卵
「ふ〜ふふ〜ん♪」
絵から目を離し、鼻唄を歌い出したけいすけに目を細めて疑いの目を向けた。
「けいすけ」
「ん?」
「・・・・これほんとか?」
「なにが〜?」
「もじゃもじゃって・・・わざとらしすぎるだろ」
顎の下というか口周りを思いっきりぐちゃぐちゃに黒で塗りたくっているこの絵を見て、俺はつけ髭かと思った。
「え〜?ほんとだよ」
(・・・絵心ありすぎるだろ)
「それにこれ、なんだよこの線」
「線?」
「足?に書いてあるギザギザの線」
「あ〜、なんかねその人半ズボン履いてたから、足にギザギザの跡があったの見えた」
「・・・・怪我?」
「かなぁ、痛そうだったよ」
(髭がもじゃもじゃで、半ズボン履いて足に傷があるおじさん?)
なんだそれ。ますます意味が分からん。
「そっか。まぁ、いいや。で、その後は?」
「その後?」
「久下の爺さんに会ったんだろ?」
「あぁ〜!」
「何話したか聞こえてた?」
「うん」
「なんて話したんだ?」
「おじさんがどっか行ったあと・・・・ママずっと立ったまま動かなかったから、手離れてからママのこと呼んだけど何も返事しないし」
「うん」
けいすけが話しながら手を伸ばしてきたから俺はその手を握った。
「そしたらおじいちゃんが来た。大丈夫か?って、何かあったのかって・・・で、ママが動き出した」
「母さんなんて返事したんだ?」
「大丈夫ですって、すいませんって言ってたよ」
「・・・・そっか」
「うん。あとね、なんか卵がなんとかって言ってた」
「は?」
(卵?・・・そういえば冷蔵庫に卵あったのに、買いに行くって言ってたんだよな)
握ったけいすけの手をもみもみしながら少し考えてまた質問した。彼にしたらこんなに色々質問されるのは嫌になってくるだろう。
「ん、どういうこと?2人で卵の話ししてたのか?」
「うん」
「爺さんと?いきなり?」
「さ〜?ふふふ」
「・・・・」
(これ以上は分かんないな。多分聞いてたとしてもなんのこと話してるか分からんだろうし)
「にいちゃん手気持ち悪い」
「ひでえな」
「ふふ」
握っていた手をひっくり返して手のひらをもう一度確認。写メを撮るかわりにけいすけに渡したこの同じノートに念のため描いておこうとじっと見つめた。
(・・・・・)
お母さんとその人はどういう関係なんだろう。
「にいちゃん明日パパのお仕事のとこに行くの?」
「ん?あぁ・・・・まぁ父さんのほうが大丈夫であればね」
「え〜」
「なんだよ・・・・ちょっと・・・動かすな」
「僕も一緒に行きたい」
「・・・・」
けいすけの手を掴みながら見たままをノートに描いていく。下手ではあるけど特徴はとらえてるから問題ない。
「だめ」
「なんで?」
「危ないから」
「・・・嫌だ〜」
「なにがだよ」
「ママと2人は嫌だ」
けいすけの言葉に思わず顔をあげた。こっちを向いてはいるけど俺の顔は見てなくて、口を尖らせながら握り合っている手を見つめている。
「・・・・・」
俺は途中まで描き上げた絵をそのままにして、持っていた鉛筆を、膝の上に器用に固定して置いていたノートに挟んで閉じ、畳に置いた。
「明日・・・行けるか行けないか分かんないし、無理なら兄ちゃんと一緒に居よう」
「行っちゃったら?」
「すぐに帰ってくるようにする」
「・・・・」
「な?」
「・・・早く帰ってきて」
返事をくれたけいすけの目線は俺と合うことはなくて、少しばかり罪悪感にのまれそうになったけど、その日の夜は飯を食ったあと一緒に風呂に入って、一緒の布団で寝た。
機嫌は別に悪くなかったし、夜の寝付きもスムーズ。
ただ一つだけ違ってたのは俺の手をずっと握ってきていたことだった。
◇◇◇
(あんなこと初めてだったか?)
朝をむかえて、寝ぼけている弟と一緒にリビングへ。
普通に学校に行くのなら起きてなきゃいけない時間だけど、今はまだ夏休みだから本来ならまだ起きる時間でもない。
「おはよ」
「おぉ、おはよう」
「うん」
「・・・・」
「けいすけは・・・まだ寝てるね」
「あなた達、早いわね。どうしたの?」
(母さん・・・・昨日の夜から普通そうに見えたけど、寝たから治ったのかな)
「あ〜、けいすけは無理矢理起こした。俺は父さんの仕事場に行けるかもしれないから、ちょっと早起き」
「その件だけど、起きてこなかったら起こしに行こうかと思ってたんだよ」
「ん?」
「昨日夜に先に職場の仲間に確認してみたら、来てもいいよって。だから来るのは問題ないよ」
「ほんと?」
「うん。ただし、午後は忙しくなるから、午前中ならってことでね」
「まじか、分かった」
「だから、外に出られる準備しておいで。もうすぐしたら出るから」
「はいよ」
半分寝ているけいすけは、とりあえずソファに座らせた。俺は朝ごはんも食べずにすぐに着替えて洗面所で顔を洗う。ドタバタと忙しない動きと、うるさい音を立てたからけいすけもその音に反応したのか、不機嫌に唸り声を上げてキョロキョロしだした。
「・・・・うるさいよ〜」
「ごめん、ごめん。ちょっと出掛けてくる」
「・・・どこ行くの?」
「父さんの職場」
「もう?」
「うん。大丈夫だって、んな不安な顔すんな。昼には帰ってくるから、午前中だけしか見学できないし」
「・・・・ほんと?」
俺が出掛けてくると言った瞬間、不安そうな顔になったからけいすけの頭を撫でてから少し笑いながら言った。
「ほんと。帰ったら夜一緒に風呂入ろうな」
「うん。約束」
指切りをしようと俺の顔の前に小指を出してきた弟の不安そうな表情は崩れてなくて、幼い子ども特有の大きな瞳がそれを物語るように揺れていた。迷いなくその小指に自分の小指を差し出して絡めた俺はふとあることを思い出して、カバンに入れていたミサンガを取り出しけいすけの足首につける。
「なにこれ?」
「兄ちゃんが作ったんだよ。お前のために」
「え〜?」
「ほら、お揃い。これなら寂しくないだろ?」
そう言って自分の足首を見せると、けいすけは少しじっと見つめてから嬉しそうにニコっと笑った。兄弟でお揃いなんてあんまりない気がするけど、俺がこの家を出る時はけいすけはまだ小学生だから多分相当寂しさを感じるだろう。
(変なタイミングだけどいいか)
練習がてら作ってあったそのミサンガはやっぱりけいすけの足首には少し大きめだ。もしかしたら部屋を歩いているうちに取れてしまうかもしれない。
「失くすなよ」
「うん!」
「おーい、こうすけ〜、そろそろ行くよ〜」
「今行く!」
もう玄関で靴を履いて待機しているであろう間延びしたお父さんの声に返事をしてから、またけいすけの方に向き直る。
「にいちゃん、ぎゅって」
「ん?ぎゅ?ってなんだよ」
「ぎゅって、したい」
弟なのに彼女みたいなことを言ってくるから、少し呆れたふりをして手を伸ばしてきたけいすけの体を抱き締めた。
「満足ですか?」
「うん」
「じゃあな、行ってくる」
「行ってらっしゃい」
膝を伸ばして立ち上がり、ソファの上から手を振ってくれる弟に軽く手を振り返してリビングをあとにする。お母さんは台所で何か作業をしてたみたいで声をかけても何も返事がない。
あれっと一瞬不思議に思ったけど、再度声をかけることなく、俺は最後にもう一度後ろを向いてけいすけをチラッと見てからそのまま玄関へと足を進めた。お母さんへの妙な違和感を微かに感じ始めながらも、無理矢理それを頭の片隅に押しやって靴を履いて家から出た。




