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紫苑穢国のエトランジェ  作者: 葛葉狐
第一章    戦乱の大地    《紫電清霜》

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第一〇七話    彼女達の想い




 眼前のトウカは、その瞳に燎原に燃え盛る如き烈火を宿している。


 領土問題は往々にして大きな軋轢を生むが、それはトウカとマリアベルの関係にあっても例外ではなかった。


 マリアベルからすると、隙あらば周辺貴族に服従を強いるのはいつものことである。北部の状況悪化を踏まえて暫くは行っていなかったものの、今回の併合は東部貴族相手である。よって、遠慮する必要もなければ、シュットガルト運河の通商路保障や東部貴族に対する牽制という目的もあり、北部の有力貴族の承認も得ていた。


 しかし、トウカは納得しなかった。


 確実なシュットガルト運河の通商路保障や、東部貴族からの横槍を入れられる可能性を減らす為に有効であると、トウカを説き伏せられる自信がマリアベルにはあった。


 だが、艦隊帰還後に〈剣聖ヴァルトハイム〉の長官公室から、トウカが籠って出てこないとミユキに聞いた時、想像以上にトウカは戦況を不安視していると考えた。そうなると怖くて近づくことなどできない。


 翌日になって〈剣聖ヴァルトハイム〉から退艦したトウカが、領邦軍艦隊司令部でベルセリカやシュタイエルハウゼンと連日、会議を繰り返していることで、自身に対する不信感が考えていたよりも遙かに酷いことになっていると、マリアベルは遅まきながらに気付いた。


 マリアベルに繋がっているリシアや、その可能性のあるザムエルを会議の面子から排したのは、それほどに警戒しているということである。シュタイエルハウゼンの領邦軍艦隊司令官就任の要請を受諾することで、その警戒心が軽減されるかと期待したが、それは合理的で当然の判断だと思われたのか、歓心を買うことはできなかった。


 ――全てを疑った妾への罰であろうか……


 己の頬が濡れていることすら気付かず、マリアベルは下唇を噛み締める。


 今までは、それも已む無しと考えていたマリアベルだが、閉塞した状況と己の意志を継承できるトウカと邂逅し、その思いは変わりつつあった。


 しかし、今までの姿勢を変えることは容易ではない。常に相手に対して優位性を確保しなければ穏やかではいられないマリアベルは、トウカに対しても自身の本音を晒すことができなかった。最初に出会った時こそ、その願いと殺意を口走ったが、それ以降は互いに打算と思惑が一致していた為に協力と協調を繰り返していたに過ぎない。


 共に本心を表に出すことを忌避する傾向にあることも大きい。互いに抱いた不信感が蓄積し続けるのは当然の帰結であった。


「お、怒っておるかえ?」


 何と意味のない問いか。戦争計画を邪魔されたトウカが激怒しないはずがない。


 頼っておいて邪魔された以上、寛容であるはずがない。考えてみれば、領邦軍艦隊の一部が帰還直後にも関わらず、演習と称してフェルゼン沖合に展開しているのも、トウカにとっての最悪の状況に備えてだと思えなくもなかった。


「怒ってはいない。失望しているだけだ」


 トウカは舌打ちすると、血が滴る程に握り締めた拳を開き、マリアベルの頬にその右手を這わせる。汗とは違う、熱くもどろりとした血が頬を撫でる感触に、マリアベルは全身が総毛立つ感覚に捕らわれる。


 この手が頸を締め上げるかも知れないという恐怖はない。その瞳に宿る烈火とは対照的に、手付きは優しげであり、慈しむ様な雰囲気すら感じられた。


「マリアベル……御前は俺の敵か?」


 唐突な問い。


 短かな、それでいて二人の関係の分水嶺となる問いに、マリアベルは咄嗟に答えることができない。沈黙は肯定と取られることは百も承知しているが、それでも尚、口を開けない程の圧迫感がマリアベルの身体を拘束し続けていた。


 覇気や威圧感などという単純な気配は最早ない。今この場を支配するのは、強いて言うなれば生物を腑分けして観察するが如き意識のみ。


 マリアベルの思惑の総てを看過しないという意志のみが、その瞳からは窺える。


 ここで決定的な破綻を招けば、恐らくは多くの災厄を振り撒かれるだろう。


 しかし、そんなことは如何(どう)でもいいのだ。自らの死後のことまで責任を持つ心算もなければ義務もない。ましてや、生ある限り最善を希求し続けたという点だけは胸を張って言える。


「ば、莫迦者っ……妾は、御主を敵だと思うたことはないっ」


 何と意味のない言葉か。トウカが求める言葉とは、何かしらの拘束力を持つ確約であり、酷く現実的なもの。今までのマリアベルがそうであったように、トウカは現実的な視点でのみ物事を捉え、他者の感情論の一切を理論武装と武力を以て押さえ付けた。


 だが、自らを軍事的にも政治的にも突き動かすモノは、酷く個人的な感情であることもまた隠しようもない事実。


「怖かった……怖かったのだ! 四方全てを敵に囲まれ続けるのはっ! 今この時も、妾の命を狙い続けおるやもしれん! 母様も貴族共に殺されたに違いないッ……」


 マリアベルは、トウカの胸板に顔を押し付け、呻くように感情を吐露する。


 ――何をしているのか、妾は。


 意味のない感情の羅列に、トウカが心を動かされることはない。何よりも、自らがそうであるように。


 だが、止まらないのだ。


 生まれてこの方、胸中に秘め続けた感情。


 生まれ落ちた瞬間から周囲に疎まれ続けた幼少期。政務に忙しい父に代わって、マリアベルをその腕で護り続けたのは母である。その後ろ姿は凛々しく、マリアベルにとって何よりもの誇りであり、その陽だまりの様な暖かさは何よりもの癒しだった。


 薄れ往く記憶の泡沫の中に在って、尚も燦然と胸中で輝き続ける幾許かの記憶の残滓。



 幼少の頃、寒さに震えるマリアベルの手を優しく包み込んで温めてくれた母。


 誰も友達ができず、一人きりだったマリアベルと何時も共に居てくれた母。


 一族からの冷たい視線に晒されるマリアベルを身を挺し護ってくれた母。



 無条件で好意を寄せ、マリアベルが心を許せた唯一の血縁。


 だが、脆弱な人間種がクロウ=クルワッハ公爵の妻を演じることは、母にとって大きな負担となった点は疑いない。陽だまりの様な微笑みの中に在っても、その瞳は何処か寂しげであり、父も母を顧みていたとは言い難く、それが死因だったと多くの者は語る。


 なれど、マリアベルからすると、親類が毒殺したと言われた方が信憑性があった。


 若き日のマリアベルが、次は自分だと考える事は自然な流れである。自身が斃れれば、次に父が何処かの女と情を交わして生まれた子供に継承権が移るのだ。当時のマリアベルにとり、周囲は全て敵に他ならない。


「誰も妾を理解してくれぬ! 抱き締めてくれぬ! 助けてはくれなんだッ!」


 トウカの胸板を長の手で叩き、マリアベルは涙を流す。


 誰もが敵である。ヴェルテンベルク伯爵位拝命以前からその統治を助けてくれたイシュタルやセルアノですら、或いは暗殺や破壊工作が目的ではないのかと長年、疑い続けた。今ですら信用しているとは言い難く、其々の副官には情報部防諜四課出向の士官を当ててさえいる。


「御主も……トウカも妾から離れていくのかッ!?」


 死に別れた母の様に。


結局は一人きり。幼き日と、何も変わらない。力なき龍は、所詮、何処まで行っても蜥蜴でしかないのか。


 己に至らぬところがあったことは、マリアベルも承知しているが、自身にとって中立はなく、敵か味方しかない。不確定要素は悉くが敵であり排除せねばならない。奪われる前に奪うしかないのだ。


 領土を欲するのは安全圏を欲したからこそ。


 領土が拡大すれば拡大する程に、マリアベルへ届き得る手段は低減される。外敵の手の長さを上回る程の広大な領土さえあれば、自身に害意は届き得ないとマリアベルは確信していた。領邦軍憲兵隊と領邦軍情報部の相互監視体制の確立により、暗殺防止や情報優越には一定の目処が立ったが、直接的な攻撃手段に対する防護は不十分と言い難い。特に圧倒的な戦力であり、空中機動に秀でたアーダルベルトなど、マリアベルから見れば恐怖の象徴でしかなかった。


 領土の規模は、対策と迎撃を可能とする時間に比例する。そして、領土から生じる工業力が無形の抑止力ともなる。それは歴史を見ても明らか。


 だから彼女は望む。領土を。領土こそが己の命数なのだ。


 その領土を削らんとしている者がいる。ならば戦うしかない。


「……妾を助けてくれ……トウカ」絞り出すような声。


 意味のない願い。トウカが求めるは、更なる権利と確たる保障であって、小娘が如き泣き言ではない。


 だが、分かってはいても止まらない。


 泣き顔を見られまいと、トウカの胸板に顔を埋めるマリアベル。 


 暫くの時が経ち、トウカの大きな溜め息が響く。


 失望されたのだろう。


 トウカが期待した装甲姫マリアベルとは、泣き言を漏らす小娘ではなく、ヴェルテンベルクを統治する鉄の伯爵であったはずであり、今のマリアベルはトウカの望む者ではない。



「二度目だな。その言葉を聞くのは」



 呆れた声音に混じる優しげな感情。


 そして抱き締められたと気付いた。


 思いの外に力強く抱き締められているのか、トウカの腕の温かみが感じられる。


 トウカが血に塗れた右手でマリアベルの顎を支え、涙に塗れた顔を引き上げようとする。男性に泣き顔を見られる羞恥に、顔を背けようとするが、トウカはそれを許さない。


「……御前を理解してやる、抱き締めてやる…………助けてやる。だから泣くな」曖昧な笑みを浮かべたトウカ。


 心臓の鼓動が聞こえる程に身体を寄せ合った中で、二人は視線を交わす。


 女に泣かれるのは堪らない、と苦笑したトウカに、マリアベルは鼻を啜って顔を俯かせる。きっと今の自分は、顔に朱を散らして大層情けない表情である事は疑いない。


「この女誑しめ…………妾を助けてくれるのか?」


「ああ、総てから御前を護ってやる」


 恐る恐る確認するように尋ねたマリアベルに「二度も同じことを言わせるな」とトウカは憮然とした顔で言葉を返す。


 マリアベルの予想に反して女性の涙には弱いトウカ。己と対等に舌戦を繰り広げるトウカが、感情に流されるとは思っても見なかった。


 しかし、トウカも決して感情だけで全てを決める男ではない。


 故に対価を求める。



「だから総てを寄越せ」



 嗚呼、何と傲慢なことか。

 嗚呼、何と業腹なことか。

 嗚呼、何と驕慢なことか。


 総てを求めるのか。権利でもなく、保障でもなく、総てを。


 領地も、領民も、領邦軍も、経済も、資産も、矜持も、誇りも、復讐心も、感情も、心根も、生命も……そして魂魄に至るまでの総てを求めるのか。


 酷い男よな、とマリアベルは鼻を啜る。


 トウカは、総てを委ねてしまえと言う。


 果たして当人は、そんな言葉を女性に掛ける意味を理解しているのか。否、恐らくは理解していないだろう。戦争と政治に理解が深い代償か、色恋についてトウカは全くと言っていいほどに理解していない。無鉄砲という言葉が綱渡りをしていると言っても過言ではなく、ミユキがトウカの周辺の女性に神経を尖らせる理由も理解できなくはなかった。


 ――良かろうて……騙されようぞ。


 何と簡単なことか。

 何と単純なことか。

 何と容易いことか。


 マリアベルは、その身がかつてない程の高揚感に包まれるのを感じずにはいられなかった。


 小難しく考える必要などない。全てを委ね、総てを任せればいい。


 気の赴くままに。

 運命の導くままに。

 天命の指し示すままに。


 運命や天命などは、弱者や敗者の言い訳と方便に過ぎないと考えていたマリアベルだが、四〇〇年をも超える時を経て、己を抱き締め、横柄に総てを求めた大莫迦野郎を見い出した。遅すぎたかもしれないが、同時にこれが最後の機会であり出逢いなのだろう。


 口にしてしまう。貴族としては無責任で、女としては容易い一言を。


「総てを……妾の全てを与えよう」


 マリアベルは、トウカを抱き締め返す。


 躊躇いのあった腕は、トウカの腰に手を回し、その暖かな感触に笑みを零す。


 久方ぶりのヒトの温かみは、マリアベルにとって何物にも勝る安らぎであった。


 零れそうになった涙を隠す様に、マリアベルは、再びトウカの胸板へと顔を埋める。


「さしもの装甲姫も、心の装甲は脆弱なようだな」


 苦笑したトウカの手が自身の頭を撫でる感触に、マリアベルは複雑な想いを抱く。嬉しくはあったものの、それ以上に気恥ずかしさが心を満たした。今までにない感覚に、マリアベルは今更なことだと唸る。


 面白くない。


 遙かに永い時を生きるマリアベルが、二〇年も生きていない若造に手玉に取られるというのは。


 そこで、マリアベルは悪戯を思い付く。


 ――総てを求めると言いおったこと、忘れはせぬ。


 トウカの腕の中で、唇を釣り上げたマリアベル。


 そして、力の限りに寄り掛かる。


 案の定、トウカは開け放たれたままの硝子張りの両開き戸の軌条(レール)に足を取られ、室内に敷かれている大きな絨毯へとマリアベルと縺れる形で倒れ込む。流石のトウカも、抱き締めあった状態では受け身など取れない。


 このまま、醜態を晒したままでは引き下がれない。今更とも思える感情が、マリアベルの胸中を過ぎる。トウカよりも何百歳も永く生きた自分が、小娘の様に助けを乞うという醜態と屈辱。愍然(びんぜん)たる有様によって、トウカが優しさを見せたことに安堵はしたが、この様な恥をトウカに見せたままでは引き下がれないという女心。


 ならば、互いに他者には話せない秘密にしてしまえば良い。


 絨毯が敷かれているとはいえ、床とマリアベルに挟まれたトウカは呻き声を漏らす。突然の事で、予想だにもしなかっただろうことは疑いない。


 トウカを押し倒した形になったマリアベル。


 下で倒れるトウカは、見上げたマリアベルの表情を見てその意図を察したのか、頬に朱を散らしている。


 胸中は冬の大星洋の如く荒れていたが、それを努めて表に出さないように、絨毯に付いた手を握り締めた痛みで平静を保つ。


 倒れた拍子に簪が抜けて、紫苑色の髪が枝垂れるがそれを気にすることもない。何よりも、大きく着崩れた着物は、既に腰帯の部分まで垂れ下がっており、肌襦袢も胸を辛うじて隠す程度までに乱れていた。


 目を泳がせて顔を背けたトウカの顔を、マリアベルは両手で押さえて唇を奪う。


「何を……」


「言ったであろう。全てを捧げるとな。くれてやろうて……身も心も……」


 トウカの唇を舐め、妖艶な笑みを見せたマリアベルは、首筋へと舌を這わせる。


 既に覚悟はできている。共に生きて、共に戦い抜いて、共に散る。


 トウカの軍装の襟を噛むと、そのままゆっくりと顔を引く。


 第一種軍装の(ボタン)は、マリアベルの意志を阻む事もなく、ゆっくりと上から順に取れていく。上着を剥ぎ取られつつあるトウカは、緊張と驚きの為か押さえ付けた肩を通して震えが伝わってくる。仔狐とのやり取りを見るに経験がない訳ではない事は明白だが、容姿が明らかに年上のマリアベルには気後れするものがあるのだろう。


 しかし、次の瞬間には震えは止まり、視線が一心にマリアベルを見上げる。


「俺を組み敷いたこと、後悔するぞ」


 次の瞬間、肩を掴まれたマリアベルは絨毯へと引き下ろされ、位置の入れ替わったトウカに両腕を掴まれて押さえ付けられる。


「――っ!?」


 驚きと急な動きに小さな悲鳴を上げそうになったマリアベルの唇を、トウカの唇が塞ぐ。同時に、一方の手が着物の裾を割って、柔らかく張りのある太腿へと押し寄せる感触に、マリアベルは身を固くする。


 トウカとマリアベル。


 時間的には決して長くはなかった逢瀬。


 しかし、それは二人にとっての一つの運命の始まりであった。










「むぅ、奪うなんて無理ですよ。だって、恋は理屈じゃないもん」


 ミユキは、リシアを正面から見据えて、小さく微笑む。


 失礼な女性将校……リシアの言葉は、ミユキに少なくない動揺を与えていた。


 恋敵が現れることは想像したことがあったものの、それはベルセリカやマリアベルの様な年上の人物であると想像していたミユキだが、実際に眼前で仁王立ちしているのは紫苑色の髪の男装麗人であった。


 ――むぅぅぅ、なんか方向性が違いますよぅ。


 ミユキは頬を膨らませて、リシアを威嚇する。


 トウカは、ミユキに対し、貴族の御令嬢が色恋目的で近づいてくることはそうはない、と断言していた。


 理由は貴族家の当主が剣聖であるベルセリカや、新たに貴族となったミユキと敵対してまでトウカに手を伸ばすことは不利益が大きいと判断していたからである。ミユキとベルセリカが特別な関係であると見られているのは、三人で過ごす時間が多いことを踏まえれば自然な流れであり、トウカとミユキは現に恋人関係にある。他者から見れば、そこに保護者としてベルセリカを……或いは三角関係の一翼として見ているのかは不明であるが、入っていると見れなくもない。よって、トウカを娘を使って取り込もうとする貴族は少ない。剣聖ヴァルトハイムに天狐族の姫君というのは、不興を買う対象としては余りにも過大である。


 無論、これはトウカの尤もらしい言い訳とこじ付けであり、実際はそうした目的を匂わせて近づいてくる者も少なからずいたが、ミユキはそれを知らない。


 トウカの説明では、裏を返せばトウカを友好的なままに自勢力に取り込めば、ベルセリカとミユキの協力が期待できるということでもあるが、先日まで一般人に過ぎなかったミユキがその辺りまでを察することは難しい。無論、トウカの思考誘導が多分に働いていたことも大きかった。


 ミユキは露天席(テラス)の端……硝子張りの両開き戸の脇に置かれていた小さな机に用意された、氷水で満たされた冷却容器(クーラー)に差し込まれた果実酒を手に取る。


 舞踏会場の何処にでも置かれている酒類は、北部貴族の舞踏会の伝統であり、皇国貴族の嗜みなど、そんなもので腹が膨れるかと言わんばかりに投げ捨てている。大衆による大人数での宴会の如く、直に床に座って酒を酌み交わす者達にとっては真に都合が良いものであった。無論、給仕も酒を水の様に飲み下す連中を相手に、硝子碗(グラス)を一々、差し出していたのでは堪らないとばかりに舞踏会場の各所に酒を置いていた。権威よりも効率を取る舞踏会というのは世界的に見ても珍しい。


「リシアさん、飲みます?」


「いただくわ。もう少し酒精(アルコール)が入らないと言いたいことも言えないもの」


 憮然として硝子碗(グラス)を受け取るリシアに、ミユキは「まだ言う気なんですか」と苦笑する。


 元来、ミユキは、着飾らない姿勢の者が嫌いではない。


 ミユキ自身も基本的にはそういう姿勢であるということもあるが、あまりにも他者の意思に敏感であったことも上げられる。


 だが、そこで、はた、と気付く。


 ――私って何故、本心を呼吸するかのように隠す主様を好きになったのかな?


 一目惚れと言うは容易いが、そこにはやはり何かしらの理由がある。トウカが好きなことは、当然であると考えていたミユキだが、恋敵を前にして改めて考えさせるものがあった。


 ――若しかすると、そんな主様が見せた一瞬の、小さな本音に惹かれたのかなぁ。


 仔狐の姿であったミユキに油断したのかも知れない。或いは、誰もいない場所での独り言だったのかも知れない。


 だが、それは紛れもなく、在るがままのトウカだった。


 今でこそ、周囲の目を気にしてか、口調や性格までをも意識して厳格に見せている節があるが、出会った頃のトウカは木漏れ日の様な笑みを湛えた緩やかな少年だった。


「リシアさんは――」


「――非公式の場なら呼び捨てで良いわ。その代り、私も貴女を呼び捨てにする。何しろ宿敵よりも厄介な恋敵なんだからね」


 堂々と言い放ったリシアに、ミユキは笑顔で頷く。



 恋敵。



 成程、宿敵よりも始末に負えないとミユキは納得する。


 だが、味方である以上、大手を振って退けることができないというのは軍人的視点であり、端から恋敵の排除に暴力的な手段を視野に入れていそうなところは眉を顰めるしかない。


 ――まぁ、主様みたいで親しみが持てちゃうんですけど。


 だからこそ、リシアに否定的な感情を抱き難いのかも知れない。


 リシアの純白の花嫁衣裳(ウェディングドレス)から漂う酒精(アルコール)の香りに、ミユキは首を傾げつつも、リシアの手にした硝子碗(グラス)に果実酒を注ぎ、自身の硝子杯にも注ぐ。


 女性同士、その上、二人きりなので気兼ねなく話ができるというのはミユキにとって魅力的なことであった。貴族としての会話はやはり何処かで身構えてしまう部分があり、気後れしてしまう。


 対するリシアは単純明快で、トウカを奪うと宣言し、対等な立場を望んだ。


 だからこそミユキは嫌悪感に近い忌避感を抱くこともなかった。


 共に差し出された一対の硝子杯。



「「佳き恋敵に」」



 二人は、微笑む。凛冽にして凄絶な笑みを浮かべて。


 口を付けた果実酒の酒精に眉を顰めつつ、ミユキはリシアとの会話に興じる。明け透けな物言いのリシアだが、社交的なことも相まってミユキとは話が合った。リシアはミユキを認めたくはないと言うものの、自身のことを語りたがらないトウカの過去を知るには、ミユキとの会話から糸口を掴むしかなく、会話の節々で誘導しようという思惑が見て取れた。


 無論、ミユキはそれに気付くはずがないが、残念ながら即座にトウカとの惚気話にすり替えるだけであった。


 ミユキだけがこの世界で、トウカの過去を詳しく知っている。


 トウカの祖父や幼馴染の事に加えて、個性的な形状をした野菜類を食べられないということに加えて、己を演出するために常に気を張っていることも、ミユキしか知らないことである。


「だぁからぅ~、少しはぁ、トウカのことをぉ話しなさいよぅ」


「だから、櫛捌きが凄くて、他の種族の女の子にそれをさせると大変なことになっちゃうんですよ!」


 酒精が程よく回り始めたリシアの願いに、ミユキは全力で応じる。


 リシアが欲している情報とは全く違う方向性だが、ミユキは気付かない。元より、かなりの量の酒を摂取していたリシアの酔いが回るのは早く、既に酒瓶を掴んで、シュトラハヴィッツ少将と同じように直接に飲んでいる。乙女は異性の視線がなければ、上品であり続けようとはしないのだ。


「尻尾のないぃ、私に分かる訳ないでしょうぉが!」


 絡み酒のリシアに、ミユキは狐耳をぺたんと寝かせて防音態勢に入っている。それでも聞こえてくるのは、それだけ声が大きいという事なのだ。


 開始地点が違う恋愛。そう言えば聞こえはいいが、リシアの宣言は、他人の恋人を奪うと大きな声で喚いているに過ぎない。


 若しかしてという不安は、ミユキにもある。


 トウカと同じ軍人としての視点を持つリシアは、トウカにとって良き相談相手となり、理解者となる資質を持っているに等しい。戦場で支えることが出来るというのは、ミユキにとって羨ましいことであり、警戒すべきことであった。


 眼前で酔いが回って柵に体重を預けて、文句を垂れ流している姿には辟易とするが。


「私はぁ、武勲を立てぇて、トウカにぃ認めらぁれるぅのっ!」


 ぜぇぜぜ、と酒臭い息を吐きながら宣言するリシア。


 相当に精神的負担(ストレス)が溜まっているだろう。ベルゲンを巡る一連の戦闘から艦隊戦までを連続で戦い続けたリシアにとって、常に横に当然の如くいたトウカが、実は他の女に思慕の想いを向けていたと知れば心中穏やかでいられるはずもない。


 トウカのミユキに対する想いが依存だと言い切ったリシアだが、自身の想いもまた、トウカに対する信頼という依存であることに聡明なリシアは気付いていた。


「卑怯よ……何で貴女が先に出会ったの」


 テラスの柵を背に座り込んだリシアが呻くように呟く。


 リシアにとって、トウカは初めて体験した大規模な戦闘で常に隣にいた。そして、的確な指示を出し続け、指揮官として、参謀として圧倒的な存在感を見せつけたのだ。呼吸をするように無駄のない指揮を続け、冷徹に敵味方の生命の取捨選択をする姿は、マリアベルの政治活動と通じるものがある。


 憧憬と依存。


 トウカであれば、如何(いか)に指揮するか、そう考える将校は北部全体で増えつつあるが、リシアはその急先鋒と言えた。政治中枢や政治活動を視野に入れて、軍事行動をするという点と、侵攻速度と立体的戦闘を重視するという点は広く知られつつあった。北部貴族の各領邦軍の多くの編成が、それを意図した編制へと変わりつつある現状を見ても分かる。


「運命だった、じゃリシアは納得しないよね?」


「運命なんて敗北主義者の言い訳よ! 奪うわ、断じて奪うわっ!」聞き分けのない呑み助状態のリシア。


 ミユキは苦笑するしかない。同時にリシアという少女は追い詰められていると、ミユキは感じた。


 平素は刺すような視線をしており、トウカと同じように周囲に猜疑の視線を向けているが、やはり何処かで無理が生じている。根は善人なのだ。トウカの様に戦艦の装甲の如き理論武装をしていないとも言える。


 リシアは大佐の階級にあり、一領邦軍の司令官としても通用する階級を得ている。トウカとミユキがヴェルテンベルク領に訪れる前であっても、佐官の階級を持っていたこと考えれば、そこまでの苦労は容易なものではなかったのだろう。


 しかし、トウカという異邦人(エトランジェ)は突然現れ、自身より高い階級を得て、短期間で将官にまで上り詰めた。最初は怒りや遣る瀬無さを感じていたかも知れないが、傍でそれを支える立場に有り続けた為に、その評価が正当であったと気付いたはずだ。


 負けを認めた。だからこそ憧れた。負けた先に憧れがあり、その更に先に依存がある。そして恋心が続いた。


 ミユキは、トウカが自分に対して依存し、その延長線上として恋心があるとは思いたくはない。世間ではそう言った恋愛もあるかも知れないが、互いに惹かれ合い、愛を囁き合うことこそが恋愛だと思っている。言葉遊びに過ぎない、言い訳じみた理論かも知れないが、それこそがミユキがトウカに求める恋であった。依存する事と惹かれることは違うのだ。


「狐だけあって汚いじゃないのよぉ」


「むっ、失礼しちゃいます。私はばっちくないですよ」


 空になった酒瓶を振って怒っている、と動作で示したリシアに、ミユキはやんわりと否定する。乙女に汚いとは失礼極まりない話であった。


 リシアはどうなのかなぁ、とミユキは考える。


 トウカは圧倒的な勝利を見せつけて、一躍北部の名将の一人として数えられるまでになった。それを支えたからこその自負があったことは疑いない。しかし、一番の理解者になりつつあると思っていたが、恋人としてミユキが存在している。言わば、一番近しく最大の理解者ではなかったのだ。ミユキであれば泣いていただろう。否、実際にリシアは眼前で、両膝を抱えて鼻水を啜っている。


 きっと、リシアが口にした、ミユキはトウカに相応しくない、という言葉は間違いではないのだろう。


 軍人の恋人は、それを支え、癒すもので在らねばならない。


 皇国ではそれが当然であり、その風潮はどの地方であっても例外ではない。しかし、現に軍人同士で婚約する者も多く、それは自身の苦しみや苦悩を一番理解しているからではないのかとミユキは考えていた。


 ――なら、私は主様を支えて、癒してあげられているのかな?


 それに明確な答えなどないのかも知れないが、軍人としてのトウカは、ミユキよりもリシアのほうが遙かに理解しているであろうことは疑いない。ならば、軍人が同じ軍人を恋人として選ぶことがある様に、トウカも自身を誰よりも理解しているであろうリシアを選択するのではないのか、という不安があった。


 リシアは、ミユキが羨ましいと言うが、それと同じくらいにミユキは、リシアを羨ましく思えた。


 ミユキは日常生活でしかトウカの横に立てないが、リシアはそれだけでなく、軍人としてのトウカの横にもある事が出来るのだ。


「リシア、立って」


 ミユキは、リシアの両手を掴んで強引に立たせると、正面から視線を向ける。


 互いに、相手の立場を羨む。それは滑稽なことかも知れない。だからこそ、二人は互いの立場を認識しなければならないのだ。ミユキはトウカをリシアに奪われるかも知れないとは思うが、それを重視していはいない。奪われたら、奪い返せばいいのだから。



「私はリシアが羨ましい。戦場で主様の隣に立つことが許されているから」



 それはミユキの偽りのない本音である。


 それを察したのか、リシアの酔いに胡乱となった目は、探る様な視線に変わる。平素の刺す様な視線であった。


 そして、それが事実だと判断したのか、酒瓶を柵の先へと投げ捨て、姿勢を正す。


 だからこそ、不敵な笑みを浮かべて応じる。



「私はミユキが羨ましいわ。あのヒトの横で、緩やかな日常を過ごせるから」



 互いに自身に足りないものを求める。


 若しかすると、足りないものを先に手にした者こそが、トウカからの情熱的なまでの恋を得られるのかも知れない。トウカは冷徹冷酷に見えるが、執着すれば情熱的であるはずであった。


 戦争に執着する様に、自分にも執着して欲しい。


 互いの求めるものは違う。


 求むるは戦場か。

 求むるは日常か。


 故に、正面から応じる。互いに。



「「負けない(わ)、私の恋敵」」




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