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紫苑穢国のエトランジェ  作者: 葛葉狐
第二章    第一次帝国戦役    《斉紫敗素》
197/429

第一八七話    〈北部特殊戦部隊〉




「宜しいので?」


 人間種で言えば中年に差し掛かろうという佇まいの男性が、リシアに念を押す。


 その背格好は何処にでも居る姿に見えて印象が少ない。偽装である。指揮官のリシアは、あくまでも指揮統率であり、彼らの装備について詳しい訳ではない。必要な時、必要な情報を知る事ができるだけ。存在しないはずの部隊の内情が知れる事は、例え身内であっても少ない方が好ましい。


 姿が見えぬよう周囲に展開している兵士達……〈北部特殊戦部隊(ゾンダーコマンド・ノルド)〉の兵士達も同様であろう。光学迷彩魔術に頼る真似をせず、冬季戦仕様の擬装用戦闘装着(ギリースーツ)を使用して周囲に潜伏していた。探査を意図した魔術による魔力探知の可能性を排除できないからである。皇国陸海軍は魔導技術を根幹に据えた技術大系を前提とした軍備を有しているが、それ故の盲点も存在する。


 トウカによる発案である特殊部隊構想は、鋭兵科と領分が重複すると見られ、未だ予算獲得すら実現していないが、一部の装備などは皇州同盟軍への納入を意図して試作と改修を繰り返している。冬季戦仕様の擬装用戦闘装着(ギリースーツ)も、その一つである。


 短冊状の布を無数に縫い付けた衣服や、網目状の衣服に草木や枝、苔などの植物を貼り付けたものを着用する。これにより、使用者を風景に擬装させて判別し難くし、視覚的に発見され難くする効果を有していた。加えて嗅覚に優れた種族の偵察行動から逃れる為、土や苔を貼り付けて臭いを付けるという手段も行っている。嗅覚への対抗措置は元来、索敵行動に優れた軍狼兵から逃れる為の方法として以前より用いられていた。


 本来であれば、これに加えて顔や手に塗装(ペイント)をする事をトウカは推奨していたが、それはリシア達の目的の為に行われなかった。


「諄い、大尉。既に決断した事よ」


 偽装網(バラキューダ)によって隠蔽された駄馬達を一瞥し、リシアは腕時計の時間を確認し、定刻に至ったと周囲の兵士達に命令を下す。


「総員、擬装解除。乗馬後、騎馬戦に移行。……現刻より状況を開始する」


「了解。擬装解除。乗馬後、騎馬戦に移行します」


 リシアは、擬装用戦闘装着(ギリースーツ)を脱ぎ捨てる。〈北部特殊戦部隊(ゾンダーコマンド・ノルド)〉の兵士達も後に続く。


 そして現れたのは、帝国陸軍の軍用長外套(ロングコート)と胸甲であった。


 上下総てを帝国陸軍、南部鎮定軍で正式採用されている軍装を着用した姿は、装備品も相まって帝国陸軍、捜索騎兵小隊にしか見えない。何よりも耳当て(ウシャンカ)が明瞭に彼らの立場を偽装していた。


 これからリシア達は外道に堕ちるのだ。


 近代国家の有能な軍人が清廉潔白でいられるはずがない、とトウカは常日頃から口にしているが、それは自らだけが外道に堕ちていく事を怖れていると取れなくもない。勝利の為に善悪の彼岸を踏み越え、あらゆる手段を講じる彼は常に一人だ。


 リシアは、トウカを長く見ていて理解した事がある。彼は有能ではあるが、一度、戦友と認めた者には甘いところのある男に他ならない。そんなトウカだが、異様に警戒心を露わにする事がある。自らの庇護対象に危機が迫った時である。


 ミユキ然り、マリアベル然り……


 普段は年相応の振る舞いもみせる彼が殺意を剥き出しにする。彼の中で平時は眠りについている凶獣が目覚めるのだ。その凶獣は鋭い嗅覚で危機と悪意を嗅ぎ分ける。特にマリアベルの危機に際しては狂気に彩られた。


 敵意を示すものが、明確にマリアベルの生命を求めて軍事行動を取っている。マリアベルを殺そうとしている者の影がある。誰が敵だ? 分からない? なら、取り敢えず殺せるだけ殺せ。


 その意思こそが、あの悲惨な市街戦の引き金となった。


 そして今、凶獣はミユキの生存圏を護る為、国内勢力の経済状況を圧迫し、帝国主義者を軍事力という牙で噛み殺そうとしている。


 帝国主義者の戦死者が増えれば増える程に、流れる血涙が多ければ多い程に、凶獣は歓喜の声を上げるだろう。屍山を踏み越え、血河に身を沈め、喜悦に身を震わせるのだ。


 たった一人で。


 リシアは、彼の手を引いて現世へと引き戻す自信がない。だから、助ける真似はしない。リシアの助けなど、トウカには銃弾一発程の価値もない。


 出来る事はただ一つ。彼と共に屍山血河に身を横たえ、星河を見上げて嘲笑を浮かべるのだ。その煉獄が自身だけに用意されたものではないと示す為に。そうする事で、彼を悲劇から解き放つ事はできずとも、孤独からは解き放つ事ができる。


 ――例え、軍の都合で村を焼く事になっても。この生きるに難い北の大地で雪と血に塗れながら先祖代々、受け継いできた村を毀す事になっても。


「ハルティカイネン大佐、無理に陣頭指揮等なさらずとも宜しいかと思いますが?」


 努めてか地であるかは推し量れない無表情による中年士官の言葉に、リシアは曖昧な笑みを零す。巷で言うところの、娘を不器用に気遣う父親という風体と言えよう。


「綺麗事ばかりでは国は回りません」


 今更な言葉であるが、リシアは己の心情と経歴など、最早、気にもしていない。


「正義やも知れません。悪やも知れません。それが戦争であるならば」


 善悪の概念など、既に星河の彼方。


 彼が、彼が欲しい。


 権力や名誉など、トウカそのものに比しては路傍の雑草にすら劣る。


 恋は盲目。

 恋は戦争。


 成程、先達(せんだつ)の言葉は正しい。


 織帽(ブジョンノフカ)を被り、駄馬の(あぶみ)へと足を掛けるリシアは手早く乗馬すると、同様に乗馬した兵士達を俯瞰する。


 その表情に揺らぎはない。悲観も喜悦もない表情に、リシアは帝国陸軍正式採用騎兵銃であるメニショフ騎兵銃M403の被筒(ハンドガード)を握り、天へと振り上げる。


 装着された銃剣が曙光を受けて鈍く光る。


「之より襲撃行動を開始する。皆の愛国心に期待します」









「索敵序列のまま突撃体勢に移行する」


 大尉の階級を持つ中年男性は、小隊規模の騎兵に命令を出す。


走る馬上での命令は手信号(ハンドサイン)によって行われた。


 リシアは作戦全般の指揮を行う立場にあるが、男は実質的な現場指揮官であった。リシアは領邦軍士官学校では装虎兵指揮官候補生であり、ヴェルテンベルク領軍入隊後も装甲部隊などを主な所属とする経歴を重ねている。騎兵の運用に関しては、造詣が深いとは言えない。


 若さ故の無謀を発露させる気配もないリシアは、適材適所を知る指揮官であった。


 さも当然の様に騎兵運用の知識と経験のある男に直接指揮を任せ、自らはその背後に追随するに留まるというのは、リシアの年齢でできる事ではない。軍閥とは言え、若くして大佐まで上り詰めただけの事はあると、男は感心していた。


 個人の利益よりも全体の利益を優先するという事が、若者にはどうしてもできない。そうした主張をするのは(もっぱ)ら若者であるが、実情としてはどうしても個人の利益や思考に偏ったものとなる。


 しかし、リシアは違った。若者らしい正義感の発露や野心とも違うナニカに取り付かれて、この場に在る。


 或いは、そのナニカが彼女の無謀の発露を押さえているのか、と男は思案する。


 男の理解できない概念を依って立つところとしたリシアは、軍人としての禁忌を犯そうとしている。何よりも、国益の為、大多数の臣民の生命の為に。


 リシアが帝国陸軍正式採用騎兵銃であるメニショフ騎兵銃M403を振り上げる。


 曇天の中、銃剣が曙光を照り返す事はない。その有様が神々に見放されたかの様で遣り切れないものがあるが、彼らは軍人。隷属すべきは神々にではなく上官であらねばならない。


「突撃に移れぃ!」帝国語による命令。


 胸甲騎兵による索敵騎兵小隊を装う彼らの顔立ちや髪色は、魔術を用いない擬装によって原型を察する事が出来ぬ程に変化している。リシアの犯し難き紫苑色の長髪も今は薄汚れた黒へと染め上げられていた。


 騎兵が駆け出す。


 悍馬(かんば)とは言い難い騎馬であるが、斜面を駆け下りる様は騎兵として十分に通用するものであろう。下手に皇国騎兵の騎馬を使用すると、育成状態の差異から事が露呈するかも知れないという懸念を踏まえ、エルライン要塞での戦闘で鹵獲された帝国産騎馬を利用する程の徹底ぶりは、今から成す事を踏まえれば決して過剰とは言えない。


 自国の寒村を襲撃するのだ。


 政府と領主からの避難命令を拒否した集落は少なくない。街や市程の規模ではないが、村などの単位では広範囲に存在する。生活し易いとは言い難い土地を先祖代々に渡って開墾し続ける事で得た郷土に愛着を持つのは自然な事であり、特に年老いた者達にその傾向は強い。問題は、感情的な反発ではなく、死ぬならば郷土で、と腰を据えている者達が少なくない事である。家族や親族を利用して説得する方法は、この差し迫った状況下で取る事ができず、ベルセリカの名声とトウカの武威が通じないとあれば取り得る手段は限られる。


 催涙弾と催眠瓦斯(ガス)による襲撃で強制退去という手段も検討されたが、トウカはそれを拒否した。郷土軍が郷土に銃口を向ける命令を受け入れるはずがないというのが、表面的な理由である。確かに、後々の軋轢を踏まえると取り得る作戦としては拙劣なものがあった。〈北方方面軍〉司令部も皇州同盟軍司令部も、その言葉を否定はできなかった。


 男は知っている。トウカがその際に、口にした一言を。


 思う侭に死なせてやれ。俺は民衆から自決の権利を奪う真似をしない。


 優しさか怒りか無関心か……男には分からないが、トウカは当人の意志こそを重視している様に思えた。その理由は分からないが、リシアがそれを良しとしないのは事実である。故に少数を見捨て、大多数を救う為に決断したのだ。


 幾人かの魔導騎兵が炎弾を放つ。


 狙い過たず、二つの物見櫓(ものみやぐら)が複数の直撃を受けて呆気なく焼け落ちる。警戒はしていたからこその物見櫓であろうが、数は二つに過ぎず、防護壁もなければ、一方は森林地帯でもある。遮蔽物が多すぎて物見櫓を十全に生かせず、接近も容易であった。


 この寒村は、座して滅びゆくのではなく、抗戦の道を選択したのだろう。まさか慢心であるはずもない。決死の覚悟で意地を通そうとしているのだ。


 酷い事になる。男の直感が、そう告げる。


 忽ちに寒村の外縁に到達する索敵騎兵小隊先鋒。


 騎兵銃(カラビナー)を装備した後続の支援を受けた先鋒の主装備は魔導槍である。魔導障壁の応用である、障壁を刃状に展開する事で突く、薙ぐ、斬るの全てを行える近代に生まれ出た戦斧(ハルバード)であった。


 魔導騎兵の炎弾によって吹き飛んだ対人阻害(バリケード)の間隙を縫って先方の騎兵は突入を果たす。小銃や長槍を手に飛び出してきた村人の展開は間に合わない。


 だが、飛び出してきただけでも称賛に値する危機対処能力である。彼らは軍人ではなく民間人なのだから。


 隊伍を組もうとする村人が先方の騎兵の魔導槍に貫かれて胸部を抉られる。速度の乗せられた騎兵突撃の威力は人体の構造を容易に破壊する威力を持ち、魔導槍の構造も相まって単に突くだけでは済まない。


 騎兵の突進力に、心臓を抉られて失った村人が胸部を割かれて弾き飛ばされる。


 続く捜索騎兵小隊の本隊……男とリシアも着剣した騎兵銃を構えて寒村内へと突入する。左右には魔導障壁を展開して横撃を阻止する為の騎兵を伴っての突入に隙はない。速度を持った騎兵の阻止とは困難を伴う。


 歩兵による突入であれば、多くの困難が伴ったであろう事は疑いない。騎兵の速度があればこそ奇襲から体勢を立て直される前に離脱が叶う。


 一撃離脱であらねばならない。殲滅戦となれば攻撃側も戦力を喪い、尚且つ、目撃者や証拠が増える状況となりかねない。


 帝国軍索敵騎兵が北部の奥深くに現れたという事実が必要なのだ。帝国の脅威を事実として認識すれば、彼らの大部分は考えを変えざるを得ないだろう。彼らの根底にあるのは、帝国軍はベルゲン近郊のミナス平原で皇国軍主力との決戦を求めて、寒村にまで占領の為の戦力を割かないという淡い期待なのだ。


 故に寒村であればある程に、郷土を捨てる事を躊躇う。


その幻想を打ち砕かねばならない。寒村の一つや二つ、小規模な騎兵の索敵網に接触すれば吹けば飛ぶ程度でしかないという事実を知らしめるのだ。


 馬上から無数の炎弾が飛び、家屋に火が付く。乾燥した時期であるからこそ延焼速度は速く、村人の中には消火活動に移ろうとする者が出てくる。戦力が削がれ、指揮統制が乱れれば最早、烏合の衆も同然であった。


「指揮官殿! 小隊指揮官殿! このまま走り抜けます!」


「承知した! 離脱に移る!」


 男の言葉に、リシアが応じる。


 密集しつつも寒村の主要な通りと思しき通路を、蹄鉄で踏み締めて駆ける索敵騎兵小隊。


 だが、非正規戦も戦争である。突発的な状況というのは起き得るものである。









 久方振りの騎乗であるが、リシアは十分に騎兵の真似事ができている心算であった。


 帝国軍騎兵は一部の精鋭を除いて然したる練度ではない。皇国騎兵の様に、魔獣と交配させた悍馬(かんば)を有した高練度な迫撃を可能とする戦力ではなかった。それ故に擬装するには必要以上の手間が掛かるという有様である。


 高難度の作戦ではない。それがリシアを含めた〈北部特殊戦部隊(ゾンダーコマンド・ノルド)〉総員の認識であった。


 “既に焼け落ちた区画”に眉を顰めながらも索敵騎兵小隊は進む。


 だが、突如として焼け落ちた区画……その建造物の残骸から現れた三〇人に満たない程度の村人が小銃を手に現れる。忽ちに然して広くもない通りを阻む様に“銃兵”が隊伍を組む。


 御丁寧な事に、野太い木材を組み合わせた対騎兵阻害(バリケード)だけでなく、後方から三人程の獣人が魔導障壁を展開するという用意の良さに、リシアは唖然とした。


 突入個所でも十分な数の小銃を見ており、不審な気配を感じたリシアであったが、これ程の纏まった数の小銃を寒村が装備し、維持しているというのは予想だにしない事であった。


 しかし、速度を喪う訳にはいかない。速度を失った騎兵など歩兵にも劣る。騎兵とは衝撃力に依存した兵科であるが故に。


「なんて数ッ! 障壁多重展開!」


 障壁を展開して突入するしかない。


 魔導騎兵も馬上で魔導杖を構えて狙いを絞る。魔導障壁と対騎兵阻害を吹き飛ばそうと言うのだろう。他の騎兵も炎弾を射程に入り次第、放つ為に利き手に魔術陣を展開する。


 だが、村人達は未だ優秀だった。正規軍人に匹敵する程に。


 不意にリシアの身体が宙に浮き上がる。


 馬上から投げ出されつつあると気付いたのは、自身が騎乗していた軍馬の背が眼下に見えた為である。同時に、次々と軍馬が姿勢を崩し騎兵が投げ出される姿も捉えた。



 ――霞網(かすみあみ)っ!



 嘶きと共に軍馬の蹄に巻き上げられた網の姿に絶句するリシア


 だが、その事実に検討考察を加える暇などなく、リシアは雪の大地へと叩き付けられる。


 強い衝撃と肺腑の空気が押し出されるかのような感覚、続く冷たさに自身が落馬したのだと改めて認識する間もなく意識を手放した。


 ――――――

 ―――――

 ――――


 遠く響く蛮声に、リシアは曖昧な思考を纏めようと身体を起こそうとする。その肩を男が押し留める。〈北部特殊戦部隊〉の指揮官を務める大尉の腰を落とした姿に、リシアは状況を思い起こす。


「状況、報せ」


「指揮官殿が気を失われていたのは三分程です! 小銃を有した部隊と交戦中。現状は、応戦しつつ健在な軍馬を物陰に押し込んでおります!」


 状況を聞きつつも、リシアは大尉の手を振り解いて上体を起こすと、焼け焦げた建造物の柱に背を預ける。


「応戦する戦力を徐々に減らして一個分隊を抽出。焼け落ちた区画内を迂回して奇襲を行います。指揮官は私。貴方はこの場で敵の火力を誘引しつつ、後背を警戒」


「それは……いえ、了解しました。後背は御安心を!」


 一瞬の逡巡を見せた大尉だが、敬礼と共に了承する。


 双方共に選択肢など、そうあるものではない。村人の拠点防衛は真に天晴れなものであるが、焼け落ちた建造物の物陰から窺う限りに於いて、運動的な行動を不得手としているのは明白であった。兵士を無駄なく動かすというのは、本来はそれだけで技能に他ならない。そして、実戦経験に乏しい兵というのは、非常時にあって恐怖心から無意識に必要以上の密集をしてしまう傾向にある。無論、実戦経験に乏しいが故に密集運用で恐怖心を紛らわせていると捉えれば、村人の戦術行動は間違ったものではないが。


 徐々に一個分隊を抽出する都合上、僅かながら時間はあると、リシアは大尉と意見を交わす。


「あの霞網は雪の下に敷かれていた訳ね」


 霞網とは、鳥類を捕獲する為に木々の間に張り巡らす極細の金属線で形成された網である。幾重にも雪の下に敷かれれば騎兵が足を取られるには十分なものと言えた。普通に敷くだけでも、降雪があれば簡単に隠し遂せる。


「はい、指揮官殿。恐らくは、こちらの区画は開けた雪原と面しているので、騎兵による突入を受け易いとの判断でしょう。有能な退役軍人がいるのかも知れませんが……」


 それならば相手も迂回を試みるはずであり、索敵騎兵小隊が突撃発起地点とした森林を放置していた理由も説明できない。寒村付近の遮蔽物を放置する程度の者が騎兵の速度をこうも手際よく封殺するとは思えなかった。


「焼け落ちた家屋の木材の所為で、通りが狭いとは思ったのだけど、騎兵の突入個所を制限する為に放置していたのかも知れないわ」


「そこまでですか。しかし、雪原に面した側に騎兵を阻止する仕掛けをするのは順当ですな」


 森林から騎兵が突撃するというのは、軍事的には考え難いものがある。不安定な足場では速度が出ず、軍馬が躓く可能性や落馬の可能性が増大するからである。リシアの目的が寒村に適度な被害を与えて帝国軍の襲撃を演出するというものでなければ、焼け落ちた区画に面する雪原地帯からの騎兵突撃となっただろう事は疑いない。


 騎兵操典……教本通りの騎兵突撃を行えば全滅していた可能性とて少なくない。


「でも、村の出入り口にあたる場所ではなく、対騎兵阻害の内側に霞網を敷くと言うのは悪辣ね。教本通りなら、対騎兵阻害(バリケード)を突破して安堵したところで先鋒を喪う事になる。まぁ、前後どちらにも敷いている可能性はあるでしょうけど」


 心情的には出入り口に仕掛け、その後ろに対騎兵阻害を構築するのが普通である。先鋒による突破口の確保という目的を確実に挫ける。だが、この仕掛け方ならば、敵主力戦力と突入の意図そのものを挫けるかも知れない。警戒して速度を出せない騎兵に意味などないのだ。


「嫌な相手ですな。帝国主義者が押し寄せても問題なかったのでは?」


「……そうね。本当にそうよ。皇国臣民斯くあるべし、ね」


 《ヴァリスヘイム皇国》は建国の経緯から抗戦という行為に対して酷く意欲的であるが、正規軍の騎兵を相手にすることを前提とする程とは予想だにしなかった。


 何よりも、敵の嫌がる事を率先して行う様は空恐ろしいものがある。トウカの様な遣り口であった。


 敵兵力の阻止だけではなく、交戦の意志を削ぐという方法はトウカの遣り口に近いものがある。上級司令部を直撃して宗教的象徴の権威を失墜させ、市街地での異様なまでの徹底抗戦などは、敵将兵の戦意喪失や士気崩壊を意図した側面もあった。


「指揮官殿、準備が整った様です」


「そう、なら行くわ。ここは任せます、大尉」


 黒に染め上げた長髪を軍用長外套(ロングコート)の襟内に押し込み、リシアは織帽(ブジョンノフカ)を被り直す。


 近代戦に銃後がない事を知らしめねばならない。


 リシアは、皇国軍人なのだ。









「躍進距離五〇、突撃ぃに移れぃ!」


 リシアは懐中時計を仕舞い、メニショフ騎兵銃M403に着剣された銃剣を煌めかせる。


 大尉が統率する〈北部特殊戦部隊(ゾンダーコマンド・ノルド)〉主力の三個分隊の銃撃と魔術に拘束されている三〇人に満たない程度の村人へ、リシアが直卒する一個分隊が躍り掛かる。


 魔術による身体強化によって(たちま)ちに距離を詰めたリシアと一個分隊。


 二部隊が敵部隊を射線に捉えた場合、十字砲火によって敵戦力を漸減する事が一般的であるが、リシアは敢えて短期決戦を選択した。敵の策源地での戦闘は、敵に段階的な増援がある事を前提とするのが基本であり、銃声が響き、魔術で地面が抉れるという派手な戦闘に引き寄せられる村人も少なくない筈である。


 然して広くもない通りを阻む様に、三〇名程度で隊伍を組む“銃兵”。通りで正面からの敵を相手にする事に夢中になっているのか、リシアと一個分隊の襲撃に気付いた時、既に目前に在った。焼け落ちたとはいえ、建造物の残骸はリシアと一個分隊程度の規模であれば容易に隠し遂せる。


 遮蔽物を縫う様に躍進して銃剣を突き出すリシア。


 躍り掛かるという表現はそこになく、地面を這うが如き踏込みによる銃剣突撃。咄嗟の対応を避ける為の一手であり、リシアが〈北部特殊戦部隊(ゾンダーコマンド・ノルド)〉の面々より学んだ戦技であった。いずれは大系化すべき戦技である。


 リシアの突き出した銃剣が村人の脇腹を抉る。気の抜けた様な呼吸を耳に留める間もなく、深々と刺さった銃剣を捩じりながら抜き放つと、間髪入れずに崩れ落ちた村人の胸……心臓を狙って、二度、三度と銃剣を突き立てる。悲鳴と共に銃剣を払い除けようと、仰向けに倒れ込んだ村人が小銃の被筒(ハンドガード)を掴もうとするが、リシアは戦闘軍靴(コンバットブーツ)を身に付けた脚で蹴り飛ばす。


 久方振りの骨の砕ける感触が心胆を鷲掴みにするが、戦野は待ってはくれない。力強く握りしめられた小銃の被筒(ハンドガード)が死に絶えた村人の両手から離れず、リシアは小銃を早々に諦めて腰に佩いた曲剣(サーベル)を抜き放つ。


 既に銃声はない。周囲では熾烈な近接戦闘が繰り広げられる。


 〈北部特殊戦部隊(ゾンダーコマンド・ノルド)〉主力の三個分隊は、リシアと一個分隊からなる別働隊の突撃時刻に合わせて射撃を中断し、合流の為に距離を詰めつつある。


 壊乱状態の村人からなる銃兵。


 後は一気呵成に撃破できると、リシアは飛び掛かってきた年若い村人の銃剣付小銃による殴打を曲剣(サーベル)で受ける。本来は激しい唾競り合いなど考慮していない曲剣(サーベル)だが、近接戦闘では往々にして想定外が起きるのが通例であった。故に取り回しに劣るものの、斬るという動作に卓越した威力を見せる太刀を軍刀拵えにする将兵は少なくない。


 トウカもまた軍刀の愛用者である。帰れば彼と同じ軍刀を買い求めるというのも悪くないと、相手である年若い村人の下腹に蹴りを加えて距離を取る。


 すかさず曲剣(サーベル)を左手に持ち変え、右手で腰の輪胴式(リボルバー)拳銃を抜き放って、撃鉄を起こすと二連射撃(タブルタップ)で胴体を撃ち抜く。高威力の拳銃弾を使用するタンネンベルク社製の自動拳銃と違い、帝国陸軍の士官用輪胴式(リボルバー)拳銃は長きに渡って更新されず、威力も装弾数も不足しているが、取り回しに関しては女性のリシアからすると優れたものがあった。


 咄嗟の魔導障壁の展開は困難なものがある。ましてや、軍人ですらない村人が近接戦闘時に行えるものではない。軍人ですら近接戦時には魔導障壁など滅多と使えないのだ。


 腹部に二発の拳銃弾を受けた年若い村人が蹲る様にして倒れる。致命傷であろう。


 皇国軍人の様に防弾術式の付与された軍装を纏っているならば、腹部への拳銃弾程度で致命傷となる事はない。無論、貫徹を防止できても衝撃は阻止できないが。


 だが、天晴れな事に年若い村人は腹部の弾痕を両手で押さえる事を止め、腕に巻き付いた軍帯(スイングベルト)を引き寄せ、血塗れの両手で小銃を握り締める。


 喉が裂けんばかりの絶叫と共に、年若い村人が雪の大地を踏み締めて立ち上がる。噛み締めた下唇から血が零れ、その瞳は血走っている。小銃の銃剣の切っ先を、リシアへと向ける。



「と、トウカさんみたいにッ! 俺はッ、戦うんだッ!」



 思いがけない一言と共に、年若い村人がリシアへと駆ける。


 銃剣突撃。


 皇国陸軍の歩兵操典とは構えが異なるが、その動作にはある種の効率性が窺える。


 リシアは撃てなかった。残弾は、あと四発。十分に射殺できる。相手から接近してくる状況。頭部とて狙える。


 震える輪胴式(リボルバー)拳銃の銃身(バレル)



「トウカですって――?」



 ――何故。

 ――――何故。

 ―――――――何故。



「ここでその名が出てくるッ!」



 既に年若い村人は眼前にまで踏み込んでいる。燃え立つ憤怒と心の片隅に根差した恐怖が鎌首を(もた)げる。それらを押さえ付ける事もなく、リシアは感情の発露を其の儘に残弾の四発を撃ち放つ。


 至近に迫った年若い村人に当てるのは容易く、狙い過たずに腹部や胸部に命中する。しかし、踏み込む年若い村人は止まらない。速度が付き、尚且つ、感情の昂りによって恐怖心が磨滅し、痛覚が麻痺しているのだ。頭部を狙うべき場面だが、リシアもまた冷静さを失っていた。


 避ける? 間に合わない!


 そこから先は一瞬の出来事。軍人として軍事教練で染み付いた動作を以て、輪胴式(リボルバー)拳銃を手放すと、身体を捻って避け、突き出された銃剣の被筒(ハンドガード)を右手で掴み、引き寄せて雪の大地へと引き倒す。


 小銃から手を離し、尚も小銃を掴んで離さない年若い村人の右腕に左足を踏み下ろして砕くと、左手の曲剣(サーベル)を頭部へ突き下ろす。


 曲剣(サーベル)の切っ先が偶然に捉えた眼下を貫徹する。眼窩の端を曲剣(サーベル)が擦る感覚に総毛立つ事もない。眼球も脳天も然したる感触もないが、眼窩の対面の頭蓋骨を切っ先が砕く感触だけは、リシアに一人の生命を奪った現実を明確に教える。


 既に生命活動を止めた年若い村人の頭部に刺さった曲剣(サーベル)の柄から手を放し、リシアは二歩、三歩と後ずさる。


 軍装の胸元を掻き毟り、恐怖と慟哭……そして何よりも脳裡を過ぎった思惑が、リシアの(かんばせ)を凄絶に彩る。


 (みなごろ)し。生存者などリシアは認めない。トウカに繋がる要素があるのならば、断固たる意志を持って口封じをせねばならない。彼に気取られる可能性は、悉く摘み取らねばならないのだ。


「指揮官殿! この辺りの敵は粗方片付きました!」


 背中越しの大尉の報告に、リシアは向き直る。


「しかし、こちらに戦死者はいませんが、相手に増援の可能性が――」


 リシアは大尉へと嗤い掛ける。失礼な事に、大尉はリシアの笑みに言葉を詰まらせた。上手く笑えていないのかと小首を傾げる。


 ――嗚呼、これでこそ戦争よ。畜生共の饗宴とは正にこの事ね。


 嗤え。指揮官ならば。


 彼らは国益の為に外道を選択したのだ。命令は命じた指揮官こそが負うべきものだが、実力行使の結果は何時だって拳を振り下ろした者達の心に巣食う。指揮官は彼らの感情を肯定する者でなければならない。


「それは素敵ねぇ、大尉」


「はっ、素敵な事かと」


 当初の予定通り、帝国軍の正式採用している遺留品を撒き散らさねばならないが、確保した現場に打ち捨ててゆくよりも、銃火を交えながらの撤退で取り落してゆくほうが現実感が増す。当初の予定の一つであり、大尉はその点を指摘しているのだろう。


 だが、リシアは曲剣(サーベル)を血振りし、討ち捨てられた村人達の姿を一瞥する。


「もっとよ、もっと殺すわ!」


「はい。いいえ、指揮官殿。それでは当初の目的を――」


 ――五月蠅い、これは私の戦争なの。


 申し訳ない?

 致し方ない?

 詰まらない?

 碌でもない?


 胸中を吹き荒れる怒りと後悔と恐怖は、最早、理性の支配を拒絶していた。


「殺す! 殺すの! 根絶やしよ!」叫ぶリシア。


 戦争は常に戦人(いくさびと)達から理性を奪おうとする。そこには合理性も正当性もない。ただ、悲劇と遺体があるだけだ。


 しかし、この場には戦野の理性を知る男がいた。








 刀剣による戦場音楽が消え、全周警戒序列に移る〈北部特殊戦部隊(ゾンダーコマンド・ノルド)〉の小隊、その中央で打擲音が響く。


 大尉の平手がリシアの頬を襲った。


 非正規戦を前提とした非公式部隊とて、上官への暴行の罪科は何ら色褪せるものではない。寧ろ、不正義を行為する武力集団であればこそ、厳格な統制を必要とする。


 それでも尚、大尉はリシアに平手打ちを加えた。


 不意の一撃に姿勢を崩したリシアだが、人間種の女性でも軍人であるだけあって倒れる事はなかった。


呆然と打たれた頬を押さえるリシアの襟を掴んで大尉は怒鳴る。


「いいか、良く聞け小娘。ここは戦場で御前は指揮官だ。御前の趣味と嗜好をぶち撒ける場所じゃあないんだよ!」


 大喝と言うには抑えられたものであり、大音声とも思われない程度の音量でしかないが、その言葉には溢れんばかりの感情が乗せられている。リシアの襟を掴む手はやり場のない感情に震えていた。


 リシアへの期待が損なわれた訳ではない。当然、思い通りに動く操り人形となり得ないからと業を煮やした訳でもなく、彼女の様な若者に残酷な決断を強いる戦争に対する憤怒からである。


 そして、彼女の心身に過剰とも言える挺身を“強要”させたサクラギ・トウカという戦争屋に対する怒りでもあった。女にこれ程に想われる男が報いる気配のない現実に、大尉は同性として認め難い感情を抱いた。確かに、彼の戦争屋は将官達が畏敬と共に口にする様に、端倪すべからざる人物かも知れないが、自身を想う女に残酷な決断をさせる様では男足り得ない。


 大尉は、軍人としての矜持こそ(ドブ)に捨てたが、男としての矜持まで共に捨てた心算はない。


 呆然としたままに見上げるリシアから視線を外し、残存している騎馬を掻き集めてきた兵士達へと向き直る。


「指揮官殿を馬上へ。小官が殿を努める。宜しいですね? 承知しました、では撤退に関わる指揮の一切を小官が執ります」


 リシアが明確に頷いた訳でも応答した訳でもないが、大尉は朗々たる一人芝居を以て隷下の兵士達に命令の履行を求める。兵士達は一部の疑問を差し挟む事も、疑念の声も上げる事なく動き始めた。


 女性の兵士に手を引かれて馬上へと(いざな)われるリシアに背を向け、大尉は傍に控えるリシアが奇襲時に率いていた一個分隊の面々に語りかける。


「戦死者は?」


「三名です、大尉」


 先任曹長の言葉に大尉は「そうか」とのみ返すに留める。遺体は帝国陸軍の索敵胸甲騎兵の真似事宜しく遺体は馬上に乗せて撤退行動に移る予定であった。好ましからざる物的証拠として残す事は避けたいという事もある。武装や軍装の一部を放棄するのは予定通りであるが、遺体は余りにも雄弁に多くを語り過ぎる。魔導国家であるが故に、そうした部分には一層の注意を払わねばならない。


 政治の物陰で暗闘を繰り広げる彼らが英霊として墓碑銘を捧げられる事はない。


 哀れだと、耳当て(ウシャンカ)を投げ捨てる。


 最早、大尉は義憤や遣る瀬無さを抱く程に若くはないが、それでも尚、政治の陰で喪われる生命を目にして思うのだ。


 政治の安定は何処(いずこ)なりや?


 リシアもまた犠牲者である。戦争は苛烈だが、政治の影で行われる暗闘は、それとはまた違った陰惨さがある。年若く、正義や大義というものを心の何処かでは信じている者達からすると、耐え難い程に卑怯で卑劣な側面を持つ。表面上は正義や大義を謳いつつ、影では正反対の振る舞いを強要されるのだ。若く未熟であればある程に戦意を保つ事が難しい。


 本来、リシアの様な年若い者を、そうした立場に押し遣る政治を赦すべきではない。それでも、彼女は自ら進んでこの場に立った。その対価は現実への直面。これを発条(バネ)に政治の黒幕(フィクサー)へと変貌するか、陸軍大佐としての栄達を目指すかは彼女次第。


 大尉――ゲレオン・オーレンドルフは軍馬の(あぶみ)へと足を掛けた。









 リシアは悄然としていた。


 総てが終わった後に訪れたのは途方もない虚脱感と後悔だった。


 森林地帯の奥に造られた小さな駐屯地の粗末な部屋で、壁へと背を預けて沈み込んでいた。碌でもない現実だと知っていたはずの政治の影に、今更泣き言を垂れ流すのかと(なじ)られればリシアは泣き喚いてしまうかも知れない。


 まさか、トウカに所縁のある寒村だとは思わなかった。北部鎮護の要である城塞都市たるベルゲンから適度に近い村落として目を付けた寒村が、トウカとミユキが旅路の最中に訪れた寒村であるなど想像の埒外であった。


 隠蔽せねばならない。報告書すら上げられない軍事行動であるが故に容易くはあるが、事の露呈はリシアの生命と恋に関わる。本来であれば、トウカは称賛こそすれ排除する行動を取るとは思えないが、ミユキも関わる以上は予断を許さない。


 トウカは政戦に於いて公平を心掛けている心算かも知れないが、政戦を成す為の根拠は常に個人的理由に依る処である。此度のリシアの行いは、トウカの個人的な部分にこれ以上ないほど踏み込んだに等しい。その結果が如何(いか)なるものであるか、リシアは知っている。


 内戦そのものがトウカの個人的理由によって目を当てられない程に悲惨さを増したのだ。苛烈無比と言える。


 好きなヒトに嫌われる。


 国防も国益も大事だろう。大きな正義である。だが、今のリシアにとって、それらは自らの恋と野心という小さな正義を護るための要素に過ぎなかった。なれど、今この時、大きな正義を護る為の行動が、小さな正義を喪わせようとしている。


 この様な出来の悪い小説の如き有様が赦されるはずがない。


 リシアは壁に手を突く。


 既に一日が経過している。食事も喉を通らず、身体を清めてもいない。


 己の成した外道よりも、それによって生じた己への危機こそが問題。卑怯外道邪悪と罵って貰っても大いに結構、とリシアは震える膝を叱咤して立ち上がる。


 汗による僅かな()えた匂いに眉を顰めつつ、リシアは床に打ち捨てられた軍帽を拾うと目深に被る。大きく乱れた帝国軍第一種騎兵軍装の襟元を正し、涙の痕を軍装の袖で拭うと、リシアは部屋の(ドア)を勢いよく開け放つ。


 進むしかない。


「ハルティカイネン大佐、お早うございます」


「お早う、オーレンドルフ大尉」


 そうは言っても、窓から差し込む太陽の位置を鑑みれば昼間同然の時間であるのは疑いない。寝坊と取られても不思議ではないが、兵員が詰めているはずの室内にはオーレンドルフ一人しかいない為、自身の情けない姿を兵士達に見られるのは避けられた。


 オーレンドルフの表情に翳りはない。


 戦時下にあっての非正規任務中であるにも関わらず、シュットガルト湖の湖面の如く穏やかですらあった。そこには失望の色や怒りの気配もなく、ただ上官を心配する雰囲気だけが漂い、逆にリシアの罪悪感が増す。


「無様を見せたわね、大尉」


「いえ、大佐が帰還後に確認した項目を鑑みれば、その……致し方ない事かと」


 あっ、と思わず声を漏らしたリシアは慌てて口元を押さえるが、それは遅きに失した。無論、露呈した以上はあらゆる動作に意味はないのだが、リシアはそこまでにすら思考が行き着かなかった。


 リシアの頬に朱が散る。


 事情を知る者が増えたという事実よりも、気恥ずかしい感情が上回った。彼はリシアがトウカの為にこそこの場にいる事実を知っている。それを匂わせたのはリシア自身であるし、何よりも短時間で信頼を勝ち得るには、個人的理由であるのが好ましい。無論、ある程度は曖昧にしていたが、寒村とトウカの関係を知られた以上は、リシアの懸念と恐怖も気取られたに等しかった。


 うんうんと唸るリシアだが、最早何ともならない。


 巷で人気の恋愛小説宜しく貴方を殺して私も死ぬという展開しか思い付かないが、トウカが易々と刺されてくれるとは思えなかった。半ば地平線の彼方を跨ぎつつあるリシアの思考を、オーレンドルフの労わるかのような声音が遮る。


「我らは国家の影に過ぎませぬ。大佐が国家への義務を果たし続けられると言われるならば、総てを以てその献身を支える所存に御座います……些か見苦しとも」


 最後の一言にこそ心情の大部分が窺えるが、取り敢えずは自身を支持し続ける意思を見せたオーレンドルフに、リシアは遣る瀬無い感情を抱いた。彼らの歩む称賛を受ける事なき戦野の灯火とするに、己の力量と覚悟が不足しているのは明白であり、既にその点は彼らに露呈してしまっている。


「……こんなに不甲斐ない小娘を支えてくれると言うの?」


 指揮官や統率者の能力は、部隊の生存に直結する要素であり、軍務生活の長いものであれば、そこに妥協は挟まない。能力に不安が付き纏う新人士官を軍営生活で潰してしまう先任曹長も存在する。戦野に赴いて自身と戦友の生命を預ける人物に対す評価に厳しい姿勢を見せるのは、リシアとしても理解できた。だからこそ、オーレンドルフに見放されることは、リシアにとって既定事項だったのだ。


 リシアの問いに、オーレンドルフは微苦笑。戦野とは一転して愛嬌のある中年の佇まいに、リシアはぽかんと口を開けるだけであった。


 そんなリシアに苦笑を深めたオーレンドルフは、実際のところは、と片目を瞑って茶目っ気の勘辞される仕草を見せて言葉を重ねる。


「貴方にサクラギ上級大将閣下しか居られぬ様に、今となっては我らにも貴女しかいないのです」


 思いがけない一言に、リシアは返答に詰まった。


 彼らが追い詰められるという事はない。公式書類上は存在しないのだから、陸軍組織内でのあらゆる軋轢や競争からは無縁と言えた。陸軍内の同階級の将兵よりも多くの俸給と手当てがあり、公式上ではないが、それ以外の部分で軍は良く報いている。将兵の愛国心に驕る真似をする程に無能ではない。


 忠誠心こそが最も優れた興奮剤であり、愛国心こそが最も秀でた覚醒剤であるとリシアは信じて疑わないが、トウカは忠誠心や愛国心は美しい硝子製品だと断じていた。人々を魅了して戦野に駆り立てるが、同時に脆弱でいて常に手入れが必要となる。酷く現実的でいて醒めた見方であり、リシアも些かの反発を覚えた。


 だが、シュットガルト湖畔攻防戦に於ける地獄を見れば、愛国心や忠誠心を求める事に限度があるという考え方を否定する事はできなくなる。


 あの日、あの時、あの場所に軍記として語り継がれた皇軍の姿はなかったのだ。


 そこで、リシアは気付く。


「そう、愛国心……この国の為なのね」


 皇国には時間がない。彼らは祖国の行く末を憂えている。だからこそ、この場に在って燻ぶり続けるという選択肢を排除しているのだ。


 例え担ぐ神輿に不満があっても、時を逸しては何一つ護れはない。国難の時、戦場(いくさば)に在ってこそ意味があるのだ。無論、その戦場は人それぞれである。


 彼らはリシアという神輿を担ぐしかないのだ。同情を、とはリシアの立場では言えない。当人がそれを口にするのは無責任と言える。


「国を護りたい……護国への熱意なの? 地獄を渡り歩いて尚、そう言える貴方は真の烈士と言えるわね」


 己が知る者に銃口を向けても尚、その一言を口にできる心算であったリシアだが、現実は想像を越えて残酷だった。


 彼の為に外道に足を踏み入れる心算だった。


 しかし、彼の“意志”を踏んでしまった。


 思えば、皇国北部自体が彼の生存圏(レーベンスラウム)と言える。その一部に刃を向ける以上、何処かでトウカの意思を足蹴にする場面が生じる余地が出るのは自明の理であった。確率論としては無視できる程度のものであるが、大多数の為に一部を犠牲にするという方法を、トウカがフェルゼンに於ける市街戦で平然と断行している事から十分に許容し危険性(リスク)であると踏んでいた。


 だか、直面した際に気付いた。


 ミユキだ。


 彼女が関連しているか否かでトウカの行動は容易に変化する。その可能性に遅ればせながら思い当たったリシアは、何も考えられなくなった。トウカの政戦への協力が重要なのではなく、トウカの庇護対象に被害が及ばない事こそが重要なのだ。


 あの苛烈無比なる意志が己を突き刺す?


 性質の悪い冗談である。


 恋の綱引き以前の生存競争であるが、リシアにとって重要なことは、自身がトウカの唯一になることである。それが叶わぬのであれば、己の生命など然したる意味はない。


 勝者は総てを手にし、敗者は総てを喪うのだ。権力を振り翳す色恋に引き分けはない。少なくとも、リシアはそうした例を知らなかった。マリアベルですらも、最後にはトウカの心に爪痕を遺して逝った。


 仄暗い政治の陥穽がリシアの足元で(もた)げた瞬間である。


 だが、リシアは引金(トリガー)を引いてしまった。最早、後戻りはできない。


 リシアの心情を察したのか、それとも慮る程ではないと判断したのか、オーレンドルフが苦笑する。不意の雲居が陽光を遮り、その笑みを薄暗いものへと変えた。


「私には大佐と同じくらいの娘がおりましてな。その娘の為に祖国を遺したい。我らが在るが儘に過ごす事を赦された国家を。この動乱の迫る時代、愛した者を育む揺り籠を。ただ、それだけのこと」


 民主共和制に於いては、少数である事は罪である。


 少数の意見は封殺される定めにある。高度情報化社会と比して情報伝達技術に劣る以上、主張の伝播には限界が付き纏い、多数の意見の奔流の前に押し流されるだろう。大多数の善良で個人主義的な民衆が好む悲劇的な話題ですらも例外ではない。


 多種族国家の皇国に住まう大多数の者達は、世界的に見れば少数に分類される者達と言える。少数が無数と集まる事で、自種族への干渉を最低限に抑え込もうとした結果として皇国が成立したと見る歴史家も存在した。天帝不在の現状では表面上の緩やかな連帯に留まっているものの、本来であれば容姿も寿命も膂力、生活様式も異なる無数の種族が連立するなど不可能。皇国南方の獣人種を主体とした部族連邦ですら辛うじて国家の体を成しているに過ぎず、国内での小規模な種族衝突も絶えない。


 その成立自体が奇蹟である《ヴァリスヘイム皇国》に代わる国家は無い。故に護るしかない。子々孫々の安寧を護るには戦うしかない。


 オーレンドルフは、リシアへと微笑む。


 何処までも擦り切れた満身創痍の心情を湛えた笑みが、雲居を漏れる残光を添えて肩越しに伝える。


「大佐も在るが儘に振る舞えば宜しい。欲するのであれば、手を伸ばし続けるしかないのですから」


「……そうね。その通りよ、大尉」


 出来の悪い小説なら、作家に曲剣(サーベル)を突き付けて脚本(シナリオ)の変更を迫ればいい。


 なら自身がトウカに突き付けるのは一体何か?


 そんなことは分かり切っている。


 己の価値を。


 彼の望む仔狐の生存圏(レーベンスラウム)確立に当たって自身が欠かせぬ人物となること。排除してしまえば自らの計画に致命的な誤差が生じる相手であると認識させる事である。リシアはそう確信した。


 運命の悪戯か、神の悪意か、悪魔の善意か。


 リシアは立場の確実なるを以てのみ、総てを得られる事を認識した。


「行きましょう、大尉。鋼の国家を求めて」





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