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紫苑穢国のエトランジェ  作者: 葛葉狐
第二章    第一次帝国戦役    《斉紫敗素》

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第一六二話    優しいヒト



「ミユキ……今、言った事の意味を理解しているのか?」


 トウカは怒っていた。大激怒である。


 ぎりぎりと机下で拳を握る。今ならば五百円硬貨すら握り潰せそうな気がした。この世界には、幸いな事に五百円硬貨はないが。


「私が主様の副官になりますっ! 主様はやっぱり私が見ていないと駄目だもん!」


 (むく)れるミユキだが、今回ばかりはその言葉を受け入れる訳にはいかなかった。戦場から恋人を遠ざけたいという考えは至極当然でいて、そもそもミユキは軍人ですらない。リシアやエイゼンタールの様に士官学校で正規の訓練と座学を何年も受け、確たる戦う意志を立脚点に絶望と残酷な現実に立ち向かう心を持つ者ならば兎も角、現在のミユキは民間人に過ぎない。


「それは軍の指揮系統上、好ましくないので難しい。分かってくれ、ミユキ。俺は御前を危険に晒したくはないし、軍人ともなれば場合によっては厳しい態度を取らねばならなくなる」


 以前にもミユキは軍務を望んだ事があり、その際は情報部で適度に事務仕事をさせて満足させ丸く収めた。無論、軍属としただけで正規の軍人としての籍は決して与えなかった。軍人は敗戦した場合、どの様な立場に置かれるか相手の意思に酷く左右される為、トウカは断固としてそれを突っ撥ねた。エルシア沖海戦後の衛生魔導士による治療を手伝った際、大いに活躍した事から魔導資質に目を付けたヴェルテンベルク領邦軍衛生科よりの従軍要請が打診されていたが、それを手元で握り潰した事も、今回は何故かミユキに露呈している。


 そして、マリアベルとの関係にまで言及されると、トウカは不利な状況に追い込まれる。


「主様は私が見てないと女性にだらしないじゃないですか! なんか最近は疲れた顔してますし……普通は副官が必要なのに居ないって聞いてるし……」ミユキの言葉は徐々に尻すぼみになる。


 咄嗟に執務机上の立て鏡へ視線を巡らせると、そこには不機嫌な表情の上に眉を顰めた姿の自身が映し出されていた。眼窩の影が以前より色濃くなった為か眼光の鋭さは増し、髭さえあったならば何処かの宿将に見劣りしないのではないかとすら思える。


 成程、ミユキが怯える訳である。


 傍目から見れば妻に女性関係を言い寄られた夫が、不貞腐れるか、或いは開き直っている光景に、皇州同盟軍司令部の同僚達は一様に目を逸らすばかりである。


 エップは書類に視線を落としたままに微動だにせず、ラムケはウィシュケを嗜みながら丸眼鏡を通してトウカとミユキの遣り取りを肴にしている。ディスターベルクに関しては扇子で顔を隠し、他の参謀の面々は難しい顔で視線を逸らして戦術談議をしていた。フルンツベルクに限っては部屋の隅に並べた椅子の上で爆睡している。


 窮地に駆け付ける友軍はいない様である。というよりも真面目に軍務をして欲しいものである。皇州同盟に問題児と要注意人物が集まっているという風評を補強してどうするのか。


 トウカは目頭を押さえ、どうしたものかと思案する。



 そこに救いの天使……極右軍人が現れた。



「閣下! 宜しいではありませんかッ! 男足るもの女の我儘を聞いてこそ!」


 裏切り者であった。 


 腹の底からの朗らかな声にトウカは顔を顰めつつ、その大層立派な敬礼をした中年男性へと視線を巡らせる。



 アルフレート・シュナイトフーバー。



 義烈将校団の代表を務めている陸軍大尉であったシュナイトフーバーは、義烈将校団に所属している大多数の陸海軍将校を引き連れて皇州同盟の旗の下に馳せ参じた。極右団体最先鋒と言われる義烈将校団が加わる事で、右翼系団体が次々と皇州同盟に参加して一層の規模拡大が現状では進みつつある。ヴェルテンベルク領では、戦後の消費の落ち込みが右翼団体の流入によって相殺されるという歓迎するべきか警戒すべきか判断に迷う事態すら起きていた。彼らの主要構成員は退役軍人などである為、宵越しの金は持たねぇという性格の者が多く、少なくとも消費者という意味では大いに頼もしい存在であった。国家より退役軍人に支払われる軍人恩給が北部で消費される事を歓迎すべきであるが、粗暴な彼らによって引き起こされる諸問題も捨て置けない。


 愛国心とはならず者達の最後の避難所であるという言葉が似合うシュナイトフーバーは、中年とは思えない引き締まった長身の身体で、執務机越しにトウカの前に立つ。


 皇国人男性の平均身長と比して低いトウカとしては、自らが座っている事もあって見下ろされている気がして不愉快な気分となるものの、ミユキをこれ以上怖がらせる訳にもいかない。


 トウカは溜息を一つ。


 愛国者は何時だって人の話を聞かない。


 《大日連》も《ヴァリスヘイム皇国》も、その点だけは同様であった。愛国を語るならば、何も言わずに国防の最前線であるエルライン要塞守備隊に志願すればいい。それをしない時点で、トウカからすると彼らの主張する愛国心とやらは随分と程度の低いものである。無論、扱き使っても愛国の為と軍務に耐える愛国者は兵士として使い易い存在であるが、将校や将官とするには不安が付き纏う。武装蜂起の温床となりかねない。


無論、シュナイトフーバーに関しては、少なくとも前線への志願を厭わない程度の愛国心を持つ為に尚更、扱い難いが。


 祖国を愛する心と、軍事的妥当性を語る事は別であるが、大抵の愛国者はそれを理解していない。軍事的妥当性ではなく、歴史的経緯や民族問題、経済格差、外交的不平等などで軍事行動を語るのだ。立脚点とするのは宜しいが、それが軍事的妥当性を曲げるのは許されない。


 有象無象に、愛国心を語るならば国防の最前線に立てと怒鳴り散らし掛けて、ハイドリヒ中佐に割って入られた事は一度や二度ではない。中身のない勇ましい言葉を聞くのは不愉快だが、ヒトの色恋沙汰に口を挟まれるのは更に不愉快である。


「いいだろう……ミユキ、貴官の皇州同盟軍への入隊を認め、俺の副官任務に就ける。書類は此方で用意する。今日のところは帰ってくれ。……エイゼンタール少佐!」


 どうせいるのだろうと、エイゼンタール少佐を呼ぶ。


 まさか情報部の差し金ではないだろうな、という意味合いも含めた大音声に、エイゼンタールがキュルテンを伴って現れた。執務机の下から。


「御呼びにより罷り越しまして御座います」


 素早く敬礼して直立不動の体勢を取るエイゼンタールとキュルテン。


 エイゼンタールは相変わらずの刀傷のある顔で無表情。キュルテンはその斜め後ろで直立不動ながらも我関せずという雰囲気をこれでもかと小さな身体から放出している。


「貴官ら……いや、カナリス中将ではないのか。ロンメル子爵をお送りせよ。護衛の任も継続だ」


 或いは、ミユキが副官を望むという流れはカナリスが目論んだのではないかと考えるが、その意図が見えない。


 皇州同盟軍情報部としてロンメル領邦軍から転籍した彼女らは、ミユキの指揮下から離れたものの護衛任務は継続されていた。実力のある女性軍人でいて、防諜活動にも長けた者となれば簡単に選出するのは難しい。留任は自然な流れと言える。無論、ミユキの意見に流されるようであれば配置変更も已む無しだが、今回は画策した者が別に存在するはずである。ミユキが幾つもの情報を用いるという時点で、誰の入れ知恵であるかは大体、想像ができた。


「承知しました。……さ、ロンメル子爵。こちらへ」


「うん……あ、軍服って改造もできるんだよね。後で(あつら)えに行こうね、エルスちゃん」


 エイゼンタールの言葉に、ミユキが思い出したかの様に呟く。


 咄嗟に退避行動を取ろうとしたキュルテンを羽交い絞めにしたミユキは、何時も以上に尻尾を揺らしながら退出していく。


 シュナイトフーバーは意味もなく頻りに頷いていた。


 これぞ軍人の恋とでも思っているのかも知れない。愛国者は基本的に固定観念を持っている事が多いが、シュナイトフーバーは色恋に対して男が気概を見せるべきだという考えを持っているのだろう。軍事にまでそうした部分を持ち込むのはいただけないが、そこだけは認めてやらないでもない。


「シュナイトフーバー大尉……少し鍛練に行こうか?」


 こうした時は身体を動かすに限る。


 まぁ、そのくらいで見逃してやる。


 翌日、医療部の寝台の上で呻くシュナイトフーバーの姿があったとか……










「ヴァルトハイム北方方面軍司令官ですか。良い響きです」


「止すが良い。こそばゆく御座ろう」


 トウカは、頬を掻くベルセリカに小さく微笑む。


 国家の為に戦い、喪い続けた騎士が立場と名誉を得て報われる機会が来た。これ程に名誉な事はなく、当人がそれを名誉だと感じていない点が何よりも好ましい。最近のトウカは胡散臭い愛国者を相手にし続けていたので、ベルセリカがこれ以上ない程に至誠の人であり、無私の人に見えた。


 トウカのベルセリカに対する評価は、総ての時を止めたヒトというものである。


 愛する主君を喪い、祖国を護ることが叶ったベルセリカは、トウカに自らが持ち得る最後の夢を託した。


 あらゆる種族の平等。


 実は、トウカも厳密にその意味を理解している訳ではない。


 だが、種族間の婚姻や恋愛を暗黙の了解を越えて行える様にという道筋を立てる事だと、大まかには認識していた。一応は法的に種族間の恋愛も許容されているが、皇国には暗黙の了解とでも言うべき認識が種族間……特に高位種と低位種の恋愛を忌避する風潮が形成されている。長大な歴史を紡いだ国家であるが故に凝り固まった概念は容易に払拭できるものではない。しかし、トウカは短期間で圧倒的なまでの武勇を示し、強力な武装勢力を築き上げつつある。ミユキを娶る事に対する風当たりも正面から迎え撃つ腹心算であった。無論、父狐諸共である。


「佳き状況で御座ろうが……まぁ、余り神経質にならぬ事だ」


「…………気遣い感謝する」


 ――いやいやいや、有り得ないだろう。


 ベルセリカがそうした心配をしてくれるのは純粋に好ましく感じるが、ミユキが副官になりたいと騒ぎ始めた一件が彼女によって引き起こされたのではないかと考えていた。無論、マイカゼと連携した上であったのは想像に難くない。北方方面軍司令官であるベルセリカが、ミユキの皇州同盟への所属と副官の就任を強く後押しした事からもそれは窺えるが、マイカゼも天狐族の地位を皇州同盟軍司令官の副官という立場を得ることで補強しつつ、トウカの行動と言動に一定の枷を付けようという腹心算であると容易に推測できる。


 問題は、どちらの発案によってそれが実行されたかである。


 ベルセリカが強く後押しした事からベルセリカであるように思えるが、言動だけを見ればマイカゼがトウカの軍事力を背景とした勢力拡大に対して掣肘を加えようとしている様にも見える。


 トウカは政治や軍事に、ミユキをこれ以上巻き込んで欲しくはないと考え、深い溜息と共に弾火薬箱に頬杖を突く。


「それで? どちらの思惑で?」


 迂遠には聞かない。そして、それだけで事足りる。


 ベルセリカは苦笑する。


 つまりは、トウカの想像通りなのだろう。


「マイカゼの思惑ぞ。であるがの、(それがし)にとり有効であると言われたのであるが……分かって御座ろう?」


 ベルセリカは軍装の上に羽織った陣羽織を翻し、トウカに背を向ける。


 一望できるシュットガルト湖は戦火の影は見受けられない。軍港付近であれば撃沈された艦艇が骸を晒し、吹き飛ばされた対空陣地や湾岸設備が市街地の復興を優先している為に野晒のまま放置されている。


 しかし、シュットガルト湖は戦域にならなかった事もあり、然したる浮遊物は見受けられない。透き通るような湖面は浅瀬であれば湖底が窺える程に透明度が高く、トウカはベルセリカの横に立つ。



 二人は、新造潜水艦である〈Uー501 ゼーヴォルフ〉の艦上……前甲板にいた。



 水中排水量三四八〇tという、トウカの知る第二次世界大戦型潜水艦としては大型巡洋潜水艦に位置する規模の〈Uー501 ゼーヴォルフ〉は、武装も魚雷発射管一〇基(艦首八基、艦尾二基)、搭載魚雷二八本、五〇口径一五cm単装砲一門、四〇mm連装機銃一基、更には航空艤装も司令塔前部に航空騎格納筒が設置され、前甲板には射出機が装備されている。


 大型潜水艦に強力な雷撃能力、そして航空騎の運用能力を付与した上に、機関出力もトウカの知るヴァルター機関に準ずるものがある。問題は渡洋能力……作戦期間の短さにあった。


 二〇日。


 せめて排水量に似合うだけの作戦期間……三倍は欲しいが、考えてみれば潜水艦乗員として育成された訳ではなく、限定空間内での劣悪な環境下で長期間生活するのに耐えられない事も致し方ない。乗員は機関が魔導機関である事から、トウカの想像を越えて乗員が四六名という少数に抑え込む事に成功したにも関わらずである。一人あたりが占有できる面積が増え、寝台も一人一つあるので大丈夫だと見ていたトウカとしては大きな誤算であった。運用や構造をある程度理解していても、トウカは潜水艦という兵器を扱う者について詳しく理解していなかった。


 基本構造は理解していた。

 有効戦術も理解していた。


 だが、乗員の所感までは理解していなかった。


 劣悪であるとは知っていたが、耐えられない程であるとは見ていなかったのだ。兵装試験の為、各種武装を満載した事で、第二次世界大戦中に強力な機関とされたヴァルター機関の出力を実現しつつも水中速力は五ktまで低下している。試験艦なのだ。他にも研究者の発案による装備や構造などもあり、運用には不便が付き纏うとは想定されていた。


 だが、問題は別にあったのだ。


 ――まさか尻尾が蒸れて不平を零し、保存食ばかりが嫌だと浮上するとは思わなかった。食糧事情が恵まれすぎている弊害だな。


 本土防衛を主体としているが故に、士気を左右する食糧すらも兵器という扱いをしている皇国軍の食に対する拘りは病的と言っても過言ではない。種族的な好みの違いや魔導資質が精神に引き摺られるからこそ食糧に拘りを見せる皇国軍だが、最たる理由は地方によって風土の違いが大きいという地政学的理由からであった。


「人間種の若者と天狐族の姫君が戦野でも仲良く並んでいる姿を見せつけたい訳か」


 肩を竦めて見せたトウカに、ベルセリカは苦笑するだけである。


 種族間の垣根を越えた婚約を皮切りに、皇国内に根付いた種族間の流動性の欠如を改善……つまりは婚約を忌避する風潮の打破にある。トウカとミユキの仲を積極的に宣伝する事で後に続く者を期待しての事だろう。


 トウカの恋愛は権力者に利用される運命にあるらしい。


 母狐に愛国者。そして剣聖。


 人の恋路を邪魔する奴は、馬に蹴られて死んでしまえという慣用句が大日連にはあるが、残念ながらトウカの恋愛に口を挟む面々は馬に蹴られた程度で死んでしまうような面々ではない。寧ろ、ベルセリカなどは自慢の斬馬刀で馬刺しにしてしまいかねない。部位毎に綺麗に切り分けるくらいはして見せるだろう。


「なに、御主は副官を可愛がりながら総司令部で書類仕事をしておればよい」


「帝国がエルライン要塞を突破した場合、俺も戦野に赴かねばならなくなるのですがね。参謀と言えど、立場が立場なもので」


 ベルセリカの楽しげな言葉に、トウカは憮然とした表情で応じる。


 そう、最大の懸念は、ミユキを戦野に連れて行かねばならないという事実である。


 正直なところ帝国軍が脅威であると大多数の人間は考えているが、トウカは会戦に近い戦略を取り続けている帝国が相手であれば、陸海軍と皇州同盟軍を統合して当たれば撃破する事は比較的容易であると考えていた。


 しかし、北部地域に途方もない犠牲が生じ、統合した司令部を設立できるかという懸念がある。神州国の動向もまた無視できない。


 否、そんな事は何とでもなる。犠牲に目を瞑ればであるが。


 少なくとも本土に踏み込んできた敵軍の戦力を致命的なまでに削り、再度の侵攻を行わせない様に戦略を展開せねばならない。


 問題は、あの残酷な戦場をミユキの目に晒さねばならないという事である。


 火力主義と浸透戦術、航空攻撃……トウカが齎した新たな技術と戦術は、戦場をより惨たらしい屠殺場へと変えた。戦場などという言葉は物は言い様で、実情として国家に飼われたヒトという家畜を効率的に屠殺する効率的な処刑場となりつつある。


 ミユキが現実を知る必要などないのだ。


 仔狐の箱庭を作り出す為、皇国北部に平穏を齎す必要があった。だからこその皇州同盟と言えるが、総てに於いて時間が不足している。


 つまり時間を捻出せねばならない。


 エルライン要塞の持久力に頼んだ時間の捻出だけでは足りない。


 陸軍は北部の要衝で陣地設営を開始しているが、兵力に優れる帝国軍を相手に迂回可能な地形で陣地防禦という選択肢はトウカからすると最善とは言い難い。相手の補給能力の限界まで持久するという方針は間違いではないが、膨大な戦傷者が出る事は間違いない。神州国や周辺諸国の動向を踏まえると、これ以上の戦力低下は可能な限り低減させねばならなかった。


「北部は護り切れまい。負け戦に連れていきたくはないということで御座ろう?」


「……やはり、セリカさんの目から見ても護り切れないか。最終的には奪い返すがが、一時的な失陥は免れないだろう。寧ろ、下手に抗戦すると焦土になりかねない」


 セリカさんは話が早くて助かる、とトウカは苦笑する。


 無論、五〇〇年以上も厭離穢土を決め込んだベルセリカが近代戦を完全に理解しているとは言い難く、それ故に北方方面軍には優秀な参謀がかなりの規模で配置されている。


 だが、それはベルセリカに能力がないという事を意味しない。


 ベルセリカは戦機を捉えるに聡い。狼として、或いは武人としての直感か戦局に関する部分を感じ取り、決断する能力に長けてもいる。参謀に恵まれているならば、十分に活躍できるだろう。


 詰まるところ、ベルセリカという女性は有能なのだ。困った事にトウカの思惑に気付く程度には。


「北部全体を利用した縦深防御作戦を、皇州同盟軍総司令官サクラギ・トウカとして、北方方面軍司令官ベルセリカ・ヴァルトハイム元帥に提案します」


 ミユキの一件は、取り敢えずは置いておくしかないが、この点に関しては議論の先延ばしを行う事はできない。


 北部を戦場にする。


 嘗て北部を護持した英雄に、北部を失陥する事を前提とした作戦を提案せねばならないとは、大層な歴史の皮肉である。


 実はこの一件に関しては、北方方面軍と皇州同盟軍の参謀から少なからず出ていた提案である。旧北部統合軍が行った戦線を縮小しながらも征伐軍に打撃を与え続けた戦略も、本質的には縦深防御に近い作戦であった。それに近い戦略を帝国軍相手に展開しようという提案は決して間違ったものではない。


 だが、この提案を北方方面軍の参謀達はベルセリカに提案できなかった。


 さて、この点をヴァルトハイム元帥閣下にお伝えする?


 そう参謀達で顔を突き合わせたが、当然ながら志願する者など一人もいない。嘗て北部を護る為に多くを喪った英雄に、もう一度それを成すべきだという進言をできる胆力を持つ者がいなかったのだ。職を(クビ)になるならば救いようがあるが、場合によってはその場で自らの首が物理的に飛びかねないという彼らの懸念と恐怖は理解できないでもない。


 そこで泣き付かれたのがトウカなのだ。


 陸軍府長官であるファーレンハイトに泣き付かなかった事は褒めてやらないでもないが、北方方面軍と皇州同盟軍の参謀達が勝手に相談した挙句に満場一致で自身に丸投げした点がトウカには気に入らない。北方方面軍と皇州同盟軍は、任務と成立目的が重なっている部分が多い事もあって連携するに難があるのではないかという懸念がトウカにはあったのだ。どうも帝国軍に対する危機感が両軍の仲を深いものとした様であるが、トウカの心配と、懇談の為に宴席を用意する費用は、一体何だったのかと思わざるを得ない。全く以て取り越し苦労であった。


「民はなんとする?」ベルセリカの瞳がトウカを見据える。


 透徹された翡翠色の瞳は深淵を覗き込んだと錯覚するかの様に深く、そして感情を窺わせない。トウカの一言で、その瞳はどの様な色にも染まり、どの様な感情をも発露させ得るだろう。


「基本的には皇国中部……安全な銃後に移動させます。仮設住宅や食糧などの負担は全て政府と中央貴族に押し付ける事になるかと。北部の民は帝国との戦いで最前線を担う地域に住み続けます。それらを見捨てるというのであれば……皇国の国威は致命的な程に損なわれるでしょう」


 そう脅し掛けて認めさせる。


 膨大な資金を喪うが、考えてみれば双方に大きな利点があるのだ。


 中央貴族や政府は北部貴族との関係改善を望んでおり、非常時に多数の北部の避難民を受け入れたとなれば、融和の一手としては極めて有効と言える。個人的交流と経済的交流が生じれば相互理解が深まり、安易に敵対的な言動をする北部臣民も減少するはずで、彼らが北部へと舞い戻った後、中央に好意的な存在として無視し得ない規模として存在し続ける事になるのは疑いない。


 無論、一番の理由は中央貴族の資金力を削ぐという理由からの提案である。


 初代天帝陛下の御世から大層御立派な人道主義を提唱し続けていた忠誠心に篤い中央貴族の方々であれば無礙にはできないはずである。実に麗しい友愛の精神を天下に知らしめていただきたいものであると、トウカは考えていた。彼らが大日連の売国宇宙人政治家とは違うところを、是非とも身銭を切って見せて貰いたいものだとすら思っている。


「もし、政府と中央貴族が認めねば何とする?」


 それを聞くか、とトウカはベルセリカという女性の、これ以上ない程に本質を突く性格を羨んだ。


 多数の北部の臣民をエルライン要塞が突破されるまでに避難させることが可能なのか?


 政府と中央貴族が何百万人と膨らむであろう避難民を受け入れることが可能なのか?


 多数の避難民を可及的速やかに移送する手段と、それを指揮することは可能なのか?


 大凡は参謀達によって策定されているが、不確定要素は余りにも多く、トウカはそれの補助に皇州同盟軍と中央貴族の各領邦軍を充てる事を考えていた。彼らも人道支援となれば自尊心が満たされて満足する。何よりも中央貴族の各領邦軍が喜んで拘束されてくれるという点が好ましい。元より食糧自給率に優れる皇国ならば食糧の備蓄は十分であり、それを放出させればいい。


 輸送手段はベルゲン近郊に征伐軍が敷設した軽便鉄道があり、ヴェルテンベルク領邦軍が前線に機動列車砲を展開する為に敷設した軍用路線もある。そして、輸送だけならばあるだけの大型航空騎を皇国中から集結させればよい。クロウ=クルワッハ公が何千騎と集結させ得る事ができた以上、中央貴族と政府が号令を掛ければ万に届こうかという騎数を揃えるのは難しくないと踏んでいた。


 トウカは、それらについての言葉を返答として携えていたが、ベルセリカはそれ以上に最悪の場合への対処方法をトウカに訊ねているのだ。


 中央貴族は貴族院にも多くの議員を輩出している。決して無能ではない事は、政治活動や国会の答弁記録を見れば容易に見て取れる。皇国は人気取りだけで政治的才覚のない者が議員となれる国ではない。彼らは間違いなくトウカの意図に気付くだろう。


 よって、拒否する可能性がある。否、拒否せずとも妥協点を探る為に交渉を引き延ばすかも知れない。


 つまり、山下閣下がパーシバル将軍に降伏を求めた際の嘘の逸話の様に、トウカは中央貴族と政府に迫らねばならないのだ。時代が独裁者を求めているなどという愛国者の戯言も、こうなれば冗談とは思えない。自身にばかり恨まれる配役が巡ってくる理不尽に、トウカは皇国人が自らの力で解決せずに面倒事を自身に押し付けている様な錯覚すら抱いていた。


 不満と不信を表に出さず、トウカは曖昧な笑みを浮かべる。


「その為の皇州同盟軍です。中央貴族を討つ為に私が直卒する事になる。無論、中央貴族を討ち果たした後は、皇都を占領して近衛軍を実力で排除、貴女を政府首班とした体制を直ちに成立、陸海軍が迎合しない場合は、帝国軍とエルライン回廊近傍に展開している陸海軍部隊を挟撃する事になります……まぁ、こちらは脅しですが」


 トウカは、確かに陸海軍で集中的に演習を繰り返している〈教導航空師団(Flieger Division)〉に対し、内戦時に活躍した航空部隊の一部を派遣している。


 強力な航空打撃集団の編制は急務と言えたが、トウカが編隊隊形や戦闘教義(ドクトリン)、航空兵装の原案を与えたものの、熟練と最適化には未だ少なくない時間を必要とする。特にトウカの知る“航空機”と、この世界の龍からなる龍騎兵……“航空騎”は全く違う構造である為の齟齬は無視できない数に上った。無機物と有機物、機械と生物という差は、トウカの標榜する機械化と効率化によって解決できない問題であり、自らが答えを持ち合わせない難題でもある。一朝一夕で解決できない問題に立ち向かう為、陸海軍は共同で〈教導航空師団〉を編制し、訓練と装備の改修などを続けていた。


 だが、トウカが派遣したのは教導戦技官の一部だけであり、皇州同盟軍では航空騎増強の為に志願した龍種を実戦経験者によって集中育成している。


 武器や兵器は呉れてやるとも。 


 だが、航空戦力だけは編制の邪魔をさせない。


 自身の手元に有力な航空戦力があるという優位は計り知れない。防空網などこの世界に存在していない以上、少数の航空戦力でも運用次第で皇都空襲すら不可能ではないのだ。陸海軍も空から国土深くに浸透する航空騎への対処方法の策定に苦労しているが、トウカはそれを敢えて放置しているのだ。自身が有利な時期と状況で、自由に各地を空襲できるという魅力に彼らは気付いていない。


 特に〈剣聖ヴァルトハイム〉型戦艦二隻に搭載されていた四一㎝対空焼霞弾は、大気中の魔力を結合させ、大規模な燃焼を齎す術式を刻印された砲弾であり、広域焼夷効果があった。


 それは燃料気化爆弾に似た効果を齎すという意味である。


 その爆発は空間爆発となり、強大な衝撃波を発生させ、極めて高い気圧に達する圧力と、戦車の装甲表面ですら融解させる程の高温を発生させる。


 だが、何よりも、広範囲に衝撃波を発生させる為、人体に多大な影響を与えることが大きかった。無論、龍も例外ではない。


 本来の固体爆薬であれば一瞬でしかない爆風が長い間、連続して全方位から襲うという性質を持つそれは、航空騎程度の魔導障壁を簡単に押し潰し、その圧力で人と龍をばらばらにした上で高温燃焼させる。


 これを航空爆弾に改造するのだ。


 空襲と燃料気化爆弾に似た効果を示す航空爆弾。


 これこそがトウカの切り札であった。


「…………御主。いや、そうか。救いは御座らんの」


「我々で作り出しましょう。そう胸を張って口にしても角が立つので、沈黙が妥当かと」


 無論、脅す材料は十分以上に用意し、対価も十分に提示できる。認めないならば、認めるざるを得ない状況に似持ち込むまでである。


 低速航行する〈Uー501 ゼーヴォルフ〉の艦上で二人は揃って苦笑する。


 曖昧に、だが有利に事を進めねばならない。


 無論、時間に余裕がない事柄については断固たる意志と武力を背景に押し通さねばならない。馬鹿馬鹿しい程に矛盾に満ちた状況を、白々しいまでの曖昧さのままに武力で押し通す。皇権を脅かしているという点に対する皇国人の拒絶反応は、トウカの予想を遙かに超えていた。指導者原理に対する政府と中央貴族の拒否反応は妄想癖のある女の奇声じみており、トウカを堂々と叩ける唯一の材料だけあって随分と利用されている。


 叩かれるとは考えていたが、まさかこれ程までとは思わなかったというのがトウカの正直な感想である。無論、そこに目を奪われてくれたからこそ、皇州同盟の成立時に障害と成り得る人物を表沙汰にはしたくない方法での排除や、内戦終結後も提示しなかった軍事機密などから目を逸らさせる事に成功したのだが、半狂乱で文句を垂れられるのは不愉快極まりない。


 トウカは、ベルセリカへと向き直る。


 正面から向かい合う二人。


 甲板から喫水線までが低い潜水艦だけあり、時折上がる飛沫がトウカの軍用大外套とベルセリカの陣羽織を濡らす。


「貴女に北部貴族を……いえ、北部の臣民を説得していただきたい」


 何と残酷なことか!


 北部を護る為、愛すべき者を犠牲にして尚も戦い続ける騎士に、北部に住まう者達に故郷を一時的にせよ捨てよと言い募る役目を依頼する。


 二度も北部護持の為に国難に立ち向かった英雄のベルセリカであるからこそ大多数の者が納得するはずであり、トウカやエルゼリア侯……例えマリアベルであっても不可能な役目である。


 ベルセリカの手が伸びる。


 トウカは動かない。


 一発程度殴られるくらいは致し方ない。無論、相手が非力な人間種である事を踏まえた鉄拳であるのを祈るしかない。少なくともトウカの頬の腫れがあれば、ベルセリカが止むを得ず納得したという体裁を整える事ができる。既に驚く程に一部では損なわれているトウカの風評だけが更に損なわれる程度で済むなら安いもの。ベルセリカの名誉の価値は、トウカの不評に優越する価値を有しているのだ。


 そっと頬に冷やりとした感触。ベルセリカの右手。


「………成程、確かに参謀共は言い辛く御座ろうな」


「御存知でしたか。彼らの多くは北部出身だ。幼少の頃より聞かされ続けていた英雄に不遇を強いることを良しとするとは……」


 艦上に長時間いた為かその手は冷たい。魔術で外気遮断を行っていないのか、ベルセリカの頬は寒風によって赤みが射している。


「某は御館様の騎士ぞ。思うが儘に振る舞うが良い。二人で居るのであれば、その奇っ怪な口調も止めぃ」


 今一度、トウカにベルセリカの手が伸びる。伸ばされた両手がトウカの腰へと廻り、優しく抱き寄せる。


「総てを御主が背負う必要は御座らん。ミユキは未だその辺りを理解できず、マリアベルは天霊の神々の御許に召された……マイカゼは、まぁ、信頼するは難しかろう」


 どうしようもない奴め、と、より一層苦笑を深くしたベルセリカ。


 ベルセリカにとって、トウカは不器用な弟のようなものなのかも知れない。若しくは、戦野を進み往く、後ろを顧みることもない男。


 ベルセリカには、そう見えるのだろう。或いは、ミユキだけではなく、トウカもまた庇護の対象と見ているのかも知れない。


 敵わない。だからこそ高位種は油断できない。


 気が付けば自分が護られているのだ。ミユキとマリアベル、そしてベルセリカ。自身が護り、行使し、庇護しているかと思えば、自分が彼女らに護られている。男として情けない事である。


 トウカは黙って抱き寄せられる事しかできなかった。




「愛国心とはならず者達の最後の避難所である」


        《英蘭(イングランド)王国》の文学者 文壇の大御所 サミュエル・ジョンソン



山下閣下とパーシバル将軍の「イエスかノーか」の逸話。


大東亜戦争緒戦の要衝攻略戦戦闘後に山下奉文中将が「イエスかノーか」と英国陸軍のアーサー・パーシバル中将に強圧的に降伏交渉を行ったと言われるが、実際は「降伏する意思があるかどうかをまず伝えて欲しい」という趣旨を、日本語が下手糞な台湾人通訳に対して苛立って放った言葉を新聞等で脚色されたというのが真相である。何時の時代もブン屋は屑なのだ。


 話が一人歩きしていることに対し山下本人は気にしていたようで、「敗戦の将を恫喝するようなことができるか」と否定したらしい。同席した幕僚も全員がこの逸話を嘘だと断じている。という訳で全くの嘘。パーシバル中将の回顧録にもそれらしい部分は見受けられない。というわけで、作中でブン屋は弾圧される運命にある。


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