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紫苑穢国のエトランジェ  作者: 葛葉狐
第一章    戦乱の大地    《紫電清霜》
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第一四九話    死出の花嫁 後篇




「何故、黙っていた。マリィ」


 否、分かり切ったことである。


 軍務卿であるマリアベルの死期が近いなどという風聞は、抗戦を続ける北部統合軍にとって致命的な程の士気低下を招くだろう。軍務卿としてもヴェルテンベルク伯としても、或いは女としても看過できないと、マリアベルが考えている事をトウカは察していた。


 幾分か過ぎ、胡坐を掻いて黙していたトウカの言葉に、マリアベルが血混じりの声音で苦笑する。


 一度、マリアベルと言葉を交わした事で落ち着いたトウカには、訊ねるべき事が無数にあった。


 だが、それだけの時間は最早、残されていないだろう。


 先程まで僅かにシュットガルト湖の水平線を朱に染めていた黄昏時の残照は、既に夜の帷に追い立てられている。屋敷から見渡せる空には星々が命を燃やさんとするかの様に、その明星で北の大地を照らしていた。


 生まれ落ちる星もあれば、滅び往く星もある。


 なれど、その星々の煌きも、トウカの心を何ら動かす要素足り得ない。


 マリアベルという巨星が墜つ。


 星屑が如き有象無象の煌めきは、ただ照らすだけに過ぎず、マリアベルという類稀なる恒星の終末に対しては些事に等しい。


 開け放たれた庭園側の襖から差し込む、星々の煌めきによって、宵闇の中に映し出されたマリアベルの姿にトウカは声を出せずにいた。


 病魔に犯されても尚、他者に気丈な佇まいを見せたマリィが自身を演出する事を止めた。


 ――最早、着飾る必要もないということか。それとも、何としても伝えねばならない事があるということか?


 布団の上で上半身を起こしたマリアベルの姿を、トウカは遣る瀬無い感情を表に出さぬ様に窺い見る。


 一片の化粧すら施されていないマリアベルの(かんばせ)は、決意と諦観の結末なのだろう。


「……御主は知れば妾がヴェルテンベルク伯たるを認めなんだであろう」


 そのシュットガルト湖の様に静かな色を湛えたマリアベルの笑顔を見て、トウカは遅まきながらに悟った。


 トウカは疑念を抱いていた。


 長期的な視野でヴェルテンベルク領を発展させ、領邦軍としては皇国で最大規模の火力を有した軍勢を維持し得る産業基盤と、隙を見せない政治による統治を続けていたマリアベルが、なぜ今この時、勝算のないままに総力戦に応じたのか。


 実際のところ停戦を提案し、実現する機会は以前より十分にあった。


 条件付き降伏も内容次第であり、帝国が一度攻め寄せた際の自然休戦の際や、ゲフェングニス作戦によるベルゲン強襲などの状況ならば、話しの持って行き方次第では現状を維持できた。つまりは、力を蓄え続けるという選択肢も有り得たのだ。


 そして、何故、マリアベルがフェルゼン攻防の最中で、アーダルベルト殺害に固執したのか。


 否、明白である。


 自身の生命が尽きようとする時期を正確に悟ったからであろう。領邦軍を強大化させて尚、中央貴族を排すること叶わぬならば、せめてこの市街戦という好機にアーダルベルトを道連れにしてくれようと考えたのだ。


 マリアベルもまた、無理を承知でこの内戦を戦っていた。


自らの不利益を最小限に止めつつも、事態の収拾を図るという真似を最初からしていなかったのだ。その点を、トウカは疑問に感じた事もあるが、眼前の戦火の前に疑問は現実として潰えた。


「……クルワッハ公の殺害を急いたのは、それ故ですか……」


 こうした意味でも、トウカは大前提を違えていたのだ。


 一体、何をしていたのかと、トウカは嘆く。世間でいう軍神などという名は、主君の思惑すら読み取れない戦争屋の為にあるものではない。


「御主には感謝しておる。誅すること(あた)わず、と理解はしておった。それでも……言わずにはおれなんだ。なれど、あの者と戦えなどと残酷な事を御主に言うてしまった事、妾は後悔しておる」


 自嘲の笑みを浮かべようとしたマリアベルが咳き込む。それだけで、マリアベルの口元と、押さえた手には浅黒い朱色の汚れが滲んでいた。


「……姉様」


 アリアベルが、躊躇いながらも呟く。応じる言葉が見つからないのだろう。


「佳い。佳かろうて。アリア。妾の実力が届かなんだだけのこと。斯様な様では、やはりクルワッハ公の継承者としては選ばれぬのも当然か……まぁ、クルワッハ公の座など欲しいとは思わぬがのぅ」


 アリアベルは、その言葉に俯くしかない。


 マリアベルが口にした言葉の意味を正確に悟ったのだ。


 人間種との混血であるが故に中央の龍種から侮られがちであったマリアベルだが、そこに病弱という評判が流布すれば、事態がどう推移するかは明白であった。現にマリアベルは廃嫡され、北部に転封された。家族との繋がりを絶つ事に対する罪悪感か、アーダルベルトは当時の天帝にヴェルテンベルク伯爵位の継承を願い出たが、トウカはそれこそが総ての原因……内戦を含めた現状すらもそうであると考えている。


 ――いっそのこと貴族ですらなくなれば、そうした煩わしさから逃れ得たはずだ。


 貴族という階級の末席に在り続ける事になったからこそ、マリアベルは自らに対する否定的な評価を心の何処かで意識し続けた。そして、その結末が内戦であった。


 見つめ合う二人の様子を改めて見たトウカだが、二人が血の繋がった姉妹である様には見えなかった。腹違いである以上当然なのかも知れないが、似ている部分が何一つ見受けられない程に似ていない。


 一体、何をしていたのか。


 そして、総てを知ったならば、マリアベルがヴェルテンベルク伯であり続ける事をトウカは断じて認めなかった。


 立場も資産も権力も、総てを誰かに押し付けて隠居する事を勧めただろう。否、強制した。


 ベルセリカやエルゼリア侯に、病魔の進行状況が抜き差しならぬ状況であると事情を話し、次期ヴェルテンベルク伯に当たり障りのない人物を推挙しただろう。身近にベルセリカという英雄がいるならば、彼女にヴェルテンベルク伯の爵位を禅譲してもいい。その場合は、シュトラハヴィッツ伯爵家に協力に仰ぐ事は難しくない。


 ーー分からない。莫迦者め。別にマリアベルが抗戦の軍旗を携えている必要などなかったのだ。


「答えろ、マリィ。俺はそれ程に頼りない男か? 御前の背を護る事などできない男だったのか?」


 何故(なぜ)だ。

 何故(なにゆえ)か。


 そんなトウカの胸中で狂飆の如く吹き荒ぶ感情を察したのか、マリアベルは目を逸らす。


「済まぬ……妾は信じられなんだ」


 目元から零れ落ちる雫を隠す事もなく、マリアベルは毛布を強く両手で握り締めながら独白する。


 その姿と言葉に、トウカは理由を尋ねる事も、寄り沿って慰める事もできなかった。


 今までの行いを踏まえれば、信頼をされているなどと烏滸(おこ)がましい事は言えないが、少なくとも身体を求め合う程度には好き合っていたとトウカは証拠もなく確信していたのだ。


 大前提が崩れた。


 最初は打算だった。


 だが、言葉と身体を重ね合う内にトウカは気付いていしまった。


 マリアベルを喪いたくはないと。自らの持ち得る全てを投じて護りたいと望んでしまった。


 ミユキがいるにも関わらず、恋人がいるにも関わらず、将来を誓い合った者がいるにも関わらず。


「…………そう、か。いや、いい。俺は御前を利用した酷い――」


「違う! 違ごうて! 妾が、妾が総てを喪って尚、御主をミユキから振り向かせると思えなんだから……っ」


 何一つ手放せなかった。


 そう続けたマリアベルの言葉に、トウカは酷い思い違いをしていたと気付く。


 一切合財を捨てて、自らの寿命の為に使う事ができなかったのだ。


 何よりもトウカが、マリアベルという個人を求めた事を示さなかった故に。


 マリアベルを飾り立てる外部要素を誰よりも気にしていたのは、誰よりもマリアベル自身だったのだ。


 そんなものに興味はないと囁けばよかったのだ。否、当初はそれを求めて堂々と組み敷いたのだ。


 決してマリアベルは、容易い睦言など信じなかっただろう。戦争屋の戯言など、装甲姫が真に受けるはずもない。


 俯いて下唇を噛み締めたトウカ。


 何をしているのか。これでは、戦野で指揮を執り、愛する者を護っている心算で自己満足していただけではないか。


 一体、何の為に戦っていたのか。


 言葉を紡げないでいたトウカに、マリアベルは涙に濡れた(かんばぜ)を其の儘に、更なる悔恨を続ける。


「今、気付いた……御主のその顔を見てッ。妾が思い違いで、あった、とッ! 済まぬ。妾は、何をっ、しておったのかッ!」


 マリアベルが血を吐くが如く、否、血を吐きながら己を嘲る。


 残り僅かな生命の灯火を使い切らんばかりの言葉に、トウカは心を鷲掴みにされた。


 何も言えない。


 分岐点は、マリアベルが生まれ落ちた瞬間から幾度もあっただろう。


 だが、マリアベルは真正面から相対する途を選択した。そして、そんなマリアベルだからこそ、トウカは憧れを抱いた。


 マリアベルの母は人間種であり、その結末はマリアベルからする甚だ納得しかねるものであった事は想像に難くない。母が人間種であった事をマリアベルが呪など有り得ず、寧ろ、そうした評価に対して復讐心を募らせていたのは明白である。マリアベルが自らの出自を嘲るような真似をするはずがなく、そして斯様な小札(レッテル)を貼られたままに引き下がるのもまた有り得ない。


 マリアベルにとって、自らの母と出自を否定する勢力……その根幹を成す要素足り得たアリアベルという存在は打倒すべき対象なのだ。


 アリアベルがこうしてマリアベルの言葉に酷く傷付いている様子を見るに、それなりに仲の良かった時期もあったのであろうと推測はできる。破綻は双方が貴族や大御巫という立場に縛られ事であろう、とトウカは当たりを付けた。


 周囲は二人が友好的である事を好ましく思わず、二人は互いに敵対的な勢力に属していた。私情に勢力争いが加わり、二人は引けなくなる。


 実に下らない権威主義的理由である。


 権威を不特定多数に押し付けられて、錯覚する二人をトウカは哀れに思った。ヒトは、元来、何一つ背負っていない。本質的に自由なのだ。背負うか、打ち捨てるかは己次第。肩書や責務など周囲が押し付けた後付けの要素でしかない。


「姉様……私は……ただ」


 アリアベルの表情もまた、トウカが視線を逸らしたくなる程に痛々しい。


 継承権の問題を考えれば、もし二人の姉妹の立場が入れ替わっていたならば、マリアベルは不満を抱きつつも、周囲からこうも隔意を抱かれる事もなく、当たり障りのない生涯を送れただろう。或いは、アリアベルを多くの分野で補佐する優秀な人物として一定の評価を得るに至ったかもしれない。次期クロウ=クルワッハ公爵の継承権第一位がマリアベルであったからこそ、廃嫡されるに至った事を踏まえれば不運でしかない。


 そして、マリアベルは継承権を放棄するなど考えもしなかっただろう。自ら身を引くという事は、戦わずして身を引くという事である。マリアベルが、勝算なく身を引く事など有り得ない。


 ――似ていないか……


 トウカは胸中で呟く。


 マリアベルが病床の身であるという点を考慮しても、やはり二人は似ていない。顔の造作もそうだが、それ以上に、その身に纏う雰囲気、あるいは滲み出る風格、ただそこにいるだけでヒトを惹き付ける力……威風とでも言うべきものが違うのだ。


 野戦指揮官が持つ威圧感に近い要素を持つマリアベルに対して、アリアベルは権威者が有する様な神聖性を振り撒いている。


 風格や威風、権威というモノは曖昧であるが故に多くの種類があると言える。


 マリアベルは、軍人や主義者などの急進的な姿勢を持つ者に好まれるが、対照的に政治や現状に対して保守的なものからは忌避される傾向にある。後者が大多数を占めるのが、皇国の現状であった。


 だが、アリアベルの血統と立場によって支えられた明白なまでの正当なる権威は、この皇国という国家に在って万人に対し一定の効果を齎す。


 あくまでも一地方で熱狂的な支持を受けながらも、大多数から忌避されるマリアベルに対し、アリアベルは全国的な規模で支持を受け、慕われている。


 それは何処までも対照的と言えた。


 マリアベルは生まれながらに不利な立場を強いられ、アリアベルが逆にあまりにも突出し過ぎてしまっていた。


 マリアベルは現状のヴェルテンベルク領を創り上げ、領民から絶大な支持を受けるまでに四〇〇年掛かったが、アリアベルは五年足らずで大御巫という宗教的中心として国民から愛された。


 “持たざる国”が“持てる国”を羨望し、妬み、戦争を仕掛けた様に、マリアベルもアリアベルと相対する道を選んだ。否、相対するのではない。主敵はクロウ=クルワッハ公爵アーダルベルトであるが、立ち塞がるならば慈悲も許容もなく薙ぎ払う程度の対象へと堕ちたのだ。マリアベルは、アリアベルを境遇の違いという色眼鏡を通して見続けた事で敵として見る事になった。


 結局、トウカは、愛する事はできても、四〇〇年越しの復讐を止める事はできない。それを成すには出逢うのが、あまりにも遅すぎた。できるのは、共に戦乱という坂を転げ落ちる事だけである。


 情けない。


 どちらにせよ打開策が見当たらない。出逢った時点で結末は決まっていたのだ。機甲突破も航空攻撃も、艦砲射撃すらも有効でない“敵”にどう抗えというのか。言葉も武力も届かない相手に対する対処などトウカは知らない。


「……俺はマリィに男として何一つしてやれなかった」


 温度管理の為の魔導障壁によって形作られた偽りの常春が咲き誇る庭園は、マリアベルの私室と縁側を挟んで繋がっており、嵐州藺草によって編まれた畳の鼻孔を擽るような薫りと共に、夜空に瞬く無数の星々と相まって小夜風をも感じさせた。


 無論、それは箱庭に作られた小さな紛い物の小夜風。


 マリアベルの紫苑色の髪が、偽りの小夜風に揺れる。


 開け放たれたままの庭園から差し込む、偽りの春風に誘われるように、静かに、静かに瞼を閉ざす。


 泣くな。今際の際の女の前で泣くなど情けない。するべきことは別にあるだろう。己を叱咤するトウカ。


 だが、言葉を紡ぐべき口は動かない。


 それを見て取ったのか、マリアベルがトウカの頬を撫でる。


「なれど、妾には成さねばんことがあろう? 違う、かえ? のぅ、トウカっ」


 突然に問われたトウカは一瞬、言葉に詰まる。


 だが、直ぐに応じた。


「クルワッハ公の殺害か?」


阿呆(あほ)ぅ! ど阿呆ぅ! 皇国の未来、についてにっ、決まっておろうてっ!」


 咳き込みながら怒鳴るマリアベルに、何時もの姿を見た気がしたトウカは、ようやくその意図を察した。


 《ヴァリスヘイム皇国》の未来。


 広義の解釈が可能な言葉であるが、帝国という脅威を踏まえれば、それに抗する体制に北部統合軍や蹶起軍が加わる必要がある。陸海軍は内戦で疲弊しており、それを補うべき戦力が必要なのだ。


 マリアベルは自らの死後の事を考えろと言う。確かに、辛いことだが考えねばならない。


 二人の会話が途切れたのを見計らい、アリアベルが躊躇いがちに言葉を選びながら語り始める。


「姉様……御父様は後悔しています。姉様とその母様を顧みる事が出来なかった事を」


 アリアベルの言葉に、マリアベルは嘲笑を零す。


 魔女をも怯ませるであろう、何処から出たからすらも分からない声音の嘲笑は、アリアベルを気後れさせるに十分な威圧と迫力を潜ませていた。


 アリアベルもトウカも違えていた。決して、マリアベルはアーダルベルトだけを疎んじていた訳ではない。アリアベルもまた憎悪の対象なのだ。総ては優先順位の問題に過ぎない。


「アリア……妾は、なぁ。御主が憎い。皆に愛され、旭光を背負う御主が」


 静かな、感情を窺わせること無き瞳で、マリアベルは書類を声音に乗せて確認するかのように呟く。


 表情と声音は慈母の如く優しげだが、瞳は感情を窺わせず、妹に対するものとは思えない呪詛を吐く。


 それは、偽りなき、忌憚なき本音なのだろう。


 母親の種族で否定され、母の遺骨を抱き締めて、辺境へと一人で転封されたマリアベル。神龍に連なり、多くの祝福を受けて、大御巫の立場を得た輝かしき生き様を歩むアリアベルに対して好意的であるはずがない。例え、それが逆恨みに近いものであったとしても。否、恐らくは当人も気付いているのだろう。それが的外れな怒りであると。


「ただ、母が違うだ、けであろう。先に生まれ、ただけであろうて。それが悪いことな、のかえッ?」


 もし、マリアベルが妹として生まれていれば、継承権の問題は発生しなかっただろう。外戚は純潔の神龍族ではないマリアベルが、リヒャルトの死によって継承権第一位となったからこそ声高に異を唱え、排斥に動いたのだ。


 だが、マリアベルが継承権を自ら放棄する事は有り得ない。


 それでは、自らの母から生まれ落ちた事を愧じていると認めるようなものであるからこそ、マリアベルは有らん限りに抵抗したのだ。


「なれど……恨み、妬むこ、とには疲れたっ。 もう、佳い。どの道、何も為すこと、(あた)わぬゆえ、のぅ」


 肩を揺らして息をするマリアベルの方に、見ていられないと、アリアベルは自らが纏う千早をその肩に掛ける。マリアベルはそれを黙って受け入れた。


「それに、のぅ、御主や糞親父が決して手にす、ること叶わぬモノを、妾はっ、手にしたッ」


 マリアベルの右手が彷徨う。トウカに向かって。


 その手を、トウカは躊躇いがちに両手で包み込む様に取る。


 マリアベルは痛々しくも愛おしげな表情を造り、トウカへと微笑む。トウカは、この美しい(かんばせ)を生涯忘れないだろう。


「羨まし、かろうて? ええ? 戦働きを成せばっ、古今無双。じゃが、男とし、ては不器用でのぅ。なれど、愚かしいまでに妾には正直者、なればっ」


「はい、姉様……羨ましいです。私には幾度、生まれ変わろうとも手にすること叶わぬ御方に御座います」


 アリアベルが、トウカとマリアベルの携えた手を、両手で包み込む。


 そんなアリアベルの涙ぐみながらの言葉に、マリアベルがはっきりと笑みを零し、瞳を喜悦に大きく揺らす。


「そうであろう。斯様な莫迦者、異世界であっても、そういるも、のではなかろうて。しかも奴はの、恋人が居ながら、妾にも愛を囁きっ、大御巫を二度に渡、って追い詰め、クルワッハ公に重傷す、ら負わしおったッ。女を(かどわ)して敵軍を打ち破る……独立戦争時代、の初代天帝陛下で、あろうて。斯様な婆娑羅(ばさら)者が、そうそういては敵わん。のぅ、トウカもそう思、わぬかえっ?」


 マリアベルは悪戯を思い付いたかのような笑みで、トウカに問い掛ける。


 頬には脂汗が滴り、口元が浅黒い血で汚れても尚、気位を感じさせる。


 ――俺を婆娑羅(ばさら)者と呼ぶのか。


 その言葉は、好意的に見れば身分による秩序を打破して実力主義を標榜する者を指す言葉と言えるが、同時に権威を嘲笑し、軽視する側面のあるものでもあった。絢爛な服装を好み、驕奢でいて傍若無人な態度を是とする在り様であり、戦国時代の下剋上の先駆と言える要素を兼ね備えていた。


 婆娑羅(ばさら)者とは、騒乱と傾国を招き、主君への忠誠を軽んじた者でもある。


 ――俺をそう呼ぶか、マリィ。


「妾の愛しき婆娑羅者……臣下として、愛した男として、一つの時代に挑み往くに値す、る婆娑羅者でもあろうのぅ……トウカよっ」


 今一度、マリアベルが咳き込む。咄嗟に左手で押さえた口元から血が零れる。徐々に浅黒さを増しつつある血は、マリアベルの寿命を残酷なまでに示していた。



「その婆娑羅者、妾を愛しておったであろうかの?」



 トウカは、その言葉に息を呑む。


 真摯な瞳。呼吸ができない。渾身の、ただのマリアベルとしての、心からの問い。


 今の今まで、マリアベルがトウカに愛を尋ねる事だけはなかった。


 ミユキがいて、マリアベルがいる。何時かどちらかを選択する時が来るのか、或いは二人を諸共に娶る機会が訪れるのか、トウカには分からなかったが、今この時ばかりは口にする言葉は一つしかない。


「……当たり前だ、マリィ……愛している、しているとも」


 握ったマリアベルの手を一層強く掴み、トウカはそこに顔を寄せる。


 マリアベルは、擦れ違いもあったものの、トウカにとってこれ以上ない程に望ましい女性であった。


 そして、愛を囁くに値する女性だった。


 だが、それをしてしまえば、ミユキに対する言葉が虚言となる。それを察したからこそ、マリアベルは愛という一言だけは求めず、強請(ねだ)らなかった。


 堪え切れずに涙を零すトウカに微笑むマリアベルは、次いでアリアベルへと視線を巡らせる。


 そこに嫉妬や憎悪の影はない。


 ただ、姉としてマリアベルはアリアベルを案じた表情を浮かべている。


「今更、御主にしてやれるこ、となど、これし、か思い浮かばなんだっ」


 マリアベルは血混じりの苦笑と共に、血に濡れた左手をトウカの両手に握り締めた右手と、その上に添えられたアリアベルの両手の上へと乗せる。


「トウカ。此れよりは、アリアに仕える、がよいっ」


 その一言に、トウカは息を詰まらせる。


 予想はしており、そうした言葉が飛び出てくる事を覚悟してはいた。それしか道がないのだ。


 マリアベルの意図するところは、トウカにも理解できる。


 後に起きるであろう帝国との戦争で、征伐軍に北部統合軍が連携せよと言っているのだ。両勢力共に、内戦に合わせて編成された勢力である為に、正式な停戦を経て解体され、或いは形を大きく変えることは避けられない。だが、そこに属している将兵が消滅するわけではなく、帝国との戦争では、彼らが主体となって戦うことになることは疑いない。だが、両軍の間に隔意が残れば、連携に難が生じて統一した運用は難しくなる。


 マリアベルの言葉は、即ち二人に皇国に統一した一大勢力を築き上げろと言っているに等しいものであった。否、目論見としては間違いなくそれなのだ。


 マリアベルは、ヴェルテンベルク領の行く末を懸念しているのだ。


 帝国がエルライン回廊を突破すれば、桁外れの大軍を以てして皇国北部を軍靴で踏み荒らすだろう。その点を心配するのは、北部に領地を持つ貴族として至極当然のことと言えた。死目に会っても尚、貴族としての義務を果たさんとするマリアベルに、トウカは、マリアベルもまた皇国貴族であったのだと実感する。


 トウカは腹を決めた。


 どちらにせよ帝国を相手にした和平など有り得ない。政治的概念(イデオロギー)の著しく違う国家同士の条約など然したる意味を持たない。共産主義者(ポルシェヴィキ)民主主義者(デモクラシスト)が直接手を携える様なものである。国家社会主義者(ファシスト)を共通の敵にでも迎えねば敵わぬ事である。


 北部統合軍と征伐軍。共に肩を並べ、救国の戦列を成せとマリアベルは謳う。今、三人の手が重なり合う様に。


「よいな、二人して協力するが良い。ヴェルテンベルクを、北部を、この国を護って魅せぃ」


 最期の願いであり遺言だと、トウカとアリアベルに緩やかな表情で視線を向けるマリアベル。


 何と返せばよいのか。

 問題は山積している。


 何より、アリアベルと、征伐軍と手を携えるなどできるのか。世論と情勢が流動的な今、それは一種の賭けである。


 だが、愛する女の最後の願いを聞けずして何が男か。


 トウカは、己を奮い立たせる。


「分かった。護ろう。この国を。立ち塞がる総てを、悉く薙ぎ払ってみせよう」


 戦おう、那由他の果てまで。


 その想いはアリアベルも同じだった。


「分かりました。姉様の願い、(しか)と聞き届けました」


 峻烈なる意志を、涙で霞む瞳の奥に滾らせる大御巫。


 二人の言葉に、マリアベルは布団へと仰向けに沈み込む様にして倒れる。


「これで、妾の役目も……」 


 マリアベルは、鷹揚に頷くと、開け放たれたままの庭園から差し込む、偽りの小夜風に誘われるように、静かに、静かに瞼を閉ざす。


「マリィ……」


 トウカは、マリアベルへと語り掛ける。


 だが、応じる声はない。


 そこに生命の息吹は感じられない。


 マリアベルの、未だ暖かい、生命の残照の残る手を取り、トウカはその手に顔を押し付けるようにして涙を流す。


「俺は強くなる。……だから、だから……今は、泣いて良いよな? マリィ」


 それに対する言葉はない。


 そして、装甲姫は夜明けを待たずして死出の旅路へと赴いた。


 《ヴァリスヘイム皇国》は一つの転換期に差し掛かろうとしている。





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