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紫苑穢国のエトランジェ  作者: 葛葉狐
第一章    戦乱の大地    《紫電清霜》
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第一一七話    敵襲




「早くそのだらしのない顔を元に戻しなさい。凄く気持ち悪いわ」


 リシアは腕組みを其の儘に、尻尾を盛大に振りながら締まりのない笑みを浮かべているミユキを一瞥して舌打ちを一つ。


 シラヌイの説得に成功し、一部の天狐族がシュパンダウへ移住することが正式に決まったのだが、ミユキの浮かれ様にリシアは呆れるしかない。無論、天狐族の一部を移住するというのは政治的にも軍事的にも非常に大きな一手であり、ミユキの発案としては上出来と言える。例えそれが個人の感情による結果に過ぎないとしても。


「私も耳、高々です」


 狐耳をひょこひょこと動かし、自らの判断に大きな胸を張るミユキは、リシアからみても能天気なものだが、このゆるいままに自らの望む状況に現状を引き寄せている点は、腹立たしくも羨ましかった。


「人間種は、一般的に鼻が高々になるものなのだけど……」


 無論、天狐でもそれは変わらないのだが、ミユキの怪しい言語を追求する気は、リシアにはなかった。


 仕方なく、リシアは野戦机に張り付けられた設計図に目を落とす。


 シュットガルト湖沿いの小高い丘の上にはリシアやミユキだけでなく、シュパンダウ領邦軍の兵士達と民間から呼び寄せた工員が忙しく動き回っており、慌ただしさと活気が感じられた。


 眼下に見渡すことのできる打ち捨てられた廃村。


 そんな劣化した建造物達の破壊と修理を行う兵士と工員達。


 本来であれば工兵を集中動員し、短期間で改修を終えたいと考えていたリシアであるが、シュパンダウ領邦軍は、現地のシュパンダウ出身者で編制された領邦軍であり、治安維持や沿岸警備、航空哨戒に特化した軍であった。当然ながら工兵など一個小隊程度しかおらず、そもそも正面戦力も兵力と練度が不足した一個歩兵中隊という有様で、航空戦力や水上戦力に比してその規模は小さく、しかもロンメル子爵領自体が無数の島……島嶼である為に大きく分散している。一部では領邦軍の手が回らず、自警団などが活躍している状況であり、多くの兵士を動員することはできない。寄せ集めの少数で細々と改修を続けるしかなかった。


「マイカゼ殿は、もう帰られたの?」


「えっと、里に帰って移住する希望者を募るんだって。きっといっぱい来てくれるよ。だって魚が食べ放題なんだもん」


 ここで不安げな表情を見せるならば可愛げがあったかもしれないが、狐達を誘き寄せる為、移住者を募るマイカゼに、ミユキは豊富な魚介類を手土産として渡していることを、リシアは知っていた。食べ物で釣るミユキも問題だが、それで釣られると判断されている天狐達も問題である。防諜上の不安を感じる有様と言える。


「夜ご飯が魚の(わら)焼きだっていうと、皆やる気を出してくれたから早く終わっちゃいますよ」


 ミユキが見つめる先で、野戦炊事兵が調理という戦闘を繰り広げている。野戦炊事兵という兵科は皇国だけで見られる兵科であり、輜重や後方支援を重視する国家ならではの兵科と言える。無論、ロンメル子爵領邦軍はそうした兵科を事前に用意できなかったので、ミユキの鶴の一声により腕に覚えのある領民から選抜した者達によって編成されることになったのだが、自然溢れるシュパンダウは旅館なども多い為、陸軍の野戦炊事兵すら上回る調理技術を有していた。料亭の如き刺身盛りにする必要はないが、料理人という名の職人達は随所に工夫を凝らす姿勢を見せたので相対的な処理速度は然して変わらないが。


 ともあれ、ミユキも大満足である。


 北部統合軍参謀総長でありロンメル領邦軍司令官でもあるトウカは難色を示したが、ミユキの懇願の前に折れてしまった。予算の多くを高射砲の増強に取られている中での出費である。


「おとさんは釣りに行っちゃったからいないけど、リシアがいるから大丈夫だよね?」


「私は参謀本部付の情報参謀なのだけど……」


 頼られるのは悪い気がしないことに加えて、ロンメル子爵の立場にあるミユキに不満を持たれる訳にもいかないので協力することは吝かではない。何よりミユキに協力するという名目で、トウカの私生活に堂々と近づくことができるというのは大きな魅力であった。


何より、リシアは傀儡なのだ。


 北部統合軍に於いて実質的に情報を司る立場にあるのは、情報部のカナリス中将である。情報を取り扱う士官としての教育を受けず、また経験もない。トウカが信を置ける者が少ないという人材不足に加え、マリアベルが情報を扱う者に人間関係が明確に白であると断言できる者を採用したいという意向を見せたからに過ぎなかった。


「はぁぁ、仕方ないわね。まぁ、一週間は見ておきなさい。住居が足りないなら旧式商船でも曳航してきて港に係留したらいいいのよ。別になんとでもなるわね」


 実際はトウカの発案なのだが、態々、口にする必要はない。


 トウカは、ロンメル子爵領に関する点では楽観視しているようにリシアは感じた。


 否、状況を利用してミユキやマリアベルが最大限の利益を得られるように動いている様に見える。その最たる例は、北部統合軍の政治の中枢をエルゼリア侯爵領に置いたことであり、その地域は平地であり大規模な軍の運用が行い易く、征伐軍がここでの決戦を望む理由が一つ増えた。トウカは徐々にエルゼリア侯爵領周辺で決戦が行われるように状況を整えつつあり、他の有力貴族の勢力を征伐軍との内戦に乗じて削ぎ落とそうとしている。確かに政治的解決場難しい以上、マリアベルの求める軍事的勝利を得る為に最善を尽くすことが望ましいが、それに協力的でない貴族を排除しようとする姿勢に疑問を持つ者は参謀本部にも存在する。


 リシアも、トウカの姿勢には懐疑的である。


 利益と厚遇を以て従わせることで内部問題を露呈させず、協力を促す方が効率的である。 


 恐らく、トウカは戦後を見据えており、この内戦を終結させる算段を付け、最終的にミユキやマリアベルが大きな権勢を得られるように蠢動している。ミユキとマリアベルに対して否定的な有力者を殺害、或いは権力を削いておこうという目論見があるのだろう。


「まぁ、正直、問題はそこじゃないのよね」


「???」


 首を傾げるミユキを横目に、リシアは大きく溜息を吐く。


 問題は、トウカがマリアベルの権勢に対して配慮を示し始めていることであった。否、正確に言えば少し違う。


 トウカとマリアベルの仲が怪しいのだ。


 当初、マリアベルは、トウカをヴェルテンベルク領に縛り付ける鎖としてリシアを嗾け、その結果、リシアはトウカにどうしようもなく惹かれてしまった。恐らく、それはマリアベルにとって予想通りの展開であった筈である。ミユキに爵位を与える根回しもその辺りから行われていたことを踏まえると、ミユキとリシアの二人を鎖とすることで両手を縛ろうと考えていたことは疑いない。ミユキは元よりトウカの恋人であり、その拘束力は言うに及ばずであるが、自由奔放でトウカに言い包められる可能性がある。それを不安視したからこそヴェルテンベルク領邦軍所属で、尚且つ自身の意向を受けたリシアを投じたのだ。


 それは、以前より分かっていたことである。


 しかし、トウカとマリアベルの仲は時が進むにつれて険悪になった。若しかすると、マリアベルはトウカと自身の仲が相容れないものであると判断したからこそ、リシアまで近づけたのかも知れない。


 であるにもかかわらず、最近はトウカとマリアベルの仲は親密なものとなりつつある。


 軍務卿と参謀総長の二人が顔を合わせる機会はかなり存在する。


 軍政を司る軍務卿という立場のマリアベルに、軍政を司る立場のベルセリカに対して作戦行動を立案し、指導する参謀本部の長たるトウカ。名目上、二人が顔を合わせる機会は幾らでも存在し、作り出すことも容易い。


 リシアが二人の仲を怪しんだ理由は、軍議の回数が余りにも多いのではないかという疑念もあるが、領軍司令官であるイシュタルが総司令部の廊下で、我が領主にも春が来た云々という会話を首席政務官であるセルアノとしていたことが最大の理由である。もっとも、セルアノは「あの戦争屋、去勢してやるわ」と息巻いていたが、リシアはその点は聞かなかったことにした。


 ゲフェングニス作戦後の舞踏会では、二人が衝突するのではないか、とザムエルやフルンツベルクなどは懸念していた程であり、それ以前から親密であったとは考え難いものの、そうなると極最近と言うことになる。


 その正体が不明であるトウカは勿論、マリアベルもその多くが謎に包まれている。ミユキなら勝算がないでもないが、マリアベルが相手では勝算すら見えない。


 北部が装甲姫。


 他者を寄せ付け得ぬ美貌の女伯爵。政戦共に類稀なる視野を持ち、単独で周辺貴族を伍する力を有し、それを適正に行使する意志と能力を持ち合わせた力なき神龍。


 仔狐などとは格が違う。リシアはミユキ共々、押し潰されることは間違いない。


 ――違うわね。堂々と親密であることを周囲に見せつけている訳じゃないから、二人の関係が露呈することを恐れていることになるけど。


 とするならば、そこには一定の配慮があることになる。付け入る隙があるとすれば、そこしかない。


 リシアは、トウカのお気に入りの部下と周囲からは見られており、参謀本部でもそうした理由から他の参謀から遠慮と好奇の視線に晒されている。紫苑色の髪の為、そうした視線や感情を受けることは馴れているリシアであるが、今回ばかりは不愉快であった。


 部下として背後に控えるのではなく、恋人として横に並び立つ者で在りたい。そう願っていた。


 だが、致命的なまでに強大な敵が迫っている可能性が生じた。


「全く……面倒ね」


 野戦炊飯車で盛大に炙られている海魚の匂いに釣られ、移動し始めたミユキの揺れる尻尾を見つめながらリシアは空を見上げる。


「これは子爵のわたし自ら味見をしないといけないです! こ、これは、あれです! 身を挺して、皆さんの食べる魚が安全か確認するんですよ! 称賛されちゃう行為ですよね?」


 ミユキの自己弁護に対して、摘まみ食いに称賛を求めるヒトを初めて見たなどと考えつつ、リシアは背後の気配にミユキを追おうとしていた足を止める。


「報告致します」


 肩越しに相手を確認すると、それは若い通信兵であった。


 顔に緊張の色が窺える点を見るに、碌な内容ではないのだろうと見当を付けたリシアであったが、想像を超える事態に言葉を失った。







「この辺りは、恋人達が訪れる自然公園として有名と聞いておったがの……」


 考えてみれば軍港の近くであったの、とマリアベルは溜息を吐く。


 このような場所を恋人とのお勧めと雑誌に書く出版社は潰してくれようと考えたが、周囲を見渡せば恋人達が散見されるので強ち嘘ではない様子であり、ヴェルテンベルクの恋人達の考えていることがマリアベルには分からなかった。これだから若い者は、と言葉に続けないところが精一杯の強がりである。


「まぁ、シュットガルト湖が見えるからな。夕方になるとそれなりに映えるのだろう」


 長椅子に腰掛けたトウカの言葉に、マリアベルは、成程、と頷く。


 トウカは夕陽……旭光に対して特別な思い入れを持っている。


 代将になり領邦軍艦隊司令官に就任した際、艦隊旗を十六条旭日旗にしたことからもそれは窺える。マリアベルにはその理由は分からないが、何故か軽々しく聞き辛いことでもあったので問い掛けることはなかった。


「あれは……」


 トウカの声にマリアベルが視線を巡らせば、噂の新型巡洋艦が軍港への接舷を行っているところであった。


 岸壁や桟橋に着岸、離岸する際、大型船舶は補助が必要であり、新型巡洋艦も例に漏れず曳船(タグボート)で曳航されている。軽戦艦程の排水量があることに踏まえ、新機軸の装備を複数搭載している為に手間取っている様に見受けられた。新造艦というのは何処の軍港でも丁重に扱われるものである。


側面補助推進器(サイドスラスター)球状船首(バルバス・バウ)は、何とか使えるといったところか」


 球状船首(バルバス・バウ)とは、トウカが提案した低費用対効果で大きく能力を向上させる技術の一つで、造波抵抗を最小化して燃料効率や速度の向上を図るものであった。


 船は水面を掻き分けながら航行する移動機械であり、船首は鋭利な刃物のような形をして水面を切り分けるように航行するが、その水面を切り分ける際に波が発生する。この波を生み出されることによるエネルギー損失が航行時の抵抗となり、これを一般的に造波抵抗と呼ぶ。これを低減することで速力を事ができる。


 原理としては水面下の前方に突き出した構造体を形成し、水面での船首が水を切り分けるより前方に前もって波を生じさせ、相対する運動をする二つの波を打ち消し合わせるのだ。


「乗員が馴れておらぬのであろうて」


 二人は口々に新型巡洋艦への感想を零す。


 共通する最大の話題が軍事であるというのは色気を感じさせないものであるが、当人達はそれを気にすることはない。二人にとって気兼ねなくできる会話であり興味の中心でもあるからである。航空母艦や潜水艦、強襲揚陸艦と、次々と研究と開発、試作が繰り返されていることを見ても分る通り、水上兵器は大いに興味を持ち得る対象であった。


 敗戦確実となった場合、皇国船籍の船舶……特に北部統合軍に対して敵対的な企業が有する商船に対する無制限通商破壊戦を実施する蒼海の掠奪者達。


「勇ましい事ではないかえ」


「まさか、防空巡洋艦を建造することになるとはな」


 元より、航空優勢の原則について理解していたトウカに対し、マリアベルはゲフェングニス作戦による航空騎の活躍まで正確には理解していなかったはずである。領空侵犯と航空偵察を行う航空機に対する対抗手段として、防空巡洋艦は建造中であった大型揚陸艦が強襲揚陸艦の新規建造決定により設計変更となって防空巡洋艦へと改装された。船体構造が商船を基本としており、複数の新機軸の技術を搭載することが可能であった為、試験できるものは全て搭載されたという経緯があり、運用は他の戦闘艦と比して例外的なものである。


 現場が実戦配備されている艦艇に実戦証明がなされていない技術が使われることを忌避した為であり、元を辿れば防空巡洋艦という艦種に対する不信感もあった。


「領主様の命令で嫌々押し付けられた防空巡洋艦を現場が嫌々使っている、と」


「なんじゃなんじゃ、御主とて防空艦の建造には賛成したであろう」


 剥れるマリアベルは可愛いものであるが、トウカが以前、勧めたのは建造中の大型駆逐艦を流用した防空駆逐艦であり、巨大な排水量を持つ揚陸艦を防空艦にするとは聞いていなかった。


 ヴェルテンベルク領に訪れた初期の発案であり、しかもその後は陸上兵器などの研究開発や領邦軍の再編にと多忙であった為に、巨大な防空巡洋艦が完成しているとは思っても見なかった。マリアベルの奇想兵器好きを甘く見ていたと言える。


 トウカは自身へと身を寄せてきたマリアベルの肩に手を回し、小さく嘆息する。


「しかし……最近の若者は恥じらいを知らないのか」


 周囲の恋人達は、他の長椅子や芝生などの思い思いの場所で寛いでいるのだが、身体を寄せ合い、啄む様な口付けをしている姿が散見される。この場では、寧ろ軍事講義をしているトウカとマリアベルこそが異端であるのだ。


 けしからん、と口にするトウカだが、その辺りは西洋的な感性なのだろうと納得はできた。身を寄せるマリアベルもその様な意図があるからか、先程より挙動不審であり、見ていて微笑ましいものがある。


 トウカは、マリアベルの髪を右手で軽く梳く。


 流れるような髪質であり、驚くほどに軽やかな“金髪”にトウカは惜しいという気持ちに満ちていた。トウカはマリアベルの紫苑色の髪を好ましく思っており、一種の神々しさすら感じていた。元より祖国では西洋人の模倣に過ぎない染色された髪色は数多くあったが、紫苑色の髪は存在し得なかった。ただの紫ではないのだ。


「マリィ……今は軍務卿でもなければ参謀総長でもない。遠慮はいらないが?」


「むぅ、その言い方は卑怯であろう」


 立場に縛られているからこそ何もできずもどかしいという言い訳と、今はその立場にはないという逃げ道をマリアベルに示した心算であったトウカであるが、マリアベルは正面切って口にされたことで、トウカに身を寄せる大義名分を潰されたと感じた様であった。


 だが、剥れつつもトウカの膝へと頭を預けるマリアベルは、やはり開き直っていた。


「……若しかすると……もし、御主とミユキよりも先に逢っていたならば、と妾は最近、思う」


 それは、幾度か口にされつつも、真面目に返答した事がない言葉。


 先に逢っていたならば……ミユキよりも先にという意味であることは明白であるが、歴史と同じように人間関係に“もし”や“或いは”はなく、トウカはあの血塗れの寒村で酷く怯える仔狐と出逢ってしまった。


 だからこそ、それに同意はできない。否、してはならないのだ。


それは、越えてはならない一線。口にしてしまうと、自身がマリアベルに溺れてしまうような気すらした。


 ミユキに対して誠実であるとは言い難い今の状況であるが、その点だけは譲れない。


「きっと今以上に、恋に戦争に政治と楽しい一時だっただろうな」希望に満ちた不確実で不明瞭な言葉。


 一度、それを了承し、認めたマリアベルがその言葉を翻すとは思わない。


 曖昧で不明瞭な関係に二人は溺れつつある。何も定まっていないからこそ赦され、逃れられる罪。呼吸をするかのように詭弁を弄する二人であるからこその妥協点であり自己弁護。


「御主も口にして良いぞ? 今はただ一人の男なのであろう?」楽しげに嗤う廃嫡の龍姫。


 トウカに対しての意趣返しという意味もあっての言葉であろうが、それを思えば可愛げすら感じられようというもの。


 男に都合の良い女を演じるというのは屈辱であり、精神的な負担も多大であるはずである。特に高位種はその肉体や体調を精神によって強く引き摺られる傾向があり、軽視できるようなものではない。


 トウカはマリアベルの肩を抱き、正面からその顔を窺う。


 意志の強い瞳に、やや垂れ下がった整った柳眉は若い女性にはない色香を窺わせるが、何処か影を感じさせる顔立ちはその生い立ちの為か。だが、トウカはマリアベルのその顔立ちを好ましく思っていた。


 野心と復讐心に焦がれる瞳に覗く、一抹の諦観と悲観。


 それは複雑であり、否定的な感情でありながらトウカを惹き付けて止まない。ミユキと正反対でありながら、同じ感情を抱くというのは矛盾しているのではないかとすら思えるが、その矛盾を乗り越えても尚、腕に抱きたいと思う女性。


「マリィ……俺は――」


 意を決して口を開こうとしたトウカの唇が、不意にマリアベルの唇によって塞がれる。


 突然の事にトウカは驚くが、直ぐにマリアベルを抱き竦めて応じる。今この時ばかりは、この不誠実で不明瞭な関係に溺れてしまうのも悪くないと苦笑すると、貪るようにその唇を改めて奪い返す。


 だが、やはり二人を政戦は手放さない。


 政戦の申し子。


 後世に在ってそう呼ばれる二人。


 鳴り響く敵襲の警報を耳に、トウカか立ち上がる。


 日頃の避難訓練の成果もあってか、近場の地下避難所へと移動を始めた恋人達であるが、二人は驚きはしても混乱することはない。想定されていた事態であり、問題なのはこの二人の逢瀬という状況で無粋にも乱入してきたという事実であり、マリアベルの瞳には怒りが渦巻いていた。


「お手を……」


(いくさ)の時間かの?」


 マリアベルの手を引き、立ち上がらせるとトウカは淡く微笑む。


 付近の軍港は俄かに慌ただしさを増し、艦尾から蒼い魔力光を放出しつつ、戦闘艦は停泊を止めて沖合への移動を始めようとしている。暖機で半日以上も必要な内燃機関と違い、即座に稼働可能な魔導機関の長所を見せつけるように出航を始めていた。実際のところ、緊急時ということで急激に出力を上昇させた上、魔導障壁で無理やり岸壁を押すことで離岸するという荒業でしかなかったが、遠目に見ているだけではそれに気付けない。


「我々の舞台へ」


「うむ、教育の時間であるの」


 二人は、頷き合うと、軍港へと足を向けた。







「退くがよいぞ、若造!」


「しかし、本艦は新造艦でありまして機密上の問題が……」


 マリアベルは年若い尉官……各領邦軍の水上戦力を統合した北部統合軍の中で、大洋軍という名称を与えられた軍の尉官は掴まれた襟をそのままに疲れた様な声で反論する。


「しかし、いくら参謀総長の、その、情婦である方であっても軍事機密の面から乗艦は――」


「む、むぅ、情婦か……」


 正面切ってそう言われると心に響くものがある。


 思わず赤面するマリアベルに対して、年若い尉官も顔を赤くする。片や事実を端的に示されて、片や刺激的すぎる女性の佇まいにであるが、二人して顔を赤くしている姿は目を惹くものであった。幸いなことに、敵来襲の警報に気を取られて怪訝に思う者はいても注視している者はいない。


「何をしている? そこの中尉、問題でもあったか?」


 将校用軍用長外套(ロングコート)を纏ったトウカに、年若い尉官が恐縮した面持ちで敬礼する。


 機密上の問題や保守警備上の問題で、マリアベルを搭乗させることはできないと泣きそうな顔で訴え掛ける尉官は見ていて哀れである。参謀総長であるトウカは部隊を率いる能力を有していないと判断した指揮官を次々と左遷し、時には情報部に命じて罪を創作してまで失脚させていた。トウカという存在は、兵士にとっては必ず勝利を齎す軍神であることは間違いないが、将校にとっては厳格で苛烈な裁定者でもあるのだ。


 尉官の肩を叩いて溜息を吐いたトウカは、マリアベルに胡散臭い瞳を向ける。


「その変装は止めたらどうですか? 誤解を招く。いや、そもそもこの状況で立場を擬装するのは如何なものかと、ヴェルテンベルク伯」


「むぅ、やはり言えばこのなりでは、誰も気付かぬか」


 マリアベルは髪留めを取り、長い金髪を振り払うと、懐から術式符を取出して破り捨てる。燃える様に灰となり、シュットガルト湖の風に吹かれて塵と消えたそれに合わせ、金髪だった髪が紫苑色へと戻り始める。


 己の髪を一房、掴み元へと戻ったことを確認し、マリアベルは改めて年若い尉官へと向き直る。


 黙して背後へと控えたトウカが、手にしていたもう一着の軍用大外套を自身の肩へと掛けてくれた事に淡く微笑むと、その軍用大外套を翻して朗々と応じる。



「妾は御主ら戦奴隷(エインヘリャル)の飼い主ぞ。道を開けぃ!」



 軍務卿、マリアベル・レン・フォン・グロース=バーデン・ヴェルテンベルク。


 周囲の軍人達は姿勢を正す。


 北部統合軍の軍令の統括者であり、北部貴族で最大規模の軍事組織を統制していたマリアベルの権威は、その以前からの強行的な政治的手段の行使によって敬意と畏怖と共に確立されていた。


「はっ、軍務卿の乗艦を心より歓迎いたしますっ!」


 慌てて敬礼した年若い尉官は泣きそうな面持ちであり、周囲の軍人達も緊張の表情で敬礼する。正に女帝と言うに相応しい有様であった。


 差し出されたトウカの手を取り、新型防空巡洋艦の甲板へと続く舷梯(ラッタル)を登るマリアベルは、針鼠の様相を呈する上部構造物を見上げつつ、不敵に笑う。



「さぁ、妾の戦争を始めるとしようかの」



 奪われ続けてきた人生である。ならば、少なくともその倍は敵から奪わねば納得できない。


 マリアベルとは、そんな女であった。





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