第2話 移し替えの代償
勝利の角笛が三度鳴ったあと、ようやく戦場は本当の静けさを取り戻した。
静寂といっても、それは死体の数が確定したという意味でしかない。
回復テントの裏手に回った瞬間、リシェルは片膝をついた。
腹部に走る痛みが、遅れて本格的に主張を始める。服の内側がぬるりと湿っているのがわかった。
「やはり無茶をしたな」
低い声が降ってくる。
エルマーだった。
片腕の騎士は、鎧を半分だけ外した姿で立っている。失われた右腕の代わりに、金属と革でできた義肢が装着されていた。
「無茶ではありません」
リシェルは息を整えながら答える。
「計算の範囲内です」
「その“計算”に、お前自身の寿命は含まれているのか」
鋭い問いだった。
リシェルはわずかに目を伏せる。
回復は、損傷を肩代わりする術式。
だが完全な等価交換ではない。
術者側に残る傷は、わずかに“歪む”。
本来その者の身体に存在しなかった損傷は、時間をかけて馴染まず、蝕む。
それが積み重なればどうなるか。
父は、三十五で倒れた。
リシェルはゆっくりと立ち上がる。
「兵士は助かりました」
「その代わりに、お前が削れた」
「私は聖女です」
そう言ったとき、自分の声が少し硬いことに気づく。
聖女。
王国が与えた称号。
戦場での回復成功率九割以上。奇跡の担い手。神の祝福を受けし者。
だが実際は。
ただの労働者だ。
血と膿にまみれ、壊れた身体を一つずつ繕う職人。
「聖女だから削れていいわけではない」
エルマーの声は静かだった。
彼は三年前、リシェルに命を救われている。だが右腕は戻らなかった。
欠損は肩代わりできない。
存在しないものは、移せない。
「……私は、あの子を見捨てられませんでした」
「見捨てろとは言っていない」
「では、どうすれば」
問いは空中に溶ける。
エルマーは答えない。
答えがないことを、二人とも知っている。
そのとき、テントの入口で衛生兵が声を上げた。
「聖女様! 王都から正式な伝令です!」
リシェルは一瞬だけ眉を寄せた。
嫌な予感が、腹の傷よりも鈍く重い。
伝令はまだ若い近衛兵だった。鎧は磨かれ、ここが戦場であることを忘れたかのように整っている。
彼は恭しく片膝をつき、封蝋付きの書状を差し出した。
「レオンハルト王子殿下より」
王家の紋章が刻まれた赤い封。
リシェルはそれを受け取る。
戦場で王子の名を聞くのは、いつも不思議な感覚だった。
彼は王都にいる。
整った議場で、戦況報告を受け、勝利と損耗を数字で把握している。
ここにあるのは、数字ではない。
臓腑の匂いだ。
封を切る。
簡潔な筆跡が目に入る。
『聖女リシェル・アルヴェーンの戦地活動について、成功率および継続稼働の観点から再検討を要する。速やかに帰還せよ』
成功率。
その言葉が、やけに冷たく響く。
成功率九割二分。
半年前は、九割六分だった。
わずかな差。
だが王都の会議卓では、その“わずか”が問題になる。
「……お戻りになるのか」
エルマーが問う。
「命令ですから」
リシェルは書状を折りたたむ。
腹の奥がずきりと疼いた。
成功率が下がった理由は明白だ。
無理をしているからではない。
引き受ける傷が重くなっている。
戦争が、激化しているからだ。
テントの中から、か細い声が聞こえた。
「聖女、様……」
先ほどの少年兵だった。
目を覚ましたらしい。
リシェルはすぐに歩み寄る。
「気分は」
「……生きてる」
少年は天井を見上げたまま、ぼんやりと呟く。
「俺、村を出て……初陣で……」
唇が震える。
「怖かった。でも……死にたくなかった」
「誰だってそうです」
「聖女様がいれば……俺たち、負けませんよね」
無邪気な期待。
それは信頼であり、呪いでもある。
リシェルは一瞬、言葉を失った。
負けない。
それはつまり、戦い続けるということだ。
「今は休みなさい」
それしか言えなかった。
少年は安心したように目を閉じる。
テントの外で、兵士たちが勝利を祝う声が上がる。
だがその足元には、戻らない者たちが横たわっている。
回復できなかった者。
そもそも運び込まれなかった者。
リシェルは自分の腹にそっと触れた。
布の下で、裂傷が熱を持っている。
この痛みは、あの少年のものだった。
彼は明日には歩けるだろう。
そして、再び剣を取る。
私は命を救っている。
そのはずだ。
けれど。
私は何を支えている?
命か。
それとも。
戦争そのものか。
夜明けの光が、テントの隙間から差し込む。
白い光は優しいのに、ここにある現実は、少しも浄化されない。
リシェルは静かに目を閉じた。
王都へ戻れば、話し合いが待っている。
成功率。
稼働効率。
聖女の運用。
そこに、今日の少年の顔は含まれるだろうか。
彼女は目を開く。
答えはまだ出ない。
だが、疑問だけは、確かに芽生えていた。




