その16
16.ながーい一年 ※この項は会社機関紙「どうほう」に平成十年掲載されたものを一部補足し又修正してここに転記した。
その日は朝から非常に暑い日であった。不可侵条約を一方的に破って、ソ満国境を越えて侵攻して来たソ連軍が明日には此処、本渓湖まで侵攻して来るという事で、勤労動員も内地の学生に較べて少く過していた私達にも緊急動員が、かかり、配属将校の指揮で郊外の小高い山の麓に対戦車壕を掘るという事になり、斜面を削り二米程度の壁にして、その前に自分一人用の壇を作り、竹竿の先に円盤の地雷(通称アンパン)を付けて、敵戦車が壕で速度が遅くなった時に、飛び出して、戦車のキヤタピラの下に入れろ、と云う事だ。ある学友が「教官殿自分達はどをなるのですか」と聞いた。「馬鹿者、貴様達は皆戦死だ」と怒鳴られ、えらい事になったと思い乍ら自分達の墓穴を汗を流して掘っていたが、その日の正午に何か重大な放送があると云う事であった。
正午過ぎそれぞれの代表がラジオを聞いてきて、雑音ではっきり判らなかったが、日本が敗けて、無条件降伏をしたらしいと、肝っ玉が、ひっくり返る様な事を云い、即解散、全員一先づ帰宅という事になった。長い一年の始まりである。満洲人(中国人)が何だか、ザワザワしている嫌な雰囲気の中を夕方の列車で家に帰ったが次の日からは危なくて汽車に乗る事が出来なくなり、学校にも顔を出す事が出来なくなった。未だソ連軍も中国軍も進駐してこない。何となく身を潜める様にしてそれでもまだ社宅内で平常の暮しをしていたが。子供が学校に行けず、毎日遊んでいるのを、教育ママが見過ごす事が出来なかったのか、その時の最上級生である私に、先生になって子供を教えて欲しいと云いだし、教室も空いた社宅でして呉れと云う事になった。私の下に中学二年の弟を含め二人、後は中学一年一名、小学五年四年三年一年と総勢十一、二人位だったと思う。こんな事をするのは大儀であったが仕方なく、当然の事として複式教育という事になり、中学生には自習を主体で判らないところを教える、だが小学生はそう云う訳にいかず、各学年毎の教育が、にわか仕立教師の私にうまく出来る訳がない。従って外に出て体操、自由に遊ぶ時間を増やす事になる。教育ママには不満だっただろをが。あるママは小学校入学前の子まで連れて来て、宜敷くと。算数で、五つ饅頭を持っていて僕(子供の事)が三つ食べたら、いくつ残りましたかと尋ねたら、真剣にしばらく考えていたが、「ぼくそんなによう食べないもん」と答えた。だがこんなのんびりした事も長くは続かなかった。八月末頃一番初めにソ連軍が進駐して来た。この時のソ連軍は程度が悪く、誰彼なく腕時計、。万年筆、それになぜかズボンの革バンド、を見付け次第に取り上げ、腕時計などは両方の腕にビッシリ巻き付けて自慢げに見せていた。首から吊り下げている通称マンドリンと呼ばれていた小形自動小銃で、やたら人の足元を撃ち放ち、女性を見付けると人前もはばからず犯す、その内ソ連軍の憲兵らしい隊が進駐して来て、治安も少し回復し、鉄道などもある程度動く様になった。石橋子駅関係も中国人が主になり、日本人はほとんど解雇となったが私の父は、他の三、四人と鉄道業務を続けろと云う事になったらしく、給料もソ連の軍票で支払ってくれた。しかし軍票よりも満洲国発行の通貨がいつ迄も信用されていた。その内ソ連軍は男性に使役の動員をかけ、満洲の設備の解体出来るものは、全て解体梱包されて、列車に積込ませ列車毎ソ連へ運び去り列車はそのまま帰ってこない。この様な作業は三ヶ月くらい続いた様だ。
満洲の施設の目星いものがあら方運び去られた後に毛沢東の中共車(私達は八路軍と呼んでいた)が進駐して来た。投獄されたり、目の前で処刑されたりする事が見聞きされ。毎日毎日おびえ乍ら過す日が続いた。
日本人は帰国させてもらえるとの噂が流れ、(実際はデマであった)「それ」と云う事で帰国時の携帯職食料には餅が良いだろをという事で、帰国時の携帯食料には餅が良いだろをという事になり、ある日餅搗きを始めた所、玄関をドンドンと叩く音に出て見れば、八路軍の兵士が二人入って来て父を連行していった。すぐ人民裁判が思い出され餅搗きどころではなくなりボー然としていたが、ふっと父の部下であった中国人社員が、いつか私に「君の父は良い人だ。配給品もちゃんと分けて呉れるし、自分の分も時には私達中国人社員に分けてくれる」と云っていた事を思い出し、その中国人の所へ飛んで行き事情を話すと、それは大変だと云って、地方の有力中国人と一緒に連絡先の八路軍の駐屯地に行ってくれて、私には家で待っていろという事。どの位の時間がたったのか、非常に長かった様でもあり、二時間程度であったのか、父が無事家に帰って来た。「情は人の為ならず」という事があるが全くその通りだと、中には八月十五日の夜に逃げ出した日本人も多くいたのに。
いつしか夏が過ぎ、秋が近づきつつある頃、八路軍より使役の動員がかかって来た。逃げて見付かれは、。投獄されるという事で、出掛けたが、仕事というのは、ソ連軍が一車線のみを遺し、あとの線路のレールをすべて持ち去り、枕木のみとなっていた。この枕木を小高い山の頂上まで運ぶ作業である。これを三十糎位に切断し煉瓦のくみ方で「トーチカ」を作るのだそうだ。満鉄の線路の巾は、今の新幹線と同じ位あったと思うが、油が浸み込ませてありものすごく重い、二人して肩に担いで山の上迄運ぶ。肩には血が滲んできたが痛さより重さで、ひざがぐらぐらしたのを今でも思い出す。モタモタしていると、怒鳴られ、小突かれ、何時か見た奴隷の出る映画の一シーンにそっくりだ。
日が暮れ、労れて這ふ様にして帰宅した。
其の後日本人宅には武器が隠してあるという事で、家宅捜査が何回も行われ、そのたびに目星しい物が持去られ、四、五人で何回もやられると、家の中の目に付く物はほとんど無くなってきた。日本人すべてが筍生活で生きているのに大変な痛手である。私の家も例外ではなく、家具、衣類、貴重品、等を食料と交換し乍ら生計を立てている始末。
民衆による略奪が始まった。私達社宅は鉄条網の囲いの中(社宅運設時はまだ、馬賊に襲われる事が頻繁にあり、頑丈な囲いが作られていた)で幸に襲われなかったが、満洲にて或る程度成功して、私達の社宅外に日本式の家を造り、悠々自適の暮しをしていた方が二軒あった。この家の廻りに、中国人(満人)が数多く集りだし、家の中の物を持ち出し始めると、見る間に人数が増えて来て、その数、百名以上が我れ先にと略奪を始めた。住人は社宅内に避難していたが、蟻が甘い物にたかった様で、家の中の品物が無くなると、窓を外す、戸を外す、そして、屋根瓦まで外して持ち帰る、次は、木材である。梁、柱、板、すべて外して持ち帰った。あれよあれよと云う間に家が跡形もなくなった。人数が少なくなってまだ何かしているなと思ったら基礎の石まで外していた。人の数によるすさまじい力を見せ付けられた。社宅より一キロ位離れた所にも、砕石工場があり日本人の家が二軒程あったのだが、この二軒も同じ日に同じ憂き目に逢っていた。
朝晩寒さを感じだした或る日、我が家の玄関にまたまた今度は六・七人の八路軍兵士が来た。表の部屋を貸して呉れという事だ。否も応もない。四十日位、一つ屋根の下で暮らす事になった。
同じ家に住んでいると、顔馴染みになり、夕食を食べに来ないかとさそわれ、度々食事を共にした。食後雑談をしたりしていたが、一人の兵士が日本の三八式歩兵銃の調子が悪いと、ガチャガチャやっているのを見て(私は学校教練でこの銃の分解組立をした事があるので)思わず手にとって直してやった。その様子を見ていた班長が、その後毎晩私に八路軍に入れと。我が家は今、父は鉄道の勤務、夜は何かと日本人会の事で留守にする事が多く、母は私を頼りにしているし、小さい妹達もいる。とても私が出て行ける状態ではないとことわった。この時期に八路軍に入った若い人もいたが、彼らは引揚げて来るのがそれから十年も後になった。八路軍が我が家より立去って、しばらくして、奉天にて貿易会社を経営していた、香川一家、三人が私宅に逃れて来た。香川の小父が体を悪くして、あまり動けなくなり又都会では私達のいる田舎と違って、治安が悪く、石橋子の社宅なら安全だという事で、連絡を取り合って来たのである。小父はやはり体が大分悪く、二週間位我家で養生又介護したが、病院にも行けず、良い薬もある訳でなく、あっ気なくこの世を去って行った。まだ四十一、二才ではなかったか。私達が冬によくスケートをした川岸で荼毘に付した。石橋子社宅内での死者はこの小父が初めで、それより引揚げる迄大人子供で数人は同じ場所で荼毘にする事になる。
死因は発疹チブス、肺炎等でなくなる人が多かった。
いよいよ寒い冬である。日本人はほとんど職を無くして収入はゼロ。物々交換で食物を求め、何とか暮しているのであるが何時迄続く事か。幸な事に燃料の石炭は、敗戦時、石橋子駅に石炭を積んだ貨車が数輌停車していて、これを、満鉄社員(中国人も含めて)全員で分配していたので何とかこの一と冬は過せそうであった。まだこの時には列車が朝、夕、一日二往復運転をしていて、誰云うという事なしに、客が多勢乗っているので弁当を売ったら現金が入るのではないかと。米の方は皆ある程度備蓄していたので、おかづは日本料理の煮しめや佃煮等で作った。駅弁の要領で売り始めると、このおかづがうけてよく売れた。私方も父がまだ鉄道に勤めているとは云え、何時収入がなくなるか判ったものではない。私達もやって見ようという事になり、皆と同じ物を売っても面白くない。冬の寒い時であるから白米のお粥を作って売って見たらどうかと、早速、弟と二人で列車の到着時にホームで売り出して見たが、これが大失敗、一杯も売れず、売り歩いた時に少しこぼれて洋服にかかったものが凍りつき、つららになって、やれやれと家に帰った。香川の小母や母に笑いころげられた。やはり中国人は日本の食事が珍しいようだ。今度は飯の弁当だと、弁当箱には写真帖の台紙(黒色で少し厚みのある紙)で作り例の内容にして、売り出した。よく売れる。社宅中の少年が主となって、毎日七・八人で多い時は大人も混じって「大米飯」「大米飯」と叫び乍ら、売り捌いた(中国語で米は大米と呼ばれていた)日が暮れてから到着する汽車にも売る為に、明りが必要と行灯型の提灯を作りそれに「大米飯」と書いた。これは良いと皆が作ったものだから、その賑やかな事、又きれいでもあった。
この寒い最中に既に解雇されていた日本人社員は中国人社員に社宅を明け渡せという事になり、中国人労働者の集団社宅(作業現場の飯場のような建物)に二十家族位入れられた。私方はお陰で未だ父が解雇されてなくて、そのまま居ても良いという事であったが。同じ様にまだ解雇されず、石橋子、本渓湖宮原間に昭和二十年初めに建設された、本線より北になる山の裏側である新線に勤務していた、水沼さん一家が石橋子に保線技術者として配属されて来て、私方の表の部屋に同居する事になる。親子四人の家族が加わり、私方の家族六人、香川の親子二人で、総勢十二人が一つ屋根で生活する事になる。この時分に、蒋介石の率いる中央軍(国民党の軍隊)が奉天に進んで来て、八路軍との戦闘が始まっていた。遠くの方から大砲の音が聞こえて来る様になり、列車も通らなくなった。弁当売りも何時の間にか、止めていた。そんな或る日、又、八路軍兵士が来て「使役に出ろ」と云って来た。父は駅にまだ勤務していたので私しかいない。仕方なく、スコップを持って集合場所に行く。社宅近くの廟のある小高い丘(中国人の小学校のあった所)でこの丘全体に塹壕を掘る作業である。並ばされて、中共の兵隊に組分けされていたが、その時、「アイヤー中村」中国語発音で私の名前を呼ぶ兵隊がいた。見ると、何と私の家で四十日一緒に暮した事のある兵隊であった。彼が同僚に何か話して、私に「お前の親友を一人連れて来い。別の所の仕事をしてもらうから」と云って来たので友人と二人で後に従った。
彼は私達を部落の中国料理店に連れて来て今から料理を食べろと。そして作業が終る頃に先程の集合場所に来れば良いと時間迄教えてくれた。他の人が塹壕掘りをしている時に料理店で寝転んだり、食べたりしていたのだから申し訳ない気がしたが、これも仕方のない事と割切る事にした。それにしても義理堅い八路軍兵士もいるものだと感心させられた一日ではあった。
そのころ奉天はすでに蒋介石の中央軍(国民党軍)が支配するところとなっていて、私達のところにも中央軍の管轄下でないと引揚げさせてもらえないという噂がそれとなく、ささやかれだした。そんな中で、八路軍支配地から、中央軍支配地中央へ渡って行く人が若干いた。その中に満鉄社員ではない人で父と親しかった人が同じく奉天に行くという事を聞き、香川の小母親子が、奉天にいる、父の姉、永田一家を頼って少しでも早く帰国出来るのではないかと一緒に奉天に行く事になった。色々と調べて見ると、今は安全に行ける事が判り、父も途中迄送って無事奉天に行けた。
その後、香川親子は永田一家と無事帰国する事になる。
いずれ私達も何時かは日本に帰国出来ると思い、帰国したら又進学したいとも思っていた。それには、こちらでの在学証明が必要になると考え、現在八路軍の治下ではあるが、何とか学校のある本渓湖、宮原迄行けそうである。早く行ってこないと、戦車が近づいたら、それどころではなくなると思い、二級下の上野訓を連れて、三十数キロある母校迄歩いて行く事にした。鉄道はもう全然動いてなかった(汽車が動いていても多勢の中国人の中に日本人二人で乗ったら危険であったろう)。途中、八路軍兵士に二度程誰何されたが、事情を話すと通してくれた(この時はまだ私の中国語も何とか相手に通じた様であるが、現在はすっかり話せなくなっている)。朝早く出発して夕方宮原に搗く。上野君の知人宅に泊めて頂き翌日早く母校に行き証明書をもらった。証明してくれたのは、たしか森岡先生だったと思う。帰途も相変わらず、八路軍に何遍も誰何されたが、用件を話して、無事、暗くなって帰宅した。上野君の両親も私方も帰ってくる迄は心配で出さなければよかったと、話し合っていたとか(この時もらった証明書もその後の引揚時のドサクサにまぎれ紛失してしまった)。
厳しい満洲の冬も、なんとかしのぎ、春も近づきつつあった昭和二十一年三月、三人目の妹洋子が誕生する。いつもの春であれば迎春花(オキナ草)や鈴蘭も咲きはじめ、わらび草、山菜も出る頃であるが、そんな事は、今思い出される事であって、その頃、私達の街の近くでは、中央軍(国民党の軍隊)がせまって来て、八路軍(共産党の軍隊)との戦闘が段々と近づいていた。
とうとう私の家の廻りで戦闘が始まり、壁は煉瓦造りで大丈夫なので窓に畳を立てかけ、息をひそめていたが恐いもの見たさで、のぞいて見ると、八路軍の兵士が銃を腰だめで発射し乍ら、しりぞいているのが見え、これは八路軍が押されているなと思った。
其の後戦場はだんだんと南下し、中央軍の勝利となり、八路軍はついには朝鮮北部まで退き、満洲は中央軍(国民党)の支配するところとなった。八路軍が退き際に鉄道、鉄橋、給水塔等を爆破して敗走した為、電気も切断されてしまったが、石橋子は水道関係は幸に破壊されず使用可であった。
春たけなわの頃と思うが、鉄道関係の仕事も完全に中国人社員に引継がれ、早速日本人社宅と中国人社宅を交換しろ云う事になり、中国人用の社宅に引越したがその狭い事。なんで同じ社員なのに、と思ったが、今さら満洲国のなり立ちが思い出された。もちろん水沼一家も別の中国人社宅に引越した。社宅の隣にはまだ中国人社員が残っていて、非常に良くしてくれた。今でもこの人の名前「楊度林」だったと覚えている。子供がなかった事もあってか、小さい妹達をよく可愛がり何かと面倒を見てくれた。
しばらくして父もいよいよ鉄道を解雇された。
初夏の気配が感じられる頃、中央軍(国民党)の大部隊が進駐して来たという声に、もの珍しくもあり慌てて朴歯の下駄をつっかけて外に出、少し離れた所から眺めていた。その時近所では見馴れない中国人が大きな声で私の方に向って叫んでいたが、私ではないと思っていた。私の前まで来て、汚い中国服の腰のあたりを、モゾモゾして、何とあのモーゼルの、でかい拳銃を引き出し、私の左の胸に銃口をピタッとつけた。私は思わず両手を上にして、彼の引き金に掛っている人差し指を見ていた。その指が一糎動いたら私は十八才(注:数え)で、この世とお別れかと、今迄の事があれこれと走馬灯の様に頭の中を駆け巡った。死に面して過去が次々と思い出されるという事は本当であった。と、彼の右手の拳銃が下げられ、やれやれと思った途端、右頬を、いやっという程叩かれ、ひっくり返った。
「ついて来い」と云う事で彼の後に従って行きかけた。その出来事を見ていた母が、私の靴を持って追いついて来た。それに履きかえ彼の後について行くと、八路軍の倉庫から、弾薬、食糧などをすでに来ていた二・三人と一緒に荷馬車に積み込めと指示された。仕事も終わりかけた頃、先程の中国人が近づいて来て、「君は日本人か」と尋ねてきた。私の中国語で気付いた様だ。彼は「自分は国府軍の中尉だ」と流暢な日本語で話しかけ、先程は自分も気が立っていたので、すまない事をした、と、今日の労賃に持って帰れと、高梁を一袋くれたが、六十キロもある。早速家に飛んで帰り、弟健三を連れて来て二人で持ち帰った。筍生活の時に本当に助かった。筍生活もこの後、何時迄続けられるのか、食糧に替えるものも、だんだん底をついて来た。
ようやく蒋介石の方針で、日本人は帰国せよ、という事になり、帰国の準備に忙しくなった頃、満洲も夏に入っていた。
私達の住んでいた所から引揚げの集合地であり、私の母校のある本渓湖まで、鉄道は国共内戦で爆破されて不通のため、歩いて行かざるを得づ、それでも必要品は出来るだけ多く持ちたいし、生まれて間もない洋子も乗せれる車を作る事にした。器用にまかせて車輪は板を重ねて二重にして円形に切断し、車輪のふちに溝を作ってそれに自転車のタイヤ(チューブはなし)を適当な長さに切って釘で打ち付け車輪らしき物は出来た。車軸の方も保線区に行って、適当な物をもらって、どをにかこをにか車が出来上った。我乍ら見事な物が出来た。
出発は朝早く荷物も洋子と一緒に車に積み、その他の荷物は皆リュックに入れて背負い、出発した。石橋子の日本人全員で五・六十人はいたと思う。土民に襲われない事を祈るばかりで、永年住み馴れた石橋子との別れの感傷にひたる余裕などはなかった。
出発して二時間位(六キロ)歩いた頃から自慢の車が左右に揺れだした。車軸の軸受の個所が磨耗して、軸穴が大きくなったため、どをにも押す事が出来なくなりついに諦めて、車の製作者である私が、洋子を背負い手には荷物を持って、進む事になってしまった。
このコースは上野君と二人で在学証明書をとりに往復した道でその時は約八時間位で歩いたのであるが、女性、子供、それに荷物持ちで時間が思った以上にかかり、本渓湖の手前十キロ位の火連塞まで来た時までに夕闇に包まれていた。これ以上、夜になっての歩行は危険という判断で、中国人小学校舎内で一夜を明かす事になった。リーダーの指示で交替で二・三人が見張り乍らの宿泊であったが、土民に襲われないかと、そればかり心配であまり寝た気はしなかった。幸な事に襲われる事もなし、二日目昼過ぎ本渓湖、宮原に無事到着した。
私達は地方からの難民という事で、集合地(本渓湖、宮原、特殊鋼の日本人社宅だったと思う)に二・三日いただけで引揚げの途につく事になった。夏であったので着る物はほとんど着の身着のままでよかったが、そのかわりに食べ物は、持てるだけ持つ事にした。それと、ありとあらゆる物を売り捌き手にした現金。当時の線路名、安奉線は破壊されて不通。遼宮線で遼陽に出て奉天(瀋陽)錦州、錦西、胡芦島、乗船というコース、普通であれば汽車で一日半か二日位の行程である。
無蓋車にやっと座る事の出来る状態で乗せられ出発したが、時刻表がある訳でなし、時間的には一切きまりのない旅が始まった。途中民家も、何も無い広野のど真ん中で停車し故障かと思ったが、さにあらず、うしろの方より乗務員らしい二人連れが風呂敷様なものを持ち貨車を次々と廻って、金目の物を回収して行き、包が一杯になると、やをら列車が動き出す。こんな事が、それから三・四回行われた。精神的にも参ったが、体の方も大分参ってきた。日中は夏の太陽に照らされ日除けとてなく、雨が降れば濡れっぱなし、用足しも不定期に停車した時に飛び降りて行い、焚いたものは全然食べる事は出来ず、水も停車した所から見える小川で、中国人の子供達がバケツに汲んで来て、丼一杯十角(十角であったかどうかはっきり覚えてない)で売っている。小川の水と判っていても買わざるを得ず、この為体をこわす者が出る。抵抗力の少ない子供など、次々と命を落す。停車した時に飛び降りて泣き乍ら仮埋葬する。列車は相変わらず広野の真ん中になると停車して、金品を出さないと動かない。私の一番下の妹は生まれてまだ四ヶ月しかたってない。後は無事を祈るばかりである。
この列車の旅が三日であったのか、四日であったのか、今では思い出せない。やっとの事で錦西に到着。学校の教室に立っているだけで一杯という状態で、乗船待ちの生活が始まった。私はほとんど外で生活した。部屋には入れないのだ。しかし気候が夏であり困る事はなかった。
久し振りに焚いた食べ物を味わう事が出来た。食べ物は露天市場で、帰国者の持ち帰れる金額が一人当たり千円と制限されていたのでそれ以上の金は(我が家は七千円)はすべてこの時使う事になるのだが、何日まで此処にいる様になるのか見当がつかず、使い方が大変であった。
幸な事に私達は錦西一週間の足止めで乗船する事になったが、船で何処とも知れない所へ連行されるのではないかと一抹の不安はあった。だが船員に日本人が多くいたのでやっと安心出来た。暑い船倉の中で、これで、やっと祖国へ帰る事が出来るのだと思うと、これまでの張りつめていた気持が一辺に抜けた思いがした。
「日本が見える」との大声に、船倉から飛び出し、デッキに出て見ると、大陸の赤茶けた色とは違う、目にしみ入る様な緑の土地が・・・。
誰かが「美保の関だ」「隠岐の島だ」と叫んでいた。
私達の乗ったリバティ型貨物船は、舞鶴港へと近づいた。港廻りの竹の緑に吸い寄せられ、
これが祖国だ。「国破れて山河あり」と。
上陸。宿舎迄の道中、白いエプロン姿の婦人が、テーブルを並べ、湯呑みに、おいしそうなお茶を入れている。「一杯いくらするのだろう」、とっさに丼一杯十角(?)の泥水が思い出された。何と。「お金はいらない」「いくらでも」と云われ、「御苦労様でした」と労いの言葉。頂いたお茶を口元に持ち上げた、その湯呑みの中に鼻すじを伝った涙が一しずく、ポトンと落ちた。
ああ帰って来た、母なる国へ帰って来たと。
盛夏の八月始めであった。
この長かった一年間の経験がそれからの私の生活の支えとなり、どんな、つらい事に出合っても、この一年に較べればと。
今でも時々夢で左胸にモーゼル銃口の固い感触で目覚める事がある。