表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
紫苑穢国のエトランジェ  作者: 葛葉狐
第一章    戦乱の大地    《紫電清霜》

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

141/429

第一三一話    国難の継続




「ただ今帰還いたしました、ヴェルテンベルク伯」


「ああ、帰還を心より喜ぼうて、参謀総長」


 淡く微笑むマリアベルにトウカは敬礼する。


 軍帽を目深に被った若き将官と普段より儚げな印象を増した女伯爵の姿は真に絵になる。駆け付けていた新聞記者などの撮影機が動いている中、マリアベルの差し出された手を取ると、儀礼的護衛(エスコート)をしながら屋敷へと入るトウカ。明日にはこの姿が北部の新聞社の一面を飾ることになるであろうことは疑いない。離脱した一部の領邦軍と征伐軍の偶発的な軍事衝突への非難の言葉を添えて、である。民衆はこの二つを比較して、継戦こそが常道であると錯覚するだろう。


 ヘルミーネは、フェルゼンへの帰還と同時にタンネンベルク社へと一目散に向かって行ったので居ない。


 トウカが帰途の途中で噴進機関(ジェットエンジン)と、排気羽根車過給器(ターボチャージャー)と呼ばれる内燃機関から捨てられる排気瓦斯(ガス)熱量(エネルギー)を利用する過給器などの原理や、それに付随する理論などを教えた為に試作してみたくなったらしい。特に回転翼原動機(タービン)の理論サイクルが現在のこの世界で使われているものよりも高効率であることから損耗を防ぐキアードタービン(艦載原動機)にも夢中である。ついでに教えた熱力学の各法則もあるので、暫くはトウカが質問攻めにされることはない。戦闘兵器の主機や武装に関する技術や兵站理論(ロジスティクス)はトウカもそれなりに学んでおり、寧ろそれらと歴史以外への興味は少ない。


「……現状での勝算はあるか?」


「ないのぅ。色々と打てる策は講じておるがの……御主は?」


 訊ね返されたトウカは、口にすべきかと悩む。


 七武五公の五公爵の一部が出てきた以上、中央貴族との衝突は避けられないが、アーダルベルトだけであれば殺害することは不可能ではないと踏んでいた。しかし、その代償は北部統合軍の半壊と継戦能力の完全な喪失であるはずであり、航空騎や戦闘艦の大半を戦列から失うことになる。ヴェルテンベルク領邦軍の被害だけでも補填するには一〇年は掛かるであろう被害。


 何よりもアーダルベルトを殺害できる可能性を指し示せば、北部統合軍の行く末よりも優先しかねない危うさをマリアベルは持っている。


 確かに、アーダルベルトの殺害は停戦時の交渉を優位に進められる要素となり得る可能性もあるが、トウカとしてもどう転ぶか分らない部分がある。何より報復措置を執られれば戦犯を差し出さねばならない可能性が増大し、五公爵のアーダルベルトを殺害できたとしても後二人いることから、その存続に致命傷を負うことはない。


 ――不確定要素が多すぎる。指導者が三人存在するということがこれ程に厄介とは。しかも優秀で意思統一ができている。


 主目標が三つあり、それぞれが北部統合軍に匹敵する戦力を備えている状況。


 勝利は難しい。


 できることは停戦時に有利な条件で調印できるような戦況に持ち込むことだが、それは帝国の介入という条件そのもので情報部による帝国領内への戦況の拡散と政務官僚を通して第三国経由での状況説明も始まっている。


 自陣営以外の勢力に自陣営の勝敗を委ねることは本来であればあってはならないことであるが、現状ではそれ以外の手段を選び得る状況ではない。そして、トウカは帝国が行動を起こす可能性が高いと見ており参謀本部もそれを肯定した。


「当初の作戦計画立案時点で、エルゼリア侯爵領防衛失敗時は停戦を意図した作戦に転換することになっている」


「場合によっては、帝国の侵攻待ちかのぅ」マリアベルは思案の表情を浮かべる。


 常に主導権を取り続ける為に能動的作戦を主体にしていた北部統合軍の戦果は目覚ましいものであり、方針転換によって消極的になることを忌避しているのだ。撤退を続けながらも敵に対して甚大な被害を与えている以上、将兵に勝利できる戦場を選択し続けると“錯覚”させることは容易であり、撤退に次ぐ撤退であるにも関わらず士気が高いのはそうした理由がある。


 トウカは応接間(サロン)へと入り、マリアベルの為に椅子を引きながら応じた。


「停戦は可能だ。しかし、消極的な戦闘を継続すれば停戦協定の内容で譲歩せねばならない……それ相応の戦果を見せる必要があるな。決して此方が限界であるからと停戦すると思わせてはならない。国難に対して共に手を携える、そうした筋書きこそが望ましい」


 帝国軍の再度侵攻で焦りを見せる中央貴族が合流した征伐軍が停戦を切り出すことは間違いないが、無条件降伏に近い内容で停戦しては意味がない。征伐軍に合流することになるのは避けられないかも知れないが、その中でそれ相応の勢力として存在し続け、組織運営に影響を与えねばならない。


 マリアベルは椅子に座り足を組む。背後からでは顔色は窺えないものの、トウカには些か切羽詰った様な声音に思えた。


「では何とするかえ?」


 何とするか。


 マリアベルはトウカの言葉を半ば予想していることは疑いない。


 マリアベルは聡い女だ。


 政治と軍事を同一視することができる上、そこに経済の影響まで絡めて判断できる視野はそう簡単に獲得できるものではない。政治家が政治だけ理解していれば良い訳ではなく、軍人は軍事だけを理解していれば良い訳ではない。共に国営の両輪であり欠かすことのできない要素で、一方の速度の変化を感じ取れない者が片輪を回し続けても同じ場所を回転するだけに過ぎない。そして両輪を同じ速度で回し、それらを大きくできる成長剤、或いは早く回すことのできる潤滑油である経済まで知悉しているとなれば文句などあるはずもない。


 トウカはマリアベルの耳に顔を寄せる。


「作戦目標はクロウ=クルワッハ公爵の殺害」


 震えるマリアベルの首筋に、トウカは笑みを零す。


 期待と不安。


 何時もは悠然とした、若しくは艶然とした笑みで本心を隠し通すマリアベルが震えているのだ。しかし、自分以外の男の生命を以て感情を露わにするというのは面白いものではない。


「………………〈航空義勇軍〉の足並みを乱しておきたい、ということかの?」


 短い沈黙の後にマリアベルはトウカの思惑を正確に当てて見せた。トウカはマリアベルの背後からその女性らしい身体を抱き締めて耳元で囁く。


「御前の望みだろう、マリィ」


 実情としては、偶然にもマリアベル個人の目的と北部統合軍の利益が重なり合った結果に過ぎないが、トウカ個人としてもアーダルベルトは殺害したいと考えていた。クロウ=クルワッハ公爵家は長男であるリヒャルトが戦死し、アリアベルは政治的中立を堅持せねばならない大御巫に推挙されている。


 北部統合軍が解体されて征伐軍に合流し、帝国軍撃退後に得られる権力次第ではマリアベルを次期クロウ=クルワッハ公爵へと押し上げることも不可能ではないのだ。


 クロウ=クルワッハ公爵家の親族が騒ぎ立てれば御家騒動だが、それは寧ろトウカにとって望むところである。ケーニヒス=ティーゲル公爵やフローズ=ヴィトニル公爵も内戦を終結させ、帝国軍を撃退した後、皇国の中でも最大の権勢を誇る貴族の一つが内乱の火種になる可能性を座視するはずがない。否、そうした方向に状況を推移させるのだ。


 アーアルベルト不在のクロウ=クルワッハ公爵家ならば、トウカとマリアベルで抑え込める。アリアベルは政教分離の大原則を破ったとして排除することが容易い。未だ年若い息子が一人いるとは聞くが、マリアベルにクロウ=クルワッハ公爵位を継承させることで北部の工業力や軍事力を取り込む絶好の機会を七武五公が逃すとも思えない。そこには、剣聖たるベルセリカも居るのだ。


 無論、それは多大に不明確な要素を含む案件であり、拙い理想に過ぎない。


 だが、アーダルベルト戦死後のクロウ=クルワッハ公爵家に有力な人物がいない点は事実である。アリアベルの暴挙を止め得ず、マリアベルへの対応の稚拙なることを踏まえれば、政戦でアーダルベルトを伍する者はいないと判断できなくもない。


「取り戻してくれるのかえ?」


 意地っ張りで普段は中々に思う侭とならないマリアベルの縋る様な声音。


 自分は彼女に求められる様な男になったのだと思えて、トウカは胸が一際大きく鼓動する気配を感じた。


 トウカは肯定する。


「総てを奪い返そう。御前の父から。権力も誇りも喪われた日々も」


 瞳に涙を滲ませたマリアベルが振り返る。


 連日の激務に疲労が蓄積しているのかその表情には僅かな影があるが、それが儚げな部分を演出していて普段はない魅力を与えている。自身に満ちた表情で颯爽と肩で風を切って歩く姿こそが皆が良く知るものであり、今のマリアベルの姿を知るのはトウカ以外にはいないだろう。


 マリィ。


 その名が胸を締め付ける。


 今まで目にした中で最も美しい女性であり、気高いその姿。


 リシアと同じ紫苑色の髪だが、マリアベルの髪は揺れる度に流れるような美しさを放っていた。そして峻烈な意志と孤高の在り様を映し出す瞳は多くの者を惹き付けて止まない。


 誰がどう見ても普通の在り様ではない。不自然という言葉が相応しい。見る者によっては畏怖すら感じさせせるかも知れないが、トウカには心地良さを感じさせるものであった。


「トウカは何気に征服欲が強いの」


 ――マリィを……


「そうらしい。自分でも驚いている」


 ――自分の手で穢したい……


 振り向いたマリアベルと見つめ合うと深い口付けをして、その上着の中に手を滑り込ませて鎖骨に沿って撫でる。身体が一瞬、反応を見せて波打つのを認めるとトウカは舌先で唇を湿らせる。


「トウカ…………焦らすでない」


 マリアベルは両の頬に朱を散らし、少し怒っているといった表情で口を小さく尖らせる。そのひとつひとつの仕草の総てが狂おしいほどに愛らしく、唇が触れ合う度に鼓動が早鐘を打つ。


 しかし、それは第三者による足音で遮られる。


 否、正確には複数人の足音に二人は慌てて距離を取り、マリアベルは葉巻を手に取ると吸い口を切り落とし、先端に火を付けた燐棒(マッチ)で炙り始めた。匂いを誤魔化す為である。


 そして部屋に金色の色が転がり込んでくる。


 文字通り転がり込んでくるといった表現が相応しい動作で現れたのは、愛しの仔狐であった。


 トウカは両手を広げて駆けてきたミユキを抱き止める。


 帰還直後で戦塵に塗れたままであり、その隣ではマリアベルが葉巻を吹かしているので臭いで気取られることはない。勿論、後ろめたさなど感じる程に、トウカは正常な精神構造をしていなかった。既にマリアベルとの会話の中で双方が“折り合い”を付けることに納得し、その延長線上に二人の“戯れ”は存在する。共に相手に対して恋ではないと言い聞かせるような恋。だが、もし自身が複数人の女性を幸せにできる甲斐性を手に入れたならば、という一握の野心が脳裏に過ぎったことをトウカは忘れてはいない。


「元気なようで何よりだ、ミユキ」


 満面の笑みで擦り寄ってきたミユキに、トウカは静かに笑みを浮かべる。


 何よりも庇護の対象であるミユキを抱き締めれば自身が戦野から戻ってきたのだと安心することができる。ふわりと広がる太陽と森林の薫りを胸に吸い込み、それが身体に蓄積した澱みを浄化していくかのような感覚に捕らわれた。


「主様、主様っ! 私、良い子にしてましたっ!」


「そうらしいな。シュパンダウの復興は順調だと聞いているぞ。よくやった」


 トウカはミユキの頭を撫でる。揺れる狐耳が愛らしい。


 地権者の権利など貴族の権威と権力の前では意味を成さず、トウカの祖国が震災で喪われた地域の復興計画が民衆の権利という名の野放図が邪魔をして幾年も遅延した事実を知るが故に、フェルゼンやシュパンダウの復興の手際の良さには感心するしかない。中位種にすら届かない低位種であっても人間種の何倍もの膂力を持つ人間重機であり戦災現場ではこの上なく頼もしい存在となる。それが無数にいるという事実は皇国という国家の強みであった。


「えへへ……私の指示でシュパンダウは大きく改造してるんですよ? 天狐の移住者もいっぱい来てますし、漁港を大きくして魚をたくさん取れるようにしないと」


 後半がミユキの本音であろうが、その辺りはマリアベルの指示でシュパンダウに配置された官僚達が血反吐を吐きながら懸命に復興計画を回しているとトウカは聞いていた。過程はどうあれ、ヒトを動かして状況の改善が進むのであればそれは才能である。世の中には口ばかり動かしてヒトを動かすことのできない者がいるので、それと比較すれば新参貴族としては上々と言えた。


「暫くは征伐軍も中央貴族との合流や輜重線の問題がある以上、早々には攻めてこない。俺も総司令部や参謀本部が動いているから仕事は書類確認だけだ」


「じゃあ遊びに行けますね!」


 満面の笑みを浮かべるミユキに、トウカは曖昧に頷く。


 空襲では少なくない数が戦死し、それを更に多くの者が悲しんでいるヴェルテンベルク領の状況で、自身が軍務をおざなりにして最愛の人と緩やかな一時を過ごすというということに対しての後ろめたさがあった訳ではなく、非難される要素になるか否かと値踏みしたのだ。


 しかし、トウカの胸中には一種の開き直りの感情が燻ぶってもいた。


 あくまでも《大日連》の民間人であるトウカは、皇国の内戦に巻き込まれた立場であり、この北の大地を護るのはミユキとそれを構成する者達の生存圏の保全を意図しているからに過ぎない。幾らトウカが北の戦人達が護らんとする郷土を共に護ろうと口にしても、所詮は異邦人であり微妙な温度差を感じずにはいられなかった。


 トウカがそうした感情……不特定多数の人間というものに対する不信感を抱くには祖国の国情という理由がある。


 気の触れた様な愚かしい戦後の平和主義教育が猛威を振るう《大日連》では、軍人は多くの者から蔑ろにされていた。安月給で被災地へ赴き救助活動をして、不発弾処理を行い、不完全な装備で広大な国境防衛を担う彼らは敬われるべきはずの存在であるが、《大日連》では違った。左派政党の躍進により不当に貶められて当然の様に酷使される存在となり果てたのだ。


 不満がないはずがない。


 貴様らの平穏を命懸けで護っているのは誰か?


 平和が空気と同様に無料だと勘違いしている愚か者共。そんなことも分らない大莫迦野郎など死ねばいいのだ。トウカは常々そう思っている。


 彼らの“善意”を当然だと受け取る様な国民が増えたからこそ《大日連》は斜陽を迎えているのだ。


 そうした背景を知り、遣る瀬無い思いを抱いていたこともあるトウカであるからこそ、民衆などという“不特定多数”の存在を信用できるはずもなかった。


 故に、それらに配慮する心算はない。


 誰も彼もが護りたいモノの為に戦っている。護りたいものがあるならば己が手で成せばいい。


「行こうか、ミユキ」トウカは手を差し出す。


 好きに振る舞えばいい。この世界でトウカは自由なのだ。


 差し出された手を掴みトウカは微笑む。


 短い、だが久方ぶりの日常生活が戻ってきた。










「フェルゼンへの侵攻開始は投入兵力を削減した上でも、二週間後、か。輜重線を無視した弊害だな」


 アーダルベルトは書類を流し読みしつつ、自身の運用方法が決して正解と言えない現状に苦虫を噛み潰す。


 エルゼリア侯爵領最大の軍事拠点にしてエルゼリア侯爵の屋敷としても機能していた巨大で古めかしい城郭の天守の執務席で、アーダルベルトは執務に追われていた。


 大規模な空挺作戦の実施によってエルゼリア侯爵領周辺の貴族領の制圧も成功しつつあるが、エルゼリア侯爵領攻防戦に於いて征伐軍主力は壮絶な戦闘を繰り広げた結果、各部隊の被害は甚大であり、弾火薬は勿論のこと糧秣や医療品の類も不足気味であった。特に降雪に紛れた土地勘のある軍狼兵や装甲部隊による輜重線の寸断は征伐軍に少なくない負担を強いていた。それらの護衛や撃破の任務の為に引き抜かれた戦力が少なくなかったからこそ北部統合軍は善戦できたとも言える。


 サクラギ・トウカの手癖の悪い不正規(ゲリラ)戦は頭痛の種である。


 過程はどうあれ、征伐軍主力は深刻な物資不足に見舞われた。


 そこに空挺……厳密には大規模航空輸送によって合流した中央領邦軍の一部、約五〇〇〇〇名が合流したとなれば、その事態に拍車が掛かることは明白であった。


 強靭な輜重網を構築し、フェルゼン侵攻の為に物資集積を行わねばならない。


 当初、航空義勇軍参謀長となったハルトヴィヒから航空輸送の繰り返しで輸送するという案も上げられていたが、アーダルベルトはそれを退けた。


 航空義勇軍は実質的にそのほとんどが輸送騎であり、制空戦闘ができる戦闘騎として使える龍騎兵など五〇〇にも満たない上に戦闘騎用の武装も北部統合軍に大きく分がある。民間騎でもあり民兵でもある練度の低い輸送騎の龍騎兵や龍に甚大な被害が出るはずであり、それは統治者であるアーダルベルトには許容できないことであった。


 つまり、健在な部隊を動かして輜重部隊の護衛と哨戒を密にしつつも次の侵攻に備えねばならない。


 よって、暫くは北部に一時の静けさが戻ることになる。


「クロウ=クルワッハ公爵、お聴きしたいことがあります」


 挑みかかる様な声音に、アーダルベルトは溜息を一つ。


 問答無用で扉をあけ放ち、エルザを伴って入室してくる姿は大御巫としての正装のままであり、それはアリアベルが、中央貴族が“合流”した征伐軍の最高指導者の立場を堅持していることを暗に示していた。尤も有しているのは立場だけであり、その権力は五公爵へ移譲されているので、アリアベルの隷下には実質的に損耗激しい神殿騎士団しかいない。


 扉を叩くこともなく突入してきた娘に言いたいことは多いが、一々相手にしているのも面倒だとアーダルベルトは顎で言葉を促す。


「北部の公共施設(インフラ)整備に国家予算を投じるというのは本当ですか? その様な予算があるなら軍備を拡大すべきです」


 軍備拡大を声高に主張する宗教的象徴というのも興味深い。


「国家予算だけでなく、中央貴族からもかなりの額を拠出するがな」


 北部地域の不満は暴発寸前などではなく、現在暴発している最中である。


 それらを抑える為という理由が“三割”である。


 あの忌々しい若造は征伐軍がエルゼリア侯爵領周辺を占領することを前提にしていたのか、周辺の街道整備や魔力精製施設、貯水堰、鉄道敷設の計画の資料をレオンディーネの身体に爆薬諸共鞄に巻き付けてアーダルベルトの手に渡る様に仕組んでいたのだ。しかも、張り付けられた付箋には「必要な理由は分かっているだろう。政府に金を出させて実行しろ」などと書かれていては、流石のアーダルベルトも盛大に頬を引き攣らせるしかなかった。フェンリスも知っているが、レオンハルトには娘の一件もあるのでこれ以上、怒らせては何をしでかすか分らないということで伏せられている。


「北部の不満を今まで放置したのは政府であり中央貴族でもある。例え北部統合軍に勝利したとしても、それを放置しては問題の解決はしない。……しかもあの若造、北部独立に言及したそうだ。これからはそうした議論も北部領民の間では交わされるだろう」


 アーダルベルトは独立運動が過熱することを恐れた。


 《ヴァリスヘイム皇国》は国事行為全権統帥官たる天皇大帝の下で健全にして安定的な治政を紡ぎ続けており、貴族の腐敗もほとんど言っていいほどなかった。それが何千年も続いた以上、国を割るという……独立という発想は早々に湧いて出るものではなかったのだ。


 しかし、トウカは地獄の釜を開いた。


 北部を策源地とする最大軍事勢力の要職を担う者が独立に言及した以上、それなりの信憑性が伴うのは当然であり、それが巷では軍神と呼ばれる若き俊英であれば尚更である。


 しかも、自分で開いた地獄の釜を閉じたければ、国家予算で公共施設(インフラ)整備を行うことで北部臣民との関係改善に努めろと暗に言っているのだ。


 今頃、政府と大蔵府では大音声の怒鳴り合いが発生しているだろう。


 突然、莫大な予算計上を求められた政府は勿論、内戦によって株価の下落と物価上昇に悩まされていた大蔵府は内戦終結の兆しが見えてきたと歓喜していた矢先に途方もない予算を請求されたのだ。衆議院議長と大蔵府長官の間で殴り合いの一つでも起きていたとしても不思議ではない。


「自分で立案した公共施設(インフラ)整備を我々が率先して行わねばならない状況に持ち込んだ訳だ、あの若造は。……やはり軍人ではなく政治家の発想をするようだな。生きていれば戦後の大蔵府への説得に付き合わせてやる」


 武力で北部臣民を押さえ付けるのは下策であり、アリアベルもそれを理解したのか下唇を噛み締めている。


 ――謀略家に近いな、あの若造は。それに勝利よりも起きた事象に対してどうすれば被害を抑え、利益を最大限にできるかという考え方をしている。不自然な教育を受けているな。政治に関わる血縁に生まれたなら、あれほどまでに軍事に対して造詣は深くないはずだが……


 不自然極まりないトウカの在り様に、アーダルベルトは違和感を覚えた。直接、目にした上に会話した感触としてトウカの才覚に嘘偽りはないことを理解したが、言い知れぬ疑念は晴れない。


 アリアベルを畳みかける様に、アーダルベルトは言葉を続ける。


「ヴェルテンベルク領邦軍の内戦勃発前の運営予算を知っているか? 七割だ。軍事費が七割を占めている。他の北部貴族の領も多くて五割……最低でも四割だ。彼らは長年に渡り戦時体制を維持し続けていた。国軍の帝国軍に対する不足を補うことを名目に、だ」


 いわば北部地域そのものが一つの戦闘国家である。


 武器は溢れんばかりに存在し、魔獣や匪賊の跳梁もあることから領民の銃器武装比率は一人一丁を越えている。軍隊が兵士に与える銃器の充足率を越えた数が領民に流通しているのだから総てが民兵同然であった。しかも、ヴェルテンベルク領などの一部の領は領民に対して個別で兵役を課しており実戦面でも素人ではなかった。


「北部の環境は生き易いものではない。故に彼らは武装する。そして、それを解くには生活環境の向上を図らねばならない。無論、軍事的な間隙は正規軍によって補われるべきだ」


 現状の北部地域は戦時体制にある。国内外を問わない周辺勢力と対等に立ち回ることを目的に勢力が運営されていた。しかし、内戦が終結した場合の潜在的脅威は帝国のみとなり、実質的に国家間戦争が起きていないならば、北部統合軍に対する勝利は平時体制に戻ることを意味する。しかもそれは二〇〇年近く続いていた体制を変化させるということであった。


「領邦軍の予算も削減され動員も解除するなら……」


 アリアベルが小さく息を呑む。


 その意味を理解したのだ。


 戦争がなければ、或いは戦時体制が移行して正規軍が本格的に北部防衛に乗り出すならば、領邦軍の物資の消費と人員も減少する。損耗した武器弾火薬の補充は急速に落ち込み、微々たるものになることは疑いない。


 つまり、軍に武器弾火薬や各種物資を納入することで経営を成立している企業は一夜にして傾くことになる。


 しかも、急速に領邦軍の縮小が起きれば軍事知識を有した者達が大量に民間に存在する状況となる。僅かな不満が暴発へと繋がりかねず、それを彼らは軍事的に支援するだろう。


 軍というのはその収まる勢力の中で比較した場合、巨大組織となることが常である。しかもそこに関連している企業は膨大な数に上ることは間違いない。造船、武器、弾火薬、魔力、食糧、被服……それが大幅に縮小されるとなれば多くの企業が経営を停滞させることは確実であり、重大な影響が出るのは避けられなかった。


「それを回避する為には軍需から民需への迅速な切り替え、事業の多角化、それと失業(リストラ)対応……超法規的な権力の介入で可及的速やかに対応したとしても今更だ。間に合わん。北部は失業者で溢れ返ることになる」


 アーダルベルトは畳みかけるように呟く。


「失業者の増大に株価の大幅な下落、業績の著しい悪化……そんなことになれば、皇国全体が大不況になりかねない……若しかすると北部以外の地域が北部の分離独立を支持しかねない程に」


 アリアベルは顔を真っ青にしている。


 アーダルベルトとしては、そこに気付けるだけ成長したならば悪くはないと胸中で考えていた。尤も授業料は非常識な規模であったが。


「政府と中央貴族が大規模に資金を投じ雇用対策、景気昂揚対策を実施する必要がある」


 つまり公共事業による大規模な経済発展の為の資源開発と地域開発。


 征伐軍は勝利しても莫大な負債を押し付けられる運命にあるのだ。


「まぁ、その問題は大したものではないが」


 アーダルベルトは手にしていた書類をぞんざいに執務机へと投げやると、改めてアリアベルに向き直る。


 北部統合軍は目下のところ皇国最大の脅威である。


 三日ほど前に征伐軍は北部統合軍最大の策源地であるフェルゼンに対して約三〇〇騎による空襲を実施した。


 既に征伐軍の大規模な空襲によって幾分かの航空戦力と対空部隊が戦力を減じられていると判断し、更に継戦能力を削ぐ為の空襲である。


 だが、残念ながらその目的は征伐軍が確認していなかった幾つもの部隊によって頓挫したといってよい。恐らくはフェルゼンを中心とした地域に存在する山間部や島嶼に隠された飛行場に展開している航空部隊や、近郊の森林地帯に隠蔽されていた陸上基地の対空部隊などが集結していたのだ。約一〇〇〇に上る征伐軍の航空攻勢の際、撤退するこれを迫撃する形で幾度も波状攻撃を受けたのはそうした理由があったのだと、征伐軍総司令部の面々は眉を顰めた。フェルゼン侵攻の際、これを放置すれば後背を擾乱される恐れがある。


 無論、そんなこともどうでも良い。戦略次第で如何様にもなることである。


「問題は二つ。一つ目は彼らが開発しているとされる謎の超長距離兵器が試作と性能試験の段階に入った事。二つ目は経済を戦後も維持する為に諸外国との武器輸出協定を締結し始めたことだ」


 彼らは皇国の国家戦略にすら被害を与えようとしている上に、場合によっては諸外国の介入を前提にした作戦行動も視野に入れているという。


 最たる例はエルゼリア侯爵領攻防戦と同時期に、大星洋上でマリアベルが主導して行われた《瑞穂朝豊葦原神州国》政府との条約締結である。


 条約内容は装甲兵器の輸出に関する全般と、揚陸艦建造に関連する技術などの海上兵器の技術交流であった。


 これに皇国政府や陸海軍は背筋を凍らせた。


 装甲兵器と揚陸艦。


 それを神州国海軍が手にするということは、短期間で目標地域に対しての揚陸能力の著しい向上と、限定的とはいえ陸戦の王者装虎兵に対応できる能力を有した戦車の組み合わせで強襲上陸の成功率を飛躍的に高めるということである。


 つまり、神州国軍の皇国本土への強襲上陸能力の向上である。これは皇国陸海軍の対神州国戦略を根本から揺るがす事態である。



 そこに謎の超長距離兵器の存在である。



 空襲時に偵察機が捉えた写真には天に向かって伸びる軌条(レール)とその下に巨大な艙口(ハッチ)……陸軍参謀本部の見解では地下に巨大な噴進弾が収納されているとのことで、間諜が夜間に夜空へと立ち上る噴射炎を見たとの証言もある。噴進弾はヴェルテンベルク領邦軍で開発が続けられていると噂され、サクラギ・トウカが立案したとされる作戦では面制圧兵器として多用されている。弾体の大きさから砲兵と比して持続性に劣るものの瞬間的な面制圧能力が脅威であった。それを大型化したものだと推測されているのだ。


 しかし、問題はその射程である。


 大星洋側、シュットガルト運河開口部には現在、北部統合軍の海上戦力である大洋軍の進出を警戒して海軍第三艦隊と第四艦隊が展開(オンステージ)しているが、これの至近距離に謎の飛翔体が落下した。その時間と間諜がシュットガルト湖上で見た時間帯を踏まえるとそれが同一である可能性が高いと陸軍参謀本部は判断している。


 発射方位と着弾地点を踏まえれば、それが同一であることは明白で、同時にそれが極めて長距離を飛翔したという事になる。


 その射程は凄まじいの一言に尽きる。


 アーダルベルトが治めるクロウ=クルワッハ公爵領、領都ドラッケンブクルまでも射程に捉えており、中央貴族の領地も少なくない数が射程圏内である。


 誘導能力がないとされているが、あのサクラギ・トウカがそれを理解していないはずがない。数で命中率を補うか誘導能力を付与する算段を付けていると見て間違いないだろう。



 サクラギ・トウカ。



 戦争では龍の如く戦域全体を縦横無尽に飛び回り、飢えた虎並みに敵を食い破り、駿足を誇る狼の如く戦場を駆け、謀略では年老いた狐のように狡猾なその在り様。


 アーダルベルトは征伐軍が内戦を優位に進めつつあるものの、真綿で首を締め上げられる感覚を拭えなかった。


「政府も中央貴族も……誰も彼もがあの男とヴェルテンベルク伯を恐れている。前者を当代随一の戦争屋として、後者は血みどろの政争を躊躇わない暴君として、だ」


 アーダルベルトは苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。


 二人は皇国全土を戦火に巻き込むことを厭わないだろう。そして二人を北部地域の領民達は諸手を挙げて肯定する。


「……二人を処断することはできない」


「姉様は兎も角、サクラギ中将は危険です。亡命されれば途轍もない脅威になります!」


 アリアベルの言葉は正しく、しかもその亡命にマリアベルが加わり北部独立の為に亡命政府を何処かで成立されれば他国に侵略の口実を与えることになる。特に条約で関係を持った神州国が一番の問題であり、帝国との武力衝突が予想される中で神州国軍が側面から襲えば皇国は滅亡しかねない。しかもそれを演出するのはマリアベルであり、神州国陸海軍に戦略と戦術を提供するのはトウカである。


「北部の領民は豊かになったのは自分達の努力と共に塗炭の苦しみの中で導いてくれた各々の領の領主の努力の賜物だと考えている。少なくとも政府や中央貴族になど何一つ恩義などないと思っている。いや、寧ろ無視されてきた上に侵略してきたという恨みすら持っているだろう。分かるか、アリアベル? 北部の領民は多少の差異はあれども我々に不信を抱いている……無論、大御巫が頂点に立つ天霊神殿にも、だ」


 何もかもが進まん、とアーダルベルトは唸る。


 無論、政府や中央貴族の落ち度もあるが、それを全力で煽ることで付け込んだマリアベルやトウカの姿勢には疑問を抱かざるを得ない。皇国が滅亡しては全て意味をなくすのだ。


「……政府が戦後に行おうとしている政策も先入観から北部を搾取しようと見られて反発するかも知れないということですね」


「政府や我々が当然と考える政策や税に対しても不当と考えるかも知れん……」


 アリアベルの言葉は正しいが、その認識ですらアーダルベルトは甘いと考えている。


 二人を下手に処断はできない。


 しかし、生存を赦せば途方もない潜在的脅威として存在し続けることになる。特にマリアベルは政治だけでなく経済面でも優秀であり、北部地域以外にも影響力を保持していた。


「二人を処罰するなど論外だ。其々が北部に繁栄と発展を齎した名君と軍神と言える。例え政府や中央貴族が不満を感じても、だ」


 しかし、その場合、誰が責任を取るのか?


 政府や中央貴族とて今回の内戦の理由の一端が自身にあると理解しているが、物事を終わらすには誰かが責任を取らねばならない。当初、先に大規模な戦闘を意図して征伐軍を成立させたアリアベルの大御巫辞任を以て内戦を終結させてはという意見もあったが、内戦を起こしたのはあくまでも北部貴族であり道理が通らない。


「あの二人が安易に暴発するような者なら放置できた。だが、二人は恐らく再度の叛乱など起こさない。何も言わず引き下がるはずだ。そして沈黙を保ち静かに時を待つだろう。報復する時を。そして、その報復は苛烈にして悲惨なものになるだろうな。私だけではない。皆がそう考えている」


 そう、安易な内乱など起こすより皇国という陣営に所属し続けて確実な機会を窺うことを選択するだろう。そして、それは皇国を政治的にも経済的も蝕む恐れがある。


「皆、ですか?」アリアベルが首を傾げる。


 分かっていないな、とアーダルベルトは溜息を一つ。


 大御巫という役職はある程度若ければならず、その職責を辞する時が必ず来る。アーダルベルトとしては次期天帝に嫁がせて、その間に出来た子供が次期クロウ=クルワッハ公爵となることを期待していた。だが、それが叶わなかった場合、アリアベルがクロウ=クルワッハ公爵の地位を継承することになる。政治に疎いままでは許されない。年若い息子は未だに政治に関わるには幼過ぎた。


「政府や中央貴族だ。常に優勢な戦力を持つ征伐軍を退け続け、皇国の国家戦略にも影響を与えつつある二人だ。感情で再度の内乱など起こさんだろう。内乱を再度起こす時は皇国を滅亡させる覚悟で来ることは間違いない。……尤も、二人の反逆の前に北部で独立運動が起きかねないが」


「御父様……」


 非難と呆れを滲ませたアリアベルだが、アーダルベルトはこれからの舵取りの難しさを思い浮かべて溜息を吐くしかない。酒に逃げたいと執務机に置かれたウィシュケの酒瓶を手に取る。


「北部が発展するにはマリアベルを始めとした北部貴族の力が不可欠だった。その事を北部地域の領民は良く理解している。そして繁栄を齎したマリアベルやエルゼリア侯を処断以前に冷遇すればどうなるか。そして、それらを護ろうとするサクラギ中将を害する姿勢を見せればどうなるか……」


 きっと自分は沈痛な面持ちだろうという確証がある。


「北部領民は皇国が自分達を迫害していると判断するだろう。間違いなく北部で独立運動が起きる。その時独立運動の指導者はあの二人のいずれかだろうな……」


 アリアベルは今度こそ沈黙した。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
レビュー、評価などを宜しくお願い致します。 感想はメッセージ機能でお願いします。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ