第7話 熱の兆し
最初に倒れたのは、近隣の洗濯女だった。
修道院の井戸水を分けてほしいと訪れたとき、彼女はすでに顔を紅潮させ、足元をふらつかせていた。
「……少し、熱が」
額に手を当てると、明らかに高い。
咳。関節痛。喉の腫れ。
戦場で見慣れた外傷とは違う、不穏な兆候。
「ここで休んでください」
リシェルは寝台へ案内する。
数時間後、同じ症状の者が二人。
翌日には五人。
いずれも、修道院近隣の住民。
帰還兵ではない。
エルマーが低く言う。
「戦場帰りの兵が持ち込んだか」
「可能性はあります」
リシェルは井戸を見つめる。
水は浄化したはずだ。
だが感染経路は一つではない。
翌朝、最初の洗濯女の容体が急変した。
高熱。呼吸困難。皮膚に赤い斑点。
「聖女様、回復を!」
家族が泣きつく。
リシェルは躊躇わず両手をかざす。
淡い光。
熱を下げる。呼吸を安定させる。
だが。
数時間後、再び熱が上がる。
症状がぶり返す。
リシェルは唇を噛む。
損傷ではない。
体内で増殖する何か。
回復は、壊れたものを戻す術だ。
だがこれは、壊し続けている。
「……感染症」
小さく呟く。
戦場でも流行ることはあった。
だがそこでは、弱った者は切り捨てられる。
ここは違う。
切り捨てない。
「隔離します」
即断した。
修道院の一角を閉鎖。患者を移動。
アベルが駆け寄る。
「俺、手伝います」
「患者には近づきすぎないで。水と布を運んでください」
「はい」
その夜、王都の一部でも同様の発熱が報告された。
噂は早い。
“帰還兵の病”。
不穏な呼び名が広がる。
翌日、教会から使者が来た。
「聖女殿、王都でも熱病が確認された。奇跡による一斉回復を検討している」
ロザリア大司教の意向だという。
「一斉回復は無意味です」
リシェルは即答する。
「なぜだ」
「原因が排除されなければ、再発します」
「奇跡で浄化すれば」
「浄化できるのは“結果”です」
使者が顔をしかめる。
「原因は?」
「水源、接触、空気。まだ特定できませんが、広がり方が速すぎます」
王都は人口密集地だ。
市場、兵舎、教会。
奇跡で一時的に症状を消せば、人々は動き回る。
そしてまた広がる。
「今必要なのは、奇跡ではありません」
「では何だ」
「止めることです」
隔離。
消毒。
接触制限。
教会の使者は不満げに去る。
その日の夜、修道院の患者は十人を超えた。
アベルが水桶を運びながら言う。
「俺、あの洗濯女の家に行きました」
「なぜ」
「家族が、どうしていいかわからないって」
彼の顔には、戦場とは違う緊張がある。
「井戸水は別にしてもらいました。桶も分けて」
リシェルは小さく頷く。
戦えなくなった少年が、今は感染を止める役割を担っている。
夜更け。
最初の患者が亡くなった。
奇跡は使わなかった。
使っても、結果は変わらなかっただろう。
遺体は布に包み、速やかに埋葬する。
家族は泣き崩れる。
リシェルは深く頭を下げる。
戦場とは違う死。
剣ではなく、目に見えない何かに侵される死。
翌朝、王城から正式な通達が出た。
王都内での集会禁止。
市場の一部閉鎖。
だが同時に、教会は大規模祈祷を企画しているという。
「集まれば広がります」
リシェルは呟く。
エルマーが腕を組む。
「王子はどう動く」
その問いに答えるかのように、使者が再び現れた。
今度は王家の紋章。
「リシェル・アルヴェーン殿。王子殿下より、至急の協議要請」
修道院の中庭で、アベルが患者の布を干している。
震えは、もうない。
だが王都の空気は、目に見えない熱を帯びていた。
奇跡で救えないものがある。
それを証明する機会が、訪れている。
リシェルは静かに頷いた。
「行きます」
今度は、守られるためではない。
止めるために。




