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紫苑穢国のエトランジェ  作者: 葛葉狐
第一章    戦乱の大地    《紫電清霜》
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閑話    情報部少佐の一日




「現状維持すら叶いません。いかが致しましょう、閣下」


 燃える様な紅蓮の長髪をぞんざいに束ねた長身の女性佐官が、直立不動で上官に問い掛ける。


「そうは言ってものぅ」


 好々爺な佇まいの老人が、長い白眉毛をしょぼしょぼとさせながら呟く。


 棺桶に片足を突っ込んでいるような老人の程を晒している情報部部長に殺意が湧くが、不断の努力で抑え込む。能天気であるが、最後には眼前の惚け老人の思惑通りに問題が解決することを、少佐であることを示す階級章を身に付けた女性佐官は腹立たしい程に理解していた。


 ヴェルテンベルク領黎明期から発展期に掛けて、マリアベルに敵対的な貴族や商人、軍人、政治家に至るまでが次々と不慮の事故や病気で死亡したのは、何を隠そうこの惚け老人の仕業なのだ。だが、この()け老人ぶりと報復の暗殺がなされていないところを見るに、飽くまでも噂なのかも知れないと女性佐官は思い直す。


 そんな益体のないことを考えつつ、女性佐官は、改めて進言する。


「ここは積極的な漸減を図るべきかと、サクラギ代将……いえ、中将閣下のように」


 剣聖ベルセリカ・ヴァルトハイムや勇将フランドール・アーベルジュに続く郷土の英雄としての地位と名声を確立しつつあるサクラギ・トウカ中将。噂では当人が英雄と言われ称されることを異様な程に忌避感を示す為、本人を前にした者や軍人達はこう呼び慕う。


 軍神、と。


 トウカは、他にも多くの異名を奉る結果となったが、その多くに嫌悪感を示して皮肉を持って応じた。


 例としては、英雄という称号に対し――


「知っているか? 国家にとって生きた英雄とは極めて扱い難い。国家は死せる英雄こそを真に称賛する。体制を批判せず、反逆の危険もなく、派閥も形成しないゆえに」


 ――というあまりにも率直な言葉を以て応じた。


 その際、周囲に居た者達は、微妙な表情で聞き流すしかなかったというが、女性佐官は「確かに違いない」と苦笑するしかなかった。多くの意味で。


 皇国は今現在、叛乱を起こした蹶起軍改め北部統合軍に、ベルセリカという英雄が加わり、その正当性と権威までをも高める結果となった。死せる英雄だと思っていたベルセリカが突如とし叛徒を率いたという事実は、今後、皇国に生きた英雄の到来を難しくするだろう。死体が突如、口を開いたに等しい悪夢なのだ。


 国家とは、強大な権威を持つ不確定要素こそを最も嫌うのだ。


 皮肉が服を着ているとの評価を各方面より受けているトウカの言葉は、その対象を選ばない。国家は勿論、体制や民族に加え、種族、貴族などにも言及しており、日々、周囲に冷や汗と怒号を提供していた。その辺りに於いては、マリアベルを凌駕しているとはイシュタルとセルアノの談である。


「しかしのぅ。人手が足りないしのぅ」


「炙り出してしまえば、殺すことなど歩兵部隊にも可能かと。寧ろ、頭数が揃う歩兵部隊のほうが殲滅行動には向いているかと」


 未だに眠たげな顔で気のない返事を返すだけの老人に、エイゼンタールは、早く頷けと執務机を拳で叩く。


 北部に浸透している間諜の排除。


 それは、ヴェルテンベルク領邦軍、マリアベルの悲願だった。トウカもまた、帝国の意向を受けた諜報員の存在を危険視している。征伐軍の間諜を含めて、一網打尽にする機会を演出することは理に叶う。


 嘗てのマリアベルは強引な手段での摘発を多用していたが、最近では労働者を萎縮させるとして自粛している。トウカは、戦車で捕獲した匪賊を轢き殺すなどの暴挙を、嘗ては指示していたこともあったが、今では最低賃金保障法や労働基準法の成立を以て平均所得の均一化を図り、明確に貧富の差を軽減させるマリアベルの姿勢に賛成の立場を取っている。


 正確には、それらの領法は、トウカの提案した原案を首席政務官のセルアノが中心となった政務部によって最適化し、制定されたのだが、それを知るものは少ない。目を瞠るべき成果であるが、軍人がさも当然の様に政治に口を差し挟む姿を嫌悪する者達に配慮して、トウカの動きは極力伏せられている。


 無論、エルゼリア侯やタルヴェティエ侯などは承知している。


 彼らが、トウカを明確に政治の指し手(プレイヤー)であると認識したことは疑いない。


 雇用創出に合わせ、低所得者の賃金の保障や、労働基準の制定を行っているのは、決してトウカやマリアベルが博愛主義に目覚めた訳ではなく、貧困者の増大に伴う治安低下と、不穏分子の跳梁と増加を未然に防ぐという目的があった。


 本来であれば、企業の収益と業績に響く領法の制定に、マリアベルは反対するはずであり、現に当初は難色を示していた。トウカであればこそ難色を示す程度で済んだのであり、他の人物であれば叱責は免れなかったであろう。


 しかし、トウカは不穏分子の温床である低所得者層の漸減を図ることは、統治に於ける費用対効果(コストパフォーマンス)の補強に繋がり、防諜上の観点からも有益であると説得し、最終的にマリアベルは領法の成立を承認した。


 情報部は、これらの領法成立を極めて高く評価していた。


 なぜならば、ヴェルテンベル領の防諜任務の最前線に立つのが、領軍情報部や領邦軍憲兵隊であるからである。


 書類上で、或いは現場で諜報員の検挙や、不穏分子の摘発を続けていれば、それらの多くに低所得者が関わっていることは嫌でも理解できる。貧困は治安を悪化させるだけでなく、人心を荒廃させ、安易な犯罪や違法行為に走らせた。結果として、それは統治に於ける費用対効果(コストパフォーマンス)を低下させる。


 何よりも、経済的な閉塞感は、あらゆる活動を萎縮させる。


 考えてみればトウカの選択した低所得者層への配慮は、政治や軍事のみならず、経済活動にまでをも視野にいれたものであることは疑いない。それは、マリアベルが軍事力を増強させる為に経済活動を重視していることにも通じている。だが、経済を発展させることに腐心するマリアベルに対し、トウカはそれを維持、成長率を妨げる要素を低減することに腐心しているように思えた。


 まぁ、エイゼンタールが何を言いたいのかと言うと、マリアベルとトウカは、あらゆる側面で互いを補い合っているということであった。


「あの二人の連携を間諜如きに切られては叶いません!」


 執務机を一層強く叩き、エイゼンタールは断言する。二人しかいない執務室でなければ、止めに割って入るものすら出そうな剣幕であった。


 しかし、眼前の老人は、ひょっひょっひょっ、と笑い声を上げて応じる。外見だけでは、大物なのか耄碌爺なのか、若しくは妖怪なのか判断しかねる佇まいであった。


「二人の恋仲であろぉ? 切られて困るのはのぉ」


「それは副産物に過ぎません!」


 黒檀の執務机にめり込んだ右手を引き、エイゼンタールは、老人を睨む。



 ラウレンツ・ジダ・フォン・カナリスとは、こんな人間である。



 まさに糞爺。


 見た目は好々爺なのだが、良い歳をしてヒトの色恋を楽しんでいる点は、まさに糞爺である。馬に蹴られた程度では足りず、戦車に踏まれてしまえとすら、エイゼンタールは強く願っていた。


「まぁ、間諜は始末せねばなるまいしのぅ……シェレンベルクにも協力させようかのぅ」


 のほほんとした口調に、しょぼしょとしたつぶらな瞳でカナリスは呟く。


 カナリスが諸勢力の間諜の漸減を行わないはずがないが、あのいけすかない第一課のシェレンベルク中佐が全面に出て来るのは、エイゼンタールにとって気に入らない、看過できないことである。


「領都防諜は、シェレンベルク中佐の職務を逸脱しています」


 シェレンベルク中佐の任務は、帝国に対する諜報活動全般である。軍事力の調査や政治状況の把握。時と場合によっては、要人暗殺や破壊工作、反政府勢力の支援なども盛り込まれている。市井の者達が情報部の仕事を想像し、一番に思い付くであろう情報部員らしい任務と言えた。


 彼は肝心なところで出てくるのだ。大事なところで情報部内の戦果の大部分を掻っ攫っていくので、それぞれの任務の境界線を曖昧にしている部分もある。情報部内でもシェレンベルク中佐は鼻摘まみ二枚目青年士官という立場を頂戴していた。


「しかし、あれは優秀じゃしのぉ。組織を縦割りにして、その才覚を損ねるのは罷り成らぁん」


 カナリスの言葉にエイゼンタールは頬を引き攣らせる。いっそのこと、トウカやベルセリカに依頼して、領都守備隊の歩兵部隊を大隊規模で動員しての包囲殲滅戦を演出するというのも悪くない。


 ――いっそのことサクラギ中将と相談して独自行動を取るべきか? 軍組織であって軍組織ではない情報部で消極的になる必要はない。


 独自行動上等の気風がある情報部は、事後報告など日常茶飯事であり、現場で憲兵隊と勝手に協力体制を構築したりとやりたい放題であった。本来であればマリアベルは、こうした軍人の独自行動や他組織との自身の預かり知らぬところでの連携に対して否定的であるが、情報の集積を重要視し、何よりも情報が敵対勢力に渡ることを忌避するが故に情報部の越権行為は黙認されていると言える。


 しかし、エイゼンタールの越権行為を見越したカナリスは、無造作に伸びた顎髭を撫でて掣肘を加える。


「余計な真似をするでないぞぉ」


 楽しげな声音にエイゼンタールは舌打ちを一つ。


 恐らくはシェレンベルクに更なる実績を積ませて行く行くは自身の後継者としたいという思惑があってのことであろうが、エイゼンタールとしては不愉快なことこの上ない。無論、軍務というのであれば仕方のない部分もあるが、踏み台にされる側としては堪ったものではなかった。


 だが、エイゼンタールも情報部員の中では参謀総長であるトウカに比較的近しいと見られており、彼女自身もそうした部分を利用して立場の強化や意見を押し通す為に利用している。派閥として緩やかに形成されつつあるサクラギ派に、エイゼンタールは迎合しているように見られていた。


 ―― 一層のこと、サクラギ中将と今後の展望を話してみるのも悪くない。


 北部統合軍は征伐軍に敗北する。


 それは情報部内では規定事実であり、最近の組織機能の分散と地下活動化はそれを見据えてのことであることは間違いない。動乱の時代である以上、敗北後の組織運営を想定することは決して無駄なことではない。


 ――なら、自身の身の振り様を考えることも当然のこと。キュルテンとも相談するべきか。


 エイゼンタールは、これからのことを踏まえ、無邪気な部下にして能天気な半身と相談せねばならないと、カナリスに敬礼すると執務室を辞した。









「それで、主様に会いに来たんですね。でも、主様は建造中のキョーシューヨーリクカンの仕様が思った通りか見に行くって」


 ロンメル子爵……ミユキの言葉にエイゼンタールは「残念です、フラウ」と敬礼する。正式に婚約した訳ではないミユキであるが、事実上、婚約状態にある今ならば、こうした言動を取ることは問題にならない。


 寧ろ、ミユキは尻尾を大きく揺らし、喜びもあらわに狐耳をひょこひょこさせていた。


 貴族が政治的でもない唯の御世辞に喜ぶなら安いものである。極めてちょろい。狐も煽てりゃ出世できるのだ。


 ミユキは恐らく、トウカとマリアベルとの関係を知らない。もしそれが表面化すれば、天狐族とマリアベルの関係は破断し、ロンメル子爵領成立という政治的喜劇の演出が無駄になる可能性もある。


 ――ヴェルテンベルク伯がロンメル子爵を騙しているのか、ロンメル子爵がヴェルテンベルク伯を利用しているのか……


 興味深いことである。


 若しかすると、トウカが意図して演出している可能性もあるが、もしそれが事実であれば皇国史に名を残すことになるだろう。主に女誑しという意味で、であるが。無論、軍人としては、ある意味で完成したトウカが、女性関係を如何様(いかよう)に捌くかという部分に大いに好奇心を刺激されるものの、ミユキに勘違いされては面白くない。マリアベルの場合は生命に関わることは疑いなかった。


 暫し犬も喰わない思考に囚われたエイゼンタール。それを困っているとみたのか、ミユキが尻尾を揺らす。


「えっと、中で待ってて。もう少しで主様も帰ってくるはずだから……仕事中の主様のことも聞きたいから」


 袖を掴んで狐耳をひょこひょことさせながら見上げてきたミユキに、エイゼンタールは、なるほど男に受けがいい訳だ、と胸中で嘆息する。


 だが、それだけではない。


 酷く客観的な立場から見た場合、ミユキは恐ろしいまでにトウカを自分に縛り付けることに腐心している。そして、トウカの足元を磐石とすることで、自分が必要不可欠な存在であると示そうとしているのだろう。健気にトウカの権力を支えている姿は、まさに貴族の女と言える。


 トウカは、それを理解しているのか。していなければ女の切れ目が失脚の始まりとなる。それはそれで興味深いが。


 女の扱いというのも、トウカの権力を維持する要素の一つとなるということであるが、残念ながらエイゼンタールには助言のできる分野ではない。


 ミユキに引っ張られながら、エイゼンタールはトウカの女性関係について使えると判断する。無論、自分の昇進と立場強化に、である。


 複数人の女性の間で、満開の花畑にひらひらと舞う蝶の如く振る舞うには、建前や方便は必要不可欠なのだ。蝶が雷雨を凌ぐ為、羽根を休めるところを必要とする様に。否、この表現では自身に誤解を招かれると、エイゼンタールは思考を追い払う。


 ――やれやれ、情報部が二股の支援? 前代未聞……とは言えないな。


 シェレンベルクが諜報活動で相手が政府高官の女性がであった場合、情報収集の過程でそうした行動を取っている。当人は趣味(生き様)と実益(任務)を兼ねていると勇立(いさみた)ちたる(主に下半身)有様であるが、トウカは少なくとも一方を見捨てる真似はしないだろう。


 或いは、ミユキとマリアベルを、エイゼンタールが選択せねばならない時が来るかも知れない。


 ――まぁ、ヴェルテンベルク伯に付くが。


 当たり前である。エイゼンタールは、ヴェルテンベルク領邦軍の軍人であり、忠誠と信義は、マリアベルに対してのみ向けられる。


 無論、昇進に関する創意工夫と鋭意努力の範疇では協力することもあり得るであろうが、マリアベルという離反や敵対者に決して寛大ではない主君の不況を買う真似はできない。“エイゼンタールの草刈り”と今では呼ばれている大規模な粛清を、マリアベルの尖兵となって断行したエイゼンタールは、マリアベルの非情な一面を支え、肯定する存在なのだ。それ故に信用と同じだけの警戒を向けられている。


事を成す実力があるという事実のみが重要であって、当人の気質や忠誠は重要ではない。そうした姿勢こそが、マリアベルを実力者足らしめている。だからこそ裏切れない。それは確実に死に繋がる。


「フラウ・ミユキ。小官が知ることなど知れておりますが……」


「軍機とかは別に聞きたいなんて思わないです。主様が軍務中はどんな様子か聞きたいんです。リシアが教えてくれないのっ!」


 剥れるミユキに引き摺られ、エイゼンタールは応接間へと招かれる。


 簡素な調度品と造りの応接間は、とても貴族のものとは思えず、それどころか天井の照明から窓際の遮光幕(カーテン)軌条(レール)へと繋がれた紐に等間隔で吊るされている赤身の干物から漂う磯の薫りと、部屋の隅に設えられた大きな籠に飼われている愛くるしいキタシロネズミの鳴き声が、ミユキの立場を再認識させる。


 ――貴族に在って貴族に非らず、か。


 天狐族は建国時の司法整備で活躍した種族であり、同時に独立戦争時に後方支援で辣腕を振るったことでも知られている。魔導資質に優れた者を多く輩出する種族でもあった。


 しかし、政治闘争を嫌い、建国後の政情が安定した時期に、種族諸共に表舞台から姿を消した為、政治勢力として権力を振るった例は公式記録としては存在しない。任官要請の悉くを拒んだ逸話は建国神話の一説にも記されている。


 皇国成立後の種族間の政治闘争を嫌ったが故に、というのが最も有力な通説だが、一説には皇妃争いに巻き込まれて愛想を尽かしたというものあり、此方は狐種を中心に根強く主張されている。狐の色恋に関しての好戦性が窺えた。


 ミユキの場合、或いは色恋の為に貴族足らんとしたからこそ、政治とは距離を置いていた天狐族でありならもこの場に在るのかも知れない。


「えっと、チカさんは、リシアのこと知ってる? 紫芋?」


「紫芋ですか、フラウ。存じております。装虎兵士官学校時代から噂の多い方でしたので」


 紫芋という渾名は、リシアの髪色を揶揄した言葉でもあり、本来であれば憧憬と畏敬を以って然るべき紫苑色の髪を持つ女性に対して付けられるものではない。


 ちなみに、ミユキだけでなく、ヴェルテンベルク領邦軍の多くの将兵が紫苑色の髪ゆえの渾名であると考えているようであるが、実はそれだけではないことをエイゼンタールは知っていた。


 皇都での諜報活動は、ヴェルテンベルク領邦軍情報部最大意義であり、任務であることからエイゼンタール自身も皇都に赴いたことは数えるのも莫迦らしくなるほどにある。それ故に知っていることも多い。ましてや、良くも悪くも装虎兵士官学校で勇名を馳せていたリシアの噂は、それなりに耳にしていた。


「ハルティカイネン中佐は、士官学校内の倉庫で紫芋を使って密造酒を作っていたという噂があるのです。何でも、教官相手の”寄贈”に使用していたとか」


 あくまでも“寄贈”であり、賄賂ではない。あくまでも自身を好意的に見せる程度の“御裾分け”なのだ。軍規上は宜しくないことであるが、娯楽の少ない教官達の中にはそうした者を可愛がる者も少なくない。気の利く者を好意的に見るのは、何処の業界でも珍しいことではなく、軍隊ですらも例外ではなかった。


 密造に使用した単式蒸留器は単純な構造であり、それ故に単式蒸留器でのエタノールの精製度は連続式蒸留器と比較すると低いものの、その代わりに発酵で生じた風味が残るという特徴があり、一部の酒類はこれによって作られる。士官学校に死蔵されていた旧式の野戦炊飯車を流用したらしく、明らかに私的流用として罰せられるはずなのだが、上手く隠したのか、ついぞ露呈することはなかった。


 因みに皇国陸軍では、酒の無断持ち込みが得意な者が、要領が良いのか昇進が早い傾向があるとする報告書があり、それは当時の陸軍府長官によって全力で握り潰されている。握り潰した当人もまた、そうした経験を豊富に持つ猛者であった。無論、士官学校内で酒造を行ったのは、リシアが初めてであるが。


 紫芋を使用した蒸留酒の密造が原因で、そうした渾名がついているのだ。


 実に下らない理由である。


 リシアが軍事論文の執筆などに忙しくなり、蒸留酒の密造を受け継いだ後輩が下手を打って明らかになった逸話であるが、これは良くも悪くも軍内部で有名になってしまう。北部は寒冷地域であり、仮想敵国の帝国は、それを上回る程の寒冷な気候であることから、そうした地域で軍を展開させた場合、防寒などの手段を充実させねばならない。


「ハルティカイネン大佐は、この時、軍事行動にも酒が必要だと盛大な屁理屈を捏ねたのです。それも開いた口が閉じない類の」


「でもでも、軍人さんが酔っ払うっちゃうと、お仕事にならない気がします」


「全くそのとおりです、フラウ」


 流石、本質を見ておられます、とエイゼンタールは曖昧な笑みを浮かべる。


 だが、その程度の常識は、リシアに通用しなかった。


 これは、(れっき)とした軍事研究であり、寒冷地域で軍事行動を取る将兵の体温を維持する為の“医薬品”の開発である。そして、士官学校では酒類の持ち込みは禁止されていても、製造は禁止されていないと抗弁し、教官達に手渡された“医薬品”はあくまでも、実験に対する評価の依頼に過ぎない。


 呆れて言葉も出ない言い訳である。


 そして、その手段の一つとして適度な飲酒は奨励されるべきではないのかとの意見が一部(主に呑み助の)将軍から出たのだ。


「実に下らない論争でした」


 軍隊という閉塞した娯楽の少ない組織であることを踏まえれば、戦意発揚も狙え、幾つかの副次効果も望めると一部(主に呑み助の)軍医がそれを支持した。結果として、他の将軍や参謀によって国軍を揺るがす論争に発展したのだ。確かに、酒精(アルコール)は人間関係の構築に少なくない特効薬とも成り得ることもある。


「海軍は元々、艦内の酒保という場所で酒類を取り扱っているので大きな問題にはなりませんでしたが、陸軍はそうもいかなかったのです」


 海軍の水上勤務者(艦艇乗員を指す)は狡いと本音を漏らす陸軍兵士を余所に、酒精(アルコール)の効果と弊害について陸軍総司令部では熾烈な議論が展開された。


 寒冷地での作戦行動に有益であるならば、仮想敵国に兵力で劣る皇国にとって福音となり得る潜在的要素なのだ。兵力に劣る以上、質で多くを補わねばならない陸軍にとって、身体を温め、束の間の休息となり、睡眠導入にも使えると陸軍医療院が限定的賛成を示したことで流れに拍車が掛かった。


 しかし、それが認められることはなかった。


 それは何故か?


「実に、実に下らない諍いがあったのです」


「???」


 エイゼンタールの溜め息交じりの言葉に、ミユキが首と尻尾を傾げる。


 まさか、ウィシュケ派とヴォトカ派、地酒派など酒類毎の派閥が形成され、そこに酒造業界の宣伝活動が激化した挙句、品評会と表した選定(トライアル)で陸軍総司令部の面々が盛大に呑んだくれたのだ。その結果、二日酔いで翌日に司令部機能を麻痺させ、当時の天帝からお叱りを受けて有耶無耶になったなど言えようはずがない。国家の威信に関わる。


 予算の問題から軍で正式採用する酒を一種類に統一するべきだと、吝嗇(けち)臭いことを提案した陸軍府予算委員会に非難が集中しているが責任転嫁も甚だしい。


 各方面から呆れられた顛末だが、ヴェルテンベルク領邦軍では「その程度の飲酒で二日酔いとは情けない」と一人気炎を吐いていた。心から皇国の国防戦力に疑問を抱いたのは、エイゼンタールにとって、これが最初で最後である。


「ともあれ、ハルティカイネン大佐は、そうした理由で一躍、有名になったのです。紫苑色の髪よりも軍ではそちらの方が有名です、フラウ」


 ザムエルも将校としても非常に問題のある個性的な人物だが、リシアの場合は、なまじ頭が回る分、しでかす問題の規模が大きくなりがちである。正規軍であれば確実に問題となる言動や行動も、ヴェルテンベルク領邦軍では許容される空気がある。特に色恋沙汰と飲酒に関しては大らかであった。


 ミユキは、ふむぅ、と唸る。


 ミユキを含めた大多数にとって、軍とは勇ましき守り手であり、英雄が統率する騎士団なのだ。高潔な騎士が集う集団とでも考えていたのかもしれない。


「う〜ん、私の領邦軍も主様が再編制するって言ってるけど、リシアも来るのかな?」


 尻尾を揺らし、丸めた背中で上目遣いのミユキに、その懸念を察したエイゼンタールは苦笑を零す。


 リシアがトウカに言い寄っていることは、エイゼンタールも知っており、ミユキはリシアがロンメル領邦軍に入隊することを警戒しているのだろう。領邦軍は貴族の私設軍であり、ミユキがロンメル子爵である以上、ロンメル領邦軍の編制にも絶大な影響力を行使できる。


 しかし、行使できることは、行使して角が立たないことを意味する訳ではない。


 そもそも、ミユキの性格を考えれば、トウカが願えば断れるとも思えず、見苦しくリシアを遠ざけようとする姿勢を見せることも忌避するに違いない。


 つまり、現状では、願い、祈ることしかできないのだ。


 少なくとも貴族として軋轢を生じる真似をすることを避け、自らの於かれた状況をよく理解していることは評価に値することである。マリアベルのように無邪気な暴君として振る舞いながらも、領地を繁栄させ続けることができる才覚を持つ者などそうはいないのだ。


 心配気な表情をしたミユキに、エイゼンタールは苦笑を浮かべて応じる。


「あり得ないかと。ヴェルテンベルク領邦軍がこれ以上、優秀な人材を流出させることを座視するとも思えません」


「リシアは野心があるから私の下になんて来ない?」


 ミユキもエイゼンタールの言葉に、納得したのか尻尾を頻りに揺らしている。猫じゃらしに見えなくもない。


 補足するなら、地方の警備隊規模にまで縮小されているロンメル領邦軍では活躍が望めず、厚遇されることもない。あくまでも自領の島嶼防衛に特化した編制となるが故に活躍が限られるのだ。


「う~ん、なる様にしかならないんだね」


 エイゼンタールの思惑を手短に纏めたミユキ。


 無論、ミユキに伝えていないことは多いが、彼女が総てを知る必要はない。


 トウカの最愛のヒトとして在り続けるならば、エイゼンタールにとって、ミユキもまた守護すべき対象なのだから。





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