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その17 ~ その20

17.再び故郷、久賀へ


 舞鶴引揚者収容所にて、消毒、久し振りの入浴、検診等、異常ない事を確認されて、故郷へ向う事になる。それでも舞鶴に二、三日は居た様だ。

 引揚げ援護局より支給された物、

   米穀購入券

   外食券   七枚(一人一回分)

   乾パン  七二五〇グラム

   毛布   一枚

   地下足袋  一足

   帽子   三(旧海軍作業帽)

   下着   一

   服(上下)  三(旧海軍作業服)

   日用品  一(洗面用)

   靴下   一

   肩掛け袋  一

   幼児服  一

   煙草   二十個

 それに持ち帰った現金七千円足らず

 これが再出発する時の全財産である。


 舞鶴より列車にて山陽線大畠駅にて下車、ここより渡航にて大島に渡る事になるのだが取り合えず、上野(母の実家)へ電話する。「無事帰って来た」と。渡船も未だ来ない朝早くであった。

 久賀の上野では、何時帰るか何時帰るかと心配していたところへの無事帰国の電話。「それ迎えに行こう」という事で上野の機帆船徳栄丸のエンジンを掛け、食事こしらえも船でしろという事で大急ぎ久賀港を出帆した。


 一方大畠港で私達は荷物の整理をしたり(たいした荷物はなかったが)して待つ事約一時間半。なつかしい徳栄丸の船体が近づいて来た。甲板上で美砂子(母の一番したの妹で私には叔母に当るが、年は私より一才下である)叔母が一生懸命にぎりめしを作り乍ら、大きな声で呼び掛けていた。船の上で食事をし乍ら、あれこれ、今迄の事を話し合ったが、一番悲しかったのは母の祖母(ハワイ帰りのウラさん)が一番可愛がっていた「キヨ」が未だ帰らん、どをしているだろうかと、近所の人達に泣き乍ら話しをして毎日毎日帰るのを待っていたのであるが一ヶ月前にあの世へ旅立ったと、もう一ヶ月早く帰っていたらどんなに喜んで旅立つ事が出来たろうにと。

 悲しんだり喜んだり話は尽きない内に、なつかしい久賀の港へと帰着した。

 驚いたのは、少しでも早く引揚げ出来るだろうと国共内戦の中を、奉天の永田家を頼って行った香川親子、それに永田一家も未だ帰っていなかった。しかし私達におくれる事一週間位で無事全員帰国して来た。


 私達が帰国した昭和二十一年夏、久賀は大変な景気であった。戦時中人手不足で漁をすることが出来なかったが、男手が復員して、いわし網が復活し、毎日毎日大漁が続き、網元である徳川は大変なものであった。徳川も子供が多く、七人位成人した人がいたがそれぞれ皆に家を一軒ずつ買い与えるという有様。

 その中へ、徳川の総領娘である香川の小母親子が帰ったのである。毎日毎日小母の好きな麻雀が開かれ、何時も家の中はお祭りの様なもの。前久賀警察署長の奥さんと年頃の娘さんはずーと徳川の家に入りびたり。網船も二艘新しく造船し、船おろしの時など久賀の浜はお祭り騒ぎであった。


 夕方になると仕事を終えた若者、それに娘さんが皆着飾って町をあちこち散策し、リンゴの歌が流れて、一ヶ月前に体験した命からがらの出来事が、うそであった様な気がした。

 若者の衣装が又私を驚かせた。久賀の町は、ハワイ居住者が多く、戦後ハワイから着る物、食べ物をドンドン送って来たらしく、若者の男はアロハシャツ、娘さんもハワイ製の服。

 日本でのアロハシャツの流行の元は久賀ではなかったかと思われる。この年の盆踊りも今迄にない盛大なもので毎晩三、四ヶ所で催され若者も年寄りも踊りの梯子をして楽しんでいた。又素人演芸が盛んになり久賀でも、白百合楽団、流れ星楽団と二ツの楽団がきそい合って、寿座で度々歌謡ショウが開催された。白百合楽団マスターは徳川の下より二番目の息子で、大学に行っていたが夏休みに帰郷していたアキヨシ(通称徳川のアキチャン)であり、私の叔父克巳(母の弟で私より一才上)もトランペッターとして参加していた。

 又一方ソシアルダンスも大流行で、寿座の観覧席を全部フロアーとし、楽団は舞台で演奏するというスタイルで、幾晩も催された。


 こんな或る一日、観光船七浦丸にて宮島へ参拝するという事で私も参加させてもらった船尾の甲板に白百合楽団がセットされ、演奏を聞き乍らの往復の船旅であった。

 宮島でのこと、引揚げてくる時帰国したらそれぞれ落ち着き先を知らせ合っていた人で宮島に帰るという方がいた。私はその人に会って見ようと家を探して見た。宮島の港より神社でない方へ行き途中小さなトンネルを抜けた所がその住所であった。家を見付け尋ねて見たらその方は宮島に引揚げて来たが、すぐ奥さんの里(関東)の方へ行ったと。引揚げて来てもそのまま生活出来るという事は仲々難しい事である。

 私達もこの久賀でどを生計を立てたらよいのか。


 久賀の町は相変わらず賑やかな毎日であったが、新学期も始まる頃となった。旧制中学二年であった弟健三は久賀小学校高等科二年に編入してもらった。令子は同じく小学一年へ編入。私は進学どころではなかった。家族七人をどをやって食べて行けばよいのか、何とか働いて少しでも助けにならなければ。行き度い学校はあったが。母方の実家でお世話になっているが何時迄もという訳にはいかん。

 仕事を見付けるまで、母方の祖父(徳右衛門)の手伝いをした。祖父と一緒に「峠のたわ」にある小さな畠の手入れ、肥料運び、海の方では祖父と小さな手漕ぎ舟に乗り、つぼ網の仕掛け、これは舟を櫓で操らねばならん、祖父に教えてもらい乍ら一生懸命舟を漕ぐ練習をして、すぐ操れる様になった。祖父は覚えるのが早いと褒めて呉れた。道網を仕掛ける時は網の一方を碇で固定して網を落し乍ら漕いでいくのである。最終的に魚を捕るつぼ網も左右の道網の中間点で、つぼ状の網を広げる為に舟を力一杯漕がなければならない。このつぼ状の網は二、三ヶ所であったと思う。二、三日して、魚捕りに出掛けた。つぼ網の個所のみを引揚げて魚を捕り又元に戻すのである。色々な(当時名前も知らない)魚がとれたが中でも大きな三尺位はあろをかと思われる鯛が網の口に引掛っていたのには驚いた。ボラ網、これも祖父との思い出である。寿座の横の河口に満潮の時に川巾一杯に網を振るのである。引き潮になった時、ボラが次々と網に引っ掛る。中には飛び上がって舟の中に落ち込むボラもいる。面白い様にとれた。ある日、同じ様にあみにを仕掛け満潮まで時間があるので家に帰っていたが、祖父が大きな声で「彰、網を上げに行くぞ」と叫んでいた。川上で集中雨があり早く上げないと網が流されてしまうと云う事である。二人で舟の中へ網の引揚げを始めたが途中でものすごく水嵩が上り、網を上げ切らないうちに舟迄も押し流される状態となって来た。祖父は残り三分の一位の所で網を切断して、引揚げる事にした。水嵩が下がってから現地に行って見ると切断して遺した網は砂の中に埋っていた。


 こをして祖父の手伝いをしていたが、これといって、良い仕事が見付からない。上野の徳栄丸の作業も当時植野にも働き盛りの男が四人もいた。私より一つ上の克巳叔父もやはり仕事がなく徳川のいわし網に働きに行っていた。

 私もこの「いわし網」で働かせてもらえば少しは役に立つと考え、克巳叔父に従って行く事にした。網元が親戚であるので、すぐ使って呉れる事になった。


{注、訂正}つぼ網に引っかかっていた鯛の大きさについて、三尺位と書いているが二尺の間違いである(約六十センチ)


 いわし網は朝が早い。克巳叔父と私は二階の部屋に一緒に寝ていたが、朝五時頃、下より大きな声で「克巳出る」と、ただそれだけ叫んで通り過ぎるのは、網元の主(祖父徳右衛門の兄で孫達は浜の校長先生と呼んでいた)で網元の徳川は、天神様の信仰が厚く、毎朝お参りした帰りに、網の出る日は呼び掛けて通り過ぎるのである。ちなみに徳川の舟はすべて、天神丸である。私達は仕度をして二人共「たま」(魚をすくう網で、トンボをとる網の丈夫な物と思えばよい。柄は短く一米位、私にも、いわし網に行くと決った時に祖父が作って呉れたを持って出掛けた。これをどう云うふうに使うのかは後で判るのである。港で出発の用意をしている。「あんふね」(網舟の事だと思う、通称このように呼んでいた)に乗り込む。この「あん舟は」二隻で一組となり「カタマラン」のように接続してありそれぞれに道網を積み込み二隻の艫の接続部分に「うをどり」(網目の小さいいわしを捕獲する網)を積んでいる。この二隻の「カタマラン」状の舟を発動機船が曳航して漁場までいくのである。漁場に着く迄に、その舟の長老が舟に設置してある「かまど」に火を入れて、お粥を作り皆で朝食をする。一隻に約十名位乗り組んでいた。


 漁場に着くと、艫に積んである、「うをどり」を海に入れ、二隻の「あんぶね」がそれぞれ左右に分れて五丁か六丁付けてある櫓を「チョーハイジャ」「チョーハイジャ」と掛け声をかけ乍ら「道網」を拡げてゆく。網目がだんだんと大きくなっていく。初めの「うをどり」は5ミリ角位の網目「道網」は5センチ角10センチ角20センチ角、最後は30センチ角位になっていた。中心部の「うをどり」網から最後の30センチ網目でも小さい、いわしはくぐり抜ける事なく障害物と思って、道網に導かれて、最終の「うをどり」へ入って行くのだ。網を拡げ引き始めの形状は「うをどり」を中心に「道網」で円弧を描く。「あん舟」同士の距離は引き始めは三百米位であったか。この二隻のあん舟がそれぞれ碇の操作でだんだんと近寄って行く。碇の操作はそれぞれの伝馬船で行う、これと同時に「ロクロ」により網を捲き込んでいく「ロクロ」には四本の腕がつけられ一本に一人か二人がとりついて、捲き込む。捲き込んだ道網には「いわ」(おもりのこと)と「あば」(うきの事)がつけられていてそのうち「うき」の法は10米位の間隔で二斗樽の浮きがついている。「ロクロ」で捲く時、この樽につまづかない様に足元に気を付け乍ら作業をするのである。馴れる迄は大変だ。左右二隻の、「あん舟」の引き具合を見乍ら合図を送る親舟は網の中央「うをどり網」の上にいて、「テボ」(うちわ形で紙のかわりに白布で先端を長くした手旗のような物)を左右の手に持ち左右のあん舟に知らせる。

いわしが、「うをどり網」に入っているのが見えると左右両方の「テボ」を万歳の形にあげる。これを見て、「あん舟連中は又勢いを出して「ロクロ」を捲くのである。最後は、「うをどり網」を中にして、親舟と二隻の「あん舟」が三角形になり、いわしの入っている「うをどり網」を引き揚げる。この網を引き揚げるのに腕で引いても上がらない。腕は一杯に伸ばし腰を前傾させて網をつかみ腰を伸ばして皆で掛け声を揃えて引き揚げるのである。揚げられたいわしは親舟に積み込み、親舟は発動機船に曳航され、久賀の洲先の浜へと帰り、荷卸をした後に、又次の漁場に乗る事になる。その間に「あん舟」は又「カタマラン」状に接続してそれぞれ櫓を操り乍ら次の漁場に行くのであるが、それまでに各自持ち込んだ「たま」にとれた鰯を掬って自分のものとして貰うのである。長老は少し大き目の「たま」に、鰯を入れて伝馬船で岸に揚り農家を訪れて、さつま芋や、かぼちゃと交換して又「あん舟」に戻り、それを、かまどで茹でて皆で食べる。又それぞれ弁当(弁当といってもブリキで作った丸い飯盒に入れたお粥である)を食べる。交替で食事をとっている間に次の漁場に到着し、二番目の網が始まるのである。

 

 こをして一日に普通二番位網を引く。時には三番網を引く事もあるが大体夕方迄には帰って来る。私達新入りは、一番終るごと、あん舟の掃除である。舟板を「ヒシャク」で海水を掬って洗い流し、舟板に溜った「あか」(舟板に溜った海水のこと)を同じ「ヒシャク」で舟の外へ排水する。家に帰ると自分の「たま」にもらって来た鰯は家の者が「サッ」と湯に通して天日で干して「イリコ」にする。親舟で州先の浜迄運ばれた鰯は十個所位あった製造小屋にて、それぞれ大きな釜で湯を通し浜に並べて拡げてある筵にきれいに播いて天日干しにして、「イリコ」とする。上野にも一軒製造小屋があった。一ヶ月の賃金はすべて現物支給である。製造小屋での製品も網元に収めて、製造手間として現物支給であったのだと思う。私達舟子も現物支給で私達新米はとれ高にもよるが、大体月三、四俵であった。古い人は十一、二俵もらっていた様だ(一俵とは二十五センチ丸で長さ七十センチ位の紙袋である)。当時十俵位で一ヶ月暮せる程の価値があった様だ。私の三、四俵で七人が食べて行く事は出来ない。父も時々いわし網に行く事もあったが、父は「いりぼし」を仕入れ、すでに引揚げてから岡山県津山の方に行っていた永田家を訪ねて津山近辺で、物々交換で必要物品や現金にして帰って来るという、かつぎ屋のような事をして、なんとか生計を立てていた。


 当時は戦後のものすごいインフレで、公の職業、役所、警察、鉄道、どこに勤めて一ヶ月の給料で米が二、三升しか買えない。また米一升で地下足袋一足が買えるといった具合。貨幣の価値は全然なく、すべて物々交換でないと生活出来ない。従って久賀を含めて周防大島では、この「いりぼし」を含めた海産物と秋より出廻る「みかん」が貨幣のかわりをしていた様なものであった。貨幣が使用出来るのは、交通費、郵便代等だけだったと云っても過言ではない。日本全国が物々交換でなりたっていた。配給の食料だけで生活していたある裁判官が餓死したというニュースも報じられた時代である。


 鰯網も秋も過ぎて来ると、海が荒れる日が多くなり、「いわし」もあまり、とれなくなった。

 ある日二番目の網引きの作業中、海の荒れに巻込まれた事がある。漁師さんは天候や海の荒れに詳しいのであるが、この日は予想より早く荒れ始めた。大急ぎで網を引き揚げたが常のように「カタマラン」状に繋ぐ事は互いに舟がぶつかり合って、破損してしまう。「あん舟」同士は、「うをどり網」で両船が繋がっているので、その個所を切り離して、縦列に船を繋ぎ直し、発動機船で曳航してもらったが、ものすごい揺れで私などは、舟の真中で、しがみついていた。さすが海に馴れている漁師さんは、櫓を上手に繰り乍ら舟の転覆を防ぎ、港に帰り着く事が出来た。この様に海の荒れる日が多くなると鰯網操業は段々と難しくなり海の仕事も、いわし網から、鳥貝網に変っていく。この鳥貝舟は、海の荒れている風邪の強い日に出漁する。素人はこの舟には乗れないのでどんな操業するのか、聞いたところでは、風の強い時に帆を上げて舟を横方向にすべらせるようにして、舟からおろしている貝取り用の網(細い金棒で作った大きな櫛の形をした物に袋状の網をつけたもの)で海底を引掻き乍ら風の力で操業する。一隻でこの網を三ヶか四ヶを付けて行うらしい。この鳥貝はサッと湯通ししてこれも天日で干すのであるが、これは生でも、焼いても、煮ても、本当に美味で貝類ではこれ以上おいしいものはないのではないかと思う。この鳥貝で思い出されるのは、「たきごめ飯」の事である。(久賀では、たきこみご飯の事をこの様に発音していた)

 

 昭和二十一年暮、まだ食糧事情は悪く、何も入らない飯は「銀めし」と云って貴重がられた。しかし上野の家にはブリキで作ったドラム缶の何倍もある米の容器があり(何石入っていたのか知らない)夜これを、克ちゃん(克巳叔父の事)が「ソー」と袋に入れて持ち出すのであるが、底についている扉状の蓋を上げると、可成り大きな音がして家人に気付かれる。克ちゃんはよく冗談や面白い事を云って人を笑わせる人で、この音消しに楽しい策を考えた。少年合唱団の登場である。近所の小学校高学年の子供を集めて、家で歌を合唱させてその間に私が米を袋に流し込むのである。歌が一章説終ると抜取りを止め、次の歌が始まると又流し込む。袋が一杯になるまで、合唱団の指揮をとるのである。この米を持って港の釣り舟迄行くのであるがその途中に、先程の鳥貝が家の外に干してあり(家の中にはとり込んでなかった)これを一通り分手ですくって歩き、釣り舟の中で炊くのである。もちろん調味料等は舟にあるのを使用して鳥貝のたき米飯を作り、合唱団も一緒に食べるのである。釣り舟には、明りはないが、港の外灯の明りで充分であった。このたきごめ飯のうまい事、忘れられない味である。


 ある夜など克ちゃんが当時としてはこれ又珍しい牛肉を買って来て、これに鳥貝も入れて「たきごめ」をしようという事になり、もう指揮者の必要のなくなった少年合唱団の努力もあって、克ちゃんが米タンクより米を取り出して釣り舟に行き、皆で炊き始めた。醤油と牛肉、それに鳥貝の匂いが、ただよいだし、肉入りの「たきごめ」が出来上がった。

 「それっ」とめいめい茶碗に注ぎパクついたが、皆一様に変な顔をした。ご飯になってないのである。炊く前と同じ固さである。よく見ると何と、まだ搗いてない玄米であった。克ちゃんがタンクを間違えて抜き取ったのである。結局食べる事が出来ず、米粒を振り落として肉と鳥貝だけを食べる事ななり、空腹はおぎなえなかった。


 この時分は何時も食べる事しか考えてなかったようだ。食糧不足は全国的であったが、私達はまだ恵まれていた。母の実家のお陰で何とか食材が手近にあった。

 メリケン粉も家にある事を克ちゃんが見付け、早速私が電気式蒸しパン器を製作する。板切れで蓋の無い弁当箱を作り内側の両面に銅板を張り付け、それに電線のプラス、マイナスをそれぞれ接続した。メリケン粉に貴重品の砂糖少し、炭酸少量を入れ水で溶き流し込む。スイッチを入れるブーンという音がして見る間に蒸しパンが出来上がる。これは非常に便利で手早く食べる事が出来るが、家のヒューズが度々切れるのである。あわててヒューズの入れ替えをするのであるが家の者はこんな事を二階で私達がしていると知らないので、おかしいなあともらしていた。


 こんな事をしている間に、昭和二十一年、生命を晒された満洲での国共内戦から引き揚げて自由を謳歌出来る、この百八十度転換の記念?すべき年も後わずかとなりつつあったが、此の年はこれでは終らなかった。新しい次の年が来る迄に、岡山県の山奥へ開拓に入る事になる。今から思うと楽しい四ヶ月ちょっとであった。



18.岡山、八神ねりがみ開拓入植


 どうして岡山県と関係があるのかというと、渡満する時に永田一家と一緒に渡った、この永田の伯父(父の長姉の夫)が津山駅の助役をしていたがある事情で鉄道省を退社して満鉄に入社したと記した。この事情であるが、それは、リム伯母(父の長姉)が体が弱く病弱で、いろんな病院で診てもらっても良くならず困っていた時、天理教東津山分教会長に色々と助けてもらい、見る間に体が回復に向かい、全快するのである。この事から夫婦が熱心な信者となり、回復後伯父も鉄道省を退職して天理教一本に信仰の道に入ったのである。その後、同じ鉄道省津山管区の通信の職員で同じく官舎に住んでいた岩谷茂氏が病で倒れた時、永田夫婦が助けたのである。こんな事情で岩谷夫婦も又、氏の妹の嫁ぎ先(同じ岩谷姓)であり、津山市郊外の大崎で割烹旅館を経営していた旭屋夫妻も入信して、ここに永田、岩谷両一家が同じ家族の様な形となったのであるが、信仰のみの生活は厳しく又、満洲でも信者を増やすという考えで満鉄に入社したのであるが、敗戦後引揚げと云う事になり、永田一家は、東津山の教会へ帰って来て信仰の道一筋で通すという事になる。


 この伯父は、人望もあり人当りも柔らかで戦後の生活しにくい世の中で親戚兄弟がこの人を頼って、東津山の教会に集まる事になる。伯父もこの大人数の家族の生活を考えて、当時引揚者対策に全国で募集されていた農地開拓事業に申込み、岡山県久米郡吉岡村八神(ネリガミと読む)に入植する事になる。

 この入植に当っての農地が先程の天理教東津山分教会であり、当時会長の竹内先生は高齢であった。この時、久一伯父について来ていた房江姉(私の渡満の項で書いた叔父中村青田の妻、叔父は出征して終戦後ロシアに「抑留」されていて二人の子供、正希、幹も一緒に)が世話をする事になった。

 昭和二十一年十月、私と父が一番先に現地に入った。開拓地、八神に入るには二つのルートがあった。一つは東津山から津山、佐良山と国鉄津山線に沿って亀甲まで行き、亀甲より道を東方に入り山路を通って現地着、もう一つのルートは、東津山より吉井川沿いの道を南行し大戸下より西方向に行く。どちらも距離は同じ約二十キロであり最終コースの亀甲より山道ともう一つの大戸下よりの山道の距離約五キロも同じであるが、荷物を運ぶ為の大八車は大戸下ルートでは途中、荒神コウジン部落の所で車が通らない個所があり、荷物を運ぶのは亀甲ルートでないと駄目と云う事が判った。しかし、どちらのルートでも最終入植地までの最後の五百米は徒歩でないと行き着く事が不可能である。又荷物の少ない時は津山線利用で亀甲までは行けるので、このルートをとる事とした。


 現地に着いて先ず、軍隊言葉で言えば橋頭堡である。幸に戦前に作業をしていたであろう炭焼小屋の跡地を見つけ平坦であるので、ここに雨風をしのげる小屋を作ろうという事で早速潅木を切って来て枝を掃い、二又を数組作り合掌造りの柱のない小屋を組笹や潅木の枝で屋根を。妻側も同じく笹で覆い出入口もむしろを吊り下げ床も同じく枝や枯葉等で作り何とか小屋が出来上がった。この炭焼小屋の跡地は初めは気付かなかったが、大変な幸であった。それは笹で覆われていて見付けられなかったのだが、良く見ると木炭の切れ端が多くあるのである。暖を取る事が必要であるのにその事に気付かず他の事ばかり考えていたが、その夜この木炭の有難さを痛切に感ずる事になる。

 秋口の短い日、夕方となり早速一泊する事にして用意して来た弁当をとり暗くなり寝る事にして持ち込んだ毛布にもぐり込んだが寒くて寝れる事が出来ず、早速集めていた木炭で暖をとり横になったが火のある方は暖かくても反対側は冷たい。向きを替え乍ら眠ろうとしたが、下からの冷たさはたまったものではない。まるで氷の上の様で、とうとう一晩中眠る事が出来なかった。

 こんな体験は初めてであり、何も知らずに山に泊まったのであるが、後程ベテランよりこんな場合は寝る前に、その場所で焚き火をして、しばらくして火を落とし、その上に木や枯葉を敷いて寝ると朝迄暖かく眠る事が出来るのだと。こうして入植一日目は終りその後少しずつだが必要品を持てるだけ持ってこの三角小屋に通うことになる。


 ある時、父と私それに、教会長の孫に当る竹内繁氏(当時二十五、六歳だったと思う)の三名で例によって小荷物を運び山で一泊する事にしたのであるが、夕方より降り出した雪がシンシンと積もり出した、三角小屋の中で木炭で暖をとり、アルミの平底鍋で持参した弁当代わりの輪切りにしたサツマ芋を焼いて食べていたが、この繁さん、大変愉快な人で、サンマの歌をもぢって一句。

「芋よ芋よ 芋は甘いか塩っぱいか

  その上に塩を振りかけて食らう

   男三人寄りて夕餉に向い

    雪の中に埋もる

  ああ 吾れ又何をいわんや 」

 本当にこの時は雪の中に埋もれてしまい、探しに来ても見付けてもらえないのではと三角小屋の上に竿を立て目印をしないといけないのではと真剣に愁いたものだ。幸にもそこ迄には至らなかった。

(この繁氏がやはり満鉄に入った永田久一氏を頼って渡満し、満鉄、鉄道警護隊に入隊した人で、終戦後無事に引揚げて来ていた。私達とは満洲でも面識があった。)


 東津山の教会と山の三角小屋を度々往復する事になるのであるが、この東津山の教会で永田一家と親戚以上の付合いをしていた岩谷茂一家と初めて逢う事になる。鉄道省に勤めていて、のちに天理教に入信した茂氏は其の後他界して、子供三人、十九歳の娘泰子。十六歳(数え)の慧子。十一歳の息子秀で、母親と一緒に度々教会に来て手伝いをしていた。若い者同士何かと話をする様になり、私は何時しか妹娘の慧子に好意を持つ様になった。彼女も私に好意を持ってくれたのか、ある時など三角小屋迄一緒に来てくれて食事の世話等をしてくれ、三角小屋で一泊して帰る事もあった。私もこの開拓の仕事に「何んでこんな事をしなくてはならないのか。同窓生は、それぞれ進学して勉強、又はもう少しましな仕事をしているのではないか」と考えると、いても立ってもおられない様な心境であたのであるが、この事で何とかやって見ようという気になってきた。現金な者である。


 あわただしかった昭和二十一年も暮れて来て正月前父と二人で久賀へ正月休みという訳で帰る事になった。交通の便悪く大畠駅に着いたのが大晦日夜で渡船で大島の小松港まで渡ったが、そこから久賀までの交通の便何も無し。結局夜道を歩いて帰る事にした。家に着いたのは新年昭和二十二年に入っていた。

 新しい年になって俊雄兄一家が加わった。子供、保、明、哲雄を加えて四名。従兄の永田家の二男和久(彼は終戦後国鉄に入社して、林野駅に勤めていたが、これも退めて入植)も加わり男手として四名となる。何といっても家族と一緒でないと開拓の仕事は何かと不便。少なくとも、山で或る程度の寝起き可能な小屋を作るべきと。三角小屋を橋頭堡として少し大きな建物作りに着手した。二間半三間位の大きさで屋根は近くの農家(近くの農家といっても一キロ位北方に下り、昔からの本当の八神部落)に行き稲藁を分けてもらい葺いた。壁は相変わらず多く自生していた笹で囲い床は今度は寒さの事を考えて地面より丸太を並べ笹を敷きその上に筵を敷き、平坦にはならないが何とか布団を敷けば休まれる様になった。骨組は、やはり自生していた潅木であるから梁の位置は大の男は顔が当る高さである。

 水は建物の横の泉から(この泉があるのでこの土地を選んだのである)便所も作り婦人が入っても可能な囲いも作り、何とか家族も無理をすれば生活出来る。

 この建物を誰言うとなく「笹の家」と呼ぶ様になった。男四人で仕事も捗り二日位で出来た。

 この建物で共同生活するメンバーは、俊雄兄一家四名、房江姉一家三名、中村家は母と久美子、洋子五名(健三と令子は就学中であり久賀に世話になる事にしても少し落ち着いた時点で呼ぶ事にした)それに永田和久兄、計十三名が生活する事になる。


 山に住む為の生活用品作業用具一式を運ぶのに、大崎の農家で新しく購入していた大八車を借用する事にして、この車で亀甲ルートを、七、八回運んだであろうか。東津山より津山経由で亀甲までは平坦な道であるが、その県道より分れ、山に近づくに従って、傾斜が段々ときつくなり曲がり道を次々と通らなくてはならない。その曲がり道のひとつに来ると必ず父が大便を催し「野ぐそ」をするくせになり、その曲がり道は「くそまがり」と名付けられた。このくそ曲がりを過ぎると道は益々険しくなり、車を曳くだけでは動かなくなる。両脇の車輪に手をかけて無理矢理車を廻し乍ら登る事になる。何とか車を押し上げ開拓地についても最後の笹の家迄の約二百米位は背にかついで品物を運ばなければならず、馴れない作業で皆、ヘトヘトである。しかし体は疲れるが冗談など云い合い乍ら楽しく二十キロの道を往復したものである。借りた大八車を返す時、新品であった車も大分痛んでいたが、貸してくれた方は何も云わず気持ち良く受取ってくれた。これも久一伯父のお陰であったのだと今になって思う。


 当時、私達より先に入植していた方々は、朝鮮より家財道具一式船に積んで引揚げて来て、年寄夫妻、本人夫妻に子供二人、六名ですでに小さな田圃まで作っていた佐々木さん、この方の風呂を入植当時は借用した。それに小さな三歳位の男の子を連れた須藤さん夫妻、岡山勝央町?より入植した丸山さん兄弟とその母親の三名。開拓地大戸側ルートの入り口に居を構えていた夫婦子供一人の日笠さん、この四家族であった。ここへ私達が入植したのであるから、皆さん賑やかになると非常に喜んでくれ、何かと面倒を見てくれた。


 吉岡村役場(大戸下)に転入届を済ませ、配給品もこの大戸下まで、月二回程度受取りに来た。

 配給品は、充分ではないが米、米に変って芋類の溶きもあった。たまに砂糖少々、煙草の刻んだ物その他の配給品。すべてリュックに詰めて背負い、約五キロの山道を運ぶのである。配給を受けに行く日は、入植者の男全員一日がかりである。男連中に混じって房江姉も頑張って運んでいた。

 電気のない石油ランプの生活であるが、五右衛門風呂も設置して笹の家での生活も或る程度出来る様になり、本来の仕事である開墾の仕事も、県から測量に来て、私達の土地割も大体出来、それぞれの土地を開墾し始めたが、これが大変な作業である。元々この土地は森林の伐採跡で切倒した後の切株が点在し、この根を掘り出すのは仲々出来るものではない。初めは挑戦して見たがあきらめて切株は残して開墾する事にした。切株の廻りは笹が密集していてこの根っ子を取るのがこれ又大変、一日掛って二坪。よくて三坪出来上がれば上々である。

 このように山でのしなければならない仕事は大体決まり毎日唐鍬を振り卸し石ころに悩まされ乍ら少しずつ畠を広げていった。


 だがこの仕事ばかりでは現金収入ゼロである。入植に際し県より一家族に対して五千円の資金を後払方式で貸してくれたが、収入がなければたちゆかない。従って自分の畠の開墾はほったらかしにして、近辺の農家に日雇い作業に行き、日銭を稼がなければならず、畑の作業、収穫物の取り入れ等々、又営林署の作業で、山の斜面に、杉、桧等の植林作業、田植え時期の田植え作業(この田植、初めは足がぬるっとめり込み気持悪かったがその内馴れた)

 この日雇い作業で一番嬉しかったのはこの田植手伝いの昼食であった。混ざり物の無い銀めしの握りに、ジャコに醤油をかけたもの、沢庵漬け。本当においしいと思った。

 笹の家でまだ婦人達が来ていない時、御飯は炊いたが、おかずが何もなく、塩を入れていた重箱のすみに少し残っていた塩を舐め乍ら、めしを飲み込む様にして食べた事を思い出した。


 春先になり伯父の長男である永田文弥氏が加わった。彼は終戦後、警察官として大阪曽根崎署に勤務していたがこれを退職して来たのである。又伯父の鉄道省時代の親友の上野さん(母の実家の上野とは関係ない)が息子一人を連れ三人で入植し、笹の家の上の方に小屋を造り開墾を始めた。


 開墾の仕事、日雇の仕事で忙しい毎日を過していたが、年度末になり、久賀で通学していた健三は卒業、令子は二年生に進学であるので新年度は当地から大戸小学校に転入手続きをして山より通学する事になる。

 この三月に久一伯父のすぐ下の弟正一氏一家もこの開拓事業に加わった。戦前は神戸で讀賣新聞の配達所を手広くしていた方である。夫妻に子供三人の五人である。私達の橋頭堡、三角小屋の上の方に小屋を造り入植した。


 四月年度始め、山より小学校に通う児童は、この正一氏の長男と二男(四年生と二年生位)、上野さんの息子(三年生位)これに令子で四人が約五キロの山道を通う事になる。小さな子供達がこの山道の往復、それは大変な事であり、又可哀想に思えたが、子供達は道草をし乍ら何とか通った。健三は良い話があって、亀甲の製作所に住込みで働ける事になった。

 一応進学、就職も順調に進み、仕事も開墾一本で作業を進めるべきであるが、日雇作業はこの山にいるかぎり続けなければならない。金に成る物、今の所何も無し。日雇作業、又開墾、配給と時は過ぎて行ったが、笹の家での大人数での合同生活も何時迄もと云う訳にも行かないだろうと、各戸で住む家を建てる事になった。


 永田家は兄弟二人で建築作業は出来るという事で私は俊雄兄と組んで最初に中村の家を建て、完了後、俊雄兄の大勝の家を建てる事にした。房江姉は、俊雄兄の家で一緒に生活出来る様な間取りとして建てることになる。父は、この間出来るだけ金銭及び食料等を主として便宜を考える。(久賀より、いり子、みかんを仕入れて、東津山、津山、亀甲で交換し主食、その他を調達する。)


 建築用材であるが、木材は開拓地の近くの杉、桧の植林地の中から間伐材として伐採して良いという事になり板材の他は丸太で作る事にした。又、開墾地より十キロ位離れた本山寺の麓の竹林よりこれも間伐の形で切取ってよいと云う事で、竹材として戴く事になり、近くの農家より大八車を借用し、山の者皆で切取りに行く事になった。皆竹を持ち帰れば用途は色々とあるのである。早朝より夜迄の一日係りの作業であった。山より一応大戸迄下り途中から本山寺麓まで山道を登るという。下り、登りと云う道順であった。


 私の家は笹の家と、上野さんの小屋の中間位の所に泉があるのでその前を父と二人で平に切り崩し宅地を造成する。この時点で皆それぞれ各戸の建築場所も決り宅地造りに専念し、大体出来たところで材木の伐採に俊雄兄と始めた。俊雄兄は何事にも造詣が深く早速伐採の仕方を教えて貰う。切り方によって或る程度倒す方向が決められる。こうして用材を次々と伐採し樹皮を現場でむき、二、三日して運ぶ。樹皮をむいて、すぐでは木材の樹液で滑って運びにくいため、又剥いた皮は後程色々と使用出来るので寸法は一定にした。


 七月に入ってからその日も朝早くから俊雄兄と桧の伐採に精を出して仕事も順調に進み、伐採の仕方も大分馴れて来た時、前に倒した木の上に私が伐採した木が倒れそれによって切倒した木が大きくはねそれが私の顔左面に当った。見る間にはれて来て、左目も開けておれなくなり仕事を中止して笹の家に帰った。この日慧ちゃんも来ていて、一生懸命冷して呉れたりしていた。午後三時頃、小学生達が大戸下の小学校より帰宅して来た。令子が手紙が来ていたと、持って帰った。正雄兄と一緒に出征した宮木さんからである。

 封を切って愕然とした。兄の戦死の知らせである。何と一年も前、終戦直後の八月十七日にロシアの迫撃砲であの世に旅立ったと。

 我が家の者皆毎日毎日今日帰って来るか明日帰って来るかと待ちに待っていたのに・・・・・・

 顔の痛さなど吹き飛んで、くやし涙があふれ出た。母の姿見るにしのびなかった。こんな、むごい事があるのかと。当分の青だやさしかった兄の笑顔が目先にチラつき、仕事も手に付かず、思い出す度に涙がにじんできた。

 八月一日付の正式な戦死の公報が来て、久賀に帰り葬儀を終えて、笹の家に帰って来た。

 何時迄も悲嘆にくれてばかりも出来ず、建築の作業に打込む事にした。


 大工一家に生を受けたとは云ええ、私は大工仕事、まして建築など何も知らぬ。本当に博士の状態で作業に臨んだ。俊雄兄は本当にどんな事でも知っていた。大工作業についても勿論である。丸太による構造物の造り方。水準器を使って、丸太両小口に水平垂直の墨をして、その両方の小口の墨を結ぶ様に縦方向にそれぞれ4本の墨を打つ。この墨が総ての基準として造作するおである。土台にする松の太目の材の切込みから始まって基礎水平の出し方、梁、柱、束柱、棟、合掌、垂木と。出入り口、窓等の平らな面も丸太よりチョウナで面を作り、鉋掛け、敷居の溝造りも、(丸板以外はすべて丸太による。購入した木材は床板と建具に使う角材だけである)墨の仕方、組手、継手の仕方。鉋の研ぎ方、鋸の目立ての仕方、藁屋根の葺き方、屋根葺き用道具の作り方。使い方、小舞竹の仕方、壁の塗り方等々々、よくもこれだけ何もかも知っているものだと驚きもし、尊敬もした。この時習った事は今も忘れない。すべて覚えている。(昭和六十一年に三田の山にログハウスを自分で建てたがこの時教えてもらった事が大いに役立ったし、昭和四十年、建築士の免許も取得した)


 屋根葺きや壁塗りの下地造りに先日もらって来た竹が役立つ事になる。屋根用の藁運びが大変であった。一キロ位下の八神部落より購入して担ぎ上げたのである。一人一度に背負える量は知れている。父と二人で何遍の何遍も運び上げたものである。荒壁の下塗りだけの建物であるが、二間に四間で押入も便所もある建物が出来た。部屋は六帖一間で六帖位の土間、土間の中央に囲炉裏。片側に竈。筵敷ではあるが平らな床面。出来上った時の嬉しさは作った者でないと味わえないだろうと思う。一ヶ月半は掛ったのではないかと思う。次は俊雄兄の家である。二家族入居するのであるから、私の家より一回り大きな建物とする。土間を挟んで部屋をそれぞれ作る事になる。この時分になると私も指図をされなくても墨を打てるし組手もすべて出来る様になり、俊雄兄が別の用事で不在の時も仕事をこなす事が出来た。この家も私の家と同じく丸太材を主として建築する。秋口朝晩涼しくなりだした頃出来る。

 俊雄兄宅のすぐ上に永田兄弟が建築中であったこの家は二階建である。用材も角材を購入しての作りである。一階は天理教教会として二階を居間とする予定であった。私達の家が終了した時は未だ六割位の出来であり、俊雄兄、私も手伝い寒くなる前に完成する。



19.開墾地での生活


 不完全とはいえ、どうにか住む家も出来て、いよいよ本格的に開墾地の仕事に取り組む事になる。伐採後の太い木の根っこ、笹のつながった根っこや、数多くの小石を戦い乍ら、少しづつ畑を拡げて行った。冬の作業としては体が暖まり好都合。その内、汗が出てくる。冬で汗が出ると云う事はそれだけ激しく体を使っている事。 馴れない作業で、本職の人から見れば、まだるっこかったのか亀甲ルートで開拓地に一番近い、越尾部落の長老、志茂のぢいさんが杖をついて、三日にあけず私達の作業振りを見に来ては、「山はもうからんぞな」と云って、皆に云い歩いていた。このぢいさんが、開墾の仕方や山仕事のちょっとしたコツなどを教えてくれる。驚いた事に、この「もうからんぞな」のぢいさんの次男が私達と同じ開拓地に入植して来たのである。次男の入植が可か不可か調べにずーと私達の様子を見に来ていたのであろう。その結果、可と判断を下して、早速、開拓地の一番高い土地に入植し、あれよあれよと云う間に、それは、あまり大きくはないが立派な家を造った。田舎造りではあるが広い縁側、虹梁(広い縁側の庇を柱なしで支える為の自然木の太い梁の事)のある本格的な建物である。

 入植して来た若い夫婦には二歳位の女の子(都ちゃん)があった。しかしこの志茂さん一家は、二年もたたずにブラジル移民として八神開拓地を去って行く事になる。

 開墾地の作業に一生懸命汗を流して働いてもすぐに作物が出来る訳でなし、土地も酸性土で大した肥料もなく、わずかな堆肥を作って入れるだけ。畑も平坦な所は一ヶ所もなく、すべて傾斜面であり、畑を耕す度に一番下の土を上まで運び揚げなければ、斜面での畑の形状を何時迄も保つ事が出来ぬ。(こんな事は畑作りを始めてから、気付き、土を上に運び上げる事は近くの地元の人に教えてもらった次第である)ある程度の事は覚悟をして入植したのであり、体を動かす事は、苦にしないと決めていたが、何せ現金の収入がない。冬場の現金収入の仕事をして営林署より薪割りの仕事をもらった。間伐材を六十センチ位の寸切りにして割り手頃の太さに束ねるのである。しかしこの仕事も何時迄もある訳でなく、近所(と云ってもかなり離れているが)の農家あちこちでの日雇い作業に精を出す。

 何としても、きまった現金収入がないと、いくら精を出しても開拓の仕事は不可解である。

 県からも素人である入植者に対して農業指導らしきもの一度もなし。一度現況を見に来た程度であり、県も力を入れては呉れなかった。


 昭和二十三年当時、国では戦後の復興が始まり、開拓地より十二キロ離れた吉岡村、柵原鉱山では肥料の硫安の原料である硫化鉄鉱の生産が復興事業として重要になりつつあった。

 ここに現金収入の道を求めようと、入社の伝手を既に柵原鉱業所工作課電気係に勤務していた、慧子嬢の叔父(茂氏の弟)を小瀬に訪ねた。慧子嬢との因縁は何かつながっていた様で、父が久賀へ引揚げて来て、初めて岡山の大崎、旭屋に身を寄せていた永田一家を訪ね、大崎駅で近くにいた娘さんに旭屋の所在を尋ねたところ「私の住んでいる家です」と案内してくれたのが、この慧子嬢であったと。(それからずーと現在までつながっているのであるが)

 鉱業所入社の依頼をしに行ったのは私と従兄の永田文弥氏、それに同じく開墾地で苦労をしていた丸山のアンチャン(私より三つ位年上で皆この様に呼んでいた)、三人である。

 三人共、慧子嬢の叔父、岩谷和男氏の骨折りで無事入社出来、昭和二十三年二月より就職する事になった。

 しかし山より歩いて二時間以上もかかる鉱山迄は大変と云う事で、丸山のアンチャンの世話で鉱山町の久木より歩いて四十分位の山の上の石道さん宅の離れを借りる事になり、三人で自炊し乍ら鉱山に通う事になった。


20.鉱内作業


 人事課に顔を出し、木製の入番札なる物をもらった。それには運搬夫、中村彰と書いてあった。そうだ、同和鉱業社員というよりも鉱内夫である。(この夫も年末には員と変った)夫であろうが員であろうが作業に変りはない。私は七、八番坑で働く事になり、文ちゃん(文弥氏の事を私達はこう呼んでいた)と丸山のアンチャンは九、十番と云う事になった。私の七、八番坑の親方は、仕事の世話をして呉れた岩谷和男氏と同じ部落の小瀬の方で名前は面白いが、牛房と云った。髭を生やした仲々の好男子である。新入社員であるが、会社側より社員教育というもの一切なし。岩谷氏より大体の事を教えてもらっていたが。それでも初めてのケージ(エレベーターであるが、囲いがすべて網である。)で岩盤を縦に刳り貫いたままにガイドレール用の木枠のみが見える立坑を百数十米一気に下る。馴れない事とは云え肝を冷やした。初めての坑内湿度は高く、温度も二十七、八度はあったと思う、蒸し風呂の感じ。七番坑で降りて、近くに岩盤を刳り貫いたままの控所があり、長い机と長い腰掛けが設けられ、それぞれ弁当や着替えを入れる木箱がある。作業用のスタイルは(当時は未だ安全については考えられてなかった)、上半身はだか。タオルの鉢巻、厚手の布の前垂れ、それに地下足袋という姿である。この準備もあらかじめ聞いていたので用意していた。八時からそれぞれ入坑し九時から作業である。坑口の番割所で牛房親方の指示によりこの日の現場グループを聞いていたのでその三、四人のグループにボーシンに従って切羽に行く。発破により鉱石を砕いたままの状態である。明りは採用決定時に購入したアセチレンの手提げガス灯である。控所横の道具番より借りて来た「テミ」(鉄板製のチリ取り様の物。両手で持つ)それに「掘羽」(ホッパ。手の平の様な形の金鍬状のもの)このテミに崩れた状態の鉱石を掘羽で掻き寄せ、これを両手で持上げて鉱車に積み込むのである。鉱石の重さは普通の岩石の四倍位あり、両手と腹で支えなければとても運べない重さである。作業は請取りであるので、九時より十二時迄ほとんど休みなしに作業をする。

 腰が痛い。ボーレンが休まない限り勝手に腰を伸ばし一息入れる事は出来ない。十二時やっと午前中の作業を止め、控所に帰って昼食をとり、まだ口の中に御飯が残っているのに昼からの作業に掛る。ほとんど休憩らしき時間はとらない様だ(その日のボーレンにより休憩をとる人もいるとか)午後の作業時間は短い。二時半には終り、控所で汗を水道にて流し、着替えをしてケージにより地上へ。地上の空気のウマい事。三時半になれば退勤。これが運搬夫の一日の作業である。


 三人で始めた借家生活は順番で炊事をする事にして持ち寄った米で夕方御飯を炊き、翌日の弁当を作っておいて夕食と翌朝食はおかゆにして食べる。米は貴重品であり、家の者も充分には食べてないのだ。おかずは仕事の帰りに簡単な物を買って来る。この様なパターンで続ける事になるのであるが、作業時間は短いとはいえ、相当にきつい仕事である。月に十五日以上勤めれば食料その他の特配が受けられるのであるが、働いている人に聞いて見ると十五日勤めるのが精一杯だと。


 一日の日当は、請取り作業で、平均八十円。ものすごく頑張った日で、一日百円を越えると、皆の噂になる程であり、初めは月平均二千円位になったと思う。作業員の出入が激しかった戦前の名残りか、給料は月二回に分けて支払われていた。

 仕事について初めての給料を受取った。丸々一ヶ月働いた訳ではないので大した金額にはなっていなかった。この一回目の給料をもらってから数日後、私と一緒に働きだした、従兄の文ちゃんと丸山のアーちゃんは辞めてしまった。仕事のきつさに付いていけないと云って。しかしこんな事を云って仕事を投げだす事が出来るのは、幸せだなと。金が入らなくても何とかなるからだろうと。私はそうはいかなかった。又、坑ないで多くの人が頑張っているのだから自分にも出来ると。私と同じ作業をしている人も、見たり聞いたりしてみると、私と同じ様に終戦後は仕事が無く坑内作業は初めての経験だという人も可成りいた。中には戦前からの坑内作業をしている人で、あちこちの鉱山、炭坑を渡り歩いてきた人。体中入れ墨をしている人。小指をつめている人等々、色々な人々と、その日その日に組になるのである。どんな人達と組んでも皆に負けない様、裏表なしに働く事が、皆と仲良くなれる一番の方法であり、又新入りとして皆に可愛がられる元である。


 三人一緒の下宿であったが、一人になってしまい、一ヶ月足らずの生活ではあったが、下宿をあきらめ、八神の開墾地から通う事にした。開墾地から鉱山までの距離約十二キロ、山を下り始めてすぐの荒神部落(この部落はまだ開墾地のすぐそばであり山の上である)、それから下った所が王入部落、ここからは下りがゆるくなり吉井川右岸の大戸下部落(村役場のあるところ)、ここが中間点、ここから吉井川にそって下り、栗子、小瀬、久木、柵原に着く入坑の為の番割り受時間が八時であるので、家を出発するのは大体六時前となる。三月では未だ暗い。まして山道で林の中であるので明りなしでは歩く事が出来ず、坑内で使用する、アセチレンカンテラをつけて歩く事にした。王入まで下る頃には明るくなって来た。片道約二時間ちょっと。坑作業をして明り(坑外の事)に出るのが三時前、帰途につくのが三時半、それから山迄は二時間半から三時間はかかった。この往復六時間歩くのにただ歩くだけでは労れも感ずるし何の変化もない。私は本を読み乍ら歩く事にした。幸に久木の鉱山事務所前の鉱山図書室より本を借り出す事が出来た。翻訳物を主に読んだ。


 本を読み乍ら歩く事も上手になり、歩く事に不便は感じなかった。一時、大戸廻りで評判になった様だ。通勤に時間がかかり大変であったが、弁当作りをしなくてもよくなり、母が毎朝早くから作ってくれた。内容は麦の多い飯におかずはジャガイモの炊いたものにイリ干の油いため、タクアン。ほとんど毎日同じ献立である。他には何もないのであるから仕方のない事で昼食時並んで食べていた人が、笑い乍ら毎日同じだなあと云ったりした。本人も大体同じ物を持って来ていた。(私のより少し上等であったが)。


 坑内職種は、削岩夫、運搬夫、充填夫、線路夫、電気夫、竪坑番、巻上機運転夫、鉱車廻し、ポンプ運転等々数多くあるが、中で一番きつい職種が運搬夫の仕事である。この仕事を三ヶ月位した頃に牛房の親方から八番坑の鉱車廻しの仕事に就けと云われた。鉱車廻しとは竪坑プラットで上から降りて来る空の鉱車をケージ(エレベータ)から出しその後へ鉱石の入った鉱車をケージに差し込む作業である。鉱石の入った鉱車を十数台連結して電車により牽引されて来た鉱車の連結環の外し、又空車を連続して電車につなぐ作業も含まれる。忙しい仕事ではあるが、体は鉱石運搬(盛込み作業)から考えると楽なものである。賃金も請取りでなく決った金額であり運搬作業よりは安くなるが、この時分賃金の上る率も良くなり、当初の金額もあまり変らないので少し安くなっても体の為にも良く長続き出来ると思い、喜んでこの作業に就いた。


 坑内での作業はいくらか楽になったが、通勤の労力は相変らずであった。この時俊雄兄が持っていた自転車が前の住所から開墾地迄送られて来た。山では使えないので私に使えと云う事で私としては大助かりであった。早速自転車が乗れる、山に一番近い王入の部落の農家に頼んで、自転車を預かってもらう事にして王入から柵原まで約八キロ位は自転車で通える事になり、こんあ嬉しい事はなかった。自転車通勤を始めると、同じく自転車で鉱山に勤めていた若い人達とも付合が出来、彼の家に仕事の帰りに立寄ったり、一緒に遊ぶ事も出来る様になった。つらい仕事の中、唯一の癒しであった彼女(慧子)とのデイトもこの自転車により度々可能となり土曜日には当時彼女の住んでいた大崎まで峠を越えて会いに行き、そのうち泊って帰る様にもなった。


 この年の四月、入社して間もない頃だと思うが、坑内夫の中で共産党のシンパの人が朝、入坑前に、賃上げや待遇の改善を求めて、皆をアジり、とうとうその日は全員働く事が出来なかった。当時戦前の反動で、革新系が大いに巾を利かせていた。当然、組合運動も盛んであった。しかしその後のレッドパージにより鉱山内でも解雇された人が多く出た。


 この年八月末、妹あや子が誕生する。四人目の妹である。一人位男の子であればと思っていたが・・・


 十月、初めての山神祭である。鉱山景気が良いため、有名芸能人が鉱山集会所に出演して、近くの町村からも見に来る人で、大賑わいであった。会社からも祝酒や紅白饅頭と色々なものが鉱員に渡された。私も慧子を祭りに誘い、一緒にお参りする事にした。しかし着て行くものがこれといってない。この事を知った若い夫婦の志茂さんが、国民服を貸して呉れた。当時としてはまだこの戦中の服を着ている人も多くいた。靴は父のお古ではあるが、カンガルー革の立派なもの。しかし、三角小屋で炭火で濡れた靴を乾かしていて底をこがし穴があいていた。靴下は無し。それでも一応祭り用のいでたちであった。集会所で演芸を観るのに靴を脱がなければならないという事に気が廻らなかった。その頃、慧子嬢は津山の老舗、今井呉服店に勤めていたせいか、靴下を二足プレゼントして呉れた。こんな事もあってか、俊雄兄が自分が昔着用していた学生服を私にくれた。生地の良い物であった。通勤友達の山本森一君の妹さんが洋裁をしていて、この服を襟無しのブレザーコートの様に仕立直しをしてくれた。このブレザーがそれから私の正装用の服となった。


 仕事の方、鉱内作業も大分馴れてきて、一人前の鉱内夫になりつつあったが、私としては何時迄も日の当らない所での仕事に抵抗を感じていた。少し位賃金が少なくなっても、日の当る所で働き度いものと思い、親方に申し出た。一週間位たって、坑水係に行く様に話を付けてくれ、年が変った二十四年始めに坑水係に転属した。

 又、山での仕事も休みの日など開墾作業に精を出そうと思い乍ら、前の様にははかどらなかった。休日のデイトもあり、忙しい日を過していた。


 そんな或る日、待ちに待っていた彫刻家の梅一(青田)叔父が、ソ連より引揚げて来た。房江姉、二人の子供、そして皆大喜びで、こんな悦びは久しくなかった事であった。

 叔父一家は、山では制作活動が出来ぬため山を降りて亀甲近くの打穴ウタノの農家を借用して制作を始めた。従って、山の「笹の家学級」も止むなく閉鎖となり、大戸下の小学校に通う事になる。


父の自分史。これにて完了です。

ここまで書いたところで、父が体調を壊してしまったのです。根を詰めて書いてくれたことと思います。

感謝です。


父は原稿用紙に執筆していったのですが、その後、私の長女が入力してくれたので、電子データで保存することができました。


私は昭和33年3月、柵原で生まれ、

昭和38年1月8日、父の尼崎工場への転勤により、西宮に引っ越し。そこで育ちました。

父の自分史については、私が物心のついた昭和37年、柵原時代の終わりまで書いてもらえたら、という気持ちもありましたが、父には体のことを大切にしてもらいたい、と思います。

父は、この12月で91歳。 母は、今年8月で89歳。

この10月25日に結婚70周年を迎えました。

今、父の隣には、私の姉の一家が住み、私も父の家から徒歩30秒のところに住んでいます。

概ね、土、日どちらかの夕方、両親宅に行き、軽く飲みながら食事をしております。

両親は、子供の家族がどちらもすぐ近くに住んでくれて、ありがたいことだ。と、言ってくれております。

私も両親が、今も元気でいてくれてとても嬉しいです。

今の日々が続いていくことを願っています。



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