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紫苑穢国のエトランジェ  作者: 葛葉狐
第一章    戦乱の大地    《紫電清霜》
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第一〇二話    エルゼリア侯爵とロンメル子爵




「ふふっ、御苦労なさっているようですね?」


 リンデルロットの微笑に、トウカは鷹揚に頷く。


 実を言うとトウカは当初、領邦軍に入隊する心算はなかった。


 影から口を挟み、己は裏方に徹しようと考えていたこともあるが、最たる理由は貴族や領邦軍軍人からの干渉を危険視したからである。それを踏まえればこの場に立っていること自体がトウカにとって不本意な結果に他ならない。不確定要素が多く、臨機応変な対応が求められたクラナッハ戦線突破やベルゲン強襲での指揮官不足。装甲部隊の長躯進撃という試みを実行できるであろう指揮官を見い出せなかったことに加え、不明瞭な立場から影響力を行使されるという点を忌避したマリアベルによって領邦軍佐官として仕官せざるを得なくなったのが実情である。


 マリアベルから厚遇されていることは周知の事実であり、自身に隔意を抱く貴族も多いだろうと考えていたトウカだが、周囲に集まった若い貴族達は一様に表裏のなさげな笑みを浮かべていた。


 対して隣に立つミユキは何処か所在なさげである。


 大勢の若い貴族に囲まれているが、ミユキに声を掛ける者はいない。それは、トウカが常に横に立っているからであり、共に男女が舞踏会で並び立っていることが“そういう関係”だと認識させているのだ。こうした場での常識として、まずは男性に女性と話す許可を取ることが当然なのだが、トウカは巧みに言論を操ることでその言葉を口に出させなかった。


 紡ぐ話題が貴族達にとって有益であるか無視し得ないものである為、尚更始末に負えないのだが、その行動はミユキとの間に割って入ることで不利な約定などを結ばせない様にとの配慮でもある。


「ロンメル子爵領邦軍司令官に就任する予定です……そうでありましょう、ロンメル子爵」


「えへへ、そうですよ~。私の騎士様ですよ。天狐族の皆が来てくれれば楽しくなっちゃいますねっ?」一転して上機嫌になるミユキ。


 ロンメル子爵家への従臣は完全にトウカの一存であるが、ロンメル子爵であるミユキが歓迎している以上障害はない。それが許されるのが貴族なのだ。


 トウカのロンメル子爵領邦軍司令官就任に対して周囲の若い貴族達がざわめく。


 代将の階級はヴェルテンベルク領邦軍の階級であり、拝命したばかりとはいえ一領邦軍の将官であることは変わりない。安易に捨てることは惜しいと考えても不思議ではない。両軍の動員可能な兵力を考えた場合であっても、無任所の将官から佐官に階級が下がる事は間違いない。ヴェルテンベルク領邦軍代将から、ロンメル領邦軍を統率する立場となるという事は、権限の縮小を意味する。


 しかし、ふらりと現れた身元不明の異邦人が短期間で領邦軍司令官となるなど厚遇の域を越している。領邦軍とは貴族が最も信頼すべき剣にして盾である。その指揮統率を任されるというのは深い信頼の証明とも言えた。


 ミユキに与えられた領地であるシュットガルト=ロンメル子爵領は、シュットガルト湖上の多数の島嶼であり領都はシュパンダウであった。地政学的に見ればヴェルテンベルク領の工業地帯や資源地帯から製品や資源を輸出する為の航路がシュットガルト湖である以上、ヴェルテンベルク領の経済の生命線をロンメル子爵領が押さえているということになる。


 貴族達は、これをマリアベルがミユキを信頼していると取るだろう。


 だが、トウカからすると然して重要な事柄ではない。寧ろ、ミユキがマリアベルに依存せざるを得ない立場となったとすら考えていた。


 ヴェルテンベルク領邦軍の圧倒的な軍事力の前には、地政学的優位など然したる意味を持たない。


 ロンメル子爵領は手付かずの自然と、軍の生産拠点の一部や湖の警備の為の極小規模な艦隊、対空砲部隊などが駐留しているだけに過ぎない。領民も少なく、農業や駐留する軍人を主体とした商業で賑わいを見せてはいるが、それはささやかな規模に過ぎなかった。強いていうなれば、シュパンダウに軍需企業の開発拠点があるが、地元経済を拡大させるほどのものではない。


 ちなみにシュットガルト=ロンメル子爵という名称は、ミユキが裁可の為に長々しい名を記すことを嫌うであろうというトウカの懸念から、短縮できるようにロンメルという姓を繋げ合わせただけに過ぎない。無論、ロンメルという姓は彼の有名な“砂漠の狐”に因んだものであり、多くの者はその聞き馴れない名を聞いて首を傾げたことは余談である。


当初、ミユキはサクラギの姓を名乗ると言って聞かなかったのだが、天狐族の主家であるミユキの家族もサクラギと名乗らねばならなくなるなど、シラヌイには口が裂けても言えないので妥協して貰うしかなかった。


 義父上との家族会議を生き抜ける自信が今のトウカにはなかった。


「羨ましいほどの出世ですね。ヴェルテンベルク伯が厚遇なさる方なのですから、御自身で爵位を望まれても良かったのでは?」


 緩やかに微笑むリンデルロットの言葉に、トウカは苦笑する。


 低位種に位置付けられる人間種は皇国貴族として爵位を得ることはできても、子孫にその爵位を継承することは法的に禁止されている。これは短命な種族が短期間に幾度もの世代交代を行うことによる能力と覚悟の劣化を忌避した為であった。高潔な者の子が高潔であるとは限らず、権力の継承期自体が騒乱の種となることもあり得る。対する高位種は後者の回数を大きく減らすことができる上、前者に関してはその長命な寿命から幼少期から長期に渡って貴族としての教育を施すことができる。


 周囲の若い貴族は高位種のミユキを貴族にし、自身がその伴侶となることでそれを躱そうという思惑がある、とトウカを見ていることは間違いない。


 無論、トウカからすると子孫の継承になど興味はなく、寧ろ、そうしたものに興味を抱く前に、眼前の征伐軍の脅威を取り除かねば御家断絶すら有り得ることを理解していないと、そうした考えに呆れるしかなかった。


 しかし、貴族の当主はそれを理解しているのか、他の若い貴族と違い、厳しい面持ちで会話している姿が散見される。


「いえ、小官の立場も北部貴族が存続してこそです。戦野に身を置くに爵位などという称号は、一発の銃弾の価値すらありはしません」


 北部貴族による蹶起軍は現在のところ敗色濃厚である。


 この場にいる若い貴族達は、その事実を肌で感じることができない。それは蹶起軍が幾度かの額面上の勝利を得ているからであり、その勝利を得る為に喪ったモノを正確に理解していないからであった。


 あくまでも地方貴族の領邦軍の集まりに過ぎず、損耗した兵力の補充が短期間で難しいということに加え、弾火薬の消耗が致命的であった。北部は高位種が比較的少なく、中央貴族に抗する為には通常の……当時、主流ではなかった兵器に活路を見い出さざるを得なかった。


 その独自の潮流に従って、北部貴族の領邦軍は全体的に火力主義に基づく軍備拡充を行っていた。


 マリアベルの意図した戦闘教義(ドクトリン)への入念な誘導による成果であり、それはクラナッハ戦線突破を発端とした全戦線での激しい戦闘で大きな結果を残した。元より魔導士の戦力が少ない代わりに、砲兵戦力の充足率は皇国陸軍の倍近い。蹶起軍の火力は戦闘中盤まで征伐軍を圧倒し、征伐軍部隊では戦争神経症(シェルショック)による離脱者すら相次いだことからも、この火力集中の非常識さが窺える。


 しかし、運用次第では陸戦の王者であると目される装虎兵ですら圧倒できると証明された火力主義にも欠点がある。


 弾火薬の消耗である。


 特に野砲の砲弾の急速な消耗は致命的であり、砲弾のない野砲など鋼鉄の置物に過ぎない。無論、一部の膂力に優れる種族が軽砲の砲身を掴み、棍棒にするという珍事が一部では起きていたものの、それはあくまでも例外である。


 嘗ての《大日本帝国》が火力主義の発展に伴い、弾火薬の消費量が飛躍的に増大することを見逃して前線で銃弾と砲弾を欠乏させた様に、マリアベルも火力戦に似合うだけの弾火薬の輜重体制を整備していなかった。


 備蓄した弾火薬……砲弾は征伐軍の兵力を大きく漸減させたことと引き換えに、実にその八割を射耗し、現在は消耗した砲弾を補充せんと北部各地の弾薬廠では昼夜を問わず、領民までもが参加しての生産活動に明け暮れていた。


 無論、戦況は敵味方双方共に逼迫したものとなっている。


 大軍同士の衝突での決戦が通例となっているこの世界の戦争だが、蹶起軍は決戦を避けての不正規戦を重視して広域戦線を形成し、征伐軍も政治的経緯から戦力を同じように分散させる形で戦線を形成した。蹶起軍は軍狼兵や装甲戦力などを利用して浸透突破を図り、敵の兵站阻害や指揮系統の混乱を誘発させ、それに対応する形で征伐軍も戦線を形成するという状況が続いた故の広域戦線の形成である。征伐軍を支持する貴族の領地や交通の要衝を襲撃されては、アリアベルも支持母体を失う恐れがある以上、征伐軍のそれは当然の対応と言える。戦争は政治の延長線上に過ぎないのだから。


 だが、征伐軍は全戦線での衝突後に大きく後退し、ベルゲン近郊で新しく増援に現れた三個陸戦艦隊と合流し、再編成を図っている。


 この征伐軍の後退を見て取った蹶起軍では、これを機に講和を図ってはどうだと主張する貴族もいたが、トウカだけでなく多くの領邦軍司令官は、この征伐軍の動きを戦略の転換と判断していた。


 政治的な失点を覚悟の上で戦線の形成を放棄し、戦力の再編成を図っている。


 恐らくは、大軍による一点突破を意図している。


 トウカがベルゲンに於いてアリアベルに語ったように、エルゼリア侯爵領を一息に陥落させることが目的と思われた。他貴族の領邦軍指揮官は、その攻撃目標が蹶起軍の最高指揮官であるエルゼリア侯のエルゼリア侯爵領か、或いは有力貴族であるタルヴィティエ侯爵領、アイゼンヴェルト伯爵領……そして北部に於ける兵器生産と経済活動の中心となっているヴェルテンベルク伯爵領かと喧々赫々の議論を行っている。


 国家の様にその統制下にある人々を統括する立場にある組織……政府がない蹶起軍は、エルゼリア侯の人柄によって内戦が可能なまでに連帯していると言っても過言ではなく、エルゼリア侯の領地を喪えば連帯に罅が入り、最悪、主導権争いが起きかねない。


 征伐軍も前線に哨戒を意図した驃騎兵(軽騎兵)部隊や軍狼兵部隊を残し、各領邦軍の領地へ帰還して領邦軍毎に再編成を行っている。蹶起軍側も弾火薬だけでなく人的被害が多数に上り、征伐軍が撤退した間隙を突いての軍事行動などできようはずもなかった。


 恐らく征伐軍は全戦力を以てエルゼリア侯爵領へと迫ってくるだろう。


 暫くは先であることは疑いないが戦力と砲弾を回復し難い蹶起軍に対して、征伐軍は以前にも増した陣容を以て臨んでくることは疑いない。陸海軍府長官が明確に肩入れし始めたという情報もある以上、兵力差は開くばかりである。


 マリアベルやエルゼリア侯は征伐軍に対して負けない戦略を取った。


 しかし、トウカは蹶起軍と総力を挙げて決戦を行っていた方が、講和時にある程度の妥協がし合えたのではないかと考えていた。もし、征伐軍が勝利したとしても被害は甚大であり、戦後の北部の統治には大きな不安が残る。そこで北部貴族の排斥などしようものなら政治的混乱は避けられず、北部領民はその煽りを受ける。


 経済は滞り、物流が停滞する。結果として北部で、本当の意味での“蹶起”が起こりかねない。


 そうなれば、最終的にアリアベルは妥協せざるを得ない。


 ある程度の権限を北部に与え、征伐軍を引き上げる。そうせねばアリアベルは北部に多くの戦力を裂かれたままに皇都に帰還せねばならず、中央貴族に対しての軍事的優勢を確保できないのだ。逆を言えば北部貴族に対して寛容な姿勢を見せれば増援すらも期待できることを考慮でき、かなりの譲歩が引き出せるだろう。


 ――まぁ、終わったことだが。


 無視し得ない程に開きつつある兵力差と欠乏する弾火薬を考えれば、今さらその手段は使えず、考える意味を持たない。


 既に幾多の血が流れ、双方共に決戦に向けて戦備を整えんとしている。今更の妥協はあり得ない。


 マリアベルの心情もトウカは理解できないでもないが、やはり貴族という為政者は保守的に過ぎた。少なくともトウカの目にはそう映る。


 妹であるアリアベルへの意地もあるだろうが、戦線を形成して隙あらば征伐軍を支持する貴族の領地を襲撃するという作戦などを容認したのは、逆に見れば北部貴族の領地に必要以上の戦力を残さないための手段とも言えた。


 そう、マリアベルは元より北部貴族に信を置いてはいないのだ。


 恐らく原因は帝国への恐怖心に負け、マリアベルの制止を聞き入れず蹶起を決定したからに違いなかった。帝国への恐怖心を煽ったのは他ならぬマリアベルであるが、そうなると同時に北部貴族に対して最も期待していたのもマリアベルなのかも知れない。


 ――同じ北の大地で苦しい発展期を乗り越え、更に北の大地からの脅威に怯え続けていた同胞として……いや、遠きに日に北の大地に追い遣られた戦友として、か?


 詮無い事、とトウカは頭を振る。


 トウカが硝子碗(グラス)に口を付けて思考の海に沈んでいる間に、となりではリンデルロットとミユキが会話の花を咲かせていた。どうもミユキから話し掛けたらしい。そうなればトウカも止める術を持たない。


「それで、おとさんに娘を寄越せって飛び掛かったんですよ~」


「それは凄いのですね。長命種に素手で挑みかかるなど……まさに英雄ですこと」


 周辺の若い貴族達がトウカに様々な視線を向けてくる。その間もミユキは嘘……妄想混じりのトウカの活躍を垂れ流していた。


 若い貴族……女性貴族に関しては上品な驚きの声音と共に、ミユキの言葉に耳を傾けている。長命種の女性であっても、やはり男女の色恋はそれなりに気になるらしい。対する男性貴族は、トウカに胡散臭い視線と同情の視線を送っていた。同情するならば有り金すべて寄越せ、と内心で毒づくトウカだが、ミユキが捏造した恋の駆け引きの話に圧倒されて何も言えない。


「ふむ、やるではないか。仔狐も令嬢達に御主を自分のモノだと牽制しつつ、二人の仲が疑いないことを広く認知させようとしておるのぅ」


 背後からの声にトウカは慌てて振り向くと、踵を打ち鳴らして敬礼する。 



 マリアベル・レン・フォン・グロース=バーデン・ヴェルテンベルク伯爵の登場であった。



 まさか大勢の前で相対することとなるとは考えていなかったトウカは、幾分か顔を青くして正面から美貌の女伯爵を見据える。


「やめぃ。この場は戦野ではなかろうて」


 煙管を燻らせ、落ち着いた動作で淡い笑みを向けるその姿は様になっているが、相も変わらず厭世的な気配を漂わせていた。


 周囲の若い貴族達は、突然の主催者の出現に慌てて頭を下げている。


 取り乱すのも当然で、若い貴族達のいる一角は舞踏会場の隅であり、貴族の当主などは中央で談笑している。そして、実際に貴族として権力を振るっているのはその当主であり、この場にいる若い貴族達は跡取りや令嬢に過ぎない。主催者に釣られてやってきた付属品に過ぎず、然して権力も持たない貴族の子弟に意識を向けることなど通常ではそうないことである。


 しかし、マリアベルはやってきた。


 しかも、トウカに第一声を掛けるという形で。つまりはトウカとの会話を御所望ということである。


 これには額面以上の意味がある。


 通常ならば、家令や執事を使い呼び付けるのが通例であるが、自ら声を掛けにくるということは、格別な関係の強さを表す常套手段であり、強固な信頼関係であると周囲に示す手段として舞踏会では用いられていることをトウカは知っていた。貴族でもあるシュタイエルハウゼンより、大まかな舞踏会での遣り取りは聞き及んでいるのだ。


 トウカ……否、これはミユキに対する配慮であった。


 ミユキは拝領を含めて十分に優遇されているが、若い貴族に明確な形で優遇していると示すことで、ミユキに付け入る隙はないと示しているのだ。


「マリア様~。この服、重いです……」


「我慢せんか、阿呆(あほ)ぅ。そもそも御主の胸が非常識じゃから選べる衣裳が限られたんじゃぞ。少しは自重せぬか」


 そう口にし、ミユキの背後に回り込み胸を鷲掴みにして、「けしからんのぅ!」と快活に笑うマリアベルに、若い貴族達は所在なさげな表情を浮かべる。予想外の状況に、規格外の行動も手伝って場を辞退する機会を逸したのだ。


 そんな二人に、トウカは溜息を吐く。


 手段は兎も角、じゃれている二人は姉妹に見えなくもなく、友人の少ないミユキを構ってくれる女性としてマリアベルは必要であった。少なくともマリアベルは、ミユキに関しては政戦を別にして可愛がっていてくれているという印象がある。他者に対して野生の嗅覚で信頼が置けるか否かの判断をしているミユキが甘えて擦り寄るということは、少なくともミユキの中ではマリアベルは気のいい御姉貴分であり続けているということに他ならない。


「おお……そうであったの……トウカ。御主を蹶起軍の最高指導者に合わせねばならん。付いてくるが良いぞ。ミユキは……そち、エーレンベルク辺境伯の令嬢であったな。済まぬが相手をしてやってくれ」


 様になった動作で、豪奢な着物の裾を翻したマリアベル。


 トウカはリンデルロットに、くれぐれも御頼み申し上げる、とミユキを預けて一礼すると、マリアベルの後に続く。


 ミユキは心配だが、此処で断れば不敬であると吝嗇(けち)を付けられかねない。


「主様、主様っ! 蹶起軍の偉い人ってどんなヒトだと思います? やっぱり髭なのかな?」


「……自然に付いてくる訳か、御前は」


 背後を一瞥すると、リンデルロットが頻りに頭を下げている。マリアベルは無関心。


「髭かも知れないな。それ相応の立場にあると威厳が必要になる。高齢の男性が手っ取り早く威厳を出したいならば、髭を蓄えるのは確かに有効な手段だ」


 髭や服装だけでは張子の虎であるが、初見が重要な場面も確かに存在する。トウカの祖父も、それはもう立派にして芸術的かつ個性的な髭の持ち主で、時折、祖父を尋ねてくる将星の中にも髭を蓄えた者は少なくなかった。


「何なら俺も髭を生やそうか?」


「駄目ですよっ! じょりじょりは嫌です!」顔と尻尾を左右に振るミユキ。


 曰く、幼少の頃に髭を生やしていたシラヌイの頬擦りで、頬が摩り下ろされる程に赤くなってマイカゼに泣き付いた事があるらしく、画してトウカのオジサマ化計画は見送られることになった。


「しかし、蹶起軍の盟主を放置した形で色々となさっていた様ですが、宜しいので?」


「あれはその様な細かな事を気にせんよ。そもそも小心でとても貴族とは思えんしのぅ。……しかし、アレは歴史が好きでな。剣聖に匹敵する武勇を北の大地に示さんとする若き刃を一目見たいと五月蠅うての」


 苦笑交じりのマリアベルの言葉に、トウカは或いは気が合うかも知れないと考えた。


 トウカも歴史は好んでおり、皇国の歴史も可能な限りは学ぼうとしていたが、皇紀よりも遙かに長い皇歴四五九九年の歴史を誇る皇国史は容易く記憶に収められるものではなく、その建国までの動乱期を含めれば更に長大な歴史となる。そこに周辺諸国の歴史まで加われば、最早、学ぶだけにしても編纂作業に近い。


 だが、それでも好きなのだろう。


 それは歴史がヒトの歩んだ進歩の記録であり、唯一無二の教訓に他ならないからであろう。


 マリアベルに率いられて、トウカとミユキは会場の中央へと進む。


 途中、様々な意思の宿った視線が二人に注がれるが、トウカは曖昧な笑みを浮かべたままであり、ミユキに関してはトウカの腕に抱きついたままに手を振り返してすらいた。そんなミユキの無作法にして天真爛漫な姿に、張り合いや探りの姿勢を見せるのが莫迦らしくなったのか多くの貴族は視線を逸らす。


 蛮勇や無邪気が難局を打破することもあるという例を思い出し、トウカも一緒に手を振る。気分は凱旋する皇族将校であった。


 そして、中央で威厳に満ちた貴族達……やはり驚異の髭率の集団に囲まれた小柄な初老の男性と、トウカは相対することとなる。


 とても貴族とは思えない気弱な老人といった風体の男性がエルゼリア侯であるということは、トウカは新聞に載っていた顔写真を思い起こすことで理解できた。しかし、トウカの知る嘗ての貴族よりも簡素であるはずの男性貴族の服装の中にあって、特に簡素な服装のエルゼリア侯は周囲から浮いた印象を受ける。無論、周りに静かに視線を巡らせても、隔意を抱いている貴族がいるようには見えないことから、それなりの人望を有している事は疑いない。


 尤も、マリアベルの人望の欠乏が傑出しているだけであり、この程度の人望は貴族にとって当然なのかも知れないが。


「やぁ、君がトウカ君だね? 初めまして。僕がレジナルド。レジナルド・ゼル・フォン・エルゼリア。趣味は古書店での歴史書漁りと農作物の品種改良で、(ついで)に侯爵もしているよ」


 楽しげに語り掛けながら握手を求めてくるエルゼリア侯に、トウカは曖昧な笑みを一層深めて手を差し出す。


 縁側で木漏れ日を楽しみながらうたた寝をする姿が似合う初老の男性。トウカの初見の印象は正にそれであった。


 そして、エルゼリア侯という天龍族の貴族は外観以上に異色の男であった。


 覇気も無ければ武勲を打ち立てようという気概もなく、決して激しい自己主張をすることのない温厚な人物。その点だけでも十分に稀有な龍族と言えるが、農業に造詣が深く、日々耕運に励む貴族は皇国全土を見渡してもエルゼリア侯以外にはいない。だが、その篤農家としての手腕は確かであり、農業技術指導者という肩書で皇国北部の発展期の食糧難を払拭したとして、北部では貴軍官民の総てに慕われる貴族であった。


 奪う技術である武に依らない、純粋な生み出す技術である農業によって尊敬と忠誠を獲得した人物。


 その食糧生産量に瞠目した時の天帝は、エルゼリア侯を“北の天箸(あまはし)”と称し、北部に住まう者達の箸……食を支える者だと手放しで賞賛した。


 そして今では農聖と呼ばれ、剣聖と対を成す北部鎮護の立役者として親しまれていたが、それ故に蹶起軍の旗頭に祭り上げられたのだ。その最たる理由は、政治的にも軍事的にも深く関わらなかったことからエルゼリア侯に否定的な貴族がいなかったからである。だからこそ蹶起軍は佳く纏まった。これがもしマリアベルであれば猜疑と離反の嵐となり、征伐軍との戦闘どころではなくなる事は容易に想像できる。


 侯爵位を趣味らしい古書店での歴史書漁りと農作物の品種改良の後に、ついでの様に取って付けてくるところは、マリアベルと同じなので驚きはしない。北部貴族にとっては天帝陛下に下賜された爵位よりも、領地の護持が重要であるという無意識の意志表示かも知れなかった。


 本来であればトウカが先に名乗りを上げるべきだが、目が合うと同時に全力で話し掛けてきたので、自己紹介する機会を失したトウカは非礼に当たるのではないかと考え周囲の気配を探るが、一様に苦笑いするだけで咎めようという者はいない。それが、エルゼリア侯なのだ。


「失礼しました。小官はサクラギ・トウカと申します。階級と役職は、これから皆様方に相談させていただくということで」己の胸に右手を当てて慇懃(いんぎん)に一礼するトウカ。


 周囲の貴族達は、その姿に好意的な失笑を零す。


 個々で強大な力を持つ種族が多い貴族からすると、この様な態度を取る人間種の異邦人(エトランジェ)など小生意気な小僧に過ぎない。しかしながら長命な種族が個性的な人物や物珍しい物に惹かれるということを、トウカはおぼろげながらに理解し始めていた。長命であるが故に多くを知り、目新しい事象を、年齢を重ねるごとに経験することが少なくなる長命種にとって、珍しいというだけで興味を引く対象と成り得るのだ。


 そして、眼前には空前の大戦果を演出した小生意気な若造がいる。その上、隣にミユキがいる事を考えれば興味を持たないはずがないのだ。


「勿論、私の身はロンメル子爵のモノなので、其方に相談していただいければ、この内戦に最大限の協力をさせていただきます」


 迂遠にミユキが不利益を被る様な状況に陥れば協力しないという事を示すトウカに、貴族達は生意気な、と小さく笑う。


 ――なれど、面白い。

 ――男はそうでそうでなくてはな。

 ――これぞ男児の気勢よな。


 貴族達は口々にトウカを評価する。武門の出の貴族の中にはトウカの肩をばしばしと叩いて、俺が鍛えてやろうと呵々大笑する者までいる。北部貴族は他地方の貴族に比べて大らかで豪放磊落なものが多いと言われているが、それは嘘ではない様子であった。国家から見ると犯罪集団でしかない蹶起軍が正規軍と限定的とはいえ互角に戦闘ができていたのは、こうした武断的な面々に支えられてのことであることは疑いない。


「いやぁ、僕と違って風格があるね……この子に拝領しても良かったんじゃないかな?」


「阿呆ぅ。領内にまで軋轢を作れるはず無かろうて。まぁ、どの道、軋轢は避けられぬかもしれんが」マリアベルがトウカを一瞥する。


 言いたいことが山ほどあるという表情ならトウカも正面切って小生意気に振る舞ったが、マリアベルは無表情であり意図するところを感じさせない。


「君も大概、他の貴族と軋轢があるから言えた台詞じゃないと思うけど」


 エルゼリア侯の言葉に、周囲の貴族が全力で頷く。


 マリアベル、全力で舌打ち。 


 トウカは、マリアベルとエルゼリア侯の関係を計りかねた。


 二人の言葉の応酬に、エルゼリア侯が人間種に爵位を与える事に対する反発を見切れない程度の人物であるのか、或いはそれほどに自身を評価していてくれるのか、という部分もトウカは計りかねた。


 トウカは、エルゼリア侯に握られ続けていた己の手に視線を落とす。


 エルゼリア侯の手の感触は荒れており、幾つかの血豆が潰れた感触があることから、厳しい鍛練を積んでいる様に見えるが、筋肉の付き方から見てそうではない。恐らくは趣味という農作物の品種改良によるものだろう。


 侯爵位を持つ貴族にして、蹶起軍の最高指導者である人物が血豆の潰れるほどに農作業に打ち込んでいるという事実にトウカは瞠目する。


 影武者かという懸念もあったが、この防備が十全な舞踏会場に在って暗殺は極めて難しく、そうした警戒は必要とは思えない。


「冬場でも作物は育つのですか?」


「ああ、それはね。僕が品種改良用の温室を幾つも持っているからだよ。今は半地下にして、太陽光だけが当たるようにした新しい農業用温室も開発してるんだ」


 高耐久度の軟質合成樹脂(ビニール)が開発されていないこの世界では、温室は硝子張りでかなりの資金が必要ではないのかとトウカは考えたが、風雨を凌ぐ程度の低出力の魔導障壁を常時展開することで解決したとのことである。定期的に必要な魔導機関の整備だけで済むとのことであった。ちなみにその魔導機関はヴェルテンベルク領邦軍の旧式駆逐艦のものが使われているらしく、さしものマリアベルも気弱な老人の願いを断ることは難しいのかも知れない。


 嬉しそうに語るエルゼリア侯に、トウカも思わず微笑む。隣のミユキも貴族らしからぬ物腰のエルゼリア侯には好意的であった。


 確かに能力的にはエルゼリア侯は御飾りの盟主であるかも知れないが、北部貴族という集団を纏めるならばそれ相応の統率力が必要になる。しかし、旗下に集わせる事はできても統率するだけの“なにか”が窺えない。


 否、恐らくはない。


 あるならば、領邦軍毎に独立したままである指揮権を放置するはずがなかった。


 もし、各領邦軍が統一された総司令部の下で戦列を成していたならば、クラナッハ戦線突破やベルゲン強襲も数倍に拡大した規模で行われたことは疑いない。無論、そこには総司令部に対しての献策が受け入れられるか否かという懸念もあるが、征伐軍の大攻勢を事前に挫く為の大攻勢とすれば受け入れられる可能性は高かった。


「僕の農業政策で冬場に雪に閉ざされる北部でも、年中新鮮な野菜が食べられるからね」


「まぁ、北部全体でやらかして自給率を満たしつつあるからの。まさに農聖といえような」


 皮肉屋のマリアベルからすら称賛が入るという事実は大きい。だからこそ指揮系統の問題はあれども蹶起軍という組織として成立しているのだ。


「いやぁ、照れるねぇ」後頭部を掻いて、恐縮といった風体のエルゼリア侯。


 廃嫡の龍姫が手放しで称賛するのであれば、余程の聖人君子であることは疑いなく、人畜無害を地で行く人物であると予想できた。


「それは大きな働きですね。何も武力ばかりが指導者に求められる要素ではありませんので」


 無論、あるに越したことはないが、武力や知力はそれらを有している人物を重用できる器量と惹き付け続ける事のできる人望さえあれば十分に補い得る。


「今、皇国で一番注目されている軍人にそう言って貰えると気が楽になるよ」


「楽も何も御主は一日中、土弄りか読書しかせんであろうて。少しは蹶起軍の運営を手伝ってみせぃ」


 呆れ顔のマリアベルに、エルゼリア侯は頭を掻いて、「いやぁ、御免ねぇ」と口にしているが反省している様子はない。



 レジナルド・ゼル・フォン・エルゼリア侯爵。



 極めて変わった神輿と言えた。当人がこの状況に不満を持っていないことに加え、会場を見た限りでは表面上での激しい対立はない様に見える。極めて稀な事例と言える。


 ――上に野心がないからこそ下が纏まるか。何処かの皮肉屋女伯爵様ではこうはいかない。


 マリアベルはどこか危うい。


 強いて言うなれば、選ばないという選択肢を意図的に排除しているかの様な印象をトウカは受けた。


 人生は試験の回答欄とは違い、必ず選択しなければ失敗となる訳ではない。選ばなくとも“ナニカ”を損なうことは意外と少なく、沈黙こそが最善の解であることが多いのは多くの者が思っているよりも遙かに多い。一般に流布する事なかれ主義やモンロー主義、無関心的風潮も、本質的にはその大前提に基づいたものであるからこそ何時の世も選択肢としてなくならない。


 では、その逆であるマリアベルの行動と意図するところは、一体どこにあるのか?


 ――蹶起軍が敗北する可能性を考えている?


 今更であろう。


 マリアベルはトウカにも賭け金を投じ、手当たり次第に可能性を漁り回っている。例え、勝算が低くとも全力で戦い活路を見い出すしかない。敗北はヴェルテンベルク領の解体という自身の資金源と武力を奪われる結果となるからであり、これを取り戻す事は容易ではないのだ。


 ――行動には常に危険や代償が伴う。しかし、それは行動せずに楽を決めこんだ時の長期的な危険やコストと較べれば、取るに足らない、か。


 冷戦期の米帝大統領が口にした言葉を、トウカは思い出す。


 或いは、マリアベルは決して座視し得ない可能性を未来に見たのかも知れない。


 意味のない推論だ、とトウカは楽しげに会話をしているマリアベルを眺める。


「トウカにも期待しておるからの」


「……はい、手段は問わずに勝利を得て見せましょう」


 突然、話題を振ってきたマリアベルに、トウカは驚く。


内心では大激怒していであろうと考えていたがその言葉に険はない。長命な高位種が己の内心を完全に隠し遂せるというのは経験済みであり、驚くに値しないが、マリアベルの笑みは何処かトウカを不安にさせた。


 ヴェルテンベルク領邦軍は大規模な編制を終えつつあり、イシュタルが衛星領となりつつあるシュットガルト運河に面した貴族領の治安維持を行っている間、領邦軍司令官はマリアベルが兼務する事となった。予定ではベルセリカが領邦軍司令官になり、トウカがその下で新規編成された戦闘団司令となる予定であった。その状態で蹶起軍総司令部設立とベルセリカの蹶起軍総司令官への“出向”が宣言される予定であったが今となってはどうなるかは分からない。


 トウカがロンメル子爵の家臣となると宣言したことで、その可能性に蔭りが出たのだ。


 ベルセリカが、トウカの家臣であるからである。


 どの様にマリアベルが切り抜けるかを悩みつつ、トウカはヴェルテンベルク領邦軍の編成に思いを馳せる。


 フルンツベルクの一個歩兵師団は、歴戦の傭兵で編成された〈傭兵師団(ランツクネヒト)〉であったが、この編成を以て正式にヴェルテンベルク領邦軍へと編入されることになった。倍する戦力にも引けを取らなかった〈傭兵師団(ランツクネヒト)〉に加え、領邦軍司令部直属の各兵科の複数の大隊や飛行隊を合わせれば強大な戦力となる。その上、予備役や郷土愛に燃える志願兵からなる義勇大隊が幾つも編制され、鉄道聯隊や飛行義勇隊なども戦力として組み込まれ、他の領邦軍とも隔絶した戦力となる。


 ヴェルテンベルク領邦軍は、総力戦体制に移行しつつあった。


 そして、遊軍としてザムエルが率いる〈装甲教導師団(パンツァーレーア)〉もある。


 問題はトウカ隷下となる予定であった戦闘団(カンプグルッペ)であった。


 〈装甲教導師団(パンツァーレーア)〉は、各地での転戦を繰り返した熟練戦車兵や士官を集中的に配置した精鋭師団であるが、トウカ隷下の戦闘団は新設されたものであり、特に装甲部隊は領邦軍士官学校の装甲科を繰り上げ卒業した新兵が主体で、その練度は〈装甲教導師団(パンツァーレーア)〉と大きな隔たりがあった。


 ――恐らくは、蹶起軍総司令部直下の予備戦力として扱われるはずだ。まぁ、与えられるならば、だが。


「へぇ、そうなんだ。トウカ君は歴史が好きなんだ」


「はいっ、ベルゲンの図書館で、中々、本から離れてくれなかったんですよ」


 ミユキは、エルゼリア侯と他愛もない会話に興じている。近所の老人を相手にするのとは話が違うのだが、エルゼリア侯の人となりが気安い為人の為、ミユキも嬉しそうに話している。狐の勘はエルゼリア侯が表裏なき人物であると判断したのだ。


 楽しそうに言葉を交わす二人の周囲に有力貴族達までもが集まりだし、会話の輪が広がりつつあることを見て取ったトウカは黙ってその場から退く。


 可愛い孫娘を見るかのような眼差しでミユキの言葉と反応を楽しむ貴族達に、トウカは安心する。少なくとも猜疑心から排斥されるなどという事態にならず一安心すると共に、気に掛けて貰える存在になって貰うべきだろうと会話にトウカは口を挟まない。


 マリアベルに対して、トウカは、後は御任せするという視線を向ける。


 トウカがミユキの家臣に収まり、有力貴族には北部蹶起軍総司令部設置の根回しが済んでいる以上、ベルセリカの正体も知られている。他の貴族にもエルシア市街戦でベルセリカが堂々と名乗りを上げたことが伝わっているはずであり、ミユキの機嫌を損ね、胡散臭い約定を求め、盆暗倅を押し付けようとしてくることはないはずであった。


 無論、それはマリアベルも同様である。







行動には常に危険や代償が伴う。しかし、それは行動せずに楽を決めこんだ時の長期的な危険やコストと較べれば取るに足らない。


  第三五代《亜米利加合衆国》大統領 ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ


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