その11 ~ その13
11.父の満鉄入社、妹の誕生
昭和十三年八月名古屋の理研光学に勤めていた父は満鉄社員の募集に応じて、見事合格し、翌九月渡満した。従って母達は一年半で久賀に帰って来た。新しく古町に借家住いした母達に、以前の様に兄は母の元に行き、私は祖父との生活、名古屋に行く前の状態に戻る。しかし祖父の家と母の家はすぐ近くであるので以前の様な思いはあまりしなかった。私自身も少しは大人に成ったのだろを。母も名古屋では、会社の独身者十名位の賄いをしていて、忙しく暮らしていた由。夜は何時も、名古屋に出発前に写した、兄と私の写真を見ては涙を流していたと話していた。私は母達の都会暮しを羨ましく思っていたが、母はやはり淋しい思いをしていた様だ。久賀に帰ってからは、以前の様に働きに出なくてもよい(満鉄に入社したお陰で今迄の給料の倍以上になった)生活が出来、前からの友達も遊びに来て楽しく過していた。
この当時の事だと思うが、祖父は子供達が都会から帰省して来るとの便りがあると、その日に合せて、瀬戸内の名物である「焼きあなご」を沢山買って来て、それを醤油で辛く煮しめて、網に入れ涼しいところに吊して、子供達の帰りを渡船が着く度に何辺でも港まで迎えに行き帰って来たのを確めたら直接会って「お帰り」を云うでもなく、遠くから見ただけで、サッサと例の腰に手をやるスタイルで先に家に帰って待っていたとか。ある夜、母が友達と一緒に祖父の家に行って見ると、例の「焼きあなご」が吊してあり、家の中には蚊帳が吊してあり祖父もいない様なので友と二人で「一寸つまみ食いをしよう」と食べた。その味の辛いのに「あー辛い。まるで「ニシ」じゃが」と云い乍ら、ひょっと蚊帳の中を見ると、いないと思っていた祖父が寝ているのに気付き、二人はびっくりして家の外に飛び出して、吹きだしたとか。祖父は蚊帳の中からこの様子をニヤニヤし乍ら見ていたと思う。(「ニシ」とは久賀の人達はものすごく辛い事を貝種の一種で非常に辛いアカニシにたとえてこう云っていた)
弟、健三も一年生であったので一緒に学校に行っていたと思うのだがあまり記憶にないが祖父は弟の事を名前で呼んだり云ったりした事はない。いつも、大将である。小さい時から私や兄は名前で呼んでいたが、弟は大将、祝い事でもらって帰った土産は先ず第一に大将、それから私、兄の順番。
一方満鉄に入社した父は、以前鉄道省に入るきっかけを作ってくれた姉婿(永田久一)が当時、或る事情で鉄道省を退社していたので、今度は父が呼び寄せた。二人共が単身赴任して同じ満鉄安奉線石橋子駅に勤務していた。
年明けて昭和十四年四月、この永田の家族と一緒に私達も渡満する事になるのだが。
二月十七日、昼過ぎ学校から帰る途中で兄から「妹が生まれた」と聞かされ二人して一生懸命走って帰って見ると、女の赤ん坊が母の横でスヤスヤと眠っていた。珍しいものを見るように恐る恐る覗くと、髪の毛のうすい赤ん坊である。名前は「令子」と父が紙に書いて送って来た。私達にも初めての妹で、めずらしさと可愛さで、それからというものは学校から道草もせず毎日飛んで帰ったものだ。
12.私達の渡満
四月の新学期が始まるまでに先程の永田の家族と私達と一緒に渡満する事になるが、永田家について知っていることを記そう。永田家は父達の長姉、私達にとって伯母に当るリムさんの嫁ぎ先というだけでなしに、その前よりつながりがあったようだ。私の父方の祖母ユイは、リムさんの姑に当る人の姪になり、従って、ユイさんは娘を伯母の長男に嫁がせた事になる(ユイさんにとってこの伯母が父方なのか母方の方なのか私には判らない)。この人は養子取りであって婿を粟屋家から迎えた。この粟屋家は元々毛利侯の三家老の一人、福原越後とつながりがあったようだ。大正の始め頃と思われるが、時の山口県知事が久賀町を訪れた時、墓参りしたいと云う事で、たまたま、折悪しく、粟屋家の人が久賀より出郷していて、関係のある私の祖母ユイが羽織で威儀を正して、知事の墓参りの案内をしたそうだ。私の祖母もこの粟屋家に関係があったようだ。
私達の渡満が決まり、お別れ会を開く事になり、春酣の一日、八田八幡様の日籠り堂に日ごもりに出かける事になる。(平成十六年八月現地に行った時はこの建物は取り壊されてなかった。たしか拝殿に向って右側にあったと思う)出席した人は鶴蔵祖父を始め、母、私達四人兄妹、永田の伯母それに四人の子供(長男は東京にいた)そして大勝の房江姉さん(私達は房江姉さんと呼んでいた。当時十八才で永田久一氏の姉の娘に当り、永田家の四人兄妹の従兄姉に当る)そして後に父の兄弟について記した、梅一叔父(彫刻家、中村青田)と結婚した。この時は、丁度母親が病気で久賀に静養に帰っていたので一緒に兄の俊雄氏と二人で帰り、それまでは大阪に住んでいて大谷高女に通っていたが、久賀高女に転校した。日籠りに行った時は五年生であったのか、卒業していたのか・・・・・・
父の大勝氏は、高知の人で、製紙会社の重役であり、家には書生も二、三人いたようで、兄妹共小さい時から、お坊ちゃま、お嬢さまで育てられたのであるが、一つ上の兄も共に、考えのしっかりした秀才であり才媛であった。
兄の俊雄氏は、久賀の永田家の庭に百羽は飼育出来る程の大きな鶏小屋を大工の手を借りず自分で造り(後にこの俊雄兄から私は、丸太による家の造り方、墨の仕方を教えてもらう事になる)鶏を飼って、当時では、めづらしい卵を生産しだした。何と云っても久賀の様な田舎に都会育ちで垢抜けした、そして教養のある美男美女が帰って来たのであるから大変。久賀の娘も騒ぐし、青年に至っては毎日、毎日、何人かがやって来て「たまごをおやんなさい」(卵を下さいという久賀の方言)と云って卵を買いに来る。俊雄兄は、房江を見に来るのだと笑っていた。この二人の父の大勝氏にも私は会っている。奥さんの見舞に久賀に来た時だと思うが、俊雄兄、房江姉と私の兄四人の写真を撮ってくれた。この時の写真機を私ははっきりと覚えている。初めて見るカメラであったからだ。今思うと二眼レフである。当時はまだ持っている人は少なかったのだ。
日籠りの話から大部それてしまったが、元に戻そう。その日は本当に良い天気で、重箱数段に御馳走を詰めて、大いに楽しく過した。帰りは、親達とは別に子供達だけで砂浜を通って帰ろうと云う事になり房江姉を筆頭に永田の二人、私達二人、計五名で別行動をとる(永田も中村も下二人は小さいので親達と一緒)八幡様より川を下り浜に出て砂浜づたいに歩いたが途中、川により砂浜が遮られる所が何個所かあり私には渡る事が出来なかった。その都度房江姉さんが私を背負って渡ってくれた事を思い出す。渡満前の楽しい思い出であるが、久賀を出発する時が私の大好きであった祖父との二度と会う事のない別れであった。
三月末いよいよ久賀を後にする事になる。
渡船の久宝丸に朝早く乗船し、祖父を始め皆さんの見送りを受け、大畠へ、大畠駅より汽車にて下関港駅へ。夕方関釜連絡船にて日本内地を後にする。玄界灘に出ると、海は荒れていて、大きな船ではあるが、持ち上げられたり、ズーと下ったり、一ぺんで皆、船酔い状態になってしまった。大人は母と永田の伯母の二人だけ。あとは子供八人、しかも中村、永田共末の一人は生まれて、六十日と五十日である。皆が船酔いでダウンしても赤ん坊は泣いたり、ミルクを欲しがるし、オムツの取替えをしてやらなければならない。永田の伯母は坐って一方を見つめたきり。一寸も動かない。仕方なく、母は、二人の赤ん坊を一晩中世話をする事になり皆と同じ様にダウンする事も出来ず釜山に到着する迄一人で頑張り通した。
朝方釜山港に着き下船する。地上におりると正直なもので気分は皆少し良く成ってきた。
迎えに来ていた父を、兄が一番先に見付けて「アッお父ちゃんがあそこに来てる」と大きな声を出した。新しく父となって初めての事で、私達、子供にとって仲々「お父さん」と云えない状態であったのを兄が一番先に口をきった。兄もどをいう機会に云い出そうかと考えていたのだろを。気まづい様な気持が、兄の一言で壁がとれた様な気がした。
釜山駅より汽車に乗ったのであるが、先づ驚いたのは列車の大きい事。内地の列車より一廻り大きい。線路の巾も広い。車内も普通座席は一列が三人と二人の五人掛けであり間の通路も余裕がある。今思うと新幹線と同じ様だ。私達は長旅となるので寝台車に乗り込む。
昼間は朝鮮の風景を物珍しく眺め乍ら汽車の旅であるが、乗り物に乗ると、船での酔が、まだ残っていて、やはり気分が悪い。皆も同じ様であり、車内での食事もあまり食べれなかった。夕方、乗務員がベッドをセットして呉れベッドに横になったが、気分がシャンとせず眠ったか眠らなかったのかウトウト過している間に夜も明け列車は何時の間にか満洲に入っていた。満洲の大平原を想像していたが、朝鮮の釜山より新義州、安東、そして本渓湖という(満洲の安奉線)沿線は、小高い山が連なって、地形は内地と変わらないが、高い山はなく、樹木も山にはなく、平地に潅木が生えている程度。民家も泥壁で内地の家とは趣がちがう。畑の作物もあまり内地では見掛けないようなものが多い。
昼前、本渓湖駅に到着。父の任地の石橋子は急行が停車しないので、ここで普通車に乗り換える事になるのだが皆があまり労れているので本渓湖で休憩する事になり、市内のお寺で横になる(このお寺は日本の寺院であり、市内の東山の上り口にあった。内地に帰国後同窓生にこの寺の名前を尋ねたが、皆名前を知っている者が無かった:後程調べて判明、本渓湖本願寺であった)。
午後の列車にて石橋子に向う。到着したのは三時頃だったと思う。ホームには、石橋子駅員の家族が大勢出迎えてくれた。この時には気分もすっかり良くなり、昨日よりあまり食べてないので空腹を感じていた。電話ででも連絡してあったのか独身寮(寮と云っても社宅の一軒を利用していた)で在寮の方々(男子社員)が私達の為に食事を作って待っていてくれた。その時の初めて食べたトンカツのおいしかった事。ウスターソースの味。今でも忘れられない。
食事も終え、家に落着いた。一緒に渡満した永田一家とは隣り同士であった。
13.満洲生活の始まり
社宅の造りは、赤レンガ積で今で云えば3Dである。玄関、トイレ、炊事場、裏口、それに三ツの部屋、建物の中心に、ペチカが設けられ、寒い冬に対処してか、窓はすべて二重であり裏口近くには、家の内から出し入れ出来る倉庫もついていて、燃料の石炭も家の中より取り出せる構造になっている。玄関ドアも頑丈な造りで、どれも寒さを考えての造りである。
水も、久賀では井戸水であったが、ここでは水道が完備していた。都市ガスは、ここ石橋子では社宅数が未だ三十戸位であったので設けられてなく、炊事は石炭用かまどであった。風呂は、共同浴場が集会場(倶楽部)と同じ建物内にあり、管理は中国人の劉さんがしてくれていた。
この劉さんは、日本語が上手で、毎日社宅の奥さん方より日用品、食品、あらゆる物の注文を受けて本渓湖の満鉄組合(供給所)迄汽車にて買物に出掛け、帰ってから皆の家に届ける、社宅内では先程の浴場管理から各戸への石炭の運搬、火付け用の薪割り、その他あらゆる事をして呉れていた。給料は満鉄より支給されていたようだ。
間もなく新学期に入り私達は本渓湖小学校に転入した。兄は高一(注:高等小学校一年)、私は小四、弟は小二である。朝六時半頃の列車にて通学、帰りは本渓湖発五時半頃の列車である。土曜日とか祝日の午前中で終了の時は一時頃の列車にて帰れるが、その他は二時頃学校が終了しても二、三時間は本渓湖で過さなければならない、友達が出来てからは、この時間が友達の家に遊びに行く時間となる。いづれにしても家に帰るのが六時過ぎである。帰ってから夕食、入浴と時間が過ぎ、宿題をする時間があまりとれない。朝は今迄よりも早起きしないと列車に間に合わないのでおそく迄眠らずに居る事が出来ない。これは私の担任の村井先生の出す宿題が非常に多いので、子供なりに苦労した。今迄の久賀小ではあまり宿題は出なかったと思う。こちらのクラスの皆んなの勉強の仕方が違うのに驚いた。(今で云う教育ママが多かったのだ)私も今迄の成績は一、二、三年、何時も上位であったので、負けるものかという気持で私なりに張り合った。(お陰で其の後小学、中学と上位を保った。中学の成績を兄が見ては褒めてくれたのを覚えている)小学生というもの相手が或る程度出来の良い子でないと友達になってくれないものだ。その点、転入一ヶ月位で次々と友達も出来た。(この時からの友が今現在も遊びに行ったり、来たりしている)。やっと新しい生活に馴れた頃、一ヶ月か二ヶ月位たったと思うが私達一家と一緒に渡満し隣りに入居していた永田の伯父が急遽新京(長春)のふた駅手前の大屯駅に転勤という事になり一家は席の暖まる間もなく転出して行った。
隣が空家になって間もなく我が家も社宅を替る事になる。今迄の社宅は四、五年前に建てられたもののようであったが、引越した社宅はまだ新しく、大体の構造は前とあまり替らないが垢抜けた玄関廻り、三角の出窓、仲々良い造りである。満鉄社宅敷地内の小川を渡った所に、二戸一の建物で四棟あり、各棟毎廻りは一米位に剪定された楡の生垣で区切られていて立派な社宅である。も一ツ変った事は食生活である。今迄は海辺で暮らしていたので魚が主体であったが、当地は生の魚は川魚程度、海の魚と云えば塩物、干物である。そのかわり肉が主体の食事となった。干肉、豚肉であるが我が家は母が豚肉をあまり好まないのでもっぱら牛肉である。肉をあしらった油物の惣菜が多くなり、弁当のおかずには、ソウセイジ、ハム、たらこ等今頃あまり食べなかった物が魚の替りを占めて来た。いわゆる大陸食(こんな云い方があるかどうか)現在ではこんな食事は普通であるが、当時(昭和十四年頃)はまだ内地の一般食にはあまりなってなかった。
私達の遊びが変った。それというのも、私達が当地に来た時汽車にて通学していた就学児童は有馬姉妹、順子ちゃん、久美子ちゃん(小学六年と四年)山下のセイ子ちゃん(小四年)田中トシ子ちゃん(小二年)と女の子が四人と男の子は佃の亮二君(小二年)一人のみの五人であった。ここへ私達男兄弟三人が加わったのである。高一の正雄兄は彼女達にとっては大変なお兄ちゃんであった。びっくりしたのは、日曜日、午前私の家の前で彼女達四人が唱う様な節をつけて「お兄さん、遊びましょう」と呼び掛けて来た事だ。私達は今迄女の子とあまり一緒に遊んだ事などないし、びっくりしたが一緒に遊ぶ事にした。これは、これからずーと休みには何時も呼びかけられ一緒に遊ぶ事になる自然と女の子も交えた遊びになる。テニスコートなどで、花一匁や丸囲いのドッチボール、一寸した弁当を作ってもらって、社宅敷地外の、小高い山へ登ったり、川へ遊びに行ったり、休みの日は本当に楽しい日を追っていた。社宅内にも、ブランコ、鉄棒、すべり台等は設置してあり、常時はこの広場が遊び場で鬼ゴッコなど夕方まで思いっきり遊んだ。子供のときの楽しい夢のような一頁である。も一ツ休みの楽しみは、奉天(満州一の都会で、現瀋陽市)まで遊びに行く事だ。奉天には私達より数年前に渡満していた母のいとこがいた。御主人は私達は香川の小父さんと云っていたが奉天駅のすぐ近く浪速通りのビルで大昌貿易公司という運道具等を主にした貿易会社を経営していて、私達が遊びに行くと、「石橋子来たか」とあちこちに連れて行ってくれた。奉天球場での職業野球(内地の球団が来ていた)の観戦、又夕方から夜にかけて、奉天での一番の繁華街春日通りに行き満州ではあまりお目にかかれない、にぎり寿司を食べさせて呉れた。ねたは飛行機で内地より運んで来るとか、一貫が当時の金で一円だったとか、(これは後で人から聞いた事である)又同じビル内の支那飯店で支那料理のフルコース(食べきれない程の量であった)を食べさせてくれた。この飯店では何時も「上海の花売り娘」のレコードが鳴っていた様だ。
この香川の小父さんは広島の方で、プロ野球とも、いくらか関係があったらしい。本人も運動が大好きで、運動具等の問屋の様な会社であった。冬になる前に私達にもアイススケートの靴一式を用意してくれていた。この御夫婦には子供がなかったが、大変な子供好きで、私達を可愛がってくれた。父母とも一緒に休みには奉天へ遊びに出ていた。満鉄の供給所(奉天の供給所は、百貨店と変らない規模であった)に買物に行き、食堂でホットケーキを食べるのが楽しみであり、街の飯店では焼きそば(今でいうあげそば)を食べるのが、やみ付きとなった。奉天の街路も覚えたころには一人で良く出かけた。日本系の百貨店も、三越、満蒙と二店ありウィンドショッピング、食堂での食事、香川に泊る時は春日町の夜店にも出掛け、満洲人の小供が道端で小さな板の上でお手玉のような物を、「一つもってる、二つもってる」と云い乍ら左右、どちらの手にもっているかとお客に小銭を賭けさせて商売をしていた。夜店には何でもあった。コソ泥に持って行かれたものも、ここに来ればちゃんと売っていた。とられた片方の靴でも売っている、盗られる方が悪いのであるとおしえられた。面白いところである。
渡満して二年目位(昭和十五年)であったと思うが一番下の令子が夏に腸炎になり奉天の満鉄病院に入院した。香川夫妻には大変世話になり退院してもすぐ石橋子に帰るのは労れるだろうと香川の家に四、五日逗留する事になる。この四、五日居る間に小父さんが令子が可愛く、このまま置いて帰って呉れと云い出した。そんな訳にもいかないと連れて帰ったのであるが、一週間位して、その時の看病の労れが出たのか今度は母が倒れ、本渓湖の満鉄病院に入院した。奉天から香川夫妻が飛んで来て、小さい子がいたら困るだろをと、当分令子の面倒を見てやると連れて行った。母の入院も案外長引き、退院後も少し養生をして一ヶ月位経つと令子を連れに奉天の香川家へ行くと、令子は丁度昼寝中。何と応接台の上にふとん、その上に蚊帳を吊り、ソヨソヨと風の入る上等の座敷に寝かされ、目をはなさない様目覚めるまで傍で番をしている様子である。
目を覚ましても香川夫妻に非常になついていて、母が若干さびしく、つらくなった様だ。そして、小母が話すには(小父は丁度いなかった)今連れて帰ったら小父が辛がり淋しがり仕事も手に付かなくなるだろを。朝から晩迄それはそれは令子ちゃん令子ちゃんと大変で絶対に帰さないと云っている。今少し時間を下さい帰さないといけない。と、段々とその気になるように仕向けるからと云う事で今日はどうしても連れて帰らないで呉れと懇願され、そのまま帰って来た。四、五日して夫妻が令子を連れて来た。二、三日私の家に一緒に泊まって帰って言った。
その後四、五日経毎に小父が令子に逢いに来ていたがその内一週間ぐらいなったが度々逢いに来ていた。本当に手放すのが辛かった様で、結局、知人から、令子と同い年の女の子を養子にする事になり、一件落着である。(この小父は終戦後、石橋子の私の家で病に倒れ息を引きとる事になるが、それは又後程)
満洲の冬、十月の末頃には、かなり寒さを感ずる様になり、小学校でもグラウンドの廻りに五十糎位の土堤を作り中に水道水を流し入れスケートのリンクを作る。十一月三日(明治節)には初滑り出来たと思う。私達には初めての経験である寒さ。段々と寒さが厳しくなり、列車の昇降階段の手摺等素手で掴もうものならバリと、ひっついてしまう。息をする鼻の中もバリバリと鼻毛がひッつく。生ま半かの寒さではない事を痛感する。しかし、外出する時はそれなりの防寒服、靴、手袋、耳おおい等でいくらか防げるし、身体の方も段々と慣れて来るものだ。スケートの方も始めは立つ事も出来ない友達はスイスイと滑っている。初めての劣等感を味わうが、それでも一週間もすると曲がりなりにも滑れる様になる。こうなると楽しくなり休みの日も社宅外の川へ行き、凍った河をリンクにして練習する。一度父も滑って見ると云って腰に座布団を巻き付けて一緒に例の河に来たがスケート靴を履いたものの足が滑って立ち上がる事も出来ず腰の座布団も意味なく、ほうほうのていで引上げた。家の中は例のペチカで暖ったかく夕方など浴衣一枚で過せる位で二重窓の間にぜんざいをコップに入れてシャーベット状にして食べるこれは私達子供にとっての大好物である。だがペチカの管理は私の仕事となり、火の消えた石炭がらの取り出し、薪による火付け、石炭への着火石炭くべ、かなりの量を投入し完全に燃焼して黒い所がなくなり全部赤くなった時に上部のダンパーをしめる(ダンパーには小さい穴が空いていた)各部屋のペチカの壁にある蒸発用水槽に水を入れる。この仕事は大体一日一回であり、夕方に点火を始めた。
都会であれば各戸にスチームが通っていてこの仕事はしなくて良いのである。学校のある本渓湖も、学校各社宅それぞれ単位毎にボイラー用建物があり二十四時間管理されていた。
冬の寒さで良い事もある。食料の保管である社宅の構造のところで記した家の中の倉庫であるが、大きな冷蔵庫であり、夏では保管出来なかった肉類も牛肉、豚肉共に肉屋で見る様な肉の塊が中に吊るされて何時も切り取っては料理出来た。野菜などもそれぞれ養生して保管されていた。満洲での食事情は現在のインスタント食料の他は現在と同じ様な物が豊富にあった。当時好んで食べたソーセージ、大体四糎丸で二十五糎長さのチョット食べるとくせのある匂いのもので食べ始めると止められない。これが内地に帰ってから、あちこち、いくら探してもこれと同じ物を見つける事が出来ぬ。(ロシア製でもあったのか)も一度食べて見たいもの。
冬の風物詩である、タンホーラ売り、これは三糎位の丸い赤い実を今で云うリンゴ飴の様にして三ツ四ツ串に差してあり、一間位の長さの棒に半分位まで径二十糎位の藁づとを巻き付けそれに沢山差して肩に担いで「タンホール」と呼び乍ら売り歩く。又、四季には関係なく手提げ籠に今思えば牛や豚のホルモンを塩ゆでにしたものを売り歩いていた。いづれも買って食べる事は厳禁と母から云い渡されていた。(不潔が理由)食べるなと云われると食べたくなるのが人情。こっそり買って食べたタンホールは少し酸っぱくてあまり美味でなかったので一回で止めたが、ホルモンの方はものすごく美味でありこれは隠れて買い食いした。これが原因ではないと思うが一と夏下痢状な具合になった事がある。不潔と云えば夏のまくわ瓜売りである。籠に瓜を沢山入れて布巾を掛けてあるが、手ばなをかんだ後の手をこの布巾で拭き、まくわ瓜を買うと又この布巾で瓜の外をきれいに拭いてくれるのである。ありがたい様なきたないような、それでも現地の瓜は本当にうまい。香りが良い。これは度々買った。
その他買って食べた物は南京豆(普通に炒ったもの、初めてであるが茹でてあるもの)それにドングリと呼んでいたが内地で云うドングリとは違いピスタチオの様で殻はずっと堅い味は香ばしくて、仲々おいしい物であった。
冬の風物詩タンホールの話から、買い食いの話になってしまったが。冬の催し物で兎狩りがある。満鉄社員で本渓湖駅を中心に前後四、五駅の社員満鉄病院の先生看護婦さんも含めて総勢二百人位で陳相屯廻りの雪の原野え出何き二キロ位先に捕獲用の網を長さ百米位張りこれに二百人で遠巻きにして鐘太鼓でヂャンヂャン音を立てて追い込むのである。兎の速い事この時初めて見たがびっくりした。この狩りで十羽ばかりの兎を捕獲したが毛皮は軍に提出するとか。狩りも終り、先遺隊が満州人の民家で豚汁を大鍋で炊いていて、全員舌鼓を打つ。この狩りに弟の健三も付いて来たのであるがとうてい皆と同じに歩く事が出来ず、ずーと父の背中にいた様だ。
私達の住んでいた南満地方の冬の寒さはマイナス十度前後で時にはマイナス二十度位迄下がる事も。一と冬に一、二回はあった。寒い所は寒い鳴りに色々と催し事があり、楽しく暮らしていた。駅長さん宅で、有馬の順子ちゃん久美子ちゃん姉妹のバイオリン演奏会なども冬の事だったと思う。