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紫苑穢国のエトランジェ  作者: 葛葉狐
第二章    第一次帝国戦役    《斉紫敗素》
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第一六一話    母狐の懸念



 マイカゼは自室でトウカに膝枕をしながらも、その頭を撫でてやる。


 緩めた開襟から覗く白い肌の胸元は先程触れて見たものの、想像していたよりも筋肉質ではない事に驚いた。交渉の席や作戦会議では翳のある表情をしているトウカだが、その寝顔は穏やかなもので幼さすら感じさせる。常に他勢力や貴族、政府の圧力を受けて気を張っているトウカだが、客観的に考えてみれば二十歳にも満たない若者に過ぎない。


 挙げた戦果やベルセリカの態度を見れば軽んじる者などそうはいないが、一つの勢力を統率する立場に立つという重責は、トウカから余裕を奪っていた。


 本来であれば、そうした立場に若者でしかないトウカが立つのは異常であり、それに成り替われる人材を有していない皇国という国家の体制にこそ疑問を投げ掛けるべきである。トウカがそうした立場を得ている事自体に疑問を抱くのが間違いであるなどと考えるのは御門違いも甚だしい。


 無論、トウカ程の人材を登用せねば活路を見いだせない程に情勢を悪化させた者達はいずれ失脚させねばならないが、直近ではトウカの才覚に頼らねばならないのは彼らもまた同様である。何より、前者も利用できる状況は未だ存在している。


「あら、起きたの?」


 マイカゼは自身の膝の上でもぞもぞと動いたトウカを見下ろす。寒いだろうと尻尾を毛布の様に肩に掛けているが、トウカは気に入ったのか尻尾に頬擦りしている。自慢の尻尾にかかれば男などほいほいであった。


 起き抜けの胡乱な瞳で見上げてきたトウカ。


 マイカゼの顔を見たトウカは暫く沈黙していたが、再び瞼を閉じる。


 その無邪気な寝顔を眺めつつも、マイカゼは幾日か前のトウカとの遣り取りを思い起こした。











「偶には肉も良いでしょう? あら、若しかして女体の方が……」


 肉だけに、と続けるマイカゼに、トウカは冷笑する。


 最近のトウカは、天狐族の隠れ里に現れた頃よりも荒々しい印象を受ける事が多い。猛禽の様な眼差しに猛虎の如き獰猛な笑みは、類稀なる軍功を天下に示した者として好意的に受け止められ、相手が七武五公であっても一歩も引かない姿勢は北部に於いては喝采を以て歓迎されている。


「……小官を異性として求めたならば、後悔なさいますよ」


 マイカゼとしては、そこにある種の危うさを感じていた。


 トウカは多くを蔑んでいる。


 知識と能力で対等足り得ない者が自らの前に立つ事を。能力のない者が国政を壟断する事を。


 マイカゼには、そう感じられた。


 理由は分からないが、七武五公に対しては酷く否定的であり、政治が軍事に干渉する事に対して潔癖とも言える程に嫌悪しているのだ。あの軍略では清濁併せ持った柔軟さを見せるトウカが、それらの点に於いては頑迷な老害の様に意志を貫き徹す。逆に軍事から政治に干渉する事は当然の様に行うことから、政治家達の間ではトウカを敬遠する者が少なくない。


 もどかしい思いを抱いていた軍人ほど、トウカのそうした行動に賛同しているが、マイカゼはそうした偏見が決して軍事上の視点からのみではないのを察していた。


 トウカは臣民を……民衆というものを酷く憎み、忌避している。


 個人に対してはそうは見えないトウカが、民衆……或いは民意とでも言うべきものか、無形の漠然とした風潮を酷く怖れて嫌悪しているという事実。


 恐らくは、その生い立ちか思想によるものであると踏んでいるが、そこに一種の狂気と自己嫌悪、諦観が入り混じっている気配を感じ取ったマイカゼは……否、マリアベルですらも口を挟む事を躊躇っていた部分に足を踏み入れるべきか悩んでいた。


「婿殿はこれよりの展望を何と思う? (わたくし)は運命の悪戯かヴェルテンベルク伯になってしまったから、いざとなればミユキではなく領地の安寧を選ばないといけないの」


 勿論、権力を手中に収めたからこそ護れる手段も増えた以上、相対的にミユキを守護できる手段は増えたと言える。ミユキが昔の様に自由気儘な放浪生活を行わねば、という前提が付くが。


 トウカは菜箸で黙って焼き網上の肉を引っ繰り返している。


 魚介類ばかりで辟易としていたのか、その手付きは手早くも荒っぽい。肉しか焼いていないので仕方なく、盛り皿の野菜も焼き網へと素手で掴んで放り込む。七武五公を斬る事は赦しても偏食を許す事はない。それが義母というものである。


「ヴェルテンベルクが直接、戦火に見舞われる可能性は低いと見ていますが。そうならない方向に戦局を誘導する心算です。……それで? 今日、小官を誘った理由を御聞きしたいのですが」


 あくまでも丁寧に、ついでにマイカゼの取り皿に焼き上がった肉を差し出しながらも窺うトウカ。微妙に上目遣いな点が非常に悩ましい。


 成程、年上の女性に対して無意識に甘えた姿勢を見せるという噂は嘘ではないのね、と尻尾をばたつかせながら、トウカに差し出された肉を頬張る。あ~んをしても許されると思うのだが、ここは外堀から埋めていくべきと判断して、マイカゼは肉を噛み締める。上品な肉汁が口内を満たした。


 内戦直後に出店したという、木材を組み合わせて作られた労働者向けの焼肉店だが、トウカとマイカゼがいるのは、その二階で二人以外の人影はない。


 二階席は一室のみしか存在せず……と言えば聞こえがいいが、実際は増築途中で仕切りもなく、中央に座席と焜炉(こんろ)を設えられただけという有様であった。無理を言ってマイカゼが用意させたのだ。味次第ではヴェルテンベルク伯爵家持ちで改築しても良いとまで言い切っていた。マイカゼも魚類ばかりでは辟易とせざるを得ないのだ。


 ミユキにしているような“あ~ん”はしないのかという些かの失望を視線に籠めつつ、マイカゼは口元を手拭いで拭くと咳払いを一つ。


「何時も夕食が海産物で夫婦喧嘩の危機が……と言うのは冗談なのだから席を立たないの」


 ばしばしと自らの横の席の座布団を尻尾で叩いて着席を促す。


 トウカは心底嫌そうな顔で着席する。当然であるが座った座席は、元の対面の座席であるが。


「別に取って食おうなんで考えてないの。だから野菜も食べなさい」


「貴女は私の母親ですか……」


「あら? 勿論、義母(ははおや)よ」


 頬に右手を当て、困ったという仕草をして見せる。


 実際のところ、大いに困っている。


 トウカの漠然とした大多数を憎悪する意識が何時か新たな火種となるのだと、マイカゼは感じ取っていた。能力も才覚も十分。そして運もある。だが、何処か現実を見ていない。彼にとっては自らの方針に周囲が従う事は既定事実であり、抵抗勢力は容赦も慈悲もなく薙ぎ払う存在でしかないのだろう。


「ねぇ、婿殿。私はね……」


「首席政務官の一件ですか? エスメラルダ殿が適任です。能力のない者の戯言など聞く必要はないでしょう。勿論、エスメラルダ殿より能力があると判断すれば直ぐにでも変えるべきでしょうが」


 トウカは、麦酒を流し込みながら詰まらなそうに呟く。


 煩わしい進言に対し、トウカが激怒した首席政務官の進退は、最終的にはセルアノの留任で決まった。先代ヴェルテンベルク伯であるマリアベルの家臣団の中にはマリアベルの逝去と同時に去った者も多く、領邦軍司令官であるイシュタルも退役した以上、首席政務官のセルアノも退役するべきではないのかという意見が噴出したのだ。主に領邦軍からの意見であり、縮小する領邦軍の予算が削られる事に対する抵抗の一環であるのは疑いないが、セルアノ以上の人材を提示できない中での意見であった為にトウカが激怒したのだ。


 下らん縄張り争いがしたいなら野生に帰れ、獣共、と。


 トウカからすると北部護持は皇州同盟軍によって行われるべきもので、北部貴族の領邦軍の拡充など望んでいない。ましてやヴェルテンベルク領は皇州同盟軍の策源地と成りつつある。一つに領域に二つの有力な軍事組織が介在するのを、トウカが認めるはずもない。無論、心情的には外敵の存在がこれ以上ない程に明確となっているにも関わらず、身内で揉める事に対しての怒りがあったのだろう。


 結果としてヴェルテンベルク領邦軍内の首席政務官の退任を望む勢力は空中分解した。ヴェルテンベルク領邦軍は若干の歩兵部隊と軍狼兵部隊、憲兵隊を擁するまでに縮小され、それ以外の戦力は皇州同盟の指揮下に加わる事になった。無論、マイカゼもそれを容認している。指揮系統の分散など許されるべきではなく、優秀な司令部の下で強大な戦力が統率されるべきであるという考えは間違ったものではない。


 だが、トウカの意見が取り入れられた理由は別にある。決して合理性を皆が理解したからではない。


 急先鋒と目された将校三人の事故死。


 殺されたのだ。


 立て続けに三人が事故死など有り得ない。


 ヴェルテンベルク領邦軍憲兵隊司令と皇州同盟軍憲兵総監を兼務することになったクレア・ユスティーナ・エリザヴェータ・ジークリンデ・ハイドリヒ中佐の手によるものだろう。トウカは皇州同盟成立に当たり、抵抗勢力の排除に憲兵隊を積極的に利用していたが、それを指揮していたのがクレアだった。


 カナリス中将の指揮下にあり、ロンメル子爵家に身を寄せいていた旧ヴェルテンベルク領邦軍情報部も皇州同盟軍に帰属しているが、諜報任務の激化によって表舞台から消えていると言っても良い。


 その代わりにトウカの汚れ仕事(ブラックオプス)を担うことになったのが、クレア隷下の皇州同盟軍憲兵隊であった。


「貴方は、きっとヒトを率いる才能がある。でも、組織を率いる事は赦されない……貴方は殺し過ぎる」


 戦争で敵を殺すのは良い。トウカが酷く嫌っている大義も正義も、何とでも捏造できるからである。例え敵国の人間を根絶やしにし続けようとしても、それなりの大義や正義を提示できるならば大勢を納得させる事はできる。


 だが、他勢力とは言え、自国内の政治家や軍人を暗殺で排除する姿勢を見せたのは失敗であった。それは禁じ手であり、してはならない事である。一度や二度、確実に必要であるならば致し方ない部分もあるが、トウカは既に数えきれない程に多用していた。自身が確実に疑われる状況でも強行する姿勢に、マイカゼは危うさと恐怖を感じていた。


 トウカは生焼けの肉を頬張り、マイカゼを見据えて嗤う。


「……もっと殺しますよ。殺し続けた末にしか未来がないのですから」


 噛み千切った生焼けの肉から血が滴り落ち。トウカの口元が朱く紅く穢れる。


 まるでヒトの死肉を貪る腐肉漁り(スカベンジャー)の如き様相であるが、その血はこの内戦で流れてきた幾多の戦士達のものか、或いは。


「脅迫と誘拐、暗殺を繰り返して信頼を得られると思っているの? 邪魔だからと罪なきヒトを殺め続ければ、一度劣勢になれば誰もが貴方から離れるのよ」


 隷下の者達に忠誠を誓うように仕向けろとはマイカゼも言わないが、手段を問わない姿勢は何処かで必ず大多数が疑問を抱く。少なくとも表面上は清廉とは言わずとも、それなりに取り繕うべきなのだ。が、トウカはそれをしない。


 北部の意思を貫徹した英雄としての評価によって北部では絶大な支持を受けているトウカだが、他地方では決して評判は良くない。内戦を激化させた最大の要因とすら書き立てる新聞があり、貴族も大多数がトウカに対して否定的である。短期間で皇州同盟を強大化させつつある現状と、皇権に対して否定的である姿勢に加え、中央貴族に敵対的な姿勢を見せている点に警戒感を示す者は少なくない。


「この国が亡ぶか否かの瀬戸際にある現状で、誰も彼もが呑気なものだ……貴女もだ。俺を失望させるな」


「ヒトを裁くには罪という理由がいるのよ。それなくして政敵を武力で排除し続けるなら、貴方はきっと、何時かミユキにも刃を向けないといけなくなるわ」


「罪は罰するものではありません。創り出すものです」


 総てを信じず、疑わしく思い始めている。


 独裁者の病。


 焦り過ぎている様子のトウカに釘を刺す心算であったマイカゼだが、想像以上にトウカは権力に憑りつかれている。機会が来たから遠慮を止めたのか、或いは焦るだけの理由があるのか。


 だからこそ、皇国は短命種に権力を持たせる事を忌避する風潮があるのだ。


 生き急ぐ彼らは愛おしくも愚かしい。


 マイカゼもまた、トウカを見てそれを痛感していた。


「……それで? 貴女の意向に従えと? 国難を回天する戦略を持ち合わせない女狐一匹が国防の一翼を壟断すると?」


 急進的な戦争屋の方がまだマシであるかと、とトウカは、醤油を付けて生肉を頬張る。最早、火を通すことすらしない。虎や狼のようですらある。


 これ程に思慮の浅い若者ではなかった。


 マイカゼは、取り敢えず生肉を食わせる訳にはいかないと盛り皿を取り上げて肉を焼き始める。生の肝臓(レバー)はないのかと給女に訊ねていたので生肉を好んでいるのだろうが、人間種の食べ方ではない。トウカの祖国は随分と無理をする国なのか。


 トウカは溜息を一つ。


 此方が溜息を吐きたいところである。一歩間違えば、マイカゼやミユキにも実害が及ぶ可能性があるのだ。


 そんなマイカゼの様子を見て取ったトウカは、頭を掻き毟ると麦酒を一息に飲み干す。


 そして机に硝子碗(グラス)を叩き付けるように置くと、小さく呟く。



「……神州国も皇国に軍を向けると考えています」



 心底疲れたという声音のトウカの一言だが、マイカゼはその意味を十分に理解するまでに些かの時間が掛かった。


 帝国と交戦状態にある状況で、神州国までもが敵に回るという悪夢は青天の霹靂と言える。


 神州国は海洋国家であるが同時に交易国家でもある。周辺諸国との軋轢ではなく、情勢の安定による商業活動の活発化を望むという考えが皇国では一般的であった。無論、大星洋上の係争海域で海軍同士による接触が続いている事は知っていたが、それは譲歩と落としどころを探る為の政治活動の一環でしかないという意見が通説となっている。


 だが、殊に戦争に関する事でトウカが思惑を外すことはない。


 少なくとも、それは皇国軍人にとっての常識であり、マイカゼもその点について疑うことはなかった。


「……根拠はあるの?」


 トウカの表情は既にミユキの母であるマイカゼに対するものではなく、戦野で一人でも多くの敵の死を願い、その為の策を実行し続ける戦争屋の容貌。卑しくもあり、軽蔑すべき表情。だが、それでいてどこか女を疼かせるものだ。


 なるほど、こうした部分もあるのね、とマイカゼは胸中で嘆息する。リシアが気に掛け、マリアベルが愛するはずである。愚かしくも健気な戦争屋。


「自らの一突きで経済的好敵手を蹴落とし、肥沃な土地と資源を手にする事ができる。何を躊躇う事がある。確実に利益の出る状況がある。ならば軍を動員する事に何の躊躇いがあろうか」吐き捨てるようなトウカの説明。


酔いが回り、言葉遣いが本来のものとなる。彼は、酷く畏れていた。自国を取り巻く情勢を。高位種の楽観を。


 可能性がある。だから対応策を考える。酷く簡単なことであるが、マイカゼには判断の付きかねることでもあった。


「状況が示している。どいつもこいつも呑気に帝国の脅威に文句を垂れているがな。側面を神州国に突かれれば皇国は終わりだ。対策が必要だ。それとも何か? 貴様が神州国の皇帝をその身体で誑し込んでくれるのか? ええ?」


 麦酒が未だ残っている事を無視して、赤葡萄酒(ワイン)木栓(コルク)を奥歯で噛み締めて引き抜くトウカ。硝子碗(グラス)にも入れずそのまま口を付けて煽る姿は、余程鬱憤が溜まっているのだろうと嫌でも理解できる。


 トウカにとって、神州国が侵攻を意図していることは既定路線なのだ。


 マイカゼは後悔する。


 もしそうであるならば焦る理由としては十分であった。短命種を危惧している長命種は、マイカゼを始めとして少なくないが、トウカからすると長命種が呆れる程に暢気だと考えているに違いなかった。


 マイカゼの想像以上に皇国を取り巻く現状は悪化していた。


 共和国は帝国と幾度も干戈を交えている為、容易に肩を並べる国家の消滅を看過するとは思えないが、皇国の滅亡が避け得ないと判断すれば帝国との戦線が一つ増えることを意味する。最悪、防御陣地に優れた地形を国境とする為の進出は有り得た。


 そして、神州国の脅威は十分にあり得た。今までの常識さえ踏まえなければ。


 だが、その常識とは何か?


 考えれば考える程に、その常識に前提と基準はない。世界は如何様なことでも起こり得るのだ。


「まさか……そんな……」


 対外貿易に重きを置くヴェルテンベルク領は甚大な被害を受けるだろう。資源を輸出できず、建造した商船が大星洋を航行できないという悪夢は、ヴェルテンベルク領の経済に大きな影を落とす事になる。ヴェルテンベルク領邦軍だけでなく、皇国海軍であっても原神州国海軍相手では制海権を確保することができない以上対応は不可能であった。


 神州国海軍による大星洋の封鎖。


 そこまで思い当った時点で、マイカゼは想像以上にヴェルテンベルク領が砂上の楼閣であったのだと思い当たる。マリアベルが強硬的に主張したバルシュミーデ子爵領への攻撃は、通商航路の危険性を可能な限り低減するという一点を考えれば決して間違ったものではなかったのだ。


 ただ、マリアベルは商業的に、神州国にかなりの配慮を見せていた。


 商船建造市場占有率(シェア)に於いては売買額の面で神州国に対して常に一歩譲った姿勢を見せ、隷下の企業では神州国の製品を積極的に購入し、神州国の港を中継地点として世界中の国々へと商業活動を行っていた。


 マリアベル最大の長所が商業活動による利益とするならば、弱点は商業活動で使用する通商航路であったのだ。


 そして、それはマイカゼがヴェルテンベルク伯となっても何ら変わりない。


「…………やはり気付いていなかったか。ふん、御前も七武五公と同じだ。マリアベルには敵わない。考えてばかりで政戦への対処が場当たり的だ。経験があるが故に事が起きた際の対応は十全だが、結局のところは妥協の連続に過ぎん」


 些か極論であるが間違いではない。


 長期的視野を前提とした姿勢を重視する高位種貴族による統治は、即効性に欠ける政策が多い。最終的には繁栄を掴み取れるように見えて、機に聡くありながらも利益の最大化に失敗することが多い。つまりはマリアベルの様に貪欲に利益を求め、暴力的なまでの躍進を遂げ、危機に際して大胆な手段を講じて状況を一変させるという点が難しいのだ。


 致命的な失敗がない代わりに、大きな成功もない。高位種の統治とは正にそれである。


「マリィが、マリィが生きていれば勝機はあった……何をしているんだ、俺は」トウカは呻くように呟く。


 後悔と絶望に滲んだ表情は見ていて痛々しい。


 彼にとっても分岐点だったのだ。マリアベルという政治情勢を遙か先まで見通す廃嫡の龍姫の死は。


有象無象では補い得ないと、トウカは考えている。そして、マイカゼもそれに代わる人材を提示できない。セルアノですら難しい。彼女の才覚は商業と内政に偏り過ぎている。外交と国際的視野を有した者などそうはいない。


 だが、マリアベルだけは違った。


 その短い寿命の為か、或いは復讐の為か今となっては意味のない疑問だが、マリアベルは国外での商業活動による繁栄という結果を残した。その繁栄の継承者であるマイカゼは、少なくとも暫くはそれに沿った領地運営が基本となる。


「高位種は腐っても寿命が長いからな。巧遅の負債を誤魔化す術と拙速を批判する口先だけは達者だ。人間種に……短命種に成長の機会すら与えなかった。可能性は数だと言う事が何故理解できない。技術開発も軍事も、数の呪縛からは逃れられない事を分からないのか。莫迦者め」不満を撒き散らすトウカ。


 本質的に《ヴァリスヘイム皇国》という国家の理念と、トウカの現実主義は相容れないものなのかも知れない。


 安定を望む国家と、莫大な利益と繁栄を望む戦争屋。考えてみれば相容れるはずもない。どちらか一方が相手の方針を容認し、或いは相手を排除するまでこの戦いは続くだろう。


 しかしながら、マイカゼのそうした懸念は思い過ごしであった。否、懸念ではなく悪化していた。


「一度痛い目を見ればいい。死ねばいい。父母や娘息子や親しい友人……愛する者を喪ってから気付けばいい。気付いてからが俺の仕事……いや、俺の戦争だ」


 俺は知らんと吐き捨てたトウカが、焼き網の上で肉汁を滴らせ始めた肉を箸で摘まむ。


 次々と肉ばかりを口に運ぶトウカだが、考えてみれば北部貴族達が各地で開催している舞踏会に参加して協力と支援を要請しつつも意思統一を図っていた。連日の舞踏会や演説は戦争とは別の疲労をトウカに齎しており、食事を自由に摂る事も難しい。挙句にロンメル子爵家に帰れば常に海産物の焼き物なので精神的疲労が蓄積していたのだ。舞踏会などでは、それなりに豪勢な料理が用意されているが、時の人であるトウカは群がる有力者に阻まれて食事の機会を悉く喪っていた。


 よく見てみれば、皇州同盟成立より二週間程度しか経過していないにもかかわらず、トウカの表情には疲労からくる翳が射している。戦略や戦術を立案することに長けるトウカであるが、大多数の前で演説を行うのは不得手な様子であった。


 少なくとも、表面上はそうは見せない様にしているようであるが。


 貴族の御令嬢達に熱を上げられていることも何の慰めにもならない様で、マイカゼとしては群がってくる小娘で適当な者を見繕って好きに遊べばいいと考えていた。


 貴族から見ても、マイカゼから見てもトウカは本質的に粗野な男である。表面を取り繕っていても、言動は常に残酷なまでに正論でいて、嘲笑と罵倒は度を過ぎたものである。


 危険な雰囲気と、昨今は見られなくなった何者をも恐れない無頼漢。


 しかし、それが逆に令嬢達を惹き付けた。


 舞踏会や談話会(サロン)などの社交界で披露する演説も極めて刺激的であった上に、トウカ自身も礼儀作法や自己演出を上達させていった。そうした理由もあり社交界における同胞を徐々に増やしつつある。


 ――地位のある女性の野心に火を付けたのよね……


 自らの手で一人前の、時代を動かす男を作りあげるという悦楽。恐らくは、マリアベルにもそうした部分があったからこそトウカを受け入れた。或いは、現在のトウカが難物であると言われるのは、マリアベルの影響所以なのかも知れない。その点だけを考えればマリアベルは実によくトウカを作り上げたと言える。未だに七武五公や陸海軍府長官の頭を悩ませ続けているのだから。


 ーー好きに食い散らかせばいいのに……面倒な子。


 貴族がトウカに差し向ける娘に次期当主がいないのは継承権問題から確実で、自由気儘に弄んでも英雄色を好むという風評で済ます事ができる。ならばミユキ相手に出来ないことや、寝台上で試してみたいことも、女性に囁いてみたい台詞も全てぶつければいい。


 そして、ミユキにはそれを踏まえた上で接すればよい。


 トウカは女性の扱いを不得手としている。


 マリアベルやリシアなどという例は、一般的な女性とは大きく掛け離れている為に参考にならない。ミユキは高い資質を有する高位種であるが、それを除けば未だ一般的な年頃の女子と然して変わらない価値観の少女でもある。マリアベルとリシアに関しては軍務経験者であるという点がトウカにある種の気安さを感じさせたのだろうが、ミユキはそこには当て嵌まらないのだ。


 ミユキは一般的な姿勢の子女と変わらない感性を持っている。事に恋愛に関しては特にその傾向が顕著であった。


 市井の乙女が望む様な恋を望んでいるのだ。


 トウカが異常な程に、ミユキの前では弱みや苦労を見せる事を忌避する人物であるという事は日頃からの態度や仕草からも感じ取れる。ミユキに対する際の言葉遣いだけでも、それは十分以上に察せる。だからこそ酷い言い様であるが“実験台”として有象無象の貴族の御令嬢達は大いに役立つ。


「畜生め……古い戦争に固執した結果が帝国との要塞戦? 馬鹿馬鹿しい。坑道戦なんて駄法螺を信じる連中と肩を並べて戦わねばならんとは……あの人中の龍を相手に? 無理だ。外道の統率と無制限通商破壊作戦を同時にやらかして漸く互角か?」


 ぶつぶつと呟きながら酒精(アルコール)を胃袋に流し込むトウカ。


 その姿に、マイカゼはいよいよ宜しくない状況であると眉を顰める。


 ――う~ん、私と二人だから本音で話している? そんなに単純な子じゃないと思ったのだけど。それだけ追い詰められているのかしらね。


 だとすると何処かで暴発するかも知れない。


 強大な武力を従えた英雄が激発するという恐怖。


 方針転換が必要だろう。


 ヴェルテンベルク領の為にも。皇国の為にも。トウカの為にも。ミユキの為にも。










「はぁぁ……。陸海軍も旗色を明確にしたようだけど、婿殿が容易く信じるとは思えないのよねぇ」


 トウカは皇国内の諸勢力を踏み台に勝利を掴み取るだろう。


 マイカゼは、トウカが皇国内の諸勢力と緩やかに敵対しつつあると見ており、それを避ける為に幾つもの布石を打っていた。北方方面軍の将兵の取り込みや衆議院への浸透、主要な商家との連帯、有力貴族への浸透などを様々な手段で行っているが、その試みの多くはトウカの強権的な姿勢の為に満足できる程の成果を出してはいなかった。


 結果として、トウカの下には急進的な姿勢を持つ右翼団体やトウカの武勇に魅入られた軍人、社会主義体制を求める革命家などという碌でもない者達ばかりが集まりつつある。皇国内の危険団体や要注意人物が一堂に会した有様に、苦言を呈する政府官僚は少なくない。


 だが、トウカの思惑を知るマイカゼや陸海軍府長官、そして七武五公は沈黙を保っていた。


 磨り潰しても惜しくない人材が戦意を滾らせて集まり、御国の為に喜んで命懸けで戦野に赴いてくれるのだ。


 トウカは、そう嗤っていた。


 反動分子を戦場で効率的に“処分”して戦後統治を容易なものとする。


 執務室へ入室してくるトウカを目にしつつ、マイカゼは置時計に視線を巡らせる。時間に正確であった。真に軍人をしていると言える。


 そして開口一番。


「昨日の事は忘れていただきたい。ヴェルテンベルク伯」


 酒精(アルコール)に任せた言動を悔いているのか、トウカの表情は強張っている。マイカゼは若者の失敗を見るのは嫌いではない。


「あら? 私の前では自分を押さえなくてもよくってよ。二人きりなら特に、ね」


 勿論、性的な意味でも押さえてくれなくていいのにとは思うが、トウカはマリアベルのこともあってか、女性関係にかなり神経を尖らせている。無論、恋人の母を組み敷くのは躊躇われるという心情的なものではなく、皇州同盟の中で大きな立場を得つつある天狐族の有力者に対する警戒心からであった。


 マリアベルという強大にして愛しい後ろ盾を喪ったトウカは、想像以上に周囲を疑うようになった。全幅の信頼を寄せるのは、ミユキとベルセリカ程度ではないかとマイカゼは睨んでいる。


「彼らの育成は順調?」


 単刀直入に訊ねたマイカゼに、トウカは姿勢を正す。皇州同盟に所属する有力者に対する報告という立場を示しているのだ。


「大喜びで訓練を続けています。新しい戦闘教義に戸惑う者も多いですが、自らが国を救うという気概は真に麗しくあります。小官も彼らの愛国心には感じ入るばかり……という建前ですが」


「……本当にいいのね? 貴方、恨まれるのよ」


「いえ、恐らくは大喜びでしょう。これでようやくなれるのです」


救国の英雄という虚構に。


 そう続けたトウカは両手を広げた。舞台役者が如き所作であり、演説を繰り返している為か様になっている。ヴェルテンベルク領邦軍第一種軍装から、皇州同盟軍第一種軍装へと転じた黒衣の軍装は憧れる若者が多いと言われるだけあって大層と映えている。


「彼らは夢見た英雄になる」


 執務机に両手を力強く下ろしてトウカは断言する。


 顔を近づけられたマイカゼは表情を取り繕う事もできない。


 トウカは彼らを死地に赴かせることに僅かな後悔も抱いていないのだ。ヒトをヒトとして見るのではなく完全に数として見ている。生じた事象、或いは起こした事象によって生じる利益と損益を考える軍人よりも官僚に近い考え方をしているという印象を抱いていたが、これ程に清々しく言い切れる感性は異質としか言いようがない。


「神々の御許で奴らは知る事になりますよ。国家が真に望む英雄の実情を」


 トウカは、心底愉快だと言わんばかりに嗤い声を上げる。


「悲劇的に斃れた英雄こそを国家は希求する」


 或いは、サクラギ・トウカという異邦人(エトランジェ)は、国家という統治機構にどうしようもない程に不信感を抱いているのかも知れない。国家という機構(システム)に対して不信を抱かせるだけの何かがあったのだとすれば、余程の事があったのだろう。


「彼らは死によって英雄となる。生きながらに英雄となる事が不可能であるが故に」


 国家が求める真の英雄の最低条件とは、勇戦の末に戦死する。まさにそれであるのだ。


 それは、残酷な真実。


「俺は彼らを英雄にする。例え、彼らが途中で泣き叫んで厭うても。俺はその為に生じるであろう全ての苦労と悲劇と責任を引き受ける心算です」


 トウカは荒々しく敬礼すると、軍用大外套(ロングコート)を翻して退室しようとする。


 彼はマリアベルの死後、確実に変質しつつある。


 女性を喪った悲しみ故か、国防の重責を担うが故か、或いは……


 扉に手を掛けたトウカが小さく呟く。


「そうだ。そのはずだ。だからこそ、祖国の為、是非とも彼らには……」


 彼は戦争に憑り付かれつつあるのではないか? 


 閉まった扉を呆然と見据え、マイカゼは自らが動く必要があると感じた。


 トウカは振り向かない。


 扉が閉まりつつある最中、辛うじて決意が零れる。


「……死んで貰わねば」





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