二人の乙女、その雌姿
――おい、悠里。
その声に呼ばれ、あたしはいつものように可憐さんに駆け寄った。犬のようだとよく言われたが、自分自身でもそう思う。可憐さんの強さに、すっかり懐いてしまったのだ。
――なんですか、可憐さん。
――お前、もう私の前に現れるな。
――は?
可憐さんは無感情な瞳であたしを見やった。秋晴れの空の下、半袖の体操服を着た体に、風がひどく冷たかった。
――お前には無理だ。このゲームは遊びじゃない。
――なんでですか、可憐さん。あたしのなにが悪いって。
あたしは可憐さんに縋りかけて、はっと飛びのいた。両腕で顔面をかばった瞬間、重たい蹴りが落ちてくる。両手が痺れ、骨が軋むのがわかった。
可憐さんの細い足からは考えられないほどの衝撃。加減のないその一撃に、あたしは顔を青くする。本気だ。
――……いい反応するようになったな。
ふと、そんな声が聞こえる。窺い見れば、可憐さんが笑ったような気がした――次の瞬間。
――だが、まだまだだ。
切り返して蹴り上げる可憐さんの足が、あたしの鳩尾を真正面からとらえた。衝撃に痺れた腕では、防御が間に合わない。
しなる鞭のような鋭い蹴りに、視界が揺れる。少し遅れて、身の内側から抉るような痛みが走る。体を支えることはできず、受け身を取ることさえできず、あたしの体は前のめりに倒れた。喉の奥から絞り出すような声が漏れる。
――可憐、さん……。
可憐さんを見上げながら、あたしの意識はゆっくりと薄れていく。
どこか遠くで鳴り響く、銃声を耳に入れながら――――。
――――――――――
二人の乙女、その雌姿
――――――――――
警察の出入りが、いつの間にか日常の風景になった。学園生活を開始してから半年。空高く、涼しい風が吹き抜ける秋の日のことだ。
――攻略対象を一人に絞れば、基本的に他キャラクターとのイベントをこなす必要はない。
だが、その「基本的に」が崩れる時もある。
秋の清々しい朝。体操服に身を包んだ学園の生徒たちが校庭に集合する。
今日は争いの日。
体育祭と呼ばれる、共通イベントの発生日であった。
○
体育祭においては、細かなイベントが副次的にいくつも発生する。
たとえば木陰に行けば、スケッチブックを手に、走る学生たちの姿をデッサンするショタ野獣が。チャペルに行けば、サボり魔であるメインヒーローと、彼を連れ戻しに来た性悪眼鏡が。応援席では陽気に騒ぐ洋菓子屋の息子が。放送席では理事長代理が見回りにといった具合である。
ここでの細かな好感度争いも熾烈であろうが、しかし今日の本命はそれではない。
体育祭で最も活躍すること――あるいは徒競走で、あるいはリレーで、あるいは綱引きや玉入れにおいても無論のこと。体育祭で特に目立ち、一位を勝ち得た姿を、攻略対象に示すこと。
――それによる好感度の大幅な上昇こそが、すべての乙女の狙いであった。
今ここに、全乙女たちによる正面衝突が開始されようとしていたのだ。
○
かつてこの地に、平和だった一つの学園があった。
カトリックの教えが染み渡り、チャペルの鐘が鳴り響く。女子生徒は楚々として美しく、男子生徒は凛々しく逞しい。勉学に勤しみ、友情を育み、異性を知らぬ純朴な少年少女たち。
穏やかな四季の中で彼らは成長し、巣立っていく。美しい青春の日々と、優しい讃美歌に見送られて。
それは時がたち、いつの世になっても変わらないと信じられていた――――。
野獣が、目覚めた。
始まりは銃声。体育祭プログラムナンバー1、二百メートル障害物競走に鳴り響いた、スタートの空砲が、乙女の身の内に眠る悪鬼を呼び覚ましたのだ。
雲一つない青空に響く乾いた音。同時に響き渡る猛り声。
そして、惨劇の幕が上がる。
○
佐藤は取るものも取りあえず、必死で争いの中心から逃れてきた。
障害物競走は地獄絵図であった。もはや人とは認めることのできない、女子生徒用の体操服を着た何かが荒れ狂う。たった二百メートルの距離を走り終えることができた存在はなく、累々と積み重なる獣たちの肉体だけが生々しい。障害として並べられていたハードルは吹き飛ばされ、保護者席に突き刺さる。審判として立っていた体育教師は、争いの渦中で姿も見えなくなった。
恐れ逃げ出す人々に紛れ、佐藤も応援席を立った。だが、グラウンドを抜けようと流れる人の波に飲まれる間際、彼は見てしまった。
屍にあふれかえったグラウンドに、プログラムナンバー2、玉入れの用意をする野獣の姿を――。
ようやく足を止めることができたのは、裏門近くの校舎裏。ちょうど改修を終えたばかりの図書館の前であった。裏門に向けて開け放たれた窓からは、真新しいペンキのにおいが漂ってくる。
図書館を何気なく覗き込みながら、佐藤はふと思い出した。
この図書館もまた、野獣たちに襲われたこと。そしてその瞬間を、桜井悠里という少女とともに見届けたことを。
すでにカトリックの教えは廃れ、神を知らぬ佐藤であるが、あれこそが悪魔であると確信する。チャペルが崩壊した日から、この学園は神の手を離れた。セーラー服に隠れた悪魔の跋扈する、魔境となってしまったのだ。
「…………そういえば、桜井さんは?」
同じく体育祭に参加していた、桜井悠里の姿がないことに佐藤は気づいた。
慌ただしく逃げ始めた人々の中にあって、確認する暇もなかった。
きっと、四方八方に散った学生たちの中に紛れているはずだ。裏門ではなく正門か、あるいは別の場所からか、無事に逃げおおせたに違いない。そう思っても、不安は拭いきれなかった。
どこか異様な女子生徒の中にあって、数少ない少女らしい少女。強くなりたいと泣いていた彼女を、いつしか佐藤は守りたいと思うようになっていた。
――桜井さん……!
我先に裏門に逃げる人々の姿を一瞥すると、佐藤は強く前を見据え、再びグラウンドに向かって駆けだした。
○
争いの中にあって、そこには不思議な静寂が満ちていた。
グラウンドに倒れ伏す数多の雌。戦いを続ける残党も随分と数を減らした。プログラムナンバー17、借り物競争によって学園のほぼすべては狩り尽くされ、校舎は見る影もない。放送席に風が吹き込み、ざあざあとスピーカー越しに不快な音を響かせる。
だが、静かだと珠子は思った。
空に舞うは土煙。美ーストの仲間もほとんどやられた。それはアラハン女子会や漢組、あるいはぼっち(複数)の手によるものでもあり――目の前の、御堂可憐によるものでもあった。
「……たった一人で、よくぞここまで」
珠子は素直な称賛を可憐に向けた。珠子の目に映る可憐は、返り血に体操服を汚してはいるものの、無傷であるようだった。
深く腰を落とし、隙のない構えを崩さぬままに、可憐は口の端を曲げる。
「やっぱり、最後は貴様だったか、東雲珠子」
プログラムナンバー21、クラス対抗リレー。体育祭の花形であり、トリであるこの種目までに、グラウンド中央で立ち続けたのは二人――御堂可憐と、東雲珠子のみだった。
他の雌は二人の間合いに入ることができない。あるいは遠巻きに眺め、あるいは二人以外の残党を狙う。
もはやクラス対抗リレーに人の数は足りぬ。ゆえにこの勝負、最後まで立っていた者の勝利だ。周囲を取り巻く者たちは珠子と可憐の相打ちを期待し、おのれ以外の雌を排除しようとしていた。
「最初に貴様を見た時から、こうなるような気がしていた。私の婚活において、敵となるのはただ一人」
「……光栄なことだ。お前の婚活に対する姿勢、私は尊敬する」
「ハッ」
可憐は吐き捨てるように言った。
「女の尊敬など不要。私が欲しいのはあくまでも男! 私の我が儘を聞き、愛し尽くし、そして時には獣のように襲い掛かる王子だ!」
「お前は歪まない。真っ直ぐで純粋な乙女心、ただ前を見据えたまま突き進むその雌姿、見事だ。お前と対峙できたことを、私は誇りに思う」
「いいからとっととかかってこいよ」
臨戦態勢のまま、可憐は手を珠子に向け、挑発するように指を曲げる。一貫して変わらぬ可憐のその在り方に感嘆の息を吐くと、珠子は頷いた。
奇しくも二人は同じクラス。もしもこの世界が乙女ゲームの世界でさえなければ、争わずに協力し、体育祭優勝の名誉を分かち合うことができたのかもしれない。もしも完全に個別ルートが分かれた乙女ゲームであれば、二人は友になれたかもしれない。
――いや、このときこの瞬間、二人は確かに強敵であった。
「この乙女ゲームは紛れもなく現実」
息を吸い、全身の筋肉を震わせる。体操服などはとうに破り捨てられ、裸の筋肉が盛り上がる。清純さを表す、ささやかなレースをあしらった白い下着のみが、珠子の身に着けるすべてであった。
果たしてここに異性がいたのであれば、思わず恥じらい目を逸らすだろう。だが、この場に立つは二つの雌のみ。
「攻略で得た男は紛れもなく真実」
可憐はさらに腰を深く落とし、地面に拳を当てる。空気が張り詰め、可憐の鋭い眼光が周囲を威喝した。
「婚活は遊びではない」
「乙女の執念は遊びではない」
交わすともなしに交わされる言葉は、静寂の中にあって、重く響いた。緊迫の瞬間。二人の視線が交わされる。
風が止み、土煙が消えた。西に傾いた太陽が、騒乱の学園を照らす。逃げ惑う人々、崩れ落ちる学園、呼吸の音さえ、すべてが消え果たかと思われた。
だが、それも一瞬のこと。
「――――乙女ゲームはッ!!」
珠子が叫ぶ。
「遊びではないッ!!」
可憐が吠える。
空気を引き裂き、二つの雌が衝突する。
可憐の鋭く真っ直ぐな拳が。珠子の重たく揺るぎない拳が。大地を揺らし、風を巻き起こし、天をも穿つ。
○
校庭の脇、植えられた銀杏の木の下で、佐藤は桜井悠里の姿を見つけた。ちょうど争いの輪から逸れ、人目に付きにくい場所に倒れていたのだ。
慌てて駆け寄り、佐藤は悠里の呼吸を確認する。どうやら意識を失っているだけらしく、穏やかに上下する胸を見て、安堵の息を吐いた。周囲に人の気配もなく、気絶したきり、悠里が争いに巻き込まれることもなかったらしい。
もしかしたら、気絶した悠里を誰かがここまで運んでくれたのかもしれない、と佐藤は思った。
「桜井さん」
佐藤は軽く悠里の肩を叩いた。
「大丈夫、桜井さん」
以前にも、似たようなことを言った記憶があった。図書館で倒れた悠里を見つけた日――佐藤にとっては、あの日が一つの始まりの日であった。
だが、回想を巡らせかけた時、佐藤は静寂に気づいた。まるで世界が息をひそめるように、すべてが沈黙した。葉のこすれる音もない。風はなく、野獣のように吠える雌さえも手を止めた。
そして響いた。脳天を突き抜ける、地鳴りのような声。何もかもを打ち砕く咆哮。慌てて佐藤は耳を押さえるが意味があったのかどうかは知れない。
「…………乙女ゲームは、遊びではない」
押さえた耳の隙間から、かすれた声が侵入する。驚き目をやれば、意識を取り戻した悠里が呆けたように口を開いていた。
「可憐さん……」
「さ、桜井さん? 乙女ゲームって……? い、いや、大丈夫?」
悠里は焦点の合わない瞳で佐藤を見る。数度か瞬き、ゆっくりと我に返って行ったようだ。片手で頭を押さえ、一際激しい戦闘が続くグラウンドを見やった。
「大丈夫、可憐さんが……」
「可憐……御堂さん?」
「可憐さんが助けてくれた。ついて行こうとするあたしに……お前には無理だって……」
悠里の目の端に、涙が浮かんでいることに佐藤は気づいた。悠里自身は気づいていないらしく、佐藤から目を逸らすと、土煙にあれるグラウンドを見据える。瞬きもせずに。
「こうなるって、きっと可憐さんはわかってたんだ。あたしがあの戦いの中で、きっと無事じゃすまなかったということも……」
「桜井さん……」
「あたし、強くなりたい」
大地が揺れ、なにかが崩れる音が響いた。校舎のどこかが崩れたのだろうか。悠里は微動だにしなかった。
「強くなりたい」
「……それって、その、守りたい人のため?」
ためらいがちに尋ねた佐藤に、悠里は長い間黙っていた。辛抱強く待っていると、しばらくして悠里は緩く首を振る。
「あたし自身のため」
涙の溢れる悠里の瞳を、佐藤は見つめた。
きっと彼女の視線の先にいるのは、大切な人なのだろう。追いかけていきたいのだろう。強くなりたいと唇を噛む彼女の姿は、佐藤には弱いものとは思えなかった。
一際大きな地響きがした。見れば校舎の壁に、深く大きなひびが入っている。グラウンドに潜む何者かの仕業か、それとも別の誰かの仕業か、佐藤にはわからなかった。晴れることのない土煙が、まるで真実を覆い隠そうとしているようだった。
大地の震動は止むことがない。振動に合わせて校舎はぱらぱらとコンクリートの破片を散らし、少しずつひび割れを大きくしているようだった。
学園の崩壊だ。佐藤は悟った。きっともう、二度とこの学園に足を踏み入れることはできなくなる。悠里と、クラスで顔を合わせることも――。
「……桜井さん、僕は」
佐藤はためらう口を無理やりに開いた。強くなりたい、と悠里は言う。いつだったか、佐藤自身もまた、強くなりたいと望んだことがあった。
――強くなる時は、今だ。
「桜井さん」
佐藤は手を伸ばす。隣に座りこむ悠里の、少し土に汚れた手に触れる。
「僕は、桜井さんと強くなりたい」
二人の手が握り合わさった瞬間、轟音が響く。
耳が痛いほどの音、重たく崩れ落ちる音。そして幻のように聞こえた、二つの雌の猛り声。その中にあって不思議なくらい鮮明に感じる、悠里の手の熱。
悠里の手の肌は乾き、年頃にしてはやや硬くて傷ついていて――だけど、確かに少女のものだった。
秋空の下、土煙に紛れて崩れ落ちる学園の最後の姿を、佐藤と悠里は見た。




