最初の実習と、止まらない魔法
東都位相工学高専の入学初日は、入学式で終わらない。
午後にはもう、魔法の実習がある。
それは試験というより、学校側が新入生の癖を見るための最初の確認だった。
誰が丁寧に組むか。
誰が力で押し切ろうとするか。
誰が焦ると手順を飛ばすか。
そういうものは、座学より早く実技に出る。
白瀬湊は、第一実習ドームの安全線の外に立ちながら、透明な式盤を片手で持ち直した。
式盤は、この時代の魔法に欠かせない端末だ。
魔法といっても、この世界では願えば勝手に起こるものではない。術式――何をどう変えるかを決めた設計図のようなもの――を組み、それを式盤から起動する。
難しいのは、起動そのものではない。
何を守るか、何を切るか、どこで止めるかを間違えないことだ。
実習ドームの中央には、四メートル四方の白線で囲われた「退避区画」があった。
その中には実習補助役の上級生が三人、黄色いダミー人形が一体、立っている。
その外、白線のすぐ外側に、もう一体だけ黄色いダミー人形が置かれていた。
教師役の立花匡介が、全員に聞こえる声でルールを説明する。
「よく聞け。今日の課題は緊急退避境界の展開だ。白線の内側にいる三名と、赤タグのダミー一体を十秒守れ」
立花は、白線の外にあるもう一体のダミーを指した。
「外の黄タグは評価対象外だ。現場では全部助けたいと思うだろうが、今日は優先順位も評価する」
生徒たちの間に、少しだけざわめきが走る。
湊もそこは理解した。
この実習は、単に壁を出せるかどうかではなく、「どこまでを守ると決めるか」も見ている。
立花はさらに続けた。
「採点は三つだ。
一つ、五秒以内に境界を立ち上げること。
二つ、十秒間、退避区画を維持すること。
三つ、俺の『解除』の合図で三秒以内に安全に畳むこと」
そこで一拍置き、はっきり言った。
「起動できるだけじゃ失格だ。止められる術式だけが術式だ」
今の説明で、その意味は明確だった。
立てること、守ること、そして安全に消せること。
その三つがそろって初めて、この学校では「使える魔法」と見なされる。
安全線の内側には、立花のほかに教員が二人いた。
一人は医療担当で、ドームの出入口脇に待機している。
もう一人は中央制御卓の前に立ち、実習中の術式ログと緊急停止系を監視していた。
新入生たちは半円状に並ばされ、一人ずつ前に出て、操作者用の起動位置で術式を行使する。
退避区画の中にいる三人の上級生は、守られる側を演じる役だ。
つまり、術者は白線の外から白線の内側を守る。
ここまでくれば、初見の生徒にも何をすべきかは分かる。
問題は、その上でどこまで欲張るかだ。
「次、神崎」
呼ばれて前に出たのは神崎灯だった。
救助実技推薦枠。
行使能力が高いと入学前から知られていた新入生。
湊はそういう肩書きにあまり興味がないが、実際の動きを見れば、たしかに普通ではないと分かる。
神崎は起動位置に立つと、式盤に短い入力を入れた。
詠唱は最小限。指先の操作も速い。
術式を一から読むのは無理でも、湊には分かる。
あれは、かなり思い切って行数を削っている。
守る範囲を決め、補強を入れ、停止条件も最低限だけ残す。そういう、速度優先の組み方だ。
透明な境界が、白線の周囲に立ち上がる。
速い。
それだけなら、ただ上手いで終わった。
だが次の瞬間、神崎の視線が、白線の外にある黄タグのダミーへ向いた。
あれも拾う気だ。
湊はそう思った。
白線の外は評価対象外だ。
でも神崎は、白線の縁ぎりぎりまで境界を広げた。
評価外の一体も入れようとしたのだ。
その瞬間、警報音が鳴った。
境界が一度、異様に膨らむ。
そして上から落ちたコンクリ片を弾き返し――外ではなく、内側へ跳ね返した。
「全員、二列退避! 安全線から下がれ!
医療担当、入口固定!
制御卓、外部強制停止は待て!」
立花の声が飛ぶ。
生徒たちが一斉に下がる。
区画の中では、赤みを帯びた境界が脈打つように厚くなっていた。
白線の内側にいた三人の上級生と赤タグのダミー、さらに神崎が無理に入れようとした外側の黄タグダミーまで、中に巻き込まれている。
神崎灯は境界の外にいるはずだった。
だが、広げた瞬間に自分も前へ踏み込み、保持位置が境界のすぐ近くになっていた。
今は片膝をつき、片手を前に出して術式を維持しようとしている。
押さえているのに、境界は薄くならない。
ただ魔法が強すぎる、という感じではない。
湊は安全線の外から壁際の観察モニタへ目を向けた。
そこには、実行中の術式ログが簡略表示されている。
守る。
補強。
危険判定。
守る。
補強。
危険判定。
止める行がない。
つまり、この境界には停止条件が足りていない。
十秒守ったら消える、危険値を超えたら切れる、教師の解除命令で畳む。
そういう「終わり方」が抜けているから、術式はひたすら守ろうとし続ける。
しかも、あの表示形式は古い。
湊は一瞬で気づいた。
第一実習ドームのこの区画、制御系が旧式の公共安全格子だ。
父の整備所にたまに回ってくる、自治体払い下げの避難設備と同じ世代。
旧式の公共安全格子には、癖がある。
停止条件が不完全な術式を流し込まれると、「危険が残っている限り守り続けろ」という側に勝手に寄る。
そして守り続けるための負荷は、術者か設備か空間のどこかに押しつける。
このまま外から乱暴に壊せば、押し返された負荷が神崎灯に返る。
制御卓の教員が緊急停止系を開きかけた時、湊は思わず声を上げていた。
「外から切らないでください!」
何人もの視線が集まる。
立花だけは、すぐ怒鳴らなかった。
「理由を言え!」
「停止条件が抜けてます! しかもこれ、旧式の公共安全格子です!
外から強制停止すると反射が中に返ります!」
「名前!」
「白瀬湊、核式設計科です!」
「できるのか!」
「壊さず抜くなら、三十秒ください!」
内側でコンクリ片がまた境界に当たり、嫌な音を立てた。
立花は一秒だけ迷い、それから制御卓の横に置かれていた補助端末を湊へ投げた。
「補助入力だけだ! 余計なことはするな!」
「はい!」
湊は端末を受け取り、補助卓へ走る。
足りないのは力ではない。
出口だ。
今、中に溜まっている負荷をその場で消すことはできない。
なら、どこか別の場所へ逃がすしかない。
湊はドームの中を見た。
床を走る青い避難誘導線。
出口上の非常マーカー。
壁の退避灯。
古い公共安全格子では、こうした設備同士が薄くつながっていることがある。
普段はただの案内表示だが、緊急時には低出力の補助層として開く。
つまり、境界に溜まった負荷の受け皿にできる。
父の整備所で何度も言われた。
一箇所に抱え込ませるな。逃がし先を先に考えろ。
湊は補助端末に線を引く。
中核の境界は壊さない。
左側だけ補強を薄くする。
そこから床の誘導線と非常マーカーへ、細い逃がし路を一本通す。
「神崎!」
赤い境界の向こうで、神崎が顔を上げた。
「三つ数えたら、左側だけ出力を半分に落として!
全部じゃない、左だけ!」
聞こえているか分からない。
だが神崎は、わずかに視線を寄こした。
「三! 二! 一!――今!」
神崎の左手が少しだけ引かれる。
その瞬間、境界の左側に細い裂け目ができた。
湊はそこへ逃がし路を接続する。
床の青い誘導線が強く光り、出口標識が白く瞬いた。
赤い境界の厚みが、そちらへ滑るように流れていく。
「開いた! 中の三人、右から出せ!」
教師と補助員が飛び込み、区画内の上級生たちを外へ出す。
神崎は最後まで残り、赤タグのダミーと、巻き込んだ黄タグのダミーを押し出してから、自分も外へ出た。
次の瞬間、赤い境界は砕けて消えた。
静かになったドームで、湊は初めて自分の手が震えていることに気づく。
三十秒くれと言ったが、体感では三秒もなかった。
「白瀬」
立花が前に立つ。
叱られる、と湊は思った。
実際、叱られて当然だ。助かったことと、勝手に踏み込んだことは別だ。
だが立花はまず、湊の顔色を見た。
「立てるか」
「……はい」
「後で話を聞く。今は端末から手を離せ」
周囲では、少しずつざわめきが戻ってきている。
「今の、誰がやった?」
「神崎じゃなくて?」
「設計科の……」
名前ではなく、役割で見られる世界だ。
まだ入学初日なのに、そのことだけはもう分かった気がした。
そのざわめきを割って、神崎灯が歩いてきた。
頬は青いのに、背筋だけは妙にまっすぐだ。
彼女は湊の前で止まり、数秒、まっすぐ見た。
それから聞いた。
「今の、私の魔法を止めたんじゃないよね」
湊は何も言わない。
神崎はさらに言う。
「逃がし先を作ったの?」




