が傾ぐ。ヨエルが、飛行兵が開け放った扉に身体を投げ出したのだ。
帝都は敵国の軍靴に蹂躙されつつあった。
実行不可能として挙げた諸点をひっくり返せば、それだけ奇襲の効果が上がるという事だ。奇襲とは戦争の最大の要素である。
《亜米利加合衆国》 連合国軍最高司令官 陸軍元帥 ダグラス・マッカーサー
怖がって逃げたとあっちゃあ名折れになる。人は一代、名は末代。
江戸時代の侠客 幡随院長兵衛
追記、活動報告にも書きましたが、私が多大な影響を受けた小説家、佐藤大輔御大がお亡くなりになられました。残念です。本作も当然ながら影響を受けておりますし、私の青春の一部でもありました。皆様の中にも「皇国の守護者」や「征途」、「レッドサン ブラッククロス」などを読まれた方は多いと思います。出来ますれば、御大の死を悼んでいただきたく御座います。
彼なら来世でもうまくやってくれるさ。だが、我らが残されたのも事実。つまり君たちこそが継承者なのだ。 御大の作風で言うとこんな感じかな?




