第2話前編 空回り令息と現実
イナベラはエリオットに付きまとわれる日々が戻ってきた。ただ逆らうと家が潰されるので、逆らえなかった。
エリオットの話に相槌をうち、適当に流す日が続いていた。
相変わらず薬草園でぼんやりする時だけが憩いだった。
父に夜会に参加するように命じられた。
ドレスを着て髪を結って薄く化粧を施した。
いつも同じドレスをアレンジしながら着ていた。
イナベラはエリオットに会わないことを祈って、主催者に挨拶を終えたので壁の花になることにした。
「美しいご令嬢、よければ一曲」
イナベラは自分の前に差し出される手に驚き両隣を見た。周りに令嬢はいなかった。青年は微笑みイナベラの瞳を見つめた。
「お誘いしてるのは貴方ですよ。」
イナベラは微笑んで手を重ねた。
見たことのない青年だった。ダンスに誘われるのは久しぶりだった。
「幸運でした。こんなに美しい方と出会えるなんて」
イナベラは褒め言葉に、頬を染めた。ダンスが終わりバルコニーに誘われて談笑をかわしていた。照れて頷くことしかできないイナベラに青年は優しく語りかけた。
イナベラは突然腰を抱かれて引き寄せられた。イナベラは自分を抱く予想通りの相手に悲しくなった。
「失礼。彼女を返してもらっても?」
「彼女は君のものだったのか。失礼した。場所は譲ろう。ではまた、美しいご令嬢」
イナベラは自分の手に口づけを落とし去った青年を頰を染めてぼんやり見つめていた。
エリオットはイナベラの様子が不愉快だった。
「不用心すぎないか」
咎める声にイナベラは現実に引き戻された。
「ご縁を作るのも大切です」
「必要ないだろ。僕がいる」
エリオットはイナベラのやろうとする事をいつも無駄だと言った。イナベラは自分を褒めてくれた青年を思い出した。イナベラの嫌いな髪を家族と領民以外がはじめて褒めてくれた。エリオットが怖くても、青年の言葉に力が湧いた。いつもなら言葉の届かないエリオットに諦めて頷いていた。イナベラは自分の手をぎゅっと握ってエリオットを見上げた。
「必要です。はじめて、家族と領民以外に褒められました」
「え?」
「私などでも、ダンスに誘ってくださる方がいるなんて」
エリオットは常にイナベラをダンスに誘っていたし、見つければエスコートした。褒め言葉はたくさん伝えた。イナベラは自分にうっとりしたことは一度もなかった。
イナベラにとって強引に手を引き、苦言を聞きながら踊るエリオットのダンスはカウントされていなかった。
イナベラは久しぶりにダンスに誘われて嬉しかった。青年の言葉に勇気をもらい踊るのも楽しかった。
「もしかして、頑張ったら、お父様のお役にたつ縁談も見つかるのかなって」
「僕と婚約すればいい。男爵家への支援も約束する」
エリオットのことが信用できなかった。エリオットが男爵や男爵領のことをよく思ってないことを知っていた。支援してもらえるなんて想像できなかった。
嫌いな自分と婚約?期待させて、裏切られて悲しむ顔でも見たいのかと思い命令でないなら従う必要はないと判断した。
「お気遣い不要です。私、勇気がわきましたので失礼します。」
イナベラはエリオットの腕から強引に抜け出して、喧騒に紛れていった。エリオットは怖くても、青年は優しかった。嫌いな夜会も頑張れる気がした。自分のドレスを見て、男爵令嬢として務めを果たそうと決意した。
「エリオット、嫌われてないか?」
「は?」
エリオットは立ち去ったイナベラの背中を見ていた。イナベラが自分の腕の中から抜け出すのは初めてだった。後から聞こえる兄のオリオンの声に振り向いた。イナベラが他の男にうっとりして、離れていき機嫌が悪かった。
「彼女、どう見ても怖がってないか?」
「ありえない。僕は彼女に怖がられるようなことはしてない。」
「本当か?彼女自身がお前に近づくことあるか?」
オリオンはエリオットに腰を抱かれたイナベラが怯えた視線を向けていたのも、手を強く握っていたのも見ていた。弟に好意がある様子は全くなかった。
エリオットはオリオンの言葉を思い返すと記憶になかった。
兄は呆然としている弟に愉快に笑った。
「お前さ、あんなに令嬢を侍らかせておいて、本命に逃げられてるって」
「逃げられてない。最近は側にいてくれる」
「最近は?」
「関わらないでって言われたけど、取り消してくれた」
兄は弟の鈍さに呆れた。
取り消そうとも明らかな拒絶の姿勢である。痴話喧嘩には思えなかった。
「取り消す前に何か言われたか?」
「自分の命は軽すぎるって。なぜか遺書を渡されたけど、受け取らなかった」
イナベラは家のために動いているだけである。兄はイナベラの気持ちがよくわかった。遺書を書くまで追い詰められた少女を哀れに思った。
「男爵令嬢が伯爵家に逆らえない。彼女はお前に好意はないよ。」
「え?」
信じられないという弟の顔に心底呆れた。
女心に敏いと自負するオリオンから見て、イナベラには全く好意を感じる仕草はなかった。
手のかかる弟に兄心で現実を教えることにした。
「一週間、自分から会いに行くのやめてみろよ。隠れて彼女の様子を見てみろよ」
兄の言葉を否定したくて、エリオットは兄の言葉に従うことした。
***
イナベラは夜会が終わってからエリオットが側にいないことに安心していた。小間使いの呼び出しを覚悟していたが、全く声をかけられないことに緊張が抜けていた。心の余裕ができたので、また刺繍をすることにした。
弟が飾ってくれるほど、喜んでくれたのは何度思い出して感動だった。
弟を思いニコニコしながら糸を染めているイナベラに博士とライアンは安堵していた。
イナベラは教室での刺繍はやめた。教室では読書をすることにした。食事を終えたイナベラは本を読んでいた。ライアンから借りた本は楽しかった。イナベラにとって、ライアンは初めての友達である。時々会い、談笑しながらお菓子を食べるのは有意義な時間だった。博士と過ごす時間も楽しいがライアンとの話も楽しかった。平穏な生活を楽しんでいた。
イナベラは令嬢達の意地悪は気にしなかった。
エリオットさえ側にいなければ、イナベラに向けられる悪意も少なかった。
エリオットはイナベラの様子に呆然としていた。
イナベラが入学してから見たことないほど楽しそうに過ごしていた。令嬢達に絡まれても、かわしていた。イナベラが薬草園に通っているなど知らなかった。薬草園は令嬢は近づかないので、探すことはなかった。どんなに探しても見つからない理由に納得した。一番衝撃だったのは博士やライアンと話すイナベラは子供の頃のような無邪気な笑みを見せていた。自分より高位のライアンを排除することはできなかった。
いつもエリオットの隣にいた様子とは別人だった。
ライアンは自分達を見ているエリオットのことに気づいても、気にしなかった。隣で楽しそうに刺繍をしているイナベラは全く気づいていなかった。
***
「僕は怖いのか?」
友人は問いかけられたエリオットの声に頷きたかったが、毒舌の餌食になるのは避けたかった。
「なんで?」
「僕はイナベラに怖がられているかもしれない…。」
友人は気づいていた。食堂で見かけたイナベラは上機嫌のエリオットの隣で静かに相槌をうっているだけだった。時々、読書をしながら柔らかく笑う令嬢がエリオットの前では貼り付けた笑みしか見せなかった。本を取ってあげただけで満面の笑みを浮かべた少女とは大違いだった。
イナベラはいじめられていた。原因はエリオットである。そして、控えめで美人なイナベラは男子生徒に人気があった。ただエリオットが制裁をくだすので孤立していた。イナベラに近づく友人もエリオットが排除していた。
「自分のせいで彼女が一人なのわかってんの?」
「イナベラには僕だけがいればいい。」
エリオットは非常識で独占欲の塊だった。
「お前のせいで、令嬢にいじめられてんのは?」
「僕が守る」
「お前が守るたびに、過激になってるだろうが。僕のイナベラって言って牽制してるけど、婚約者でも恋人でもないのによく言えるよな」
「いずれ婚約するから変わりない」
自信満々で言う様子に現実を教えることにした。
「それさ、好きでもない男から言われたら不快だから。」
「は?」
「毒舌で論破しないなら、怯える理由を教えてやるよ」
「怯えられているのか…。頼む」
エリオットは兄と同じく自分に怯えているという友人の言葉に胸を抉られた。
珍しく弱っているエリオットに友人は頭をかいた。
「お前の人の話を聞かないところや強引なところは怖いよ。お前さ彼女の言葉をちゃんと聞いてる?」
エリオットはイナベラのことを思い出した。記憶の中のイナベラは静かに頷いていた。幼い頃はよく話していた。
「いつからか、全然話さなくなった。」
友人はため息をこぼした。二人の様子を見ていれば簡単だった。
「話しても無駄だと思ってるよ。お前、彼女が不敬を働き糸を盗んだって噂がたったときどうした?」
「相手の令嬢に謝罪して、話を大きくしないように頼んだ」
「本当に彼女が盗んだのか?」
エリオットが駆けつけた時には、イナベラが令嬢に責められていた。令嬢の手には糸があり机の上には真っ黒な布が置かれていた。イナベラは毎日楽しそうに刺繍をしていた。あの時は責められるイナベラを庇えれば事実なんてどうでも良かった。
「穏便にすますことが貴族として正しいかもしれない。でもさ、彼女にとっては、どうだろうな。お前が事実を確認していれば、あんな噂はたたなかったよ。たとえ噂を信じている生徒は少なくても彼女の名誉は傷つけられた。それに彼女はお前にも責められてると感じただろうな」
「僕は穏便に済ませようと。謝って事を収めればひどい言葉を聞かなくてすむから。僕が彼女を傷つけていたのか…」
「さぁな。でも自分のかわりに謝罪され事を収められるなんて、俺なら迷惑だ。俺なら自分を信じてくれるやつといたい。」
エリオットがイナベラを庇うたびに静かになっていくイナベラを思い出した。安心してるのだと思っていた。悲しい目をむけられたら、早く慰めてあげたいと。いつからか悲しい目をしなくなった。最後は微笑んで礼をするから頼られているのだと思っていた。
「僕はどうすれば」
「自分の気持ちは抑えて、彼女の言葉を聞いてみろよ。ただ彼女は男爵家。お前とは身分が違う。お前の言葉によっては命令になるのを忘れるなよ」
エリオットはイナベラに命令したことなどない。友人の言葉に茫然として頭を抱えていた。