第2話後編 空回り令息と現実
エリオットは友人の言葉を頭の中で繰り返していた。
裏庭で食事をしているイナベラを見つけ、声をかけようか迷った。イナベラは読書をしながら、肩を震わせて笑っていた。イナベラのために取り寄せたのに、受け取ってもらえなかった本を思い出した。イナベラが教師やライアンから本を笑顔で受け取る姿を見て、ショックを受けていた。ライアンのマネをして本を差し出したら受け取って貰えるだろうか・・・。エリオットが思考を巡らせながら本を取り戻るとイナベラは楽しそうに本を読んでいた。
「イナベラ」
イナベラは聞き慣れた声に息を飲みゆっくりと顔をあげた。聞き間違えでなく目の前にいるエリオットを見て、小間使いとしてのお呼びかと警戒しながら、穏やかな表情を装った。イナベラの至福の時間が終わった悲しみに浸る心を封じて意識を切り替えた。
「これ、読み終わったから貸すよ」
真顔のエリオットから差し出される本にイナベラは戸惑った。
「へ?」
「返すのは、いつでもいいから」
「エリオット様?」
エリオットは自分を凝視して一向に手を伸ばさないイナベラの膝に本を置いて立ち去った。
なんて言葉をかければいいかわからなかった。自分が話しかけた瞬間にイナベラの顔が強張ったのを見てしまった。
イナベラは戸惑ったが、追いかけるのも怖かった。返す時に文句を言われるなら、読んでから返すことにした。それに借りた本を読まずに返して、機嫌を損ねるのも避けたかった。エリオットと関わる上で余計なことは考えないことにしていた。ただ借りた本を令嬢達に取られると困るので、誰もいない場所で読むことにした。
エリオットから借りた本は面白かった。イナベラは昼休みまで待てずに休憩時間に教室で読んでしまった。令嬢達はイナベラが本を借りられるのはエリオットだけと思っていた。最近は二人が一緒にいないため、エリオットの関心がイナベラから逸れたと喜んでいた。イナベラがいなければ、エリオットは令嬢達の談笑に快く付き合っていた。自分達とエリオットとの時間を邪魔されるのは不愉快だった。それに、あれだけエリオットに不敬を働いたのに未だに特別扱いされるイナベラがさらに許せなかった。
授業が終わると令嬢達は荷物を片付けているイナベラの席の前に立った。
「イナベラ様、そちらの本はどうされましたの?」
イナベラは欲求に負け教室で本を読んだことを後悔し、自分を睨む令嬢に穏やかな顔を作って見つめ返した。
「お借りしました」
「貴方のお家では、本も買えませんものね。またエリオット様に頼んだんですか?」
「いえ、読み終わったからと、貸してくださいました」
「白々しい。こんな本をエリオット様がお読みになるわけありませんわ」
イナベラが読んでる本は令嬢向けの小説だった。そんなことを言われても、イナベラは知らない。イナベラはエリオットに物をねだったことは一度もない。まずエリオットの好みも知らない。イナベラがエリオットについて知っているのは家名だけである。イナベラはため息を飲み込み誤解を解くために、一応伝えることにした。無駄でも大事なことは言わないと余計に令嬢が荒れることを知っていた。
「私はエリオット様に願ったのは関わらないでほしいことだけです。他に何かをねだったことはありません。」
「まぁ!?」
「いい加減にエリオット様を惑わすのはやめなさいよ。男爵令嬢が」
イナベラは振り上げられる手に目を瞑ったが、痛みはなかった。
目を開けるとエリオットが令嬢の手を掴んでいた。
イナベラはため息を我慢した。エリオットの言葉はわかっていた。
「手を痛めますよ。どうされました?」
令嬢は潤んだ瞳でエリオットを見つめた。
「いえ、なんでもありません」
イナベラは事が収まりそうなので、鞄に荷物を詰めるのを再開した。
「イナベラが何か?」
エリオットの言葉に悲しくなり荷物を詰める手が止まった。エリオットはどうしても自分を悪く言いたいのかと顔をあげて、ため息を我慢した。
「エリオット様の本を自慢するので、私、羨ましくて」
令嬢はエリオットをうっとり見つめていた。エリオットはイナベラに悲しい瞳を向けられていた。友人の言葉を思い出した。いつもの謝罪の言葉を飲み込んだ。
「どうしてですか?ご令嬢の家なら簡単に手に入るでしょう」
想像と違う展開にイナベラは困惑した。
またエリオットに自分が責められると思っていた。
令嬢もエリオットに困惑した。優しい言葉を自分にかけて謝罪してくれると思っていた。
「殿方に物を強請るなど、淑女としてあるまじきとおいさめしたのです」
「その本は僕が強引に貸したんですよ。彼女からは一度も物を強請られたことはありません。」
令嬢はエリオットがいつもと違うことに気付き嫌な予感がして、引くことにした。
「まぁ、私の勘違いでしたわ」
「勘違いですか。」
エリオットの冷たい視線に令嬢は頭を下げた。
自分より高位のエリオットの望み通りに動くことにした。屈辱的でも理不尽でも下位の者は高位の者には逆らえない。下位貴族の常識である。
「イナベラ様、申し訳ありませんでした」
イナベラは殊勝な声と顔を作るが瞳で敵意を示しながら謝罪する令嬢が怖かった。ただ返せる言葉は決まっていた。
「構いません。頭をあげてください」
「イナベラ、行こうか」
エリオットに手を差し出されてイナベラはさらに戸惑った。いつもは強引に手を引かれた。ただここで拒絶するのはおかしいので、恐怖を隠して手を重ね、引かれるままに教室を出た。
いつもと違うエリオットにイナベラは混乱しながら足を進めた。
「食事、どうする?」
「お弁当、教室に」
「取りに戻る?」
「食堂に行きます」
「一緒に食べてもいい?」
エリオットが自分に意見を聞いたことにさらに混乱していた。エリオットが怖くて拒否できなかった。心の動揺を隠しいつもの笑みを浮かべてイナベラが頷くと、笑って自分の手を引いて歩くエリオットにどうしていいかわからなかった。
教室に置いてきた荷物が心配でも、この状況でエリオットの手を振り払うほうが恐ろしかった。イナベラは混乱と恐怖にのまれていた。
イナベラを人混みに押し潰されないように席まで案内して、食事を運ぶ姿はいつもとかわらなかった。
渡されたお盆に礼を言い、食事を始めた。いつも煩いエリオットが無言なのがさらに怖かった。令嬢とのやり取りの苦言がないのも余計に恐怖を助長した。そっと自分の足を踏んだら痛いので夢ではないことはわかった。
イナベラは恐る恐るエリオットに視線をむけた。
「エリオット様、具合がわるいんですか?」
「そんなことない。」
「そうですか。失礼しました」
イナベラは頭を下げて無言で食事を再開した。もう早く食べ終えて逃げることにした。ただ久々に食べる食堂のケーキは美味しかった。せっかくなので、ケーキを堪能してから逃げることにした。
「あげるよ」
イナベラは自分のお盆に乗せられたケーキに首を傾げた。
「食べる気分じゃないんだ。まだ食べられるなら代りに食べてくれないか」
「あ、ありがとうございます」
イナベラは困惑しながらも、断るのも怖かったので受け取った。イナベラのケーキとは違う種類の物だった。エリオットは幸せそうにケーキを食べるイナベラを眺めながら、兄や友人の見解が正しいことを認めた。否定したくても全く否定できる要素がなかった。
イナベラは口に入れたケーキの味に、集中してエリオットのことを考えないように現実逃避していた。
食事を終えたイナベラは無情な現実に戻ってきた。すぐに逃げ出したかったが、小間使いとしての役目を思い出し踏みとどまった。
「エリオット様、ご用件はなんでしょうか?」
「え?」
「何かご用があったのではありませんか?」
エリオットは、イナベラの様子を見に来ただけとは言えなかった。
「近くを通ったら争う声が聞こえたから。」
「お騒がせして申し訳ありません」
「いや、別に、イナベラのせいではないから」
頭を下げるイナベラにエリオットはどうすればいいかわからずに、いつも通り自分達の食器を片付けに行った。
イナベラは頭を上げてお盆を持って片付けているエリオットの背中を戸惑いながら眺めていた。
イナベラは目の前にいるのが、エリオットとは思えなかった。いつもなら耳障りな苦言の嵐が吹き荒れていた。予想外すぎる言葉にポロリと本音を零した。
「双子のご兄弟でしょうか・・」
戻ってきたエリオットはイナベラの言葉を拾い、戸惑いながら答えた。
「兄はいるけど、双子ではない」
「失礼しました。」
イナベラはエリオットに聞かれたことに驚いて、頭を下げた。エリオットはイナベラの手を引いて教室に向かった。イナベラは無言のエリオットに戸惑いながら、ようやく教室に着いたので、礼をしてエリオットと別れた。イナベラは自分の席に座り、エリオットから解放されたので安堵の息をついた。ずっと我慢していたため息をようやく吐いた。どんなに様子がおかしくても、エリオットと関わりたくない気持ちに、変わりはない。エリオットが本物でも偽物でも自分に関係ないことに気づいたイナベラは心が軽くなり授業の準備を始めた。
***
エリオットの話を聞いた友人は笑いが堪えられず吹き出した。
「エリオット、お前、偽物って、どれだけ信用ないんだよ」
「は?」
「双子の兄弟って、普段の態度と違い過ぎて、困惑したんだろうな。可哀想に。でも良い傾向だよ。そのまま続けろよ。イナベラ嬢のお前を見る目がかわるかもよ」
「僕はやはり・・」
「ああ。彼女の中ではお前は味方ではない。」
「そうか・・・。会いにいく理由を考えてくれないか・・?今日も用件聞かれて、咄嗟にでまかせを」
友人はエリオットが、予想以上にイナベラに警戒されていることがわかった。イナベラは不審者とエリオットなら不審者について行きそうな気がした。会いに行くだけで疑われるのは、相当である。一応イナベラとエリオットは幼馴染である。
「お前、彼女のために取り寄せた本がたくさんあるだろう?一冊ずつ昼休みに渡しにいけよ。ついでに昼飯に誘えばいい」
「イナベラは弁当だ」
「前日に厨房に頼んで、朝に受け取ればいい。使用人に作らせてもいいけど」
「まさか、お前が頼りになるとは思わなかった」
「俺もお前がこんなに駄目とは知りたくなかった。貸す本は目を通せよ。自分のために取り寄せたと知ったら受け取らないと思うよ」
エリオットはイナベラのことはどうすればいいのか全くわからなくなったため友人の教えに従うことにした。
自分の認識と現実の違いに髪を掻き上げ途方に暮れた。




