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紫苑穢国のエトランジェ  作者: 葛葉狐
第二章    第一次帝国戦役    《斉紫敗素》
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第一九三話    真実は何処なりや?





「嗚呼、吹き飛んでるぜ。我らが要塞がよぅ!」


 爆音と衝撃波を撒き散らして崩れ落ちるマリエンベルク城郭の城壁を目に、伍長の階級章を付けた中年が叫ぶ。


 彼にとりエルライン要塞とは第二の故郷であり、実家以上に長く過ごした場所でもあった。


 轟々と黒煙を吹き上げるマリエンベルク城郭。周囲の将兵が漏らす嗚咽の多重奏。除雪された街道を進む魔導車輛から既に小さくなったエルライン要塞を望み、伍長は滂沱の涙を隠さない。女房よりも長い付き合いの“家”を喪ったのだ。小難しい国家戦略への影響などは兵士に分からないものであるが、自身が護るべき牙城を護れなかった事が、彼らの心身に慟哭と虚脱を齎した。


 エルライン要塞とは彼らに取り誇りである。


 国防の最前線を担うという重責を感じつつも、それ故の矜持(プライド)を以て軍務に就いていた彼ら。その矜持は、天皇大帝と皇城を警衛する禁闕守護(きんけつしゅご)、儀仗部隊として鳳輦供奉(ほうれんぐぶ)の任に就く近衛兵にも勝るとも劣らないものがあった。ただの国境警師団ではなく、象徴としてエルライン要塞を頂いて国境守護の任に就く彼らは自らが特別であると自認している。


 その誇りは、エルライン要塞の崩落と共に崩れ去った。


 巨大な破城鎚の前には如何(いか)なる戦力であれ抗し得なかったという言い訳も弁解も、彼らはしない。危機に駆け付けた若き軍神は、神龍相手に奇蹟を起こした。対する彼らは奇蹟を起こせなかった。


 その様子を見かねた年若い士官が声を張り上げる。


「聞いてるか? サクラギ上級大将は一年内に要塞を取り戻すと宣言されたらしいぞ!」


 ぴかぴかの新品少尉であったが、この一戦を経て歴戦の勇士の如き戦歴を得た青年少尉の言葉に、伍長は涙を袖で拭く。


 小さな輸送車輛の片隅。乗員数を越えた人数を押し込んだ輸送車輛。本来は移動時に立ち上がるのは厳禁であるのだが、青年少尉は天井の構造物を左手で掴んで立っている。全高が足りず、酷く不恰好な有様だが、青年少尉は士官としての義務を果たそうとしていた。


 ならば、自身も下士官としての義務を果たさねばならない。下士官とは士官との間に入って兵士を統率する者である。


「少尉、皇州同盟軍に転籍ならるので?」投げ掛けた野次。


 陸軍とは極めて複雑な関係を維持している皇州同盟軍への転籍という言葉は、ある種の危うさがある。陸軍将兵の中には勧誘に応じる者もおり、人事部は懸念していた。


「ば、莫迦者っ! 考課に響いたらどうする!」


 慌てて上官の姿を探す青年少尉。配属当時は堅物であったが、余裕と諦観を身に付けたのか、その本質は意外と軽妙な人物である。


 周囲に笑声が満ちる。道化としては些か腰が引けているが、それもまた好ましい要素である。ちらりと青年少尉が伍長へ視線を向ける。感謝と手加減を求める感情が入り混じった視線に、伍長は笑みを零す。


「まぁ、取り敢えずは反攻作戦への参加だな」


 青年少尉の言葉に、周囲の兵士達が一様に頷く。


 帝国主義者を叩き出し、エルライン要塞を奪還せねばならない。そうなれば、我らが先鋒を担うべきであると彼らは確信していた。


「常識的に考えれば、〈エルライン要塞駐留軍〉は〈北方方面軍〉隷下となるだろな。再編制をそこで受けた後、どう扱われるか、だ」


 伍長は「よくモノが見えていやっしゃる」と隣に座る青年少尉の狼尻尾を避けながら頷く。


 〈エルライン要塞駐留軍〉。それは敗軍の名である。当人達にとり甚だ不本意であるのは確かだが、覆しようのない事実である。


 他地方で再編制ともなれば情報漏洩の危険性があり、エルライン要塞陥落の状況を正確に知られる事も有り得る。混乱を招く真似を陸軍総司令部が許容するとも思えず、そして何よりもエルライン要塞が陥落した以上、北部が最前線となる。しかし、現状では防衛体制は十全とは言えず、〈北方方面軍〉の編制も完了していない。付近の纏まった戦力を糾合し続けている事から、〈エルライン要塞駐留軍〉も組み込まれる可能性は高かった。


 つまり、あのヴァルトハイム元帥の下で戦うという事になる。


「あの剣聖の指揮下で戦えるんですかい? そりゃ光栄だ」


 おどけて見せる伍長だが、ベルセリカが主君と仰ぐトウカに対して複雑な感情を抱いていた。


 彼が全精力をエルライン要塞防護に傾ければ防衛は可能であったのではないか?


 そうした意見を口にする者は周囲に全くないが、彼は何処かで彼ならばという信仰に近い思いを抱いていた。


 サクラギ・トウカは優秀である。それは誰もが認めざるを得ない事実である。早期の段階での第一城塞線放棄を実現していれば、その瓦礫によって重戦略破城鎚は以降使用できなかった筈である。偶然の要素が強いが、それ以降の〈第一装甲軍団〉による戦闘も卓越したものであった。三万程度の戦力で何十万という敵軍の侵攻を阻止した点は皇国軍事史に残る戦果として語られるであろうことは疑いない。


 戦傷者と戦死者を合計すると半数に届こうかという被害を短期間で受けた〈第一装甲軍団〉の軍事行動を陸軍に対する献身と捉える者は少なくない。自らの為に血を流した者達に否定的になれるはずもなく、〈エルライン要塞駐留軍〉は皇州同盟軍に対して好意的となりつつあった。要塞司令部との確執は有名であるが、それも共に戦う事によって大きく薄れた。


 戦場では、誰も彼もが英雄に惹かれる。


 その魅力が勇戦や戦果、性格や意思、思想や権威であるかという違いはあるが、兎にも角にも惹かれてしまう。理屈や合理性を無視してまで個人を信奉するという現象こそが英雄を生み出す。


 或いは、自身も英雄が成立した瞬間に立ち会ったのではないか、伍長はそう考えた。


「サクラギ上級大将閣下と共にエルライン要塞を奪還しよう! 必ずだ!」


青年少尉の言葉に周囲の兵士が頷く。


 彼の名は奇跡そのもの。その名を口にしただけで可能性が見えてくる。


 要塞で討ち死にするだろうという漠然とした死の予感を薙ぎ払い、寧ろ、〈南部鎮定軍〉に甚大な被害を与え、悠々とした撤退を可能としたのはトウカの手腕に依るところである。


 要塞は護れなかったが、生きて帰る事はできる。そして、彼は奪還すると口遊む。ならば続くしかない。


 例え、他地方の軍に組み込まれる事になれば、多くの者が〈北方方面軍〉に転属願を出すことは疑いない。それが認められないなら、除隊して皇州同盟軍へ流れる者も出てくる事は容易に想像できる。


「……そうですな。戦いましょうや」


 戦場で喪った栄光は戦場で取り戻さねばならない。所属や階級、立場など関係なかった。



 戦うか否か、である。



 今一度、既に天昇る黒煙のみを視界に残すエルライン要塞を一瞥し、伍長は決意を新たにした。










「そうですか。彼は中々の戦巧者(いくさこうしゃ)ですね」


 天使種を総べる熾天使は、目にしていた報告書を掌中で消炭へと変える。



 エルライン要塞陥落。



 その報が駆け巡って早五日が経つ。


 国内は恐慌状態となった。


 皇都では戒厳令が敷かれ、近衛軍が与えられた権能の範疇で皇都各地に展開。暴動などが起きる前に手を打った。七武五公も大多数が所領へと戻り、慰撫に努めている。所領など存在しない熾天使……ヨエルは皇都の貴族街の一等地にある邸宅の最上階から大通りを見下ろしていた。


 純白の六対翅と淡い金糸の如き長髪を持つ彼女の在り方は、正に地上を睥睨する天使。


 ヨエルは背にした小さな女性に言葉を投げ掛ける。


「マリエングラム中佐。貴女はクレアの腹心の一人と聞いています……恐らくは先代ヴェルテンベルク伯の紐付きだったのでしょうが、彼女は斃れました。貴女はそれでも尚、クレアの指揮下に在り続けますか?」


 僅かな身動ぎ。


 マリアベルという女傑と然したる交流があった訳ではないが、少なくとも彼女に魅せられた者が数多く存在する事実をヨエルは知っていた。


「無論です。新たな命令はありません。当代ヴェルテンベルク伯は私や特命を受けた者達の存在を知り得ず、命令を伝達する術も同様かと」


 喪われた指揮系統に従うという決意。


 本来であれば赦されざることであるが、マリアベルは隷下の大多数にすら信頼を置かなかった為、未だ認識されていない領邦軍将兵達が数多く残っている筈である。公式記録にもない者達は未だに皇国の影で暗闘を続けている。挙げ句に独自の資金源が彼らを金銭的にも維持させた。


「その忠道や良し。仕える者が違えども、真に忠義を尽くすならば、私は貴女を慈しみましょう」


 善悪や正邪の概念を超え、忠義とは存在する。


 例え、それは自身と皇権に仇成す存在であっても、ヨエルはその忠義に称賛を捧げる。


 身体を前へと傾ぐ気配。敬礼ではなく一礼。個人として称賛を受け取るという意味に他ならない。


 彼女……ヴァルトルーデ・マリエングラム中佐は、マリアベルが重用したマリエングラムの一人である。マリエングラムとは複数に存在する諜報員の姓であるが、その名を赦されるのは領邦軍情報部九課に所属する者達のみである。


 領邦軍情報部の中でも九課は特に独立性の高い組織で情報部長であるカナリス中将ですら把握していないとされている。故に情報部内に統一意思を持たせる事を忌避したマリアベルの一手であろうと推測できた。派閥化を誘発する事で組織全体の運営に目を向けさせず、相互監視による叛乱と敵対の防止。情報取得手段を単一化する事への忌避感もあったのかも知れない。


「ところで……株価の推移は?」


 依頼していた別件を訪ねるヨエル。主題ではないが、懸案事項の一つであった。


 エルライン要塞陥落に伴う国内情勢不安定化に伴う経済悪化。真っ先に反応を示すのは株価であり、それに連動する形で経済の混乱は生じる。或いは株価を掣肘できれば経済的混乱を抑止できるかも知れないという淡い期待は、ヨエルも大蔵府も抱いていた。


 無論、想像以上に急転した要塞陥落はその準備すら許さなかった。


「株価は急激な降下を続けております。投げ売りと資産家の自殺が相次いでいる様で、他人の不幸で文屋(ぶんや)は大喜びかと。……言ってしまえば、民間は要塞の危機を軽視しておりましたので」


 マリエングラムの言葉に、ヨエルは枝毛を弄ぶに留める。臣民の根拠なき信仰に、嘲笑を以て応じるべき場面であるが、民意などヨエルには興味のない事である。


「対する皇州同盟は以前より準備していたのか、ありとあらゆる方法で資金を捻出して国内企業の株価を買い漁っています。要塞陥落を見越して事前に段階的な売却を行っていた様で被害も少ないかと」


 経済と皇州同盟が連動しているのは当然と言えた。


 企業や資産家を主な支持母体としている以上、株価を巡る動きに対して過敏となるのは当然の帰結である。ある種の無から有を生み出す金銭遊戯(マネーゲーム)によって皇州同盟の運営費を補おうという姿勢は以前より窺い得た。


「北部を策源地とした企業に梃入れをしているのですね?」


 ヨエルは手にした資金で北部企業の株価急落を支え、それにより企業よりの支持を確固たるものとするに違いないと見ていた。最終的に奪還が成れば、株価は大きく揺り戻される事は疑いなく、或いは公的支援による急激な反発を見込んでいる可能性もあった。


 実はヨエルも溜め込んだ資産を利用して、北部ではないものの複数の企業の株を買い漁っていた。底値は昨日に打っている。反発は結果が出て以降であるが、それでも尚、陸海軍と皇州同盟軍の連名による北部防衛への宣言は株価を押し留める要素となり得た。北部企業の株買い入れを控えたのは、軍事行動の主導権を握るトウカが二番底を狙う可能性を捨て切れなかったからである。段階的後退で不利を演出されれば、株価はこれ以上の降下を見せかねない。現状では、〈南部鎮定軍〉の甚大な被害が流布してこれ以上の大規模な攻勢は難しいのではないかという推測と、陸軍〈北方方面軍〉と皇州同盟軍が指揮統率の効率化を目的として指揮系統の統一を宣言した点から一応の落ち着きを見せている。


 統合総司令部。


 最高指揮官をベルセリカとした点では陸軍に一歩と譲った姿勢を見せたとも捉えられるが、ベルセリカのトウカに対する姿勢は家臣のそれである。実質的に総指揮を執るのは何故か無任所であるトウカに違いなかった。陸軍がそれを許容したのは兵器貸与枠の引き上げが主たる理由であるとの意見は大勢を占めているが、ヨエルはファーレンハイトの中々な狐振りに感心していた。


 指揮権の奪い合いに発展する恐れのある統合総司令部の成立だが、逆に考えれば防衛に失敗した場合、責任を折半できる。何より北部防衛を確実に指揮できるたけの指揮官がいなかった可能性がある。能力的な問題ではなく、北鎮の名将と名高いエルメンライヒが敗北した今となっては、将兵に勝てると思わせるだけの将官は国内にはベルセリカ以外に存在しない。


 勝利した場合、内情は兎も角として形式上は陸軍に移籍したベルセリカが勝利を齎した事に疑いなく、自らの手で勝利を齎した言える。失態を皇州同盟に押し付け、戦果を主張する事ができる一手であり、政治的な立ち回りとしては卓越したものと言える。


 北部もベルセリカとトウカによる連立を維持したままに、陸軍戦力が明確に指揮下に加わると判断すれば歓迎するはずであった。誰しもが自勢力に説明のし易い要素を備えた指揮系統の統一。ファーレンハイトは紛れもなく狐である。種族的にも狐種である。狐は政治に対する嗅覚も侮り難いものがあった。軍神との呼び声が高いトウカを文字通り咥え込んだのも天狐族の娘である事を踏まえれば、潜在的な政治勢力としては無視し得るものではない。


 誰も彼もが国難に在っても尚、政治的蠢動を止めない。皇州同盟ですら政治的優位の確保に腐心している。


 エルライン要塞防衛の推移を報告書で知ったヨエルは、トウカが要塞を敢えて放棄したのだと気付いていた。航空部隊に化学兵器、膨大な陸上戦力。そこに内戦で見せた戦略を踏まえれば勝機は十分に窺える。


 トウカが撤退を選択したのは、皇州同盟軍が甚大な被害を受ける事を畏れたからと推測できる。


 要塞防衛に成功すれば名声を得られる。他者の追随を許さない名声は北部に於いて確固たるものとなり、他地方でも通用する程となるに違いない。国難を跳ね除けたのだ。その程度はあって当然であるが、代償に軍事力は喪う事になる。少なくとも他勢力に抗せない程に消耗するのは疑いなかった。それは軍事力を恃んで栄達してきたトウカにとり死活問題であるに違いなかった。


 何より、国内での本格的な防衛戦ともなれば、次は他地方に戦火が及ぶ。彼らもまた自らに降り掛かる火の粉を避ける為、或いは北部を緩衝地帯とする為、積極的に政戦に協力するはずである。エルライン要塞が護れてしまう事は、皇州同盟にとって軍事力を消耗するだけの結末となりかねない。元より刈り入れを終え、痩せ細った土地を護る為、それ程の労力を払うべきではないという考えは経済的に見て正しい。


 要塞防衛の為に自らが兵を率いて馳せ参じたのは、一重に陥落の時期を自身で調整する為であろう。株価は状況に連動する。ならば状況を自らが作り出す者が最も利益を享受できるのは自明の理である。


 彼は金銭の為に戦った。それに尽きる。碌でもないと唾棄する者も居るかも知れないが、近代軍は金食い虫であり、軍備増強の必要性に迫られた皇州同盟からすると至極当然の行動とも言える。そして、国防の最前線に於ける勇戦は、陸軍将兵の皇州同盟軍に対する否定的感情の軽減に大きく寄与した。


 今では皇州同盟軍も陸海軍にとって信用の於ける盟友である。共に血を流し、肩を並べて敵と戦う。それは何ものにも代え難い信頼を生み出す。流血は時に理屈や理性を押さえ付ける程に強固な信頼を形成する。或いは、資金捻出よりも信頼獲得に重きを置いたのが今回の出兵であったのかも知れない。


「しかし、勝利せねば彼らの投資も無意味となります」


 マリエングラムの言葉に、ヨエルは苦笑する。


「ええ、そうです。だからこそ、です」


 トウカは勝算があるのだ。


 当然と言える。航空戦力があり、愛国者と社会主義者は彼を希望と仰いでいる。信仰と思想の為に戦う者に銃を取らせ、航空騎がそれを支援する。それだけでも〈南部鎮定軍〉を相手に互角に戦える筈である。種族による差を踏まえれば、兵力差は互角と言っても差し支えない。そこにトウカの戦略的視野を加えれば、寧ろ有利ではないのか。ヨエルはそう推測していた。


 逃れ得ない奇策や回天を意図した超兵器を携えている可能性は低いが、当人の気質を踏まえれば、意図せずして致命的な被害を及ぼすナニカを潜ませている可能性すらある。


 あの化学兵器すらヨエルには想像の埒外であった。


 挙げ句に皇州同盟軍の書類上では然して機密指定を受けていない事に、ヨエルは愕然とした。半数致死濃度(LCt50)の面で既存の化学兵器よりも遙かに優れたものでありながら、トウカはその性能に不満であったと報告書には記されていた。


 系統の違う神経瓦斯(ガス)の開発は続いているとされている。彼は製造方法を知らぬ様子であるが、この世界で運用されている化学式とは少し異なるものの、相応の合理性に基づいて構築された概念の化学式による答えを持っていると報告を受けていた。


 低い揮発性と高い残留性を持ち、今回の要塞防衛戦で使用された毒瓦斯(ガス)と異なり化学的安定性に優れたものを開発中であるとされている。


 皇州同盟軍は数多くの兵器開発を行っていおり、ヨエルはクレアから情報を得ているが、他の勢力はその数ゆえに調査では大きな苦労を強いられている。多くの犠牲の上に得た情報が、弾道短刀(バリスティック・ナイフ)という刀身部分が射出されるという奇抜な短刀であったという逸話もあった。


 彼は優秀だが、突然に表れた経歴不明の人間種に過ぎない。マリアベルの基盤を継承した事で強大な軍事力を手にしたが、それはマリアベルの失点をも当時に継承する事を意味した。よって、軍事的功績を差し引いても他地方からの風当たりは強い。


つまりは未だ何をしでかすか分からない人物であり続けている。


「彼は勝利を掴む心算でいます。一部公爵は引き分けが関の山だと見ている様ですが」


 妥当な判断。


 大多数の貴族の合意なくば政府は動けず、各貴族の領邦軍も動かない可能性がある。だからこそ、トウカは陸海軍に接近して軍事的連携を図ろうとしている。政府も有事に在って陸海軍の予算を制限する真似はできず、それを成せば陸海軍はより鮮明に皇州同盟への協調姿勢を露わにするに違いない。


 トウカは名ではなく実を取った。それは酷く合理的な判断である。他地方の貴族の支持ではなく、陸海軍の軍事力を求めたのだ。


「勝ちますか? サクラギ卿は」マリエングラムの問い。


 ヨエルは勝敗という概念で語るべきかと考えていた。戦力差を踏まえれば圧倒的な勝利は難しい。辛勝が関の山であるが、それでは減衰した軍事力で他勢力に抗せない。


 だが、そうではない。ヨエルの勘が囁くのだ。


 勝敗を判断する意欲すら失せる様なナニカが起こる、と。


 彼の恐ろしさは政戦に優れた視野ではない。その底知れない部分にこそ本質が潜んでいる。初代天皇大帝陛下と同様であろう。何をしでかすか分らない。


 国難を弄ばんとする気配すら滲む報告書から読み取れる本質は断片的だが、やはりトウカは彼の者の血縁なのだと、ヨエルは溜息を一つ。


「勝って欲しいですか? 珍しいですね。情報を司る者が他者の前で願いを口にするのは」


 悲惨な現実など口にはしない。


 ヨエルが初代天皇大帝陛下の御世より皇国を鎮護してきたからではない。彼が皇国を打ち(こわ)すというのであれば致し方ないのだ。彼にはその権利がある。


 ヨエルは愛国者である。


 だが、それは愛する初代天帝陛下が建国したからこそ愛するのであって、皇国の在り方に負う処ではない。


 “愛”した者が打ち建てた“国”を護る“者”。


 即ち、愛国者。


 大多数が考え違いをしているだけであり、建国時に関わった者達は、ヨエルの在り方を理解している。此奴(こいつ)は気狂いだと言われた事は数え切れず、そうした過去は久遠の歴史に埋没しているに過ぎない。


 眼前のマリエングラムも知らない。知っているならば、トウカによる戦争の勝敗など訊ねはしない。


「……サクラギ卿は先代ヴェルテンベルク伯の意志の継承者です」


 少しの逡巡を見せた後の答え。


 マリアベルの意志を継承するからこそのマリエングラム。その姓にも本質は滲み出ている。“グラム”とは古代皇国語に於いて“怒り”を示すものであり、神話上の剣にも名を残す。怒れる剣を携えた彼女達は正にマリアベルの怒りの体現者。死して尚、主君の意志に従おうとしている。


「ならば彼に仕えるのですね。再生の真似事を出来るともは思えませんが、少なくとも破壊だけは誰よりも得意でしょう。あの一族はそんな一族です」


 戦争に愛された一族。少なくとも教えられた一族の戦歴は、流血の歴史であった。


 政争にも勇んで武力を持ち出す辺り、彼の一族はあらゆる闘争を特別扱いせず同様に扱う。何としても殺すという最終目的の為、辻褄を合わせ、(まぐ)れを手繰り、奇蹟を掴む。その為にはいかなる労力も苦労も手段も惜しまない。


 在りし日の、殺しに殺したる一千年という嘲笑は伊達ではない。


「一族、一族ですか?」


 マリエングラムの、心底と驚いたという気配。


 ヨエルとしては、新たな段階に進むのも悪くはないと考えていた。


「知りたい? ふふっ、教えてあげません」


 ヨエルは振り向いて執務机の縁へと体重を預ける。旭光射す皇都は曙光の時代を窺わせる程に輝きに満ちているが、ヨエルは嘗ての建国戦争で大都市を焼き払った際の魔導光と見えた。


 熾天使は、麗しくも流血に彩られた過去に思いを馳せる。



 英雄の御世よ、再び。

 










 薄暗い路地を一人の女性が歩く。


 顔立ちは美しいが、高位種や中位種の様に羨望を向けられる程ではない。あくまでも人間種の範疇で優れた容姿であり、突出した美貌ではない。それでも尚、諸外国と比較すれば優れたものがあるが、容姿に優れた種族との混血が進む皇国であっても、ヒトを踏み外した容姿とは言い難い。



 ヴァルトルーデ・マリエングラム中佐。



 皇州同盟軍情報部九課の課長であり、特異な指揮系統から情報部でありながらもその統制を受けない特務部隊であった。


 戦時下に於ける敵地での諸目標に対する襲撃行動を目的とした〈第八〇〇特務重装鋭兵中隊『ブランデンブルク』〉とは違い、皇州同盟軍情報部九課は公安業務を中心としている。マリアベルによる絶対君主体制を敷くヴェルテンベルク領の体制を脅かす内外の脅威に対する事案を担当していた。情報部の他課と類似する任務に当たるが、その主任務はヴェルテンベルク領邦軍の叛乱に備えた監視と、国内に於ける“積極的情報収集”であった。前者が領邦軍憲兵隊と類似する任務であるが故に、クレアとの連携を行っているが、後者の任務こそが彼女らのみに与えられた任務であった。


 国内に於ける積極的情報収集。


 詰まりは他貴族の領地に於いて暴力沙汰を厭わない情報収集を行うという事である。暴力や誘拐、襲撃などを積極的に利用した情報収集であり、それを平時から行い続けていた。情報部の中でもそうした過激な手段をヴェルテンベルク領外で行うのは、内戦時から戦時体制となって他課でも珍しい事ではなくなり、九課の存在感は少数である事も相まって埋没している。


 建前は兎も角として、実際のところはマリアベルに敵対的な目標に対する実力行使を含めた行動の尖兵であった。情報部所属の兵力でありながらも、国内に於ける対外的な実力行使の権限を他人に預けない点がマリアベルらしさがある。


 皇都の陸軍機甲本部があるフリードリヒ・ゼンガー通りの歩道を歩くマリエングラムは、遠目に窺える瀟洒(しょうしゃ)な佇まいの屋敷を見据える。


 陸軍機甲本部の拠点として確保された屋敷は、正式に運用され始めて日が浅い為か、多くの窓から光が零れ出ている。


 陸軍機甲本部とは、陸軍府長官に隷属する組織であり、陸軍府の外局として一週間前に設立された。陸軍に於ける機甲部隊の教育指導と部隊編制、戦闘教義、技術開発などを立案、管理する為の組織である。これは皇州同盟軍陸上兵器局の装甲部を模範とした組織で、互いに連携を深めつつあった。


 不意にマリエングラムは、細い路地へと身を隠す。続く慌ただしげな足音が二人分。影が細い路地に現れた瞬間、マリエングラムは左手を伸ばす。


 不意に現れた男の顎を鷲掴みにして細い路地へと引き込みつつ、間髪入れずに左手で頭頂部付近を掴み、頭部を捻る。軽やかな音を響かせながら抱き寄せると、意識が損なわれる事で一気に重みを増した遺体を放す。


 二人目は、付近の部下が片付けたのか姿を見せない。


 尾行が付いている事はヨエルの屋敷を出て直ぐに察知していたので、マリエングラムに動揺の色はない。七武五公の屋敷ともなれば様々な勢力の監視下にあるのは自明の理。相手の所属など気にはせず、処理できるのは相手にとっても使い捨てを前提とした手勢であろうという確信からである。屋敷を出入りする者の身元確認程度に投じられる者など然したる者ではない。


 遺体をその場に放置して、マリエングラムは再びフリードリヒ・ゼンガー通りに足を踏み出す。入れ替わる様に全身を防寒着で包んだ性別すら判然としない者が細い路地に入る。遺体の処理はその者が行う手筈になっている。


 一人を始末して再びフリードリヒ・ゼンガー通りに戻るまでの時間は十秒足らず。朝市が始まりつつある光景を横目にマリエングラムは進む。


 次の任務は陸軍の装甲部隊設立に反対している騎兵科将官の邸宅を義烈将校団に偽装して襲撃するというものである。


 幼年と呼んで差し支えない売り子から鳥の串焼きを三つ買い、大目に支払って買い食いしながらも進む姿。その軍装は陸軍第一種軍装に短外套という姿で階級章は中尉であった。皇都では買い食いをしながら出勤する尉官が少なくない為に目立つ事はない。


 俄かに喧騒が増し始めたフリードリヒ・ゼンガー通りを進むマリエングラム。


 ――セラフィム公は、サクラギ上級大将の一族を知っていた。どこの情報機関ですら掴めなかったであろう過去を知っている。


 そんな筈はない、とマリエングラムは思うが、自身に誤解させるが如き物言いをする事で得られる益など皆無に等しい。マリエングラム自身はクレアと連携しており、クレアとヨエルは近しい仲である。それを理解した上で情報部九課の指揮官であるマリエングラムはクレアと近しい関係を結んでいた。それは、今は亡きマリアベルがクレアの背後に居るヨエルを利用しようと目論んだ為である。その監視と誘導を兼ねた立場にあるのがマリエングラムである。表面的な任務が全てではない。そこにはクレア隷下の憲兵隊とカナリス隷下の情報部を直接に連携させるのではなく、情報部内にありながらマリアベルが直卒している九課を挟むという目的もあった。言わば、マリエングラムは非常の際に鳴る鈴である。自らを追い落とす流れを警戒したのだ。未だにクレアの副官は九課から出向させた者である。


 九課は実に多面的な要素を持つ部隊である。憲兵隊や情報部が効率的に統合されず、挙句に情報部内でも指揮系統が分割されているのは、マリアベルが相互監視を求めた結果である。共謀を恐れた故であった。


 マリエングラムは現状でヨエルとの紐帯があるに等しい状況である。それは相互監視を怠ってはいないであろう皇州同盟軍情報部も気付いている筈であるが、ある程度の情報共有は成されている為に利敵行為とは言い難い筈であった。


 ――私を騙す真似は状況の混乱を招く可能性もあるはず……なら事実だと見るべき?


 事実であると仮定した場合、ヨエルはトウカの過去を知っているという事になる。


 それは、恐ろしいまでの優位性(アドバンテージ)である。ヨエルだけがトウカの過去を知り得るならば、それを狙い撃ちにした謀略も不可能ではない。


 ――でも、それを行いそうな表情ではなかった。あの様な慈しむ表情……四方(よも)や交流があった訳ではないはずだけど。


 真実は何処(いずこ)なりや?


 解らない。果たして分かる者など居るのかと思っていた事案に、解を持つ者が現れた現状。


 ヨエルは、この状況でマリエングラムに、九課にいかなる行動を求めているのか。誘導と言うには曖昧である。明確な対応をマリエングラムは思い描けないでいた。


 だが、最初の問題だけは分かる。



 ――ハイドリヒ少将に伝えるべきか。



 その一点である。


 或いは、その点だけが求められた行動であったのか。


 謎は深まるばかりである。




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