第1話 夜明け前の回復テント
はじめまして。
この物語は、
「奇跡がある世界で、奇跡を使わないと決めた聖女」の話です。
婚約破棄から始まりますが、
復讐譚でも、ざまぁでもありません。
戦場で兵を全快させ続ければ、
戦争は終わらない。
その矛盾に気づいてしまった少女が、
“聖女”という制度そのものを変えようとする物語です。
少し政治寄りで、少し医療寄りで、
でも根底にあるのは「命の重さ」。
ゆっくり読んでいただけたら嬉しいです。
夜明け前の戦場は、静かだ。
それは平穏という意味ではなく、夜通し響いていた呻き声と怒号が、いったん底を打つ時間がある、というだけのことだった。
湿った土の匂いに、血と薬草の青臭さが混じっている。薄布で仕切られた回復テントの中、ランタンの火が小さく揺れていた。
リシェルは桶の水に手を浸して、赤く染まった包帯を揉み洗いしている。
水はすぐに濁り、鉄錆の色に変わる。
指先が、わずかに震えていた。
寒さのせいではない。魔力の消耗と、睡眠不足。それから、昨夜引き受けた傷の痛みが、腹の奥でじくじくと主張している。
回復は奇跡ではない。
彼女は、そう教わった。
傷は消えない。ただ、移し替えるだけだ。
患者の損傷を、術者の身体へ。
だから光は派手である必要がない。神々しい演出もいらない。ただ、正確に、淡々と、壊れたものを“元のかたち”へ戻す。
その代わり、戻らなかった歪みは、すべて自分の内側へ落ちてくる。
「聖女様」
テントの入口が乱暴に開き、冷たい外気が流れ込んだ。
若い衛生兵が顔を青くして立っている。
「重傷です。腹部を槍で……出血が止まりません」
リシェルは桶から手を上げ、濡れた指先を布で拭った。
「意識は」
「ありません。脈も弱い。軍医は……」
衛生兵は言い淀む。
軍医は、無理だと言ったのだろう。
リシェルは頷く。
「運んで」
すぐに担架が運び込まれる。まだ若い兵士だった。顔つきにあどけなさが残っている。腹部の鎧は外され、包帯はすでに血で飽和している。
裂けた肉の奥に、赤黒い内臓が覗いていた。
テントの空気が、一段冷える。
「聖女様、これは……」
軍医が低く呟く。
助からない、と言外に告げる声音。
リシェルは兵士の傍らに膝をついた。
「無理ではありません」
静かな声で言う。
「重いだけです」
軍医は息を呑む。衛生兵が目を見開く。
リシェルは両手を傷口の上にかざした。魔力を巡らせる。深く、静かに、沈むように。
光はほとんど見えない。朝靄のような淡い白が、傷口を包む。
まずは止血。破れた血管を結び直す。裂けた腹膜を繋ぐ。露出した臓器を、正しい位置へ。
細部を誤れば、兵士は内側から腐る。
彼女の額に汗が滲む。
次の瞬間、焼けつくような痛みが腹を走った。
――来た。
兵士の腹にあったはずの裂傷が、リシェルの身体に現れる。
皮膚の内側を刃物で抉られる感覚。息が詰まり、視界が白む。
それでも手は離さない。
呼吸を整え、魔力の流れを乱さないようにする。ここで揺らげば、損傷は中途半端に分配される。兵士も、自分も、どちらも死ぬ。
淡い光が、ゆっくりと収束していく。
兵士の傷口が閉じていく。血の流れが止まり、裂け目が薄い線へと変わる。
リシェルの腹の内側で、同じ線が熱を帯びる。
やがて光が消えた。
テントに、重たい静寂が落ちる。
軍医が恐る恐る兵士の脈を取る。
「……安定しています」
かすれた声だった。
衛生兵が小さく歓声を上げる。
リシェルは息を吐いた。手を下ろすと、袖口から赤い雫がぽたりと落ちる。
軍医の視線がそこへ向く。
「聖女様、その腕は……」
「掠り傷です」
彼女は微笑んだ。
本当は腕ではない。腹だ。だが今、服をめくるわけにはいかない。
兵士が、かすかに目を開けた。
「……ここ、は」
「回復テントです」
リシェルは顔を近づける。
「あなたは助かりました」
兵士の瞳が潤む。
「俺……死んだと……」
「いいえ。まだ名前も、功績も、これからでしょう」
兵士は弱々しく笑った。
「これで……また、戦えます」
その言葉に、リシェルの指先がわずかに止まる。
だが、表情は崩さない。
「今は眠りなさい。戦場のことは、目が覚めてから考えればいい」
兵士は安堵したように目を閉じた。
テントの外から、遠く砲撃の音が響く。
夜明けの空が、わずかに白み始めている。
勝利の角笛が鳴った。
衛生兵が顔を輝かせる。
「押し返しました! この調子なら――」
リシェルは立ち上がろうとして、視界が揺れた。
腹の奥がじわりと熱い。服の下で、血が滲んでいるのがわかる。
それでも彼女は背筋を伸ばす。
救った命がある。
それは事実だ。
だが同時に、別の事実が胸をかすめる。
――彼は、また戦場に戻る。
勝利の歓声が大きくなる。
テントの中には、まだ血の匂いが残っていた。
リシェルは包帯を握りしめる。
回復は奇跡ではない。
傷は消えない。ただ、移し替わるだけだ。
ならば。
私はいま、何を移し替えているのだろう。
命か。
それとも――戦争そのものか。
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