その8 ~ その10
8.小学校入学
昭和十一年四月、私も小学生となる。入学式で思い出されるのは、新入生全員、八田八幡宮の社前にて、修身の教科書を校長だったのか宮司さんだったのか、おぼえてないが一人一人名前を呼ばれ、返事をして受取った。この時は、父兄同伴であるが私の母は仕事で出席出来ず折良く神戸より帰省していた、父のすぐ下の弟、高一叔父が父兄として一緒に行ってくれた。新しいランドセルもこの叔父が神戸より買って来てくれた。
此処で父の兄弟について話そう。一番上の養子の男子は元の籍に戻り、長兄としての林一伯父は、結婚して二女一男(千代枝、たつ江、明吉)、三人の子供に恵まれ大工の職についていたが、生来体が弱く父より二、三年前に夭折。私の家と同じ様な境遇を早く迎えていたが、元々嫁さんが中村の姑と折合悪く、祖父母の家に寄りつかなかったらしく、三人の孫も顔をあまり見せなかった様である。姉のリムは、鉄道省に勤めていた永田久一氏と結婚し、二男三女(文弥、淑江、和久、尚子、直美)の母となる。(この永田一家とは、其の後満洲迄一緒に行く事になる)次が私の入学式に同行してくれた高一叔父であるが、この人は頭がずば抜けて良い人で(自慢ではないが中村家は頭の良い人が多い様で?)尋常科一年から高等科二年の八年間、学期末にもらう成績表を学年代表として毎年受取りに出ていた。母は又あの子が代表で出ていると何時も感心していたとか。尋常科から八年間全甲で大正十三年に卒業し、当時岡山県津山駅で助役をしていた義兄の永田久一氏を頼って、鉄道省へ入省。津山駅電話係として就職する。早速試験を受け、大阪鉄道局教習所専修部第三十六期生として見事合格し、昭和三年、同所修了後は、兵庫駅。神戸港駅の電信係として奉職していたが、職場の上司の娘婿にと希望され、親にもくわしい話もなしであっさりと婿養子(田中姓)になってしまった。(昭和九年頃と思われる)結婚はしたがこの花嫁、食事、掃除、洗濯、ろくにしない。そして当時の流行の先端であるデパート巡りを一日の仕事としていた。これには、さすがに叔父も業を煮し一年足らずで離縁してもらい離婚した。上司の手前もあり若気の至り、鉄道省迄辞職してしまった。私の入学式に同行してくれた時がちょうどこの時であった様だ。(この叔父がその後私達の第二の父となる。)
次の梅一叔父も兄と同様学校の成績は抜群であったが、その上彫刻が好きで、木片は家に充分にあり、毎日学校から帰ると外に出ずすぐ物を彫り続ける。両親がいい加減にしろと云っても一向に止めない。ある時祖母が梅一叔父の使っている彫刻刀をすべて隠した。しかし学校から帰ると同じ様に木を刻んでいる。おかしいなとのぞいて見ると蝙蝠傘の骨で彫刻刀を作ってそれで木を刻んでいた。それ程迄好きなのであればと、学校卒業後、京都の仏師の元に弟子入させる。その後、東京の木彫界の重鎮、沢田政広師に師事し、研鑽、日展の前身である文部省展覧会(文展)に特選。戦後の日展にも特選、そして、日展審査員にも選ばれる様になる。が残念な事に昭和五十六年帰らぬ人となる。今故郷の、大島大橋の大島側、小松瀬戸公園
に、佐藤栄作元総理と、橋元正之元山口県知事の銅像、久賀覚法寺には、幕末に活躍した大州鉄然師の木像、久賀小学校には「明るい児童像」と残されている。昭和十六年頃、姉の夫、久一伯父の姪(久一伯父の姉の娘)房江と結婚、三男一女(正希、幹、直希、豊)の親となる。
父の二人の妹の内、上の「キクヨ」は、大正十一年、十三、四才位で死去していて、私の記憶にない。下の妹キミヨ叔母は、昭和七年頃、三井輝夫と結婚し二男四女(つね子、俊治、よし子、美津子、正文、けい子)の母となる。
この叔母の始めての記憶は、嫁いでまだ子供も出来てない頃で、実家に遊びに帰って来た時と思う。私達も祖父の家で夕飯を一緒に食べていた。私は小さい時から、「花かつを」が大好きで「花かつを」とはよを呼ばず身近にある鉋くずに形が似てるから、「花かつを」の事を「かんなくず」と云って喜んで食べていて「かんなくずがほしい」と私が云った時この叔母がわざと、本当の鉋くずを一抱へ持って来て皆を笑わせた事がある。この事がこの叔母の事を思い出す時、何時も一番先に思い出される事である。この叔母の夫、輝夫叔父は、海軍軍人で、海上勤務中は相撲をよくしていて体の丈夫な方でありこの家系は軍人が多い。この叔父の叔父(母親の弟)は陸軍中将で、久賀の軍人の中では最高の位であり、閣下である。この閣下も休みで帰省中姉に何か用事を頼まれたが不得手であって、姉に「この役立たず」と叱られたらしく、この事が久賀中で「閣下も姉にはかなわんなあ」と話題になったとか。輝夫叔父も退役後は川西航空に勤務して、西宮の住人となった。キミヨ叔母は、昭和三十六年、西宮の地で四十七才の若さで世を去り、満池谷斎場で、私は末娘のけい子ちゃんを抱き締め共に涙を流した。今でも其の時を思い出せば胸が締め付けられる。
末っ子の八郎叔父であるが、末っ子のせいか、学校卒業後大阪に出て、色々と転業をして見たとか。その一つは散髪店に理容の弟子入りをして、修業を始めたが、この人も私の父と同じタイプの当時流行の役者まがいの顔立ちであり、店主の娘で一番弟子の兄弟子と婚約しているのに、その人をほったらかしで八郎叔父につきっきりで食事の時など、これ見よがしに叔父につくす。叔父としては兄弟子の手前困りはて、身の置き所もない状態となり、遂に店を飛び出し、道頓堀あたりをうろうろしていた時、何と母の弟である寅平叔父とバッタリ会った(年は八郎叔父より一才位下であったと思う)その時寅平は、大阪で鉄工所に勤めていて、一人下宿していた。これ幸とそれから当分一緒に暮していたとか(小説の様な事である)其後久賀へ戻っていたがこれも父親の知らない間に同じ久賀の津原の方の伊東家の婿養子に成っていた。がやはり折り合い悪く離婚という事になるのだが、伊東の席は抜く事が出来ず、この伊東で現代に至っている。其の後北九州の方で一家を持ち、一男二女(千美代、美智子、健一)の親となり、終戦前後は炭坑で働いていて、終戦後、我が家とも係わり持つ事になる。
父の兄弟について私の知るところを記したが、子供の名前「字」など間違いがあるやも知れぬが、それは又判り次第訂正する事にして、話を私の小学校入学後に戻そう。
小学校に上がっても家での生活は変わりなく、今迄通り休みの日には母の所に行って、兄弟と遊んでいた。母の所には相変わらず、娘時代からの友達や職場の友が集まっていて、当時流行っていた「野崎小唄」のレコードを何辺も掛けて唄っていた。子供でも歌詞を暗記出来る程。
その当時だと思うが、高一叔父が神戸より、久賀では見かけない玩具の戦車を買って来てくれた。火を吹き乍ら坂を登って行く事の出来るもので電灯を消して走らせ、近所の子供も一緒にワイワイさわいだものだ。
学校の方は一年生の担任は、たしか大崎、白石より通って来ておられた奥田先生と記憶している。一年と二年同じ担任であった。
久賀小学校には三年生一杯まで通ったのだが、三年間の思い出は何と云っても楽しい事が先ず浮かんでくる。学芸会と運動会。学芸会では一年生の時は大黒様(準主役)で出て因幡の白兎を助ける役、その後、皆から当分の間「大黒様、大黒様」と呼ばれた。二年生の時は「こぶとりじいさん」の鬼役であった。三年生の時は学芸会が無かったのか記憶にない。
運動会は毎年十一月三日、明治節に行われた。式典が終わってから在校生(当時千人以上いた)全員が、赤と白に別れ、応援歌もそれぞれあった様だ。歌詞も切れ切れであるがこんな様な歌詞であったと思う。
「ああ嵩山上空高く 久賀湾頭の波清し
いろはもえて・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・・・・・
これぞ白(赤)組の意気なるぞ ・・・・・・・・・・・・・
フレ フレ フレ フレ 」
この様な応援歌を唄い乍ら、団長が三角旗の長いのを振り全員が和して、自分の組を応援した。得点は漢数字の旗を捲き揚げて現在の得点が判る様にしていた。当日は朝早くから座席取りに大勢つめかけ合図と同時に我れ先にとむしろを敷いたものだ。しかし昼食は家族と一緒に食べず、それぞれ弁当を作ってもらって教室で食べた。日頃より昼食は家に帰って食べる事になっていたので、この運動会の弁当は本当に楽しく、うれしく、おいしい、ものであった。競技もそれぞれに一、二、三等迄は賞品がもらえた。ノートとか鉛筆とか。圧巻は三年生以上高等科二年迄、全員での騎馬戦であった。戦時色も少しづつ入って来たようで、青年学校生による、軍事演習も披露されたよいに思う。
小学校入学(昭和十一年)してから、三年終了(昭和十四年三月)までの三年間が私の故郷での思い出である。入学して半年位経って、病がちであった祖母があの世へ旅立った(昭和十一年十月三十日)。その後は祖父と私の二人の暮しとなるのだが、祖父は食事の事は全て、自分でしていた。洗濯、掃除は母が来ていた。祖父と二人での食事は何時も「あきらうまいのを」というのが口ぐせの様であった。酒は晩酌に一合程度で数の子が好物で、一緒によく食べた。夕食の後は必ず話を聞かせてくれた。講談本をよく読んでいたらしく、昔の豪傑の話が多く、宮本武蔵、荒木又右衛門、猿飛佐助、岩見重太郎の狒狒退治や家を持ち上げた話など(この狒狒退治の話の元は奇しくも私が今住んでいる、西宮小松町の岡太神社の事である)又、弥次喜多の膝栗毛の話で京の町を梯子を持ち歩いた話、風呂の底を抜いた話など皆を笑わせる話も上手にして聞かせた。母もこの話は祖父から聞かされた由。嫁に来た当時「嫁女を笑わせんといかん」と云って、面白い話を度々してくれたと。この様に祖父は本当に心のやさしい人であった。
9.故郷の歳時記
正月で先ず思い出されるのは門松であるが生活の知恵というのか、割り木の束(燃料用の薪で三〇センチ位に揃えて切った物を二〇センチ位の径に束ねたもの)を入口の両側に立て、その中央に松を差し込み、それに竹、梅等を飾る。これは門松を立てるのに土盛りなどしなくてよいし片付けも簡単に出来る。仲々便利な方法である。除夜の鐘と音と共にぞろぞろと初詣で天神様、八幡様、戎様等へ参るが私達子供は寒いので詣でた事なし。子供の遊びは家の中では双六、福笑い、いろはかるた、外ではヨウズ(久賀では凧の事をこういっていた)揚げ、けんか独楽、ビー玉、などをして遊んだ。これは何処も同じであろう。又、年賀はがきはきれいな絵の印刷したものを集めて楽しんだものだ。
節分は、豆播きはもちろんだが家の入口に、ぐいの木(トゲのあるタラの木か)に豆がらをつけたものを置いていた。鬼除けのまじないだろう。家の中には繭玉かざりをしていた気がする。
雛祭りは私方は女の子が居ないので、家には飾ってなかったような気がするし、古い雛を飾っていた様な気もする。判然としない。が、母から次の様な事を聞いた。母が小学校に通っていた時分、雛祭りに学校の講堂に大きな御殿が組み立てられ、中に人形がそれぞれに飾られ見事なものであった。この御殿を造ったのが、他ならぬ鶴蔵祖父であったと。この御殿は旧家の依頼で祖父が造ったのだが、その旧家の娘さんも大きく
成り、御殿があまりにも立派なので、小学校に飾り皆に披露したのだと。私が小学校の時は飾ってなかった様で、記憶にない。
花まつり、お釈迦様の誕生日に甘茶をかける潅仏会がたしか覚法寺で催された事がある。一度しか記憶にないので毎年は催されなかったのだろうか。家ではたしか「大豆」を煎ったのと「あられ」を煎ったのを、飴で固めて、にぎり拳より少し小さく丸めたものを、お釈迦様の頭といって、おやつとしてもらった。(これは毎年この時分、作っていた。)
お四国参り、これは四国の八十八ヶ所参りの事であるが、この周防大島でも八十八ヶ所の島四国があり、春先にはお遍路姿の人を見掛けた。このお遍路さんに対するお接待から始まったのか、あちこちの寺で、お接待を始め今日はどこそこの寺で、おにぎりの接待があるとか、果物の接待、餅の接待とか、それを聞いては、もらいにいったものであるが、今はもうこの様な催しはないのだろう。
またこの時分は桜の盛りで、花見に、古虚空蔵様に行ったものだ。古虚空蔵様があるのだから新虚空蔵様もあるのだろうが、それは知らない。古虚空蔵様は桜の時分には下から見てもそれと判る桜の木の多い所で、山の中腹にあり、花見時には、店も出ていた様で私達には一寸遠い所であるが、母や友達で見に行った廻りには田圃もあり蓮華草が一面に咲いている中を走り廻って遊んだ。桜の花も終り四月末になると阿弥陀寺の回向がある。小学校高学年の男の子は二十五菩薩に、小さい子はお稚児様に扮して行列をし、多くの店が出てそれは賑やかなもので、うきうきし乍ら見に行ったものだ。この回向が終ると、あちこちの家に幟や鯉幟が立ち始める。私のところも祖父が鐘き(注:登録の文字になし)様の幟と鯉幟を立ててくれた。軒端には菖蒲の葉を差し、柏餅を作る。柏餅といっても柏の葉でなしに丸っこい(ぐいの葉?)葉、二枚の間にはさんだものだった。柏の木が少なかったのか、と思われる。それに粽であるが粽の方は甘みが無いので、もっぱら柏餅の方をよく食べた。
夏の頃だと思うが、久保河内の青年による「なむでん踊り」がある。これは、県指定無形民俗文化財となっていて、裃を着た人形を廻し乍ら先頭を行き、その後を鐘、太鼓を鳴らして練り歩く念仏踊りのようなもの(稲の生長を祈念した)、子供達は「ナムゼンヤ、チココンヤ」とはやし乍ら真似をして遊んだものである。
お盆は家毎に精霊様と称して、お供物を飾った吊り棚を軒に吊し(約四十五センチ四方で深さ約十センチ位、廻りは板で囲ったというより欄干で囲ったようなものに果物、野菜、餅、おはぎ等、色々な食物を飾り四方には半紙の上辺をのり付けして、たらしてある。祖父はこの半紙に鳥などを切り抜いて、見ごたえのあるものであった。)夕方になるとそれぞれ家族揃って、追原の墓地へお参りした。その人達の往来で往還(メイン道路のこと)は賑やかであった。盆踊りもあちこちで催されていた様だ。
精霊送りは、先程の精霊様の棚を辺に持ち出し、中の供物を小さな舟に乗せて送る。新仏のある家は灯籠も流した。
祇園祭りもこの時分と思うが、港の東側からの石積みの防波堤の根元、同じく西側の石積みの防波堤の根元、それに私達は田圃と呼んでいた古町と本町の間の道の港側で本屋のあった所の岸壁より、ちょうど防波堤根元、東西の中間に当るところ、この三ヶ所に石の玉垣がそれぞれにあり小さな社が祀られていた。この社のいづれかの祭りであったと思うが、はっきりはおぼえていない西側の社(古町)は金比羅様であった様にも思う。大きな祭りではなかった。(今年(平成十六年八月)に帰郷した時、この社を探して見た。新しく道路が岸壁側に出来ていたが昔の位置でなしにそれぞれ道路の南側に移設されていた。昔あった立派な玉垣は無かった。)
祭りらしい祭りとして記憶に残るのはやはり戎神社(玉神社)の祭りからだと思う。子供心には店の出る数で祭の大小を考えていた。この祭りでは小遣いとして五銭もらっていた。
大きな祭は、九月十五日の八田八幡様と十月十五日の天神様の祭である、この両祭りでは小使は十銭と決められていた。
八田八幡様の祭りは宵祭りで各戸がお餅をお供えした。このお供えの三方にのせた餅を受取るのが古町、本町、天満町等では天神様でそれぞれ名前を呼ばれて受取り夜道を提灯を照らして八幡様へお供えする。多くの人達が連なって八幡様迄往復するのであるから壮観であった。この行事を「御供様をかねる」どんな字を当てればよいのか判らないが、このようによんでいた。
八田八幡様の祭りであるが、各部落毎に曳き山(山車)を出す。山車の上には頭身大の人形で色々な物語や古事に関する場面を再現させていた。たとえば忠臣蔵の南部坂雪の別れ、中江藤樹の母との再会場面、宮本武蔵の巌流島の決闘等々これが十台近く出て、それぞれ氏子が太鼓をたたきながら曳き廻すのであるから、いやが上にも祭りは盛り上がる。又、浦の青年による御輿、あばれ御輿とはこの事かと思う、上にほうり上げたり下げたり傾けたり、「チヨウハイ~」と云う掛け声で、錬り廻る。州先の浜では海の中にも入りあばれ廻る。手甲、脚絆、腹掛け、半股引、長地下足袋に豆絞りの手拭いの鉢巻き、この手拭の模様は各部落毎に違っていた。浦五講は豆絞りであるが他の部落は、赤、黄、しま等々で、すぐどこの部落かは手拭いの模様で判別出来た。出店は百店以上出ていたのではないかと思う。祭りの出店でしか売っていない物で針金細工によるゴム鉄砲とか宇宙ゴマ、日光写真、竹軸の万年筆等々目新しい物ばかりで私達はどれを買おうかと迷ったものだ。
天神様の祭りはかつぐ神輿でなしに牛車の様な物であったと思う。行列は馬に乗った大行司、本陣を中心に子供による右大臣、左大臣、陣芝を冠った武者、それに稚児さん。大行司に扮した青年はどんな謂われがあるのか水干の様な上衣を着て、両袖に物干竿を通したままである。何かの急で物干竿を抜き取るひまがなかったのだとか。行列に従う者は笹竹(長さ七八米位の物)に赤い酸築提灯を十二、三ヶ付け暗くなればそれぞれに灯をともして従う、この行列は夜おそくまでかかった。稚児に扮した小さい子供は眠ってしまう、その時の為に乳母車を用意していて、眠ったらこれに乗せて従う。私も笹提灯と一緒に歩いていて、世話役の人だと思うがこの人より、吉川饅頭が五ツ六ツ入った紙袋をもらった(この吉川饅頭は久賀の名物で、そのうまさは山口県中の評判であった)稚児さんの乳母車には、稚児さんの親戚や近所の人が菓子や玩具などを入れてやって車の中はそのような物で一杯になっていた。
この様な賑やかな祭りではないが、心に残る祭で、たんばな祭り、どんな字を書くのかどんな意味なのか当時の私には判らないが。たしか津原の青年で催していたと思う。長持をきれいに飾り、前後をそれぞれ担いで息杖を振り振り
『たんばなあー
やれやれドコショノドッコイドッコイドッコイ
お多福はこけても鼻うちやせんわい』
こんな囃子歌をうたい乍ら練り歩いていた後を付いて廻ったものだ。どをいう時に催されていたのか、私には不明である。
秋が近ずき肌寒さを感じる頃だと思うが久賀の西端宗光にある明神様の祭りがあった。子供心に遠いなあと思い乍ら参拝した事がある。あまり大きな祭りではなかったが、神舞が催れていて、珍しい祭であった。(今年平成十六年帰った時宿泊した「オレンジランド」がこの明神様のすぐ近くであり、朝早くお参りした)
年の瀬が近ずく頃男の子供によるいのこ祭りを思い出す。丸い石に縄を五、六本つけてそれぞれ引っ張ったりゆるめたりして数え歌を唱い乍ら土を打つ。
『いのこ世のくせには
一ツ…俵を踏まえて
二ツ…三ツ…
四ツ、よの中よい様に
五ツ、いつものごをとくに(意味不明)
六ツ…
七ツ…なにごとないように
八ツ… 九ツ… 十で…』
(…の個所は忘れて思い出せず)
この様な歌を唱い乍ら家々の前で土打つと家の者がおやつや心づけを出してくれた。
正月が近づくと何といっても餅搗きだ。私達の住んでいた古町では、餅つきを各戸で搗くのではなく、皆頼んでいた。漁師連中が六、七人組を作り、餅搗き道具(石臼蒸篭杵かまど)持参で搗いて廻っていた。一度に五人位、杵で搗くのであるからその早い事。アッという間に搗き上って来る。遠くの方で餅つきの音が聞こえていたのが、だんだんと近くになり今度はうちの廻りだと、たのしみに待っていたものだ。餅搗きが終ると正月である。
10.母の再婚
小学校に通いだしてから、学校の友達も出来、放課後よく友達の所へ遊びに行った。津原の方だったと思うが、村田君の家に度々行った。門構への家で庭が広く走り廻って遊んだ。又近所で伊東歯医者にも同級生がいて、仲よくなり家の中で本を読んだり、玩具を出して遊んだが、義歯の細工が珍しく、仕事振りをあかずに眺めたものだ。だがこの同級生、二年生の時と思うが、ちょっとした病で亡くなった。何時も一緒に遊んでいた友が急にいなくなり、とても悲しい思いをした。
この年昭和十二年、秋、母が再婚する。新しい父となったのは、高一叔父である。鉄道省を退職した後、名古屋市の理研光学工業(株)に就職していた。この会社従業員も十名位で図面の青写真等の印刷などをしていた。姉(私からいえば伯母に当る)リム伯母の稼ぎ先、永田久一の弟で稔という人の勤めていた会社で、その人の手引きで勤める様になったとか。母は再婚後も今迄通り久賀で生活をしていたのであるが、祖父が「何時迄も高一を一人で置いておく訳にはいかん。名古屋に行ってやれ」という事で、翌年十三年始め母と小学校入学前の弟(健三)二人で行く事になり私と兄は祖父の所に残る事になった。
出発の前夜、一緒に夕飯をとり、明日は朝早く出るという事を聞き私は「ねむっていたら必ず起こしてくれ」とたのんでその夜はねむりについた。
朝目が覚めた。静かである。私は飛び起きた。母達はすでに出た後であった。私がよく眠っているので起こすのは可哀想だと、起こさずに旅立ったと。これを聞いておもわず港の先(防波堤の先端)まで走って行き海を見廻したがそれらしい船も姿を消していた。海の彼方を見乍ら涙がポタポタと流れて来た。どをして起こしてくれなかったのかと、皆がうらめしかった。この時の悲しさくやしさは何時迄も心に残った。小学校二年のときである。
祖父との生活に兄が加わったので、私の遊びも兄について遊ぶ様になり、兵隊ゴッコ、パッチン、釘打ち、マーブル(ビー玉のこと、模様からこの呼び名になったと思う)。
兵隊ゴッコは、八田八幡様の山で、篠竹を刀にしたり、鉄砲にしたりして、相手を見付けると「トン」と叫んで早く見付けた方が勝ち。この様な兵隊ゴッコだった。「トン」をしようと云っていた。勿論階級はあった。ボール紙を台にして、肩章を作って肩につけていた。私は最下級の二等兵、星一つである。学年に合せて階級は上になり、上は少尉位だったと思う。高等科二年生の餓鬼大将がいて、その下に組頭的な者がおりそれぞれ組頭についていた。上級生はよく下の小さい者の面倒を見てくれていたと思う。この様なグループを作って、色々な遊びをしていた。パッチンは五センチ丸位の厚手の紙に武将の絵や軍人の絵が印刷してあって、台より落したら、それをとる。私達はいつもとられていたので気に入った絵のものは大事にしまっていたものだ。これによくにたもので径が二センチ位、ふちに蝋を塗ってあり、親指と人差し指の間でハジキ飛ばして飛距離を争った。釘打ちは五寸釘で土の上に五十センチ位の線を引き、その両端から出発して、打ちたてた所迄線を引いて行き、相手が外に出れない様に線で囲っていく。釘が地面に良く立つ様に磨いたものだ。マーブル(ビー玉)遊び。これはルールが非常に面白く、うまく出来ていた。地面に出発点の横線を引き、それより三米位の位置に十センチ径、深さ三センチ位の穴(地の穴)を開け「地の穴」より上方三米位のところに「中の穴」を開ける。「中の穴」より、さらに上方三米位に同じく「天の穴」を開ける。「中の穴」から左、右それぞれ三米位の位置に「左、右の穴」を開ける。この五ヶ所の穴に次々にビー玉を入れ乍ら進んで行くのであるが順番は出発点から地の穴に向けて転がし穴に近い者から一番二番と決める。次からは玉を転がすのに玉の位置から自分の手のひらの長さまでは進めてそこから人差し指を「くの字」に曲げその上に玉を置き親指ではじいて転がしたり飛ばしたりする。先ず「地の穴」に入れる。穴に入れば続けてゲームが出来る。「中の穴」次に「左の穴」「中の穴」「右の穴」。「中の穴」に戻り、最後に「天の穴」に入れる。「天の穴」から「中の穴」に戻った玉は鬼となりそれからは、穴に入れる順序関係なしに入れる事が出来、相手の玉に当てれば当てられた玉は死ぬ事になる(本コの場合は取られる事になる)いづれの場合も他人の玉に当てるか穴に入らなければ次の人にゆづる。鬼になる為には五ヶ所の穴を順序通りに入れて最後に「中の穴」に入れないとならないのである。コースを進んでいくとき他の玉に当てたら自分の進む次の穴までは持って行ける。いづれの場合も穴に入れて、その通りに他の玉があればそれをはじいて穴に入るのを妨害したりする事が出来る。上手な子は「本コ」をしようと云ってくるが私達下手なものは「ジャラコ」を好んでしていたが五回に一回位は「本コ」に応じなければならず必ず取り上げられていた。だから「本コ」の時は取られてもよい玉を使い、きれいな玉は大事にして使わない様にしていた。子供の遊びとはいえ、いづれの遊びも「本コ」があり上手な者はパチンコにしろビー玉にしろ沢山持っていた。このビー玉遊びだけは或る程度の広場が必要であるが、道端上で出来る遊びは道路で遊んだ。通行する人も除けて通っていたようだ。道が舗装される前の良き時代である。兄のお陰で私の行動範囲も広くなり、キリスト教の日曜学校にも連れていってくれていた。クリスマスには、クリスマスカードを作って皆に配ってくれた。私がもらったのは絵が印刷してあった。手画きのカードの方がいいと「ゴネ」ていたら兄がちゃんと手画きの分をもらってくれた事を覚えている。一寸した劇をした(三博士の物語だったと思う)。
昭和十三年四月、名古屋の母からの手紙の中に弟(健三)の入学写真が入っていた。名古屋市南久屋尋常高等小学校入学である。その写真に写っている子供は皆垢抜けた服装で都会の生活がうらやましい気がした。