その14 ~ その15
14.小学時代の三年間
昭和十四年、新しい小学校にも仲々なじめなかったが段々と馴れて、授業にも休憩時の遊びにも溶け込み、皆と同じ様に過す事が出来る様になったが宿題の多いのには相変わらず苦労する。(家に帰ってからの時間が少ないため)それに「タワシ」で裸の体に乾布摩擦をする事である。これは始めは痛くてたまらなかったが、これも度重なるに従って馴れて来た。タワシと云えば担任先生もタワシでこするのが好きだったのか月一回の教室大掃除の時に床を石鹸とタワシでこすらせ、床を真白にする。子供心にもこの床は固い板でほこりのたたない様にわざわざ油引きしてある床をなんで、と思い乍ら、一生懸命磨いたものだ。学校生活で楽しいものは運動会、運動場は学校のある都会が製鉄所のある所で高炉も二基あり煤煙が常に溜まっていて、転んだら真黒になるが、おかまいなしに楽しんだものだ。それに、修学旅行だ。四年生の時は里帰り旅行で奉天(瀋陽)の北陵と、撫順炭坑の露天掘りの見学であった。
この年昭和十四年で忘れられないのが祖父(鶴蔵)の死亡である。九月末、七十一才であの世に旅立つ。
今でいうと脳梗塞であった。突然倒れたのであるが当時中風という事は体が不自由になって長期の介護が必要であると思っていた。祖父の耳元で「満洲(母の事)を呼ぶか」と訪ねたら大きくうなづいたという。こんな状態を知らされ、母は急いで帰国の仕度に掛かった。しかし出発する前に、死亡の電報が届いた。倒れてから三日目とか。従って父だけが帰国する事になる。
この訃報を聞いて、思わず祖父が私達の満洲行にあたり、作ってくれた机にさわり、引き出しを抜いた。祖父の作ってくれた机は引き出しが三つ付いていて真中の底板には大将、右の引き出しには彰、左の引き出しには正雄と墨で書いてある。それを見乍ら涙がボタボタと落ちた。
昭和十五年春、満洲石橋子に来て一年になる頃、それ迄一緒に楽しく遊んだ子供五人がそれぞれ父親の転勤で去って行った事だ。今迄経験した事のない、友達が急にいなくなるという事の淋しさ、しかし又かわって新しい友も来たのである。有馬姉妹の後に三浦さん兄弟、三浦さんの兄の方は私より二ツ上、妹の鈴枝さんは私より一つ上、佃亮二君の後は、相沢姉妹、上の方の名前は忘れたが下の方は私より一ツ下でたしか「やっちゃん」と云っていた。又すぐ皆と仲良くなった。水道関係で給水塔の傍の社宅におられた方の娘さんで私より一ツ上の子(名前は忘れた)もこの時分に来たと思う。しかしこの方々の消息で判っているのは三浦の鈴枝さん、この方は西宮の私方に来て泊まった事もあり現在も便りのやりとりをしている。佃亮二君は平成十五年所在が判り、手紙のやりとりが出来たが、その他の方々は無事引き揚げて来たのかどうか、今だに消息不明である。
この年何といっても一番の思い出は、初めての二泊三日の北満への修学旅行である。本渓湖を出発して、奉天経由連京線にて、鉄嶺、開原四平街、公主嶺、新京、と急行停車駅ではそれぞれスタンプを押して新京まで。新京では観光バスにて市内見学、新興国の首都であり当時の主要建造物は全て見学し、都市計画の雄大さに驚嘆した。初めての旅館での宿泊。翌日は、特急にてハルピン(注:原文は漢字:変換できないのでカタカタで表記します)まで。市内観光でハルピンの街並みがこれ又初めて見るエキゾチックな運物群、ロシヤの建物が多く、ロンヤ教の教会等、又スンガリー(松花江)河畔のリゾート地区の美しさ河中にある太陽島の眺め、白系ロンヤ人が多く歩いているし口にしたロンヤ飴のおいしさ。これが満洲か?と思った。日露戦争時の、日本人探偵が処刑された跡。ハルピン駅での伊東博文総理がピストルによる遭難死した場所、見る事聞く事、皆物珍しい事ばかりの修学旅行であった。
この年であったと思うが、それまでに太子河左岸、本渓湖市の対岸一帯に新たに建没された製鉄所。高炉、骸炭炉(コークス製造炉)ベンゾール工場特殊鋼工場、等々、今迄の本渓湖煤鉄公司の設備の数倍も大きな大製鉄設備が出来て、周辺の街も都市計画されて大都会に変貌しつつあり、本渓湖市、宮原区として発展、小学校も宮原小学区として創設された。私達の仲間も新しい小学校に転出した人が多数いた。(宮原とは日露戦時に閑院の宮の戦跡を記念して付けられた)
又この年は私にとっても大変な年でもあった。学年末だったと思う。(十六年に入ってからか)体操の時間鉄棒をしていて、前夜の雨で鉄棒が濡れていたのに気付かず、手を滑らせて落ちた。左手で無意識に体をかばい、左手首を骨折した。自分の手首が階段のように変形していた。すぐ柔道骨接骨院にて応急手当を受け、帰宅する。見る見るうちに手の平まで腫れて来てそれから二、三日は痛さで眠る事が出来ず座って夜を過す。三、四日骨接院に通ったが大きい病院の方が良いだろをという事で奉天(瀋陽)医大に行く事になった。丁度その時永田の伯父が新京(長春)近くの駅より再び転勤で奉天近くの皇姑屯駅で勤務していて、当地の社宅に転居していたが、たまたま社宅を奉天市内の橋立町の満鉄社宅に引っ越していた。医大に通うのに良いと云う事で永田家に一週間位お邪魔して病院通いをした。一ヶ月半位で良くなったが、左手首の通称梅干という個所が若干変形してしまった。
昭和十六年、この年の春、兄(正雄)は高等科二年を卒業して、本渓湖煤鉄公司の職員育成学校機械学科に進学し、寄宿舎に入る事となり、我が家を出て行く。私達の小学校も本渓湖誠忠在満国民学校と校名変更された。誠忠とは、小学校のうらやまの岩壁に、大倉喜八郎の揮毫による。誠忠の大きな文字が刻まれていて本渓湖に来ると、どこからでも目に入る位置であった。(大倉喜八郎とは本渓湖石炭採掘権を取り、本渓湖煤鉄公司の設立者であり大倉財閥の創立者である)。この時分から、小学校関係も戦時職が段々と濃くなって来た様だ。しかしこの年、六年生の修学旅行は催行され、朝鮮に行く事になる。第一日は満洲と朝鮮の国境の町、安東市(現円東市)に下車鎮江山公園桜の名所等を見学し再び汽車にて平壊市へ。市内観光で、豊臣秀吉の朝鮮の役の古戦場である。牡丹台。乙密台。せまい城門を七人横並びで突入した門とか、昔の人もよくこんな遠い所まで来たものだと驚いた。平壌の旅館に宿泊したがこの時、始めて粟入りの御飯を食べさせられた。満洲ではまだ混り物のない白米飯を食べていたので、この御飯は一寸食べづらかったが、この旅行中ずーっと同じでありしまいには馴れてきた。明くる日又汽車にて京城えソウルから観光バスで仁川港へ行く。この港は干満の差が大きく七米位あるのだと。小高い丘に上って港を眺める。朝鮮人の物売りが「サンゼンテンプラ サンゼンテンプラ」と売っていた。「三銭のテンプラ」という事で、早速買って味見をした。(六十年後の平成十五年、観光旅行でソウルに行った時は仁川空港が新しく出来てて、三銭天ぷらの丘より眺めた月尾島がどこだったのか全然判らなかった) 仁川より京城に戻り、朝鮮総督府、南大門での記念写真を撮り、夕刻自由行動となり市内電車に乗って町を散策した。(六十年後は総督府も解体され、南大門は廻りの高層建築の間で小さく見え、南大門市場がものすごい賑わいであった。昔記念写真を撮った場所には柵があり近づけないようになっていた)この様な二泊三日の修学旅行はこの年が終りであったようだ。又この年の夏であったと思われるが、太子河東岸の明山と云う所の芝生の広い所で一泊のキャンプをした事を思い出す。お米が仲々きれいにとげなかった事、クラスみんなでワイワイ云い乍ら飯盒炊さんをした事、どをしても勉強の事よりも楽しかった催しが記憶されるが、何と云ってもショッキングであったのは十二月八日の米英に対する宣戦布告。緒戦の戦果に一億浮き立ったものである。こうして昭和十六年は過ぎて行った。
15.中学時代の四年間
昭和十七年、この春いよいよ私も小学校六年卒業という事になる。幸な事に、本渓湖に中学校(旧制)が設立され今年四月第一回の入学生を募集する事になった。私も応募し、あまりむづかしい試験もなく無事入学出来た。
新しい校舎、正門前での記念写真撮影、この写真では未だ制服が間に合はなかったのか半ズボンで写っていた。入学後制服(戦事色のカーキー色)制帽編み上げ靴(皮は豚皮であったと思う)それに体操時に着用する白の今で云うジャージー、何だか急に大きくなった様で今迄の小学校とは全然違う雰囲気であった。授業もそれぞれの学科により専門の講師であり教え方も小学校と違い少しでも聞きもらしたら、判らなくなる様な気がして、馴れる迄は大変であった。それに戦時中と云う事で学校教練(軍事訓練)も一週間に一時間はあり配属将校も現役の中尉が来た。それに体育の時間には剣道柔道も組込まれた。銃剣道も時には教えられた。英語は週五時間あった。この様に何もかも今迄と違った学校生活が始まった。
この年五月二人目の妹久美子が誕生する。満洲生まれである。令子も三才となり頭の髪の毛も濃くなり可愛いさかりとなった。兄も日曜休日は帰って来て令子の遊び相手になってくれていた。先づ先づ平穏な暮しで、満州生活も板についた感じで私も中国人と片事の中国語で日常的な会話もいくらか出来る様になってきた。夏休み、用件があり母と令子、久美子三人が久賀へ約一ヶ月間帰っていた。戻ってからの話によれば、母の実家では小さい子供が一人もなく、従って令子、久美子が皆から大変な人気者となり、元々子供好きの一家(上野家)は、一ヶ月というもの子供の事で「テンヤワンヤ」であったと、久し振りに帰った令子は完全に久賀弁となり私達が忘れかけていた久賀弁を思い出させてくれた。それから間もなく母達が帰郷して大変な世話になった。上野家の総領(母のすぐ下の弟)徳平叔父が軍に召集され関東軍に入隊した。その後叔父からの便りで、新京(現長春)の近くの隊にいると云う事が判り、十一月初め面会に行く事になり、兄は学校の都合で行けなかった。日本での十一月は初冬という感じだが北満での十一月は厳寒であり、新京手前の小さな駅から兵舎のある駐屯地まで二キロ(注:原文漢字)位の道程であったがその寒い事体の出ているところは痛いという感じであった。やっと着いた駐屯地では、また面会所が無く、班長の好意で「自分は外出するので、この部屋を使いなさい」といってくれた。班長室で待つと程なく叔父が大きな声で「上野二等兵入ります」と云い班長に対して敬礼をして入って来た。班長が「それではごゆっくり」と出て行った。やっと叔父が緊張の解けた笑顔で近づいて来た。母が一生懸命作った、オハギ、ばら寿し、稲荷すしを広げ箸で食事を始めたが、叔父が戦友を呼んで来ると云って、一人の兵隊さんを連れて来た。その戦友は「いただきます」と云い乍らおいしそうに食べ始めたが、やはり他の兵隊が気になるのか、部屋の外の様子を伺い乍ら急いで食べていた。この様子を見て、軍隊の厳しさが思いやられた。戦局も段々と厳しく成って来た。母の弟であり上野家の二男寅平叔父が此の年フィリピン、バターン半島コレヒドール島での戦で戦死されたとの知らせあり。
昭和十八年、大東亜戦争と呼ばれたこの戦も、大本営発表ではいつも日本軍優勢の報道であるが何となく発表程、日本軍が優勢ではないのではないかと思われだした。アッツ島玉砕の報もこの年ではなかったか。面会に行ったあの徳平叔父が転属で私達のいる石橋子を通ると云う情報が入り、乗っている列車の石橋子駅の停車時間が判明し(父が鉄道関係にいた為と思う)脱出で駅に行き、汽車の窓越しに合う事が出来た。母が「どこへ行くんだろうか」と尋ねたら、オーバーの下の服を見せて「この服を見たら判るだろを」と云ったとか。未だ肌寒い気候なのにその服は夏服であったと。其の後この叔父はサイパン島玉砕の一員となってしまった。
此の年の八月八日日曜日であったと思う。私は一人で例の奉天へ遊びに出掛け、香川の家に寄ったところ、小母より今石橋子(私の家)より父が怪我したと電話が入ったところだと云う。昼過ぎであったが慌てて汽車に乗り車中どんな怪我をしたのか詳しい事が判らず窓より行先の方を眺めていると何と石橋子の方で、ものすごい黒煙が出ているのが見られた。火事だったのかな、と思い乍ら汽車が近づくにつれそれは大きな石油タンクが火を噴いているのであった。石橋子駅につく。石橋子駅員全員が消火作業で必死に働いていたが、誰だったか私にこのまま本渓湖迄行けと云って来た。本渓湖の満鉄病院之救急で入院しているからと。事情を聞くと、タンクの火災の消火作業で、その時駅に駐車していた蒸気機関車の水タンクを利用して、消火現場と給水所を往復し乍ら注水消化に当っていたがその時タンクの側にあった油入りドラム缶数缶が爆発しものすごい音を発した。その時炭水車(SLの石炭を水を入れているところ)の上にいた父が爆風で下に落ち列車連結器と接触して胸を強打したとの事であった。病院に着いて様子を聞くと、助骨、骨折、ヒビ入りの重症であるか打撲当時は呼吸困難であったがその方は落ち着いて来たと、全治はやはり二、三ヶ月という事であったが、わりと早く一ヶ月少しで退院して来た。この油タンク(大きさは径五米に高さ六米位)がどをして火災を起こしたのか、スパイの放火、等々あれこれと調べたらしいが、確かな原因は判らずじまいだった。
戦況が段々と不利になり物品も配給制度になったりしたが、今から思うと満洲はそれ程食料にもその他物質にも生活上困る様な事はなく、まだまだ余裕があったと思う。学校の方も学徒の勤労奉仕等もあまりなく勉学に勤しんでいた。一度二日くらいであったか、太子河対岸の耐火煉瓦工場に行き、煉瓦の貨車積をさせられた程度であった。
昭和十九年、私も旧制中学三年生となり学校生活も楽しく戦況の方は敗色が少しずつ濃厚になりつつあったとあった時期であったと思われるが、我々は必ず勝つと信じて疑わず学校でも家でも今迄とあまり変らない生活をしていた。相変らず休日には奉天に遊びに行ったりしていた。(それと云うのも私達満鉄社員の家族には通学用バスの他にバスがいてその都度発行してもらえた、無料である。母と一緒に列車に乗る時は二等車に乗れたのであるが、母は私達と一緒の時も、一人で乗った時も二等にはよほどの事がない限り乗る事はなかった。もっぱら三等車に乗っていた様だ。)映画もよく見に行き或る時など映画を三館も梯子をして出て来た時はフラフラした事があった。友達と見に行ったのがバレて、配属将校に「ビンタ」を皆んなでもらった事など、体も入学時は小さい方であったがこの頃、自分でもびっくりする程伸びて来て自分より高かった友を次々と追い越して行った。
三年生になってすぐだったと思うが、このまま卒業しても満二十歳になれば微兵され一兵卒として最下級の兵隊からやらねばならんそれであれば少しでも早く軍人学校に入った方が良いのではないか、又私は元々細工する事が好きで機械いぢりや模型作りを始めたら止められぬ程であり、自分なりに将来は技術方面に進み度いと思って、新学校も出来れ旅順工大の方へ入りたいと常々考えていた。だがどんなコースを選んでも、兵役にはつかねばならん。あれこれ考えて、一度軍関係の学校を受験してみようと思い、それであれば当時もてはやされていた、海軍航空予科練習生(通称、予科練である)を受験する事にして同じ思いの同級生、四、五人で申し込んだ。其の時のメンバーは、荒、津田、建部、私、他に二人いたと思うが思い出せない。工業学校の生徒だったかも知れない。試験場は、あの日露戦争の古戦場でもあり、私の進学希望校の所在地でもある旅順である。宿泊所は聖地会館で試験場は水交社(海軍将校クラブ)であった。旅順までは汽車で七、八時間以上かかったのではにかと思う。汽車の長旅で労れたが、宿泊所の聖地会館(やはりこの建物も海軍関係の設備であったようだ)に到着し、夕食する事になるのであるがとんだハプニングにあった。私達は軍関係の学校に入りに来たとは云え、未だ、やんちゃな「子供ッ気」の抜けていない面々である。食事時に皿をたたき歌を唱いながら騒いでいたら、ポパイの様な水兵さんが来て、「貴様ら何やっとる、戦地では命を掛けて戦っていると云うのに、たるんどる、そこえ並べ」と怒鳴れ、その通りだと思い乍ら並び、今迄学校では配属将校や先生に時々ビンタはもらっていたが、それとは較べものにならない様な強烈なビンタであり、ふっ飛んだ。私達は学校では一回生であるから何時も最上級生であり、当時の学校の上級生による、いわれのない制裁など受けた事もなく過して来たのであるから、ものすごく応えた。そして、この事が少しでも早く軍人になった方が得だという気持をぐらつかせた。兵隊に、なってもいない者を、こんなにぶん殴るのであるから、学校とはいえ、入学したらこんな事は日常茶飯事に行われているのだろうと考え始めて来ると、やはり結果はどの様になろをとも、初めより希望していた工大の方に進んだ方が良いのではと思い始めると、軍人になってやろうという気持は無くなって来た。翌日からの試験にも身が入らず視力検査等も、いい加減に答えて、「目が悪いのを」と云われる始末であった。二日間ぐらいだったと思うが試験も終り帰途につく事になるのだが、誰云うとなく、折角此処迄来たのだからと、旅順の街を散策し、途中寄り途になるが大連にも寄って帰る事にした。修学旅行気分で旅順と大連を見学し、買わなくてもよいのに、(大連と旅順との岐路になる普蘭店廻りは林檎の名産地として、とってもおいしい林檎で有名である)林檎を、それも深い大きなかご一杯二十五以上入っていたと思うが安いので土産にと買いこんだが、気がつくと御小遣がほとんど無い、汽車賃の方は例のパスがあるので、体を運んでくれるが、急行券を買う金と食べる金がない。普通列車で九、十時間いやそれ以上時間がかかるかも知れないのに。昼過ぎから腹が減って来た夕方近くまで我慢していたが、どをしようもない、ふっと気が付き、リンゴがあるではないかと。きれいに包装してある籠の蓋を明け、リンゴに齧りついた。食べ始めると止められず、またたく間に二、三個たいらげる。列車は夜行となったが、眠る気もおきずたじたじ腹の減った事のみ、相変わらず消化のよいリンゴに齧りつく。結局家に着いた時はリンゴの大きな籠に四、五個しか残ってなかった。予想通り予科練受験は不合格の連絡を受ける。この時津田君は合格したと思う。
戦況も段々と厳しくなって来たのか、軍の要請で、本渓湖煤鉄公司も昭和製鋼所(鞍山)東辺道開発(臨江)と三社合併し満州製鉄株式会社となり戦時色が濃厚となって来た。七月末には、この鞍山製鉄所と大連にB29による空襲があったが大した被害は無かったと聞かされていた。しかしまだまだ戦争による不自由はそんなに感じてなかったが此の年の夏休みは返上になり北満の開拓団に勤労奉仕に行く事になった。内地の学生は通年動員とかで学業はほとんどしてない状態であったらしいが、私達の方はまだ、この程度であった。健康診断の結果、約六十名が、私達の所から七百キロも離れた、浜江省五常果朝陽川(当時の地名)地区の天嶺開拓団へ出発した。道路の新設工事であったがこの一ヶ月の勤労奉仕の模様は同窓生の堀尚爾、兄が平成十年に、「朝陽川の夏」(開拓団に派遣された中学生たち)という小冊子を執筆し、詳しく書いているので、詳細は省くが、作ってくれる食事に飽きて、長沢、池島両君に私も加わり三人で炊事当番を買って出て、それまで朝昼晩、朝昼晩いつも同じ、味噌汁と漬物だけの食事に色々と工夫をこらして、団にある食材で一品か二品加える事にして皆に喜ばれた。又色々な、いたづらをしては団員さんに迷惑をかけたり困らせたり、勤労奉仕とはいえ、それなりに楽しんで約一ヶ月後帰宅した。
この開拓団も敗戦時は悲惨な状況に追い込まれた事では例外ではなく、今思うと、少しは開拓団の為になったのではないかとは思うが、困らせた事も多かったのでは。堀君の「朝陽川の夏」の一節を借りると、
「我侭一杯に振舞い、何らの貢献もなし得なかった僕ら中学生は、半世紀も過ぎたいま、取り返しのつかない申訳なさを覚える」と。
都会より離れた石橋子。せいぜい四十軒程度の社宅暮しのあい変らず平和な祈にも戦争の影響が少づつ現れて来た。秋口だったと思うが、この平和な社宅に。兵隊さん三十名位が何の訓練だったのか知らないが、一週間位駐屯した。「サァ大変」という事で社宅の奥様方総出で招待する事になり炊き出しで、大忙しであった。これは初日だけで、隊長さんから明日からは自分達でするから、炊事班もいるし、それなりの食糧ももって来ているからと。それからは逆に、私達子供達に兵隊さんと一緒に食べないかとさそわれ、御馳走になり、麦飯の味に接した。(この時から私は麦飯が好きになった)
奥様連中は、それでは何か他の事をと、素人演芸でもてなそうという事になり、内地にいる時に踊りをしていたという奥さんが急きょ師匠となり、数人に伝授、主人連中もクラブ内に急造の舞台を作り、兵隊さんが撤収する前夜披露する。この踊りの練習時に私の妹、久美子(当時二歳ちょっと)が皆が習っている踊りを、そばで見ていて、すべて覚えていた。奥様方より覚えが早いのである。演芸会当日、奥様方が踊ったすぐ後に同じ踊りを久美子が踊り、拍手喝采をあびる。それも、全演技すべてであるので、見ていた全員、驚きで大拍手となった。その後何か事あれば奥様連中の踊りの、お披露目となり、結構楽しんでいた。一年後は敗戦という事になろをとは、皆夢にも思わずに。(聖地会館と水交社、逆であったかも知れない。水交社に宿泊し、聖地会館が試験場であったかも)
明治に徴兵制度が施行されてから、兵役は男子満二十歳からという事であったが来年度よりは十九になる事に決る。軍隊に入れば故郷久賀にも行く事が出来なくなるのではという事で少し長期の休暇をもらって、久賀へ帰って来た。この一ヶ月足らずの、帰国が兄の青春の楽しい一時であったと思う。明けて四月には軍隊に行く事になるのであるから。満洲に戻って来てから、楽しかった短い青春の一句一句を話してくれた。久賀の近所の娘さんに好意をもたれて、兄が満洲へ戻る時列車で下関まで付いて来たとか。この時の土産は万華鏡であった。兄は本当に誰にでも優しい人であった。日曜毎に家に帰って来ては私達にあれこれと為になる物を買って来てくれていた。私も兄から「ジャンパー」を貰った事を思い出す。休日明けに会社へ戻る時、同じ列車で母や妹達も買物に出掛ける事が度々あった(列車の数が少ないので)この時は何時も小さい令子を背中におんぶして駅迄走って、令子をよろこばせていた。兄がいて汽車に乗る時はいつもしていた。その光景が今でも目に浮かんで来る。この兄が二十年八月十七日戦死しようとは。
昭和二十年、学校生活はこの時点でも変って来たとは思われなかった。英語など敵性語を云われ乍らも、まだ週五日位は数えられていたと思うが、教練の内容は軍隊と同じ様に歩兵操典とか、三十八式歩兵銃の扱い方、軍人勅語の暗記(これは一通り読んでも十分位はかかる長文である)等々。冬にはスケートリンクの上でスケート靴を履いて氷上剣道とか氷上銃剣道とかをやらされた。
四月、私も中学四年となる。兄がいよいよ入隊する。出発の時、列車を待つ間、石橋子駅の中でストーブにあたり乍ら静かに待っていた姿、いつまでも忘れられない。(当時は出征兵士を送り出すにもあまり目立たないよう、それとなく送り出さなければならないようになっていた。初戦の頃は旗や歓呼の声で送り出していたのに)私達にも変化が起きていた。内地の学生と同じ様に通年動員の命令だ。近くに満洲製鉄があるので、当然製鉄所にそれぞれ配置された。機械工場の旋盤工、鋳物工、私は公務部第二機械課設計であった。通年動員といっても週の内一日は登校して理数科の授業は受けていた。
女学生は工務部の事務とか附属病院の看護婦見習とかに配置されていた。私も設計に配属され、作業はもっぱら図面のトレースの仕事であり、烏口の研ぎ方、トレースの仕方等を教わった(この時の仕事が将来私の仕事となるのである)本来私も絵を画くのが好きであったのでこの作業に興味を持った。勤労奉仕とはいえ、昨年の開拓団での仕事と同じく、会社に対してどの程度貢献出来たのか判らないが、私達はこの勤労奉仕も大いに楽しみの方へ持って行った。休み時間に勤務所の前にあった小さな池で遊んだり、コッソリ抜け出して中国人が売っていたチエンピン(栗とトウモロコシに水を入れ挽いたものを鉄板の上にうすく伸ばして三十糎位の丸さに焼き上げたもの。あまりおいしくはない)を買って来て中に色々なものを入れ、春巻の様にして空いている部屋で食べるなど、隠れて食べるのが楽しいのである。それに、も一ツ大きな楽しみがあった。私達は「男女七歳にしてせきを同じくせず」という教育を受けていたが、同じ建物の中の事務課に女学生が来ているのである。段々と親しくなり休み時間には一緒に何だかんだとつまらない話をする様になって来た。何という勤労奉仕かと云われそうであるが、これが実体であった。八月九日のソ連の侵攻があるまで私達には、日本が敗戦に向いいつあるという事は知らされてなかったのだ。空襲も一度も経験してないのである。私など日曜日にわざわざ汽車で出向いて、自由に入れた設計室で、これから自分が作ろうと思っていた軍艦の模型の図面を引いたりしたものだ。
勤労奉仕の仕事も、いわれた作業はそれなりにこなし、又勉学の方も少ない時間であったので一生懸命にはげんだ(この程度で工大受験出来るかどうか何時もそんな事を思い乍ら)
こんな状態で毎日を過している時、考えてもいない事が起きた。八月九日ソ連軍が日ソ不可侵条約を一方的に破り、ソ満国境を越え侵入して来た。一辺に気持が引き締り、日本は戦っているのだと、しかし何と不法なソ連かと、後で聞くと満州の関東軍は、この不可侵条約を信じて、ほとんどの兵力を南方に送り出し、ソ満国境は少い兵力であったと。ソ連軍は、陸は大戦軍隊、空は爆撃機により、もの凄い勢いで南下して来た。私達学徒も勤労動員どころではなくなった。八月十日からは、都市防衛の為、ソ連戦車を防ぐための戦車壕を全校生徒で握る事になる。