美を求める者
外見はメスゴリラ。
しかしてその内面は凶暴なメスゴリラ。
ついたあだ名はメスゴリラ。
人と言うよりはゴリラに近い。そんな種族の違いを超えて、愛してくれる男がどれほどいようか。
いっそ相手はオスゴリラでも構わないと血迷って動物園へと赴けば、そこでもゴリラに唾を吐きかけられる始末。慌てて出てきた飼育員の中年男性に頭を下げられ言葉を交わしたことが、彼女にとって唯一と言っていい、肉親以外の男性との穏やかな交流であった。
あるいは高望みしなければ、あるいは年下王子様系イケメン年収一千万の理想を抱かなければ、あるいは王子様系とゴリラの中間に位置する男たちに目を向ければ、彼女の運命も変わっていたかもしれない。
だが、見果てぬ夢を追うこともまた喪女の宿業。
喪女だから夢を追ってしまうのか、夢を追うから喪女となってしまうのか。神のみぞ知るその運命に翻弄され、彼女は乙女ゲームの年下王子様系にのめりこんでいった。
――生まれついたときから逃れることのできない、自らの容貌を呪いながら。
人には時として、自らの力ではどうすることもできない壁がある。
享年四十七歳。前世の彼女は不遇であった。
○
神の手により、乙女ゲーム世界に転生して十五年。
生まれ変わった彼女は美しかった。
細い体、柔らかな頬、繊細さを感じる顔立ち。前世の記憶を取り戻して以来、彼女はその容姿を維持し、磨きをかけることだけに心血を注いできた。
食事を制限し、規則正しい生活を心がけ、最低限の運動をする。少しばかり痩せすぎているきらいはあるが、それは前世での肉厚な体型への、無意識の恐怖であるだろう。
彼女が美しさを磨く理由はただ一つ。
彼女の転生した乙女ゲーム世界にいるはずの、年下風王子様系社長令息を射止めるためである。
乙女ゲーム世界で可視化するようになった、自らの美のパラメータを見て、彼女はうっとりとする。
前世では得ることのできなかった快感。美という文字の横に伸びる、青く長いバー。
世のすべては美貌に起因する。前世が不遇であったことも、年下王子様系イケメン年収一千万優しくて尽くすタイプを得られなかったことも、果てはオスゴリラに振られたことさえ、あの容貌が悪かったのだ。
美しさ、それだけが彼女の支えとなる。前世を呪いながら、彼女は今世での美の恩恵を存分に感じていた。
ゲームの舞台となる高校に入学した日、ちょうど彼女の美しさはカンストした。
○
年下風王子様イケメン社長令息は、攻略対象の一人である。
高校三年の先輩キャラでありながら、その顔は童顔、背は低く、言動は子供のようである。しかし時々不意に見せる大人の表情と際どい発言に、いつしかこう呼ばれるようになった。
――乙女ゲー界の三大ショタ野獣、と。
グループ会社の跡取りでもある彼を攻略するためには、金持ちたちの社交界に認められるだけの美貌パラメータが必要だった。
一定の美しさを超えた時点から、年下風王子様イケメン社長令息との交流が開始され、美貌が上がるにつれて、彼の実家、親族に紹介、社交界への出席とステップアップしていく。
今の彼女であれば、すぐにでも社交界への出席が可能だった。初対面即社交界。そして結婚へ。
そんな野望を抱きつつ、攻略対象との出会いの場である、放課後の美術室へと彼女は向かった。
○
はやる気持ちを抑えきれず、階段を駆け下りる。美術室は一階の突き当り。学園の端にひっそりと存在するそこに、憧れの王子が夕陽の中、ひっそりと佇んでいるはずだった。
走った際に乱れた髪は、慌てて手でなおす。パラメータを見れば、カンストした美貌には些細な変化もない。
ほっと息をつき、再び美術室を目指す彼女は、まさに美に溺れていた。
階段を下り切り、美術室へ続く一階の廊下に立った時、彼女は異常に気がついた。
人気のない廊下。リノリウムの床が長く伸び、右手には窓、左手には教室の扉が並ぶ、静けさに満ちた放課後の学園の姿――の、はずだ。
しかし何かがおかしい。本能的に感じる敵意が、一階の廊下を満たしているのだ。息をのみ、耳を澄ませば聞こえてくるのは、押し殺した何者かの息遣い。それも、一人や二人ではない。
――誰だ……誰がいるというのだ……!?
無意識に冷や汗が流れ、床に落ちた。目は油断なく辺りを探るが、誰の姿も認められない。
――敵、か?
聞いたことがあった。自分以外の乙女ゲーム転生者の噂。入学式の最中に起きたチャペル襲撃事件の話題に飛び交う、「転生」「生まれ変わり」のキーワード。別の攻略対象だからと油断をしていたが、奴らはこちらにも手を回してきたのだろうか。
――いや、だが、私が負けるはずがない。
彼女はもう一度、パラメータを確認した。左端から伸び、右端に届いた青いバーに満足する。恐れるものは何もない。そう考え、彼女は一歩を踏み出した。
「待てぇいッ!」
突然、廊下の窓ガラスが割れた。ガラス片をまき散らしながら飛び込んでくるのは、セーラー服を着たメスゴリラだった。
「待てぇえええい!!」
一人の登場に呼応するように、教室の扉も一斉に破られる。荒々しい音を立て、引き戸を引きちぎって現れるのもまた、メスゴリラの群れであった。
「王子様は渡さん!」
はじめに現れたメスゴリラが叫ぶ。
「三大ショタ野獣の一人を手に入れられるのは! この戦いに勝利したもののみ!!」
「おおおおおお!!」
「欲しければ力づくで奪え! 最後にこの廊下に残ったものが、美術室へ行く権利を得られるのだッ!!」
「うおおおおおおおおおお!!!!」
ゴリラたちの咆哮が響く。それを皮切りに始まったのは、地獄絵図であった。
肉と肉のぶつかり合い。遠慮を知らぬ野獣たちの、本気の戦い。キャットファイトなど生ぬるい。
これはまさに、メスゴリラたちの雄を巡る争いであった。
目を見張る彼女を、いつの間にか三匹のゴリラが取り囲んでいた。真新しいセーラー服は盛り上がった筋肉に合わせて形を変え、肉厚な太ももに、窮屈なスカートは伸びきっている。
「貴様もショタ野獣を狙っているのか」
ゴリラの一人が言った。彼女は瞬き、束の間言葉を失う。迂闊な言動は、即座に死につながるだろう。
黙って否定するべきだった。このまま何ごともなかったかのように戻るべきだった。彼女の細くか弱い肉体が、この争いに巻き込まれて無事なはずはないのだ。
だが……だが、理想の王子を求めて続けてきたたゆまぬ努力が、彼女の口を閉ざしはしなかった。
「…………彼には、美貌パラメータが必要なはず」
彼女のささやかな声に、ゴリラは眉を潜めた。
「私ほど、彼にふさわしい人はいない! 私の美貌はカンストしている! 腕力で決めるなどばかげている、彼は美しい人が好きなはずだ!!」
乙女ゲーム。それは恋の駆け引き。
力づくで挑んでも手に入らないのが男なのだ。彼女はそう記憶していた。
「美貌か」
ゴリラは、しかしそんな彼女に憐みの目を向けた。
「美貌なら、我々全員がカンストしている」
「……なっ!?」
彼女は目を剥いた。ゴリラ然とした筋肉と、たくましい顔つきを一瞥してから、可視化した相手のパラメータを読む。
ゴリラの横に浮かんだいくつものパラメータ。知力、体力、運などが並んだその中に、一際長い青いバーを見つけ、彼女は叫んだ。
「カンストしている!? な、なぜっ!」
美の文字の横には、彼女と同様、左端から右端まで満たしたバー。彼女が必死に保ち続けてきた細い体、繊細な面立ち、手入れに手入れを重ねてきた肌と髪。
それと同じだけのものを、目の前の肉厚なゴリラは持っているのだ。
「お前たちのなにが美しいというのだ! う、美しさとは私の顔のような――」
「愚か者ッ!」
彼女の言葉を遮り、ゴリラが吠えた。同時に両の拳を握りしめ、厚い胸板を突き出す。
見る間に筋肉が盛り上がり、セーラー服がはかなく破れた。
「美しさとは! 顔のみに非ず!!」
美しい流線型を描く僧帽筋が、三角筋が、上腕二頭筋が露わになる。白く清楚な下着に隠された、乙女の胸筋が覗く。
「この肉体美! 体の内から薫る健康の美! 無駄のない実用的な美!! それこそが真の美しさなのだ!! 肉を食わず、痩せ衰えるばかりの美など、所詮は紛い物ッ!!」
咆哮とともに、ゴリラたちは一斉に筋肉を揺らした。ピクピクと跳ねる筋肉の振動は、まさに生命の美を体現していた。
競走馬の躍動が美しいように、彼女たちもまた、確かに――――そして圧倒的に美しかった。
「あ……」
彼女は声にならない声を上げた。足から力が抜けていく。
気がついたときには、床に膝をついていた。廊下の冷たさが膝から染み渡る。
彼女の脳裏にあるのは、前世で呪った自らの姿。その、健康の美と、それを知らぬままに死んだ己の愚かしさであった。
「わ、私は……見た目ばかりにとらわれて……」
醜かったのは己の内面。たとえ外面がメスゴリラであったとしても、そこに悲観しなければオスゴリラの愛を乞うような真似をせずにすんだのかもしれない。
思えば、愛し愛される人を得ることに容姿が無縁であるということは、彼女の両親こそが証明していたのだ。
「……外面を磨くこともまた、努力」
ゴリラの一人が、筋肉を収縮させながら労りの念を込めて言った。
「ただ少し、方向を間違えただけだ。そこに気がつけたのであれば、貴様はもっと強くなれる」
「……あなたは」
彼女は顔を上げ、ゴリラの顔を見た。
無駄なく引き締まった逞しいその顔。強さと優しさの宿る瞳。その姿を、彼女は忘れまいと誓った。
「あなたの……お名前は」
「東雲珠子、いずれこの学園の王子を手に入れる女だ」
珠子はそう言ってにやりと笑った。――次の瞬間、両脇のゴリラが同時に、彼女の顔面に向けて拳を振り上げる。
「王子様は! 私のものだぁああああ!!」
隣に立つ者も、けっして仲間などではない。隙を見せれば潰されるのだ。突然の、しかし当然の強行に彼女は目を閉じた。
しかし、目を開けた時に立っていたのは珠子だった。二匹のゴリラは床に昏倒している。
珠子は荒い息を吐き出すと、彼女にもう一度目をやった。
「戦う気がないのなら、ここを去った方がいい。私は戦意のない者に手を出さないが、他の人間もそうとは限らない」
こくこくと頷く彼女の姿を認めると、珠子は逃げるようにと軽く顎をしゃくった。
それから彼女に背を向け、乱闘の続く廊下に向けて駆けていく。
「社長夫人はッ! 私のものだあァアッ!!!」
○
膝をついたまま、彼女はしかし、逃げなかった。争いの終結を見届けるためだ。
この屈辱を忘れないためだ。
「……やってやろうじゃないの」
強い光が、美しい彼女の瞳に煌めく。今度こそ、本当に美しくなる。過去に卑下した自分よりも、見た目ばかりに囚われていた自分よりも。
そして、必ず年下王子様系イケメン年収一千万優しくて尽くすタイプ義理の両親との同居はNGを手に入れるのだ。
学園生活はまだ始まったばかり。
まっすぐに争いを見つめる彼女は、けっして敗北者などではなかった。