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婚約破棄された聖女は奇跡を独占しない ―婚約破棄された回復職は、帰還兵と医療国家をつくる―  作者: 冬月シオン


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第3話 成功率という名の秤

 王都へ戻るまでの三日間、戦場は奇妙な静けさに包まれていた。


 押し返したとはいえ、敵もまた立て直しているのだろう。大規模な衝突は起きず、代わりに小競り合いと、散発的な負傷者が続いた。


 リシェルはそのすべてを受け入れた。


 重傷は避け、致命傷だけを選び、可能な限り浅く肩代わりする。


 それでも腹の傷は完全には閉じない。彼女の身体は、彼女のものではない傷に慣れていない。


 出立の朝、例の少年兵が杖をつきながらテントを訪れた。


「聖女様、俺……明日には隊に戻れます」


 誇らしげだった。


 リシェルは彼の歩き方を観察する。筋肉の動き、呼吸の深さ、顔色。


「無理はしないこと」


「はい!」


 彼は笑う。


 その笑顔は、どこにでもいる村の少年のものだった。


「……あなたの名前は?」


 ふと、リシェルは尋ねる。


「アベルです」


「アベル」


 口の中で転がす。


 これまで、何人の名を覚えただろう。


 名を知ると、傷は少し重くなる。


「生き延びなさい」


「もちろんです。聖女様がいる限り!」


 無邪気な言葉が、胸の奥に沈む。


 その日の夕刻、リシェルは戦場を後にした。


 王都への馬車は揺れが少なく、舗装された道を進む。血の匂いはしない。代わりに、整えられた庭園の香りが風に乗ってくる。


 王都はいつも通り、美しかった。


 石造りの城壁。磨かれた窓。行き交う人々の整った衣服。


 ここには、泥も、臓腑も、砲煙もない。


 城内へ通されると、すぐに会議室へ案内された。


 長い机の向こうに、数名の貴族と、軍務卿。そして中央に、レオンハルト王子が座っている。


 金の髪はきちんと結ばれ、深い青の外套が肩に掛かっていた。


 戦場で見る兵士たちとは違う、磨かれた存在感。


「リシェル」


 王子が名を呼ぶ。


 その声音は柔らかいが、どこか距離がある。


「お疲れだろう。だが急ぎの話だ」


「承知しております」


 リシェルは一礼する。


 軍務卿が資料を広げた。


「聖女殿の戦地成功率が、ここ半年で低下している」


 数字が並ぶ。


 九割六分から、九割二分。


 わずか四分。


「戦況の激化による損傷の重篤化が主因と考えられるが」


 軍務卿は視線を上げる。


「聖女殿の稼働限界も疑われる」


 稼働。


 人に使う言葉ではない。


 レオンハルトが静かに口を開く。


「君の身体が削れていると報告を受けている」


 エルマーだろうか。あるいは軍医か。


「戦場での無理な肩代わりは控えるべきだ」


「控えれば、救えない命が増えます」


 即座に返す。


「救える命と、救えない命がある」


 王子の声は冷静だった。


「すべてを救おうとすれば、君が倒れる」


「倒れません」


「根拠は?」


 言葉が詰まる。


 根拠などない。


 ただ、そうでなければ困るのだ。


「リシェル」


 王子は席を立ち、机を回って彼女の前に立つ。


 かつては、もっと近い距離にいた。


 婚約者として、並んで未来を語った。


「君は聖女だ。国の象徴であり、希望だ」


「私は回復職です」


 視線を逸らさずに言う。


「希望は、具体的な手当ての積み重ねでしかありません」


 室内が静まり返る。


 王子の瞳が、わずかに揺れる。


「……戦場に立ち続ければ、いずれ取り返しのつかない損耗が生じる」


「では、誰が代わりに立つのですか」


「回復職は他にもいる」


「致命傷を肩代わりできる者は限られています」


 沈黙。


 軍務卿が咳払いをする。


「本日の議題は、聖女殿の戦地常駐の是非だ」


 レオンハルトはゆっくりと息を吐く。


「結論から言おう」


 その声は、王族のそれだった。


「リシェル・アルヴェーンの戦地常駐を、当面停止する」


 室内の空気が凍る。


「王都にて、象徴的役割に専念してもらう」


 リシェルの胸に、重たいものが落ちる。


「……それは」


「君を守るためだ」


「誰から?」


「戦場からだ」


 違う。


 守られるべきは、戦場にいる者たちだ。


「私は戻ります」


 静かに言う。


「命令だ」


「命を秤にかける命令には従えません」


 はっきりと言った。


 軍務卿が顔色を変える。


 王子の瞳が細くなる。


「君は、国の決定に逆らうのか」


「私は、患者を見捨てません」


 その瞬間、二人の間に横たわる溝が、はっきりと形を持った。


 レオンハルトは、長い沈黙のあとで言う。


「……今日のところは下がれ」


 声に、疲労が滲んでいた。


 リシェルは一礼し、部屋を出る。


 廊下に出た途端、腹の傷がずきりと疼いた。


 王都の床は冷たく、清潔で、血の匂いがしない。


 だが胸の奥には、戦場よりも重たいものが残っている。


 戦場では、傷は目に見える。


 王都では、傷は言葉の形をしている。


 アベルの顔が脳裏に浮かぶ。


 彼は明日、隊に戻ると言っていた。


 私はここで、何をしている?


 象徴として微笑むことが、救いになるのか。


 その夜、戦地から早馬が到着した。


 急報。


 前線での激戦。


 負傷者多数。


 リシェルは報告書の一文に目を止める。


『若年兵アベル、重傷』


 紙が、かすかに震えた。


 腹の奥で、まだ癒えぬ傷が疼く。


 成功率。


 稼働。


 象徴。


 そのすべてが、ひどく遠い。


 リシェルはゆっくりと目を閉じる。


 ――私は、何を守るのか。


 問いは、まだ答えを持たない。


本話もお読みいただき、ありがとうございました!


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