第九六話 剣聖、罷り越して候
少年は小銃機関部上面から新たな挿弾子を叩き込むと、槓桿を引いて薬室に初弾を装填する。幼い顔立ち通りの年齢だが、その手付きは慣れたものであり、危なげな部分は見られず、それは周囲の若い兵士達も同様であった。
「銃剣も付けたな。そろそろ仕掛けてくるだろう」
「了解です、小隊長殿……おい、聞いたか、若造共! 敵が突撃してきたら、槍の様に敵を突き返せ! 陣地内に入れんじゃねぇぞ!」
騎士甲冑を身に纏った小隊長の言葉に、先任軍曹が大音声で兵達を促す。
少年はバルシュミーデ領邦軍の一兵卒に過ぎないが、精強で知られるエーダーラント地方の兵士としての矜と誇りを抱いている。しかし、卓越した装備を誇るといわれていたヴェルテンベルク領邦軍はその噂に違わず、否、噂以上の火力を以て友軍を圧倒していた。
阻害諸共に吹き飛ばされる兵士から、少年は目を背ける。
腕が砕けた様に飛び散り、地面を血が塗り潰す光景は既に珍しいものではなくなりつつあるが、心胆寒からしめるものである事に変わりはない。
血塗れの石畳には血が滲み、弾薬が転がり、物言わぬ骸となった兵士や騎士が横たわっている。
――侵略者め! 僕達が何をしたって言うんだ!
凄まじい火力優勢を確保し続ける敵装甲擲弾兵聯隊に胸中で悪態を吐きながらも、小銃を構えて阻害から銃身を突き出すと、照門を覗き込んで照準を付ける。
遠方に見える装甲擲弾兵は、肩を防護する肩上や左右大腿部を護る草摺を装備している。それらが衝撃を受けた際に魔導障壁の展開を担う機構の一部であることも少年は理解しているが、その軍装が黒や緑、茶色の斑模様である点は理解が及ばなかった。だが、その模様の為にエルシア郊外に潜むことにも成功していたことから、偽装目的かもしれないと少年は思い直す。
良くも悪くも、都市内では自然迷彩は目立つ。
一人の装甲擲弾兵に、狙いを付けて少年は引き金を引く。
乾いた破砕音と共に、照準器越しの装甲擲弾兵が斃れる。しかし、次の瞬間には立ち上がり、手落した小銃を拾って応射に移っている。
装甲擲弾兵の軍装は厚く、何重もの魔導術式が編み込まれたものであり、肩上や草摺の機構と合わせると騎士甲冑には一歩譲るものの、高い防禦力を実現している。機動力との引き換えであるが、ヴェルテンベルク領邦軍の機械化率は恐るべきものであり、戦場に装甲車や半軌道車輛で乗り付けるという戦術の有効性は、眼前の装甲擲弾兵聯隊を見れば嫌でも理解できる。
素早く槓桿を引き、次弾を装填するが、照準器の先に一人の女性が悠然と現れる。
長身の女性だった。
戦場に飛び交う銃弾が止む。
吹き荒ぶ風と共に現れた女性の手には、一振りの大太刀が握られている。
だが、何よりも目を引くのは、風によって吹き飛ばされた深網笠の下から覗いた美貌である。それは、この戦場に在って一際と目を引くものであった。
紺碧の瞳に深みのある鳶色の髪と無駄のない引き締まった長身でありながらも、しなやかであり、女性らしい色香を窺わせる柔らかさがある。狼であることを示す狼耳や尻尾は鳶色の髪と同じ色と毛並みをしており、長髪は背中で一本の大きな三つ編みにしているが、これは剣技の邪魔になる為だろう。
陣羽織を纏った姿は、雄々しくも気高く、女性の凛々しい容姿を一層、惹き立てている。
「ちっ、高位種だ。迫撃砲、持ってこいッ!!」遠方の阻害から焦りに満ちた声が響く。
高位種の戦闘能力は圧倒的であり、場合によっては単騎で一個大隊から一個聯隊を相手に出来るとさえ噂されるが、七武五公などは一個軍集団と同等の戦力にも成り得たという逸話がある為、決して法螺や誇張ではない。
虎系混血種の先任軍曹が、大の大人二人分もの重量を持つ重迫撃砲を引っ掴む。人間種にはとてもだが真似できない光景であるものの、皇国の軍事組織では良く見られる光景でもあった。
本来、迫撃砲とは砲口初速を低く抑えた上で、射撃時の反動を地面に吸収させる点が他の火砲と最も異なる特徴である。大きな仰角を取って射撃するのはその為であるが、その上、皇国では膂力に優れた種族が引っ掴んで運用する為の取っ手が装備されている。これは他国では見られない特徴であり、そして優越した点であった。
片手で迫撃砲を手にして、もう一方の手で迫撃榴弾を掴むその姿は、戦場に在って例えようもなく勇ましい。
迫撃砲の砲身内前部から落し込まれた迫撃榴弾が着発し、小さな膨張音と共に砲弾を射出する。
単純な構造の兵器であるが、それ故に使用弾の威力は大きい。
ほぼ水平に放たれた迫撃榴弾は真っ直ぐに飛来する。近距離の目標であることも相まって直撃は一瞬。
しかし、それは鈍い音と共に消し去られた。
不意に長身の女性が、手を振り払ったのだ。
迫撃榴弾が片手で弾き飛ばされたのだと悟り、少年は絶句する。
「砲弾を殴り払った……ッ!」
通常砲弾と比して低速の迫撃砲だが、それでも尚、その質量と速度は容易く撥ね退けられるものではない。例え、魔導障壁を展開していたとしてもその衝撃は想像を絶するものであり、軽々しく受け流すことは難しい。
遠方の市街地に落下して、炸裂音を響かせる。
不意に美しい女性の姿が霞む。
一拍の間を置いて近くから悲鳴が上がり、凄まじい破砕音が響き渡る。撒き散らされた衝撃波と練石の欠片が撒き散らされ、少年を襲う。
慌てて体勢の崩れた身体を持ち直し、阻害の影で指示を仰ごうとしたが、足元に騎士甲冑諸共に袈裟懸けに斬られて斃れる小隊長を見て、少年は突破されたと悟る。
砕け散った阻害に目を向けると、周囲には斃れ伏す将兵達の姿が散見され、夥しい血が石畳を染め上げていた。
己の顔の生暖かい感触は飛び散った血なのだろうと見当を付けるが、それを確かめる勇気がなく、少年は小銃を強く握りしめるに留まる。慌ててその手を解そうと、被筒部から手を離して振ってみるが、手の震えは収まらない。
高位種とは理不尽な程に高い戦闘能力を有する。
それは友軍陣地の中央に、仁王立ちする女性も同様であった。
一瞬で距離を詰めた美しい女性が、大太刀を無造作に振り払う度に、阻害が砕け、血涙が舞う。人肉と血、練石が降り注ぐ中に在って、少年は無防備な美しい女性の後ろ姿に目を奪われていた。
「あああぁぁぁぁあぁぁぁッ!!」
気が付けば飛び出していた。
蛮声を喉が張り裂けんばかりに張り上げての銃剣突撃。被筒部を左手で握り締め、銃把を右手で掴んだままに、鈍色に輝く銃剣を曙光に煌めかせての銃剣突撃に、周囲の兵士達も追従する。
敵が強大であるという理由で撤退できぬ立場にある以上、前進するしか道はない。
雪崩を打ったように美しい女性へと迫るバルシュミーデ領邦軍の兵士達。
よく訓練された突撃だが、美しい女性が無造作に大太刀を振るう度に纏めて薙ぎ払われる。銀閃が舞う度に命が摘み取られる光景に委縮しそうになる筋肉を蛮声で奮い立たせ、銃剣を突き立てんと迫るその姿は騎士に何ら劣るものではない。
飛び掛かった少年は、銃剣を美しい女性の背中へと突き出す。
だが、突き立てる事ができると確信した瞬間、銃身が圧し折られて小銃が手を離れる。そして、間を置かずに右から薙ぎ払われるように吹き飛ばされた。
屋敷の側壁に叩き付けられた少年は、脇腹の鈍痛から手か足で振り払われたのだろうと、何処か遠い意識の中で考えた。
「甘い! その程度で、某を押し切れると思うたかッ!」
嘲笑と共に群がった兵士を剣風で押し返した美しい女性。
石畳に大太刀を突き立て仁王立ちするその姿は、正に阿修羅。雄々しくも美麗な姿に霞む視線が引き寄せられる少年。強大な存在でありながらも何処か危うげなその姿に、抗いがたいナニカを感じて視線が吸い寄せられる。
霞む視界の中、美しい女性は圧倒的な存在感をそのままに戦野に佇んでいた。
そんな姿を其の儘に立美しい女性は口を開く。
「我が名は、ベルセリカ」
朗々と吟じたその姿と圧倒的な戦闘能力もあって、一時的に銃火と蛮声が止む。委縮と諦観の産物としての凪であったかもしれないが、少年にはその美しさに気圧されたように見えた。
周囲を睥睨し、大太刀を石畳から抜き放った美しい女性――ベルセリカは、それを掲げて大音声で名乗りを上げた。
「某こそは皇国が剣聖也ッ!!」
曙光に煌めく大太刀の輝きと共に周囲を睥睨する姿は、それが決して法螺や誇張ではない事を示し、またそう名乗るだけの戦闘能力もそれに応じたものであった。
剣聖。
皇国史上、複数人いた救国の英雄の中に在って一際に異彩を放ち、最も勇名を馳せた剣士。
「……嘘だっ、死んだはずだッ!」
有り得ない。在ってはならないことだ。
既に歴史上から姿を晦ませて、五〇〇年を越える。
絶望と悲観にその身を沈め、何処かの秘境で朽ちて逝ったというのが皇国政府の公式見解である。それは高位種が身体的損傷よりも、精神的欠損によって死に至ることが多いという事実からすれば、姿を消す前の状況も考慮するとそれは極自然な推測であった。
だが、彼女は還ってきた。御政道を正す為か、或いは……
少年は息を呑む。
戦場には似つかわしくない無邪気な笑みは、決して負の感情に彩られてはいない。寧ろ、自信に満ち、大事を成さんとする為の凛冽なる意志を漲らせていた。
「――ベルセリカ・ヴァルトハイム! 此度、ヴェルテンベルク伯爵領領主マリアベルに奉公仕る誉れ、有り難く頂戴致したく御座候ッ!!」
その宣言は遠く郊外まで轟き、《ヴァリスヘイム皇国》の歴史に再び剣聖の名を刻み付けた瞬間であった。
剣聖、罷り越して候。
「そんな……剣聖が生きていたなんて」エルラウラは呆然とした面持ちで呟く。
バルシュミーデ子爵領邦軍司令官であるエーアリヒカイト・フォン・クライスト大佐も横で、呆然としたままに立ち竦んでいる。
剣聖ヴァルトハイムの名は単の勇名であるだけでなく、最強の騎士との意味を持ち、一騎当千の戦闘能力もさることながら、卓越した指揮能力と果断さを持ち合わせた武将でもあった。
「偽物の可能性があります、子爵」
クライストの言葉に、エルラウラは有り得ないと胸中で否定する。
マリアベルとて剣聖の名を騙る事の危険性を理解しているはずであり、英雄の名を偽ることは法的な罰則はないものの政治的信用を失うことは間違いない。領民の意識も揺らぐ可能性を考慮すれば禁じ手に等しく、それ故に生死不明の英雄は愚か征伐軍も蹶起軍も死した英雄を宣伝に使うことすらなかった。触れてはならない領域として見られているのだ。
その制限が今、解き放たれた。
マリアベルは、最早如何なる制限をも受け付けない化物となったのかも知れない。ならば、他貴族の領土を焦土と化すことなど躊躇わず、また虐殺に近い行いも許容する可能性があった。
――降伏するべきでしょう。剣聖が現れた今なら……
「海軍の艦隊が勝利すれば、艦砲によってあの高位種を討ち果たすことができましょう」
クライストの言葉に、周囲の参謀達は血走った目で戦局の記された地形図を睨んでいる。
高位種を撃破する為とは言え、領都に市街地に艦砲射撃を行うなど正気の沙汰ではないが、エーダーラントの精鋭としての自負と、謂われなき侵略行為に対する反抗心も相まって降伏という手段を失わせていた。
今ここで降伏を命じても素直に降伏するはずもなかった。
エルラウラが先代領主の急死後にバルシュミーデ子爵位を継いで、それなりの時間が経過しているのだが、領邦軍に関しては未だ掌握しているとは言い難い。武断的な思想も相まってエルラウラの治政に馴染めていない領邦軍軍人も少なくない。
「艦隊の勝敗を以て身の振り方を決めると宜しいかと思います、ラウラ様」
気が付けば背後に現れていた妖艶な女性が、扇子でクライストを制止して進言する。
あくまでも余裕を感じさせる姿に、その女性が軍事力に威圧を受けるところを想像できず、エルラウラは小さく微笑む。
「セルアノっ」
自身が信頼する政務官の登場に、エルラウラは立ち上がる。
危機的な状況であったバルシュミーデ子爵領の経済状況を立て直し、同じ女性としても信頼を寄せるセルアノその姿を見てその手を取る。
「状況は優れないようですが、軍人の皆様方に勝算は御有りで?」
手を取ったままのセルアノが周囲の軍人達に視線を向けるが、参謀達は視線を逸らす。しかし、領邦軍司令官のクライストだけは真っ向から応じた。
「可能な限り敵に被害を与え、出来得る限り有利な条件での降伏を模索するべきであろう」
「“敵”……それはヴェルテンベルク領邦軍のこと? もし、彼女の軍勢を退けても本質的には何も変わらない。我々の敵は経済難に他ならないわ」
政務官を務めるセルアノは、バルシュミーデ子爵領の経済と領地運営に関わる立場にある。経済活動を活性化させ、シュットガルト運河を航行してヴェルテンベルク伯爵領との交易を行っている商船を呼び込むことを成功させたセルアノの功績は大きい。セルアノの政務官就任がなければ、バルシュミーデ子爵領の経済は崩壊し、公共施設も維持できなかったことは疑いない。
「でも、経済難は解決したはずじゃ……違うのセルアノ?」
「いいえ、ラウラ様。バルシュミーデ子爵領の経済立て直しは幻影に過ぎないのです。何故ならヴェルテンベルク領に依存する形で我らが領地は立て直されたのですから」
諭す様な言葉に、エルラウラは気付いた。
シュットガルト運河を航行し、ヴェルテンベルク領との交易を行う商船が中継地点として一時寄港できるように領法と湾岸設備の整備を行った。しかし、内戦勃発と同時に、危険性を回避する為に交易を控える動きが出ている。その上、今回の海戦の影響によって、これから先は更に寄港する商船は数を減らすことは間違いない。
――ヴェルテンベルクとの敵対が明白になった時点で商業活動なんて無理だったのね……
だが、それでも尚、軍を派遣してきた意味は何か?
セルアノは、エルラウラの意図を正確に察した。
緩らかな笑みを湛えた淑女。
その言葉は静謐でありながらも、異論を許さない峻厳さを備えていた。
「ヴェルテンベルク伯の目的は、シュットガルト運河の使用に影響を与える近隣地域の安定化であるかと。確かに此度の戦闘は商業を委縮させることになると軍人の皆様方は考えているかも知れませんが、逆にシュットガルト運河をヴェルテンベルク伯が完全に抑える事で長期的な安全を商船に保障することが可能でしょう」
「莫迦な、我々とて交易は黙認しておったし、その一端を担っておった! 態々、攻め入る必要などなかったはずだろう!」
セルアノとクライストの遣り取りに、エルラウラは己の失策を悟る。
シュットガルト運河の一部が、自身に追従するもの以外の手中にあることをマリアベルは嫌ったのだろうと、エルラウラは推測する。不安定な運用を続けることよりも、短期的には不安定となっても長期的な懸念を払拭する道を選択しだのだ。クライストが口にした黙認や一端を担っていたという言葉は確かに事実だが、それは利益の上に成り立っていたものに過ぎず信頼していたからではなかった。
――ヴェルテンベルク伯は利益の維持を望むと思ったけど、私の領地がシュットガルト運河の開口部に在りながら自分の影響下にないことを危険視した。
鋼鉄の女領主の猜疑はバルシュミーデ子爵領を蚕食しつつある。
エルラウラは、嘗て邂逅したマリアベルの形貌を胸に短く溜息を零す。
寛裕を思わせる笑みを湛えながらも、怜悧な眼差しには暴力的なまでの意志が宿っていたマリアベル。只々、エルラウラは圧倒された。北の巨人たるヴェルテンベルク伯爵領を苛烈にして強固に統制し、総攬し続ける様相。正に暴君。
「ヴェルテンベルク伯に、積極的に協力すべきだったのかも……」
「今となっては詮無い事でしょう」
良くも悪くも端的に物事を告げるセルアノに参謀達が顔を引き攣らせるが、領邦軍司令官であるクライストは沈黙を保ったままである。
外より響く銃声や砲声は一層、激しさを増し、ベルセリカという“正統なる”暴力によってあらゆるものが砕け、拉げ、悲鳴を上げていた。
「海戦の勝敗以前に、ここまで攻め入られる可能性もありますが、今暫くは、軍人さん方が期待する海軍の働きを見届けることとしましょう。その結果に合わせて、身の振り方を決めるのも宜しいかと思います」
純白の長手袋に包まれて右手、婉麗たる仕草を以て扇子を閉じるセルアノ。
純白の長手袋が示すが如く、彼女は何時如何なる時節にあっても純一無雑。
しかし、こうしている間にも領邦軍兵士は戦野でその命を擲ち、健気に領地防衛の任を全うせんとしている。決断が先に延びれば、それだけ助かる生命は減り、現状を打開する策がない以上、消極的な対応は間違いであるようにも思えたエルラウラはセルアノを見つめる。
何ものにも染まらないセルアノは、将兵の生命にさえも恬淡であった。
セルアノは政治に在っては優しくない。
「決断するのはバルシュミーデ子爵たるラウラ様です。御決断を」
そう、領地を預かるはエルラウラであって、セルアノではない。セルアノは現状を端的に纏めて説明し、マリアベルの思惑を推測し、己の本分を果たした。
自身の一時の拱手傍観が領民から多くを奪い続けている。
なればこそ決断せねばならない。
「降伏を……」
最早、限界である。
どの道、子爵としての権限や領地を制圧されるならば、双方の犠牲となる人間を最小限にすることが重要である。バルシュミーデ領邦軍の被害は当然であるが、ヴェルテンベルク領邦軍の被害が増大すれば戦後の軋轢が大きなものとなり、敗残兵に対する対応も苛烈を極めることになるだろう。そして何よりも、退避させた領民を護衛していた部隊が敵部隊と接触したとの報告もあり、被害は軍人だけに留まらない可能性もある。
「子爵様の御命令とあれば、領邦軍は心より従いましょう」
無念であるが、忠誠は揺らがないと騎士の礼をして見せたクライストに、顔を青く染めながらもエルラウラは頷く。
「そう、良かったわ」楽しそうに嗤ったセルアノ。
幻妖が禍々しく嗤う。
初めて見たその表情に、エルラウラのみならず、クライストや周囲の参謀達も怪訝な顔をする。瞬時に雰囲気を変えたセルアノの、鮮血の如く赤い紅を引いた口元を、有らん限りに歪めて嗤う姿は傾城の美姫そのものであった。
「セ、セルアノ?」
「ふふっ、世間知らずの小娘ちゃん。せっかく肥え太らせた豚、が軍事力という肉包丁で肉を削ぎ落とされて旨味がなくなるのは嫌なのよ」手にしていた扇子を掌に叩き付けたセルアノ。
婉麗たる仕草はない。あるのは断頭台の刃が落ちるかの如き音のみ。
その瞬間、部屋の扉が爆音と共に吹き飛び、漆黒の軍装を纏った兵士達が雪崩れ込んできて参謀達を取り押さえる。未だ屋敷に突入を許したとの報告は入っていなかった為、クライストも曲剣を抜き放つ前に床へと叩き付けられて為す術もなく捕縛された。僅か数秒の出来事である。
「エイゼンタール少佐。腐っても子爵様よ。丁重に扱って差し上げなさい」
扇子を開いて口元を隠したセルアノの言葉に、突然背後から現れた赤い流れるような髪を束ねた長身の女性が姿を現す。
「承知した。首席政務官殿」
猛禽の様に鋭い眼光と頬に刀傷を持ったその女性は、恭しい手付きでありながらも拒絶を許さない絶対的な威圧感と共に、立ち上がろうとしたエルラウラの両肩を掴み椅子へと促す。
へたり込む様に椅子へと座ったエルラウラは、緩慢な動きでセルアノを見上げる。
今更ながらに状況を把握したエルラウラは、裏切られたのだと気付いた。
自領の経済難を打開した才女の裏切りという表面上の結果だけでなく、自らが信を置いていた優しくも頼れる……そして同じ女性として憧れを抱いていた政務官の心が己に向いていなかったことにすら気付かなかったという事実が心に深い絶望を与えた。
「裏切ったの? 私は確かに貴女を扱えるほどの領主じゃなかったかもしれない……でも」
「違うわ、表替えったのよ。本当に察しの悪い小娘」呆れた声音のセルアノ。
だが、その意味するところは残酷で、セルアノは元よりエルラウラに忠誠を誓っていた訳ではなく、元よりマリアベルの影響下にあったのだ。深く考えれば、領主としては未だ年若く急に子爵位を継承することになったエルラウラに対して、マリアベルは四〇〇年近くも領地を統治し、重工業化と鉄血の統制を敷き続ける名君であることは誰にでも理解できる。比べるべくもない。セルアノほどの官僚が、エルラウラの下で飼い慣らされるなど有り得ないことである。
「改めて紹介させて貰うわ。ヴェテンベルク伯爵領、首席政務官セルアノ・リル・エスメラルダ」
漆黒の女性用衣裳の裾を摘まんで一礼したセルアノ。
切れ目ら覗く雪花石膏と見紛う肌が妖艶さを漂わせるが、そこに視線を向ける者はいない。
何よりも嘲笑を口元に張り付け、妖艶に笑みを湛えるその表情に視線は強制的に引き寄せられた。
「傾城、国崩しに罷り越して候よ」
バルシュミーデ子爵領という砂上の楼閣は、今まさに崩れ去った。
「重巡三、駆逐三、我が方に接近する!」
〈第一特装戦隊〉旗艦〈ロスヴァイゼ〉や、後続している〈第二水雷戦隊〉所属〈第四駆逐隊〉の司令駆逐艦〈アルノルト〉からの報告が艦橋に響き渡った。
「此方の真意に気付いたようだな」
第一特装戦隊司令を務めるオイゲン・ヨシカワ大佐は左前方の海面に視線を向けて呟いた。
彼方で明け始めた闇を焦がして明滅を繰り返し、遠雷とも思える砲声が運河の水面を這って足元へと迫ってくるかのような感覚。
〈ヴェルテンベルク領邦軍艦隊〉は、限定空間である運河を最大限に利用する形で両翼の水雷戦隊を運河幅限界近くまで広げつつも前進を続け、両翼からの雷撃を意図した艦隊運動を続けていた。
しかし、敵艦隊の駆逐隊の妨害に加えて、増援の巡洋戦隊が現れた事で、雷撃射点の変更を迫られる結果となった。現在は敵戦艦と巡洋戦隊が直線状に重なる雷撃射点を求めて航行を続けている。
「戦隊進路三四〇度!」
「戦隊進路三四〇度! 後続艦に伝達!」
ヨシカワの命令を、副長が復唱し、後続艦への伝達を指示する。
「取舵一杯。進路三四〇度!」
ヨシカワの命令を受けた航海長が操舵手に伝える。
〈ロスヴァイゼ〉が艦首を左に振り、後続艦の〈エルトヴァイゼ〉がそれに倣い、更に〈第四駆逐隊〉の駆逐艦四隻が続く。ヨシカワの位置からでは見えないが、その後ろにも〈第五駆逐隊〉が追従しているはずであり、総隻数は重雷装艦二と駆逐艦八隻の一〇隻となる。
「〈エルトヴァイゼ〉取舵。〈アルノルト〉、〈バウゼン〉、〈ロキウス〉……〈第四駆逐隊〉、〈第五駆逐隊〉も続けて面舵!」後部見張り員が、後続する僚艦の動きを伝える。
周囲には水柱が吹き上がり、飛翔音が耳朶を打つ。
艦首前に吹き上がった水柱が艦首に突き崩される姿は壮観の一言に尽きるものの、自艦が装備するよりも大口径の砲に狙われ続けては艦もただでは済まない。致命傷となる魚雷発射管への直撃こそないが、後部帆柱が圧し折られ、短艇が流されるなどの被害を受けつつあった。
砲声と明滅する発砲炎。
既に応射も始まり、前甲板の九五式一五・五㎝連装砲二基が砲身を振り翳し発砲炎を煌めかせる。
その時、一際大きな爆発音が背後から響き渡る。
――やられたッ! これは助からん!
「後続の駆逐艦〈ロキウス〉轟沈! 魚雷発射管に直撃弾の模様!」
後部見張り員からの報告に、ヨシカワは言葉を発さない。
〈ヴェルテンベルク領邦軍艦隊〉に於いて主力艦とは疑いなく駆逐艦や軽巡洋艦などの小型艦艇である。独自の戦闘教義と、それを可能とする実力を磨き抜き、何れの艦も海軍艦艇と何ら遜色のないだけの練度を身に着けていた。
それらが、戦海では一瞬で失われる。
不運の一言に尽きる一発の直撃弾と魚雷の誘爆が、苛烈なる猛訓練の結晶である精鋭駆逐艦とその乗員を一瞬にして無に帰してしまうのだ。
敵弾は、尚も降り注ぐ。
雷撃射点まではあと一歩の距離であり、仇討の機会は直ぐそこにまで迫っている。反対側の運河岸方面へ別れた〈アウフヴァイゼ〉と〈アルトヴァイゼ〉やそれに続く駆逐隊にも重巡洋艦や駆逐艦の妨害が展開されているのか、遠方では盛んに発砲炎が明滅している。そして、戦艦同士の砲戦も熾烈を極めているのか、〈デアフリンゲル〉型戦艦が大火災を生じさせながらも砲撃を継続していた。
彼我の間に横たわる闇を、鋼鉄の飛翔音が震わせる。
飛翔音は急速に拡大するものの、闇に吸い取られたかのように唐突に消失する。後続の駆逐艦を狙った砲撃なのか、至近には着弾しなかったようであった。
敵重巡洋艦の砲撃は繰り返される。
運河上の各所に発砲炎と砲声が満ち、敵弾が迫る。
「左舷に至近弾!」
「機械室に軽度の浸水とのこと! 応急対処員が急行中!」
「手空きの者を向かわせろ! 機関を止めれば終わりだぞ!」
叫ぶ副長に艦内の出来事を一任しつつ、ヨシカワは艦隊運動に専念する。
元より合同訓練など行った事のない特装戦隊と水雷戦隊所属駆逐隊だが、目下のところその艦隊運動に乱れはない。轟沈した〈ロキウス〉の位置を避けるように後続する駆逐隊にも敵重巡洋艦や敵駆逐艦からの砲弾が飛来するが、被弾する艦を出しつつも最大艦速で航行を続けている。敵駆逐隊は元より総数に劣っていたことに加え、露払いとなる戦闘で沈没艦を出していたこともあり、〈ヴェルテンベルク領邦軍艦隊〉の半数以下となっていたが、重巡洋艦は六隻が二手に分かれて両翼に展開しつつある〈第一特装戦隊〉と〈第四駆逐隊〉、〈第五駆逐隊〉に砲火を集中させている。
雷撃を行おうとしていることは既に露呈していた。当初は運河の通打阻止という意図と誤解していた様子であるが、今となっては隠しようもない。
一度、雷撃態勢を取りつつある状況で、重巡洋艦による妨害が入った為、再び戦艦と重巡洋艦が直線上の雷撃射点を求めて艦隊運動を継続することになった。
三隻ずつの重巡洋艦と駆逐艦に砲撃を受け続ける状況だが、特装戦隊や後続の駆逐隊も盛んに反撃の砲声を轟かせている。
「駆逐艦〈アルノルト〉火災発生! 落伍しつつあり!」
見張り員からの報告に、ヨシカワは〈アルノルト〉の艦長が最善の選択を取った事に満足する。既に空が白み始めているとはいえ闇は完全に払拭された訳ではなく、火災を生じた艦が戦列に留まり続ければ友軍艦艇を照らす結果となり、敵の砲撃の正確性を増す結果となりかねない。それを見越しての戦線離脱であり、〈アルノルト〉艦長は無念に思っていることは疑いない。
「このままでは大星洋側にまで押し出される形になります」
「敵艦隊を全滅させれば、戻ることは容易い」
副長の困惑した言葉を、ヨシカワは斬って捨てる。
撤退はない。
一領邦軍艦隊に過ぎない〈ヴェルテンベルク領邦軍艦隊〉だが、それでも矜持は海軍に負けないほどに気高く、その胸を焦がさんばかりに燃えていた。地政学的にシュットガルト運河を保持したいというマリアベルの思惑は誰しもが周知しているところであるが、ヨシカワや今この場にいる将兵はそのような理由は既に記憶の彼方に押し遣っていた。
海軍への敵愾心を胸に、鋼鉄の戦船達は進み往く。
「距離六〇(六〇〇〇m)! 敵重巡群と戦艦群、直線上に並ぶ!」
見張り員からの報告に、ヨシカワは見開く。
満願成就の時が来た。
この時の為に水雷屋は激しい猛訓練を耐え抜いてきたのだ、と奮い立ち、今一度大音声で命令を下す。
「左水雷戦用意! 投雷後は進路、二八〇度!」
ヨシカワの命令は通常の雷撃とは違い命中を確認せず、魚雷発射後は敵重巡洋艦目がけて突撃する構えであり、不屈の闘将として後の海戦史に名を残す突撃の開始であった。
尤もその突撃は、敵から見て丁字のまま砲戦を続けさせる事で、魚雷に対して舷側を晒させ続けるという目的の為であって実際に突撃する訳ではない。
「左魚雷戦。雷撃距離六〇。発射後は変針二八〇度!」
副長が水雷指揮所を呼び出し、水雷長に伝える。
水雷長以下の水雷科兵員は、魚雷発射のその瞬間まで水雷指揮所や魚雷発射管の付近で只管に待ち続けることも任務である。もし、魚雷発射の機会なく、その前に搭載魚雷への直撃弾で消し飛んでしまうのではないかと、正気と狂気……怖い先任下士官と魚雷という爆発物の狭間で身を震わせていた。
忍耐の時は終わりを告げ、これ以上ない程の活躍の時が来た。
弾雨の中、水雷指揮所や魚雷発射管では水雷科員が慌ただしく動く。
「魚雷発射準備よし!」
一拍の間を置いて、艦が震えた様にヨシカワは感じた。
投雷は砲撃と違い、圧搾空気による射出に過ぎないので、発射時の反動は駆逐艦でも辛うじて感じられる程度に過ぎず、軽巡洋艦の艦体を利用して建造された〈ロスヴァイゼ〉では、通常ならば発射時の振動など、最大艦速の振動に掻き消されてしまう。去れども重雷装艦でもある〈ロスヴァイゼ〉は、一斉投雷の数が六〇本にも達する為に、振動もまた大きい。
「一、二、三番連管とも上段管、魚雷発射完了!」
「四、五、六番連管も上段管、魚雷発射完了!」
水雷長からの報告。
重雷装艦という決戦兵器とされていながらもその実情は、近年、量産が開始された〈ベルディア〉型軽巡洋艦の艦体に、強化された魔導機関と、艦の中心線上に六基の六六㎝五連装二段魚雷発射管を搭載した異形の戦船である。搭載されている六六㎝五連装二段魚雷発射管も五連装にした魚雷発射管を二段にするという代物で、同時に全弾を発射すると上段と下段の魚雷が射出時に接触する可能性がある為、一拍の時差を付けての投雷が基本となる。
「一、二、三番連管、下段管、魚雷発射……続けて四、五、六番連管も下段管、魚雷発射完了!」
「〈エルトヴァイゼ〉より伝達。我、魚雷発射完了」
「後続の各駆逐隊より伝達。全艦、魚雷発射完了」
「投雷完了の信号弾打ち上げます!」
水雷長の報告に続いて、通信長が各艦の状況報告を伝えてくる。投雷完了の信号弾は、敵艦隊を挟んで、反対側の位置にいるであろう友軍左翼艦隊に対する警告と配慮である。
〈ロスヴァイゼ〉型重雷装艦二隻が一二〇本、二隻を戦列から失った二個駆逐隊六隻は、五四本の魚雷を投雷したことになる。左翼側に展開した、ほぼ同数の艦隊からの投雷が成されれば三五〇本近い数の魚雷が敵艦隊に目がけて殺到する計算となる。
「左翼艦隊からも、信号弾打ち上がりました!」
見張り員からの報告に、白み始めた空を見上げると緑色の閃光が空に輝いていた。
両翼艦隊からの雷撃は成った。
ヴェルテンベルク艦隊司令官に就任したトウカが意図した戦法の一つ……十字雷撃による敵艦隊の一掃。十字砲火の要領での大規模雷撃に過ぎないが、新造戦艦を囮にする形で敵主力を拘束するという点が、〈ヴェルテンベルク領邦軍艦隊〉司令部を驚きに包んだことは記憶に新しい。
試験航海中の新造戦艦を戦場に投入したとしても、艦隊相手の砲戦は期待できない。現に新造戦艦であるにも関わらず未だ砲戦は続いており、低い命中率も相まって敵戦艦に止めを刺すには至っていない。寧ろ〈フライジング〉型戦艦の増援によって隻数の上では劣勢となっている。
「突撃だ! 我に続け! 魚雷を気取らせるな! 主砲、砲身が焼け落ちるまで撃ち続けろ!」
ヨシカワの大音声が左へと舵を切り始めて傾く〈ロスヴァイゼ〉の艦橋に轟く。
〈ヴェルテンベルク領邦軍艦隊〉の反撃が始まった。




