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その1 ~ その7

昭和4年生まれ、この12月で91歳になる私の父が、70歳代の時に書いた自分史です。

父は、戦争というものから、その人生に大きな影響を受けた最後の世代ではないかと思います。

父が自分史を書いたきっかけは、私からの要望かなと、思います。

山口県周防大島で生まれ、少年時代に満洲に移り住んだ父。

家族の歴史。そして私の曽祖父、祖父、祖母、伯父…。私の先祖たちのその人生の物語。

私の次の世代に伝えたいと思います。

四代語り部抄


1.はじめに


 母は私に自分の生い立ちについて、自分の祖父母、父母、の事を始め、父との出会い、

父との結婚迄の出来事、私の記憶の始まる迄の事をよく語り部の様に話してくれた。

元より、この事柄を記録したいと思い乍らついつい億劫になり、何時か何時かと今に至って

しまった。息子からも父が自分史を書いてくれたらよいのにと云われ、やっとその気になり

ペンをとる事にした。

 私の家は、父方も母方も、周防大島、久賀で、私も当然久賀で生まれ、昭和十四年四月

(九歳)までいた。その事もあって今年八月中旬、三十三年振りに大島、久賀を尋ねて見た。

街の様子は大部変わっているが、道筋や、昔の建物も残っていて、古町、本町を歩いて見た

が、私の記憶の確かな事に安心した。

 幼い頃の思い出が辻々を通る度に、ここであんな事があった、こんな事があったと走馬灯

の様に浮かんで来て、六十年前に還った様だった。

 これより、母から聞いた事、私の思い出等を記そうと思うが、話は明治半ばから大正、昭和、

平成と四代に亘る。間違って聞いたり、間違って記憶したりしているかも知れないと思い、年表を

作って年代はある程度確認したがそれでも若干の違いがあるだろうと思う。其の他についても

気付いた時点で訂正する事にしてペンを進めようと思う。



2.母の生い立ち


 暑い日中、母の祖母である「ウラ」さんは馬に乗って、ここハワイの野道を米国人の監督の家へ

と急いでいた。二回目であるが、今度も夫。嘉助がキビ畠の中で喫煙していたのを見つかり休ま

されている。本人があやまりに行っても仲々ゆるしてもらえず、仕方なく、ウラさんが出向く事に

なった。

 米国人は其の時分でも夫人、女性には一目置いていた様で、女性があやまりに行くとゆるして

くれていた。ここハワイでは交通機関はすべて馬であり街へ買い物に行くにもすべて馬である。


 上野嘉助夫妻は明治二十四年、第十九回の官約移民として、ハワイに渡って来た。

 官約移民とは、時のハワイ政府の移民の要望により日本政府と交渉し、日本側は日本人の

渡航を承諾し政府の監督下で行なわれ、明治十八年の第一回より明治二十七年の第二十六回

迄、約二万九千人が海を渡っていった。

 嘉助夫妻には、明治二十一年生まれの一人娘「イト」がいるが、両親にあづけて夫妻のみで

渡って来たのだ。従って、永住する心算ではなく、ある程度の貯えが出来たら、帰郷の予定で

あった。移民も当初の三、四年は、賃金も作業も相当きびしかった様であるが、第十九回

移民の頃は大部よくなっていた様だ。


 嘉助夫妻が故郷へ帰って来たのは確かではないが、ハワイに十年位いたのではないかと思われ、

帰って来た時、一人娘イトは十三、四才になっていたようだ。

 帰郷後は、小さな舟を購入し漁をしたり、たまには一緒にハワイより帰って来た友人達とハワイ

での話をしていたようで、アチラの言葉がチョクチョク出ていた。

 一人娘に婿をとり、後を継がせるべく、久賀の網元で徳川の次男、徳右衛門(私の母方の祖父)

を迎える事になる。(当時で徳川姓は変わっている。徳川将軍家との何かあるのか)?

「おイト」十七才のときである。

 網元の次男坊である徳右衛門は、何事にも屈託がなく、仕事もするが遊ぶ事も達者であった。

家でも建て替えれば落着くのではと、当時久賀の里では藁葺屋根で平家建が一般的であったが、

瓦葺の二階建に建替えた。

 しかし、徳右衛門(通称徳ざい)は、遊ぶ事については以前と変りなく、相変らず、将棋、囲碁の

会所に便い、腕前もトップクラスであったようだ。其の当時では珍しい撞球もやり、何がなんでも

今流行の浄瑠璃はしていないだろうと近所の人が話していたが、何時の間にか浄瑠璃も習いに

行っていたとか。野球もやり今でいう、マルチタレントであった。沖が時化で出れない時は、洲先の

砂浜え近所の子供を集めて相撲をとらせ、勝った者には、一斗缶一杯に煎餅を買って来ていて、

それを分け与えていた。

この様な徳ざいさんであるが女遊びは一度もしなかった様だ。


 「おイト」さん、十八才になり、明治三十九年十一月、女のキヨが誕生するが月足らず(六ヶ月

か七ヶ月か)で生まれ、ひ弱な子であり、「おイト」にまかせておけばころしてしまうと、ウラ婆さんが

それから半年ばかりは懐に入れて育て、やっと、人並な赤ん坊になった。(私の母の誕生である)

 この様にして祖母ウラ(私からいえば曾祖母になる)に育てられたのであるから、この後、次々

と孫が出来るが祖母にとっては、このキヨが何といっても絶対的な孫であり、後々迄もキヨの力に

なる事になる。

 長女キヨを頭に、徳平、寅平、静子、これで終わりと末雄と名付けたのが五人目であるが、

これから後、潔、満夫、克己、美砂子、博と又五人生まれ十名の子沢山となった。

 長女キヨは皆に可愛がられ、大正二年四月、久賀尋常高等小学校、尋常科一年に入学する。



3.父の生い立ち


 私の父正一は、祖父鶴蔵の三男として、明治三十九年生れ、母と同じ年である。

 祖父は、

大工職で棟梁として、建築の仕事もするが、指物師としての腕前も相当有名であったようで、中でも床廻りの造作や欄間廻りの出来栄えは見事で、鶴蔵さんに作ってもらったという事は当地では大変自慢であったらしい。

 明治20年ごろ祖母「ユイ」と結婚したらしいが、10年近く経っても子供に恵まれなかったようで、近所の金物店の息子を養子に迎え育てていたが、養子にしたらすぐ子供が出来たようだ。父(正一)の上には兄、林一、姉リムそして、生まれてすぐ亡くなった女の双子もいたようで、戸籍上は三男となっていた。小さい時から大工仕事の中で育ち、自分も将来は父と同じ職に就く心算で手伝いもしていた。あるとき祖父が、

東和町の外入(トノニュウ)で仕事をし終えて帰ってきたら大事な鋸を忘れてきたらしく、次の仕事も迫っていて、仕方なく、父に取りに行かせた。外入は、久賀町より片道4里半(約17キロ)往復9里の道を当時10歳ぐらいであった父は、一人で歩いて、無事大事な鋸を持ち帰った。外入の方はよくこんな子供に、ここまで取りに寄越したものだと、吃驚した由。


 父も小さい時から中々元気の良い子供であったらしく、悪餓鬼たちと組んで悪さもしていた。小学校からの帰りには、必ず通り道を通せん坊して女の子に意地悪をしては喜んでいたが、母のグループが通る時は何もせず通してくれていた。

その時分より父は母に一目置いていたようだ。

 尋常小学校6年を卒業し(当時高等科にはクラスの中では3、4人しか行かなかった)、祖父の大工の手伝いを本格的にするようになり、母も小さいのが半纏を着て仕事を手伝っている姿をよく見たそうだ。母は高等科に通って色々と勉強もしたらしく、中でもローマ字の読み書きの出来るのを自慢にしていた。(同年輩の人では珍しかった。)



4.父母の青春


 父正一が祖父の手伝いを始めた頃中村家は兄は一本立ちをして別世帯を持っていて姉も嫁ぎ、家では正一が一番頭であり、したには弟3人妹2人(キクヨ(大正11年死亡)、高一、梅一、キミヨ、八郎)の5人がいて、祖父にとっては父が一番の手助けになった。

 青年となった正一は、当時としては背が高く顔立ちは中々の男前、写真で見ると東山紀之と上原謙を足して2で割ったような当時としては流行の「もてる」顔であり、町中の娘たちに騒がれていた。芸者衆も同様で、素人娘の向こうを張って何かと対向していたようだ。そんな中、正一(父)、キヨ(母)は皆んなに知れないように付き合っていたが、皆の知るところとなり、それからはお互いの友人皆んなに認められていた。


 あるとき、若い衆と娘たち数人で夏の夜、舟にて沖に涼みに行くことになり、若い衆が娘たちの手を取り一人ずつ舟に乗るための歩板を渡らせていた。母の順が来た時、離れた所からこの様子を見ていた芸者衆が、「今乗っている娘を突き落とせ」と大声で叫んだそうだ。これを聞いて正一の友人がまた、大きな声で「正一しっかり掴んで離さないようにしろ」とやり返した事もあったとか。このように両方の友人に認められていたが、キヨの両親の知るところとなった。両親及び親戚はこの二人の付き合いに猛反対した。反対の理由として、一つ、相手には弟妹が5人もいて、その面倒も見なければならない、そんな苦労をさせたくない。二つ、本人も大工として、これからどの程度まで仕事が出来るのか、一人立ち出来るかどうか、他のしっかりした職に就いていれば別だが。三つ、姑の「ユイ」さんは評判のシッカリ者であり何事も几帳面な人で、どんな時でも髪はキチンと結っていて、家の中も外もチリひとつない様に掃除は出来ているという具合。従って他の人のダラシない事は人一倍嫌がる、そんな姑についてゆけないだろう。

 廻りの人たちも、もし嫁姑で問題が起きた時、シッカリ者の「ユイ」さんとこれまたシッカリ者のハワイ戻りの「ウラ」さんの対決となればどんな事になるのだろうかと人事ながら心配していたようで四面楚歌であった。

 廻りの人、全て反対の中でただ一人、力になり応援してくれたのが他ならぬ懐で育ててくれた「ウラ」ばあさんだった。

 ウラばあさんの反論、一つ、「相手の弟妹が多いと」「何を言っているか」こちらにも5人いるではないか、そんな事を言っていたらうちにも嫁の来てがなくなる。二つ、大工としての腕前は。評判では鶴蔵さんの跡継ぎは正一さんとの噂まであり、また大工という職は、神様のものでも仏様のものでも作るときは材料を足で踏んで鋸で引いたり、チョウナを掛けたり出来る。こんな清潔な職が他にあると思うか。三つ、一旦嫁に行けばその家に従うのが当たり前、本人にその覚悟があればそれで良いではないかと、(しかし母には辛い事があったらいつでも帰って来い、私が話をつけてやるから)と耳打ちしたとか。


 こんな状態の時、正一は仕事で門司港の方へ出向くことになった。《当時門司港廻りは、商館が多く建設されつつあった。現在その当時(大正期)の建物が多く残され脚光を浴びて、観光のメインとなっている。私も平成14年、現地を観光したが、この建物群のうち父たちが手掛けたものもあるはずだと感無量であった》 ウラばあさんは、可愛い孫娘の希望を叶えてやりたいと常々思っていた矢先の事で、これは良い機会だ、と、このまま久賀の町にいたのではどうにもならない。この機会を逃す手はないと、キヨに「後を追って門司へ行け」と、周りの人には分からないよう支度を整えさせ、まだ暗い朝一番の舟に乗せ送り出した。今で云う駆け落ちだ。

 後で皆が騒いだが、ウラばあさんのみ知らん顔であり、みんなも成る程と納得させられたようだ。母の「イト」さんは、ウラさんとは正反対の静かな人で、ただただ娘の良かれと祈っていた。



5.新世帯


 駆け落ちの様な形で世帯を持ち、門司にて新婚生活を送る事になり、正一も益々仕事に精を出して雇主からも大変可愛がられた。三ヵ月後で仕事が終わり帰る時、雇主が正一を連れて時計店に行き、気に入ったものがあればどれでも選べ買ってやると云われた。其の時雇主は若いし金時計を選ぶものと思っていたが、金も銀も選ばず、機械のしっかりしたクロームの時計を選んだ由、この事も益々雇主の気に入った事となり、其の事を他の人にも話して聞かせていた様だ。

 門司での仕事も終えてに久賀に帰って来た二人は、鶴蔵夫妻の許可を得て別に一軒家を持つ事になり、当初の心配された様な事もなく順調に生活を始めた。仕事の方も次々と入り安定した暮しであり、休みを利用して時には素人芝居を友人と催したり、義父の徳右衛門と一緒に野球のチームを作って、あちこちで試合をしたりしていた。


 子供も大正十五年男の子(正雄)が生まれ、順風満帆 何不足なく暮らす事が出来た。

 結婚後は町の娘達の騒ぎもなくなったが、芸者衆は相変わらず嫁さんが居ようがおかまいなしにアタックしていた様だ。

 子供が出来てしばらくして、父(正一)が夜、尺八を習いに行くと云って、尺八を持って度々出掛ける様になった。それにしては家では尺八の練習をするでもない、(キヨ)はハハンと思い或る夜、後を付けて見たところ役場のそばの松宮宅に入った。この家は表具店であるが夫婦共若い者が好きで、若い衆の宿の様な家であった。一度家に帰りしばらくして、その家に行って見ると尺八だけ置いてあり当人は芸者の所に行っている事をしぶしぶ話してくれた。母は尺八を持って帰り、父の枕にもたせその上に布団を掛けておいた。夜更けて帰宅した父は布団をめくり尺八を見て、「ウフッ」と笑い黙ってもぐり込んだ由、その事もあってからあまり出掛けなくなったが、芸者の中で一人は本当に父の事を想っていたらしく、線香代も芸者本人持ちで父を呼んでいた様だ。

 (線香代とは遊ぶ時間の単位でそれによって何本いくらと清算していた)

 仕事も大島郡内だけでなし県内でもしていた様で、ある時大島の対岸で大島への渡船の発着場である大畠で仕事をしていた時、下宿屋の近所の娘に見染められ(男が見染められるとはおかしいが)父は結婚していると云わないものだから食べ物は持って来る、洗濯物は引っ張る様にして持ち帰って洗濯してくれる、仕事が終り久賀に帰って来てしばらくした或る日、立派な成りをした男の人が尋ねて来た、父は不在で母が対応したが、話の内容が母には判らない。しばらくして、当人が大声で笑い出し、「嫁さんもいて、子供さんもいたのか」私は人に頼まれて正一さんを婿にもらいに来たのですと、笑い乍ら話をして帰って行ったと。

 いやみも云はず苦情も言はず、笑って帰ったという事は、父は相手に対して責任を取らねばならん様な事はしていない様であるが考えて見ると相手の娘さんには可哀想な事をしたものと思う。父は性格的にも人に好かれるタイプで、父の事で人様にあれこれ云はれた事は一回もなかったと母の弁。久賀の人達は今もそうであるが判り切った「ウソ」を云って人を笑わせ、聞いている人も「ウソ」と判っていて面白く返事をして楽しむ、という風習があり知らない人はよく、騙される。この話も父のこんなやり取りが原因だったのではないかと思う。

 私の誕生は昭和四年十二月。弟健三は昭和七年誕生。三人の男の子に恵まれ、充実した家庭を築きつつあった。



6.私の記憶の始まり


 私の物心のつき始め、記憶として今も想い出される事は、やはり父との事で、当時では珍しい写真機で、家の横で写して呉れた事、親戚の青年が軍隊に入営するのを、大畠駅まで一緒に連れて行ってくれて、見送り用の紙テープを列車が出た後集めて、私にくれた事、これは私の三才の頃の事であり、自分でも良く覚えていたものだと思う。


 昭和八年一月二十一日正午前、この時の事は、今でもハッキリと覚えている。

 血相を変えた母に手を引かれ、役場前の例の表具店に駆け込んだ。そこの通常仕事場である板の間に、二つの布団が敷かれ、その一つに父が寝かされ、回りの人が口々に父の名前を呼んでいた。が、返事はしていない様であった。


 今でも其の時の状景が思い出される。この出来事は後になって聞いたのであるが、父達は町役場の改築工事に従事していた。改築と云っても明治三十年代に造られていたそれ迄の建物を、近代的な洋風な建物に造り替える工事で、建前作業中、同僚の大工に、墨が判らないから見てくれと云われ、父が彼の方へ足場丸太の上を渡って行き、彼と二人の乗った丸太が重みで切損し二人共折り重なって十四・五米落下した。一緒に落ちた、もう一人の方は其の後回復したが、父の方は、頭部を強打して、目、鼻、口、耳、すべてから出血していてほとんど即死の状態であったらしい。現場の足場丸太には使用してはいけない大きな節があったとか。現代の様に安全について、法が決められていれば問題になったのであろうが、当時では公にはされなかった由。


 後々其の日の朝の事を母が教えてくれたのだが、父は仕事に出掛ける時、何時も私の頭を撫でて「行ってくるよ」と声を掛けていたとか、私も素直に「行ってらっしゃい」と、きげん良く送っていたのに、其の日に限って私が父に対して、「ゴネ」ていたので母が近づいて聞いてみると、私が買ってもらった三輪車の後に小さな荷物を積める車のついた箱を作ってもらう事を父と約束していたらしく、それを、その朝に限って早く作ってくれとゴネていたようだ。父は、私の頭を撫で乍ら「仕事から帰って来たら今日作ってやる」と私をなだめて出掛けた。

 この事が私と父の最後の触れ合いであった。しかしこの事は私の記憶にはない。母はそれとなく虫が知らせていたのだろうと思ったとか。その後の墓への埋葬場面は覚えている。当時は土葬が主であった。正方形に近い棺で、座った形式であった。土の中に埋められていく場面も強烈に眼に焼きついている。

 以上が父の思い出である。たったフィルム三、四駒の場面であるが、七十年後の今も、昨日の事の様に浮かんでくる。


 母についての記憶の始まりは、父がなくなる前であったのか後であったのかは判らないが、母の実家の風呂に一緒に入り、湯舟の中で母が「灯火ともしび近くきぬぬう母は・・・・・・いろり火はとをろ、とをろ、外は吹雪」「冬の夜」と云う題であったか?この歌をうたってくれた事。この歌を聞くと其の時の情景が思い出される。


7.父なきあとの暮し


 突然の大黒柱の死亡で、母は子供三人を抱えて、茫然自失の状態で、これからどの様に生活してゆけば良いのか、当時の事とて生命保険にも入ってはいないし、貯えもそんなにある訳でなし。祖父母も同じ様に長男的な存在であった正一に先立たれ、くやしさの気持ちの持って行き処もない状態で姑など母に面と向って、「やっぱり丙午年生まれの女は男を食うと云うが本当だった」と母の責任のように云われ、母、嫁として身の置き処もない様な状態であった。

 丙午年生まれについて後に母は良く話していた。「丙午の十一月末生まれ、しかも月足らずで生まれたのだから、当り前に生まれていたら、丙午ににならずに済んだのに。気の付く親は皆六月頃生まれた子供も翌年生まれで届け出ている人が多くいるのに。うちの両親や祖父母は初孫でうれしくて、すぐ届けたようだが、たった二、三ヶ月の事でどれだけ苦労した事か」とぐちっていた。

 どんなに云われようが、又いくら嘆いても何ともなる訳ではない。祖父母も元々私達三人の孫を目の中に入れても痛くない様な可愛がり方をしていて、祖父はこれから正一の分も働いて助けてやらなければと。

 結局女手一人で三人の子供を養うのは無理であろうと、小さい弟(一才)と手伝になる兄(七才)は母と生計を共にして、私は祖父母に引取られ祖父母と暮らす事になった。この時から母と同じ家で寝る事が出来るようになるのは昭和十四年四月迄、六年間はいくら可愛がってもらったとはいえ母と離れて暮らすのは淋しいものであった。


 母は生活の為に当時久賀で操業していた岡仁撚糸工場(紡績工場)へ働きに出る事になる。小さい弟は一緒に連れて行き工場内に一時預けしていた様だ。兄は小学二年生で学校から帰ると母から朝聞いていた夕食のおかずの材料を買って来て準備をし、母の帰りを待っていた。

 昼食については今はどうか知らないがその当時は働きに出ている人も会社勤めをしている人も昼時に家に帰れる人は、ほとんど昼食は家に帰ってとっていた。家に帰れない人のみ弁当持参という事だ。

 母も働き始めて友達も出来(娘連中も多く岡仁工場で働いていたので)又昔からの友達も一緒に休みの日には母の実家のそばの小さな借家に集まって楽しい話や、中にはひょうきんな娘さんもいて三尺の物差しを刀にして芝居のまねをしたりして皆を笑わせたりしていた。私も日曜日の休みは母のところに行くのが楽しみであった。夕方近くになると祖父母の家に帰るのがつらく、兄や弟が羨ましくてたまらなかった。そういう私の気持ちを或る程度判っていた祖父母は、本当に可愛がってくれた。祖父は私の欲しがる物は何でも得意の木工の腕前で作ってくれた。舟、飛行機、刀、貸物自動車、鉄砲、ピストル、八幡様のお祭りに引き出す、引やま(山車)の玩具、手品の道具、(小さいオセロゲームの盤の様な物で真中にコインを乗せて布で覆い(パット)布を取ると、コインが無くなっているという物、盤の真中がドンデン返しになっているのである。ちょっと見には皆びっくりする。得意になって皆にやって見せたものだ。祖父の作る物は玩具と云ってもそれは素晴らしい物で寸分の狂いもなく見事なものであったと。今迄残っていれば、本当に私にとっての宝物であるが残念ながら一物も残っていない。


 祖父との夏の想い出は何と云っても、ステテコに夏半纏、八つ折の履物(八つ折の通称で呼ばれている物で、大工職人がよく履いていた畳表で裏は木片が八つ取り付けてあり、履くと足裏の曲りに合い、下駄よりは足にフィットする)で腰の後に両手を組んでセカセカと歩く、夏の夕方よく二人で港廻りをを涼みがてら散歩をしたもので帰ってくると縁台に横になり団扇で尻をたたき乍ら盆踊り歌を唄っていた。日中の暑い時は一緒に泳ぎに行き私は祖父の背中に乗り祖父は平泳ぎでスイスイとまるで浦島太郎が亀の背中に乗っている様な具合、今考えると祖父の泳ぎは大したものだったのだと。私にはとうてい出来ない。


 祖父には弟が一人いた(名前は林助だったと記憶している)面白い兄弟で、時々祖父の道具を借りに来るのであるが、だまって道具置場から必要な道具を持ち出し、使用後は又だまって返しにくると云った具合、祖父も何も云わない。逢っても話らしい話をしているのを見た事がない。が何となく仲の良い兄弟であった様に思う。この私にとって大叔父に当たる人であるが、私を見るとチョクチョク小遣いを呉れる。その当時の小遣いは一日一銭が決まり。祖父も毎日一銭私にくれていたので、私にとっては本当にうれしい事であった。ある時林助大叔が「彰今港の鼻(石積堤防の先端)のロープが巻いて置いてあるその下を見て来い。何かあったらお前にやると。私は何だろうと港の鼻へ駈けて行きロープの下を見ると一銭が置いてあった。今だに何であんな所にと判らないが私にやろうと思っていて別の事をし始め一時置きして忘れて帰って来たのだろうと思う。この大叔父も私を良く可愛がってくれた。


 小遣いと云えば当時の私に判らなかった事があった。祖父の家から二通り港に近い通りには、検番(芸者の置屋)が数軒あった。当然芸者さんも多くいた。その中で子供の目にも綺麗な芸者さんだなあと思っていた芸者さんが私を見ると「はい」と一銭くれる。私もドギマギし乍らそれでも私にとってはうれしくもらって帰っていた。ある時この話を母にしたら、父に想いを寄せていた芸者さんで、お前だけでなしに兄(正雄)にも弟(健三)にもよく気を使って呉れると話してくれた。今考えると父を早くなくした私たち三人兄弟に身内は勿論であるが近所の人達も良くして呉れていたと思う。母の弟の徳平叔父も家では総領で弟達には恐れられていた様な人であったが、私が何才位の時か小学校に上がる前だったと思う私を汽帆船(徳栄丸)に乗せて今考えて見ると土居港か油良港あたりだと思うが、みかんを積みに行くのに連れて行ってくれた。みかんを積んでいるのは覚えていたが、その後眠ったらしく気がついたら家に帰っていた。この様に母方の方も私たちに対してあれこれと気を付けていてくれた。母の実家に遊びに行くと、私には叔父、叔母に当る母の弟妹達も私と年恰好は同じ位であり一緒に遊んだものだ。祖母のイト婆さんも自分の子供達以上に私達を扱ってくれていた。

 徳栄丸について、この船は母の実家、上野の持船で屯数は五、六十屯位であったのか焼玉エンジン付の汽帆船であり、島と本土を航行して貨物類の運搬に当っていた。この船は最少二人で操船するのであり、舵をとる人、エンジンを操作する人であるが徳平叔父はそれを時々、一人でやってのけていた。エンジンを掛けると上部のハッチを開けておいて甲板の上から足で前進、後進のレバーを操り操舵室にかけ込み操輪を操り、それを繰り返して港を出入りしていた。この様に母方の長男である徳平叔父は評判の働き者であった。徳栄丸は、その後、昭和十二年頃、新造の第二徳栄丸に引き継がれ、終戦後迄活躍する事になる。


 私の小学校入学迄の旅行と云えば、生前の父との大畠までの渡船による旅、それと、徳平叔父との徳栄丸での小さな旅、忘れられないのが母とその友人四、五人と兄(弟は一緒であったのかどうか記憶にない。預けていたのか)それに私という一行で久賀より西へ約三里半(十四キロ)往復七里の小松までの徒歩旅行だ。旅の目的は小松の奥の小さな寺でお灸の名人がいて、健康のためのお灸をしてもらうため。私達子供には疳の虫封じの灸をしてもらうため。だがこれは付け足しで、皆で若い娘達とワイワイ云い乍ら遊覧の旅の方が本来の目的であった様だ。途中で持参の弁当を開き楽しい旅であったが、私には少々苦しい旅。五歳くらいで一生懸命付いて歩いたのだから。途中で私のいないのに気が付いて後を見たら、百米位、後の所で一人腰を下ろしていて、あわてて連れ戻しに来た。それでも、目的地の寺迄は誰にも頼らず歩いて行った。いよいよお灸であるが母達や兄達がお灸をしてもらっている間、次は私の番が来るなと思い、これは逃げるのが一番と裏の林の中に逃げ込み、皆が私を探していたが判らない様に隠れていて、仕方なく帰り支度を始めた頃に顔を出した。皆がよっぽどお灸がしたくなかったのだろうと云って、お灸は逃れる事が出来た。帰途も歩いてであるが、私も足が疲れて、しんどかったがお灸の件もあり我慢し乍ら、皆について歩いた。

約一里半(六キロ位)帰って来たところ、三蒲に着いた。ここで皆が私の事を心配してくれ、小さいのに良く此処迄、皆について歩いて来たものだと、あわれみを掛けられて、ここから巡航船の久宝丸で久賀迄帰る事にしてくれて、待合所で箱入りの森永キャラメルを買ってもらった。たしか当時十銭であった(黄色い箱で現在でも時々お目に掛かる代物だ)。私達の小遣十日分の高級品であり、うれしくて、足の疲れも一辺にふっ飛んだ。又船に乗るのも楽しく、後で思うと、足の疲れの事よりも楽しい事のみ思い出として残っているようだ。母も紡績工場での肉体的な疲れ、又生活上の精神的な疲れを若い人達とこの様な事で癒していた様だ。私にとってもこの一日は朝より一日中母と一緒に出来たという事が何と云ってもうれしい事だった。私の祖父母との生活も、可愛がられ何も云う事もない暮らしであり、小さい乍ら、祖父母の愛情を一身に感じていた。が、心の片隅で何か物足りなさを常に思っていた。祖父母に引取られてから二年位だった頃と思うが祖母の体の調子が悪くなり床についたり起きたりの状態であった。

 それまで祖母は近所の人とお大師講とかをしていた様で毎月持廻りで決まった日に十人位が集り、皆で般若心経を称え、お経が終わると小形の重箱(割子ワリゴと云っていた様な物)に、ササゲ御飯や色々なおかずを詰めて、皆に持ち帰ってもらう。この様な集りを催していた。般若心経を判ったかというと、その頃、「ハンニャハラミタ、アッチムケ、コッチムケ、ゲコムウケと」子供なりに経文の一節をこの様に云ってはやし乍ら遊んでいた。今この言句を般若心経を読んでみてこの文言に当て嵌る個所がある。


 父なきあとの暮しも私の記憶にあるのは、母との楽しかった時が強烈に思い出されるが、母は女手一人で子供三人との生活がギリギリであったようだ。休日の楽しさばかり書いてきたが、昼は例の岡仁工場で働き、夜は、港のそばにあった政村屋(割烹旅館で私と同じ歳の男の子がいて小学校に上がってからよく一緒に遊んだ)に座敷には絶対には絶対に出ないと云う条件で、料理の手伝いや皿洗いの仕事で勤めていた。料理の余り物か、私達の口にした事もない様な食べ物を時々もらって帰り私達に食べさせてくれた。その時分に(今では珍しくも何ともないが)マヨネーズを口にしたがその何とも云えない香り、舌ざわりは、今のマヨネーズよりもおいしかったと思う。七十四才の今でもマヨネーズは私の大好物である。


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