海馬照 誕生
少年は名前を尋ねられた。親に捨てられた時、実の名前は捨てた。血筋を否定したのだ。それから少年は自分自身で自分に名前をつけなければならなかった。少年は自ら「テン」と名乗った。最初に大人に名前を聞かれた時、貂がちょうど脇のあぜ道を通った。茶色く、胸の辺りが小さな貂だった。とっさに思いついて、テンと答えた。大人は変わった名前だな、と言った。それからスルメをくれた。少年はこの大人がもっと食べ物をくれるかもしれぬと思い、ついていこうとした。だが、大人は怒鳴った。ついてくるでない。テンは泣くふりをした。こうすれば同情心をひけると知っていた。大人は子供の涙に弱いのだ。成功したが、大人は決してテンを家に連れていこうとはしなかった。申し訳なさそうにスルメをくれた。テンは、涙の力を知った。
月日が流れ、涙を使う方法は利き目がなくなっていった。大きくなるとともに、テンはそう学んだ。それから、今度は頼みこんで食料をもらった。時たま、働く代わりに食べ物をもらうこともあった。しかし、用済みになると皆テンを追い払った。可愛がろうにも、テンの中には世間、いや大人に対する憎しみがあった。ふとした会話から、人々はテンに宿る憎しみを知るのだった。
唐朴の翁が少年の名前を聞いた時、「テン」と答えた。ただ、この名前は盗人の烙印が押されたも同然だった。そこで、テンは翁に言った。
「俺はこの名前を使いたくない。本当の名前ではないしな。本当の名前など、とっくに忘れてしまった。爺さん。適当につけてくれ」
翁は、ふむ、と考えこむ。老人は自分が名づけ親になることで責任が生まれるのを恐れた。少年の目を見ると、ただ面倒そうに、こちらを見ていた。この少年はただ他人に名付けて欲しいのだ。そして、気にくわなければ自分で勝手につけるだろう。軽い気持ちで翁は名前を考えた。探し物をみつける名前。老人は大昔に読んだ『天のイルカ』という本を思い出した。主人公は天を泳ぐイルカを探す羽馬 照という少女だった。彼女は多くの苦難の後、天のイルカを見つける。しかし、終わり方は微妙だった。もしかすると、イルカは少女の空想だったということが匂わされた終わり方だった。ただ、テルという名前を気に入った翁は少年に答えた。
「海馬 照という名前はどうかの」
翁の中で少しアレンジをきかせた名前を少年は気に入るだろうか。少年はふてくされたように、それでいい、と言った。名前の由来は聞かなかった。翁も言わなかった。ただ、翁は少年が主人の探しものを見つけてくるように密かに祈った。誰に?もちろん海にだ。
カイマ テル。ぶつぶつと少年は呟くと、よし覚えた!と大声をあげると翁に早く陸にやってくれとせかした。
唐朴の翁はテルのころころ変わる心情に戸惑いながらも、目的を忘れるでないぞ、と言い含めた。テルは、やらないと死ぬんだろ、と言った。海星楽はテルには褒美と恐れ両方で言うことを聞かせるように翁に言いつけていた。翁は無言で、さも恐ろしそうに、そうだ、と言った。そして、どのように貝の毒によって人間が死んでいくか考えつく限りの表現を使って、テルを怖がらせた。手足が腐れて落ちる。信じられない程しびれる頭痛。傷口は決して治らず、うじが常に傷を這う。テルは知らないことが多かったので、わからせるのに、さらに説明を加えなければならなかった。うじって何?という具合にである。テルは心底震え上がったらしく、
「お前たちは自分のことを偉いやつらと言うが、とんでもない悪人だな。俺はこんな悪いやつらの言うことを聞かなければならないのが悔しい」
と怖そうに言った。翁は、ここは甘い顔を見せてはならぬと心を鬼にした。
「そうだ。お主は使命を果たさねば、地の果てまで追いかけて、塩づけにしてしまうぞ」
テルはぼんやりと翁のセリフを聞いていた。そして笑い始めた。翁は自分の嘘がばれたか?と焦った。けれども、思い直した。テルを脅かし過ぎて気を触れさせてしまったかもしれない。翁の予想はどれも違った。テルは笑い終わると、ふっきれたように顔をあげた。
「いいだろう。覚悟は決まった。褒美を忘れるなよ」
翁はほっとした。しかし、テルが何故笑ったかについては翁には謎だった。恐らく永久にわからないだろう。翁は鮫の骨で作られた楽器を取り出すと、思い切り吹いた。キーンという音がして、振動が水を伝わる。少年は翁よりも強く音を感じたらしく、耳を押さえた。翁は楽器を懐にしまった。
「心配するな。波平太を呼んだだけだ。お前を陸地に連れて行ってくれるだろう。さらばだ」
翁が言うと、テルは急に息が苦しくなった。爺さんと叫ぼうとしたが、声が出なかった。翁は心配するなと言ったような気がした。ただ、声は耳にはもう届かなかった。そのままテルは意識を失った。
『龍宮の竪琴を見つけるのだ』薄れゆく意識の中で海星楽の声が遠くから聞こえた。