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紫苑穢国のエトランジェ  作者: 葛葉狐
第二章    第一次帝国戦役    《斉紫敗素》
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第一九一話    前線と銃後で





「全般に於いて遅滞防御は成功の模様です」


 クレアは円卓に座する陸海軍府長官を前に報告を締め括る。


 新型化学兵器……通称サリンによる毒瓦斯(ガス)攻撃は現時点では大きな効果を見せている。発射地点にいたクレアに正確な報告は未だ上げられていないが、〈南部鎮定軍〉内の通信量の著しい増大は確認できる。中には緊急性を考慮し、迅速に伝達すべく暗号変換を行わず平文で送信している部隊も少なくない。その規模を踏まえると、聞き耳を立てている近隣諸国の軍にも大戦果は伝わっていると見て間違いなかった。


 陸軍府長官であるファーレンハイトがカイゼル髭を揺らす。


「敵軍の混乱は確実なのだな? しかし、この様な奇策を用いるとは」心底と呆れた声音のファーレンハイトだが、その表情は明るくない。


戦闘詳報(バトルレポート)の提出は先になるでしょうが、限定空間であるエルライン回廊での通信は有線が大半で、混乱を避けるべく無線や魔導通信は避けられる傾向があります。今回の通信量の増大は無線技術の軍事転用以降、我が国や共和国が帝国との交戦で送信した如何(いか)なる戦場の通信量よりも多く、文面にも著しい混乱が見られました」


 通信の混乱が収拾できていないということは、指揮統制の回復も終えていないということを意味する。


「つまり〈南部鎮定軍〉は未だ混乱の渦中にある、ということだね?」


 海軍府長官であるエッフェンベルクの念を押す様な物言いに、着席を促されたクレアは鷹揚に頷く。


 クレアがいるのは皇都の陸軍総司令部の会議室であった。皇州同盟軍の憲兵将校であるクレアが政治的敵地に等しい皇都を訪れた理由の一つは、眼前で重々しく頷き合う陸海軍府長官が早急に化学戦の結果を求めたからである。クレアがV四号飛行爆弾の発射に同行していた事を知った彼らは、現状で知り得る情報を求めてクレアを呼び付けた。クレアとしても情報部による通信解析で判明した表面上の被害しか把握していない。それすらも混乱が酷く集計結果と酷く乖離しているのではないかという意見がある。


 指揮系統にない相手に呼び付けられた上に、移動手段が戦闘爆撃騎であった。移動速度を重視した故であるが、防寒術式は万全ではなく、寒風吹き(すさ)ぶ冬の遊覧飛行である。酷く不愉快になるのも致し方ない。


 ――航空兵を真似て懐に新聞紙を詰め込むべきでした。兵士の工夫も馬鹿にできませんね。


 兵士から工夫の余地を奪う程に装備を充実させるのが好ましいのは確かだが、実際にそれが可能であるはずもない。


 トウカが陸海軍との友好を望んでいる以上、クレアもまた彼らに対して距離を取る姿勢を見せる訳にはいかない。何より、陸海軍と協調しての間諜(スパイ)狩りを、クレアは求めていた。皇州同盟憲兵隊は、皇州同盟軍の統率力を維持する為の治安維持軍として運用されている。無論、防諜任務に適した高練度の憲兵も存在するが、それは旧ヴェルテンベルク領邦軍の領都憲兵隊に限った話に過ぎない。北部に点在する各主要都市に十分な監視網を展開できる程の兵数はなかった。表面上の警備と治安維持は可能でも、間諜を狩り出すには相応の技能を必要とする。


 質だけでなく、量も必要とされるのが防諜任務である。


 皇州同盟軍は憲兵の量を十分に備えているとは言い難い。挙げ句に、防諜は本来、情報部の任務であるが、手が足りない為に憲兵隊も積極的に協力している事で人手不足に拍車が掛かっている。


 無論、陸海軍府長官も理解している筈である。


「喜ばしいことだ。北部に於けるサクラギ上級大将の権威は確立されたに等しい」


「フェルゼンで修理中の戦艦に被害が及ぶ時期は可能な限り遅らせたいね」


 そう口にする二人の表情は控えめに見ても好意的ではない。


 クレアが皇都を訪れた当初の理由は、陸海軍の情報部や皇都憲兵隊との連携確認である。彼らは招聘の儀に於いて致命的とも言える失態を犯したが、近頃はそれを上回る失態に晒されている。


 帝国の意向を受けた諜報戦力の国内への浸透である。


 トウカの皇州同盟軍成立と同時に有力者の間で流布された一つの説。


 元を辿れば、異国の戦力の浸透こそが招聘の儀に影響を及ぼしたのではないのか?


 彼らの失態は招聘の儀以前から重ねられていたことになる。二重の意味で失態を犯したと捉える事もできた。失態が致命的な規模にまで膨張したと捉えるかという点は個々人の問題あるが、致命的なものである点に変わりはない。陸軍憲兵隊にとり最大の問題は、露呈した敵国の浸透が招聘の儀以前からあり、それに気付いていれば阻止できたのではないかという意見が噴出している点である。


 無論、招聘の儀が行われた真実を大多数は知り得ないが、知る者達からするとトウカの説は招聘の儀の日時が露呈し、あまつさえ妨害までされた理由として酷く説得力のあるものであった。そこに北部に浸透している帝国の意向を受けた諜報員が、皇州同盟軍憲兵隊とその支援を受けたフェンリスの影達によって次々と捕縛されているという事実は彼らを窮地に立たせた。


その防諜能力の差が可視化できるほどに示されたのだ。政府や陸海軍上層部は、陸軍憲兵隊の能力を不安視している。政権基盤が吹き飛びかねない不祥事を看過したのだ。


『食後の紅茶(ティータイム)を楽しむのも結構だが、国家中枢の防諜くらいは果たして欲しいものだ』


『彼らには心底同情する。昼間からの白麦酒(ヴァイツェン)と腸詰め(ヴルスト)の誘惑には斯くも抗い難い』


 共に非公式ながらもトウカの言葉であるが、それは要職を占めるものの間では広く知られている。彼の皮肉はある種の流行りですらあった。無論、言われた者は不愉快でしかないが。


 だからこそ、彼らはあらゆる手段を講じた。その一つが皇州同盟軍憲兵隊と情報部との連携である。中央貴族や官僚の派閥すら浸透している陸海軍府の情報部は、政府対外情報部すら巻き込み、敵対的な身内を処分してまで皇州同盟軍憲兵隊や情報部との連携を提案した。


 クレアはそれを受け入れた。というよりも、フェンリスが断るなと(うそぶ)いた。


 北部に浸透していた帝国の意向を受けた無数の間諜を操作、或いは誘導して内戦が止められぬ様に手を打った都合上、フェンリスの“要請”は断り難いものがある。諜報と防諜の成果を一地方軍閥が独占する事を阻止する構えを見せたフェンリスだが、クレアとしても本来は国家規模で取り組むべき事案であると考えていた。一地方の防諜のみ万全に近い水準にまで向上させたとしても意味がない。皇国在っての北部なのだ。


 トウカとマリアベルの関係を踏まえれば、フェンリスも内戦を激化させたクレアに含むところが在るかも知れないが、現時点ではトウカも事実を知り得ない。


 何より、クレアはその罪を認める心算はなかった。フェンリスこそが主犯格なのだ。そう思われる様に仕向けなけれなならない。


 幸いなことに彼女は事実を知り、何よりも内戦という結果に於いて北部を主戦場に留める事に成功して利益を得ている。七武五公の大多数が準戦時体制への移行を建前に、中央貴族や政府を取り纏めつつある以上、内戦で金貨一枚の掛け金もなく最大の利益を得た彼らは客観的に見て一番に疑うべき存在である。戦時下であるからこそ赦される強権を彼らは実に巧妙に扱っているが、だからこそ疑われる運命にあるのだ。


故にトウカも彼らを疑うだろう。


 ――どこかで罪を譲渡しなければなりません。


 罪を擦り付けるのではない。譲渡である。


 当然ながら風聞を気にしての事などではなく、フェンリスが内戦という事象の原因として、トウカへと名乗りを上げる状況を作り出させる為である。当面は互いに協力関係を続ける様に有用性を示し続けねばならないが、頃合いを見て排除せねばならない。


 クレアが十分な権力と政治基盤を得て、フェンリスに内戦の黒幕という小札(レッテル)を張り付けるのが先か。或いは、フェンリスが自身の望む諜報体制の確立を成し、クレアの能力と価値を見切って排除に掛かるのが先か。


 これは憲兵と神狼の暗闘である。


 クレアとしては、トウカのみにフェンリスが黒幕であると認識させれば敗北ではなく、フェンリスも費用対効果(コストパフォーマンス)に釣り合うなら、トウカとの適度な敵対を演出することを躊躇わないだろう。フェンリスが真実を補強するにたる証拠を見付けることが難しい点も大きい。致命的な証拠は、クレアがフェンリスに真実を伝えた時点で処分している。起点となる諜報員も“不慮の事故”で死亡していた。同席していた者達には一部の七武五公に対する謀略であると伝えればよい。


 現状では五分の戦いだと、クレアは見ていた。


 その国家体制をも左右する暗闘の一歩目となる陸海軍府の情報部や政府対外情報部などとの連携確認の時間を削られつつあるクレアの機嫌は酷く損なわれている。


 背後で副官を務めるホーエンシュタイン少佐の身動(みじろ)ぎの回数が、普段より多いのも偶然ではない。挙句に眼前の陸海軍府長官はトウカの戦略の大前提を覆す発言をするのだ。


「失礼、今なんと?」


「我が軍内では神龍公とも連携し、ある程度の犠牲と混乱を覚悟の上で航空攻撃をするべきではないかという意見がある」


 クレアは「御冗談を」と返すべきかと悩むが、彼らの思惑を察して沈黙する。


 トウカは帝国軍を相手に優位に状況を推移させ過ぎた。ここで国内全ての運用可能な航空騎と、航空爆弾へと転用可能な砲弾を全て逐次投入した場合、〈南部鎮定軍〉に壊滅的な被害を与えられるだろう。噂されている何十万という増援兵力も侵攻に投入することを躊躇するかもしれない。


「……毒瓦斯(ガス)でしょうか?」


 航空騎による投弾はトウカも考慮していたが、敵野戦軍に対する航空攻撃の禁止という制約があった為に排除された。何より、その可能性に気付かれれば、帝国も模倣しかねない。都市部への使用などを行われれば目も当てられない。


「それはないよ。あの多弾頭だと良いけど、普通はあれ程まで面制圧はできない。まぁ、毒瓦斯(ガス)自体の備蓄も少ないしね」


「いや、航空爆弾の代用として、あるだけ投弾するのも悪くなかろう」


 藪蛇であったかと、クレアは(たお)やかな微笑みを湛えて算段を構築する。


 国土の縦深に引き摺り込んで確実に“殲滅”するという思惑を持つトウカだが、そこには他地方に帝国という脅威を植え付けるという副次目標もある。そして、航空攻撃という手段が世界に認知されてしまった以上、帝国がエルネシア連峰越しに航空攻撃を大規模に行う可能性があった。以前より散発的なものはあったのだ。北部の空を確実に護るには、帝国南部、特に航空騎の航続距離内の地域を占領せねばならない。航空基地など建造されれば、北部の空は最前線となる。


 その為、航空騎を消耗させる行動は避けねばらない。


 トウカの青写真は、帝国領土内への侵攻が既定路線。


 対外的な諸問題での資源消耗を削減しようと思えば、国防が最も費用対効果に優れる地点で防衛戦を行うしかない。周辺諸国との軍事同盟締結に基づく相対的な軍備の増大が意味を成さないことを踏まえると当然の結果と言えた。現状、帝国と国境を面している大国はその全てが係争関係にあり予備兵力に乏しい。よって全ての国家に兵力的余裕がある訳ではなく、皇国という戦線に於いての彼我の戦力差が変化する事もない。


 正直、クレアはトウカの目論見が成功するとは考えていないが、トウカが口にした以上、何かしらの打算があるはずである。それが、クレアの想像もできない発想に基づくものであるのは間違いなかった。


「戦争だよ。状況の変化に対し、柔軟に対応するべきだね」


「うむ、サクラギ上級大将の戦略爆撃の様な柔軟性こそ吾輩らは見習わねばならんな」


 皮肉が追加されての要請に、クレアは尚も言い募る。


「神州国への対応に航空騎を投入する事が困難となりますが?」


 他大陸を統一した超大国とも単独で海洋権益を争う神州国を相手にする為の切り札。航空騎にはそうした側面もある。トウカは航空魚雷開発の道筋を既に付けている。戦況次第では近海に誘引して航空艦隊による対艦攻撃という手段(オプション)を手札に加える心算であった。


「大規模な航空攻撃が可能で、対艦攻撃装備を配備しつつある。その状況で神州国は軍事的冒険をすると思うかね?」


「……今だからこそ勝機があると考える。或いは、その威力を確認する為、積極的な軍事行動を行うという可能性があります」


 アロイジウスの言葉を重ねて否定するが、些か苦しいものがあるとクレアは自覚していた。


 対艦航空攻撃は、未だその実践証明(コンパットプルーフ)が成されていない。一兵器を不確定要素として開戦時期を前後させた例は未だ歴史上にない。何より、使用者側もその運用方法を効率化できているとは言い難い。根本的な試行錯誤とは実戦を経てこそである。双方にとり未だ不確定要素の一つでしかなかった。


 無論、クレアはトウカが使えると断言した以上、使えると判断している。兵器開発の方向性の取捨選択に於いて、トウカは神懸ったものがある。


 理屈ではない確信。


 信頼や信用ではない、言うなれば確定事項を追認しているかの様な錯覚さ抱いてしまう。クレアがそれを確信したのは、魔術に頼らない効率的な拷問方法の提示によるところである。


彼らは内戦を経ても、その被害からトウカの先見の明を確実視できないのか。


 それ程度には無能ではない。皇国陸海軍府長官とは無能では務まらない。


 彼らの主張は理解できる。


 ここでトウカの望む儘にベルゲン近郊で決戦を行えば、陸上戦力は無視しえない被害を蒙ることになる。相対的に陸軍兵力と皇州同盟軍兵力の差は減少する。海軍も神州国との艦隊戦に自信が持てぬ以上、本土決戦を優位に進める為の補助と甘んじる他ない現状では陸軍の弱体化を望まないだろう。


 当然、そこには皇州同盟軍と陸海軍の戦力差が迫る状況への警戒感もあるのだろう。


 クレアとしても、その心情は理解できる。


 トウカは政敵に容赦しない。


 軍事力という担保がなければ、信を置けない相手であることも確かである。陸海軍府は政府や中央貴族と違い内戦で干戈を交えたにも関わらず友好的に振る舞えるのは、自らの軍事力が優越しているからに他ならない。技術や戦闘教義(ドクトリン)の習得も、大前提となるのは力関係で優越しているからこそ。圧倒的な差であれば、軍事力や権力に頼った収奪も可能だが、ある程度の戦力差にまで持ち込むことで、トウカは友好関係の演出を選択せざるを得なくなる状況を作り出した。無論、度重なる軍事行動での勝利が過大に捉えられた部分もあるが、トウカの勝利こそ信頼を齎すという日頃からの言動を考えるに、その辺りも考慮していたのは疑いない。


 どちらにせよ、クレアには返答し兼ねるものであった。


「正直に申し上げますと、小官には答える権限のないものです。ただ……」口にするべきではない、とクレアは口を噤む。上官批判になる。


 眼前の二人の先を促す視線から、そっと(たお)やかな笑みを湛えた儘に視線を逸らす。


 クレアにトウカを批判する意図など毛頭ない。あくまでも個人的な所感である。個人の性格や資質、結果は個別に評価すべきであるという憲兵的思考に基づくものであるが、国家の歪みを背負って戦う者が歪みなき者であるはずがないという根拠なき確信ゆえでもあった。


 再び視線を向ければ、笑顔の陸海軍府長官。その目は先を言えと促している。


 クレアは溜息を一つ。


「……サクラギ上級大将は、自身の屁理屈を許せても、他者の虚言は許せない御方です」


 一般的感性では、あまり褒められたものではない。


 ファーレンハイトとエッフェンベルクは互いに顔を見合わせ、何とも言い難い年相応に草臥(くたび)れた表情をする。予想はしていたが、部下から直接聞くと堪えるものがあるとでも言いたげな所作に、クレアは口元を抑えて咳払いを一つ。


 陸海軍が航空攻撃という手段の制限を無視して運用を始めれば、トウカはどの様に考えるのか。意外と先に屁理屈を捏ねたのが自身である以上、黙認するかも知れない。


 だが、どの様な姿勢を取るのか、実際のところクレアにも分からない。故に、それが畏れとなる。クレアはその点を否定しない。斯く在るべきである。


「まさか人格に優れた者が政戦に於いて佳き結果を残せると御考えでしょうか?」


 そうした生物は出来の悪い戦記小説内でもなければ生息できない。政戦の場はそうした生物の生存を許さない様に形作られている。世間よりも極論化した思考が吹き荒れる組織の統率では、そうした感性は不要物以外の何物でもない。


 もし、それ相応の要職を手にし、それでも尚、人格者であるという評価を持つ者が存在するならば、それは統率の上で人格者という評価を演出し、利用する資質を持ち合わせたというだけに過ぎない。


 本質すらも人格者であれば、政戦の場では結果を残せない。神輿である場合は、その限りではない。政戦の舞台に於ける神輿として重量は善性と無関係ではなかった。


「まさかぁ、僕はそんなに夢見がちじゃあないよ」


「うむ、人格で組織の長が務まる程に軍は小さくはない」


 二人して、快活な笑みを零し……揃って溜息を吐く。


 クレアは、彼らの悲哀を黙殺した。











「これが化学戦ですか……」


 恐ろしい、と胸中で呟く。


 ナタリアは周囲の後継に眉を顰めた。


 既に嘔吐感など神々の御許へ召されてしまったかの様に姿を見せない。無論、再び顔を出したところで胃内には何も入ってはおらず、然して見苦しい結果とならないであろうことは幸運であった。


 対するリディアは、総司令部で雌の表情を浮かべて悦んでいる。総司令部要員は、外の将兵の前でこの様な姿は見せられないとリディアを司令部施設に押し込んでいた。ナタリアとしては、寧ろ積極的に麗しき姫将軍の艶やかな姿を見せることで戦意高揚を図るべきだと思ったが、大多数はそうではない判断を下す。


「いや、こうも失明者が多ければ目にすることすら叶わぬ者も多い、か」


 視覚を失った兵士達の列に視線を向ける。


 前の兵士の肩を掴む事で辛うじて列を成している彼らの目的は、特設された野戦病院である。火力戦で飽和しつつあった野戦病院での不足を見越して特設を急いでいた。しかし、その特設した野戦病院も毒瓦斯(ガス)攻撃によって一瞬で許容量を超える。増援の医師を航空輸送せよとの命令が後方には放たれているが、今暫くの時間は掛かるだろう。


 リディアは、トウカの手札を一枚切らせたと口にした。ナタリアは限定空間のエルライン回廊で密集せねばないからこそ使用に踏み切ったと見ている。


 トウカの手札の枚数は不明だが、一枚でこの有様。


 〈南部鎮定軍〉総司令部では、今更ながらにその危険性を理解したのか、早急に攻め寄せて皇国北部に進出、広域展開すべきだと意見が噴出している。広域展開すれば強力な攻撃に晒されても被害を低減できるという主張である。同時に、それこそが敵の思惑で、此方が分散するのを待ち構えて機甲戦力で各所撃破する腹積もりに違いないという反論もあった。


 正直なところ、ナタリアには想像も付かないことである。


「ケレンスカヤ少佐」


「これは、ブルガーエフ中将閣下」


 己を呼ぶ声に振り向けば、参謀長のブルガーエフが疲労を滲ませた笑みを以て近付いてくる。敬礼と答礼を行いながら肩を並べて歩き出す二人。ブルガーエフの後には見慣れない大尉が一人、付いている。副官であろう。


「一部の魔導士が周囲への水散布で被害を免れたと聞きます。既存の毒瓦斯(ガス)ではないとの事ですが、効果が近い以上、対応も類似したものが効果的という点は正しかったということでしょう」


「うむ、貴官の進言には救われた。化学戦に造詣の深い将官は我が軍には居らんからな」


 ブルガーエフの感謝に、ナタリアは「はい、閣下。恐縮です」と応じる。


 既に勲功抜群として帰還後に昇進することは伝えられている。野戦昇進とならないのは、毒瓦斯(ガス)による被害を憚った故ある。流石のナタリアも何十万という戦傷者によって昇進を得たいとは思わない。


「しかし、残酷なことです」


 未だ冬厳の影があり遺体が腐敗する事はないとはないが、化学戦の悲惨な現実はそれ以外の部分で如実に現れていた。


 雪原には嘔吐の後などが散見でき、戦死者が師団毎に積み上げられて小高い山を形作っていた。その表情を見れば、直接の死因が様々なものである様に見える。特に嘔吐で気管が詰まった遺体は苦悶の表情であった。視覚を喪った者達や筋肉が弛緩して動けぬ者達の中には、野戦病院に行く事を諦め、雪原に蹲る者も少なくない。行き着く先は凍死。帝国という国家が、いかなる理由であれ弱者に寛容ではなく、差し伸べる手も形式的なものでしかないと知るが故の諦観。瞳孔の縮小に筋肉の痙攣や弛緩、呼吸困難、失禁などが主な症状であるが故に、自力で動くことすら難しいという理由もある。


 どちらにせよ、彼らの未来が悲惨なものであることに変わりはない。


 やりきれないとばかりにブルガーエフが遺体の山を一瞥し、軍帽を目深に被り直す。


「死んではいない以上、遺族年金は払えない。戦傷手当はあるが、家元に彼らを返せたとして……」


「はい、中将閣下。戦傷手当は微々たるもの。残酷な言い様ですが、この場で命を落とした兵士のほうが恵まれているかも知れません」


 治療を拒み、自殺する者も少なくない。手元には小銃や拳銃、手榴弾がある。それを止めることは難しく、多くの兵士を武装解除する真似もできない。武装解除してしまえば、それは民兵ですらない蠢く民衆の群れとなる。


 兵士の大多数は毒瓦斯(ガス)を恐れて手拭などの布きれを調達し、水で濡らして口元を覆っている。毒瓦斯(ガス)が水分解すると知っての行動であった。無論、ナタリアは肌からの浸食もあると判断している。散布地点から離れた位置の兵士が時間差で症状を訴えた点からの推察である。即効性がある様に見える死に様の遺体が多いが、肌からの浸透によるものと思われる影響も確認できた。


「これが新時代の戦争か。老骨には対応しかねるな」


「……御冗談を。帝国最精鋭の呼び声も高い〈第三親衛軍〉出身の参謀長に成せぬとなれば、帝国陸軍の誰に成せましょうか」


 エカテリーナなら対応できるだろうという本音を胸中で呟きながらも、ナタリアはブルガーエフを慮る発言を零す。


 ブルガーエフは言葉を発さない。


 戦争の行く末について考えているのかも知れない。今では末姫であるリディアのお目付け役という印象(イメージ)が流布しているが、嘗ては知将として知られる人物でもあった。在りし日には、《ヴァミリウス王権同盟》との戦闘で騎兵を駆って戦い、一〇年前までは規模と質に於いて大陸最強と謳われていた〈第一騎兵軍〉の編制にも関わっている。


 新時代の戦争。ブルガーエフの苦悩も致し方ないものがある。


 新時代の戦争。成程、額面上は心躍る言葉である。


 しかし、実際に対応する立場となれば、その困難は図り知れないものがあった。


 新時代の戦争を提言した人物が、今現在干戈を交えている国の軍人であれば尚更である。


 (ちな)みに、リディアは新時代の戦争という表現を耳にした際、鼻で笑い『新時代? 違うな、何と控えめな表現だ。彼奴(あいつ)め! 正直に俺の戦争と(うそぶ)けばいいではないか! 何時から奥床(おくゆか)しさを身に付けた! 似合わないぞ!』と呵々大笑の有り様である。


 兎にも角にも新時代の戦争は大陸を吹き荒れている。一度、主力兵器とは成り得ないとの烙印を押された毒瓦斯(ガス)も、再び脚光を浴びて研究開発が各国で盛んに行われるようになるだろう。海を越えた幾つかの超大国ですら、この戦争に興味を持ち始めた。噂の段階であるが、観戦武官を派遣するという話も聞こえている。無論、皇国側に。


 サクラギ・トウカの戦争。


 成程、とナタリアは、リディアの物言いを思い出して納得する。正に彼の戦争だ。


 彼の常識と基準で戦争が行われ、世界がそれを認めざるを得なくなりつつある。戦争とは酷く詰まらない消費行動であるが、それ故に勝利せねば余計に詰まらない。より良き結果を出せるのであれば取り入れるべきである。帝国は共和国との戦争で機関銃を軽視し、初見で大被害を受けたという一例がある。対策の確立すら怠った結果が屍山血河の有様である。


 機甲戦力への対策も急務である。


 歩兵の移動まで完全に機械化し、砲兵まで自走化させた高機動部隊による打撃力のなんと凄まじい事か!


 帝国陸軍最精鋭と謳われた〈第三親衛軍〉ですら常に後手に回った。本来であれば侵攻側が攻撃地点を選択でき、主導権(イニシアチブ)を持つはずであるが、高機動部隊で統一された〈第一装甲軍団〉は優速を利して常に主導権を奪い返した。寧ろ、攻撃を対応できない高機動で横面に遷移し、横っ面を抉る真似をされ、進出させた歩兵部隊によって乱れた戦列に楔を打ち込む真似までされる有り様であった。速度の優越は攻撃力と防御力に加算されるという事実をこれ以上ない程に見せつけた。


 ブルガーエフが編制に主導的な役割を果たしたと言われる〈第一騎兵軍〉も着想としては近いものがあるが、それを超える規模と速度を敵軍の部隊の一部は有していた。


「しかし、戦傷者達の手足の痙攣は時間経過で治らないと見るべきか」


 時間経過である程度の回復が見られるのであれば、混乱の終息も早くなると見ているブルガーエフの言葉に、ナタリア疑問を呈する。


「症状を見るに、神経伝達を麻痺、乃至破壊していると思われます。時間経過による改善は難しいかと」


 医学にある程度の造詣があるナタリアは、この残酷な現実が時間経過によって被害を低減させるとは考えていなかった。皮膚からの浸透を恐れて着替えをさせたことで被害の拡大は阻止できたものの、身体機能の弱体化は別の病気を併発させる可能性がある。通常であれば、暖を取り、暖かい食事を与えて休ませるべきであるが、帝国軍の苦しい台所事情と偉大なる国是がそれを許さない。


 悲観して逃げ出そうとする者も少なくないが、彼らの後方には〈第三親衛軍〉と督戦隊が展開している。先程から聞こえる散発的な銃声は、督戦行動の結果であるに違いなかった。


「本当に皇国の地が肥沃な大地であることを祈りましょう」


 犠牲に見合うだけの価値がなければ、彼らの死は無駄死になる。


 寒空の中、甲高く響き渡る銃声を耳にナタリアは溜息を吐いた。




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