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第4話前編 困惑令嬢の味方

イナベラは悩んでいた。イナベラの弟のベンが剣に興味を持った。ただ男爵家には指導騎士を雇えるためのお金がない。ただ可愛い弟の願いはどうしても叶えてあげたかった。

伯爵家で剣を習った様子を楽しそうに何度も話す弟に姉としてなにかしてあげたかった。一晩悩んだイナベラは剣術の教師を訊ねた。

教師は物静かなイナベラが深刻な顔で自分を訪れたことに驚いていた。令嬢が剣術教師に用があるとは思えなかった。

イナベラは教師の戸惑う顔は気にせず頭を下げた。


「先生、私に剣術を教えてください。」

「頭をあげてくれ」


イナベラは頭を下げたままだった。

教師は頭を掻きながら、念のため確認した。


「本気か?」

「はい。私はどうしても覚えなければいけません」


必死な声に困惑しながら問いかけた。


「なぜ?」

「弟に剣術を教えてあげたいんです。」


教師にとって、初めて聞いた剣を習いたい動機だった。


「意気込んでいるところ悪いが人に教えるには1人前にならないといけない。10年はかかる 」

「10年ですか!?」


イナベラは絶望して頭をふらふらとあげた。

10年は長い。でもあんなに楽しそうな弟の願いを叶えてあげたい。弟が気を遣って、剣術を習いたいとは言わなくても、我慢しているのに気付いていた。イナベラにとって唯一の希望の光が消えた。


「もう、身売りしか・・。でも私の石ころよりも安い命など・・。小間使いの任期っていつまで・・・。」


教師は哀愁感漂うイナベラの肩を叩いた。教師としては生徒の身売りを見過ごせなかった。


「落ち着きなさい。弟も姉が身売りした金で剣術など習いたくないだろう」

「先生、うちの領はお金がないんです。お金がないのに学びたいときはどうすればいいんですか」

「お前の婚約者は剣が得意だから、教えを乞えばいい」


イナベラは教師の勘違いにいつもならため息をついた。ただそんな余裕はなかった。頭の中は大事な弟のことでいっぱいだった。


「私には婚約者はいません。」

「は?」

「頼れる方などいないのです。もう少し考えます。10年か・・・。先生お時間をいただきありがとうございます」


イナベラは礼をしてとぼとぼと歩いて退室した。


「先生、婚約してないって言ってました?」

「ああ」

「頼れる奴がいない?」

「あんなに一緒にいるのに、彼女はエリオットに頼る気はないんですね・・」


エリオットの婚約者のイナベラに手を出せば報復されるのは男子生徒には常識だった。弱小男爵令嬢は上位貴族の夜会には参加しない。エリオットは自分より下位貴族に牽制をかけていた。いつも令嬢に囲まれているエリオットが本命に相手にされていないことを一部の生徒が気付いてしまった。人に話せば冷酷なエリオットに何をされるかわからないので、心に留めることにした。


***


イナベラは薬草園でうずくまっていた。

ライアンはイナベラが落ち込むとうずくまる癖を気付いていた。博士はイナベラがうずくまるのはいつものことなので気にしなかった。


「どうした?」

「私、剣を覚えたかったんです。でも1人前まで10年なんて・・・」

「なんで、剣を?」

「弟に教えてあげたかったんです。うちには指導騎士を雇うお金はないんです。だから・・。」

「稼いだら?」

「私の命なんて石ころよりも軽いのです。身売りも考えましたがきっとパンも買えません」


ライアンはイナベラが自己評価が低いと思っていた。美人で博識、控えめな性格、上位貴族の家に産まれていたら人気な令嬢だっただろう。それに刺繍や外国語の嗜みもある。自分の妹だったらさぞ良い家に嫁がせられたと家に帰ると残念に思うこともある。でも社交が苦手そうなので無理かと思い直した。弟や家のために懸命な姿は好ましかった。与えられることが当然と思っている自分の周りの令嬢とは違って、手を貸してあげたくなった。


「ハンカチを売れば?」

「え?」

「君の刺繍の腕は優れているよ。ご婦人向けのものを作って売れば1枚銀貨2枚で売れるんじゃないか」

「そんな大金を・・・。私の刺繍ごときでですか」


ライアンの生家は服飾も取り扱っていた。自分の針子に龍の刺繍をできる者はいなかった。なにより物語の幻想の生き物の図案を書きあげられるものが。


「市に売りに行ったら、」

「俺が買い取ってあげるよ。」

「そんなご迷惑を」

「いや、俺にも利があるから。夫人が喜びそうな図案かけたら見せて。材料は俺が用意するから」

「私はお返しできるものが」

「俺も自分の利益はもらう。気にするなら、また暇な時にお菓子作ってよ。」

「ありがとうございます。」


イナベラはライアンを信用していた。学園で自分の言葉を聞いてくれる唯一の生徒だった。ライアンにも利益があるなら力を借りることにした。

イナベラは鞄から紙を取り出して、スケッチをはじめた。

ライアンが時々口を挟み、いくつかの図案が完成した。ライアンはイナベラとは家のことは抜きで付き合いたかったが、気まぐれで手を貸すことにした。イナベラの刺繍入りのハンカチを贈れば、自分の母が喜ぶこともわかっていた。母親への誕生日の贈り物ができたので好都合だった。


***

イナベラは授業の合間にスケッチをしていた。本を読んでいないイナベラに視線が集まっていた。弟の顔を思い浮かべながら楽しそうにスケッチする姿は視線を集めていた。いつも無表情か静かな笑みしか浮かべないイナベラとは別人だった。


「イナベラ様はお絵かきがご趣味なのね」

「嗜み程度です」

「紙も買えないのに」


紙は高価である。

イナベラはいつもプリントの裏にスケッチしていた。自分にお金をかけないのが、イナベラだった。お小遣いは必需品を買うとほとんどなくなった。もしも余れば贈り物の材料費にあてていた。イナベラの使うお金が領民が納めてくれた貴重なお金とわかっていたので額の少なさに不満はなかった。1度、ノートや教科書に悪戯をされてからは、荷物を学園に置くことはやめた。いつも鞄を持って移動していた。落書きだらけのノートを見た時は悲しくて仕方がなかった。ノート1冊でパンがいくつ買えるか頭のなかで計算した。イナベラが悪いと謝るエリオットへの怒りさえわかなかった。悲壮な顔で蹲っているイナベラを見かねた博士が古びたノートをくれた時にイナベラは感動して泣きそうだった。


「はい。うちは貧乏なので」


目の前でいつも通りに蔑んだ笑いを向ける令嬢のことは気にしなかった。エリオットがいる限り、終らないのはわかっていた。令嬢は何を言っても気にしないイナベラが気に入らなかった。弱小男爵家が自分を羨まず取り入ろうとしない姿も不快だった。優れた婚約者以外、何も持っていないはずのイナベラに負けてる気がして悔しかった。

クラスの中で特に家格の高い令嬢達がイナベラを目の敵にするためイナベラを庇う者はいなかった。


***


イナベラは今日もいつものドレスを着て夜会に参加していた。

領民は男爵家に花を贈っていた。イナベラはその花でいつもコサージュや髪飾りを作り夜会で使っていた。夜会が終わったらドライフラワーやポプリを作り有効活用していた。男爵家に無駄という言葉はなかった。

今日のイナベラはいつもと違っていた。

イナベラでもダンスに誘ってくれる人がいると気づいたので、壁の花になるのはやめた。イナベラも許されるなら、男爵家の後ろ盾になってくれる家に嫁ぎたかった。まずはダンスを踊って、顔を覚えてもらえれば一歩前進である。イナベラは世間には物静かと思われがちだが実際は違った。男爵領以外では自分の言葉を誰にも聞いてもらえないと思っていたから話さなかっただけである。素は明るく活発な令嬢だった。壁の花をやめてからは他にも良いことがあった。エリオットが令嬢に囲まれて近づいてこないため意地悪を言われないのである。

エリオットは見慣れた赤毛を視界に捕えて令嬢達に礼を言って、立ち去った。本来なら下位貴族の夜会にエリオットや彼を囲む伯爵令嬢達は参加する必要がなかった。ただイナベラのクラスメイトの令嬢達はイナベラの参加する夜会に必ずエリオットが参加することを知っていた。イナベラを見つけ立ち去っていくエリオットを見て、憎らし気にイナベラを睨んでいた。


イナベラはまさか伯爵令嬢が下位貴族の夜会に参加しているとは思わなかった。

笑みを浮かべて近づくクラスメイトにイナベラは微笑み返し礼をした。


「イナベラ様も参加されてたの」

「はい」

「今日も冴えないドレスですね。いつも同じものばかりで、こんな方をエスコートする殿方が可哀想だわ。目の曇った方が多いようね。物珍しさで、貴方に声をかけてるのよね。その手をとるなんて婚約者がいながら嘆かわしい。節操のない貴方を婚約者に持つなんてお気の毒に・・・」


イナベラは自分に婚約者がいると思い込んでいる令嬢の方が嘆かわしいと思っていた。何度も同じやりとりをしていた。調べればわかることである。誤解を解くことはとうの昔に諦めた。この令嬢をはじめ、学園の生徒はライアンと博士と教師以外はイナベラの言葉を聞いてくれない。夜会には他校の生徒も参加していた。社交辞令でも言葉を聞いてもらえるのは嬉しかった。


「私、名案があるわ」


伯爵令嬢は笑みを浮かべて手に持つグラスをイナベラの肩の上で傾けた。グラスに並々と注がれていた赤ワインが零れイナベラのドレスを赤黒く染めた。


「貴方のドレスに花ができたわ。これなら恥ずかしくないわ」


ワインをかけられているイナベラに気付いた者達が足を止めた。ただ下位貴族の令嬢や子息ばかりで伯爵令嬢に逆らえる者はいなかった。

イナベラにとってこのドレスは両親が用意してくれた大切で貴重なドレスだった。ぼんやりしていたイナベラは体の冷えで我に返り、自分のドレスが赤ワインに染まってるのを見て表情が抜け落ちた。

自分にまとわりつく令嬢を追い払ったエリオットは集団の中にイナベラを見つけて足を早めた。茫然としているイナベラが目に入った。


伯爵令嬢はエリオットを見つけて、頬を染めた。エリオットがいつも自分を擁護してくれるのはわかっていた。エリオットの優しく甘い謝罪の言葉を受けるのは気分が良かった。


「イナベラ様が私に言いがかりをつけて、ぶつかってきたんです。」


潤んだ瞳でエリオットを見つめ甘えた声を出す伯爵令嬢に周りの貴族達は引いていた。高圧的にイナベラを罵っていた令嬢の豹変に。それでも口を挟める者はいなかった。

イナベラはドレスから視線を外して顔をあげた。エリオットの顔を見て、余計に虚しくなった。また意地悪を言われて、自分が悪いと謝罪され、これ以上惨めになるのは耐えられなかった。


「失礼いたします」


イナベラは礼をして立ち去った。エリオットは自分を見て、泣きそうな顔をしたイナベラを追いかけるのはやめた。いつもなら謝罪してうまくおさめて、イナベラを慰めていた。ただその行為は傷つけていたと知った。


「何があったか教えてくれないか?」


エリオットは近くにいた男に声をかけた。

自分と伯爵令嬢に視線を彷徨わせる男に静かに言った。


「僕のほうが位が高いから」


嘘をついたら覚悟しろと圧力をかけた。真っ青な顔で説明をはじめた男の様子に伯爵令嬢が慌てた。


「エリオット様、違います。私はそんなことをしてません。彼はイナベラ様と踊ってました。イナベラ様のために嘘を」

「彼の話を聞きたいから静かにしてくれる?」

「ええ」


自分に微笑むエリオットに令嬢は頬を染めて頷いた。

最後まで話を聞いたエリオットは穏やかな顔で令嬢を見つめた。ただ目は笑っていなかった。イナベラがドレスを大事にしていたのは知っていた。初めてドレスに袖を通した社交界デビューでは、両親が贈ってくれたと幸せそうに笑っていた。


「上位の者から下位の者への態度に嘆かわしいな。君の家では人にはワインをかけることが礼儀とはね。同じ伯爵家として見逃せない」

「エリオット様?」

「下位貴族の家に手を回せば、僕も容赦はしない。間違いを正すのなら許すけど、罪なき者を貶めるなら、覚悟してほしい。せっかくの夜会の雰囲気を壊してすまない。僕はこれで」


顔を青くする伯爵令嬢を放っておいてエリオットは立ち去った。

伯爵令嬢はエリオットに目をつけられた。彼女の友人達は伯爵令嬢と手を切ることを決めた。エリオットの家を敵にまわしてはいけないことはわかっていた。伯爵令嬢は自分の取り巻きが寄ってこないことに気付く余裕もなく、イナベラへの憎しみに震えていた。


***

イナベラは学園に戻ることにした。汚れたドレスを両親に見せられなかった。

夜遅いため、薬草園は閉まっていた。寮の部屋に帰りドレスを脱ぎ、赤黒く染まったドレスを見て涙を流した。大事なドレスだった。


イナベラは泣きながら昔を思い出していた。

社交デビューが近づいた頃だった。

父に用があり男爵領に訪問していたエリオットにお茶を出して退室しようとすると声をかけられた。


「イナベラ、社交デビューのエスコートは決めた?」

「私は社交デビューはうちですませますので、エスコートはいりません」

「え?」

「私は華やかな場所に興味はありません」

「お祝いにドレスを贈るよ」

「お気持ちだけで充分です。失礼します」


イナベラはドレスを買うほど家に余裕がないことを知っていた。特にこの年は作物の実りが少なく苦しかった。ドレスを買うなら領民へ食べ物を振舞いたかった。社交デビューに憧れはあっても、それよりも大事なものがあった。

イナベラは両親に誕生日の祝いはいらないと言っていた。

だから誕生日に自分の両親から贈られたドレスと小さな化粧箱に目を見開いた。


「おめでとう。祝いの席は用意できないがこれは受け取ってくれないか?」

「お父様、これをお金に換えれば」


男爵夫人は娘の言葉を遮り優しく微笑んだ。


「貴方には必要なものよ。ドレスと化粧は女の戦道具よ。領のことは気にしないで」

「でも、これは」

「ドレスは高価なものではないわ。化粧箱は領民からよ。うちのお嬢様のためにって」


自分達は生活に苦しいのに自分のことを想ってくれた領民や両親に心が温かくなった。気づくとイナベラの目から涙が溢れた。


「お父様、お母様、ありがとうございます」

「このドレスは背が伸びても着れるように工夫してあるのよ。貴方が大事にすれば一生着れるわ」

「ありがとうございます。私、立派な令嬢になります」

「ご令嬢は泣き崩れないわ。ドレスを着て、お化粧してみんなの前でお披露目しましょうね。コサージュと髪飾りはお母様が作ってあげるわ」


イナベラにとってドレスは宝物だった。ドレスを着て、領民の前に披露すると賞賛の嵐を受けた。どんなに自分の赤毛が醜くてもドレスを着れば気にならなかった。どんな辛い時もドレスがイナベラを支えてくれていた。

イナベラにとって怖くて嫌な夜会でも逃げずに立ち向かってこれたのは優しさの詰まったドレスのおかげだった。

幼い頃の約束の令嬢らしくあることは今のイナベラにはできずにただ泣き崩れていた。

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