第4話 再び戻る傷
アベルが王都へ運ばれてきたのは、夜半過ぎだった。
城門を叩く音が響き、衛兵の怒号が上がる。緊急搬送の許可が下りたのは、リシェルの名が出たからだ。
戦地常駐を停止された聖女。
その彼女の元へ、戦場から重傷兵が届くという皮肉。
担架が医務棟へと運び込まれる。
リシェルは廊下の奥で、それを待っていた。
白い壁。磨かれた床。血はすぐに拭き取られる。
戦場とは違う、静かな医療の場。
だが担架の上のアベルは、戦場そのものだった。
胸部を深く斬られている。鎧の隙間を正確に突かれた一撃。出血は止まりきっていない。
呼吸は浅く、泡を含んだ血が唇から溢れる。
「聖女様……!」
付き添いの兵が叫ぶ。
「前線で包囲され……撤退の最中に……」
リシェルは言葉を聞かず、傷口を見つめた。
重い。
前回よりも、ずっと。
肺が損傷している。
内出血も広範囲だ。
「軍医は?」
「応急処置は施しましたが、ここまでが限界と」
限界。
その言葉は、いつも術者に向けられる。
リシェルは両手を胸部にかざした。
戦地常駐停止。
王子の命令が脳裏をよぎる。
だが目の前にあるのは命だ。
命令ではない。
魔力を巡らせる。
肺の破れを繕う。
裂けた血管を結ぶ。
骨の欠けを補強する。
光が淡く広がる。
同時に、胸を締めつけるような痛みが走る。
息が詰まる。
自分の肺が、水に沈められたように重くなる。
咳が込み上げるが、飲み込む。
ここで止めれば、アベルは死ぬ。
光が強まる。
そして、ふっと消えた。
アベルの呼吸が、かすかに安定する。
泡だった血が止まる。
リシェルは一歩後ろへ下がった。
視界が揺れる。
「聖女様!」
誰かが支える。
胸が焼けるように痛い。
呼吸が浅い。
――重い。
今回は、重すぎる。
「……成功、です」
そう告げた直後、激しい咳が込み上げる。
赤い飛沫が白い床に散った。
周囲が凍りつく。
「医師を!」
声が飛ぶ。
リシェルは手で制した。
「必要ありません……想定内です」
だが足元がふらつく。
胸の奥で、ひゅうひゅうと空気が鳴る。
肺の損傷は、完全には移しきれなかった。
肩代わりはできる。
だが術者の身体が受け止めきれない損傷は、歪みとして残る。
医務室へ運ばれ、簡易処置を受ける。
安静を命じられる。
だが彼女の意識は、別の場所にあった。
数時間後。
アベルが目を覚ましたと報告が入る。
リシェルは起き上がろうとする。
「無理だ」
低い声。
エルマーが立っていた。
王都へ先に戻っていたらしい。
「お前はもう限界だ」
「限界ではありません」
「咳で血を吐いておいてか」
沈黙。
「……彼は」
「生きている」
それだけで十分だった。
だがエルマーは続ける。
「だが、前線復帰は不可能だ。肺の機能が完全には戻らない」
リシェルは目を閉じる。
救えた。
だが、元通りではない。
しばらくして、アベルが医務室を訪れた。
胸に包帯を巻き、顔色は青い。
「聖女様……俺」
言葉を探す。
「……もう、戦えないそうです」
悔しさと、戸惑いと、少しの安堵。
複雑な感情が入り混じっている。
「そうですか」
「でも……生きてる」
アベルは胸に手を当てる。
「俺、怖かったです。もう一回、死ぬかと思った」
視線が揺れる。
「でも、仲間は……戻れなかった奴もいる」
沈黙。
「俺だけ、二回も助けてもらって……」
リシェルはゆっくりと言う。
「あなたは、生き延びました。それだけです」
「……聖女様は、苦しくないんですか」
まっすぐな問い。
リシェルは微笑む。
「慣れています」
嘘だ。
慣れることなどない。
アベルはしばらく彼女を見つめ、やがて深く頭を下げた。
「俺、戦えなくても……何か、役に立てますか」
その言葉に、胸の奥がわずかに震える。
戦う以外の道。
それを提示できていないのは、国だ。
自分ではない。
だが。
自分にできることはあるはずだ。
アベルが去ったあと、エルマーが静かに言った。
「これでも、戦場へ戻るつもりか」
リシェルは窓の外を見る。
王都の空は、青く澄んでいる。
血の匂いはしない。
「……戻らなければ、救えない命があります」
「戻れば、お前が壊れる」
「壊れても」
言葉が止まる。
壊れても、いいのか。
その問いに、初めて明確な不安が生まれる。
私は命を救っている。
だが。
私は、命を“元の場所”へ戻しているだけではないか。
戦場という場所へ。
アベルは、もう戻れない。
それは不幸か。
それとも。
リシェルはゆっくりと息を吸う。
胸が痛む。
痛みは確かだ。
だが同時に、別の確信も芽生えていた。
戦う以外の道を、誰かが作らなければならない。
奇跡に頼らない道を。
その夜、再び王子から呼び出しがかかった。
議題は一つ。
聖女の今後について。
リシェルは静かに立ち上がる。
今度は、受け身ではない。
問いを、持っていく。
私は、何を守るのか。
その答えを探しに。




