02.婚約破棄
「婚約破棄しよう。」
突然告げられた言葉に、シルフィーはぽかんと口を開けた。
目の前の人物から言われた言葉が、うまく頭の中で整理できない。俯いて罰が悪そうにモジモジしている男は、シルフィーの婚約者であるヒューズ=テネブライだ。
その婚約者の口から「婚約破棄」という言葉が出てきたのだ。
「えっと……?」
シルフィーは何と言ってよいか分からず、とりあえず笑って見せた。何が起こっているのか、とても理解できない。笑ってみせているが、シルフィーの頭の中はもうぐしゃぐしゃだった。
ヒューズも煮え切らない態度で視線を泳がせて、シルフィーとは視線を合わせようともしない。
シルフィーはヒューズの横にいる女性に視線を移した。女性は幸せそうな笑顔で口を開いた。
「だからねぇ、シルフィー。」
ヒューズの腕にするりと細くて白い腕を絡ませて体を寄せるその女性は、シルフィーの友人であるカリナ=グリッドだ。豊満な胸をヒューズの腕に押しつけて、甘えたような態度でヒューズの横に座っている。
その様子から、二人はそういう仲なのだと嫌でも伝わってくる。
ーーああ。またか。
シルフィーは心の中でため息をついて、全てを諦めた気持ちになった。
カリナは昔からシルフィーのモノをとっていく。洋服やアクセサリーは勿論のこと、シルフィーが学園でまとめた研究結果も、全てカリナが横取りして奪っていった。フェアリアル王立魔法学園の優秀な生徒にだけ与えられる証とも言える『研究室』も、シルフィー功績でカリナが手に入れた。
そうして次は、シルフィーの婚約者を奪ったというわけである。
このカリナの『研究室』でそのことを告げられ、シルフィーは目眩を覚えた。
「私とヒューズは愛し合ってるのぉ。」
カリナは悪びれた様子もなく笑顔を作ってヒューズに擦り寄っている。そんなカリナの態度に少し吐き気を感じた。
そうしてシルフィーはヒューズへと視線を向けた。
「ヒューズも、カリナを愛しているの?」
「シルフィー……。」
ヒューズは一度カリナを見て、意を決したようにシルフィーと向き合った。
ようやくシルフィーを見てくれたヒューズの瞳の奥に、シルフィーの姿はなかった。ヒューズが見ているのは、カリナだけなのだ。その眼差しに、シルフィーはもう何を言っても元の関係には戻れないな、と理解した。
「僕は、君にはついていけない。」
ヒューズの言葉に、シルフィーは少しだけ胸が痛んだ。
つい最近まで二人で穏やかに過ごしていたと思っていた。確かに親同士が決めた相手ではあるが、二人とも読書が好きだったから、他愛ない事で笑い合って、お互いのオススメの本を紹介し合って、そんな日々が続くと思っていた。
けれど、それはシルフィーの思い込みだったのだと思い知らせた気分だった。
「婚約者の前でもシルフィーは全くお洒落しないから、シルフィーのことを女性として見れないんだ。けどカリナはとてもお淑やかで美しくて、一緒にいて胸が高鳴るんだ。」
「はあ。」
それは今カリナの豊かな胸を押しつけられているからではないだろうか、とも思った。しかし、シルフィーの体はカリナに比べると確かに貧相だ。女性としての魅力はないのだろう。
毎日可愛く着飾っているカリナと比べ、シルフィーはいつも野暮ったい格好をしている。お洒落よりも勉強に精を出し、暇があれば本を読んでいるようなシルフィーが、カリナのように美しく着飾った女性に敵うわけがないのだ。
「だから君との婚約を破棄したい。」
「ごめんねぇ。シルフィー。」
シルフィーは必死に笑顔を作った。
申し訳なさそうに俯くヒューズと、飄々とヒューズに甘えるカリナ。
どちらを見ても吐き気がする。
だがカリナはそんなシルフィーに追い討ちをかけるように甘えた声で話してきた。
「でもぉ、いつもの事じゃなぁい。ねえ。また譲ってくれるでしょぉ?」
悪意のない笑顔でそんな嫌味を言われて、シルフィーは言葉を失った。
気持ち悪くて、血の気が引いていくのが分かった。
「あら。シルフィー、顔色悪いわよぉ。大丈夫ぅ?今日はもう帰った方がいいんじゃなぁい?」
そんな心配する素振りも、わざとらしくて気持ちが悪い。
シルフィーは必死に笑顔を作った。
「そうね。そうするわ。」
そしていそいそと席を立った。そんなシルフィーからヒューズはもう目を逸らしていた。
「ヒューズ。」
立ち上がった時、シルフィーはヒューズに声をかけた。シルフィーの声に、ヒューズはびくりと体を震えさせた。
「婚約破棄を受け入れます。どうか、お幸せに。」
シルフィーは皮肉のつもりで、そう言い残して去っていった。
◆◆◆
婚約破棄を告げられたシルフィーは、カリナとヒューズから逃げるように研究室を出て、真っ先に図書室に向かった。
フェアリアル学園の図書室は校舎の隅にある大きな木の中にある。長い年月を経て大きくなった大樹に包まれていて、ここでは精霊達もよく見かけることができる。国一番の蔵書数を誇るフェアリアル学園の象徴とも言える場所なのである。
しかし、昼間は精霊や生徒たちで賑わうこの場所も、日が沈んでからは誰もいない静かな場所へと変わる。引っ込み思案のシルフィーが駆け込み寺にするにはちょうど良い場所であった。
誰にも見つからないように少し駆け足になっていく。大好きな本のことを考えようと必死に頭を回してみるが、どうしてもついさっきの出来事が思い出されてしまう。
婚約者のヒューズと、友人のカリナ。
人付き合いの少ないシルフィーが信じていた二人から一気に裏切られてしまったのだ。
しかも、シルフィーのおかげでカリナが手に入れた研究室で。
研究室の件だって、シルフィーに未練がないかと言われれば、ないわけではない。フェアリアル学園に通う生徒の憧れでもある研究室を手に入れるのはシルフィーだって夢なのだ。けれどシルフィーにとっては研究室よりも勉強することの方が大事だった。
だからまだ許せた。
カリナの研究室に引きこもって魔法の研究が出来るなら、気にしないフリだって出来た。
けれどそこで婚約破棄を言われる事には耐えられるはずもなかった。
確かに魔法一筋で洒落っ気もないシルフィーは、魔法以外本当に何の取り柄もない。加えて極度の引っ込み思案で、学園では空気のように振る舞っている。
改めて考えると、こんな野暮ったくて根暗な令嬢なんてつまらないと思われて、婚約破棄されても当然のかもしれないと思ってしまった。
「仕方ないよね。」
薄暗い図書室には、シルフィーだけしかいない。
シルフィーの大好きなが詰まったシルフィーにとっての楽園だ。
この場所さえあれば、生きていける。
優しい静寂に包まれた図書室で、ようやく抑えていた感情がじわじわと溢れてきた。
じんわりと熱くなる目頭に、ぐっと歯を食いしばって堪えた。
泣いてしまったら何かに負ける気がしたのだ。
しかし、込み上げてくる感情に、シルフィーは苦笑した。
「私、悲しいんだ。」
壁にもたれかかって、その場にズルズルとうずくまった。
泣かない。
泣いてなんか、やらない。
穏やかで日常に溶け込んでしまっていたものが、すっぽりと抜けてしまった感覚に、シルフィーは項垂れた。
隙間風が冷たくシルフィーの肌を刺す。
今はもうすぐ一年が終わる冬の季節。
だが、春の季節はまだまだ遠い。