第一五話 大御巫の決意
「エルザ……」
背後で立つ近衛騎士へとアリアベルは振り向く。
何時も通りに真面目な己が騎士を目にし、アリアベルも心を落ち着ける。自分だけが心を乱して気後れしていたが、エルザの何時も通りの姿を見て自らも泰然とした表情と仕草を心掛けた。これから相手にせねばならないのは、天帝不在のこの皇国にあって実質的に政治の中枢を担っている者達だ。
「私はもう戻れないのです。巫女達を犠牲にしてしまった以上、今ここで諦めてしまえば、あの尊い決意が無に帰してしまう……」
そう、ここで自身の意見を曲げる訳にはいかない。自らが摂政となり皇国の指導者となるのだ。
《ヴァリスヘイム皇国》の現状は控えめに見ても悪い。
地方の運営は元来、貴族達に各地の治政が任せられているので然して問題は発生していなかった。無論、長命種ばかりの貴族達は各々の種族性もあって、初代天帝との盟約を頑なに護り続けている為に民を虐げる事は有り得ない。龍も虎も狼も狐も天使も……盟約を重んじる種族である。その為には命を投げ打つ事も躊躇いはしないだろう。老獪な狐に関しては、そもそも盟約を結ぶなどという真似は滅多としないが。
「そう……私はこの国の守り神にならねばならない……」
天帝となるべき御方が行方不明なことは不徳の致すところとしか言い様がなく、天帝即位によって国状を鎮静化しようという考えは不可能になってしまった。その天帝も未だ見つからず、北部では叛乱が起きて捜索どころではない。
アリアベルの姿を認めた侍従官たちが左右に分かれて一礼する。
ここは皇国の皇都(首都)の中心に位置する帝城。その内部の大回廊と呼ばれる中央に走る主要な通路だった。最奥には桜華の間が存在し、その周囲には会議室や近衛軍司令部など天帝の勅命に即応する為の設備と人員が揃っているが、今は仕えるべき主君がいないこともあって閑散としている。そんな区画の中の一つに会議場が設けられていた。
会議場の前の重厚な扉の前では近衛兵が左右に立っている。その横には叉銃された銃剣付き小銃を支柱に桜華皇旗が掲揚されており国家の象徴たるを示していた。近衛兵は不動の姿勢で銃剣付き小銃を身体の前で両手で持ち、右手は正面に対して手甲を向けて銃床を、左手は正面に手甲が見えないように被筒部後部を握っている。教本通りの“担え銃”の状態であった。
異様に長い銃剣を交差させて往く手を遮る近衛兵。
「この御方は、神祇府が大御巫、アリアベル・ラウ・フォン・クロウ=クルワッハである!」
エルザの一喝とも取れる一言に近衛兵は一糸乱れぬ”捧げ筒“をして見せる。儀礼とは言え、アリアベルはこのような堅苦しい雰囲気は好きではない。
「では、行ってきます」
「姫様、御武運を祈っています」
一礼するエルザに微笑みながら、アリアベルは巫女服を翻す。
「私は斬り合いに行くわけじゃありませんよ。“武”の栄達を祈られても困ります」
交わすのは刃ではなく言葉である。無論、主張を認めないというのであれば、その限りではない。少なくとも、それ程の覚悟で臨まねば四人の公爵を説き伏せることなどできないだろう。
千早を靡かせ、アリアベルは斬光と銃火の煌めくことのない戦場へと臨んだ。
「御覚悟していただきます」
会議場の敷居を潜り、アリアベルは毅然とした瞳で奥に座る四人の影を見据える。
強大な気配。決して雰囲気などの不確定な威圧感だけでなく、無尽蔵とも思える魔力が滲み出ており、素養のある大御巫でなくとも分かる程であった。
その四つの強大な気配の対面の席にアリアベルは腰掛ける。そして、異様に長い机の先に座る四人に笑って見せた。
「公爵の方々、御機嫌が優れないようですが?」
四人の英傑が、その言葉に唸る。
天帝を輔弼する五人の公爵の内の四人。軍事と政治の両面に於いて優れた能力を持ち、一番年若い者でもアリアベルを遙かに超える年齢だけあり、その知識と武威は他の長命種すら追随を許さない。
神龍族の頂点たるアーダルベルト・ラウ・フォン・クロウ=クルワッハ公爵。
神狼族の頂点たるフェンリス・ルオ・フォン・フローズ=ヴィトニル公爵。
神虎族の頂点たるレオンハルト・ディダ・フォン・ケーニヒス=ティーゲル公爵。
熾天使族の頂点たるヨエル・リエ・フォン・ネハシム=セラフィム公爵。
何千という命脈を誇る皇国を輔弼する五公爵の内が四柱。神聖にして不可侵たる天帝陛下を輔弼する俊英でもある五公爵は、皇国の重鎮にして剣でもあり楯でもあった。武勇に於いても政治に於いてもアリアベルの及ぶ相手ではない。長命であるが故の経験は大抵の劣勢など逆転できるのだ。この場に姿を現さない狐の公爵も何処からか聞き耳を立てているはずである。狐とはそうした生き物であった。
薄暗い一室によく目を凝らしてみると、他の貴族達も左右の雛壇状の等間隔に並べられた席に座っている。だが、アリアベルにとっては有象無象の貴族などは気に留めるものではなかった。
「では、私が摂政となる事を御認めいただけますか?」
着席一番で本題を切り出す。時間がないという事もあるが、それ以上に五公相手に時間を長引かせたところで事態が好転するとは思えなかった。必要であれば一年や二年程度は、この場に座り続けるだろう。そんな気長とも楽観的とも取れる性格がアリアベルには理解できなかった。確かに人間種の様に生き急ぎすぎる必要もないが、風雲急を告げる国際情勢に対応できるとも思えない。
「中々に勇敢ではないか? なぁ、クロウ=クルワッハ公?」
前髪を立て鬣の様な髪型をしたレオンハルト・ディダ・フォン・ケーニヒス=ティーゲル公爵が、アーダルベルトへと野性的な笑みを浮かべてこれ見よがしに肩を竦めてみせる。
「お恥ずかしい限りだ」
アーダルベルトはそう返すが気後れした風ではない。然して興味がないといった風だ。この場では、アリアベルを娘としてではなく、大御巫として扱うという意思表示である。
それを聞いていた五公の中で唯一女性のフェンリス・ルオ・フォン・フローズ=ヴィトニル公爵が気品と妖艶さを併せ持った笑みを零す。
「良い娘さんだ……ウチの馬鹿息子に紹介してやりたいくらいだ」
そんなレオンハルトの言葉に、アーダルベルトが頬を引き攣らせる。
だが、そんな冗談の応酬にも関わらず鋭い気配は消えない。五公とて国状は理解しているはずなのだ。アリアベルが摂政になれば一番の問題でもある統帥権についての混乱を収めることができる。
統帥権とは天帝大権の一つである陸軍や海軍への統帥の権能である。端的に言えば陸海軍の組織、編制や人事決定権、戦略決定権、軍事作戦の立案と指揮命令などの権利である。これらは陸軍では陸軍長官と参謀総長に、海軍では海軍長官と軍令部総長に委任され、各長官は軍政権を、参謀総長・軍令部総長は軍令権を天帝から下賜される形で掌握していた。
通常、これらの大権は天帝しか有することができない。不在の際に軍の総指揮権を統帥する者は五公の内から一人選出するのが通例だが、一向に統帥権を掌握しようという気配がない。
「それ程に怖いのですか?」
アリアベルは軽蔑の表情を浮かべる。
そこには大御巫として教育を受け、上品に花の咲く様な笑みすら強制されていたアリアベルの姿は窺えない。美しい造形をしているからこそ軽蔑の入り混じった表情でさえ絵になる上に、それ相応の迫力が伴っている。生まれながらにして人の上に立つ運命を背負ったが故に、少女は妥協を知らなかった。
それは、貪欲に目的を求める戦巫女の笑み。
「恐れるならば貴方方は貴族に非ず。ただの臆病者でしょう?」
位置的に低い場所から貴族達を睥睨する大御巫。四人の公爵を除く貴族は気色ばむ。それほどの気迫がアリアベルにはあった。
実はアリアベルの言葉もあながち間違いというわけではない。
嘗て、神州国との間に批准された条約があった。条約の内容としては、鉄鋼資源と引き換えに海軍国である神州国海軍工廠で就役する予定だった新造戦艦四隻を永久貸与して貰う事で、海軍戦力の増強を図るという条約に過ぎなかった。外務長官としては資源力と技術力の交換を通して友好関係を築きたかったのだろう。
だが、その過程に致命的な問題があった。
皇国貴族院会議で、とある貴族が条約は、「軍令部が要求していた艦艇ではない」「軍令部の反対を無視した条約調印は統帥権干犯である」と外務長官を攻撃した。陸軍の参謀総長も統帥権干犯に同調する動きを見せた。外務長官からすると神州国との結び付きは帝国との度重なる戦闘も相まって、安全保障に於ける重要な位置を占めているとの判断から引くことができなかった。海洋国家であり強大な海軍を有する神州国が皇国に対して好意的であれば、帝国海軍への牽制ともなるという建前もあるが、そこには地政学上の問題もあった。神州国は皇国から東方に浮かぶ島国であり、見方によっては他大陸への商船航路を妨げる形になっている。他大陸国家と皇国の中継地点や三角貿易の一角としての側面を神州国は持っていた。他大陸を含めた広大な経済圏を確立するには友好が不可欠と言える。
条約の批准権は天帝にあったのだが、それを無視する形になってしまった。この後、当代天帝に裁可を求め上奏し、最終的には貴族院会議で可決、翌日に天帝は裁可した。こうして条約は批准を実現したのだが、外務長官が天帝に無断で条約を批准しようとした事実に変わりはなく世論は大いに荒れる。挙句の果てには極右団体の者に外務府長官が暗殺され、皇都に戒厳令すら敷かれることとなり、統帥権の問題は貴族達の間では禁忌とされる話題となった。
貴族達が恐れる理由は十分にある。
「皆がなさりたくないのならば私が致しましょう。それでいいではありませんか」
傲慢とも取れる小娘の暴挙に、貴族の中には立ち上がろうとする者がいる。それを片手で制し、レオンハルトが嗤う。
愉快なのだろう。
喜悦なのだろう。
享楽なのだろう。
神虎族は武勇を尊ぶ種族であり、それに連なる支族である無数の虎種達もその多くが戦好きで知られている。勇敢な者は嫌いではない、そう瞳が語っていた。
「前提が間違っているな、小娘」
野性的な笑みでレオンハルトは笑う。その仕草だけで有象無象の貴族達は戦慄する。
実は基本的に主要な貴族に人間種はいない。基本的には長命種ばかりが選ばれており、大半が初代天帝に認められて領地や地位を得た者達の血縁であった。種族的な特徴や長命ゆえに次代に己の全てを教える事が叶い、自らに課した義務故に愚直なまでに下賜された御言葉を頑なに護っている。
――汝ら信義の刃たれ。汝ら臣民の楯たれ。
良い言葉だとアリアベルは思っている。臣民の将来を憂えて国営を行なう国はアリアベルの知る限り皇国しかない。民主共和制を政治体制とする共和国も民が主となって国営を行っているのだが、やはりヒトの欲望は強すぎる。長きに渡り権力を振るい続ければ、邪なる考えに心を満たされるのだ。よって国は腐敗する。
水は高きより低きに流れ落ちる。そして、人の心もまた高きより低きに流れ堕ちる。
権力は腐敗する、絶対的権力は絶対に腐敗する。
だからこそ長命種からなる貴族がいる。民が安易な政策を選び、将来の子らに負担を強いると判断したならば、例え民に嫌われようとも最終的には民の為になる政策を打ち出す存在。それを貴族と言うのだ。
「前提など意味はありません。今、国を纏め得るのは私だけなのです」
その言葉は正しい。五公爵や主要貴族などは能力的には軍事を取り仕切る事ができるが、国政を担う事はできない。それ程に普遍的な求心力を持つ者がいないのだ。五公爵であれば或いは……と思う者もいるが、そこには思想の違いがあった。貴族は初代天帝の言葉を頑なに護っている。
――己が領地を断じて守れ。それ故の貴族である。
個別の軍勢を有しており、この国内が乱れている状態に危機感を感じて、自らの領地を自らの戦力……領邦軍で守護している。
つまり各々の領地が、軍事と政治の大部分に於いて高い自己完結性を実現しているのだ。それ故に人間種以外の種族は国家という意識が極めて希薄なのだ。それを唯一、国家という形態足らしめているのは、初代天帝との盟約のみである。そして大抵は自らの領地には自身と同じ種族が数多く住んでおり、種族的な団結故に外に目を向けることはない。
――初代天帝は確かに偉大……でも、種族間の温度差を取り払うことはできなかった。一度、防衛戦争をしたくらいで数多の種族が軋轢を拭い去る事ができると思っていたのならその見通しは甘いわ。
アリアベルは歯噛みする。
外務よりも内務を重視し過ぎると言うべきか。統帥権干犯で暗殺された人間種の外務長官も、その辺りを感じて焦っていたからこそ、あのような事になったのかも知れない。世界は著しい進歩を遂げている。周辺諸国も政治と軍事の効率化を図っているが、《ヴァリスヘイム皇国》にはそれができない。長命種であるが故に時代の波を感じ取れないのだ。アリアベルも長命種だが未だ年若く、それ故に気付く事ができた。
「あら、我らが軍を率いれば良いと思わない?」
それまで沈黙を続けていたフェンリス・ルオ・フォン・フローズ=ヴィトニル公爵が応揚のない声で問いかける。貴族たちはその言葉についに来たか、という表情をしている。
「この期に及んでッ!! まだ私を試そうと言うの!!」
限界だった。もう我慢できない。出来もしない事を口にしてばかりで、自らは腰を上げる事すらない連中に、耐える必要性を彼女は感じない。
神龍族特有の金色の瞳が四人の公爵を見据える。普段は人間種と同じ色をしているが、能力を発揮する際や感情が高揚した際には変化するのだ。ただの人間種であれば気を失う程の圧迫感と恐怖を撒き散らす瞳に、有象無象の貴族達の中には気後れする者すらいた。
「軍が貴方がたの命令を聞く訳がない!!」
軍と貴族には決定的な溝がある。それも当然で、国軍が存在するにも関わらず個別に貴族軍という強大な戦力を持っているのだ。自らの領分を侵食された組織が寛容であるはずがない。そもそも装備や戦術に於いても大きく違っており、戦場で協調できるはずもなかった。
それを聡明な四人の公爵が気付かないはずがない。
「私は独自の権限を以て国事を担います!」
アリアベルは高らかに宣言する。独自の権限。そのような便利なものがあればとうに使っている。だが、ただのハッタリで乗り切れる相手でないことも重々承知していた。
「国事を行えるのは今上天帝陛下ただ御一人……神祇府にも大御巫にも、そのような権限はない」
遂に父にして神龍族を統べるアーダルベルト・ラウ・フォン・クロウ=クルワッハ公爵が言葉を発する。その表情に変化は認められないが、内心ではそれを分からぬはずがないと警戒しているだろう。
「そもそも政教分離の大原則から外れている、違う?」
フェンリスの言葉は正しい。皇国には複数の宗教が存在し、また政府はそれを許容している。だが存在は許容しても政治と軍事への介入は断固として許容しなかった。圧倒的支持を得ている宗教はあるが、公平性を保つ為に正式な国教が制定されていないのだ。宗教集団に政治権力を行使させないだけではなく、国の宗教的活動と宗教集団に対する一切の援助を禁じてすらいる。例外は皇国中央部の霊都くらいで、霊都は招聘された天帝を天霊の神々に認めさせる聖地でもある。よって政府から独立した組織である神祇府の直轄であり、貴族の領地と同じように大御巫の名の下に統治されていた。
アリアベルは笑みを零す。自らの策に気付いた者はない。舌先三寸で押し留められる策ではないし、対抗策も講じていた。
「政教分離? 失礼ながら皆様は勘違いされている様ですが、私は神祇府に政治をさせる心算も大御巫としてする心算はありません」
貴族だけでなく四人の公爵すらも怪訝な顔をする。
ならば如何様な権限を以て国を動かすか?
「私は今上天帝陛下の第一皇妃として、皇国の摂政となることを宣言します」
絶句する貴族達。四人の公爵は無表情。
アリアベルの一世一代の大博打。
「そして、残念ながら次代の天帝陛下は御隠れになられました」
会議場が凍る。
次代の天帝になられるはずの御方の安否を知る術はない。
この場にいる貴族は皆、国の主要な役職を担う大貴族ばかりであり、当然ながら今上天帝が行方知れずという事実も理解している。天帝の所在は杳として知れない事は既定の事実。だが、生死不明の天帝の残照に引き摺られ、御国を亡国の淵へと追いやることは許されないのだ。それこそが、アリアベルと四人の公爵を含めた貴族達との決定的な違い。例え天帝が存命であったとしても無いものとして考えねば国が滅ぶ。だが、初代天帝との盟約を最も至上とする貴族達はそれを認めたくないのだろう。
皇国貴族にとって、国家という統治機構は然して重要ではないのだ。限りなく連邦制に近く、それぞれの領地が独特の歴史と文化を育み、初代天帝もまた“国を護れ”とは一言も発さず、「重要なのは国でなく、人なのだ」という言葉の示す通りの人物である。臣民の生活水準の向上に比重を置いており各々の領主の自主性を重んじてすらいた。家臣思いであることは素晴らしい事であり、それを命じられた貴族たちもそれぞれが得意とする方法で領地を栄えさせるに至る。しかし、それは領地毎に居住している種族達の交流が減少し、国への帰属意識は希薄になる事を意味していた。絶対王政とも言える政体であるにも関わらず、民衆は余りにも自由で有り過ぎた。それ故に国難の近い現状でも力を結集させる事ができない。
互いが互いを深く知り得ないが故の距離感。
「法的には何ら問題はありません」
それは紛れもない事実。反則に近い策であり、法の穴を突くような遣り方は好きではないが、最早手段は選んでいられない。
アリアベルにそこまでの決断をさせたのは北部の叛乱であった。その為に天帝の捜索は滞り、エルライン要塞へと続く街道は軍の移動ができない。
本音を言えばアリアベルは北部の貴族達の内心を痛いほど理解していた。北部はエルライン要塞を挟んでいるとはいえ、何百年と帝国の脅威に晒されてきた。軍事費としての負担は国が負っているが、そこに住まう者達の不安や、危機感を感じない貴族達への焦燥を考えれば叛乱の一つや二つは起こっても何ら不思議ではない。
「陛下の安否は確認されておらぬ!! まだ、御斃れになったとは限らん!!」
怒鳴る何処かの貴族。
「確率論です。氷雪に閉ざされた北部に放り出された陛下は未だ霊都で歴代天帝の方々に“盟約”を交わしてはおられません」
天帝は招聘されたその瞬間から天帝足り得る訳ではない。霊都に存在する天霊神殿の最奥部に位置する天皇大帝の間で“盟約”を唱え、認められてこそ初めて天帝の権能を行使できる。“盟約”後でなければ多くの力が使えず、氷雪舞う北部で生き残っているとは考え難い。
「例え、そうであったとしても……あまりにもッ!! あまりにもっ……」
歯を食いしばる貴族達だが、天帝の不在に憤る事はできても、国難に憤る事のできない貴族にアリアベルは妥協しない。だが、追い打ちを掛けようとしたところで横槍が入る。
「ほぅ、不思議ね。今上の天帝陛下と会ったこともない者が、婚約はおろか結婚などしているはずがないわ」
フェンリスが嗤う。
その言葉には、良く思い付いたものだ、という好意的な驚きと、これ以上の意見は受け付けないという力強さが備わっていた。
「私が今代天帝陛下と面識がないという証拠は? それに残念ながら婚約は済んでいるのです。故に婚約と同時に法に従い、私は第一皇妃となりました」
皇国憲法によって今上天帝が崩御した際は、次代天帝が即位するまでの空白期を存命の皇妃の一番高位の者が摂政となり、その責務を代行するという一文がある。
だが、それは正当な手順を踏んでいればという話。
――なら、正当な手順であればいいのよ。
「この国に於いて男女の誓いとは神殿の神官によって認められる……そして、最終的にそれを裁可するのは大御巫の責務」
要は大御巫であるアリアベルが認めれば結婚の事実を作り上げることができる。現に神祇府の天霊神殿には正式にそれを認めさせた。それ故に正当。そして男女の誓いには貴族ですらも口を挟めない。皇国の憲法は種の生存と保存を極めて重視しており、男女間における誓約や婚約を法的にも重要なものとして強力に擁護していた。
だが、それは詐称。そして何よりも清廉潔白を旨とする大御巫の行いではない。そして、皇国に於いて男女の仲を偽ることは罪であり、場合によっては文字通り首が飛ぶことすらある。
全てを察したアーダルベルトの顔が歪む。
「馬鹿なッ!! 何をしたか理解しておるのかッ!!」
大喝。衝撃を伴った大音声に貴族達が仰け反る。
アーダルベルが机に両手を叩き付けて立ち上がる。机の上質なノルンヴァルト樹の天板が破砕され、破片が飛び散った。
父が本気で激怒したところを、アリアベルは初めて見た。
神龍族の特徴である金色の瞳がアリアベルを見据える。アリアベルも同じ色をした瞳で正面から睨み返す。
謀らずとも親子喧嘩になるかと思われたその時、会議場の重厚な扉が粉砕され、破砕魔術の滞留煙の中から一人の紳士が現れる。
「爺や! 一体――」
自らの元御付武官にして頼れる近衛軍大佐クラウス・セム・リットベルクの惨状……参上だった。左右の手には会議場の前に立っていた近衛兵の襟首を掴んで引き摺っていた。大方、押し問答になって止むを得ず殴り倒したのだろう。温厚な表情の好々爺だが、軍人だけあって非常時の暴力の行使に躊躇いはない。
「姫様ッ! 敵襲に御座います!! 帝国軍、約四〇万が、エルライン回廊内へ侵入しつつあり! 要塞司令より、至急増援を求む、との伝達も届けられましたぞ!」
何時もの余裕のある紳士の表情はなく、そこには焦りしかない。貴族達も呆気に取られている。
「貴方がたは貴方がたの領地を護っていればいいのです。私は国を護ります! 四方や異論があるなどと言いませんね!?」
貴族達を睥睨して黙らせる。今のアリアベルにはその迫力があった。自身より何十倍もの時を過ごしている貴族ですら口を噤ませるだけの威圧感。龍の娘はやはり龍なのだ。
――これは好機よ! 帝国を退けさえすればっ!
準備を始めようと浮足立つアリアベル。
だが、そこに沈黙を守っていた熾天使の声音が響く。
「待ってください、若き神龍よ」
甘く、それでいて不可侵性を思わせる声音に拘束されたアリアベルは、その主へと視線が吸い寄せられる。
ヨエル・リエ・フォン・ネハシム=セラフィム公爵。
誰よりも天権を一途に想う乙女。
彼女が腰を上げる。何時もは会議でも一言も発さずに沈黙する乙女に、貴族達が固唾を呑む。
ネハシム=セラフィム公爵家は、“玉座に侍る者”との異名を持つ。その己が種族に課した使命故、アリアベルとしては最も警戒せねばならない相手でもあった。
彼女は愛国者ではない。彼女が愛するのは至尊の王座のみ。至上の権力が望むならば、熾天使はどの様な残虐や暴虐も赦すだろう。或いは、自らの手で悲劇と惨劇を演出する事も厭わないに違いない。
皇国の天使種の頂点に立つ可憐な乙女が、アリアベルを淡い笑みを湛えて睥睨している。
アリアベルの白金色とは違う、淡い黄金の如き足元近くまで流れる髪に、三対の純白な翼。六つの翼、二つの翼が顔を隠し、二つの翼で足を覆い、二つの翼で飛翔するという伝承を持つ彼女は、今この時、顔を隠す事もなく、一心にアリアベルを見据えている。
そして、問い掛けられる。
「貴女は、この国を愛していますか?」
国。国家。祖国。つまりは《ヴァリスヘイム皇国》。思案するまでもない。
「……父よりも尚、愛しております」
彼女は誰よりも祖国の弥栄を祈っていた。斯く在れかし、と。
熾天使……ヨエルは慈愛に満ちた笑みを以て頷く。そこに言葉はない。
至尊の王座に侍る熾天使の形をした権力が赦した瞬間である。驚きはしない。国家あっての国体である。
大御巫は千早を翻す。
危機に際して纏まれない程に貴族達は無能ではない。問題は北部の叛乱や現地の貴族軍、陸軍を纏め上げて素早い迎撃ができるかどうかであるが、《ヴァリスヘイム皇国》北方鎮護の要であるエルライン要塞が易々と抜かれる事などありはしない。急がねばならない事に変わりはないが、勝機は十分にある。
少なくとも、この時のアリアベルはそう考えている。
「爺や! 陸軍長官を呼んでください! それと、私も北部に向かいます! 翼を持てッ!!」
その言葉にリットベルクは敬礼する。
一連の軍事衝突を指して皇国動乱と呼ばれることになる国内勢力や周辺諸国との戦争の始まりだった。
権力は腐敗する、絶対的権力は絶対に腐敗する。
《大英帝国》初代アクトン男爵、ジョン・エメリク・エドワード・ダルバーグ=アクトン