力を欲す者
「悪いけど、……お前のことずっと、友達としか思ってなかったから」
なんて言われたのがあたしの最後の失恋だった。
ふっざけんな! お前は友達だからって二人っきりで部屋に入れるのか!
どう考えても据え膳だったのに手出ししなかったのは、友達だったから? こっちはさばかれて盛り付けられる段階まで来て、あと醤油だけって状態で部屋に上がったんだ、こんちくしょうめ!!
なんて怒り狂って帰路についたのが最後の記憶だった。
享年ニ十七歳。男友達は多いものの、一度も恋は実らずに現世を去った。
ことごとくフラれてきたあたしの人生は、自分で言うのもなんだけどかなり哀れだ。告白回数は二ケタを超えるけど、全部が全部友達だからとフラれた。
ねえ、あたしになにか問題でもあったの!?
だから生まれ変わってやったんだ。
哀れなあたしを救うために。あたしをフった男たちを見返すくらい、いい男を手に入れるために。
この、乙女ゲームの世界に――――!
○
入学式、チャペルで出会うのはこのゲームにおけるメインヒーロー。
透き通るような蜂蜜色の髪に、どこか眠たげな瞳。無意識の色香をばらまく彼は、天然系の王道美少年だ。
サボり癖があると思われがちだが、実は過去のトラウマから大の女性恐怖症で、女性と顔を合わせないように逃げ回っている。入学式にチャペルにいるのも本当は尻込みしたからなのだが、ふと迷い込んできた主人公に対して、つい意地を張ってしまう――。
初対面は最悪。だけど次第に仲良くなり、ともにトラウマを乗り越えていく。なんていうのが、彼のストーリーだった。
前世にやりこんだゲームの設定を復唱し、あたしは意気込んでチャペルに向かった。
もしかしたらすでに、ゲーム主人公がヒーローと接触しているかもしれない。だけど、そのときはそのときだ。
主人公が先に来ていたら、今度は彼女と仲良くなってのコバンザメ作戦に移行するつもりだ。主人公が攻略できるキャラクターは、一度の学園生活で一人だけ。
……それならもしかして、あぶれたヒーローのおこぼれにあずかれるかもしれない、なんて。
いやいや、別に主人公の座を乗っ取ろうなんて考えているわけじゃない。
ただちょっと。ほんのちょっと主人公よりもパラメータを磨いて、前世の知識で的確な受け答えをして、ちょっと主人公よりも攻略相手たちと仲良くなれば。
あわよくば? あわよくば!
あーあー、困っちゃうなあ。別にあたしは何人もとフラグを立てたいわけじゃないのに!
あたしはちっとも、主人公に成り代わりたいわけじゃないのに!
――打算的? ふん、結構!
あたしは聖人君子などではなく、見栄のはれる男を手に入れるためにわざわざ生まれ変わってきたんだから!
○
チャペルは地獄絵図だった。
呆然とチャペルを眺める少女の横で、あたしもまた同じ表情をしていた。この隣の少女が、本当のゲーム主人公だとも気がつかずに……。
聞こえてくるのは猛る獣たちの、甲高くも地を震わす唸り声だ。
木々を揺らし、鳥は飛び立ち、虫たちが跳ね回る。ときどき聞こえてくる悲鳴は、果たして人間のものなのか、それとも別のものなのか、あたしにはわからなかった。
ただ、目に焼き付いた雌の群れ。一匹一匹の目に宿る確かな殺意が、脳裏に焼き付いて離れない。
初対面イベントを求め、扉から、窓から、ステンドグラスから。果ては大地を掘り進み、あるいは天井を破り――。
セーラー服を着た野獣の群れの手によって、チャペルは今まさに崩壊しようとしていた。
「ああ……」
あたしは膝をついた。大好きだったあたしの乙女ゲームの現実は、これほど残酷だった。
思い出のチャペルは、もはや記憶の中にしか残っていない。
○
乙女ゲー界の三大ショタ野獣。
そんな通称を持つのは攻略対象の一人、年下風王子様イケメン社長令息の設定を持つ先輩キャラだ。栗毛色の子供みたいな美少年だけど、実はゲーム内屈指の際どいエロルートの持ち主でもある。
ギャップ萌えというのか、これでもメインヒーローに次いで人気があるらしい。
正直子供は好みではないけれど、社長令息という属性に負けて美術室へ向かえばこの有様。
美術室に続く廊下は世紀末だった。
力こそが全てを支配し、弱き者は地に伏すさだめ。セーラー服を破り捨て、野獣たちが自らを誇示するように筋肉を膨らませ、拳を振るう。骨のきしむ音と、血のしぶき。
美と静寂を愛するショタ王子の美術室が、文化を知らない野蛮な暴力に屈する瞬間を見た。
あたしは……私は、ただ見ていることしかできなかった。
○
スポーツ万能、陽気なクラスメート。彼との運命の出会いは下校時、商店街で起こる。
活発な彼は意外なことに、洋菓子店の跡取り息子だ。小さな商店街の一角に構えられたその店には、放課後、彼の明朗な声が響いている。
運動部も通い、店の手伝いもこなす陽気な彼にも、悩みがある。スポーツ推薦で大学を狙いたいのだが、両親は調理の専門学校を勧めてくるのだ。彼と仲良くなり、親身に話を聞いてやることが攻略の鍵となる。
そんな彼のルートは人一倍コミカルで楽しくて――。
いや、やめよう。もうこんな解説なんて無意味だ。
洋菓子店は狩り尽くされていた。
すでに壊滅状態にある店から出てくるのは、セーラー服を着てケーキを鷲掴みにする――人の形をした何かだ。
私にはどうしても、あれらを人と認めることができないでいた。
○
攻略キャラの一人に、ヒロインの幼馴染がいる。
勉強ばかりができるが意地悪で冷徹、だけど本当は誰よりも繊細なヒーロー。彼との出会いは、ヒロインの帰宅後だった。ゲーム開始初日に接触できるキャラクターとしては、彼が最後だった。
洋菓子店の惨状を一目見て、私はすぐに彼の元へと向かった。嫌な予感――否、確信があった。彼にもまた、時をおかずに不幸が訪れるはずだ。
たとえ私に何ができずとも、忠告くらいはしなくてはならない。被害を最小限に収めたい。
聖人君子ではないはずの私に、そんな正義感が芽生えたのは、やはり生前このゲームを好きだったからだろう。
これ以上汚されたくない。前世で彼氏のいない私を慰めてくれた、思い出のゲームを……。
○
夕闇に立つ彼の家は、静寂に包まれていた。家の前を通る人の影はない。獣の咆哮も、荒々しい戦闘の音も聞こえない。セーラー服の悪夢は、まだ彼の前には現れていないのだ。
ほっと息をつき、私は彼の平凡な、しかし小奇麗な一軒家に駆け寄る。
だが、インターフォンを鳴らそうと、家の門の前に立った時だった。
「きみ」
肩を叩かれた。私は凍りついた。瞬間、脳裏に巡ったのは野獣たちの姿だった。
息をのみ、恐る恐る自らの肩を見る。私の肩を掴む、少し大きな手。ゆっくりとその指先を辿って行けば、私は安堵の息を吐く。
そこにいたのは、学生服を着た男子生徒だった。顔に見覚えはないが、皺一つない学生服に、まだ幼さの残る顔立ちから、私と同じく新入生だっただろうと予想する。
「この家に何か用?」
男子生徒は穏やかに言った。
「……えっと」
「どうしたの?」
私は言葉に詰まった。まさか、ここが乙女ゲームの世界であり、彼の命――貞操が狙われているなど、どうして言えるだろう。逃げてほしいという気持ちばかりで、随分先走っていたようだ。
軽く首を振ると、私は苦笑した。なんでもない、と答えようとした矢先だった。
「抜け駆けしようとした、なんてさすがに言えないか」
肩に痛みが走る。驚いて目の前の男子生徒を見やれば、彼は口を曲げて笑っていた。くくく、と彼の笑い声が響く。
その瞳には、あの野獣たちと同じ――人を逸脱した雌の光が宿っていた。
「一人で攻略対象に接しようなんていい度胸だなあ?」
瞬く私に、男子生徒は続けた。
「あれは私たちの獲物だ」
「……な、なによ」
「横取りはぁああああ」
男子生徒は息を吸い込んだ。
「万死に値するッ!!」
その声が鳴り響いたとき、私は周囲を取り囲む暗い影に気がついた。
黒い学生服をまとった、男子生徒の集団だ。誰も彼も、野獣の目をしている。
「この先にいる幼馴染の性悪眼鏡! あれは私たち、乙女連合漢組がいただく!!!」
「な……っ!?」
私は目を見開いた。肩を掴む男子生徒の腕を振り払い、後ずさる。が、逃げ場はない。
「なによ、あんたたち……男じゃない! それなのに……!?」
疑問を投げかけようとして、私は途中で言葉を切った。代わりに出たのは「まさか」という一言だった。
性悪眼鏡は、幼馴染の特徴である。作中屈指の高身長で、顔立ちにどこか鋭さのある美男子。口が悪くて態度も悪く、いつも偉そうに振る舞うその姿。実はメインヒーローとは友人関係にあり、彼の天然さと図太さに振り回されている。
この要素、一部ファン層に絶大なニーズを誇っていたのだ。
「男でも構わない!」
男子生徒の一人が叫んだ。
「むしろ男がいい!!」
それに合わせて、別の男子生徒が叫ぶ。それは確かに、低い男の声であった。
「我ら、乙女連合腐女子組! 改めッ!」
「乙女連合漢組!!」
「性悪眼鏡は渡さんッ!!」
歓声と熱狂が渦を巻く。私は取り囲まれたまま、もはや処刑を待つのみだった。
幾多の雌雄入り混じる眼光を受けながら、私は目を閉じた。万事休す、もはやこれまで。
――次に生まれ変わるときは、乙女ゲーム以外の世界がいい。
だが、処刑の瞬間は訪れない。
代わりに、ざわざわとした動揺と、別の気配。なにか圧倒的なものが、ゆっくりと進行してくる恐怖があった。
「性悪眼鏡を狙うのはあんたたちだけじゃない」
甲高い女の声だ。あたりを見回せば、戸惑いながら一点を見つめる漢組の姿がある。
反射的に視線の先を追えば、路地の向こうからやってくる、セーラー服の女子集団。
「ひよっこどもは引っ込んでな! ここは年寄り優先だ!」
「処女歴半世紀以下など所詮は赤子! 生きる苦痛も男への渇望も、あんたらのなんて赤ん坊がおもちゃを欲しがるようなものさ!」
「性悪眼鏡はァ!」
「我らアラハン女子会がいただく!!」
一喝するのは見た目こそ女子高生。しかし老練したその顔に、若さはない。
漢組が私への囲いを崩し、アラハン女子会の攻撃に備える。隙をついて逃げ出そうと、反対の路地へ出ると、しかしそこにもまだ刺客はいた。
「待ちな」
立っていたのはメスゴリラだった。一匹の巨大なメスゴリラを先頭に、背後に何人ものゴリラが立ち並んでいる。動物園から脱走したのかと考えたが、それにしては格好が妙だ。セーラー服に似た何かを着ている。
「醜い軟弱者たちに愛すべき男は守れない。乙女に必要なのは、力と美! ヒーローのすべては、我々アフリカン美ーストに任せていただこう!」
ゴリラが鼻を鳴らした時だ。
「ふん、所詮は貴様らも真の孤独を知らぬ女どもよ」
「何者!」
「真の孤独とは、女同士でさえもつるむことのできない人間のこと」
鳴り響く声は、電子の音声だった。抑揚のない声の由来を辿れば、ブロック塀の上に立つ一人の少女の姿がある。手にはノートパソコン。そこから音声を再生しているらしかった。
「前世から人見知り。せめて現世、ネット上ではと転生者を集め、ぼっち同盟を組んだはいいものの、オフ会スレを立てても参加者ゼロ! ゆえに同盟は即日解散。潜在的なぼっちがなんとなく集団になった、ぼっち同盟、改めぼっち(複数)! 哀れな私たちには三次元の男の癒しが必要なのだ!!」
モニターに映るのは、仕事を選ばないことで有名なツインテールだった。歌いもせずに出てくる滑らかな声には驚嘆を覚えるが、今はそれどころではない。
ぼっちの潜在数は、もてない女たちの中でもトップクラスなのだ。電柱の影から、塀の影から、隣の家のベランダから――ゆっくりと姿を現すぼっち(複数)の影は増え続ける。その圧倒的な物量に、力を誇示する美ーストさえもたじろいだ。
四つの勢力は一触即発。前後左右に逃げ場はなく、私は諦観の念を抱き始めてさえいた。
我が身はここで朽ち果てる。死して屍拾うものなし。男に欲など出したことがそもそもの間違いだったのだ。
前世、恋をした。失恋するまでは、例え友人であっても幸福な時を過ごした。それだけで良かったのだ。
今はただ、己の浅はかさと、気付けなかった幸福の大きさに打ちのめされるばかり。
悔いることがあるとすれば、前世で一番好きだった幼馴染の彼を救えなかったこと。我が瞳はもう一度だけ彼の家のシルエットを映した。
――次の瞬間、女の意地を賭けた戦いが始まった。
漢組の最中にある我が肉体は巻き込まれ、潰えるかのように思われた。
「……やれやれ。どうしてこうも弱い女というものは群れたがるのか」
間近で聞こえたその声に、我が命の無事を知る。見れば、この身を抱える一人の女の姿。柔らかい頬に、真新しいセーラー服。だが、その白い布地は血に汚れている。
しばし眺めて、それがチャペルで見た女であると気が付く。チャペルに真っ先に乗り込み、そして返り血とともに最後まで立っていた女だ。
「群れたところで男は一人。そんなこともわからないものか。前世でいったい何を学んできたというのだ。なあ?」
女に呼び掛けられ、瞬く。改めて我が身の置かれた状況を確かめるに、どうやら騒乱の輪の外にあるらしい。彼の家から少し離れた電柱の陰に、女は我が肉体を置いた。強い獣のみが持ち得る、弱者への労りであろう。守ってくれたのだと悟る。
「ありがとうございます。……あなたは、いったい」
「……御堂可憐だ。覚えておいて損はない――敵に回してはいけない女として、な」
そう言って、可憐は容姿に見合わず豪快に笑った。強者の傲慢と余裕である。
「さて、私は行く。今世こそ男を得なくてはならない」
可憐はこちらから目を逸らすと、戦いの渦中にある惨状を睨んだ。そして、無意識にか舌なめずりをする。その瞳は紛れもなく、狩りをする雌ライオンのものだった。
「婚活の始まりだ」
飛び込んでいく可憐を見送り、我は肉体を電柱に預けた。もはやあの渦に飛び込む体力も、心意気さえ失われていた。
我、聖人君子に非ず。
だが、欲望に身を任せ切ることもまた、敵わず。
かつて愛した男の家が陥落する様を、ただ眺めるしかない己の無力さに滂沱の涙を流すのみ。
あわよくば、などは最早愚かな須臾の夢。
今はただ、強くなりたい。