第16話 揺らぐ象徴
王立医療院の看板が掲げられた日、祝賀よりも視線の方が多かった。
歓迎と疑念。
称賛と警戒。
すべてが混ざった空気。
王子の勅令により、段階回復を基本とする新医療指針が公布された。
だが紙に書かれた理想と、現場の現実は違う。
「北方第二戦線、再び交戦」
報告が届く。
「回復職が新指針に従い、即時全快を拒否」
「その結果、撤退」
軍務卿が議場で声を荒げる。
「ほら見ろ!」
矛先はリシェルに向く。
彼女は静かに報告書を読む。
撤退は事実。
だが損耗は最小。
「壊滅していません」
「領地を失った!」
「取り返せます」
「死んだ兵は戻らん!」
「全快させても戻りません」
議場が騒然とする。
ロザリアが言う。
「聖女の奇跡を制限した報いだ」
「奇跡を乱用した報いです」
リシェルは静かに返す。
王子が手を上げ、沈黙を促す。
「感情ではなく、事実で話せ」
その夜、医療院に石が投げ込まれた。
二度目だ。
だが今回は、火はつかなかった。
代わりに壁に書かれていた。
――偽聖女。
アベルが怒りに震える。
「消します」
「待って」
リシェルは止める。
「消す前に、見ておきます」
文字を見つめる。
象徴が揺らいでいる。
聖女ではなくなったはずの自分が、まだ“聖女”として攻撃される。
「……私は、象徴を壊したいわけではありません」
ぽつりと呟く。
「なら何を」
エルマーが問う。
「象徴を、個人にしない」
奇跡は一人の肩に乗せない。
制度にする。
だがその過程で、象徴は揺らぐ。
数日後。
王都南区で暴動が起きた。
戦死者の家族が、医療指針に抗議。
「全快させていれば!」
怒号。
医療院にも押しかける。
リシェルは門前に立つ。
「あなたが殺した!」
石が飛ぶ。
肩に当たる。
痛み。
だが戦場ほどではない。
「私が全快させれば、彼は次の戦で死んでいたかもしれません」
「かもしれない!」
「でも生きていたかもしれない!」
正論だ。
可能性は、誰にもわからない。
沈黙。
「私は、未来を保証できません」
静かに言う。
「できるのは、延命を拒むことだけです」
群衆の中から、一人の女が出る。
まだ若い。
「……夫は、あなたに救われました」
ざわめき。
「全快ではなかった。でも戻らなかった」
女は涙を拭う。
「今は、子どもと畑を耕しています」
沈黙が広がる。
怒号が少しずつ消える。
だが全員が納得したわけではない。
その夜。
王城で、王子と二人きりになる。
「揺れているな」
「ええ」
「後悔は」
「あります」
正直に答える。
「だが戻せば、さらに揺れる」
王子は窓の外を見る。
「私は象徴を守る立場だ」
「私は人を守る立場です」
「両立は難しい」
「はい」
沈黙。
「……だが私は、お前を切らない」
その言葉は重い。
「ありがとう、ございます」
だがリシェルは知っている。
王子が守れるのは、政治の範囲まで。
世論までは制御できない。
翌朝。
医療院の門前に、小さな花束が置かれていた。
誰が置いたのかはわからない。
偽聖女と書かれた壁の下に。
リシェルはそれを見つめる。
揺らぐ象徴。
だが完全には崩れていない。
戦場は議場から街へ広がった。
奇跡は、信仰と結びついている。
それを変えるには、時間がいる。
そして覚悟も。
胸の奥が、鈍く痛む。
削れたものは戻らない。
だが進む。
延命を拒むために。
象徴ではなく、制度を残すために。




