第一五四話 血塗れの正義
「待たせてしまったようだな……済まない」
アーダルベルトは失言だったかと思いながらも、席に座って葡萄酒を嗜んでいるリシアを目にして対面の席へと腰を下ろした。まるで逢引きの待ち合わせに遅れた男の様な言い様に、リシアは然したる反応を見せない。聞き馴れているのか、或いは興味がないのか気になるところである。
些かうらぶれた雰囲気を個性として獲得している大衆酒場の、吹き抜けの二階席の隅は照明の死角でもあり他の席と比して薄暗い。リシアが目立ちたくはないと考えているのは察する事ができた。そして、〈北方方面軍〉司令部の廊下で自身に声を掛けられた事は、リシアにとって不本意であったであろうと思考が及ぶ。
考えてみれば、中央貴族の中核を担う七武五公の一角であるアーダルベルトが、旧北部統合軍の一大佐に話し掛けるなど疑念と憶測を呼ぶ行動でしかない。背中を見て思わず声をかけてしまったアーダルベルトは、真面に顔を合わせた時点で心象が悪いのだとひっそりと気を落とす。
――彼女も気難しいヒトだったが。
エルリシア・スオメタル・ハルティカイネン。
アーダルベルトの前妻であり、故人でもある最愛のヒト。
紫苑色の長髪に蘇芳色の瞳、端正な顔立ち……そして、残念な胸元。
出逢った頃のエルリシアの現身同然の姿に、広場での戦闘でアーダルベルトは矛先を鈍らせた。マリアベルがいかなる手段かを用いて足止めの為に用意した瓜二つの少女であると、アーダルベルトは当初、声を掛ける心算すらなかった。しかし、配下に調べさせてみればリシアは装虎兵士官学校の首席であった事もある俊英であり、孤児院にいた幼少の頃よりの身元が当然の様に確定していた。
だが、両親が誰であったかは最後まで調べが付かなかった。
――名前からすると無関係とは言えないだろう……だが、偶然でないとも言い切れん……
リシアの紫苑色の髪を見て母の名を与えた可能性を排除できず、現に孤児院を運営していたラムケもそう証言しており、アーダルベルトとしては判断しかねていた。孤児であるが故に出生が不明であったが、顔立ちまで似ているとなると作為を感じずにはいられない。
しかし、紫苑色が奇蹟の色足り得ることは、アーダルベルトにとって周知の事実でもあった。
紫苑色の髪の赤子に亡き母の名を与え、その赤子が成長して母の現身の如き容姿と佇まいを手にするが如き可能性。紫苑色の瞳の皇を戴き、数々の奇跡の末に国家を存続させてきた奇蹟と比べては然したるものではない。
紫苑色は皇国を皇国足らしめる色であり、高位種を惑わせる色でもある。
着席したアーダルベルトは、近づいてきた猫種の給女に、店に置いている一番、酒精度数の高いウィシュケを注文し、お勧めの料理を適当に見繕う様に頼む。猫種の給女は軽やかな笑顔で応じると二階席から飛び降りる。大衆酒場では良く見られる光景で、脚力に自身のある種族の給仕が素早く注文を取る為にこうした行動を取るのだ。それは、当然、心付けをより多く得る為であり、他の給仕との戦いと言える。
そんな飛び跳ねる給女の裳の中に思いを馳せる男共。その光景に舌打ちする女達。至って健全な大衆酒場と言える。不自然な事は何もない。
「それで……方面軍の一佐官に如何なる用件でしょうか、クロウ=クルワッハ公爵閣下」葡萄酒を嚥下したリシアの頬は赤みが射している。
それなりに飲み続けていたのだろう。既に机上に置かれた葡萄酒の酒瓶は空となっていた。
「貴官が第二四代天帝陛下の遺児に連なるという噂があってな……」
嘘ではない。
盆に、ノルデンシュターデ・モルトの樽出し原酒の酒瓶と、硝子碗を乗せて一階から飛び上がってきた猫種の給女がそれらを机へと置く。
硝子碗を手に取るアーダルベルトだが、リシアは猫種の給女に次の葡萄酒を酒瓶で追加注文している。注いでくれるという配慮はない様であった。嫌われたものである。非公式であるが故に配慮する心算などないのだろう。或いは、ただ嫌われているだけか。
相手の不興を買う事を恐れない点もまたエルリシアと似ていた。昇進への渇望の為か、世間の風評は随分と気にしている様であるが。
「それは随分と愉快な噂ですこと……もし、中央貴族の思惑を北の大地に持ち込まれるならば――」
「分かってはいる。だがな、中央貴族で門閥貴族として権勢を誇っている七武五公も、実質はその程度のものだ」
自嘲する訳ではなく、現実的な問題として緩やかな連邦制に近い皇国貴族は、それぞれが独立独歩の気風を持っている。単純に一勢力として統率できるものではなかった。
そして一部が、紫苑色の髪を持つリシアの担ぎ上げを画策した。
第二四代天帝の遺児が紫苑色の髪を持ち、行方知れずとなっている事を利用しての策であり、皇国は天帝を中心とした治政によって運営されていることから有効な手段と言えた。無論、天帝は皇統ではなく、天霊の神々による選定が即位の基準であるが、次代天帝が行方不明の状況となれば一時的に血縁による即位を認めても良いのではないかと妥協点を探る思惑だったと推測できる。
貴軍官民の全てが疲弊しており、国力を集中して国難に立ち向かえない状況。そうした機運が出るのは止むを得ない事であった。
当然であるが七武五公は反対の立場を取り、こうした動きに対しての牽制の為、レオンハルトを皇都へと帰還させる必要性にすら迫られている。
「……私を即位させて、その政権下で実権を握る、と。いいわね、面白そう……でも、私が傀儡に甘んじるとお思いで?」
「まぁ、だろうな。だからこそ断じて許容できなかった。北部貴族を国営の中枢に入れては取り返しが付かん」
アーダルベルトは、渋面を浮かべ、ウィシュケを口に含む。
国情を鑑みれば、これ以上の権力の分散は好ましくない。アーダルベルトは北部貴族に配慮しつつも、国際政治に優れた感覚を持つ者達による挙国一致体制しかないと考えていた。無論、そうした人物を一定数集めるというのは至難の業であった。
だからこそ、リシアを担ごうとした者達の心情も理解できた。
しかし、リシアの野心を、アーダルベルトは好ましく感じると共に危険視してもいた。
士官学校での密造酒事件までなら可愛いものであるが、有力貴族や商家との顔繋ぎや協力関係の構築を、候補生時代から政治的な動きをするなど並大抵の事ではない。しかも、リシアの場合はその時点では然したる後ろ盾を持たず、紫苑色の髪のみを武器に立ち向かった。並大抵の胆力ではない。政治と軍事を分けて考える言動が多いと報告を受けていたが、同時に政治が軍人の進退に影響をしている事も理解しているのだろう。
だが、アーダルベルトが重要視したのは、リシアが有力貴族や商家の浮沈に対して驚く程に敏感であった点である。リシアが関係を構築しようと目論んだ有力貴族や商家は、現在では隆盛しているものも多い。そして、リシアを担ごうとした勢力も、嘗てリシアと関係を築こうとした者達であった。
リシアは政治的視野を持っているが、政治的感覚がない。
士官学校を退学した原因が、商家の確執に巻き込まれた事であることからもそれは窺える。見る目はあっても相手を思うように動かすだけの才覚はないのだ。無論、そうしたことができる者は極僅かで、人間種の若者がそうした才覚を獲得しているなど“真面”ではない。
リシアが猫種の給女が運んできた葡萄酒の酒瓶を手に取り、自らの硝子碗に注ぐ。相手に注いで貰うのを待つという心算はない様であった。嫌われたものだと、アーダルベルトは苦笑を一層深くする。
「同行者も連れてきたようですね」
リシアが、アーダルベルトの背後へと視線を巡らせる。
同行者一名を付けるとの事であったので、アーダルベルトが引き連れてきたのが、背後の席に座らせている中央総軍の砲兵参謀オスカー・ウィリバルト・バウムガルテン中将と、軍狼兵参謀のヴォルフローレ・フォン・ハインミュラー中将であった。内戦で殆どの激戦に参加したリシアに対して興味を示していた事に加え、征伐軍の解体と〈北方方面軍〉の編制の監督や指揮を続けている為、出向という形でフェルゼンに駐留していたという理由で、アーダルベルトが同行者として連れてきたのであった。一人多いが、証人が多いに越した事はない。
些か桃色の雰囲気を漂わせているので癇に障るが、アーダルベルトは同行しているだけで十分と割り切っていた。
「君は連れていない様だが?」
「一応、そこに転がっている酔いどれ神父です……」
二階席の壁際に転がっている酒瓶を抱えた神官服姿の丸眼鏡中年を一瞥するリシア。心底軽蔑したような視線である。何処か気安さを感じさせるそれに、アーダルベルトはそれなりに近しい関係なのだろうと推察する。
――神父。ヘンリック・アインハルト・ラムケ中佐、か。確か北部の急進的右翼の中心的人物の一人だったな。報告書では彼の孤児院で育ったとなっているが。
リシアの視線が呑んだくれの駄目親父に向ける視線そのものある事に一抹の寂寥感を覚えつつも、アーダルベルトは話を進める。
「話したい事は、貴官の出自についてだ」
「その点が不明だからこそ脚色し易いって事ね。マリア様も、どうせなら何か出自を作っておいてくだされれば良かったのに」
興味な下げな口調であり、面倒な事であると言いたげな言葉に、アーダルベルトも同意したい気分であった。
――マリア様……か。それなりに交友関係があったと見ていいだろうな。名付け親の可能性もあるが。いや、流石にそれはないはずだが。
名付けた出自不明の紫苑色の髪の孤児が、母の現身の如く成長するなど流石に都合が良過ぎる。
「貴官の名前は誰が与えた? 美しい名だ」
「……さぁ、私が知りたいくらいです、クロウ=クルワッハ公爵閣下」
興味すら抱いていないのかリシアは、葡萄酒を飲みながら気だるげに吹き抜けから一階を見下ろしている。
一階には多くの客が入り始めており、酒盛りが始まっている。軍人向けの大衆酒場なのかどの席も軍人ばかりであり、高級将校の割合が多い。こうした粗野な雰囲気を好む気風が北部は強いと知るアーダルベルトとしては不自然に感じなかった。
しかし、次々と店内へと入ってくる面々に将官が少なくない数で混じっているとなれば話は別である。
――フリードリヒ・イエッケルン少将に、ヴァルター・フォン・ライヘナウ中将、ロタール・ビットリッヒ少将、あちらはエーリッヒ・クリューガー少将……あの炎狐族の佐官はハウサーの娘か。……参謀本部の面々もいる。
まさかリシアが呼んだ訳ではないだろうと考えるアーダルベルトだが、リシアが精力的に将官達と連携していても不思議ではない。内戦中に成立した北部統合軍の内情は複雑であり、戦時下であった事もあって情報が錯綜している。その上、情報部の”活躍“で記録や書類が散逸した例も少なくない。短時間で調べさせるのは不可能だったのだ。
「私の任務は北部の護持です。何処かの誰かに傀儡にされる事ではありません。……これで満足ですか?」
その様な面倒には関わりたくもないと言いたげなリシアが、硝子杯の葡萄酒を一息に飲み干す。
言うだけならば容易いが、リシアの言動や行動を鑑みるに即位して権力闘争に参加する可能性は十分にある。だからこそ、アーダルベルトは釘を刺す目的を含めてこの場に在った。
もし、リシアが即位に対する野心を抱いた場合、混乱の度合いによっては皇国の政治機構は致命傷を受けかねない。リシアだけが自身の命を以て進退を賭けるのではなく、多くの者が運命を流転させる事になるのは間違いなかった。最も被害を受けるであろう政府と中央貴族を踏まえれば、北部貴族からの切り崩し工作とすら考えられる。
だからこそ恐れているのだ。
政府のシュトレーゼマン首相などは顔を真っ青にしているとの事で、中央貴族の一部もこの状況下で紫苑色の髪を持つ者が北部にいる点を危険視していた。
仕組まれている可能性があるが、そうだとしても誰が意図を引いているか分らない。
下手に諜報活動を行えば、北部貴族や〈北方方面軍〉に露呈した際に一波乱は避けられない。表面上とは言え、協調路線を取り始めた各勢力の連携に罅を入れる真似をする事は、この期に及んで許されないのだ。
「口にしたところで意味はないでしょうけど、でも誓約書を認めたところで意味もない。違いますか?」
そう、双方にある程度の信頼関係が構築できていなければ誓約は成立しない。ましてや日常的に武力で契約や常識を踏み倒していたマリアベルの配下で、ヴェルテンベルク領邦軍軍人であったリシアの誓約書など塵紙に等しい。
アーダルベルトとて、信用できるかと問われれば言葉に詰まるのである。
二十歳に届こうか否かという年齢の人間種が大佐まで駆け上がった例は少ない。その身に十分な野心を隠しているのは疑いなく、その異常な昇進速度はマリアベルの優遇を示すものでもある。そうした点も、リシアとマリアベルの関係を疑わせる要因であった。尤も、サクラギ・トウカの昇進速度の前に影に隠れがちであるが。
ヴェルテンベルク領邦軍は若手将校の昇進速度が速く、拡充を続けた事による人材不足と判断していた陸軍府であったが、その評価は特に抜きん出た立場を与えられていたトウカとリシア、ザムエルが覆した。
彼らはマリアベルが大衆受けの良い英雄を欲したからこそ昇進できたと言える。紫苑色の髪を持つリシアは英雄として用いるに御誂え向きで、ザムエルは大衆寄りの英雄としての側面を求めてである事は、喧伝の遣り方を踏まえれば容易に推察できる。逆にトウカの場合は喧伝の方法に指向性がなく、マリアベルがトウカに求めていた役割が不明確であった。
――元より想定していなかったか、迷ったか……
マリアベルが死した今となっては分からない。
「どの道、これは警告ではありませんか? 私はクロウ=クルワッハ公の警告に怯えながら頷いた。それで宜しいでしょう?」
もう面倒臭いわこの糞親父と言いたげな顔で、リシアが呟く。そのエルリシアの現身の様な容貌に、マリアベルの面影が重なり親子喧嘩をしている様な感覚に捕らわれたアーダルベルトは身体を揺らして苦笑する。
そんなアーダルベルトの様子を嘲笑と受け取ったのか、リシアが舌打ちを一つ。
不敬である事この上ないが、周囲に二人が会話した事を匂わせつつも、少なくとも非公式の場である為に背後のオスカーとヴォルフローレは咎めない。若しくは、睦み合う事に多忙で二人の遣り取りを聞いていないか。
「注目している者は注目している様だ。見せ掛けでも顔を真っ青にして頷く姿でも見せては如何だ?」
何対かの視線を感じて、アーダルベルトは鼻を鳴らす。
そうした風評こそが自身を護ると、リシアも理解しているはずである。であるにも関わらず、この横柄な態度というのは解せない。店内の高級将校が増え続けている事と無関係ではないのだろう。
アーダルベルトは懸念よりも、リシアが何を仕出かすか楽しみで仕方がなかった。
「……全く何処まで似ているのか」
容姿も雰囲気も……性格までも。
それは喪われたものであったはずだが、こうして眼前に存在する。
その奇蹟に、胸中に去来する在りし日の記憶がアーダルベルトの涙腺を刺激するが、まさか涙を見せる訳にもいかない。若造の策に嵌り、片腕を義手にする事となった上、佐官に泣かされたという不名誉な噂が立てば、アリアベルに付け入る隙だと喜ばれかねない。娘の教育に失敗したアーダルベルトは、その点を十分以上に弁えていた。
思案顔のリシアが、小首を傾げて小さく微笑む。
「マリア様の御母堂に、ですか?」
当然の様に呟かれた言葉に、アーダルベルトは虚を突かれる。
「………知っていたのか?」
「勿論。だからこそ私が揚げ足を取れるのかと」
リシアは、アーダルベルトが自身に対して複雑な感情を抱いているであろう事を理解している。無論、戦野で矛先を鈍らせる程とは思ってはおらず、トウカを護る為に飛び出した際のアーダルベルトの行動は予想外であった。
アーダルベルトは、リシアのそうした考えを感じ取る。
――自分が“特別”であると理解している、か。
アーダルベルトにとって自身が特別である事を理解し、それを当然の様に享受する姿勢。使えるもの全てを利用し、自由気儘に駆け抜けた最愛のヒトと重なるその姿に、アーダルベルトは胸に迫る感情があった。
あらゆるモノを利用し、自由気儘に生きた女性。
軍人や政治家という職業は、リシアにとって天職なのだろう。無論、結果が伴い、運があればという前提が付くが。エルリシアにマリアベル……それに続くというのであれば間違いなく政戦に関わるべきではない。もし、彼女らと同じ血縁に連なるのであれば尚更である、とアーダルベルトは断言できる。
クロウ=クルワッハ公爵家の血縁に連なる女性は、政戦に関わって身を崩した者が多い。
エルリシアにマリアベル、アリアベル……そのどれもが政戦に関わり、或いは巻き込まれて不遇を強いられ、若しくは命を落としている。
「一体、君は何者だ?」
「私が何故、斯様な身形であるか……教える心算はありません」
葡萄酒ワインが空になった自身の硝子碗に、ノルデンシュターデ・モルトを注ぎながら、リシアが苦笑する。自身の優位性を離すに等しいと考えているのだろう。
アーダルベルトとしては、リシアの“正体”や“原点”をこの場で探り出しておきたいと考えていた。押さえ付けるにしても庇護するにしても、リシアの容姿だけでそれらを成す事は難しい。リシアをどの様に扱うにしても、それ相応の“理由”が必要である。まさか前妻の現身であるから安全な後方勤務に縛り付け、昇進で優遇するなどという真似はできない。
無論、総てを無かった事にすればいいのもまた事実である。
だが、アーダルベルトは、リシアを喪いたくなかった。故に理由付けが必要なのだ。
遠ざけて栄達の道を閉ざすにもそれ相応の理由が必要である。
七武五公の行動に意味を見い出す者は多く、それを利用する為に蠢動する者もまた後を絶たない。多くを成せる権力は、多くの面倒を呼び込むという側面もまた持っているのだ。それにより内戦を止める時期を逸したことは痛恨の失態と言えた。
七武五公という門閥貴族は、強大な権力を持つが故に権力に縛られているのだ。
リシアという女性佐官は理解していない。権力の恐ろしさを。
そして、紫苑色の髪を持ち、エルリシアの現身であるという事実が齎すであろう混乱を。
そんな事など興味なさげなリシアは、女給が運んできた白腸詰めを突き匙でばらばらに引き裂いている。
白腸詰めは、よく挽いた仔牛肉、新鮮な豚の燻製ばら肉から作る腸詰めで、風味付けに無数の香草や野菜を使用したそれは皇国北部地域における伝統的な保存食であった。
対照的に、アーダルベルトは上品に皮に横に裂け目を入れて、肉を突き匙で中身を取り出して口へ運ぶ。
溢れる肉汁に、やはり本場は違うなと思いつつも、リシアへと視線を巡らせる。
それに気付いたリシアが、口元に垂れる肉汁を親指で拭い、舐め取ると苦笑する。
「ですが――」
親指に舌を這わせるその扇情的な姿に目を惹かれる。
「――もう少し、この場に居られるのであれば、少しは分かるかも知れませんね」愉悦に口元を歪めた紫苑色の髪の女。
権力に餓え、暴力に飢えた瞳が、アーダルベルトを見据える。
「我らの……私の求める結末であれば」
時を同じくして、大衆酒場の出入り口から鯨波の如き歓声が上がった。
アーダルベルトは、眉を顰めて視線を巡らせる。
歓声に応えるかのように、敬礼と共に大衆酒場の大会場を進む若き軍神。
サクラギ・トウカの登場であった。
「やぁ、サクラギ中将。今日こそは良い返事を聞かせて貰うぞ!」
「軍神殿が御旗となれば、中央に抗する事も出来ましょうぞ!」
「やはり、蹶起軍の再結成だな!」
口々に勇ましい言葉で周囲者達と頷き合い、際限なく狂騒を拡大させていく将校達の波に、トウカは屈託のない笑みと共に敬礼を以て応じる。
一際、大きな歓声となり、意味を成さない言葉の奔流がトウカの耳朶を打つ。
――錚々(そうそう)たる顔触れだな。バイエルライン少将にベーレンフェンガー少将、ミューレンカンプ中将、マイジンガー大佐、イエッケルン少将、フォン・ライヘナウ中将、ビットリヒ少将、クリューガー少将……元情報部のカナリス中将もか。
旧北部統合軍参謀本部の面々や、トウカの面識すらない将校が一様に笑顔を見せながら、古惚けた大衆酒場を一杯に満たしていた。
白麦酒が飛ぶ様に運ばれ、給仕達が忙しなく料理を運ぶ光景は一族が集まる祭事の如き喧騒に満ちており、気後れさせる程の無秩序を演出している。
笑顔で語り掛けてくる将校達と軽く言葉を交わしながら、トウカは最奥の演壇を目指す。本来であれば、大衆酒場の演壇は舞台芸術を表現する場であるが、泡沫政党が自身の主張を叫ぶ場としても皇国各地では提供されてもいた。複合的な要素を持つ交流の場としての側面を持つ大衆酒場は、遠く昔より武人達の主張の場としても使用されていたのだ。
今日の出来事も、またそれに連なるものに過ぎないが、集まった面々は異色と言えるだろう。
階級章や徽章、飾緒、勲章、戦功章、略綬などで煌びやかに装飾された第一種軍装が目立つ将校達の波の中に、少ないながらも見受けられる背広姿の者達や礼服の者達こそがこの場に於ける最重要人物と言えた。
企業の取締役や会長、そして貴族達である。
北部の軍事、政治、経済における者達の中でも、中央への反感や現状に対する焦燥感の強い者を中心に、トウカはラムケやエップに声を掛ける様に依頼したのだ。ラムケは、マリアベルと比較的近しい人物であった事に加え、管理している孤児院出身の者達が北部各地で要職を担っている。そして、エップは北部各地の右派団体や各義勇軍に伝手があり、自らも北部最大の〈右翼義勇軍〉を統率していた経歴があった。
彼らの人脈は、その人間種よりも優れた寿命を差し引いたとしても尚、他者に優越したものと言える。
「貴女は……〈鉄兜団〉のディスターベルク大尉……少佐か?」
トウカは、目に留まった妙齢の女性へと敬礼と共に言葉を投げ掛ける。
「はい、閣下。フェルゼン防衛戦では格別の御配慮を戴いたこと、感謝いたします」
フェルゼン防衛戦で、エップが守備していた地区の隣の防衛を受け持っていた部隊の指揮官が、〈鉄兜団〉という義勇兵団を率いるテオラ・ディスターベルク大尉という妙齢の女性将校であった。格別な配慮という言葉は、義勇兵団に過ぎない〈鉄兜団〉の装備が旧式であったものを兵站部へと指示して領邦軍と同様のものへと変更させただけに過ぎない。
無論、諸々を理解した上で“格別な配慮”と口にしている事を理解したトウカは曖昧に苦笑するしかない。
周囲にそうした関係があると誤解させる事で立場を強化しようという意図は然して珍しいものでもない。ディスターベルクの能力の高さを踏まえれば、トウカとしては十分に許容できる打算であった。
「今宵、君が協力し続けてくれると分かれば、寝台の上まで格別の配慮を行いたいものだな」
「まぁ、閣下。……では、近々、奥方様の御赦しを頂いてきますわ」
それは困る、とは口にしない。軽口であって欲しい。否、軽口であらねばならない。
ディスターベルクの猛禽類のような瞳を苦笑と共に受け流して、トウカは再び、最奥へと足を向ける。
誰も彼もがトウカに注目している。
自らの名を以てこれほどの者達を集め得るという事実に、トウカは驚喜と諦観をその心中に併存させていた。
自らの指導の下で彼らが有機的に行動を起こし、それが一つの勢力となって一つの時代を築き上げるかも知れないという期待。そして、マリアベルの下に彼らが当初より集っていれば斯様な結末には成り得なかったのではないかという一抹の失望。
――斯くも麗しく、度し難いことか!
期待と絶望。相反するはずの二つの感情を併存させたトウカ。
彼は既に、ヒトという枠を踏み外しつつあった。
幼少の砌より偏った思想と軍事に関する知識を植え付けられていたトウカは、代償としてヒトとして欠ける部分が幾つも生じていた。政治や軍事に対して絶大な知識と理解を植え付けられたヒトにしてヒトならざる身は、祖国の現状を打開する為の“兵器”なのだ。
それを強く認識したのは、今この時であった。
祖国の窮状に対する焦燥感でも、マリアベルの今際の際でも、恋人の生まれ故郷の危機でもない。多くの者が危機感と思惑を背景に、圧倒的な権力を自身へと預けるか否かの選択を迫られている今この時なのだ。
――嗚呼、自分は救いようもない程の愚か者ではないか。
これからトウカの口先は幾多の屍山血河を生み出し、想像を絶する数の者達の運命を捻じ曲げて死に追いやるだろう。今のトウカには、その確信がある。
だが、それでも尚、その権力を手にするのだ。
最奥まで進み出たトウカは壇上を見上げる。
解体を容易にする為か、木造の簡素な舞台に過ぎないそれが、今のトウカには一つの分水嶺に感じられた。
軋みを上げる粗雑な木造の階段の感触を、トウカは一生忘れないだろう。
そこで、ふと気づいた。
視界の隅に、リシアから報告を受けていた通り、無表情のアーダルベルトが静かに座していた。二階席からの見下ろす様な視線に、トウカは苦笑するしかない。今は見届けるだけだろうという確信と、一先ずはアーダルベルトと干戈を交える事にはならないという確信がトウカにはあった。
そして、トウカは舞台へと立った。
舞台中央へと歩を進める。
演台すらなく、然して演説の内容すら考えていないが、トウカは気負うこともなければ緊張に汗を垂らすこともない。
皆がトウカに注目している。
軍人が、貴族が、商人が、政治家が、技術者が。
誇るべき武威と讃えるべき権威、眩いばかりの財産、賢しい頭脳を備えた有象無象が、一心不乱にトウカに視線を投げ掛けているのだ。
――狂気の狼。孤独な独裁者。御前は場末の酒場にある演説台で何を考えていた?
自らの祖国ではない国を守る為、総統の地位まで駆け上がった彼。
トウカの知る限り、地球で三番目に多くの死を撒き散らした彼。
彼の様に最愛のヒトを道連れに死に往くなどあってはならない。
故に今までの悲哀も憎悪も諦観も……戦い続けて踏み倒し続けるのだ。
その咎を。
その罪を。
トウカは償わない。
さぁ、自らの“正義”を世界に押し付けよう。
「諸君、闘争を始めよう」




