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紫苑穢国のエトランジェ  作者: 葛葉狐
第一章    戦乱の大地    《紫電清霜》
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第一五〇話    桜華と旭光




「ミユキ、泣かないの。貴族となったのなら、不用心に泣いてはいけないわ」


 マイカゼは、自身の膝に泣き付いてきたミユキの頭を優しく撫でた。



 ヴェルテンベルク伯、逝去。



 その報せは、今この時皇国を駆け巡っている。


 震源地であるヴェルテンベルク領では、貴軍官民が悲しみに暮れ、喪に服す為の準備を進めているだろう。明日の朝からヴェルテンベルク領は、激震に見舞われる事は疑いない。未だに、マリアベルの軍事的謀略であると見る者も少なくない。


 マリアベルという主君は、ヴェルテンベルク領にとってヴェルテンベルク伯爵家の領主と言うだけに留まらない。無論、産業を興し、軍を育て、経済を巡らせ、技術力を磨いたという功績も大きいが、それ以上に絶対的権力を手に精神的支柱として君臨し続けたという理由が大きい。恐怖の象徴であったものの、公平である事は疑いなく、貧困に苦しむ北部に在って領民の衣食住を常に満たし続けていたという点と並んで、ヴェルテンベルク領の領民からするとマリアベルは間違いなく最良の領主であり続けていた。周辺貴族領が内政で苦戦続きであった事もあり、相対評価もあってマリアベルの評価は揺るぎなきものとなっている。


 まさに伝説の終焉と言える。


 ヴェルテンベルク伯爵家家臣団の面々は一様に沈んでおり、広間には嗚咽が満ちている。


 総司令部や参謀本部、征伐軍将官の面々は、悼んでいる色よりも心配している色が表情に滲んでいた。


 総司令部や参謀本部の面々は、停戦協定の成立を堅持するのか、マリアベルの逝去によって生じるであろう政治的混乱に付け入られぬ様に、更なる戦果を希求するのかという点を気にしている。対する征伐軍の将官達は、マリアベルの影響力が軍事や経済という国力に直結する分野に多大なものがあり、それが統率を喪う事を恐れていた。


 誰もが今後について、明確な推測ができないのだ。


 それを知り得るであろうイシュタルは、上座に近い位置で正座をしたままに瞼を閉じている。


 話し掛けられる気配ではなく、周囲に近づく者もいない。反対にベルセリカは、総司令部の面々を相手に何事かを呟いている。耳を澄ませば、命令というには曖昧であるが、その内容は、自身やトウカなどと共に、現体制の維持に協力を求めているものであった。


 誰も彼もが、慌てふためいている。


 対するマイカゼは、この場に集まりつつある貴族や大企業の有力者の中で酷く落ち着いていた。無論、持ち得る権力が然したるものではなく、企業運営を行っている訳ではないからであるが、マリアベルとの付き合いが長いからでもある。


 そして、マイカゼはヴェルテンベルク領がこれから歩むであろう道を知っている。


 マリアベルは既に決めていたのだ。


 マイカゼは、それを知らされている。


 正直、何とも迷惑な話であるというのが、マイカゼの忌憚なき感想であるものの、ミユキや天狐族全体の為にも必要な事であると言えた。つまり、マリアベルはそれらを叶える条件としてマイカゼに面倒事の一切合財を投げ付けたのだ。


 呆れてものも言えないとは、正にこの事である。


 深い溜息を吐いたマイカゼは、長く艶やかな量感(ボリューム)のある尻尾を一振りする。


 縁側で佇むマイカゼは、抱き寄せたミユキの背中を尻尾で撫で、ただ流す涙を其の儘に黙っていた。泣きたいときは泣けばいい。狐は世界で最も自由な種族。思う侭に振る舞うのが好ましい。貴族となったとはいえ、未だに年若いのだ。


 これからの時代がどうなるか、漠然とした行く末を、目を瞑り、思考の海に浸りながら考えていたマイカゼの袖を、ミユキが引っ張る。


「お母さん……」ミユキの不安げな声。


 瞼を開けたマイカゼは、狐耳を揺らす。


 気が付けば、少なくない怒号と悲鳴が飛び交っている。


 振り向けば広間の中央で、軍刀拵えの太刀を手にした武官が、周囲の者達と揉み合っている。あまり子供には見せたくはない刃傷沙汰であるが、マイカゼは一瞥しただけで視線を戻す。怯えたミユキが自身の右手に抱き付いてくるが、マイカゼからすれば貴族社会の常であり、見ておく事も悪くないと考えた。


 恐らくは、殉死だろう。


 主君が戦死したり、敗戦により腹切した場合、家来達が後を追って、討ち死にや切腹する事や、或いは、その場に不在であった場合、追い腹をする事は皇国権威主義の精華として周辺諸国でも良く知られている。強制ではないが、皇国の貴族社会では仕える主君が戦死した場合、妻子や家臣、従者などが主君の死を追う事が美徳とされる風潮が未だに一部では残っている。特に封建主義的な部分が根強く残る北部では健在であった。


 無論、この貴重な人材が失われるという弊害に、政府はかなり以前から気付いており、殉死を抑制しようとしたが大きな効果はなかった。地方分権的制度に近い体制の弊害と言える。


 マリアベルは信仰だったのだ。


 絶対に喪われる事のない道標。絶対視は神聖視へと続き、神々へと繋がる。


 それが喪われたという喪失感は、唯人に絶望感を受け付けるに足るものである。しかも、それが急であり、今後の展望に不確定要素ばかりとなれば、現世から逃げ出したくなるのは理解できないものではない。


 明日には、殉死と政治闘争が満ちるだろう。


 領邦軍将兵や政務官僚、領民にも殉死という追い腹の動きは広がり、更にその混乱によって政治闘争は助長されるだろう。そして、ベルセリカやトウカは、それらの鎮静化に積極的に軍事力を用いる事を躊躇わないに違いない。不平不満を軍事力で押さえ付け、彼らは血みどろの統制を実現する事は疑いない。


 ヴェルテンベルク伯爵家家臣団は、それを恐れてもいるのだ。


 前任の家臣団の影響力を恐れて、後任の貴族が家臣団を排斥する例は少なくない。そして、トウカと家臣団の仲は御世辞にも良好とは言えなかった。認められてはいるが、マリアベルの度を越した優遇はトウカへの隔意となり、トウカもマリアベルもそれを気にも留めないまま、ここまで来てしまった。二人は余りにも結果ばかりを重視して、周囲を顧みない部分がある。マリアベルが家臣団を形成し、周囲から信頼を勝ち取る事に多くの時間を費やす事になったのはそうした理由もあるのだ。トウカとマリアベルは、良くも悪くも似た者同士と言える。


 そして、その行動も短時間で、即効性のあるものを選ぶだろう。


 武力での排除。


 その不安が家臣団を襲っているのだ。場合によっては、親兄弟、家族を巻き込んでの殺し合いとなるだろう。親族の悉くが殺される可能性とて有り得る。トウカが本質的にマリアベルの継承者であるが故に、非常の時世に在って、非情の手段を用いて平定するを躊躇わないのは周知の事実と言えた。そうした点も殉死という行為の背を推していると言える。少なくともトウカの排除行動に家族や親族を巻き込むのを避けられるのだ。


「斯くなる上は、一命を以て忠義を貫くのみ……ッ!」


「待たれよ! しかし、今ここで我らが散れば――」


「手伝え! この莫迦を押さえろ!」


 わらわらとヴェルテンベルク伯爵家家臣団を中心とした掴み合いが起きる。止めようとした総司令部や参謀本部の面々も加わって、俄かに慌ただしくなるが、マイカゼは遠目に捉えるだけである。


 職責を辞するなり、隠居するなりすればいいのだが、それをするには後任者に絶大な影響力を齎すかも知れないトウカを信用できず、ヴェルテンベルク領を不安定な方向に導くかもしれないという懸念があって、軽々に家臣という立場を投げ出せないのだ。


 不安に苛まれた家臣団の中で、最期に縋るのは、やはりマリアベルなのだ。


 だから殉死となる。


 死に縋るしかない。


 救いようのない状況である。


 死して尚、縋られる程にマリアベルは、絶対的で強大な主君であったのだ。


「あらあら、剣聖殿、止めないのかしら?」


 マイカゼは、何時の間にか背後で胡坐を掻いていたベルセリカへと言葉を投げ掛ける。


 ベルセリカは、次期ヴェルテンベルク伯爵が誰であれ、重用される事は疑いない。目に見える形の明確な英雄は何処の勢力も欲しており、その上、ベルセリカは、この内戦で北部統合軍最高司令官を務めたという実績がある。北部統合軍が存続するならば、ヴェルテンベルク伯爵位を継承するに不足はなく、場合によってはその指名権すら持つ。


「ヴェルテンベルク伯爵家の、先代に重用されたた者は潔く死に、円滑な世代交代を実現する為とあれば不都合では御座らん」


 酷く冷淡な言葉。


 その口振りから察するに、ベルセリカは彼らの殉死に対して騎士として賛同しかねるのか、何処か表情には苦々しい感情が窺える。


 それは止むを得ない事で、主君を喪いながらも遺志を継承して生き恥を晒したと考えているベルセリカからすると、殉死は現状からの逃げでしかないのだろう。騎士や武士は本質的に違う武人であるが、ただ目的の為に全てを擲つ者という大前提に変わりはない。ベルセリカにとって、騎士として目的を全うすべく生き恥を晒す事が“戦い”であったのであり、そうした騎士として恥辱である艱難辛苦を耐え続けた者からすれば、太刀を手に喚いている家臣など、議論するに値しない程度の存在なのだろう。或いは、武士と騎士の感性、或いは死生観の違いとも言えるかも知れない。


 マイカゼは苦笑する。


 誰も彼もが、誰かに縋って生きている。高位種と言えども、その精神は人間種と変わらないが故に。。


「さて、私は誰に縋ろうかしらねぇ……若くて、健気で、それでいて不器用で……ついでに時折、無邪気な笑顔を見せてくれる男の子がいいわねぇ。…………まぁ、だから私が訪ねてきたのだけど、その辺りはお分かり?」


「御主……いや、そうか。その手も有り得るという訳で御座ろうな」


 マイカゼの言葉に、驚きと納得を見せたベルセリカが立ち上がろうとした。


 しかし、それに先んじて立ち上がる者がいた。


「やめてくださいっ! こんな時に死ぬなんて卑怯です! 卑劣です!」ミユキが尻尾を逆立たせて手を翳す。


 ベルセリカが慌てて割って入ろうとしたが、マイカゼはそれを制する。


 大いに嘆き悲しみ、激怒し、思う侭に心情を迸らせればいい。


 この場を収めるのは、打算ではなく、偽りなき本心なのだ。


 ――貴族として、これからどう振る舞うか……私に魅せなさい、ミユキ。


 笑顔のマイカゼ。


 その本心を推し量り得る者は、誰一人としていなかった。










「マリア様は、あんなに生きたいって泣いていたのにッ!」


 生きたいと願い、最愛のヒトと共に在り続けたいと嗚咽を零す女性が死に、その遺志を継ぐべき者達の一部がそれに縋り付き、自身の生命を投げ出そうとしている様子に、ミユキは尻尾を逆立たせて右手を振り払う。


 直線上にいたヴェルテンベルク伯爵家家臣団と一部の殉死を叫んでいた者を抑えようとしていた総司令部や参謀本部の面々の一部も諸共に広間から吹き飛ばされる。


 風魔術……第二種広域影響魔術に指定されるそれは、軍用術式ではないものの、魔導資質に優れたミユキが怒りに任せて用いたことで通常以上の効果を発揮した。


 高密度の風の壁が叩き付けられたかの様に、多種多様な軍装の者達が広間を舞う光景は見た目にも派手であり、運よく巻き込まれなかった者達は呆気に取られている。


 襖諸共に廊下にまで飛ばされた者もいれば、木造の柱に叩き付けられた者もいる。レオンディーネやリットベルクですら、その魔術陣の展開速度に反応できずに後手に回ったことからもその展開速度は窺えた。


 本来であれば、応戦する者がいたかも知れないが、ミユキの背後で何時もの変わらない笑みを浮かべるマイカゼと、腰に佩用した大太刀の柄に右手を添えたベルセリカの姿は、その場にいる一切の者に絶大な強制力を齎した。


 誰もがミユキに視線を向ける。


 その暴挙という理由もあるが、それ以上に貴族としてではなく、一人の少女としての涙に対して臆したという理由があった。術数権謀の政治闘争に涙を持ち込む女というのは、皆無と言って良い。権利と利益で動く権力者が、涙という自身に対して決して益を齎さないそれに動く事がないからである。


 だが、明らかに打算もなく、子供の様に泣いているミユキに大いに狼狽えた。


 打算もなく感情のままに動く上位の相手を、権力の中で動く多くの者は苦手としている。


 合理的な組織運営と建設的な交渉によって物事を進める貴族や有力者は、こうした場で子供の様に泣くミユキを相手にするなど予想だにしていなかったに違いない。


 ミユキは、涙ながらに問う。


「生きる事を願って叶わなかったマリア様の前で命を無駄にするんですか!?」


 何も分かっていない。


 ヴェルテンベルク伯爵位など、マリアベルからすれば数ある手段の一つに過ぎなかった。そして、彼らはマリアベルの願いすら知らない。


 信頼できなかったのだろう。


 こんな様では領地の統治“程度”にしか使えないだろう。自身の思惑や感情を吐露し、共に戦い往く者が少なかったからこそ、マリアベルはトウカという不可思議な存在に傾倒したのかも知れない。


「なにも知らない癖に! マリア様が主様に逢いたいって泣いてたのに! 貴方達は、何もしなかったし、できなかった! それなにの意志を継ぐ事もなくて無駄死にしようとしている! 貴方達みたいな莫迦ばっかりだからマリア様は早死にしちゃったんだ!」


 マリアベルの周囲にいたのは、何時もイシュタルかセルアノだけであった。


 ミユキだけでなく、トウカやベルセリカなどがヴェルテンベルク伯爵家家臣団に対してなんら配慮を見せなかったのは、その影響力が限定的であった事が上げられる。


マリアベルは家臣団の役目を領内の統治の一部に限定していた。その上、軍事は領邦軍に、政務は政務部に多くの権限を与えていた事から、マリアベルに近しいはずの家臣団が信頼されていなかった事は容易に想像ができる。統治の一端を取り仕切る者として、”信用“はされていても”信頼“はされていなかったのだ。


 マリアベルの他者を信頼することに対する障害(ハードル)が高い事もあるが、同時にその治政が何百年も続いていた以上、信頼を勝ち得る期間としては十分なはずなのだ。ミユキからすると、家臣団は、主君のマリアベルが期待を寄せていなかったとはいえ、主君の心を慮ることを怠った不忠者にしか見えない。


「しかし……」尚も言い(つの)ろうとした家臣の一人。


 ミユキは、問答無用で捲れ上がっていた畳を尻尾で弾き飛ばす。名前も知らない家臣の一人が腹部に直撃を受けて再び宙を舞い、他の家臣を巻き添えにして広間の端に投げ出された。


 莫迦ばかりだ。ミユキはそう思う。


「家臣なら主君の心中を察して、本当に望むことを成すべきですっ!」


 トウカは、きっと、マリアベルの望むままに在り様を変えたからこそ、愛を囁き、初心な乙女を扱う様に接したのだろう。トウカは、恋人がいるにも関わらず、その忠誠と手段としてマリアベルを愛した。愚直なまでの不器用さの発露こそが、トウカとマリアベルの愛の形なのだ。ミユキはそう思っている。


 そうでなければ、自身以外の女性に愛を囁くなど有り得ない。あってはならないのだ。 


「男だったら女を笑顔にしてみてよッ!」


 トウカは、それを成した。


 ミユキとしては複雑な気持ちを抱く結果となったが、同時に人間種という不利をものともせず、自身だけでなくマリアベルまでをも笑顔にしてみせたという事実は誇らしくもある。


 堂々と、そう言ってのけたミユキ。


 家臣団は一様に困惑している。


 レオンディーネは鷹揚に頷き、リットベルクは微笑んでいる。


 総司令部や参謀本部の面々は、軍務によって家族や恋人を蔑ろにしている部分が否めない為、何処か決まりの悪い表情をしている。軍務と恋愛は、本質的に両立することがないのだ。


 ミユキの激怒に、家臣団も総司令部も参謀本部も何処か所在なさげであった。










「あらあら、拙いわ拙いわ拙いわ……ちょっとマリィ、話が違うでしょう? 教えたって言ってたでしょう? することしてから召されなさいよぅ」


 隣で呟くマイカゼに、ベルセリカは碌でもない事を目論んでいたのだろうと想像する。


 やはり、マイカゼとマリアベルにはそれなりの交友関係があったのだろう。


 考えてみればライネケが攻撃を受ける前に、マリアベルが即応できる兵力の少ない中、自ら戦車を率いて現れた事を踏まえると有り得なくもない。ライネケが攻撃を受けると知って増援を差し向けようとしたが即応できる部隊はおらず、居ても立ってもいられないと使える戦車を掻き集めて慌てて駆け付けたと取れなくもなかった。


 有り得ない事ではない。


 マリアベルは、公表されていなかったライネケを知っていた。


 里の中でも建造物の配置を知っているかの様に振る舞い、匪賊襲来の際も地形を把握している言動が多々あった。考えてみれば、マリアベルとマイカゼに交友関係がある事は、不自然ではないとベルセリカは思い直す。


 しかし、マイカゼとマリアベルは、一体、どの様な遣り取りをしたのか。


 マリアベルがミユキに余計な事を吹き込み、マイカゼはナニカを読み違えた様子であるのは傍目にも想像できるが、これ程までの焦りを示すのは興味深い事である。


 困ったと狐耳をぺたんと垂らしたマイカゼに、ベルセリカは溜息を一つ。


 娘の誘導に、強権主義の龍姫を利用したのかも知れないが、上手くいかなかったのだろう。


「あの仔……男の業を全く理解していないのね」


「……業? 野心では御座らんのか?」ベルセリカは眉を顰める。


 野心にも多くの種類があるが、トウカの場合は軍事力の伴った行動となる可能性が高く、その影響と被害は計り知れない。マリアベル逝去による混乱が、その引き金にならない様に、トウカに釘を刺す心算であったベルセリカとしては、マイカゼがトウカの野心を警戒している様子がないのに驚いた。


 過ぎたる野心は身を滅ぼす。


 それは、政戦問わず、多くの闘争を見てきたベルセリカであるからこそ真に理解し得る悲劇である。そして往々にして、野心は周囲や組織、国家を巻き込むと相場が決まっていた。ましてや、野心を抱いたものが優秀であればある程その被害は大きくなる。


 ベルセリカは、トウカに懸念を抱いている。


 ミユキとヴェルテンベルク伯爵家家臣団を見て気付いたのだ。


 トウカは凡人を顧みる事はないのではないか?


 あくまでも効率的に“運用”するだけだ。


 国家に住まう大多数は凡人である。それ故に資産や権力が国営に致命的な影響を及ぼさない様に偏ることを防ぐ為、政府が存在している側面がある。無論、それが機能しなくなれば、国家の斜陽であり国民の不幸でもある。


 ベルセリカは、国家体制の違いは専制君主政や民主共和制などというものではなく、統治機構たる政府の資産や権力の分配機能の差異だと考えていた。


 専制君主政は、極少数の権力者に多くの資産や権力を与え、即効性のある統治を行う。

 民主共和制は、大多数の国民に平等に権力を分配する事で、高い競争力を実現する。


 トウカは、明らかに前者に適した人間であり、皇国の治政もそれに近いものがある。


 ならば、大多数の凡人は、トウカの考えを理解できず、衝突するかも知れない。


 現在は戦時下であり、しかも状況は危機的である事から非凡な才覚を持ったトウカは大多数の凡人から守護者と仰がれる存在であるが、戦局に余裕ができれば、トウカの急進的な遣り方に反感を抱いて衝突が起こるかも知れない。


 そして、トウカは、それを問答無用で薙ぎ払うだろう。


 特に戦時下が続いていたならば、トウカは費用対効果(コストパフォーマンス)と各種資源の浪費を嫌って武力で即応する事は疑いない。反動勢力が大きくなる前に圧倒的な戦力で撃破し、後に続こうとする不穏分子を抑制するに違いなかった。


 溜息を吐くベルセリカ。


 マイカゼは、ベルセリカの気苦労など気にも留めずに淡く微笑む。


「男の子はね、女と違って護る者が多ければ多い程に強くなれるのよ」


 片目を可愛らしく目配せ(ウインク)したマイカゼの言葉に、ベルセリカは思わず大太刀を抜きそうになる。一様に怯えた周囲の面々を、更に一睨みして悲鳴すら黙らせた。


「トウカの権力基盤の補強で御座ろうが……無理に女を宛がう真似は赦さぬぞ」


 天狐族は、それなりの人数を有した高位種族あるが、長く歴史の表舞台から姿を消していた為、その影響力は極めて限定的と言えた。


 トウカを軍人として政治家として……権力を振るう者として擁立するには、どうしても力が足りない。こうした場合、ベルセリカの名声や武名よりも、それ相応の政治基盤を有した組織の後ろ盾が好ましい。


 無論、トウカによって齎された戦果を強調すれば、それなりの地位に就くのは難しくないかも知れないが、やはり明確な力を持った政治的後ろ盾がなければ、何処かで横槍を受けかねない。その様な歪な立場でトウカを扱うなど危険すぎた。若き日のマリアベルの様に権力掌握の為の“草刈り”に熱中しかねない。


 そんなベルセリカの懸念を知ってか知らずか、マイカゼはころころと笑う。


「あら、トウカ君が本当に護りたいと思える女性を私達が用意できるはずがないでしょう? リシアちゃんの時も酷かったって聞いているもの」


 マイカゼの言葉に、ベルセリカは眉を顰める。


 当初のトウカとリシアの遣り取りはベルセリカも耳にしていたが、それはトウカがマリアベルの意図を警戒していたからであり、マリアベルという後ろ盾を失くしたリシアに、どの様な対応をするかという点も注視せねばならない。ある意味、リシアは完全に一将校という立場に戻った。


 強大な後ろ盾を失くしたが故に、唯の一将校として遇するか……或いは。


 非常に興味深いところであった。


「そこまで知っておるならば某は口を挟まぬが……あれの色恋は難儀ぞ」


 トウカという年頃の少年は、色欲という感情がない訳ではない。表情にこそ出さないが、年上の女性に見せる配慮がそれを窺わせる。もしかするとトウカという少年は、年上の女性が好みなのかも知れない。マリアベルとの噂を考えれば、それは決して外れた予想ではなかった。


「剣聖殿も好機(チャンス)ね。……傷付いた若き将星を騎士姫でもある貴女が優しく抱き止める。宣伝戦(プロパガンダ)に使えそうな内容だけど……貴女がミユキと一騎打ちなら楽し……ミユキが不利ね」


 絶対にこの女狐は、この状況を楽しんでいる。


「有り得ぬ……某如きの武辺者(ぶへんもの)を、あれが抱きたがるはずなかろう」ベルセリカは苦笑を零す。


 トウカが求めるなら大多数の女は股ぐらを開くだろう。権力という装飾品に魅せられる女は少なくない。好んで戦野で大太刀を振るい、大柄な身体をした自身を求めるはずがない、そうベルセリカは苦笑するしかなかった。


 マイカゼの想像力の逞しさに、ベルセリカは乾いた笑みを零す。


 そもそも、ミユキに恋心を向けるのは、ミユキが完全に、清々しいまでにサクラギ・トウカという一個人しか見ていないからではないか、とベルセリカは考えていた。


 現在のトウカは、ロンメル領邦軍司令官と北部統合軍参謀総長を兼務する有力者の一人である。軍務卿であったマリアベルの采配によって、戦略指導をトウカが担っていた事を踏まえると、北部地域最大の軍事力の運用を左右する立場にあった。


 だからこそ、誰も彼もがトウカを個人ではなく、肩書や権力越しに見て判断し、応じる。


 トウカが、それらの行為を自分を見ていないと取るのは不思議な事ではない。


 貴族令嬢からの言葉にもトウカは決して笑顔を見せず、軍人として対応している事からもそれは窺える。そもそも、権力を得てしまったトウカからすると、誰しもが自分をそうした目で見ているのではないかという不満と嘲りがあるのかも知れない。そして、それを全くの間違いであると断じる事はできない。一面においては、それは全く以て否定し難い真実なのだから。


 ミユキは、その性格や心根も然る事ながら、トウカと出逢ったのは、トウカが軍刀一振りで放浪していた際であるとベルセリカは耳にしていた。


 つまりミユキに関しては、出会った頃が何一つ持たない状況であった為、自身を権力者という色眼鏡で見る事のない存在だと考えているのかも知れない。マリアベルとて初見の際は、トウカが然したる権力を持たなかった点を踏まえると、その考えの例外とはならない。ならば、これから無条件で慕う事ができる相手というのは、そう現れるものではないだろう、とベルセリカは見た。


 ――ん? なれば、某も当て嵌まろうな……いやいや、斯様な事あるはずが御座らん。


 ベルセリカもまた、トウカとはミユキに次いで関わった者であり、その上、刃を交えたこともある。ついでに言うならば接吻とてあった。


「…………某は悪くは御座らん」


マリアベルという警戒すべき対象を失ったミユキは、次はベルセリカを警戒する可能性がある。恋は盲目なのだ。幾ら、ベルセリカが無実を叫んでも逃れ得るものではない。ましてや背後には、娘の恋愛を全力で煽動するマイカゼがるのだ。


「貴女の心に秘めた気持ちは置いておくとしても……ミユキにも女を磨いてもらわないといけないわ。貴族としても、女としても。それには競い合う好敵手が必要よ」


 悠然と微笑み、娘の成長の為に、暖炉に巻をくべるかの様に、当て馬の乙女を探そうとするマイカゼに、ベルセリカは頬を引き攣らせる。


 これでは自身が当て馬に使われかねない、と尚も言い募ろうとするベルセリカだが、上座に続く襖が開いたことで口を噤む。


 アリアベルが、千早を翻して、上座へと現れる。


 広間が静寂に包まれる。


 その姿に征伐軍の高官が席に座り、首を垂れるが、対する北部統合軍や北部貴族の面々は、困惑の表情で呆然としていた。


 続いて上座へと姿を現したトウカ。


 その腕に抱かれたマリアベル。既に喪われたマリアベルを構成していた身体。


 だが、多くの者が息を呑む程に驚いたのは、横抱き(御姫様抱っこ)であった事でも、乱れなく紫苑色の髪が整えられていた事でもなければ、雪花石膏(アラバスター)の様に映える化粧によるものでもない。


 水に濡れた様に艶が増した濡れ羽色の布地に、銀糸によって縁どられた色とりどりに咲き乱れる桜華。金糸によって刺繍された大きな旭日の紋様に彩られたその着物は、一見すると振袖とも見えたが、垂れた一回り長めに仕立てられた丈と厚手の裾は、それが打掛(うちかけ)である事を示している。


 打掛は婚礼で新婦が纏うとされる着物である。


 桜華と旭光。


 黒を基調とした打掛は少ないが、紅蓮の旭日は軍人であるトウカを知る者であれば誰もが知る将旗のものであり、ベルセリカ達の七弁の桜とは違った五弁の形状の桜は、書類の遣り取りをしている高官であれば、トウカの一族の家紋であることは容易に想像できる。


 前者はトウカがこの世界で将旗として戦野で掲げているものであり、後者は大山桜を花弁が重ならぬように二重にした桜城家の家紋であったが、前者は理解できずとも、後者の家紋が刺繍された打掛を纏う意味は嫌でも理解できた。


 広間に集う文武の高官や貴族の総てが慌てた様に座り直す。


 啜り泣く声に、呻き声が重なる。


 その指先一つ動かさぬマリアベルの姿に、最早、総てが終わったのだと感じた者は少なくない。


 同胞となって然したる時間も経っていないベルセリカですら、そう思えてしまった以上、ヴェルテンベルク伯爵家家臣団や北部統合軍の将官などは、改めて現状を思い知っただろう。


 廃嫡の龍姫は、一人の花嫁として死出の旅路へと足を踏み出したのだ。


 一人の龍姫の退場を以て、新たな時代の幕が開こうとしていた。





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