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紫苑穢国のエトランジェ  作者: 葛葉狐
第一章    戦乱の大地    《紫電清霜》
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第一四八話    死出の花嫁 前篇




「大御巫が? 複戦で駆け付ける気か?」


 トウカは、エイゼンタールの言葉に顔を顰める。


 複戦……複座戦闘騎という騎種は、皇国はおろかこの世界には存在し得ないものである。近くのエイゼンタールが首を傾げるが、トウカはそれを気にも留めず、不機嫌を隠しもせずに鼻を鳴らす。


 ――今更、何をしに来た! 忌々しい!


 忌避され虐げられたマリアベルに対して、祝福され多くの者から無条件の敬愛を受けるアリアベルは姉妹でありながらも対照的であった。


 だが、高速飛行が可能な軍用騎を利用してベルトラム島へ駆け付けつつあるのは、アリアベルだけでなく北部統合軍の将官や最期まで離反しなかった北部貴族なども同様あると聞いて眉を顰める。


 ――北部統合軍の他の有力者に政治的間隙を突かれない様に、即座に後任を総意で決める様に持ち込む腹積もりか……セリカか? いや、違うな。政治に聡いならば五〇〇年以上も隠居するなどという選択肢はなかった。……リシアか。


 その意図を察してトウカは、舌打ちを一つ。


 誰も彼もが、マリアベルの死を前提に動こうとしている。


 それが正しいと理解しながらも、心情的には反発を覚えるトウカであるが、怒りを口にする事はない。


 トウカが今いるのは、マリアベルの私室の隣にある部屋で、前者とは対照的な洋室であった。


 トウカとマリアベルは暫しの間、二人だけの時間を過ごしていたが、マリアベルの吐血が酷くなり、セルアノに追い出された。マリアベルもまた、トウカにそうした部分を見せるのを忌避した。


「……女性とは想っている男性に自身が最も美しく在る時だけを覚えていてもらいたいものと聞いています、閣下」


 頬の傷を撫でる様に確認しながらのエイゼンタールの言葉に、トウカは無言を貫く。


 自分はあくまでも女である前に軍人であると言いたいのか、エイゼンタールの言葉は何処か他人事である。慰められているのか卑下しているだけなのか判断に迷うが、こうして誰かと話していなければ落ち着かないトウカは、エイゼンタールと取り留めのない会話を続けていた。情報部将校だけあり、時折、トウカの思惑を推し量ろうとする言動は、普段であれば鬱陶しく感じるかも知れないが、今この時ばかりは言質を取られぬように意識を割くという行為が有り難くもあった。


 トウカは用意されていた紅茶を啜り、溜息を一つ。


「女性は打算的な生物だと聞いているが……避けられぬ定命の前では、やはり酷く感情的になるのか」


 血混じりの咳をするマリアベルが、トウカを遠ざけたのは理解できるものの、その程度のことで自身のマリアベルに対する想いが変わる訳ではない。その程度の男だと思われたのかと考えると、酷く落ち込まざるを得なかった。


 そんなトウカの姿に、エイゼンタールが苦笑を零す。酷く男性的な佇まいである。


「恐らくは逆かと。その美しさを以て死後も男性の心を縛り続ける……これ以上ない程に個人的で、独り善がりで、健気な打算です」


 トウカは、やはり気遣われているのだろうと顔を顰める。


「……そういうものか」


「そういうものでしょう」


 トウカとエイゼンタールは、共に寂寥感に満ちた表情で頷き合う。


 それは共に理解できない感情であり、きっと世の女性の多くがそうした思考をするのだろうという確信が所以であった。エイゼンタールは、恐らくは長い軍務生活で性別を重視する必要性が薄れたのだろう。性別よりも種族の能力による差異が遙かに大きい以上、皇国では軍人という職業で他国ほど性別というものが重視されない。しかし、逆に言えば多くの状況で男性と同様に扱われるという事でもあり、性別を意識する状況に置かれる事が少ないのだ。


 性別よりも種族に重きを置く。


 実力主義の軍では女性であるという意識が希薄になるのも仕方のないことであった。増してや人間種でない、ある程度の能力を有する種族であれば尚更である。


 差し込む夕日が、トウカの顔を照らす。


 既にそうした時間となっている事に初めて気が付いたトウカ。フェルゼンはどうなっているのかという疑問を今更ながらに抱いたが、マリアベルという大前提が崩れつつある状況では、北部統合軍参謀総長という職責に固執することすら無意味に思えた。


 北部統合軍は、不満はあれども中央貴族からのある程度の政治的譲歩を得て満足し、その緩やかな統制下に入る事になるだろう。帝国の存在を踏まえれば、北部統合軍は解体されず、常設軍として各貴族領邦軍の色を排しつつ方面軍として再編成されるかもしれない。陸海軍とは違い常設の陸海空戦力を立体的に運用できる国境防備の軍隊……指揮系統の問題で揉めるだろうが、決して悪い事ではない。停戦協定の約定を踏まえると、戦犯として裁かれる者がいない可能性が高い以上、(しこ)りも最小限で済む。


 あとは好きにすればいい。


 少なくとも無条件降伏や、屈辱的な条件を呑まされず、その上、北部貴族全ての領土を安堵する事を認めさせたので、以降の各貴族領の発展は領主の才覚によるところであろう。経済的な締め付けもなくなり、中央貴族や政府の締め付けで領地の経済が停滞しているという”言い訳”はできなくなる。


 そう、”言い訳”である。


 どの道、北部は経済的に見て他の地方よりも不利を抱えているのだ。


 《スヴァルーシ統一帝国》という経済的不確実性。


 軍事的脅威に晒されている地域に、投資が積極的に行われる事はない。ましてや皇国の国力が低下し、内戦の影響で軍事力が低下している現状では、エルライン要塞があっても危ないと見る投資家や経営者は少なくないはずである。しかも、トウカが示した航空攻撃は、帝国との戦場をエルライン回廊に限定しなくなった。


 帝国の航空部隊がエルネシア連峰を越え、空襲を行う可能性が出てきたのだ。現に散発的な航空騎による襲撃行動は、トウカが訪れる遥か以前よりあった。


 無論、航続距離を考えれば攻撃目標の中心は北部であり、この事実は経済発展の大きな妨げとなるだろう。戦火の及ぶ可能性が高い地域に工場を建設する企業や、大規模な投資をする投資家などいるはずがなく、政府ですら公共施設(インフラ)整備に及び腰となるかもしれない。


 ヴェルテンベルク領の様に一部の企業から非難が出る程に特定の企業を優遇し、結果を出させ続け、産業を強引に盛り立てた遣り方は、資金力に優れた上に企業間の連携を取り纏める統率に優れた者が必要である。誰にもできる遣り方ではなく、企業間の軋轢や、効率的に結果を叩き出す手段の確立には交渉力も必要となり、優秀な人材を集め、育成し続けたマリアベルの努力の結果であった。


 主導権争いもなく、それ相応の後継者を得ればヴェルテンベルク領だけは繁栄を続けるだろう。


 政治面や経済面ではセルアノがおり、軍事面ではイシュタルやザムエル、リシアがいるが、ヴェルテンベルク領の優れた点は厚みのある人材にこそある。政務部も領邦軍も、無名ながらも他の貴族領と比較して有能な人材が揃っている理由は、孤児院の手厚い補助と教育制度の充実にあった。政戦は些かの不備があっても運用者次第で補える部分がある。逆に運用者が劣化すれば忽ちに機能を低下させる。


「……どうでもいい事だ」


 最早、纏めて心底どうでもいい。


 マリアベルという名の大前提が崩れつつあると思い知ったトウカは、差し込む夕日に目を細めながら椅子に深く腰掛け直す。


 腐敗した世界には、腐臭の漂う結末しか用意されていないという事なのだろう。


 トウカは、開き切った瞳孔を其の儘に天井を見上げる。


 腐敗は燃やさねばならないが、今この時ばかりは、ただ静かなれと思わずにはいられない。


 隣室から漏れ聞こえるマリアベルとセルアノの小さな話し声から察するに、防音障壁は展開されていないのだろう。元より、この隣室自体もマリアベルの個室であり、廊下や外部からの防諜だけを意識しているのだ。


「閣下……大御巫が到着した様です。ヴァルトハイム総司令官を含めた総司令部や参謀本部の方々も同行していると」


 エイゼンタールの軍帯(タクティカルベルト)に吊るされた多目的魔導結晶は、可聴機(イヤホン)に繋がれており、恐らくは外で警備についているキュルテンと連絡を取っているのだろう。


 トウカは、机に立て掛けていた軍刀を手にして立ち上がる。


 エイゼンタールは、マリアベルの護衛でありこの場を離れる訳にはいかず、ヴィトゲンシュタインは酷使させてしまった偵察騎を気にしていたので、トウカは自由時間を与えた。つまりトウカは一人で、アリアベル達を迎えに往かねばならない。


「やはりミユキも来ているのだろうな……」


 気が重くあるが、避けては通れぬ道であり、マリアベルが願った。


 応えねばならない。


 トウカは、ふらついた足取りでエイゼンタールの開けた扉を潜ると廊下へと出た。









「ミユキ……余り尻尾を揺らしては、はしたなくあろう」


 ベルセリカは、ベルトラム島の中心に建つ、神州国様式とは些か異なる造りをした屋敷の前で、盛んに尻尾を揺らすミユキを嗜める。


 後に続くのは、リシアやアリアベル、レオンディーネリットベルク……総司令部と参謀本部の面々であった。総司令部と参謀本部に関しては共に戦死者が出ているので、人数としては些か減じているものの、それでも尚、四〇名近い人数がベルセリカに続いていている。


 アリアベルは先程から一言も発しない。


 レオンディーネとリットベルクだけを共に同行した事には驚いたが、マリアベル不予が相当に衝撃的であったのか、輸送騎の座席でも両手を握り締めて必死に何かに耐えていた。


「ミユキ、私達は知っていたし、覚悟もしていたでしょう。私達が狼狽えてどうするの」


「でもでも、こんなに早くなんてっ……」


 リシアとミユキの遣り取りは、周囲を驚かせ続けていた。


 輸送騎の中で二人は気を紛らわせる為か会話を続けていたが、ベルセリカの知らない事実や呆気に取られる内容も少なくなかった。特にミユキが口にしたマリアベルとトウカとの確執などは、最近の二人を知る総司令部や参謀本部の面々は驚きを以て受け入れられ、リシアが口にしたマリアベルが戦況によっては神州国を介入させることも考慮していたという事実は、レオンディーネやリットベルクなどが絶句した。


 ベルセリカは、ミユキとリシアの遣り取りに溜息を一つ。


 機密ではないが、外部の者に聞かせるには少々憚られるような内容も含まれているので性質(たち)が悪い。マリアベルの寝相が悪いなど言う必要はないのだ。共に若く、緊張しているからこそ口数が多いのであろうが黙らせるべきだろう。


 二人の頭に拳骨でも落とすべきかと、ベルセリカが拳を握り締める。


 しかし、同時に、屋敷の玄関扉が内部から開かれ、皆の注目が其方へ向く。


「トウカ……」


 玄関扉を開けて出てきたトウカに、ベルセリカは掛ける言葉がなかった。


 何時もの様に飄々とした表情でもなければ、指揮を執っている時の様に自信に満ちたものでもなく、ただ一人の疲れ果てた若者の姿がそこにあった。軍刀を杖にしているのは立っているのも億劫であるからであろうか、その瞳だけは夜の帷が下り始めた今この時に在っても爛々と、暴力的なまでに輝いていた。


「……ご苦労様です」


 トウカから発された言葉に、ベルセリカは鷹揚に頷くが、内心では初めて聞く醒めた声音に驚いていた。ミユキはベルセリカの陰に隠れ、リシアは一歩後ずさる。


「皆を屋敷に案内したいが、良いか?」


「設備はありますが、人がおりません総司令官殿。皆さまには身の回りの事は、暫くは御自分でしていただく事になりますが」


 開き切った瞳孔で皆を一瞥したトウカの視線は無遠慮なものであり、トウカより上の階級である者であれば咎める事は許されたであろうが、誰一人として口を開く者はいなかった。


「佳い」


 ベルセリカは、トウカの言葉に承諾する。


 このベルトラム島に向かって有力な北部貴族や領邦軍司令官などが集まりつつある現状を見越して、参謀本部の者達が気を利かせ、輸送騎で避難先の島嶼からヴェルテンベルク伯爵家の侍女や従兵を呼び付けていた。


 ベルセリカは皆を先導し、屋敷内へと入る。


 屋敷内の部屋の殆どは使用されていないという事なので、参謀本部の者達を中心に部屋割りや整理が始まる。まるで突然の葬式に慌てる親族のような光景であるが、それを口に出すこともなく、ベルセリカは部屋の隅に正座しているトウカへと近づく。


 無表情で瞼を閉じているトウカには、ミユキですらも臆する程で周囲には誰一人いない。


 トウカの横に胡坐を掻き、ベルセリカは溜息を一つ。


「これより先、どうなるで御座ろうか?」ベルセリカの疑問。


 それとなく周囲に視線を走らせれば、総司令部や参謀本部の面々は、聞き耳を立てているのか何処か動作がぎこちなく、ミユキに関しては尻尾が大きく揺れている。


 トウカは、柱に背を預けたままに天井を見上げている。


 気が抜けたというよりも、魂まで抜けた様な有様であるが、トウカの瞳がベルセリカを見据える。瞳孔の開いた瞳は、無機質でいながらも何処か探る様な意図を感じさせる。


 ――トウカ……御主……


 ベルセリカを疑っている。


 猜疑の意図を感じたベルセリカは、怒りよりも純粋に驚いた。


 恐らくはヴェルテンベルク領の後継者問題に、ベルセリカが口を挟む可能性を推し量ったのだろう。ベルセリカ自体に懸念は抱いていなくとも、シュトラハヴィッツ伯爵家の蠢動を警戒した可能性もある。


「……停戦に影響はありません。後継者も恐らくはヴェルテンベルク伯と政務官殿の間で、遙か以前より合意を得ているはずです。……違いますか、ヴェルテンベルク領邦軍司令官イシュトヴァーン中将」


 まばらながらも幾人も広間へと集まりつつある有力貴族や、領邦軍将官に混じって現れたイシュタルへと、トウカが訊ねる。



 イシュタル・フォン・イシュトヴァーン。



 マリアベルとの交友関係としてはセルアノと同様に最も古い者であり、伯爵と領邦軍指揮官という関係に留まらない事は北部では誰しもが知り得る事実であった。それを踏まえれば、イシュタルも後継者について何かしらの下知を受けている可能性がある。


 マリアベルの病はかなり前より近しいものにとって周知の事実であったと推測される。無論、当人も理解しており、後継者問題を考慮していなかったはずがない。


 ベルセリカの思うところでは、その継承者はマリアベルの意志と思想を継承した人物である貴族であると推察していた。或いは、貴族に比肩し得る名声を得てしまった自身を(たの)む可能性があるとも見ており、その場合はトウカと相談する必要があると覚悟もしている。


 しかし、マリアベルの意志と思想を真に継承し得る資質を有するのは、間違いなくトウカである。恐らくはトウカにヴェルテンベルク伯爵位を継承させたいと考えるのは、領地繁栄を願う貴族として、そして何よりも一人の男を想う女として不思議ではない。


 だが、実際問題として、貴族でもなく出生不詳ですらあるトウカに伯爵位を与えるのは周囲からの抵抗が大きい。この内戦を通じて勝ち得つつある北部貴族内での立場と信頼を損なう結果となりかねず、内戦後に中央貴族に対する“弱点”となりかねない。


 何よりも、《ヴァリスヘイム皇国》の爵位制度は、《瑞穂朝豊葦原神州国》などとは大きく違う。


神州国や多くの国家では、爵位とは一族……家に与えられる爵位制度である場合が大半である。つまり、制度上、一つの家が保有する爵位が上下したり、俸禄や領地が増減する事があっても複数の爵位を保持するのは有り得ない。


 対する皇国は、所領が複数ある上に、それに爵位が付随していれば、一つの家が複数の爵位を保持している事がある。七武五公なども其々が複数の爵位を拝命しており、それは途絶えた親類や、国境付近で防衛の要所である地域の所領や爵位であった。こうした複数の爵位を保持する家の場合、準貴族……准男爵(バロネット)士爵(リッター)地主貴族(ユンカー)宮中伯(プファルツ)城伯(ブルクガルフ)などの爵位であれば、保有者の判断で嫡子や臣下に与える事ができた。


 それとは別に、大公(グロースヘルツォーク)辺境伯(マルクガルフ)方伯(ラントガルフ)などの極めて強大な権力を有した爵位も状況に合わせて下賜される事からも分かる通り、貴族の家系そのものに対して与えられているのではなく、大本の爵位が担当する貴族領などの行政区域や土地、建造物に対して与えられており、大凡(おおよそ)の場合は爵位の保持が領域や権力の保持を意味する。


 よって実力がなければ御家断絶も有り得るのだ。付随する権力が明確であるが故に、曖昧な儘に爵位を保持し続ける事は難しい。皇国は資質なき貴族に対して決して寛大ではない。


 そうしたな実力主義が吹き荒れる状況の中で、マリアベルはそれらよりも更に複雑な立場に置かれている。


 保有する爵位は、四六に上り、ヴェルテンベルク伯爵位以外は全て非公式なものだ。


 周辺の弱小貴族を軍事的に、若しくは政治的に従属させ、ヴェルテンベルク伯爵領の経済圏として長い期間を掛けて組み込み、軍事の面でも完全に依存させる。そうする事でマリアベルの軍門に下った貴族の数こそが四六という数字であり、もしこれらを手にしていなければ、ヴェルテンベルク領は現在の三分の一程度となる。無論、協力的な貴族は家臣団として迎え入れ、マリアベルは広大な領地を繁栄させ、強大な産業基盤を築き上げた。


 問題は、それらが総て非公式なものであるという点であった。


 本来ならば、辺境伯という爵位でも遜色ない規模の領地であるが、その手段と遣り方は余りにも強引で、そして正規のものではない事から天帝や政府からの認可すら受けていない。現在でも公式記録上は四六の貴族は、それぞれが独立した貴族となっているのだ。


 並みの手段では、それらを護ることはできない。


 叶うならば、これらを統合した“グロース=バーデン・ヴェルテンベルク伯爵領”の成立を政府と中央貴族に認めさせる事が望ましいが、次代のヴェルテンベルク伯は維持するだけが限界だろう。可能ならば停戦協定の約定に盛り込みたいとトウカは考えていたはずだが、まさか北部統合軍の軍人として停戦を主導する立場にあるトウカが、一貴族の利益を露骨に図る訳にはいかない。誰も彼もが、マリアベルの手腕と権威に依存している。それがヴェルテンベルク領の現状であった。


 そして、マリアベルの手腕と権威は隔絶していた。


 故に今後はトウカが必要となる。政戦に於ける切り札として。


 よって、トウカを良く知り、多くの者が認めざるを得ない人物がヴェルテンベルク伯爵位を継承させるという筋書きを、マリアベルは考えているはずである。


 そして、トウカは、新たなヴェルテンベルク伯の下で政戦を取り仕切るだろう。それこそが、最も堅実な筋書きである。


 無論、結局のところ、マリアベルが次期ヴェルテンベルク伯に誰を指名するかまでは分からない。


 誰しもが思い付く、自身という選択肢を選ぶほどマリアベルが平凡な人物ではない事を、ベルセリカは理解している。


「……現時点では申し上げられませんよ、サクラギ中将……それに当人もいない状況では二度手間です」


 イシュタルは、その褐色の肌に銀の長髪、長身という浮世離れした佇まいに相応しい、妖艶さと儚さを同居させた笑みを湛えて応じる。


 その言葉に、周囲から驚きの声が上がる。


 後継者は既に決まっていると取れる一言。それも、かなり以前から決定している。


 トウカは予想していた様であるが、ヴェルテンベルク領家臣団なども知り得なかった様で、一様に顔を見合わせていた。しかし、情報漏洩の可能性を踏まえれば決して、マリアベルが伏せていた事は間違いではない。寧ろ、ヴェルテンベルク領の政治を司るセルアノと、軍事を司るイシュタルさえ押さえ、納得させていれば大勢は覆らない。


 尚をも口を開いて訊ねようとしたベルセリカだが、奥の襖が開いてセルアノが現れた為に機会を逸する。


 セルアノは広間を一瞥すると、幻想種とも言われる妖精種とは思えない舌打ちを一つ。


 マリアベルの様子を伝えに来たのだろうが、想像以上に多くの面子が揃っている事に苛立ちでもあるのだろう。彼女からするとヴェルテンベルク領の中枢は自身とマリアベル、イシュタルを中枢に動いているに等しい。有象無象の意見など聞くに値しないと考えていても不思議ではなかった。或いは“友人”の死に群がっている様に見えるのかも知れない。


 上座へと向かうセルアノの姿を、トウカが視線で追う。


「のぅ、トウカ」


 その最中、ベルセリカは、トウカに言葉を投げ掛ける。


 トウカは動かない。振り向くことはない。


(それがし)は常に御主の騎士足らんとしている。努々(ゆめゆめ)、忘れるでないぞ」


 言葉は返ってこない。


 それでいい。


 例えそれが信じられなくとも、最低限、自らの言葉はで立場を明確にしておかねばならない。誤解から衝突に至る事は歴史が証明しているのだ。








「なんて様だ……」


 トウカはセルアノによってマリアベルの状況が説明されている中、近くの柱に拳を打ち付ける。幾人かの将官が視線を投げ掛けてくるものの、トウカはそれを無視した。


 ベルセリカを疑うなど有り得ないことだ。


 自身の命令で幾度も戦野に赴いた騎士を疑えば、あらゆる者を疑わねばならなくなる。否、それ以前に、配下に加わった者を信じずして、戦野を進み往く事などできはしないのだ。


 しかし、疑わねばならない者が多いのもまた事実。


 残酷かも知れないが、シュトラハヴィッツ伯爵家の中心人物である先代シュトラハヴィッツ伯爵……シュトラハヴィッツ少将が負傷で意識を失っているという状況は、トウカにとって“喜ばしい”ことである。ベルセリカがシュトラハヴィッツ伯爵家と連帯する可能性は状況的に不可能と言えた。


 そう考える事で、ベルセリカへの疑念を一蹴する。


 除倦覺醒劑(ペルビチン)の副作用かも知れない。余計な事を考えすぎる。常用は避けなければならない。


 除倦覺醒劑(ペルビチン)の入った茶色の小瓶は、ベルトラム島へ来るまでの偵察騎上から投げ捨てたが、大量に摂取したその影響はトウカの身体に少なくない影響を遺していた。


 身体の気だるさに対し、思考は凍える様に冷徹で、明快に自身に対して多くの可能性を提示する。


 ダルヴェティエ侯や、アーダルベルトなどの七武五公などこそが最も警戒すべき相手である。対応すべく大洋艦隊はシュットガルト運河の閉塞作戦の為、シュットガルト湖側開口部に展開しつつあった。近隣にあるベルトラム島で事が起きれば、直ぐにでも重巡洋艦を主体とした水上砲戦部隊が駆け付ける手はずになっている。シュタイエルハウゼンという男からの報告を、エイゼンタール経由で受けたトウカは、政治問題に関しても対応できる艦隊指揮官の存在を頼もしく思えた。シュタイエルハウゼンは艦隊指揮官よりも、軍政家としての資質に優れた将校かも知れない。


 ――大御巫はどう出るか。


 アリアベルほど諸勢力の中で軍事力を欲している者はいない。


 内戦という軍事的舞台で大立ち回りを演じ、その挙句に軍事的も政治的にも影響力を大きく減じたアリアベル。正式に停戦協定の締結を終えれば、中央貴族から政教分離の大原則を犯した罪について突き上げを受ける事は間違いない。


 最悪……でなくとも大御巫の地位は維持できないだろう。


「マリィに遺された時間は少ないわ……」


 広間に集った者達の顔に笑顔はない。


 トウカやリシアのようにマリアベルに仕える者達は勿論のこと、アリアベルやレオンディーネ、リットベルクといった征伐軍将官達も同様であった。


 マリアベルの容態が皆が想像していた以上に悪化していることが、セルアノの口から告げられたのだ。


「恐らくは、耐えたとしても後一日。きっと、今夜が峠でしょうね」


 セルアノの宣告に、ヴェルテンベルク伯爵家家臣団から悲鳴とも嗚咽ともつかない声が上がる。彼らは、ヴェルテンベルク領黎明期より、マリアベルを主君と仰ぎ、共に困難な時代を駆け抜けた者達であり、例えマリアベルが配下に対しても寛大ではないとされていても、だった一人の姫君なのだ。


「――ッ」


 思わず呻き声を上げそうになるが、トウカは危ういところで押し留める。


 直接、マリアベルの病状を正確に聞くのは、トウカも初めてである。予想はしていても、改めて他人の口から同じ事を聞かされると酷く現実味が増す。決してミユキの言葉を疑っていた訳ではないが、それでも尚、何処かでそうである事を強く願っていた自分がいるのを、トウカは認識していた。


 だが、その儚き願いは、セルアノの宣告で霧消した。


 奥歯を割れんばかりに噛み締めるトウカの耳に、セルアノの声が響く。


「大御巫よ、マリィの妹」


 セルアノの瞳が、正座をして両の拳を膝の上で強く握り締めていたアリアベルへと向けられる。マリアベルと共に多くの修羅場と鉄火場を駆け抜けた妖精にも、親族であるアリアベルには含むところがあるはずであるが、それを感じさせる事もない悲痛な声音で言葉を重ねる。


「はい」


 アリアベルは正面から、セルアノを見据える。


 力強い瞳。


 涙が流れることはない。


 立場と矜持が赦さないのか、或いはこれを好機と捉えているのか。


 だが、悪くはない。


 姉妹の最後の会話となるかも知れない。


 共に思うところはあるだろう。


 マリアベルも結局は、アーダルベルトの生命に言及する事はあっても、アリアベルに関しては然したる反応を示さなかった。興味がなかったとも取れるが、マリアベルは配下の手前、公私を分ける事を常としている。ただの姉妹として顔を合わせれば、別の本音が零れ出るかも知れない。


 一人くらい、マリアベルが装甲姫という厳めしい異名だけではない事を覚えている者がいても良いだろうと、トウカは立ち上がったアリアベルの背を見つめる。


「此度の内戦のこと、今後の北部のこと、語るべきは無数に在れど、何より優先すべきは、今この時、命尽きんとするマリィの願いを叶える事よ。貴女は病室に行くが良いわ。マリィたっての願いよ。貴女と、そして――」


 セルアノの眼差しが一層の悲しみを湛えて自身に向けられ、トウカは困惑する。


「貴官も大御巫と共に行くが良いわ、サクラギ中将。大御巫と貴官の二人に話さねばならない事がある故よ……勘違いは控えることね」


 セルアノの言葉に、トウカは軍刀を畳上へと投げる。


 アリアベルに斬り掛かるとでも思われたのだろう。


 今の自分が酷い顔をしているであろうことは容易に想像が付く。激昂してアリアベルを斬り殺すとでも思われたのだろうと、トウカは両目を瞑り、痛む視覚を労わる。


 そして、疑問を口にする。


「小官が、ですか? しかし……」


 姉妹の今生の別れになるやも知れぬといというのに、自身の如き余計者がその場にいて良いのかという疑問を抱いたトウカ。マリアベルとの関係は今更であるが、アリアベルは敵対していたとは言え、血縁関係にある。場合によっては、最後に家族水入らずで語り合う機会を逸するかも知れないのだ。


 そう考えて躊躇するトウカを促したのは、意外なことに当のアリアベルであった。


「サクラギ中将」


 ただ、トウカの名を呼び、此方を見つめてくるアリアベル。


 その声音には嫌悪感も忌避感も宿らず、逆に何処か懇願するかのような響きがあった。


 このことは、アリアベルにとって、トウカと同じく寝耳に水の状況であるはずで、その瞳が微かに揺れ動いているのは、アリアベルの内心の動揺を映し出しての事だろう。


 アリアベルもまた、一人でマリアベルを逢う事を恐れているのだ。 


「……了解しました」


トウカは、強張る顔をそのままに一礼すると立ち上がる。


 その返事を聞くと、アリアベルは、セルアノの後に立って歩き出し、トウカはその後に続いた。




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