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紫苑穢国のエトランジェ  作者: 葛葉狐
~序章~    《千紫万紅》
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第九話     東の姫と匪賊



「申し訳ありません。遅参(ちさん)(だん)(ひら)御容赦(ごようしゃ)を。飛鳥様」


 少女は家臣の礼を取り、(こうべ)を垂れる。


 その少女の容姿は異質だった。


 一点の曇りなき純白の長髪に、鮮血の如き色をした瞳。そして、純白の狩衣と紫の袴は少女の気品を引き立てている。真白よりも遙かに純白の髪は、夜風に揺られ、深夜の庭園に降り注ぐ月明かりを受け、宝冠(ティアラ)の様に輝きを放つ。真紅の瞳は闇夜に一筋の光を放っているかの様に鋭く、事実その少女はその瞳に似合うだけの先見の明を持っていた。


 前者の白い髪は色素(メラニン)の欠乏による病気や、心的外傷(トラウマ)を受けた事によってなってしまうことがある。後者の真紅の瞳は色素異常によって色素量が極端に少ない場合、血液の色が透けて見える為であった。トウカの様に医療先進国である《大日連》から来た者であれば珍しいという感想で終わったであろうが、医療が未だ遅れており、魔術や幻想生物が幅を利かすこの世界では先天的な理由や生物学上の問題がなくとも迫害を受ける。科学と思想、道徳が未発達な世界に於いて少数であるということはそれだけで罪なのだ。


 だが、少女にとってそれらの事実はどうでも良いことであった。主君が認めてくれる以上に、他に何が必要と言うのか。


「どうしたの? 小袖に血が付いてますよ?」


 主君の問いに少女がそれを見ると赤い血が付いていた。だが、返り血なので自身の身体には傷一つない。


「申し訳ありません。朱雀大路に強力な妖魔が現れたとの事で滅して参りました」


「陰陽師のお仕事ですか……一度、見てみたいですね」


 主君の言葉に、御望みとあらば、と応じる。

普通の陰陽師であれば危険性などを考え慌てて引き止めたであろうが、傑出した能力を持つ少女が共に在れば、少なくとも妖魔相手に後れを取る事はない。


「冗談です。御仕事の邪魔をしたくありませんから……それで、やはり皇国は?」


 表情を引き締めた主君。


 少女も、収集した情報と、それを踏まえた現状を報告する。


「《ヴァリスヘイム皇国》の天帝招聘の儀は失敗した様です。また、《スヴァルーシ統一帝国》の南部鎮定軍が物資の集積と戦力の再編成を始めたという報告を受けました」


 簡潔に淡々と報告する。


 政戦共に疎い主君であっても、それの意味するところを察することは容易い。


つまりは《ヴァリスヘイム皇国》の滅亡。天帝不在が長期間続いた為に国内が荒廃した《ヴァリスヘイム皇国》に、《スヴァルーシ統一帝国》の大軍が攻め入ることは確実。そして《ヴァリスヘイム皇国》はその攻勢を防げないだろう。元々、数に劣る皇国軍が帝国の大軍に対抗できていたのは、高い軍事教育を受けた将兵と、防衛に徹した戦略、侵攻路のエルライン回廊の巨大要塞、《南北エスタンジア》の峻険な地形に依るところが大きい。


 だが、国内の治安が乱れている状況を見るに、将兵は浮足立っていることは想像に難くない。上層部も天帝招聘の儀の失敗により大きく混乱しているだろう。全ての要素を完全に生かしての防衛は不可能であろう事は疑いない。


「そう……また人がたくさん死ぬのですね……」


 主君が目を伏せる。


 烏の濡れ羽色とも言える程に見事な黒き長髪に、何色にも染まることのなき黒き瞳。紅色の下地に、黄金で十二支天星紋を刺繍された着物の上から、薄い桜色の上着を引っ掛けたその姿は優雅であり儚げでもあった。


 その主君の名を九条飛鳥という。《瑞穂朝豊葦原神州国》で一大勢力を誇っている公家、九条家の第一子にして祭事を司る巫女でもあった。


 トウカが、その姿を見れば驚いただろう。飛鳥の容姿は、日本にいるはずの幼馴染と瓜二つなのだ。


 しかし、二人が邂逅するのはまだ先の話だった。


「飛鳥様……失礼ながら近衛家と鷹司家より、神州国もこの戦乱を奇貨とし、皇国東沿岸部を実効支配すべしという意見が出ております」


「そんな……」


 飛鳥の呻くような声に、少女は深く首を垂れて肯定する。


 海洋国家である《瑞穂朝豊葦原神州国》は、大陸国家である《ヴァリスヘイム皇国》と幾度となく干戈を交えてきた。海では巨大な海上戦力を有する《瑞穂朝豊葦原神州国》が圧倒的優勢だが、陸戦になれば立場が逆転する。天帝不在の間に《瑞穂朝豊葦原神州国》は、《ヴァリスヘイム皇国》に対して強硬路線を展開しており、両国の間……大星洋上の島々を割譲させ、強引に武力進駐することすらあった。《ヴァリスヘイム皇国》としては島々の奪還には、その前に《瑞穂朝豊葦原神州国》海軍を相手にせねばならない事を考えると不可能である。《スヴァルーシ統一帝国》との戦端がいつ開かれるか不明瞭な状態で、《瑞穂朝豊葦原神州国》とは干戈を交えたくないという思惑があるのだ。故に付け入る隙があったからこそ可能であったのだが、近衛家と鷹司家はそれを《瑞穂朝豊葦原神州国》軍の勇戦の賜物と錯覚した様子であった。


「確かに皇国は疲弊しております。しかし、皇国本土に攻め入るとなれば話は別でしょう。五公爵の一つ、ケーニヒス=ティーゲル公爵家を筆頭とした虎種が東部には多く、陸戦主体で戦えば正面から薙ぎ払われるかと」


 特にケーニヒス=ティーゲル公爵の領邦軍が有する装虎兵は、陸戦の覇者と言っても過言ではない。ケーニヒス=ティーゲル公爵領邦軍所属の〈装虎兵師団・『インペリウス・ティーガー』〉などはその最たる例である。歩兵師団であれば一〇個師団を投じねば阻止できないというのが通説であった。


 装虎兵とは専用に育成された白虎などに跨乗した魔導士達で、魔装騎士(マギウスリッター)並みの砲戦能力と、驃騎兵(ユサール)に匹敵する機動力を有した兵種である。《スヴァルーシ統一帝国》軍との戦闘では正面から戦車に体当たりして横転させたという話も聞く。重火器が少ない《瑞穂朝豊葦原神州国》陸軍では太刀打ちできない事は明白である。


「皇国軍は優秀です。内陸部に我が軍を引き込んだ上で包囲殲滅くらいはして見せるかと。しかも、海戦とて皇国海軍が正面切って挑んでくるとは限りません」


 糧秣を輸送する補給艦隊を小艦隊で海賊の如く襲撃されれば目も当てられない。《ヴァリスヘイム皇国》本土に上陸した軍勢の壊乱は更に早まる。


「天帝不在とはいえ、相手の軍が失態を犯す事を前提に戦争をするなど迂闊に過ぎましょう」


「そうと分かっているなら何故……」


 心優しい主君は戦争全般に否定的だが、戦わねばならない時は弁えている。そんな性格であるが故に、不必要な流血を強いようとしている者達の心情を理解できないでいるのだろう。


 ――お優しい方だとつくづく思います。しかし……


 今回ばかりは如何ともし難い。頑強に非戦を叫べば近衛家と鷹司家から疎まれる事になる。両家共に私設軍を保有しており、非合法活動を前提とした非正規戦力も密かに存在していると聞く。対立が深まれば最悪、暗殺という手段に打って出るかもしれない。


「飛鳥様、今は――」


「分かっています。でも、出来る限りの努力はしましょう」


 少女は主君の決意の横顔に、こっそりと溜息を吐く。


 主君の言うところの“出来る限りの努力”というものの恐ろしさを知るが故に、向けられた同意を求める笑みに引き攣った笑顔を返すしかできない。


「一緒にこの国を護りましょう」


 微笑む主君。この微笑みに抗う術を少女は持たない。


 少女は再び首を垂れる。


「この阿倍晴明……一命を掛けましても」












「路銀を稼ぐ為とはいえ、賊如きを相手にせねばならんとは。トウカは良いのか?」


 リディアの言葉に、トウカは冷笑を浮かべる。


 トウカにとって、ヒトを殺めることに対する忌避感は元よりなかった。寧ろ、気に留めていたのは、ヒトと同じ感性が損なわれている事によって、あの輝かしい将星達の戦列に手が届き得ないのではないかという不安のみである。この大地では殺人という《大日連》では究極的な位置に存在する行為が当然の様に許容されている《ヴァリスヘイム皇国》に於いては個人の感傷など然したる意味を持たない。


 ――昨夜のミユキとの会話を聞かれたのかも知れないな。


 リディアの価値観は明らかに武士のそれであり、必要と判断した殺人を躊躇(ためら)うことを是とするはしない。明朗闊達(めいろうかったつ)にして公明正大(こうめいせいだい)な佇まいは、トウカと正反対に位置しており、惰弱なる異邦人を嗤うかも知れない。


「構わない。御前に遅れは取らない」


 正面切って明確な言葉を投げ掛けてこない辺り、男の矜持を斟酌(しんしゃく)してくれていることは明白であった。武士としての矜持(きょうじ)と、他者の顔を立てる思い遣りを持つ少女。前者と後者の様相が両立しない訳ではないが、それが極めて稀有(けう)であることをトウカは理解していた。


「むむっ、主様! 笑っている暇なんてないですよ!」


 木材で阻塞(バリケード)を組み上げているミユキが尻尾を逆立てて唸る。


 三人はベルゲンへの途上で寄った村に拘束されていた。否、正確には泣き付かれていたと言っても良い。ミユキは道草の余裕はないと頬を膨らませていたが、リディアが余りにも目立ち過ぎた。そして、村人に引き止められ、匪賊討伐を依頼されたのだ。


 大剣を背負う少女に、軍刀を佩用する少年。そして、高位の狐種。戦闘単位(ユニット)としては、トウカとリディアが前衛で、ミユキが後衛と取れなくもない。


 三人とも路銀に余裕がなかったこともあり、この申し出は有り難くも断れないものであった。無論、匪賊の規模や勝算を考慮した上で引き受けたのだが不安は尽きない。そもそも、与えられた情報が正確であるとは限らなかった。


「条件も十分に付けた。負けもないはずだ」


「敵の戦力が適正であれば、だろう? 違うか?」


 不敵に笑うリディア。


 泣き付いてきた村人に、何も聞かず鷹揚に頷いた馬鹿が何を言おう眼前のリディアなのだ。無論、直後にトウカが割って入り、詳しい事情と経緯を聞いて事なきを得たが、もし匪賊の戦力が想定を超えるならば、トウカは断じて拒否していただろう。


「相手は貧弱な武装の三〇〇名前後。貴女がいれば少なくとも敵の戦意を喪失させられる、違うか?」


「そこを村人と合わせて襲うわけか。男ならば、ここは俺に任せろ、くらい言ったらどうだ」


 快活に笑うリディアにトウカは「面白い冗談だな」と笑い返す。


 武勇を尊ぶことは好ましいことであるが、同時に常時実践できる程に容易いことではなかった。武勇以上に優先すべき事柄は確実に存在し、戦野の武士を人として現世に繋ぎ留めている要因に他ならない。


 そして、トウカを現世に繋ぎ止める存在はミユキに他ならない。


「ミユキを戦野に投げ出すなど許されない」


 確固たる意志と決意を以て、トウカは断言する。


 しかし、当の本人は往々にして気付かないものである。


「えっ、私、行きますよ?」


 首を傾げるミユキ。


「「……」」


 呆気に取られたトウカとリディア。


 ミユキを始めとした狐種が種族的に戦闘に疎いことをリディアから事前に聞いていたトウカは、まさか自ら戦野に立つと言い出すとは想像の埒外であった。


「え、えっ? 何ですか? 私、悪い子ですか?」


 二人の視線を受けて、ミユキが後退(あとずさ)る。


 村にいれば少なくとも安全性は増す。その為に村の女衆とミユキは木材を組み合わせて阻塞(バリケード)の敷設を進めており、男衆は武器庫の封印を解いて武器弾薬の搬出を始めていた。対するリディアとトウカは、寒空の下で地形図を机に張り付けて作戦会議を行っている。


 口から軍事用語が連呼される様を見るに、リディアの所属が大凡まで絞れてしまうのだが、トウカは敢えて何かを言う真似はしない。詮索しないという約定は未だ健在なのだ。


「基本は近郊での防御戦です。そう難しいことではない」


「そうだな。そこの阿呆狐は鎖に繋いで倉にでも閉じ込めておけばいいだろう」


 二人は頷き合う。


 二人の意見はミユキが戦闘の役には立たないという事で一致している。もし、ミユキが戦闘で大いに活躍できる要素を持ち合わせていたとしても、トウカがそれを認めない。


「むぅ、二人とも酷いです! 私だって戦えます!」


 狐耳を立てて威嚇するかの様なミユキに、トウカは頬が緩みそうになるのを必死で堪えた。リディアに関しては完全に小さく笑声を漏らしている。村の女衆も同様で微笑ましいと言わんばかりに笑みを湛えていた。


 トウカは、女性を思い通りに動かすことの何と難しいことかと唸る。ミユキもリディアも己の思うままに生き、行動する。何ものにも縛られ得ぬ、その在り様は非常に好ましいものがあるが、目下のところとばっちり受けているのが自身のみである現状には、トウカも首を傾げたくなる。


 トウカは、これからの状況に天を仰いで、ミユキへと歩み寄る。


 正面に立ったトウカを、狐耳を揺らして見上げるミユキ。その瞳には大きな怯えと、小さな期待。


 その予想していたよりも遙かに小さな身体を、トウカは壊れ物を扱うかのように、しかし、決して離すまいと抱き締める。正面から抱き締める形になり、ミユキの表情は窺い知れないが、トウカはその陣羽織の様な造りをした服の上からミユキの女性らしい身体の感触を感じた。


「俺にミユキを護らせて欲しい」


 呟く様な、それでいて良く徹る声質の一言。それは常々、思っていたことであり、一時は叶わない事ではないかと考えた想い。


 《ヴァリスヘイム皇国》の大地にはミユキのほうが詳しく、そして身体的な基礎能力も勝っていた。トウカにできることと言えば、不用意な行動を諌めることだけであり、忸怩たる思いを抱いてミユキの隣に立っている。故に今こそ悲願を果たす時である。


「貴女は、男の小さな矜持すら奪ってゆくのか。これ以上、俺を惨めな若造に貶めないで欲しい」


 抱き締めている両手に一層の力を籠め、トウカは願う。女を護るという男の本分を果たせるように、と。


 ミユキは一瞬の逡巡を見せる。己の意志と、現実的な戦力、そして異邦人の矜持。それらを考えて優しい仔狐は悩んでいるのだろう。決して己の虚栄心の依る所ではないことは、強く抱き締め返してきた腕が教えてくれる。


「……分かりました。私を護って、主様」


 トウカの手を取り、満面の笑みを浮かべるミユキ。トウカは再び、ミユキを抱き締めて、その場で軽やかに廻る。ミユキの足が浮き、黄金の尻尾が宙を舞う。その光景に村の女衆から黄色い歓声が上がる。


 そして、足を縺れさせて二人は雪の大地へ倒れ込む。辛うじてトウカは、ミユキを上にして雪の大地から護る。


覆い被さられる形になったトウカの眼前にミユキの顔があった。翡翠色の瞳に、可憐と評すべき顔立ち。トウカの知る如何なる女性にも勝る可憐さを持った少女は、荒い吐息でトウカを見下ろす。纏めていた髪が解け、降り注ぐ陽光がその黄金色の髪を照らし、狐耳が異彩を放っている。


 近づくミユキの顔。トウカも覚悟を決める。


 しかし、無慈悲な悲劇がトウカを襲う。


「非常時に乳繰り合うな、馬鹿者」


 脇腹への鋭い痛みが走る。それと同時に弾き飛ばされたトウカは二転三転する視界のなか、軍用長靴に包まれた右脚を大外套から出したリディアの姿が見えた気がした。


「この忙しい中……罪状は猥褻物陳列だな。皆も作業に戻るがいい」


 先刻のように響くリディアの声。


 絶好の時期に水を差すどころか、足を出してくれたリディアを恨みの籠った視線で見上げるが、大剣の収められた鞘の台尻が顔の横を掠めて雪の大地を抉ると視線を逸らさざるを得なかった。


 駆け寄ってきたミユキの手の感触に頬を緩めつつ、トウカは意識を手放した。










「もう! リディアさんは野蛮です!」


 唸るミユキをリディアは苦笑交じりで諌める。


 人の恋路を邪魔すると馬に蹴られるという格言をトウカに教えられてはいたが、リディアとしては馬如きに蹴られても然したる被害は受けない。寧ろ返り討ちにする自信があり、望むところであった。馬など刺身にしてくれようと鼻息荒い。


「公衆の面前で淫らな行為に及ぼうとしていた淫乱狐が何を言うのか」


「淫乱……ッ!」


 絶句するミユキを傍目に、リディアが己の身体を抱き締めてくねらせると、狐は発情期などいう免罪符があって羨ましいことだ、と笑う。余談であるが、狐種に関わらず全ての種族に発情期は存在しない。


「リディアさんだって直ぐに剣を抜きたがる戦闘狂です! 性的興奮を紛らわせている様にしか見えないです!」


「馬鹿め、そのような事があるか」


 笑い飛ばすリディアだが、戦闘による興奮と性的興奮の差異など然してないことを知ってもいた。であるからこそ、戦闘後の将兵はその昂りを現地の女性にぶつけるのだ。女性からすれば嫌悪を抱く行為であるが、同時にその平時では人道に(もと)るはずの行為が、戦時では将兵にとってこの上なき褒美という側面を持っていることも理解していた。奪い、犯し、辱め……それらの行為は兵を猛らせ、新たなる戦野へ誘う。


 それを《スヴァルーシ統一帝国》陸軍元帥、リディア・トラヴァルト・スヴァルーシが止めることはできない。それらの行為すら勝者の特権として《スヴァルーシ統一帝国》の国是は肯定しているのだ。


 止むを得ないという事は理解しているが、リディアは《ヴァリスヘイム皇国》の政治制度や臣民に触れて違和感を一層強くした。


 ――この仔狐程に明るい笑みを零す少女が帝国にはどれ程いるか。


 否、そうはいまい、とリディアは嘆息する。


 日々生きる事に精一杯な人間が、優しい笑みを浮かべる暇はない。愛があれば、夢があればという戯言を口にする愚か者も存在するが、それらは確固たる生活基盤があってこそ初めて求め得るものに他ならない。多くの臣民が飢えに苦しみ、狂気と正気の入り混じった瞳で日々を過ごす風景が《スヴァルーシ統一帝国》では日常である。求める余裕などありはしない。


「ぶぅ、色欲魔人に主様は渡さないですからね」


「いらん……と、言いたいがそれも良いかも知れない。どうだ、仔狐。私にトウカを一晩貸してくれるか?」


 不躾極まりない問いにミユキが絶句する。ただ単に、寄越せ、と言われるよりも癪に障る一言に、ミユキは狐耳と尻尾を逆立てて、リディアを威嚇する。


「主様は、リディアさんなんかについて行かないです!」


「なに、魔人族は人と同じくらい孕みやすいからな。既成事実など容易いこと」


 一度寝技に持ち込んでしまえば如何とでもなるのではないかと、リディアは考えていた。子供という存在が果たしてトウカを束縛し得るものなのかという疑問はあるが、肉親に対する情は深いとリディアは考えていた。


 リディアは勘の良い少女である。軍事的にも政治的にも、そして何より私的にも。魔人族とは旧文明時代に、科学的に強化を施された人間種の末裔であり、その能力には大きな差異がある。神々との最前線、或いは強化された他種族との戦闘に投入された“兵器”なのだ。神々側も“天使”という類似した兵器を運用しており、それがその時代に於いては当然のことであった。


 限定的ながらも下級神や天使との交戦が可能であった魔人族であったが、生物と掛け合わせた他の種族と違い、人間種の強化体でしかない魔人族は容姿や形状が一見すると見分けがつかない程に人間種と類似している。よって《スヴァルーシ統一帝国》の国是に抵触しない。


 《スヴァルーシ統一帝国》人にとって恐怖の象徴とは、目に見える象徴でしかない。他種族の本質を理解していないからこそ外観の差異に固執するのだが、目視できるモノを相手にしたからこそ《スヴァルーシ統一帝国》帝王家は、これを以て臣民を扇動してみせた。


 《スヴァルーシ統一帝国》には敵が必要なのだ。


「これが私の敵か」


 リディアはミユキの尻尾に触れる。


 ミユキが種族的な特徴に触れる事を許す相手はそう多くない。いや、これは獣系種族全体に言えることであり、心身共に必要以上に踏み込まれることを良しとしない。特に種族的な特徴である獣耳や尻尾などに触れることは一般的に無礼とされることであり、家族や恋人でしか許されない。


 驚いた……間の抜けた表情のミユキに、リディアは嘆息する。敵というには余りにも純朴にして無邪気な姿に、リディアは敵殲滅の気炎を吐いているのは《スヴァルーシ統一帝国》側だけで、《ヴァリスヘイム皇国》は完全に傍迷惑な敵性国家程度にしか考えていないのではないかと考える。今の今まで《スヴァルーシ統一帝国》という大国の国を挙げての大攻勢を、傍迷惑程度の意識で退け続けた《ヴァリスヘイム皇国》という国家の潜在能力は平凡ならざるものがあった。


「へ、変態です! 嫁入り前の女性の尻尾に触るなんて!」


「別に減るものでもあるまい。しかし、私の髪などより余程、良く手入れされているではないか。お前には勿体(もったい)ない男だな、あれは」


 心底、リディアはそう思う。


 ミユキは余りにも優しく、トウカの矛盾を受け止めきれない。夢見る乙女の腕で異邦人の矛盾を受け止めることはできないと、リディアは冷徹に計算していた。


 異邦人は、きっと戦乱の時代へ雄飛する。それは余りにも強い予感であった。それ故に確信となる。


 だが、リディアは、それを止める気はなかった。ミユキとトウカを引き離すことは無意味。互いに惹かれ合っている以上、それを無理に引き離すことは顰蹙と憎悪を買う。何より、トウカも立場を得れば状況に雁字搦(がんじがら)めにされ、最愛の人と離れざるを得なくなり、トウカの本質を知ったミユキも最愛の人の為と距離を取るだろう。


 それが上に立つということなのだ。他者より上位に立つということは、それだけ多くの束縛を受ける。帝族たるリディアにはそれが分かる。幼少の頃より多くを制限され、無数を強制されたリディアは、それを痛い程に理解しており、帝族は挙句の果てには伴侶すら己に選択権がないのだ。


 もし、それを無視しようというのであれば、それは魔王に他ならない。


 魔王。


 それは、己の気に入らない全てを蹂躙し、己の気に入った全てを狂おしい程に愛する狂者(強者)の尊称である。人である事を辞め、全ての価値観を自分が決め、あらゆる正義を己の基準と判断で肯定する化物。生物の範疇を越えた力を行使し、己の欲望と悲願のままに荒れ狂う暴風。


 ――まさか、な。


 もし、トウカが魔王と称されるならば、一体、如何なる所業によってであるか大いに興味があるとリディアは思った。


 それが《ヴァリスヘイム皇国》は愚か《スヴァルーシ統一帝国》にどの様な影響を齎すかは別として、であるが。


「まぁ、詮無いこと。……ということであれを寄越せ」


 そう言って布団の上に放置されているトウカを指差す。


「ダメです! 主様は私だけの主様ですもん!」


「なら、少しは主様とやらの顔を立ててやってはどうだ? 正直なところ、私にはお前が無邪気にトウカを振り回している様にしか見えん。男は女に対して己の矜持と面目を以て応じようとするが、それは当人の見栄もある」


 リディアの言葉に、ミユキは首を傾げる。


 相手が自分に好意を抱いているから、あらゆる行動が無条件で受け入れられる訳ではない。無論、双方が相手を大きく、深く受け入れられる事は互いの信頼に比例しているが、意見を押し付けるだけが男女の仲ではない。


「男とはな、好きな女の前では格好を付けたくなる生物なのだ。先の御前(おまえ)の態度は宜しくない。黙って頷くべきだった」


 男は何時だって狂おしい程にチカラを求めている。武力か暴力か権力か財力か政治力か軍事力か知力か……ナニカを成す為のチカラを常に求めている、そうでなければ男は男たるの理由を喪うのだ。男がチカラを求める姿は狂信的であり熱狂的でもある。だが、それ故に女はその無理無謀無茶に堪らなく惹かれるのだ。


「で、でも……リディアさんなら戦いますよね?」


 ミユキの上目使いの言葉に、リディアは賢しい奴め、と笑う。リディアの気性を知った上で、その言葉を口にしていることは明白であり、痛いところを的確に突いてきたミユキの舌鋒に呆れるばかりであった。


「無論、私は女である前に騎士なのでな」


 トウカに護られて納得する程、リディアの騎士道は脆弱ではない。女である事か騎士であることかを選択せねばならない(とき)が訪れたならば、リディアは迷わずに後者を選び取る。騎士である己に対する絶対の意志と、揺らぐ事なき決意は、リディアという少女の根幹を成すものにして、紛れもなく依って立つところであり行動の基準であった。


「自分だけ狡いです! 私だって……」


御主(おぬし)は泣き叫ぶ少年兵を斬ったことがあるか? 農具を手に痩せ細った身体で健気に抗う老人を槍で刺し貫いたことがあるか? 私はある。それを最善と思うが故に、な」


 《スヴァルーシ統一帝国》は常に騒乱に満ちている。無数の戦線があることが最大の理由であるが、同時に国内の叛乱への対応に依るところが大きく、軍は敵だけではなく自国民にすら向けられている。自国民もまた潜在的脅威なのだ。


 そんな国で将官を務めている少女こそがリディアなのだ。


「御前はトウカの帰る場所となるが良い。アレの依って立つところ足らんとするならば、斯様(かよう)な態度では叶わぬ。そして、何よりも人を殺める覚悟なきままでは足を引っ張るだけであろう」


 仔狐の無垢なる想いを圧し折らんとする己への罪悪感もあるが、それでトウカが不遇を強いられるならばリディアは看過できない。


「この際、御主の覚悟の有無など問わんさ。だが、トウカの為を思うならば今回ばかりは戦野に赴くのは止めてやれ」


 トウカはいざとなれば村人を見捨てて、ミユキを護ることを優先するかも知れない。四方(よも)や、その様な爆弾を隣に置いて戦野に、トウカを赴かせるわけにはいかなかった。リディアからすると《ヴァリスヘイム皇国》の民は決して護る対象ではないが、自らに(しがらみ)のない状況で、己の行動で多くの人を助け得るというならばリディアに否はなく、それに対して全力で事に当たるは何の躊躇いもない。


 リディアはこの状況を楽しんですらいた。今この時、如何なる国家の影響下になく、己の信義を武器に自由騎士として他者を助ける戦いに挑むという分かり易いまでの善悪の構図。リディアは心躍らせていた。乱世であっても匪賊などに堕ちず、逆境に立ち向かう者もいる以上、下賎に堕ちた者の言い分など聞くに値しない。


 殺せばいいのだ。国家が臣民に対して最大限の義務を果たそうとしている《ヴァリスヘイム皇国》に於いて、匪賊へ身を(やつ)すなど贅沢極まりない。《スヴァルーシ統一帝国》では臣民に対して義務を果たさない……或いは義務すら捻じ曲げる官僚や貴族が多く、臣民には不遇を強いり続けている。日々の食糧すら満足に供給できない状況が続いており、各地では叛乱が頻発していた。


「衣食住足りて、尚、良縁に恵まれているならば、更なるを求むことあたわず。汝ら心得よ、分相応を以て己が幸福となせ」


 それは、旧文明の頃に標榜されていたとある大国の国是である。人間の欲望を肯定し、それによる国家の躍進を是とする《スヴァルーシ統一帝国》からすれば、笑止と一蹴されるような何ら積極性のない国是であるが、リディアはその言葉を密かに好んでいた。理想でしかないが、皆が衣食住を効率的に分配し合えば、臣民の多くが満たされて大多数が幸福を感じる国ができるのではないか、と。


 善意と道徳心の周知こそが国家の安寧を実現すると、リディアは信じて疑わない。無論、自身がそれを成せるとリディアは考えていないが。


「…………下らない」


 小さな呟きと共に、トウカがもぞもぞと布団から抜け出す。未だ眠いのか身体がふらついているものの、それを見たミユキがすかさず身体を支える。傍から見ると抱き付きたいだけに思えるが、それを指摘するほどリディアは野暮ではない。


「おお、やっと起きたか」


「主様っ!」


 其々の反応に、トウカが面倒臭そうな顔をする。麗しい女性二人に対して、けしからん態度だと文句を垂れるところであるが、今はトウカの言葉が気になった。


「永劫に求めるを肯定するか、異邦人」


「無論、肯定する。それが人なれば」


 当然だと言わんばかりの態度に、リディアは鼻白む。人の欲望の末に腐敗の一途を辿る《スヴァルーシ統一帝国》の現状を知るからこそ、リディアには必要以上の欲望は一層汚らわしいものに見えた。


「それにしても下らない言葉だ。馬鹿な理想主義者が残した言葉か? 残念だがその理想を求めた国家の末路を俺は知っている」


「……馬鹿な、存在したのか」


 その様な無理無謀を求めた国家を、リディアは知らない。


「俺の故郷でその言葉を遵守しようとした国は、例外なく悪害を撒き散らし、絶望を振り翳した末に滅亡した」


 平等であれば考えることすら罪であると言わんばかりの一言に、リディアは呻く。確かに理想かも知れないが、国家とは叶わずとも理想を掲げ、それを実行しようという姿勢に多くの者が魅せられるのではないかと考えていたからだ。その姿こそが歴史となり、語り継がれるべき異形なのだ。


「一定以上の幸福を求め続けなければ国家は政治的にも道徳的にも停滞するだろう。繁栄を諦めた国家はやがて倦怠に沈み、退廃を重ね、いずれは他の国家に滅亡させられるか内乱で自滅するだけだ。人間というどうしようもなく愚かな種族が闘争という名の進化の果てに発展した生命であるが故に、向上心という名の欲望を失った者は時代に淘汰される」


「……トウカは結果を知っているのか。狡いぞ」


 リディアは唸る。聞きたいことはエルネシア連峰の標高程にあるが、トウカは語ってはくれないと感じた。目指す理想に対して、嘲笑する程の悲観的な結末を眼前の異邦人は知っているという事実に、リディアは理不尽な感情を抱く。


 ――全てを知るからこそ何もしない、か。


 トウカという人物は停滞している。多くの末路を知っているにも関わらず関与しないということは、リディアからすると逃げであった。唯一の例外は、ミユキが関わった場合であろうが、これはどの様な反応になるか、リディアには想像がつかなかった。未だ燃えるような恋愛を知らないが故に。


 リディアの内心など斟酌してはくれないトウカは言葉を重ねる。


「国家の国是にしてしまうのは論外だ。だが、個人の目標にする分には構わない。その場合は聖人君子の生き様の如く、後世に語られるかも知れないな」


 とんだお笑い草だが、と嗤うトウカにリディアは口を噤んだ。


 トウカは眼前で不満たらたらですという表情をしているリディアに対して、なんと面白い者なのかという感想を抱いていた。人を惹き付ける要素の一つとして見るならば、それは稀代の才能かも知れず、覇者足り得る要素なのかも知れない。


 トウカは、この時、リディアに対して、織田信長やユリウス・カエサル、アレクサンドロス一世もこの様な人物だったのかも知れないという思いを抱いていた。


 覇者という存在は英雄よりも尚少ない。


 英雄とは国家の英雄《功労者》に対して授与される称号に過ぎない。歴史上には星の数程に存在し、トウカ自身も祖父や、その関係から《大日連》元帥にして陸軍大臣の東郷篤胤を知っている。東郷平八郎の末裔にして次々と騒乱の火種を吹き散らす稀代の英雄。あれこそが英雄である。致命的な闘争となる前に、その費用対効果を鑑みて行動する。真の英雄である。


 対する覇者とは多くの者と共に同じ理想を抱き、剣を振るう覇道と王道の混合物であり、一代にして国を興し、瞬く間に領土を広げ、散るその瞬間まで己の意志を貫き徹し続けた者の称号であった。


「理想としての平等は驚く程に多くの者を惹き付け、余りにも早く腐敗する」


 トウカが、指した国家とは《ソヴィエト社会主義共和国連邦》である。標榜するは平等を謳った共産主義。


共産主義の源流とされる思想の歴史は、プラトンの提唱した国家論や西洋宗教における財産共有、仏蘭西(フランス)革命でのジャコバン派の一部が唱えた無政府共産主義などがある。それらを後に、カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスが大系化し、市民革命で確立した私有財産制を制限した。そして、共有化する財産種類を資本に限定しつつ、資本家による搾取のない平等な社会を目指すマルクス主義が生まれたのだ。その流れを汲むのが共産主義思想であった。


 トウカからすると碌でもない連中の意志の集合体に過ぎないが、平等という御題目に弱い主体性なき民衆は踊らされた。


 結果は荒廃を招き、ロマノフ王朝によって腐敗していた治政は一定の改善を見たものの、産業や農業発展の為に多くの民衆を犠牲にして恐怖政治を敷いた。そして、《大日本帝国》と《独逸第三帝国》の侵攻を受けて崩壊する。書記長を自称する哀れな指導者は、誰も信じず、孤独の内に斃れた。


「平等と弱者救済は独裁者と無能の方便でしかない」


「それは極論であろう。世には平等を庇護した王もおれば、生ある限り友愛を解き続けた者もおる」


「否、断じて否だ。歴史を紐解けば分かる。そんな偽善者よりも、二つの方便を利用して己の権限を強化した悪党の何と多いことか。それに国家とは極論を以てして動くのだ。帝国の国是も皇国からすれば極論だろう? 無論、不愉快ではあるが国営の為だ。……分かっているだろう?」


 分かっていて尚、その様な言葉を吐く姿勢。リディアは気付かなかったが、トウカはそれを好ましいと感じていた。


 本音と建前を己の精神に併存させ、使い分けることが出来なければ覇者足り得ない。しかし、リディアに関しては建前という名の理想に引き摺られ過ぎている面があり、何処かで躓くだろうとトウカは見ていた。


「酷い奴だな、トウカは。私の夢を否定してしまう」


「酷いのは現世の在り様であって俺ではない」


 腹立たしい程の事実に、リディアは嗤う。否定しないという事は、リディアも気付いているとトウカは考えているのだろう。ならばそれでいいとトウカが嗤い返す。事実として認識できているならば取り返しのつかない過ちは起きない。


 異邦人は仔狐を侍らせて嗤う。膝の上の仔狐は嬉しそうに寛いでいる。猫の様にごろごろと異邦人の膝の上で至福の一時を過ごしているその姿は、二人の会話には酷く合わない。


「ぬしさま~。お腹すきましたよぅ」


 唸るミユキの言葉にトウカは鷹揚に頷く。


 それは彼にとっての一大事である。


 胡散臭い身分の娘の理想などよりも遙かに重要な問題なのだろう。


 慌てて立ち上がったトウカが、襖を開け放って部屋を出る。



 後には、リディアとミユキだけが残された。





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