恋とは?
少し日が傾きかけた頃。
私たちはイールデンの北側にある塔にやってきた。
塔の最上階へ続く階段はなんと250段。
まっすぐに上へ延びる階段ではなく、螺旋状だからまだマシかと思ったのが間違いだった。
「リネット、平気か……?」
「は、はい。なんとか……」
「俺が背負って上がろうか?」
「いいえ、自分でがんばります……!」
優しいアルフレイド様はそう提案してくれたけれど、さすがにそんなことはさせられないとお断りした。
時間はかかったものの、アルフレイド様に手を引いてもらって何とか最上階へと到着する。
「わぁ、きれい」
家々の屋根に、街を囲む城壁。まだ雪を被った山脈が遠くに見える。
これほど美しい景色が見られるとは思わなかった。
もう足は限界だけれど。
小刻みに震えているけれど、がんばって上ってきてよかった。
「ここがこの街で最も高い塔だ。イールデンが一望できる」
ちょっと前まではどこもかしこも真っ白な雪で覆われていたのに、今では屋根のオレンジ色も草原の緑も鮮やかだった。
「あの壁がずっと続いているなんて……」
街をぐるりと囲む城壁によって、この街は守られている。
ここは住み慣れた王都ではなく、知らない辺境の地なのだと改めて実感した。
「北側は二重の壁が築かれているんだ。ここからは見えないが、山のふもとは魔物たちの生息域だから」
「魔物……」
アルフレイド様は右手で壁に手をつき、山の方へ視線を向けた。
私も追ってそちらに目をやる。
「ここは代々、アルフレイド様のご先祖様が守ってきた領地なんですね」
私にとって戦いは本の中の話だった。
でもアルフレイド様たちにとってはそれが現実で……。
簡単に「興味がある」とか「好きだ」と言えてしまう自分が恥ずかしくなった。
申し訳なくて俯いていると、アルフレイド様がそれに気づいて困った顔で笑う。
「気にしなくていい。怯えられるよりはずっといいことだ」
物語と現実はまったく別だから、とも彼は言った。
「騎士だって英雄譚や冒険録は好きな者も多い」
「そうなんですか?」
「あぁ。俺だって両親から最初にもらった本は英雄譚だった」
もうタイトルは忘れたけれど、とアルフレイド様は笑った。
「リーバート様とモニカ様、でしたよね。ご両親のお名前」
「覚えていたのか?」
「ええ、公爵邸で肖像画を拝見しました」
王弟殿下であったリーバート様は、クラッセン公爵領の一人娘だったモニカ様に婿入りした。お二人は従兄弟で幼馴染だったと聞いている。
公爵令嬢でありながら剣を振るうモニカ様は、とても稀有な存在だったらしい。
私がお二人について知っているのは、ご夫婦ともに立派な騎士だったこと、そして五年前に魔物の氾濫が起きた際に亡くなったこと──。
アルフレイド様は遠くを見つめながら淡々と話す。
「領地を守るのは領主の務めだ。たとえ数百年に一度の魔物の氾濫でも、逃げるわけにはいかない」
「アルフレイド様も五年前に戦われたのですか?」
「いや……、俺は王都のアカデミーにいた」
貴族子息の多くは、十三歳から十八歳まで王都のアカデミーに通う。
アルフレイド様も慣例に従ってアカデミーに入学したと言う。
「あのとき、第一報を受けてすぐに王都を発った。でも、間に合わなかった」
真冬に起きた魔物の氾濫。
雪で住民の避難が遅れ、どうにか食い止めようとした騎士たちには大きな被害が出た。アルフレイド様が馬で駆け付け、元騎士団長様と共に指揮を取り、どうにか戦況を立て直したものの両親はすでに亡くなっていたそうだ。
「父は母を、母は仲間を庇って亡くなったらしい。どれほど剣の腕を磨いても、その場にいなければ意味がない。俺があのとき間に合っていればと何度も思った」
アルフレイド様の悔しさを思うと胸がずきりと痛む。
王都とここは遠く離れていて、知らせを受けてすぐに出発したとしても三日はかかる。でも彼の気持ちを思えば「仕方がない」と割り切れるようなことでもなく、私はかける言葉が見つからなかった。
「リネットがこの街をきれいだと言ってくれて嬉しかった。あのときの災害は”昔のこと”になったのだと思えたから」
まだ五年しか経っていないのに、街はずっと平穏が続いてきたかのように見えた。
きっとここに至るまでに、たくさんの人たちの努力があったのだ。
「もう誰にもあんな思いはさせたくない。騎士として、領主として、ここを守ると決めた」
「アルフレイド様……」
この方は、いつも領地のことを考えている。
東の地域をご自身の目で確かめに行ったように、自分の領地を大切になさっている。
いつも何かと戦っていて、領主の責務と向き合ってきたのだろう。
アルフレイド様みたいな方が領主なら、領民たちはこの先も安心して暮らせると思う。
でも、この方に安らげる時間はあるの?
心が軽くなるときはある?
自然に笑顔になれる、そんな場所はある?
アルフレイド様は、「間に合わなかった」という後悔をずっと抱えて────。
そう思ったら自然に体が動いていた。
アルフレイド様の背中に寄り添い、腕を回してぎゅっと抱き締める。
「リネット?」
驚いたような声がした。
でも私はこの方を抱き締めたかった。
私はずっと味方だと伝えたくなったのだ。
「あなたは皆に誇れる、素晴らしい領主様です。私は、今ここにアルフレイド様がいてくださることに感謝しています」
だから、間に合わなかったと自分を責めないでほしい。
「私はこの街をこれからたくさん知って、もっと好きになりたいです」
成り行きとはいえ公爵夫人になってしまったという責任も当然ある。
ただそれ以上に、ほかの誰でもないアルフレイド様の助けになりたいと思った。
「私はずっと一緒にいます。離れませんから……」
一緒に戦えなくても、絶対に一人にしない。
ずっとそばにいて、アルフレイド様が笑えるようにするから。
どうか幸せになってほしい。
「手が冷たくなっている」
アルフレイド様は私の手を握り、小さくそう言った。
そしてゆっくりと振り向き、長い腕で私を包み込むようにして抱き締めた。
腕の中にすっぽり入ってしまった私には、アルフレイド様の顔が見えない。
大きな手で頭を撫でられ、その心地よさに目を閉じた。
「──リネットは、俺が好き?」
「えっ!?」
いきなりの質問に、私は飛び上がりそうなほど慌ててしまう。
瞬く間に顔が真っ赤に染まるのを感じた。
好き?この気持ちは恋愛の「好き」なの?
そんなこと考えたこともなかった。
王都で買い集めた本も男性を誘惑する指南書であって、恋とは何か?なんて一行も書いていなかった。
恋!?恋って何!?
私はアルフレイド様を好きなの!?
「ええっと、あの……」
恐る恐る顔を上げ、アルフレイド様の目を見つめる。
彼は私の顔を見ると堪えきれないようにくつくつと喉を鳴らして笑い、もう一度強く抱き締めてきた。
「わかった。その顔が答えだろう」
「っ……!」
私にもわからないことがアルフレイド様にはわかったと!?
なぜ!?私は今どんな顔をしているの!?
心臓がばくばくと激しく鳴っていて、悲しくないのに涙が出そうだった。
これを恋というの?アルフレイド様の胸に顔を埋めながら、必死で考えたけれど答えは出なかった。
「ご、ご想像にお任せします」
「ありがとう」
なおも笑ったアルフレイド様は、私の顔を覗き込んで告げる。
「一緒に幸せになろう」
一緒に、幸せに。
そんなことを言ってくれる人がこの世界にいるなんて。
息を呑む私の頬に、アルフレイド様はそっと手を添える。
気づいたら唇が重なっていて、キスをされたのだとわかるまでにしばらくかかった。




