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紫苑穢国のエトランジェ  作者: 葛葉狐
第二章    第一次帝国戦役    《斉紫敗素》

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第一七九話    誰が為の戦争  中篇




「ヴァルトハイム元帥。如何いたしましたか?」


 雪を踏み締め、そして背後で直立不動の姿勢を執ったリシアの問い掛け。


 些かの緊張が見られるのは、陸軍将校でありながらも皇州同盟、トウカへの過度な肩入れをしている事に対しての弱みがあるからであろう。無論、弱みではあっても引け目ではないだろう事は疑いなく、当人もそれを認めないはずである。その点を突かれた場合、トウカの様に正々堂々と開き直るに違いなかった。


 ベルセリカは「健気に御座らんか」と笑声を零す。


 無論、それ程の献身を見せた程度ではトウカは振り向かないだろう。リシアの立場でそれを成すのは職を賭しているに等しいが、その内容はラムケやエップ、シュナイトフーバーなどでも成せる程度の事に過ぎない。


 哀れである。


 ベルセリカはリシアを哀れに思う。


 相手が高位種のミユキでなければ。

 ミユキよりも先に邂逅していれば。

 トウカの立身出生が少し早ければ。


 リシア・スオメタル・ハルティカイネンという少女にも十分な勝算があった。


 誰かが幸福になれば、誰かが不幸になるのが世界の本質である。ヒトは何処(どこ)かの誰かを押し退けてでしか幸せになる事はできない。トウカはそれを痛々しいまでに理解しており、だからこそ敵対的な者達に不幸を押し付ける努力を惜しまない。敵対者の不幸が相対的に自陣営に所属する者達の幸福に繋がると知るからこそ、残酷なまでに敵対者に不幸を押し付ける事ができるのだ。


 彼の敵対者に残酷である点には、強迫観念染みたものがある。


 他者に残酷になれる資質は重要だ。



 人々の嫉妬心が、善き事をしていれば自然に消えていくなどとは、願ってはならない。邪悪な心は、どれ程に贈り物をしようとも、変心してくれるものではないからだ。



 敵対者が完全な瓦解を見るまでは油断してはならない。善意に善意と常識的な行動が返ってくると考えるのは無能の所業である。そして、悪意と邪心は飼い慣らし続ける事はできない。常に警戒を怠ってはならないのだ。


「御主はトウカの為に残酷になれようか?」ベルセリカは問う。



 君主たるもの、新たに君主になったものは尚更、国を守りきる為には徳を全うできるなど稀だという事を、頭に叩き込んでおく必要がある。



 トウカの在り方がそれを示している。


 だが、彼だけにその役目を負わせる訳にはいかない。


 残酷であることに馴れてしまえば、他者に優しさを見せる事が出来なくなってしまう。報復を怖れ、相手も同じ手段を知ったと理解するからである。常に先手を取り続ける事に固執し始めれば、夥しい死が自陣営に吹き荒れるだろう。


 独裁者の病。


 そうなれば破滅。


 現状の打開には独裁的な権力の集中が必要だが、猜疑心に押し潰された独裁者は必要ではない。



 場合によっては、人を屈服させるのに、非情で暴力的な行為よりも温情に満ちた人間的扱いのほうが有効である事がある。歴史上、軍事力では落とせなかった都市が、攻撃側の取った人間的で寛大な処遇によって城門を開いた例が多いのだ。



 残酷さは優しさと織り交ぜる事によってこそ真価を発揮する。残酷であるだけでは暴君に過ぎないのだ。



 無論、謙譲の美徳を以てすれば相手の尊大さに勝てると信ずる者は、誤りを犯す破目に陥る。



 ベルセリカはトウカに優しさも兼ね合わせ、皇州同盟を統率して欲しいとも考えていた。


 リシアはベルセリカの意図を計りかねているのか、沈黙の末に頷く。


「そう在るをサクラギ上級大将が御望みなれば」


 思いの外、保守的な言葉に、ベルセリカは尻尾を一振り。


「阿呆ぅ、だから御主は負け犬の紫芋で御座ろうに。よもや、ここまで意気地のない女子とはの」


 強気な発言でトウカの日常生活にも顔を出す紫苑色の少女だが、軍事に関わる面ではかなりの保守的な動きしか見せない。副官の地位を望んだミユキとは対照的と言える。ベルセリカの目算では、リシアが先に望めばトウカはリシアを副官にしていた可能性は十分にある。北部に於ける政治情勢や軍事情報、地形に詳しいリシアは副官として申し分ない人物と言えた。常日頃の行動を踏まえれば、陸軍から引き抜いても然したる苦情は上がらないだろう。寧ろ、厄介払いとばかりに推奨してくるかもしれない。陸軍はリシアを扱いきれないと十分に理解した筈である。


 ベルセリカは、リシアを年相応の少女と見ているが、他の者達は特別視している。その紫苑色の髪に依るところであるが、それが彼女にとって幸せな事であるとは限らない。


 流麗な切れ長の目元に細やかな雪花石膏(アラバスタ―)を思わせる柔肌、酷く整った鼻梁、桜花を思わせる色合いの可憐な唇、浮世離れした彫刻の様な輪郭、自信を窺わせる迷いなく伸びる背筋。ベルセリカには及ばないものの十分な背丈……そして何よりも紫苑色の長髪。


 皇都美術館に展示されている彫刻の女神に近い造形は人々を惹きつけて止まない。


 皇州同盟軍の勧誘広告(ポスター)となっている美貌は、普段の勝気な言動と、好戦的な表情からの佇まいによってある種の気安さを演出しているが、その点を魅力と捉える者も少なくない。


 唯一残念な平坦な胸元を差し引いたとしても、女神の寵愛を一身に受けたかの様な容姿である。


 著名な女優や貴族令嬢ですら、彼女に及ばない者が大多数であろう。加えて軍服を彩る略綬(ローゼット)の数と種類も、彼女の功績が真実であると示している。現にトウカの指揮下にヴェルテンベルク領邦軍時代から在って、的確な指摘と咄嗟の判断に定評がある参謀であり政治情勢にも詳しい。その上、極短期間であるが艦隊参謀を歴任し、現在は情報を司る情報参謀という立場に在る。これ程に多面的な分野を大きな失敗なく乗り切る将校というのは他に類を見ないものである。その武功は近年の皇国に在って華々しいものであった。


 だが、当人に自覚はない。


 トウカに与えられた立場と作戦によって成したと考え、リシアは常に戦果を求め続けている。トウカの御膳立てと言いう部分は間違いではないが、リシアが多くの分野について学び続けていたからこその戦果でもある。


 ある種の完璧主義者であるからこそ、他者の思惑が露骨に介在した戦果に納得できないのか、ベルセリカには判断が付かないが、大きな懸念材料の一つである。最近は驚いた事に憲兵であるクレアの指揮で行われたエカテリンブルクに対する空襲にも関わっていると聞き及んでいた。


 異様な昇進速度に、練達するよりも早く異動を繰り返す事で各分野の専門家となる機会に恵まれなかったリシア。明確に自らの行動による戦果か、専門と誇れる分野があれば自信を得て落ち着いたかも知れない。


 自覚なき将校。


 大佐の肩書を持つ情報参謀に求められる行動とは、自らの戦果と自信ではなく、部下に手柄を立てさせ、組織を運営する事である。


 余りにも早い昇進が自覚を芽生えさせる機会を奪った内戦と同時に、マリアベルの思惑もあって戦争英雄になり、その後はトウカに付き従う事によって急激に過ぎる昇進。


 成立間もないが故に有力な将校が不足し、急進的な成果主義を反映せざるを得なかった北部統合軍に於ける昇格制度の弊害が表面化しつつある。


 トウカは義務を果たさない者には非寛容である。故にただ雌として振る舞う方が勝機がある。


 今一歩、踏み込めていない。


「そこで踏み込めぬからミユキにも負けよう。あの能天気な腹黒狐はの、その点は躊躇わぬ。問答無用で踏み込みおるぞ」


 リシアやザムエルなどは陸軍への機動戦教練や北部情報の伝達という建前を元に陸軍へと移籍しているが、トウカの軍事力を人材面から削ぐ為の政府の横槍であることは明白である。シュトレーゼマン首相は、その絡め手を見るに中々の人物と言えた。


 リシアは、流麗な紫苑色の長髪をひと房掴むと雪風に任せる儘に遊ばせる。


 その仕草にベルセリカは軍帽下の狼耳を揺らす。


 自身の与り知らぬ法則と基準がそこに潜んでいる。


「失礼ながら、ヴァルトハイム卿はこの髪の宿業を軽く見ておられるのかと」


 軍階級の“元帥”でなく、騎士としての“卿”と呼ぶ理由は、ここからは上官に対する言葉ではなくなるという事である。非公式として欲しいと取れた。幸いにして周囲は雪風によって聞き耳を立てるのは難しい。


「ふむ……」


 何を馬鹿な事を言いやるか、とは切り捨てられない。


 紫苑色とはそうした色である。


 それに付随する要素は余りにも多く、特定の理由ではない可能性すらある。小さな可能性も無数とあれば、大きな可能性と同様に各方面からは扱われるだろう。


 ベルセリカは深い溜息を吐く。白く凍えた吐息が雪風に攫われる。


 感情や心情に惑うリシアだが、世間がそれを斟酌してくれるはずもない。戦争も恋愛も謙譲(けんじょう)を美徳としたところで優位となる事はない。


 結局のところ、悲願を求めるにはあらゆる要素を踏み越えるしかないが、彼ら彼女らにはその要素を見極め、或いは不足を気取るだけの経験に乏しい。


 だが、それすらも若さ故に理解できてはいない。


 そして、皇州同盟軍はこうした将校が多い。


 皇州同盟軍は戦闘教義(ドクトリン)の転換に伴い複数の分野で著しく人材不足を生じさせている為、功績や戦果を上げた者を経歴や年齢、種族に関係なく昇進させていた。当然、領邦軍士官学校での卒業席次も考慮されており、優秀な成績の者は内戦で矢面に立たされた為に生存している者の階級は一様に高い傾向にある。無論、生存している者は少ないが。大多数は信じぬ事であるが、ザムエルもこの例に当て嵌る。


 彼らは一様に若い。


 その弊害は大きなものであった。特に若くして佐官や将官となった低位種に問題がある。


 ヒトを統率するという点……組織を統率するという部分への理解と配慮に欠き、軍事的資質はあるが若さに引き摺られた行動と言動を行う者が少なくない。未だ年若い者であるが故に致し方ないが、ヒトとして未成熟な者が昇進し、規模の大きくなった司令部を統率できない指揮官、全体の勝利より個人の勝利を優先する参謀が生まれるという結果が生じつつある。責任と義務の生じる状況を回避し、友軍や他組織と連携できず、戦果と功績を奪い合う将校の増大は下士官や兵士の士気低下を招く。勇敢なる精神も優れた指揮能力があっても尚、そうした者達は運用し難い。自然と取り得る戦略や戦術に制限が生じる。


 無理が生じているのは、皇州同盟軍が〈第一装甲軍団(Ⅰ.Schutz Wehr-Panzerkorps)〉のみの編制を優先した事からも分かる。十分な練度を持つ兵士が居ても、それに似合うだけの将校が不足するという有様は、部隊編制を著しく妨げた。故にトウカは〈第一装甲軍団〉のみの充足を優先した。


 当然の結果と言えば当然の結果であった。


 北部貴族の領邦軍からの退役者を大多数として抱えた皇州同盟軍だが、領邦軍というのは規模としては複数の大隊や中隊などを抱えて即応性を上げるという編成が通例である。本来の任務が敵野戦軍に対する攻撃ではなく、領地の治安維持である以上、聯隊や師団という規模の戦力単位を維持する事は運用の面からも予算の面からも非効率である。何より、治安維持主体の部隊を率いていた将校に、敵野戦軍と交戦する為の指揮能力が不足しているという点も大きい。


 よって大隊以上の戦力単位(ユニット)の指揮能力を持つ将校は兵士に比して極めて少ない。陸軍を退役し、領邦軍に入隊したエップやアルバーエルという将校も存在するが、その数も限られたものでしかなかった。


 リシアは軍帽を目深に被り直す。気丈な彼女が上官の前で目元を隠すなどとは珍しい。


「これは七武五公と政府の懸念です。詳しくは言えませんが、紫苑色の髪の女性をサクラギ上級大将の隷下に加えておけない、と」


 何と残酷な事かと思わずにはいられない。


 そして、七武五公や政府の懸念を、ベルセリカは愚かに御座ろうと笑い飛ばす事ができないでいた。


 彼ならばやる。それが皇州同盟軍総司令官、サクラギ・トウカ上級大将である。


「そう言えば御主には畏れ多い噂が……いや、詮無い事か」


 事実か否かなどという問い掛けは意味のないものである。


 十分に可能性を窺わせる要素がある。ならば、後はそれを事実として大多数に“錯覚”させるか否かでしかない。


 トウカが野心を持つが故に近づけないのだ。リシアには忸怩たるものがあるだろう。


 彼女は彼のそうした部分にも惹かれている事は容易に想像できる。愛した要素の一部が自身との仲を裂く一助となったとは手痛い皮肉である。気丈なリシアにとっても気落ちせざるを得ないだろう。


「それ故に、ああもトウカの為に動く、か。健気では御座らんか」ベルセリカは笑声を漏らす。


 陸軍での地位などリシアは打ち捨ててでも、トウカの下へ駆け付けたいのだろう。だが、彼女は自身が陸軍の所属となった理由を察してしまった。権力の奥底で蠢く力が作用した瞬間を感じ取ったのかも知れない。政治闘争には必須の要素である。


 最近の階級と立場を気にせずに動いているのは、ある意味、七武五公や政府、そしてその思惑を許容した陸軍に対する当て付けでもあるのだろう。国軍の政治に対する不干渉という建前は既に崩れ、リシアは過去に類似した原因で陸軍士官学校を離れている。


ベルセリカとしては、 願ってもない事である。


 不愉快だと言わんばかりの表情を隠す事すらしないリシア。


 相当に不満なのだろう。狂おしいまでの焦燥が見て取れる。


 陸軍大佐にして〈北方方面軍〉情報参謀という立場は、彼女にとって牢獄なのだ。所詮は立場であるが、共に居る時間が明確なものとなり、職分の交差は共に居る為の方便にして建前となる。恋する乙女にとって、それは大きな大義名分足り得るのだ。


 感情を隠さないリシアは、組織人としての未熟を晒しているに等しい。それでも尚、好意的に見られているのは、紫苑色の髪と生来の気質、マリアベルの下剋上の精神が息付くヴェルテンベルク領邦軍の同胞達がそれを理解しているからである。


 無論、それは稀有な例であり、他の将校はそうではない。


 問題はそれだけではないのだ。


 トウカの隷下で編成しているが故に意外に思われるが、軍事的資質の面でも問題が生じていた。


 皇州同盟軍は大隊指揮官以上の有力な将校が不足している為、内戦で功績や戦果を立てた将校を昇進させてより大きな部隊指揮官として任じている。だが、優秀な小隊長が優秀な中隊長となるとは限らず、有能な中隊長が有能な大隊長となる保証はない。特に連隊以上の部隊は、領邦軍と国軍の主任務の差異からよりそうした部分が顕著に表面化している。編制が酷く立ち遅れている理由の一つである。


 実力以上の職責を与え、不完全な指揮統制で部隊を戦場に投入した為に大被害を蒙る例は各国の軍でも頻繁にある話。急進的に過ぎる昇進の結果、専門知識や実践経験に乏しい儘の将校を生み出した。


 明確に過ぎる信賞必罰を旨とした成果主義が、健全な人事と士気を高める事に繋がるとは限らない。


 華々しい戦果を挙げた指揮官や目立つ主張をした参謀の評価のみが過度に先行し、後方支援などの組織の基礎的な部分を支える者達が昇進し難い状況に陥る。要職は無限と存在する訳ではない。そこに未成熟な精神の指揮官や参謀がいる為、連携や作戦よりも個人の戦果を優先し、戦術や戦略にも影響を及ぼすという悪循環が加わる。後方支援に関わる人材と組織を疎かにした場合、軍の機構が軍事力行使に対して限界に達して以降の瓦解は、斜面を転げ落ちるかの如く進む。危機の際、後方支援能力の規模と質こそが軍事力を良く保全するのだ。


 何よりも問題なのは、戦果や功績を持つ未成熟な将校が、軍を支える基礎的な部分を担う者達を軽く扱い、栄達に於ける好敵手(ライバル)と判断して昇進を押さえ付けに掛かる事である。


 ましてやそこに威勢の良い右翼系義勇軍から参集した者達が加わる現状は、皇州同盟軍の指揮統制を著しく低下させた。


 だからこそ、トウカは憲兵隊の拡充を求めたと言える。


 皇州同盟軍の総兵力は北部の各領邦軍が縮小した事で移籍した者を主体とし、国内各地の右翼系義勇軍の合流、傭兵団の正規雇用、民間からの新規志願兵によって膨張しつつある。


 その数は二三万名を超える。


 その内、戦闘部隊は一八万名だが、トウカが戦力と認めたのはヴェルテンベルク軍管区の〈第一装甲軍団(Ⅰ. Schutz Wehr –Panzerkorps)〉のみである。これは〈第一武装親衛軍装甲師団『親衛部隊サクラギ・トウカ』(SW-Panzer-Division Leibstandarte SW Toka Sakuragi)〉を含めた三個装甲師団からなる部隊で後方支援を含めて四万名近い人員を有している。


 よって残存の戦闘部隊、約一三万名は未だ戦力化の目途が立っていない。各種演習を繰り返し、講習や講義によって知識と経験を埋め合わせているという段階であった。


 無論、ベルセリカは適当なばら撒き人事で役職(ポスト)を埋めて戦力化するという真似をしないトウカの決断を支持していた。


 何もかもが問題を孕んでいる。軍組織も政治情勢も人間関係も。


 ベルセリカは軍帽を取り、リシアへと身体諸共に向き直る。


 相対する二人。


「ならばひとつ。あれに枷を付ける任務を御主に与えてやろう」


 リシアの表情は好転しない。


 思案するまでもないと言わんばかりに。


「お待ちください、ヴァルトハイム卿。それでは貴女の立場も危うくなります。それに、私が〈北方方面軍〉情報参謀となったのは相手の妥協もあってのこと。他地方への転出となれば今以上に状況が悪化します」


 成程、筋は問通っている様に見える。


 だが、甘い。


 ベルセリカも立場など気にしないし、そもそもフローズ=ヴィトニル公フェンリスとは既に敵対関係にあると言っても過言ではない。リシアはベルセリカが善意でトウカへ近付けようとでも考えているのだろう。


 普段は強引だが、恋に於いては不器用なまでに真っ直ぐなリシアを、ベルセリカは好ましく思えた。


 或いは、嘗ての自身も周囲にはそう見えたのやも知れないとベルセリカは微笑む。


 そして、封緘された命令書を投げて渡す。


 リシアは、それを乱雑に破いて封を切る、その中の非公式な命令書に目を通す。


「これは……こんなことは、でも確実性を期すなら……」


 紫苑色の髪の少女の化物を見るかのような視線に、剣聖は目一杯の卑しい笑みを湛えて応じる。


「それを成せば最早、トウカはお御主を軽んじる事もあるまい」


「……同情を引け、と?」


「ヒトの生は一度きり、今に成さねば手に入れる事は叶わぬで御座ろうに」


 リシアが逡巡を見せる。


 マリアベルと同様に、迷いを見せる事が失点であるという強迫観念を持つリシアが、ベルセリカを前にして明確な返答をしかねていた。


 ――国民(くにたみ)に銃口を向けんとする。正に外道では御座らんか。


「総ての責任は某が取る。某はこの命令に首を賭ける。御主はその純情を賭けよ」


 大多数を護るべく、少数を進んで犠牲にする。


 国家主義的観点からすれば正しいが、世論と倫理からは大きく外れている。


 そう、避難を拒む臣民を無理矢理避難せざるを得ない状況に追い込む為、帝国軍の軍装を纏いて擬装した部隊で襲撃するなど、皇軍には赦されざる事だ。


「この汚れ仕事を成したあと、こう言ってやるが良いで御座ろう」


 この一手だけは、トウカに決断させてはいけない。


 民族自決の権利云々とトウカは、当人達の自由意思に任せる選択をしたが、見殺しにしたという悪評を以て非難をする政敵が必ず現れるだろう。或いは、トウカもそうした風評を受け流す手段として考えたかも知れない。


 だが、できなかったのだ。


 露呈した際の不利益が致命傷になり得るが故に。


 故に剣聖がその罪を被るのだ。そこには、紫苑色の髪の少女を正面から罵倒する政敵もいないだろうという打算もある。



「私は貴方の為に煉獄へ堕ちます、との」



 きっと、トウカはリシアを離さなくなるだろう。心情的にも。そして政治的にも。縛り付けねばならなくなる。


 ――不器用で済まぬな。


 それは誰への懺悔か。


 歴史は総てを飲み込み、無数の運命を流転させていく。









「魚雷と水雷艇の量産? この忙しい時期に? 本気?」ヘルミーネは眉を顰める。


 平時ならば兎も角、この各種装甲兵器と火砲、魔導車輛の量産とその製造工程の構築を並行している状況下での発言としては不見識極まるものがある。ましてや航空騎の各種装備や航空母艦、巡洋戦艦、機動巡洋艦、防空駆逐艦などを皇州同盟軍工兵司令部まで巻き込んでまで生産している最中での発言とは思えない。今から大量の労働者を受け入れたとしても、彼らが各工廠や造船所で“戦力”として数えられるには些かの時間が必要となる。雇い入れてすぐさま労働力として当てにできるなどと勘違いするのは無能な管理職程度のものであった。


 対照的に、ヘルミーネの軍需に関わる職務は一時と比して大きく減少している。


 皇州同盟軍工兵司令部とその隷下の工兵部隊の活躍に依るところであるが、ヘルミーネが手隙きになったからと言って労働力に余剰が生じる訳ではない。


「貴方が機密事項に指定した兵器は、これ以上の量産速度の向上は見込めない」


「其方は構わない。君に望むのは新型の水雷艇の設計だ」


 トウカが仕様書をヘルミーネの前へと投げて寄越す。


 仕様書を見てみれば、速力五〇kt以上、基準排水量二二〇t以下、四〇mm連装機関砲一基、六一cm魚雷発射管四基、一〇連装噴進弾発射機(ネーベルヴェルファー)二基を基本的な能力とした水雷艇である。水雷艇は魚雷発射管が二基、二発である事が多いが、仕様書ではそれを倍増させて欲しいとのことであった。一〇連装噴進弾発射機(ネーベルヴェルファー)二基という対地兵装の搭載は珍しいが、基準排水量を考えれば保守的ですらある仕様であった。


 曖昧な仕様書である。


 それ以外の細かな設計仕様がない。


 これらの点を押さえられるならば船体形状なども気にしないという事かも知れない。


 しかし、最後の一文にヘルミーネは眉を跳ね上げる。


「最低でも三〇〇隻、短期間で建造できる規格化された構造の採用……小型艦での積木(ブロック)構造の採用例はない。だから検証が必要……でも流石に数が」


「小型艇だ。だからこそ国内各地の工廠でも量産できる。いや、造船所である必要もない。内陸で分割製造し、車輛牽引で軍港へ輸送してから組み立てる事も可能だろう。どうだ? 面白いだろう? これは後に国史に載るぞ?」


 大日連では忌々し教育現場を壟断する者達の蠢動で社会科と言うが、こちらではせめて北部地域だけでも国史と呼び、歴史を重視する教育制度を成立させるのだ。歴史を知らぬ者が国政に対して意識を向けるという悪夢は断じて避けねばならない。


 などとトウカの思考が横道に逸れている事など、ヘルミーネは知る由もない。寧ろ、口元に蒼月魚の刺身を箸で押し付けられてそれどころではなかった。


 狼は肉しか食わない。それがヘルミーネの持論である。野菜と魚介類を食べるのは駄犬に他ならない。


「狼は肉しか食べない。それは置いておくとして……民間での生産も考えている?」


 刺身盛りの大皿を横に除け、ヘルミーネは爛々とした瞳で仕様書を着物の胸元へと差し込むと、トウカに訊ねる。


 トウカは鷹揚に頷く。


 今迄の兵器生産とは思えない程に大量生産を意識した艦艇の設計。建造方式も踏まえれば、確かに独創性から建造史の一幕となるかも知れない。


 その影響は兵器生産だけに留まらないだろう。


 工業分野の生産数増大の基礎技術となる大量生産方式の祖となるかも知れない。


 貴族の家出娘が国史に名を残すという喜劇。


 良い。凄く良い。


 今なら眼前の年若い独裁者に処女を散らされても良いと思う程の高揚感に、ヘルミーネは陶器製のシュタイン(麦酒碗の一種)の親指釦(ボタン)を押して蝶番蓋を開けると一息に飲み干す。葡萄酒(ワイン)が好みのヘルミーネだが、気分が高揚している際はこの様に白麦酒(ヴァイツェン)をぞんざいに流し込むのも悪くないと微笑む。


「笑うと可愛いじゃないか。いつもそうしていれば男共が放っておかないだろう」


 シュタインの蓋をぱかぱかと興味深げに開閉しながら、トウカは然して考えた風でもなくそんな言葉を口にする。こうして無意識に感じた印象を口にするのは宴席では避けた方が良い。免疫のない貴族令嬢が引っ掛かりかねない。特に普段が強権的な人物であれば尚更である。


 ――注意はしないけど。


 混乱を望むのは若者の特権であると、ヘルミーネは信じて疑わない。


 無論、人類が望み得る最大規模の混乱たる戦争に手を貸しているからこその理論である。若さ故に戦争を望むのだ。歳経た者達は危険性を排除した手段を選択し続けるが故に。どちらが正しいかは状況次第。


「その蓋は、羽虫が入らない様に付けられている。勿論、羽虫なんて夏場くらいだけど」


「ふむ……流石に魔術で塞ぐ真似はしないか」


 トウカの魔術に対する無理解を、ヘルミーネは笑わない。


 そうした環境で生活していたと思える言動が節々に目立つが、だからこその着眼点である。一点物(オーダメイド)に固執する傾向が皇国の風潮となっているのは、魔導優位主義とも言える主義によるものであろうが、トウカの量に対する偏執的なまでの固執は皇国のあらゆる分野に影響を及ぼすだろう。魔導分野も例外ではない。


 高品質な一点物(オーダメイド)を職人の手で作り上げるのではなく、高品質な量産品(レディメイド)工程(ライン)生産方式(流れ作業)で大量生産するという考え方を叩き付けたのだ。


 それも独立性と機密性が高く、高価高性能が当然の様に罷り通る大型兵器で実施した影響は大きい。魔導車輛製造企業による軍需工廠の生産工程視察なども増えていた。


 ――彼に付いていけば、皇国は新時代を見ることができるかも。


 でも、きっとそれは血塗れの新時代だろう。


 美しくも華々しい、流血と悲劇で彩られた新時代。


 己の欲望と、屍山血河を築き上げるという忌避感が胸中を鬩ぎ合う。


 最近は血の滴る肉に対して、嘗ての様な食欲が湧かない。机上に用意された肉料理を切り分ける対面のトウカの食欲は変わらないが、彼もまた軍人として残酷な戦野を知るはずなのだ。ヘルミーネの設計した戦車は榴弾で敵兵を肉片に変え、履帯は敵兵を赤い絨毯とした。写真越しであってもその悲惨な光景はヘルミーネの脳裡に焼き付いている。


 必要ではあったが、嬉々として不幸を振り撒くトウカの姿に疑問を覚えもいた。


 皆がトウカの可能性に流される中、ヘルミーネだけは最後の一線を守っていた。作り上げた兵器がどの様に活躍し、そして将兵を死に追い遣っているかという報告書を軍に求め続けている。


「名前は? 海軍の水雷艇は番号だけで味気ない」


 量産艦とは言え、番号が割り振られるだけでは虚しいものがある。ましてや生産方式から国史に載るというのであれば、確たる名称があるのが好ましい。


 トウカが思案の表情と共に白麦酒(ヴァイツェン)を啜る。


 軍艦と言うのは組織によって艦種毎の命名基準が定められている。皇国では主力艦は大都市や偉人名などとなっており、巡洋艦や駆逐艦は中小都市や武勇に優れた軍人、河川や峡谷などの地名が与えられていた。


「……〈ヘルミーネ〉型水雷艇だな。艇の命名基準は皇国古来よりの女性名とする事にしよう」


 何を言っているのだ。


 だが、トウカとしても切実な問題があった。戦時量産艇としての側面を持つ兵器に名付けるだけの数を持つ命名基準などそうはない。最低でも三〇〇という事は少なくとも、それだけの数の名が必要となるのだ。固有名詞の後に番号を割り振れば容易いが、可能な限り乗員に愛着の持てる名称が好ましい。長射程の酸素魚雷の搭載が前提となっているとは言え、水雷艇の宿命として敵艦隊に肉薄せねばならない以上、乗員には勇敢さが求められる。戦意を保つ配慮には万全を期さねばならない。


 だが、ヘルミーネからすれば迷惑極まりない話である。


「私の名でなくとも、貴方の仔狐の名前を付けると良いはず」


「神州国系の天狐族女性名は予定されている新鋭の艦隊型駆逐艦の名前にする心算だ」


 トウカは、先代ヴェルテンベルク伯の名も使用予定がある、と苦笑する。


 皇国は大日連と違い人名を艦艇に付ける事に否定的ではない為、トウカは積極的に人名を艦艇に名付けていた。本来であれば、皇州同盟軍、連合艦隊司令部が命名すべきところであるが、武勇に優れた人物が命名する事で乗員の士気向上が望めるという建前の下に押し付けられていた。無論、トウカがその役目を是とした理由が、建造中の巡洋戦艦の一番艦(ネームシップ)に自身の名字が採用されようとしていた事を阻止する為であったことは疑いない。


 ――〈軍神サクラギ〉型巡洋戦艦……〈剣聖ヴァルトハイム〉型戦艦は、ヴァルトハイム卿が斃れたものであるという前提で命名されたけど、トウカは生きながらにして艦名となろうとしていた。


 その意味は大きい。


 彼を英雄視する風潮が北部に於いて大多数となり、異論を封殺する程の権威を有し始めたのだ。独り歩きを始めた権威は徐々に広がり、強靭でいて排他性を増し続けるだろう。


 いつか、トウカが決定的な過ちを犯し、総てを喪う、その日、その時、その瞬間まで。


 彼はそれに気付いていない。


 軍神の名を付ければその艦は不沈艦となり得るだろうという意見に対し、トウカは、艦名が艦の性能に影響する訳ではないと否定した逸話は余りにも有名である。そこで自らの名を冠した戦闘艦が撃沈された場合、戦意が低下すると忌避しなかった事からも、トウカ自身がそのある種の権威が醸成されつつあることを理解していないと察する事ができる。


 詮無い事。


 彼が酷く現実的な思考をしている事を今は喜ぶべきだろうと、ヘルミーネは頷く。


「好きにして」


 ヘルミーネの主たる興味は研究開発にこそあるのだ。

 





 

自らの安全を自らの力によって守る意思を持たない場合、いかなる国家といえども、独立と平和を期待することはできない。なぜなら、自らを守るという力量によらずに、運によってのみ頼るということになるからである。


 人々の嫉妬心が、善きことをしていれば自然に消えていくなどとは、願ってはならない。邪悪な心は、どれほどに贈り物をしようとも、変心してくれるものではないからだ。


 君主たるもの、新たに君主になったものはなおさら、国を守りきるためには徳を全うできるなどまれだということを、頭に叩き込んでおく必要がある。


 場合によっては、人を屈服させるのに、非情で暴力的な行為よりも温情に満ちた人間的扱いのほうが有効であることがある。歴史上、軍事力ではおとせなかった都市が、攻撃側のとった人間的で寛大な処遇によって城門を開いた例が多いのだ。


 謙譲の美徳をもってすれば相手の尊大さに勝てると信ずる者は、誤りを犯す破目に陥る。


                  《花都(フィレンツェ)共和国》 外交官、ニッコロ・マキャヴェッリ



「国家に真の友人はいない」


 《亜米利加合衆国》国家安全保障問題担当大統領補佐官、国務長官 ヘンリー・アルフレッド・キッシンジャー

 

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