第8話 奇跡の限界
王城の大広間には、かすかな緊張が漂っていた。
以前と違うのは、机の上に並ぶのが戦況報告ではなく、発熱者数の一覧であることだ。
地区別感染者数。
死亡者数。
回復後再発者数。
数字が、静かに増えている。
「リシェル」
レオンハルトの声は、以前より低い。
「教会は大規模祈祷による一斉回復を提案している」
「集会は感染を拡大させます」
「だが何もしないわけにもいかない」
「しています」
リシェルは即答する。
「隔離、井戸の消毒、布の煮沸、接触制限」
軍務卿が顔をしかめる。
「民が混乱している。奇跡を示せば安心する」
「安心して動き回れば、感染は広がります」
沈黙。
「奇跡で症状を抑えれば、その間に対策を――」
「再発します」
リシェルは机上の報告書を指す。
「昨夜、王都南区で聖職者による小規模回復が行われました。症状は一時的に改善。しかし三時間後、再発。接触した家族三名も発症」
ざわめきが起きる。
「これは損傷ではありません。体内で増殖する何かです。回復は壊れた状態を戻すだけ。原因は残ります」
ロザリア大司教が静かに言う。
「神の御業を疑うのか」
「神ではなく、構造です」
リシェルは視線を逸らさない。
「奇跡は万能ではありません」
その言葉は、静かな爆弾だった。
王子が問う。
「では、どうする」
「都市の一部を封鎖します」
即答。
「発症地区を完全隔離。物資は外から搬入。井戸は封じ、新たに掘削。排水路の浄化。遺体は迅速に処理」
「それは……事実上の封鎖だ」
「はい」
「経済が止まる」
「命が止まるよりはましです」
室内が重く沈む。
王子はしばらく黙り、やがて言った。
「封鎖した場合、何日で収束する」
「正確な日数は不明です。ですが拡散速度は落ちます」
「保証はあるのか」
「ありません」
正直な答え。
「だが、奇跡による一斉回復よりは効果的です」
ロザリアが立ち上がる。
「聖女の称号を捨てた者が、奇跡を否定するとは」
「否定していません」
リシェルは静かに返す。
「限界を認めているだけです」
王子はゆっくりと立ち上がる。
窓の外、王都の街並みが見える。
煙がいくつか上がっている。
不安の色だ。
「……封鎖する」
低く告げる。
軍務卿が反論しかけるが、王子は制した。
「教会の大規模祈祷は延期。発症地区への立ち入り制限を命じる」
ロザリアの瞳が冷たく光る。
「王子殿下、それは」
「民の命が優先だ」
短いが、強い言葉。
リシェルは小さく息を吐く。
会議が終わり、廊下に出る。
レオンハルトが追いついた。
「……賭けだ」
「ええ」
「外れれば、混乱はさらに広がる」
「当たれば、奇跡に頼らない道が見えます」
王子は彼女を見つめる。
「君は本当に、聖女をやめたのだな」
「肩書きだけです」
「私はまだ、君を失ったとは思っていない」
一瞬、言葉が止まる。
だがリシェルは首を振る。
「私は、ここにいます」
城を出ると、王都の空気は張り詰めていた。
市場は半ば閉じられ、兵士が巡回している。
修道院へ戻ると、患者はさらに増えていた。
「封鎖が始まる」
リシェルは告げる。
「外出は禁止。物資は配給制」
不安が広がる。
だがアベルが声を上げる。
「俺たち、やります」
視線が集まる。
「戦えなくても、できることあるって……教わったから」
その言葉に、何人かが頷く。
封鎖が始まった。
街の一角は静まり、出入りは厳しく管理される。
最初の数日は混乱。
怒号。
物資不足。
だが徐々に、発症者数の増加が鈍る。
五日目。
新規感染者が半減。
七日目。
死亡者数が減少に転じる。
奇跡は使っていない。
使えないのではない。
使わないのだ。
十日目。
王城から正式な報告が届く。
「感染拡大、収束傾向」
修道院の中庭で、小さな歓声が上がる。
アベルが拳を握る。
「止まった……」
リシェルは静かに空を見上げる。
奇跡の光はなかった。
だが確かに、守られた命がある。
夜。
レオンハルトが一人で修道院を訪れた。
護衛を連れず。
「……収束した」
「ええ」
「奇跡ではなく」
「はい」
しばらく沈黙。
「君のやり方は、国を変える」
「変えたいのです」
王子は小さく笑う。
「敵を増やすぞ」
「慣れています」
戦場よりは静かだ。
「だが」
彼は続ける。
「私は、敵にはならない」
その言葉は、以前よりも近かった。
奇跡の限界が示された。
だが同時に。
奇跡に頼らない希望が、生まれた。
修道院の灯が、夜に揺れている。
それは小さい。
だが確かに、王都の一部を照らしていた。




